■Civil_War(1)

 「Civil_War」とは、辞書通りの「市民戦争」や「公民戦争」ではなく主にアメリカでは「内戦」を意味する。しかし大東における戦乱の歴史には、「戦国時代」以外で内戦はなかった。その戦国時代ですら、後半の一時期は国土防衛戦争だった。
 その大東島に、戦いの季節が到来しようとしていた。
 しかし同時期、全世界に向けて肥大化しつつあった欧米社会も戦争にまみれていた。
 箇条書きにすると、おおよそ以下のようになる。

・アヘン戦争(1840年)
・アメリカ=メキシコ戦争(1846年から1848年)
・太平天国の乱(1851年から1864年)
・クリミア戦争(1853年から1856年)
・アロー戦争(1856年から1860年)
・シパーヒーの乱(1857年から1858年)
・仏越戦争(1858年から1862年)
・イタリア統一戦争(1859年)
・アメリカ南北戦争(1861年から)
・ドイツ統一(普墺戦争1866年、普仏戦争1870年、ドイツ統一1871年)

 この上1848年には、ヨーロッパを自由主義革命の嵐が襲った。そして同じ嵐が大東にも襲来した。順を追って見てみよう。

阿片戦争

 阿片戦争ほど近代の帝国主義を象徴する戦争はないと言われる事がある。
 幻覚作用など人体に害悪があり中毒性のある阿片を国家が大規模に密売し、それが取り締まられた事を理由にして戦争を引き起こしたからだ。いちおうは清帝国に鎖国体制を止めさせるためという理由もあるが、戦争を起こした理由としては非常に帝国主義的と言えるだろう。
 そしてイギリスは、産業革命を一番最初に始めるなど当時最先端の近代文明を有していたので、通常なら負けて普通だといわれた戦争に一方的な大勝利を飾った。
 この戦争でイギリスは、傭兵など将兵4000名、軍艦16隻、輸送船27隻、そして蒸気船4隻を動員しただけだった。蒸気船以外の船は、全ていわゆる帆船だ。軍艦も大型艦は少なかった。
 総人口4億を越える文明家に対しては、いかにも戦力が不足している筈だった。これがヨーロッパなら、小競り合いを行う程度の戦力でしかなかったからだ。
 だが艦艇の中に含まれていた武装蒸気船「ネメシス号」は、風向きのせいで軍港で身動きできない清帝国の軍艦を、一方的に破壊していった。当時の清帝国の軍艦には旧式ながら大砲も搭載されていたが、戦闘以前の問題だった。
 この時の戦闘は、蒸気機関を実現した産業革命の威力を示す典型例であり、以後世界は産業革命をいち早く実現した国々とそうでない地域に明確に色分けされた一世紀以上の時間を過ごすことになる。

混乱前夜

 大東島では16世紀内に戦国時代が終わると、以後2世紀にわたって安定期が続いた。この間大東島は近世技術レベル上で開発しつくされ、人口飽和に達するまでに人の数も増えた。
 さらに、北東アジアの他の国々のように、国内に逼塞していたわけではなかった。16世紀半ばに手に入れた直船(ガレオン帆船)を用いて、アジア、環大東洋各地へと積極的に進出した。進出した先はユーラシア大陸北東部地域、豊水大陸(豊州)、北アメリカ大陸西部、東南アジア、中部太平洋の島々など様々で、19世紀初頭の最大進出範囲は地球上の3分の1の地域にまで及んだ。また一時的でも領土化、植民地化した面積は、南極を除く地上の11%〜13%に及ぶ。ガレオン帆船が活躍した約3世紀もの時間の中で、ヨーロッパ列強を越えるほどの勢力拡大を実施したことは間違いなかった。
 清帝国や日本は鎖国することで究極的な国内安定を図ったし、鎖国政策こそが北東アジアでの政権安定の最も手軽な、そして堅実な手段だった。だが大東は、基本的に世界の僻地にあるという地理的な優位もあったため、相手の側からやって来ることが極めて少なかった。今まで来たのも、日本人を例外とすればスペインぐらいだった。オランダとの争いでも、オランダの軍艦は大東島にほとんど近寄ってすらいない。
 しかし大東は、相対的な技術レベルから考えると海外に膨張しすぎたという意見が多い。膨張しすぎた為、他のアジア諸国に先駆けてどん欲なヨーロッパ列強と接触することが必然となったからだ。この論の場合は、日本のように国内で止まっていれば、もう少し長く平穏に過ごすことが出来たし、19世紀前半に経験したヨーロッパ諸国に対する苦労も無かったという事になる。
 だが、大東の近世の歴史は、域内の開発と経済発展、人口拡大の為に未開拓地域への拡大もしくは進出が欠かせなかった。そして本国となる島の中で足りない資源は、海外から得られた、黄金、毛皮、鯨油、木材など様々な資源がなければ、近世での大東の経済的、産業的、そして人口学的な発展、そして繁栄はあり得なかった。また同時に、近隣地域から始まった海外進出が無ければ、今日の大東もあり得なかった可能性の方が高い。
 しかし19世紀前半までの大東はあくまで近世型の国家であり、しかも技術先進地域の西ヨーロッパから最も離れた地域に存在していた。そして西ヨーロッパが世界に先駆けて「近代」へと歩み出すと、大東は徐々に劣勢に追いやられていった。
 もしナポレオン戦争で、先進的な西ヨーロッパの軍隊と本格的な陸上での戦争になっていたら、かなりの確率で惨敗していただろう。戦後そうならなかったのは、ヨーロッパ諸国がナポレオン戦争以前の状態を望んだからに過ぎない。大東自身も、ウィーン会議で敗戦国とされた影響もあったため、ヨーロッパでの戦争を調べ上げて自らの後進性を自覚した。
 そして大東の人々は、外圧に対処するための力を得ようとしてヨーロッパ文明の急速な取り込みを行いある程度成功するが、それは同時に国内に劇薬を呼び込むことにもなった。

