■コンキスタドール


●ナポレオン時代

 ヨーロッパ世界、特に西ヨーロッパの列強が、産業革命の威力と革新的な政治、経済の仕組みを作ることによって地球全土の分割と植民地化を行う少し前、ヨーロッパ世界は大激震に見舞われていた。と言っても地震ではない。俗に言う「フランス革命」と「ナポレオン戦争」だ。
 この大激震は、「市民革命」と「産業革命」という二種類の革新的な変化をもたらす胎動でもあったが、それだけに大きな混乱でもあった。

 フランス革命が始まったのが1789年で、ナポレオンが完全に敗れ去ってウィーン会議が開かれたのが1815年なので約四半世紀の時間になる。この間イギリスがインドなどの支配を断続的に進めた以外、ヨーロッパ諸国はヨーロッパ世界で激しい戦闘を繰り広げた。
 大東にとって、ヨーロッパ世界の出来事は当初文字通り「遠い世界の出来事」だった。事態がアジアに及んでこない限り、自分たちにはほとんど何の害もないし、逆に何も出来ないからだ。
 当時、大東からはヨーロッパに時折交易船や連絡船が出かけるだけで、せめてインド洋に出てきてくれなければ、ヨーロッパ勢力は存在しないにも等しかった。ごくまれに親書などを持った軍艦が訪問に行く事もあったが、情報収集を兼ねて訪問して挨拶するという以上では無かった。商人レベルの交易で、必要な産物、情報、技術の多くは手に入ったからだ。
 しかしナポレオンによるヨーロッパ征服戦争が進むと、大東にとって他人事ではなくなっていく。時期にして、西暦1806年の事だった。
 トラファルガー沖海戦で破れたためイギリスを潰しきれなかったフランスのナポレオンが、服属させていたスペインを通じて大東への接近を試み、ほぼ同時期イギリスも大東へ外交の職種を伸ばした。
 フランスは、自らの大陸封鎖令に従わない国と貿易を行わないようにという要請が主で、できるならフランス側についてイギリスを攻撃して欲しいと持ちかけていた。ただし大東への見返りは、戦争中に大東が受けられるような恩恵ではなかった。
 イギリスにとって、フランスに併合されたオランダは敵国であり、半ば属国化されたスペインも国家としては敵だった。そして両国は、アジアにそれなりの植民地や拠点、勢力を有しており、イギリスは基本的にはヨーロッパだけで手一杯だった。そこで大東に自らの側への参戦を促し、その見返りに戦後に占領した地域の割譲や領有を持ちかけた。戦争中に大東が恩恵を受けない点で、フランス側と同じだった。また当然だが、自分たちとの貿易継続も求めた。
 ここで大東国は、ヨーロッパの詳細な事情が掴めない事もあり、自分たちの周りの情勢を見つつ従来の外交方針に従うことにした。
 スペインとは15世紀半ば以来の平和的で親密なつき合いがあり、東インドのオランダ(※ここだけがフランスに抵抗していた)は17世紀からの敵もしくは競争相手だった。イギリスとの関係は別に良くも悪くもないが、ヨーロッパでの戦争自体はフランスがほぼ勝利しているというのが、この時点での半ば確定的な情報だった。しかもここで大東がフランス側に加われば、海軍力と海運力、制海権能力でブリテンが不利になる事を意味していた。
 大東にとって、選択肢は最初から一つしか無かったと言えるだろう。

 大東国は、スペインを通じてフランス側への荷担を実施し、さっそくイギリスとの貿易を停止した。大東政府は、自国に属する交易船に対して、フランス及びフランスに従う国との貿易のみを行うように通達した。
 そして、形だけはスペインと合同という体裁を整えて、対仏大大同盟が無くなるとオランダ領として残っている東インド地域への侵攻を開始する。まともな抵抗力のないオランダ領東インドは、ひとたまりもなく大東の軍門に降った。
 イギリスは、大東の動きに焦りを見せる。大東の軍事力は、大砲こそある程度旧式だがガレオン船(直船)ではほぼ同レベルなので、本格的な戦争状態に入るとインド洋が危機に瀕する可能性があったからだ。相手が既にインド洋から追い出したフランスならまだしも、アジアの果ての大東は海洋国家として珍しいほどの大国であり、十分な数の先進的な帆船と軍艦を保有していた。海軍を中心とした軍隊の制度、訓練度についてもヨーロッパの水準にあり、敵に回すと大きな脅威だった。
 大東洋各地の植民地も多く、インド洋を攻撃する能力を十分に持っていた。南大西洋が攻撃される可能性も十分にあった。しかも大東国は、スペインの海上交通網を中継することで、今までほとんど行われなかったフランスとの貿易も急速に拡大した。しかも、トラファルガー海戦以後のフランス、スペインと違って、活動も活発だった。イギリスの事も、ほとんど恐れていなかった。ヨーロッパに向かう大東船と、実質的に海上封鎖を実施するイギリス艦船との間で戦闘が起きる事件も起きた。
 イギリスは大東国の行動を止めようとまずは交渉を実施したが、基本的に大東とイギリスの関係は希薄だった。主な交流手段の貿易ですら、関係は薄かった。大東が主に黄金を代金としてイギリスの工業製品を若干購入する程度でしかなかったからだ。一応インドでは貿易のライバルだったが、取引相手と取り扱い品目の違いが大きいため衝突するというほどでもなかった。大東はインドの物産を、主にマラータ同盟に属するインド商人、イスラム商人から買っていた。
 そして大東側が、ヨーロッパの戦争はフランスが勝利すると予測している事もあって、イギリスの説得や交渉、さらには恫喝もほとんど無駄だった。
 大東軍は、ジャワなどのオランダ勢力を簡単に降伏に追いやって、東南アジアに若干入り込んでいたイギリス軍艦艇も、インド洋に後退しなければならなかった。しかしこの時点では、大東はフランスに与しただけでイギリスと戦争状態に入ったワケではなかった。インドの貿易港では、双方の船が並んで停泊したりもした。双方共に私掠活動(海賊行為)も行っていなかった。大東の立ち位置は、フランス寄りの中立という事だった。
 