産業革命への道

 大東人が最初にイギリスで進行している「産業革命」に興味を向けたのは、ナポレオン戦争の終盤頃だった。イギリスが勝利した原動力の一つが、蒸気を利用した機械、工場の生産力だと考えたからだ。そうした視点が持てたのは、大東が主に海からヨーロッパの大戦争を眺めていたからであり、ナポレオンが行った大陸封鎖令こそがヨーロッパ社会の物流の流れ、イギリスの加工工業の巨大さを大東に見せることになった。
 戦後の大東は、勝者から学ぶという基本に則り、イギリスから技術や知識、現物を手に入れ修得しようとした。この試みは、イギリスが自らの金融制度構築のため大量の黄金備蓄を行い始めていた事、大東が比較的豊富な金を持っていた事から、割高ながら望むものを手に入れることができた。またイギリス国内での企業による自由競争が、白人ではない大東に大きく優に働いた。イギリスの企業家、資本家は、儲けるためなら人種偏見を脇に押しやる事を通常とした。
 しかし技術の獲得や修得だけでは産業革命は実行できない。産業革命の結果、資本主義が発展したと言われるように、「産業革命」を行うには「資本」つまり大量のお金を集中的に投資しなければならなかった。加えて、工場に勤務する大量の低賃金労働者、鉱山労働者も欠かせない。当然だが、技術を実現するための知識を持つ者の存在も必要不可欠だ。
 他にも様々な要素が必要となる。
 上記のものを加えて箇条書きにすると、「資本の蓄積」、「市場の拡大」、「自由な経済活動」、「豊富な労働力」、「豊富な資源」、「有利な輸出先」となるだろう。望んだ文物を望んだ場所に即座に移動できる輸送力については言うまでもない。
 19世紀前半頃の大東の場合はどうだったのだろうか。

 17世紀までに戦国時代が終わった大東は、国家、地域として近世に必要なものは一通り揃えていた。
 そしてさらに、他の東アジアの国々と比べると、農業の資本集約化が盛んに行われていた。これは在地領主制度が古くから続いている影響が大きく、大地主=領主という状況が多くなる。在地領主のいない地域では大地主が代わりを担うが、戦国時代までの大地主とは武士予備軍のようなものだった。
 大東での戦国時代の原因の一つも、領主(または大地主)と小作人という図式があった。しかし大きく改善されることなく近世に入ったため、小規模な自作農の比率は低かった。だが大きな土地を持つ地主は、効率的に儲けるために土地に対して人を投入するよりも資本を投入する選択を行う事が多かった。
 特に北部では、時代を経るごとに牧畜や複合農業を軸とした大規模農場が多くなり、人を投入するよりも資本を投入する農業が発展した。北部の貴族や武士達も、自らかなりの努力を傾けた。北部の場合は、イギリス本島と状況が少し似ており、尚かつ北部の新大東州がイギリス本島(大ブリテン島)の二倍以上の面積を持つといえば、全体としての規模が大きかった事も分かるだろう。新大東州北部では、100ヘクタール規模の豪農(農業経営者)は珍しくなかった。
 そして小作人の増加は社会不安を呼び込みやすいが、当時の大東は人口に対して土地の余裕が大きかった為、不満な者は国内の新たな開拓者となった。さらに危険を望まない者には、15世紀から発展が本格化していた「家内制手工業」という労働が副業として与えられた。「家内制手工業」はその後発展的に「工場制手工業」へと進み、より多くの労働者を雇用するようになる。
 それでも都市に流れる無職者が多かったので、各地の植民地に流刑としたり僻地への自主的移民を誘導したりした。特に犯罪者や社会からのはみ出し者は、社会安定のために海外へと「棄民」された。また沿岸部住民の一部の男性は、無理矢理海軍に連れて行かれていた。
 なお「工場制手工業」の代表が綿織物だが、大東では18世紀中頃に水の力を機械的に利用する水力紡績がほぼ独自に使われるようになっている。これはインドから輸入される安価な綿布(伽羅胡=キャラコ)に対向するためだったが、その後は羊の牧畜の広がりに伴って北部では毛織物産業も発展したため、綿織物でのノウハウが活かされることになる。この流れは、産業革命にも続いていく。
 また海外領土の拡大、海運の拡大と、そして「工場制手工業」の進展に伴って、従来からの大商人、貿易商、高利貸しなどの資本経営者化、企業化が進んでいった。大東での株式の仕組みは17世紀中頃に登場したが、18世紀中頃には株で資本を集める形が一般化する。特に海外に出る貿易船は、株式や資本投資の仕組みを発展させた。そして扱う資本は年々巨大化して、19世紀序盤には高利貸しから発展した近代銀行(=金貨流通が基本の大東では、当初金行とも言った。)が次々に誕生していった。銀行の誕生には、貨幣の紙幣化、政府が進めた金本位制度も大きく影響していた。こうした動きを政府や貴族達も特に咎めず、それどころか経営者から税金を取ることを目的として奨励すらした。なぜなら、貴族達が出資者である事も多く、中には経営者となる貴族もいたからだ。今日、大東最大となる五芒財閥の原型が誕生したのも18世紀中頃だった。
 (※五芒家はもとは神道の家。※19世紀末に出揃った大東五大財閥は、五芒、中川、神羅、剣菱、倉峰。)

 大東は国外の僻地に「いらない人」を放り出せたように、海外領土は面積の上では非常に広かった。しかし大東人が進出した先には、商売相手となる住民(先住民)が少なかった。19世紀までの大東商人にとっての商売相手とは、主に東アジア地域の国々だった。だが清帝国とは常に国交断絶状態で、朝鮮王国とは交流が無かったので、日本との限定貿易以外だと東南アジアが主力となる。また一部の商人はインド洋まで出かけて、インド商人、イスラム商人、そして白人商人の隙間で商売を行った。大東のインド貿易が小規模だったのは、大東人にとってインドで必要とする物産がそれほど無かった事が幸いした形だった。
 そして基本的に、大東商人の邪魔をする者は少なかった。いても一時期のオランダぐらいで、ヨーロッパのように激しい競争に晒されずにすみ、おかげで順調な海外貿易を行うことができた。
 また市場という点では、順調に人口拡大が続く国内市場は、世界的に見ても非常に有望な市場だった。しかも人口が拡大する事そのものが、市場の拡大と経済の発展を促していた。
 そして大東の市場が順調に拡大したように、戦国時代の混乱を経た大東国内及び大東国政府の威光が及ぶ範囲では、国家が認めた自由な商業活動が保障されていた。そして海外では、大東商人の活動を海賊などから守る必要十分な軍事力(海軍)もあった。