ロシア遠征と諸国民戦争

 俗に言う「ナポレオン戦争」の後半は「諸国民戦争」と呼ばれる。ヨーロッパ中の国々が、ナポレオン率いるフランス帝国に反攻した戦いだからだ。

 1812年頃から、ヨーロッパでの戦争が再び活発になると、連動して大東国も動き始めた。
 フランスが大陸封鎖令を破ったロシアへの遠征を決めた事で、フランスから大東に東からロシアを攻撃して欲しいという要請が出された事が発端だった。大東国に要請が届いたのが1812年に入ってからだったが、過去の因縁からロシアに対してあまりよい感情を抱いていない大東国は、フランスへの返事を返すよりも先に、サハ(東シベリア)地域での作戦準備を進める。
 大東としては、春から夏の間に船でサハ(東シベリア)に兵力と物資を運び込み、秋までに地面がぬかるまない地域を進撃。ぬかるんだシベリアの大地が固まる時、つまり冬になったら一気にウラル山脈より西側のロシア本土まで攻め上がろうという壮大な構想だった。
 大東がこれだけ大胆で壮大な構想を立てることが出来たのは、サハ(東シベリア)を領土化して200年近い年月が経過しているので、世界最高の極寒の地での活動が可能となっていた事、シベリアのロシア人人口が極めて希薄な事を知っている事の二つの要素が大きかった。
 そして素早く寒さに強い馬(主に蒙古馬)とトナカイによる軍隊を編成した大東は、ロシア側がまったく予測していなかった事もあって、シベリアでの快進撃を実施した。当時西ヨーロッパでは新たなスタイルの先進的な兵団が動いていたが、世界の果てでそのようなものは不要だったし、むしろ邪魔だった。近代的な兵器については、各地に散在するロシア人に対向できるだけの火力があれば良かった。
 大東国が用意したのは、騎兵部隊だったからだ。
 大東国の兵団は、1万騎以上の騎兵とそれを支える十分な物資、支援部隊(※各種馬約1万5000頭、各種馬車2500台、トナカイ橇1500台など、人員約2万)と、機動砲、各種鉄砲など相応の火力を持っていた。火砲の中には、持ち運びやすさを買われてロケット砲も含まれていた。このため、基本的に屯田兵でしかないシベリアのロシア・コサックでは、ほとんどの場合太刀打ち出来なかった。特に初期の場合、ロシア側は開拓村ごとに分散していたので、各地で大隊(戦闘用の騎兵200騎+支援部隊)以上で迅速に動き回る大東軍が圧倒した。
 大東の騎兵団は、たった一年で3000キロメートルも進撃した。

 しかし、大東の勢力圏からロシア本土はあまりにも遠かった。
 確かに1813年内には、大東の「露西亜討伐軍」は最も遠方に進出した威力偵察部隊(=西方調査兵団)がウラル山脈の西側にまで到達した。つまりシベリアを横断して、ロシア本土の入り口、つまりヨーロッパに到達したことになる。陸路ヨーロッパに攻め込んだ東アジアの兵力としては、実にモンゴル帝国以来の事だった。
 この間ロシア軍の本格的な反撃はほとんど無かったが、無かったのは当たり前だった。ロシアは西から押しよせる60万ものフランス連合軍の撃退で手一杯で、一時的であれ辺境のシベリア防衛を切り捨てていたからだ。
 それでも現地のコサック約2000名の兵力がロシア本国に増援に向かうことを阻止したし、流石にロシアとしてもボルガ川近辺まで攻め込まれたら本格的な防衛を考えないといけないため、約1万2000名の兵力を引きつける事に成功していた。
 とはいえ、ロシアの戦場ではフランス連合の遠征軍などは当初60万もあった。その後は気象の悪化、進撃の停滞などで激減するが、それでもロシア軍との決戦(ボロディノの戦いなど)では双方10万以上の兵力をぶつけ合っていた。それを思えば、大東が「引きつけた」ロシア軍の数はたかが知れていた。加えて言えば、大東軍の先鋒がウラル山脈まで達した頃、フランス軍は既に「冬将軍」に敗れ去っていた。極寒の地でのノウハウを豊富に持つ大東人から見たら俄に信じられない事態だったが、フランスの敗北は確かだった。
 このため大東がこれ以上ロシアに攻め込む意味もなくなり、その年のうちに策源地にしたエニセイ川主流域からバイカル湖近辺の山岳地帯まで引き下がった。引き揚げるときには、ロシアとの間にも取りあえず停戦条約が結ばれた。