 国内の資源だが、大東島は1億年以上かけて大東洋を西へと移動し続けた為、石油や天然ガスの地層を作り出す事は全く無かった。しかし常に陸地が海の上にあり、尚かつ温暖な地域に属している事が多かったため、島の南部に巨大な炭田層が存在した。炭田の三分の一ほどは露天掘りが可能だったし、他も浅いところに固まってあった。
 石炭は主に中生代に形成され瀝青炭で、採掘埋蔵量は700億トン(※世界第5位・21世紀初頭の年産は5億トン程度)。炭素含有量は高い方で硫黄も比較的少なく質も高い。
 また島の北部には泥炭層がかなりの規模で存在するが、工業用には向いていない。古くから、乾燥させて家の暖房、料理などに使われていた。大東ビールと呼ばれる麦酒の醸造にも古くから利用された。
 石炭以外だと、新大東州の南端部に中規模の鉄鉱石鉱床があった。国内に豊富にある砂鉄も利用可能だが、近代製鉄には不向きのため伝統的手法以外ではあまり考慮されなかった。だが国内に錫や銅がないため、15世紀頃から鉄の精錬、加工技術の大きな向上が見られた。初期の頃は世界的に青銅で作ることも多かった大砲も、大東では最初から鉄で作るのが一般的だった。
 しかしこれでは石炭以外、産業革命に必要な地下天然資源が足りないため、大東国政府は産業革命を進めると決めた時点で、まずは自分たちの勢力圏内の資源調査を広範かつ大規模に実施した。
 この結果、各地で地下資源が発見された。
 ユーラシア北東端サハ各所に炭田と思われる地層、小規模な鉄鉱石鉱床、錫鉱床を発見した。しかし、どれもが極寒の地のため、19世紀前半の技術では採掘も運び出しも非常に困難を伴うと考えられた。
 北米大陸へと探しに出かけた一行は、荒須加の西部沿岸の屋古尾で銅、さらに南に下った白姫島で鉄のそれぞれの鉱床を発見した。ただし、どれも規模は小規模または中規模程度だった。また距離と地形の問題もあった。大雪山脈へと足を進めた探索隊は、当初はあまり大きな成果を挙げなかった。だが19世紀後半になると、各地で銅や亜鉛、鉛、さらに金や銀など豊富な鉱産資源を発見する事になる。
 別の一行は、スンダ地域の自分たちのテリトリー内にある未踏のジャングルへと足を踏み入れた。だが、大東の勢力圏の島々に、有望な資源は見つからなかった。しかし、この地域では生ゴム栽培が可能なため、後に広く栽培されるようになる。またこれら南方の地域では、既にサトウキビの資本主義的農場が数多く切り開かれていた。香辛料も、これらの地域で商業栽培された。
 19世紀前半においては、海外で最大の地下資源が見つかったのは豊水大陸だった。
 良質の石炭と鉄は、初期の調査でも恐らくは無尽蔵に存在すると考えられた。しかも採掘も比較的容易かった。それ以外の地下資源も量は限られているものもあったが、銅、錫、鉛、亜鉛、水銀など産業革命に必要なものの多くが順次発見されていった。
 銅や鉛の一部は、近在の西日本列島からも輸入されることになった。
 しかし海外の地下資源は、本国に運ぶコストが折り合わない場合がまだ多かった。何しろ19世紀半ば以降になるまで帆船で運ばなければならないため、効率が悪くコストもかさんだ。このため、出来る限り国内資源でまかなわなければならなかった。

 

fig.01 大東島の主な地下資源

産業革命開始

 前節で説明してきた通り、19世紀序盤の段階の大東は、産業革命に必要な要素の多くが揃っていた。「資本の蓄積」が足りていないと言う論もあるが、総人口6000万という当時の全ヨーロッパの4割に匹敵する人口が欠点の多くを補っていた。また自力の豊富な金鉱がある事は、資金調達の面で有利だった。そして資本を集約する大商人(資本家または銀行)と、彼らが活動する社会的な仕組みの多くも出揃っていた。大東社会は、産業革命の到来を待っていたと言われる事があるほどだった。
 かくして、既に資本の蓄積などの準備の整っていた地域、炭田地帯を中心にして、大東の産業革命が始まる。

 1820年代に始まった大東での産業革命の初期の中心は、海外貿易での豊富な資本と炭田地帯が近いという地の利から、旧大東州南部最大の都市南都が一つの中心となった。加えて、南部の周辺は16世紀頃からサトウキビ栽培が盛んに行われており、砂糖産業の特徴として資本集約型の農業も進んでいた。しかも産業革命初期はまだ帆船が船の主流だったため、北米や豊水からの資源移動の面でも大きな優位があった。鯨油をもたらす捕鯨船の最大の母港という優位もあった。茶茂呂人系を中心として古くから貿易船を扱う事から、資本家の多くも育っていた。
 また、新大東州南端の宍菜は、周辺が綿花地帯で国内唯一の鉄鉱石鉱山があるため、こちらは北部での近代産業の中心となった。また北部は資本集約農業が進んで羊毛産業の中心地であり、北氷州からの資源の受け取りにも有利だった為、少し遅れて産業の革新が進展するようになる。
 国内で取り残されたのは、最大の人口地帯となる旧大東州中枢部だった。同地域は大東島の中で最も人口密度が高く、農村地帯は比較的労働集約型の農業が行われていた。そして産業革命の進展に伴い、旧大東州は先に産業革命が進んだ地域の「市場」とされてしまった。
 そこで大東政府(東京御所)は、旧大東州で農業の所謂「囲い込み(エンクロージャー)」政策を実施しようとした。これは同時期イギリスでも経済的理由により行われていた事で、労働集約から資本集約へと農地を大改造し、農業の資本主義化を進めると同時に穀物生産力を高めるのが目的だった。何しろ、これからも増えるであろう国内人口を支えるためにも、国内での食料増産が必要だった。また政府は、産業革命が進めば大量の低賃金労働者が必要な事を理解していたので、農地から都市へと人々を移動させる必要性を当初から感じていた。
 そして大東政府もそれなりの努力を行ったので、1830年代に入ると大東での産業革命が進展するようになる。この時期の産業革命への移行は、イギリスを除くヨーロッパ列強とほぼ同じだった。1836年には早くも最初の鉄道の敷設が開始され、同年初めて小型ながら国産の蒸気船が建造された。様々な産業でも蒸気機関の利用が行われるようになった。

 一見すると、大東の産業革命への移行は順調だった。
 しかし、政府が健全で強い指導力があれば、という付帯条件が付く。そして2世紀続いた大東政府は、既に近世的国家の袋小路に入りつつあった。今まで悪い面が露見しなかったのは、大東島の土地がまだ余っていて国内経済が順調だったからだ。
 だが、列強の接近に伴う逼迫感、産業革命進展に伴う大東国内での地域格差の急速な拡大、コレラの大流行、そして対応が後手後手に回る硬直化した中央政府、新たな知識や情報の氾濫、近世的身分や統治への不満及び統治の限界、様々な要素が大東国内で渦巻くようになる。

自由主義に至るまで

 国家の近代化には、産業革命と自由革命の二つが必要不可欠だとされる。少なくとも19世紀においては、この二つを成し遂げた国家が先に発展して、国家規模の大きな国は列強として名を連ねるようになった。19世紀にイギリスとフランスが世界から突出したのは、間違いなく二つの革命が原因していた。

 大東国は、12世紀末の建国以来、貴族と武士を中心とした封建制が維持されていた。しかし大東国の封建制は、日本の公家制度を一部に残すなど古い部分が多々あった。一方では、中世ヨーロッパや日本の江戸時代ほどの厳密な身分制度はなかった。大東に宗教というものが無かった事からも分かるように、大東島は気候は全般において穏やかで天変地異も少ない。だから、住民に無理を強いるような統治をする必要性が低かった。土地も肥沃で、人に対して余っている場合が殆どだった。12世紀の大東島は、特に北部など原生林に覆われた未開の大平原だった。
 身分制度については、「貴族=武士=民衆」と大ざっぱに括られていた。さらに分ければ、貴族も武士も同じなので、「武士と民衆」だけになる。城塞都市の発達で都市住民層は相応の数いたが、彼らはヨーロッパで言うところの「市民」や「公民」ではなかった。戦乱の時期に自主性は強まり「議会」と呼ぶべき自治組織も作ったが、都市の住人はあくまで「町民」または「町衆」でしかなかった。
 全ての民衆には納税の義務こそあったが、それは政府が富を公平に分配する為とされていた。
 義務を背負って権利(特権)を得るのは武士以上の役割だった。また貴族や武士の多くは在地領主で、領地と地域の民衆に根ざした地方政治家といえた。そして大東国内では、身分の対立よりも地方同士の対立が強いまま残されていた。大きくは旧大東州と新大東州の対立であり、大東日本人と他の民族の大東人の対立だった。
 また大東には権力と結びついた宗教が存在しないため、尚のこと身分制度は単純だった。貴族と武士が全てを背負っていた。