 1813年10月の「ライプツィヒの戦い(諸国民戦争)」でナポレオンが敗れて翌年の1814年5月にはパリが陥落。そしてナポレオンがエルバ島に配流。同年9月に「ウィーン会議」が始まると、大東の外交状況は極端に悪化してしまう。ヨーロッパの情勢に疎いままフランス側についた事が、完全に徒になった形だった。
 

ウィーン会議

 大東国が「ウィーン会議」に呼ばれることはなかった。大東は今までの海外での活動から、ヨーロッパの流儀はそれなりに理解し、つき合いのために体得もしていた。だが、フランス語が流ちょうに話せない外交官や政府代表など、呼ぶに値しないと言うわけだった。ましてや大東は、ヨーロッパから見れば世界の果てにある蛮族の国だった。
 しかし曲がりなりにも戦争をした以上は何もしないわけにもいかないので、交戦国となったロシア、オランダそれぞれが、大東と停戦及び講和の為の交渉を持つことになる。イギリスとの間にも話し合いが持たれたが、イギリスに対しては大東が特に宣戦布告など行わなかったし、戦闘も小規模な海賊行為以外は特に無かったため、海賊行為に対する賠償金支払いが若干行われるだけとなった。
 イギリスとしては、この機に大東の植民地の一つも奪えればと考えたが、あまりに酷い火事場泥棒はヨーロッパ外交上(均衡外交上)で好ましくないし、大東の勢力圏の殆どがイギリスから遠すぎるため、結局断念した。大東の国力と軍事力の大きさも、イギリスを諦めさせた大きな原因だった。ただし、ヨーロッパにとっての大東が非常に厄介な相手だという事は、一連の戦乱で非常に強く印象付けられる事となった。

 ロシアは当初、占領地からの無条件全面撤退と戦争被害として5000万ルーブル(=円)の賠償金を求めた。5000万ルーブルは、かなり法外な値段だった。その事はロシアも持ちかける前から理解していたので、代わりに東シベリア(サハ)の西半分の割譲で手を打つとも伝えた。つまりは領土、わけても大東洋の出口を寄越せと言うことだった。
 これに対して大東は、ロシアに対しては再戦も辞さずの態度を取って、ロシア方面に新たな軍隊すら派遣した。交渉に際しても、自分たちはロシア人に負けたわけではないし、ウラル山脈より東側全てをこのまま保有し続けることも可能だと強い論陣も張った。そしてロシア以外の国だが、ヨーロッパ世界、特に東部、中部ヨーロッパはロシア人に対する警戒感が強く、近年の急速な人口拡大、国力増大にも強い警戒を持っていた。このためロシアが大きすぎる賠償を得ることを警戒して、ロシアの肩を持つ国は無かった。
 交渉は基本的に大東とロシアの二国で行われ、大東が占領地から引き揚げて旧来の境界線まで下がること、与えた損害に対する賠償金として即金の金貨で500万ルーブルを支払うことで決着した。500万ルーブルという金額は、当時の大東にとってそれほど大きな金額では無かった。

 大東とオランダの交渉は、ロシアより少し複雑だった。オランダが、フランスに本国が占領、併合されて以後は、大東に占領された地域以外ではイギリスに敵対的だったからだ。
 このため話しは、一時は大東の占領地をイギリスに割譲する方向で進んだ。イギリスとしても、オランダから得るのではなく大東から得る形にすることに一定の価値を見いだしていた。しかしイギリスは、オランダからケープ(南アフリカ)、セイロン島を得ることで満足し、東インド(スンダ地域)は大東からオランダに返還する方向で話しが進んだ。
 そしてここで、17世紀以後今まで入り組んでいたスンダ地域の勢力圏の整理が行われ、スンダ地域の東部と北部(スラウェジ島、モルッカ諸島、小スンダ列島が領土として認められ、ボルネオ島、パプア島の優先権も認められた。)は大東が、西部のスマトラ島、ジャワ島をオランダが有することで決着する。
 オランダはモルッカ(香料諸島)の権利はかなり渋ったが、基本的にナポレオンに本国が占領されてイギリスに敵対した事、東南アジアに十分な力を投射出来なくなった事、香料が商業的にほとんど旨みがない事の3点から、大東へと権利が引き渡された。それにオランダとしては、農業に適した大人口地帯のジャワ島さえ保持できれば最低限は許容できた。
 なおオランダ領東インドと大東領スンダの境界は、バリ島の東側の海峡とされた。またオランダが交渉を飲んだのは、本国近辺で今までスペイン(ハプスブルグ家)の領土だった南ネーデルランド(後のベルギーなど)を併合したからだった。

 大東の賠償などが少なかったのは、戦争に与えた影響が小さいのも理由の一つだが、ヨーロッパから距離が遠すぎる事、大東の国力と技術力、軍事力が他のアジア諸国と比べて高い事、そして何よりこれ以後始まるヨーロッパでの革新的な変化による勢力拡大が、まだ始まったばかりだった事が理由としてあげられるだろう。また旧秩序の回復をヨーロッパ世界が願った事も、世界の辺境にあるアジアの国に対する風当たりを弱めたと見て間違いないだろう。
 また過酷な要求を突きつけた場合に、大東が戦争を再開して来ることを恐れた。何しろ当時のヨーロッパ各国には、もう一度戦争をする財政的余裕が無かった。

ウィーン体制下

 1815年から45年までが、おおよそ「ウィーン体制」と呼ばれる時代で、ヨーロッパ各国が自由主義革命を警戒した保守体制の事を言う。そして海外に多くの植民地を持ち、ロシアなどと国境すら接する大東は、ナポレオン戦争(諸国民戦争)にも関わった事もあって間接的にウィーン体制に含まれる国となった。状況としてはトルコに少し近い。

 ウィーン会議後の大東は、外交的に対外戦争に敗北して賠償まで取られた事でかなりの混乱に見舞われた。
 国内では貴族政治家の何人かが下野せざるを得なくなり、それまでの有力政治家の欠如は、近世的統治が進んでいた大東において政治的な混乱をもたらした。この結果、ナポレオン戦争中にヨーロッパで進んだ軍事面での革新的な進歩についても、概念(軍制、訓練方法など)からの導入が開始されるようになる。高い報酬でヨーロッパから多数の軍人が招かれたりもした。
 一方では、ナポレオン戦争が終わって余剰したヨーロッパの武器を買いあさり、とにかくヨーロッパ列強との軍事格差を埋める努力が行われた。
 幸い、既に200年間世界で運用されていたガレオン戦列艦(大型直船)そのものの遅れがほとんど無かったため、最も重要な海軍力でヨーロッパの列強に対して劣勢で無かったことが、大東での軍備建て直しと変化の時間を稼ぎ出すことになる。加えて、ヨーロッパが軍事面でも保守回帰を望んだ事が、ヨーロッパとの格差是正に大きな役割を果たした。また古来から続いていた大東の軍制が、ヨーロッパ世界で進んだ変化(=近代化)に対応しやすかった事も大東の優位に働いた。
 また大東では、ナポレオン戦争の研究が広い範囲にわたって盛んに行われ、イギリスが勝利した原動力の一つが蒸気の力を用いた産業の革新、つまり「産業革命」にある事を知る。
 無論、武器と産業革命のために必要な知識と技術の購入には、莫大な財貨が必要だった。しかしこの時は、イギリスの国家姿勢が有利に働いた。と言っても、イギリスが大東を重視したり優遇したわけではない。イギリスが求めたものを、限定的ながら大東が持っていたからだった。
 
 ナポレオン戦争後にイギリスが求めたのは世界の覇権であり、そのためには産業だけでなく金融も牛耳る必要性があった。巨大な資本なしに、世界の覇権と産業革命の拡大はあり得ないからだ。
 そして大量印刷技術の向上により、18世紀後半ぐらいから国家が発行する「紙幣」という今日では当たり前の「お金」が登場する。アメリカ独立戦争、ナポレオン戦争も、信用貨幣である紙幣(ドルやアシニア紙幣)が存在しなければ様相は大きく変化しただろう。紙幣が戦費を作り出したからだ。ポンドはともかく、ヨーロッパ各国の通貨単位もこの頃から従来の銀貨(ターレル銀貨の系列)から離れた。
 だが紙幣とは「信用貨幣」であり、お金の価値を決めるための担保が必要だった。通常は国家の信用そのものが担保となるが、当時のヨーロッパ世界ではまだ国家の信用が足りていなかった。そこで注目されたのが、歴史上不変の価値を持つ希少金属である「黄金」だった。
 当時大東は、世界的に見ても国内で金貨が多く流通している国家だった。これは16世紀に大量の金を手にしたことと、その後は海外植民地で常に大量の金を供給できたからだ。17世紀以後の有名な金鉱は北氷海奥地の麻臥旦金山で、前近代の技術でも年間で2〜3トン程度の採掘が行われていた。18世紀には荒須加でも金が採掘されるようになった。17世紀以後の大東経済の順調な発展も、この黄金による安定した貨幣供給が大きな役割を果たしていた。そして大きな輸出超過にもならないため、危険な外貨流出も起きていなかった。
 そして大東が貿易の決済で支払う純度の高い金貨は、イギリスにとって垂涎の品だった。大東は麻臥旦金山、荒須加各地の金山の所在地については情報を可能な限り秘匿していたが、イギリスは一時期本気で大東に戦争を吹っかけて大量の黄金を奪うことを考えていたほどだった。
 しかしアジアで唯一「まともな海軍」を持つ国に本気で戦争を吹っかけても、あまりにも遠い距離の問題もあって攻めきる事は極めて難しいと判断され、大東と戦端を開くよりは貿易を拡大する方向に動いた。
 つまり豊富な金貨が、ウィーン体制下での大東の地位を安定させたとも言えるだろう。
 これを象徴する風刺画として、黄金の宝を守る大東を模した巨大な龍と、その前で互いに相談したり龍と交渉する白人の騎士と海賊、商人の絵が残されている。大東海軍には、「黄金の番人」というあだ名も残されている。