 一方、常に国を外に向けて開いていた大東国内には、大東人の好む合理的な自然哲学(科学)などの文献と共に、ヨーロッパの進んだ思想も流れ込んだ。当然その中には政治思想も含まれており、大東の学者や文化人の間で次々に翻訳されていった。キリスト教など宗教関連の書物も、宗教とは関係なく取り入れられた。この事は、キリスト教関係者を始めキリスト教徒から、非常に奇異な目で見られた。
 大東では僧侶のような知識の担い手がいないため、貴族と武士が知識についても先導者となっていた。神道関係者も知識に関してはある程度の役割を果たしていたが、神道は宗教ではなく国家の庇護もないため、西日本での江戸時代の「葬式仏教」のように冠婚葬祭のみを担い、伝統知識は担っても少なくとも先端知識の担い手ではなかった。
 そして東洋では宗教に哲学が付随してくるが(※儒教や仏教哲学など)、大東という国家が宗教というものに疎いため、大東の政府が国内でヨーロッパの思想が一般的に用いられている事に気付いたときには遅かった。それに国家として他の北東アジア諸国のように鎖国していない以上、輸入を止めることも難しかった。
 それに同時に流れ込んでいる自然哲学(科学)は大東の発展に大きく寄与していると考えられていたので、一つを止めるとこちらも止めざるを得ない可能性も高くなるため、政治的に急進的な人間を時折捕らえて流刑にする以外の対策は取らなかった。
 なお大東国内での大東人による思想の発展だが、大東は外から文物を取り入れて自分たちに都合のよく改めて使う事が多かった。このため自分たちに合うように改めることは得意でも、新しい思想や考えを作る事はどちらかと言えば不得手だった。
 数学や科学ではそれなりの人物も出て、17世紀前半に名門貴族傍系の田村清隆が関数を発表したことで高等数学の門が開かれ、ヨーロッパから知識を吸収しつつ高等数学、物理学が進んでいった。知識の集積所も、国営や大貴族が運営する図書館や学問所が作られている。16世紀には、スペインからの文化的影響で、大東最初の大学が貴族と商人達によって作られた。
 金儲けになるならと、商人達も知識の集積と保護育成には積極的だった。合理的な医学や経済学も、似たような道を辿っている。19世紀には、欧米より先に新たな発見をする者まで現れるようになる。そして大東政府や支配層は、知識的、技術的な発展に関しては統制したり止めたりする事は殆ど無かった。知識の蓄積や研究、技術の発展が自分たちの利益にもなると言う認識があったからだ。
 対して思想面は、弱いままの時代がずっと続いていた。それでも誰もいないわけではなく、18世紀初頭に活躍した河東大介は日本ばかりか中華の儒学、つまり東洋思想からも離れ、独自に西洋哲学を研究して合理論に関する「理ノ勧メ」を発表している。西洋、東洋の訳本も数多く作られた。ギリシャ哲学などでも、戦国時代には貴族などが知るようになっている。しかし大東においては、哲学はあくまで学問だった。
 そして19世紀の大東において問題となったのが、18世紀に入ってきた「啓蒙思想」とヨーロッパでも最新となる「自由主義思想」になる。
 啓蒙思想が大東に紹介されたのは18世紀中頃だったが、それほど注目はされなかった。大東人はもともと直接的な行動を好むし、大東国は一度も絶対王政的な政府は出来なかったからだ。
 しかし自由主義と結びつく事で啓蒙思想が意味を持った。
 とどのつまり、大東天皇を象徴君主化して民衆に権利を持ってくる立憲君主国家を作り出そうという考え方の登場だ。
 だが大東人がここに至るまで、もう少しの時間が必要だった。まずは大東史の上に積もり積もった対立を乗り越えなくてはならなかった。