●遠洋捕鯨

 大東の海外進出(海洋進出)と捕鯨は密接に連動していた。
 大東で沿岸捕鯨から外洋での捕鯨に転向したのは、15世紀に入ってからだった。15世紀前半には明国からの優れた技術移転もあって、大東の造船技術、航海技術が向上した為だった。そして16世紀末になるとヨーロッパ式の直船(ガレオン船)やそれに類する船の技術が使われるようになると、捕鯨船は丈夫になり大型化した。何より外洋航行能力が大幅に向上し、大東洋全域が狩猟場となった。外洋進出には、羅針盤の存在も重要だった。
 大東人が捕鯨範囲を大きく広げたのは、16世紀までに自らの本国近海で鯨が自らの捕鯨によって激減したためだった。しかも15世紀半ばになると、既にアレウト列島に進出を始めていた。同地域は世界的に見ても自然環境が厳しいため、捕鯨を行うためには丈夫で大型で航海性能の高い船が必要だった。
 直船の捕鯨船が広まると、大東の捕鯨は質的にも大きく変化する。沿岸での捕鯨を行っている時は、新鮮度が保たれる地域の場合は、肉も食べたし骨なども利用された。しかし遠方での捕鯨になると鯨油を得る以外の事が難しいため、完全な商業捕鯨に変化したのだ。

 17世紀から19世紀にかけての大東は、人口拡大が続いたし経済的にも発展したため鯨油の需要はいくらでもあった。しかも大西洋で鯨資源が不足するようになったため、輸出品としても重宝するようになった。大東からヨーロッパに向かう船の船底の船倉は、常に鯨油で満たされていた。
 そして大東の捕鯨船が大東洋を覆い尽くす頃、イギリス船、アメリカ船などが大東洋に入るようになってくるが、既に欧米の船が入り込む余地はほとんど無かった。大東人の大規模な捕鯨があったため、少なくともアメリカの大東洋進出は一世紀遅れたと言われるほどだ。イギリスは他の目的もあったので大東洋進出は行ったが、こちらもキャプテン・クックの言葉通り大東洋での商業捕鯨は諦めなければならなかった。
 一方では、大東人が大東洋を探索し広がる機会ともなり、環大東洋地域での大東の進出と各国との衝突に、捕鯨が深く関わっていた。
 ただし南大東洋での捕鯨は、大東の進出も遅かったためヨーロッパ諸国と競合する事になる。

 

北米大陸と大東

 大東の北アメリカ大陸への進出は、世界的に見ても早かった。
 17世紀前半、東海岸にメイフラワー号が到達した頃には、荒須加の火依半島に到達していた。その後東そして南へと海岸線に沿って進み、17世紀末には農業が可能な地域にまで至った。しかし当時毛皮(主にラッコ)を求めての行動だったため、そこで一度大東人の北米行きは停滞する。
 その後、大東人が新大陸からいなくなったわけではなく、比較的近在の先島諸島を拠点として、荒須加での捕鯨と細々とした毛皮猟が続いた。
 毛皮の方は、海にいるラッコから山岳部にいる北の地方に生息する毛深い動物へと変化した。このため、大東人は徐々に大陸の内陸部へも歩みを進めていった。北極海に注ぐ針馬川(=マッケンジー川)流域には反対側から来た白人よりも早く、狩猟を目的とした小さな拠点も作られた。毛皮を求める狩人や原住民を相手に物々交換の商売を行う冒険商人の中には、大雪山脈(=ロッキー山脈)を越えて大平原(=グレートプレーンズ)、大草原(=プレーリー)に至った者もいた。
 そして毛皮商人の中には、大東へと戻らずにさらに先へと進んで、スペイン領・メキシコの一大拠点アカプルコを目指す者がいた。毛皮を前処理して船便でヨーロッパまで輸出する際に、捕獲地=大彩島=アカプルコ=(陸路)=ベラクルス(メキシコ湾側)という経路をたどってヨーロッパに売るためだ。これを「アカプルコ第3航路」と呼び、大東に戻るよりも効率の良い貿易を実施した。この航路は17世紀半ばに開設され、以後半世紀かなり頻繁に使われることになる。
 結果、大東人は北アメリカ大陸の西海岸についても、かなり詳しく知ることとなった。そして分かった事は、コロラド山脈が海岸近くまでそそり立つため、沿岸部には広い平野が存在せず、基本的に乾燥していると言うことだった。南に進むほど、農業には不向きだった。
 この過程で、アカプルコ第3航路の緊急時の避難先として、ヴァーモリ地方中部の小さな入り江に結先寄港地が建設される。時に1658年とされ、これを大東人の本格的な新大陸進出の第一歩とする事もある。ただし寄港地といっても、最初は粗末な石積みの小屋と狼煙台がぽつんとあるだけだった。

 アカプルコ第3航路は、ラッコの乱獲で一時期廃れる。だが、大東で広範囲な鯨油産業が盛んになると、この油の一部をスペイン人が欲しがったため、18世紀中頃から再びアカプルコ第3航路での往来が盛んとなる。大西洋で鯨が乱獲により激減したため、ヨーロッパで鯨油の不足が起き始めていたからだった。
 そしてキャプテン・クックが北米大陸西岸に到来する頃、その南部のヴァーモリ地方沖合では、大東捕鯨船による捕鯨産業が盛んとなる。同地域が鯨の夏の繁殖海域で、ヨーロッパ向けの鯨油需要がいくらでもあったからだ。このため、結先などの寄港地は発展して、少しずつだが農業移民も移り住んでくるようになる。
 最初の頃の寄港地や拠点は、機能も限られていた。周辺に作られた芋畑は本格的な入植の為ではなく、立ち寄る船員へ芋焼酎を振る舞うための芋畑程度だった。住んでいるのも、船員相手に商売をするもと船員が多く、娼婦となると現地で雇った先住民がほぼ全てだった。
 そして捕鯨船、鯨油運搬船の航行によって結先寄港地が再建されると、今度は周囲を丸太の囲いを付けるなど本格的な拠点が作られた。スペイン人は、大東に最初に至った宣教師の名にあやかり、現地をサン・フランシスコと呼んだ。あわよくば、奪い取るためだ。
 今度の拠点は、スペイン人の思惑が外れて完全に恒久化された。
 捕鯨船は鯨油を採取するために鯨の脂を鉄鍋で煮なければならないため、薪の補給が常に必要だったからだ。しかもヴァーモリ南部にも、スペイン人のテリトリー(コロラド平野のサンディエゴ入植地)に近い場所に大杉寄港地が建設された。ただしここはスペインが先に領有権を主張していたため、大東人の寄港と一時居住を認めるもスペイン領とされた。名前もロサンジェルスと改めて命名された。
 その後の話し合いによって、北緯37度が両者の境界線とされ、その先はコロラド山脈の最も東の分水嶺(ルイジアナ植民地)まで伸びると考えられた。
 その後、北部と中部の拠点の恒久化と拡大、領域の一応の確定によって大東人の数は少しずつ増え、18世紀後半には細々とした農業移民までが発生するようになる。それでも19世初期の大東人の現地人口は、先住民との混血を含めても10万人程度だった。米英戦争時(1812年)の東部には統計上で約840万人の白人が住んでいた事を考えると大きな違いだった。
 とはいえ、当時の北米大陸の北西部はヨーロッパ世界から見れば世界で最も最果ての地で、そこに文明社会の一部であっても作り上げた実績は大きかった。
 クックが最初立ち寄った場所にも、霧森という名の捕鯨船用の小さな寄港地とそれに隣接するそれなりの規模の大東風の田園地帯が既に広がっていた。

 クックが来た後、大東国本国の役人達は、新大陸北西部に対してかなり熱心に地図作製や測量を実施するようになる。今まで自分たち以外が来たことがない場所に、ヨーロッパからの船が来たことは大きな衝撃だったからだ。バンクーバーが来て勝手に現地を命名しても、ヨーロッパに抗議の一つも行ったりするなど、自分たちの領域である事は自覚するようになっていた。現地に入り込んでいる猟師などに、報奨金を出したり若干の援助をして、地形の把握や領土を示す標識の設置なども行った。
 なお、大東国の役人が大東洋の東にある陸塊(北米大陸)に再び興味を向けたのは、18世紀も残り四半世紀を過ぎてからだった。1779年にキャプテン・クックが同地域に立ち寄ったのも大きな理由だったが、飽和しつつある国内人口の放出場所に出来るのではという考えが生まれたからだ。多少寒冷ながら、農業が可能な場所が広がっている事が伝えられていたからだ。
 そして当時の大東島は、徐々に人口飽和に向けて進んでいた。東京の役人達も、国内各所から上がってくる統計数字上でその事を把握していた。加えて、北部の新大東州北部では、人口の拡大に伴って農業には不向きな耕作限界地に住む者が増え始めていた。耕作限界地は、気候が通常通りなら相応の植物の生育と収穫が期待できるが、ひとたび気候が乱れると簡単に飢饉が発生する条件を備えていた。それでも数が限られている時は、他の地域からの食料の移動などで飢饉の発生を防ぐことは出来た。それが18世紀後半になると、徐々に難しくなりつつあったのだ。
 そして北米大陸西岸の北中部地域は、新大東州の農業を行うのに適した条件を備えていた。土地も肥沃で、内陸部には広大な平原(=盆地)が存在していた。
 このため大東国の役人達は、なるべく自分たちが金をかけないようにしつつも、一万キロメートル彼方への自国民の移住を誘うようになる。
 この行動は、19世紀に入る頃には年間1000人程度の人の流れとなり、当時ナポレオンが率いたフランスの突拍子もない領土の安売りの結果、国家が直接動く形で拡大されていった。