19世紀前半の教育

 大東の人々が思想に大きな興味を向けたのには、教育の進歩が大きく関わっていた。
 文字を読めることを「識字率」というが、17世紀以後の近世において大東国内では識字率が大きく向上した。
 当然だが義務教育などではなく、あくまで私学としての基礎教育の普及が、識字率の大幅な向上をもたらした。
 西日本列島では寺子屋と呼ばれる私塾が、簡単な文字の読み書きを教えた。さらに都市を中心にして、そろばんと呼ばれる計算装置の扱い方と計算方法を教えるようになる。同時期西日本列島でも識字率は大幅に伸びて、特に19世紀の伸びは世界的にも異常なほどのレベルに達した。しかし西日本の場合、知識や情報を手に入れるためではなく、娯楽としての読み物を楽しむための場合が多かった。このため特権階級や富裕層だけでなく、一定以上の収入のある者が自ら進んで文字の修得を行った。知識が権力に直結していた北東アジアではあり得ない状況だった。
 大東でも、西日本と大きな違いはなかった。
 直接的に学棟(がくとう)と呼ばれる大東での私塾は、14世紀頃に貴族、武士の間で少しずつ広まり始めた。支配する側は色々な文献に触れなければならないし、税金の管理と運用の為に一定程度の数学(=計算)の知識が求められたからだ。そして人口の拡大と共に人手が必要となったため、従来の家ごとの教育では追いつかなくなり、私塾が開かれるようになる。この流れは戦国時代に各貴族の間で大規模に実施され、全国規模になった。
 また神道勢力が、自らを庶民の教育組織として自覚するようになったのも戦国時代だった。戦国時代の間のみ発生した武装神道が権力を求めた結果だったが、その後も神社の一角で子供達が遊びながら初歩的な学問を学ぶ姿は、平和な時代での一般的な風景となっていく。神道がキリスト教の大学を真似て高等学問を学ぶ学校(=学社)を最初に作ったのも、戦国時代の16世紀後半だった。これに対向する形で、財政的にゆとりのある貴族も、自ら高等学校となる「大学」を次々に開くようになった。そして見栄や虚栄心を原動力とした競争原理が働き、実利が加わる形で大東の教育組織は急速に発展した。
 そして平和な時代が到来すると、都市の中流階層以上の住民の間で基礎教育を行う私塾がもてはやされるようになる。この私塾は、都市部では大商人達が資金を出し合い、農村部では豪農達が開いた。商業にも農業にも、知識があった方が効率が良くなるからだ。知識については子育てについても必要という認識が持たれるようになった事から、女子の教育も17世紀頃から一般化している。
 ヨーロッパとの接触による新たな知識や、日本からの移民がもたらす江戸時代の華やかな文物などに触れることで、大東での教育熱は加速した。まだ大東独自の文化も大きく発展したため、庶民の教育熱がいっそう高まった。そして大東の場合は、高等教育を教える場所ではヨーロッパの学問も特に拒絶などなく教えた為、19世紀までには先端分野を除く学術水準がほぼヨーロッパに並ぶようになっていた。これに反比例して中華系学問(漢学、儒学など)が大きく衰退したが、これは仏教を切り捨てた戦国時代以前から進んでいた状況が加速したに過ぎなかった。
 外国語教育でも、19世紀まで南部に定期的に立ち寄るスペイン船の為の西語(イスパニア語)が中心に各所で教えられ、19世紀に入ってからは英語(イングランド語)教育が徐々に広まるようになる。

戦乱前夜

 大東国内での対立は、基本的に旧大東州と新大東州、大東を征服した大東人(もと日本人)と征服された側の古大東人、茶茂呂人、アイヌの二つの軸がある。そして戦国時代は新大東州を本拠とする北軍が勝利し、17世紀以後の大東中央政府である東京御所は、一応全ての人種に対する公平さを見せるようになった。近世大東国内の安定の一因は、こうしたところにもあった。西日本の江戸時代に、大東への移民が増えたのも安定と公平という要素が大きな役割を果たした。
 だが、ナポレオン戦争での大東の敗北が確定したウィーン会議で、国内の雰囲気が一変する。大東国は日本以外の対外戦争で初めて敗北するという経験をした。
 対外戦争での敗北は、国内では御所(政府)の権威が急落する事件となり、その影響で国民の前に政府及び官僚団、つまり中央の貴族と武士達の硬直化と政治の疲弊が明らかにした。2世紀を経過した政府で腐敗や堕落が比較的少なかったのは救いだが、産業革命に対する国内政策は、既に限界が訪れつつあることを人々に教えていた。
 そしてここに、国内の人々にも外圧が急速に強まっているという実感が加わる。と言っても、少し後の日本での「尊皇攘夷」とはかなり違っていた。大東の場合、既に半ば名目ながら天皇が最高権力者(=元首)であり続けていたので、何よりまず「尊皇」が不要だった。「攘夷」についてはある程度当てはまるが、大東は常に国を開いて海外にも相応に進出して対外戦争も経験していたので、合理的に外敵に対向する為にどうすれば良いかというのが争点となった。そして列強に対向するには、軍事力の近代化と産業の革新が不可欠だと考えられた。
 その中で台頭したのが、「帝国派」と「王道派」だった。
 「帝国派」は、言葉通り抜本的に政府を作り直して強力な国家を建設しようというもので、「王道派」は国内の融和と緩やかな改革で時局を乗り切るろうという一派だった。そしてこの場合危険なのは、「帝国派」が最終的には大東のみならず「日本人社会全て」の力を結集して、ヨーロッパ列強に対向できる強力な国家を作ろうという考えを持っている点だった。
 なお地域で示すと、「帝国派」が新大東州と茶茂呂地方で、「王道派」が旧大東州の中枢地域だった。つまり旧来の対立構造が、産業革命の進展と新しい考え方の双方に重なっていた。