 1803年のナポレオン・ボナパルトのルイジアナ売却によって、大東と東岸のアメリカとの間に生じた新たな境界線は、大東が大雪山脈と名付けた巨大山脈と中部大平原の境界線だとスペインを介したフランス側から説明された。そして慌てて山脈を越えて調査したところ、アメリカ人はおろか元の所有者のフランス人もいない、原住民の姿すらまばらな何もない不毛の平原だった。しかもスペイン人、フランス人共に、山脈以外の場所、特に北部の境界線は知らなかった。それ以前の問題として、スペインと大東の西海岸及び山脈地帯での境界線も明確ではなかった。
 ここで大東本国の役人達は、ルイジアナとの境界線調査、内陸の調査を実施する。この過程で大東の調査団がミズーリ川を下って、初めて東部からやって来た白人達(恐らく移民者)と出会う。無論ワースト・コンタクトはなく、大東側にスペイン語の通訳がいたため何とか意志の疎通も可能だった。
 これ以後、大東は北アメリカ大陸の運営についても、かなりの努力を割かなくてはならなくなっていく。東の新大陸は、地の果てではなく国境が接する場所となったからだ。


豊水大陸のゴールド・ラッシュ

 「ナポレオン戦争」と「ウィーン会議」の結果、大東国はヨーロッパ列強の脅威をより強く感じるようになった。そして国防の観点からも、植民地開発に熱を入れるようになった。
 そして大東にとって最も有望で最も手薄な植民地が、豊水大陸だった。
 19世紀に入ったころ、大東島での人口飽和が進みつつあったため、大東政府は残された新天地の開発に力を入れるようになる。四半世紀前から表面化していた人口飽和は、深刻な問題になりつつあった。
 それまでおざなりにされていた勢力圏各地での地図作製、測量、未踏破の内陸部への探検隊の派遣など、かなりの予算と人員を投入した努力が実施される。特に資源調査に熱心だったが、これは大東本国で産業革命を行うための地下資源が不足していたからだった。
 北のサハの大地、北米大陸北西部、そして唯一大東だけのものとなった豊水大陸。どれも広大な大地が広がる場所だったが、政府が多大な支出と人員を出すことで、精力的な活動が実施された。
 そして各地を本格的に調べてみて驚いた。大東人の見たところ、特に豊水大陸は地下資源の宝庫だったからだ。(※サハ、荒須加は寒すぎて調査が十分できず。北米北西部では、この時あまり何も見つからなかった。)
 豊水大陸では、19世紀前半の技術レベルでの調査でも、沿岸部を中心に良質の石炭、鉄鉱石の想像もつかない程の大鉱脈が発見された。銅、錫、鉛といった大東島で不足する資源も、順次見つかっていった(※さらに時代が進むと、ボーキサイトなど他の資源も発見された。)。こうした地下資源の存在は、諸外国特にイギリスに狙われる事を恐れた大東政府は、出来る限り情報漏洩を防ごうとした。しかし全く防ぐことが出来なかった地下資源の存在があった。その資源とは黄金で、噂はたちまち広がって「ゴールド・ラッシュ」が起きたのだ。
 
 豊水大陸に金があるかもしれないという説は、古くからあった。
 先住民との交流から、先住民は金属加工の技術を全く知らず、金や銀の価値を少しも分かっていなかったからだ。だが一方で、温暖な南東部でも一見大東島のような情景のため、地形的に金銀銅が存在する可能性は低いとも考えられていた。しかし大東でも野馬金山の例があるので、探して回る山師は後を絶たなかった。ウィーン会議後の本格的調査によって、そうした人々の努力というより執念が遂に実を結んだと言えるだろう。
 発見されたのは1826年。
 ウィーン会議でマラッカ海峡とマレー半島、シンガポール島を得たイギリスが、勇躍して清帝国との大規模な貿易に乗りだし、そしてお茶や陶磁器の輸入による大赤字の末に行った阿片の大量密輸の結果、最後の対清貿易赤字を計上した年だった。
 豊水で大金鉱発見のニュースが全世界を駆けめぐった時、イギリスはウィーン会議での自らの失敗を悟ったと言われる。購入してでも豊水大陸を奪っておくべきだった、と。
 また同時に、失点を取り返すために、大東に戦争を吹っかけて大陸ごと奪い取ろうという算段も水面下で実施された。実際、インド方面の軍備が俄に強化されたり、インドやニュージーランドから豊水大陸の近在に軍艦を「表敬訪問」や邦人警護の名目で派遣した示威行動を実施したりもした。
 だが大東も馬鹿ではなく、黄金もそうだが膨大な地下資源を渡す気がないので、軍艦を含め十分な軍事力を豊水各所に配備し、法的にも他国に後れをとらないように動いた。現地の治安維持のため、多数の治安維持部隊も派遣した。大東国内では、屯田兵目的の移民の募集も大幅に強化された。各地の開発も、政府の肝いりで大規模に実施されるようになった。開発のために、莫大な国庫の支出も行われた。
 一方で当時のイギリスは、まだインドの完全掌握に至っていないし、近在のニュージーランドは豊水よりはるかに弱小で、さらに清との貿易問題もあって、アジア・大東洋方面で「まともな海軍」を持つ国と本格的な戦争などしている場合でもなかった。いかにイギリスがヨーロッパで他国に懸絶する海軍を保有するようになったからと言っても、まだ帆船の時代に自分たちにとっての世界の僻地で同程度の軍事力を持つ相手に戦争をしたいとは考えなかった。
 加えて、大東もいちおう「ウィーン体制」に含まれる国家なので、規模が不明のゴールド・ラッシュを理由に戦争を吹っかけるわけにもいかなかった。大東の事はともかく、ヨーロッパ外交でイギリス自身が不利となるからだ。

 豊水の大金鉱は、主に温暖な南東部の2カ所で発見された。しかし片方はほぼ砂金だけのため、短期間で大量に採掘するも数年で探し尽くしてしまう。だがもう片方はかなりの規模の金鉱であり、その後すぐに大東政府の直轄鉱山とされ、大東国内の採掘業者に権利を与えて大規模な開発が実施された。そして16世紀からの優れた採掘技術を有する大東の採掘業者達は、精力的で効率的な黄金採掘を続けた。
 豊水でのゴールド・ラッシュは、短期的な砂金取りが約5年ほどで取り尽くすことで沈静化する。だがこの間に、多数の人々が豊水大陸へとやって来た。屯田兵など募集する必要すら無かったどころか、大東政府が予測した以上の移民が発生していた。
 最初の頃、砂金取りに狂奔したのは、主に従来から豊水各地に住んでいた大東人の移民達だった。海外から主に来たのは、もちろんと言うべきか大東人だった。しかし当時の豊水は、特に移民者の規制を行っていなかった。このためゴールド・ラッシュの噂を聞きつけた大東人以外も、かなりの数が押しよせた。
 国別で見ると、一番多いのはイギリス人だった。
 豊水の近在にはイギリスの植民地のニュー・ジーランドがあったので、まずはここから約3000人の移民がやってきた。シンガポールからもやって来たし、インドからも来た。最終的には約1万人に達した。他にも東南アジアに住んでいる華僑や日系人の末裔なども来ていた。遠くヨーロッパからも、数千人がやって来たと言われている。
 この間、海外から豊水南東部に押しよせた数は約20万人と考えられており、うち15万人が大東人だった。そしてゴールド・ラッシュが終わると外国人のうち主にイギリス人を始めとする白人の半数程度は立ち去ったが、帰るだけの金がない者の方が多いため、約3万人がそのまま豊水に永住するより他無かった。結果、以後の豊水は、東洋人が支配する土地に白人が住む土地となってしまう。そしてこれは、その後も豊水大陸に僅かながらも白人移民(主に農業移民)が到来する契機ともなった。
 またゴールド・ラッシュの間に、砂金取りが目的でない者も多数押しよせていた。多くは金を見つけた人々に対する商売目的だった。特に既に豊水に住んでいた大東人移民は、砂金取りに対する商売で大きな財をなす者が多数現れた。何しろ砂金取りの者は、一攫千金を夢見て着の身着のままの者がほとんどで衣食住全てを持ち合わせていないからだ。そして砂金取りは男性がほぼ全てなので、性を商売とする産業は濡れ手に粟のボロ儲けだった。

 その後豊水は、ゴールド・ラッシュ以前と比べると大きな変化が起きた。
 それまで豊水には、巨大な大陸全てを合わせても10万人程度の大東移民しか住んでいなかった。大東島との間にはまともな定期便すらなく、年に数隻やってくる移民船ともぐりの商船が、世界で最も遅れた大陸に文明を運ぶ手段だった。
 しかし1832年頃の豊水の人口は、一気に30万人を越えていた。大東本国との定期便も開設された。移民に関しても、人口が増えた事で現地での農業需要が一気に高まった影響で農業移民の本格的な募集が増えた。大東島での人口飽和を受けた大東政府による農業移民も、ようやく本格的に動き始めた。金鉱と金を運ぶ船のため、主要港に沿岸要塞も建設され、軍艦の常駐するようになった。
 そしてちょうど金鉱のあった辺りが、東海岸中央部から南部にかけては大陸の中では温暖で雨量もあり、場所によってはそれなりに農業に適している事が、その後の移民を増やす大きな切っ掛けとなった。
 現地は大東の乾燥している地域程度の雨量のため、稲作はよほど灌漑をしなければ難しかったが、小麦、玉蜀黍栽培、牛、馬、豚、そして羊の飼育などは問題なかった。過去の移民の結果から土地の滋養分がすぐに無くなることも既に分かっていたので、漁業(魚肥)と連動した開発も心がけられた。それでも10年単位で大陸規模で長期的に気候が大きく変動するので、開発、開拓には苦労が伴われた。
 しかし豊水には、土地がありあまるほどあった。何しろ総面積850万キロメートルの大陸だった。
 当時の技術で農業が出来そうなのは南東部だけだったが、それでも大東島全土より広いぐらいの土地があった。
 そして当時大東では土地に対して人口が完全に飽和していたため、定期航路が開設されると待ちきれないように農業移民が爆発的に伸びた。1820年代から50年ぐらいまでの大東から豊水への移動手段は、まだ普通の帆船(直船の発展系)だったが、それでも1940年代になると毎年10万人以上の移民が大東の大地を旅立つようになる。
 1850年代からの移民は、蒸気船の大幅な導入と大東での混乱もあって爆発的に伸びて、10年間で200万人を記録した。1860年代になると、日本列島からの移民も積極的に出発するようになる。
 この結果1860年の豊水の総人口は、自然増加と移民を全て合わせて450万人を記録した。