 なお、大東の政治の中枢である広大な御所(中央政府)のある首都東京は、一種の政治的な中立地帯だった。
 これは大東で海路が発達したことも影響している。南部の南都、東京に近い素島水軍の本拠地、境東府または宍菜を結ぶ航路は、俗に「北軍航路」と呼ばれていた。このため東京自体は旧南軍、旧大東州の中枢に位置しながら、海路によって旧北軍勢力圏でもあった。新大東州の高位の者が東京に行く際も、必ずと言っていいほど海路を使った。
 19世紀前半、大東での産業革命が始まった頃の東京の人口は、約150万人と推定されている。しかし地方から流入する貧民などの不確定な人口が含まれていないので、実際は170〜180万人程度と考えられている。この数字は、工業化以前の前近代としてはほぼ限界の数字であり、実際東京の都市機能は限界に達していた。
 2世紀前の城塞の内側は旧市街。その北部は川幅3000メートルに達する墨東川で、河川側が港湾部となっていた。そして川を30キロほど降ると海に出る。かつては郊外だった街の西部には、17世紀末に約30年かけて建設された広大な『新御所』があった。御所の周りには、近世的な官庁街と貴族や武士の別邸と住宅があった。南部は、新市街とも呼ばれる都市が無軌道に拡張される現状が広がっていた。
 もはや城壁で守る気は皆無と言える巨大都市であり、都市規模は世界最大級を誇っていた。

 そしてこの東京で、まずは「帝国派」と「王道派」の政治闘争が実施された。「帝国派」は産業革命のさらなる進展と富国強兵を唱え、「王道派」は現状を維持したままの緩やかな改革と革新を支持した。
 この争いは、貴族、武士の数というより、旧州と新州の人口差から「王道派」が圧倒的に優位だった。
 結果、急進的な「帝国派」は自分たちの考えに従わせようと、より急進的な行動に出て、さらに支持を失った。そしてここに、「帝国派」の領域でのみ産業革命が進展して富の偏在が進んでいるという考えが広まり、旧来の南北対立の構図が時代を代えて出現する。

 なお1850年当時、大東では急速に鉄道が普及しつつあった。これも対立を助長する一因だった。
 大東で最初の鉄道は1836年に工事が開始され、試行錯誤の末に1840年に開通した。その後、南部の黒岩山脈、黒炭山脈の石炭を南都に運び出す本格的な鉄道敷設が行われ、同時期に新大東州南部で宍菜へ鉄鉱石を運び出すための鉄道敷設も実施された。大東の鉄道は、技術こそイギリスから導入するも基本的に大東の資本で行い、大東人が技術と知識を吸収して建設から運行までを行った。規模の拡大も、イギリスや西ヨーロッパ各地より早いぐらいだった。
 それからも、産業革命の進展度合いと、陸地面積の広い新大東州の内陸交通網を先に整備するべきだという考えもあって、新大東州での鉄道工事が優先された。本来大東の中枢である東京=大坂間の鉄道が開通したのは1851年の事だった。同時期、新大東州の多くで主要路線のおおもとがほぼ作られていた。平坦な地形の多い大東では鉄道の敷設が難しい場所は少ないのだが、露骨に地域格差と地域対立が出た形だった。

 そして茶茂呂を除く南部と北部のそれぞれは、互いに思い通りにならない現状に苛立ちを募らせる。
 実際に行動に出たのは、北部だった。
 時の天皇、第四十代大承天皇が、啓蒙思想や立憲に興味があることを半ば利用して、急進的つまり近代化の大きな一歩として「議会の詔」を出させてしまったのだ。
 これに保守傾向の強い旧大東州の名門貴族達は一斉に反発し、両者の対立は一気に発火点に達する事になる。


fig.02 20世紀の大東島 赤いラインは主要鉄道網