■Civil_War(2)


戦争勃発

 「大東南北戦争」は、西暦1852年春から1855年初夏にかけての、約3年間行われた。西欧や北米東部で、近代の扉が大きく開けつつある時代の事だった。
 大東での戦争の発端は、大承天皇の勅命で出された「議会の詔」だとされる。
 しかしこれは、本当に発端でしかなかった。

 「議会の詔」に対して、旧大東州の名門貴族達を中心とする「王道派」が反発して、政治的に勅命を最低でも空文化しようとした。それを直訴という形で阻止するべく、「帝国派」の新大東州を代表する田村公爵が境東府から東京へと、自らが保有する形の軍艦数隻の艦隊で押しよせようとした。
 しかしこの動きは、王道派の旧大東州の諸侯に事前に知られており、阻止する為の艦隊が東京湾沖合に事前に配備されていた。だがこの艦隊も、東京近辺を根城とする海軍一族の素島氏の艦艇によって行動が妨害される。
 ただしこの段階では、まだ双方ともに戦闘行為にまでは及んでいなかった。先に戦端を開いた方が政治的に不利になるばかりか、最悪「逆賊」にされてしまうからだ。
 しかし王道派は、自分たちの行動が出し抜かれると分かった時点で、帝国派が勝手に艦艇を動かした事は反逆行為に当たると一方的に決めつけ、実際文書を整えた上で東京での政争を実施した。そして何としても帝国派の実力部隊(戦闘部隊)を、東京に入れないように動いた。
 だが、大東最大の貴族にして唯一の皇族、王族以外の公爵である田村家の家紋を掲げた艦隊は、強引に東京港郊外へと接近する。そしてそこで待ちかまえていたのは、本来の東京防衛部隊でもある大東水軍に属する艦艇だった。
 しかしこの場合は、田村家の家紋がものをいった。国内で軍艦を動かしたと言っても、大貴族が移動で軍艦を使うことは今までも一般的に行われ、国からも許可制ながら認められていた。ましてや相手は公爵だった。王道派が言い立てた事も、文書にされなければ軍には意味がなかった。この場合水軍は、貴族の私用艦艇をエスコートして、余計な事をしないように事実上監視をするのが一般的だった。この時水軍が取った行動も、取り決められた通りでしかなかった。別に、帝国派に賛同したり田村公爵家に金を積まれたりしたわけではない。
 かくして帝国派の頭目でもある田村家の艦隊は東京軍港に入り、田村一族の有力者に率いられた事実上の私兵集団は広大な田村公爵家の別邸(冬殿)へと入った。

 これで王道派追いつめられたかに見えたが、さらに逆転を図る。それは天皇の側近の多くが自分たち王道派のため、数にものをいわせて、不当に軍を東京に入れた田村家の行動そのものを「逆賊の行い」としたのだ。
 だが帝国派も黙っているわけはなく、東京御所の状況を民衆に見せ、その上で旧州(旧大東州)の門閥貴族による天皇の傀儡化と「偽勅」であるとして、彼らこそが「真の逆賊」と名指しした。
 これで双方引っ込みがつかなくなり、東京郊外の広大な田村公爵別邸(冬殿)を旧主派(以後「北軍」)の息のかかった白い軍装の近衛兵が取り囲む事で戦端が開かれることになる。


近代戦争の夜明け

 以上のように、大東での二度目の内乱の初期は、特権階級の戦争として始まった。戦争から遠のいて久しい大東人の誰もが、絵巻物や物語のような戦国時代の戦争を予想した。
 しかし様相は、徐々に全く違う方向へと傾いていく。大きな役割を果たしたのが、大東で進展中だった「産業革命」そのものだった。
 戦争そのものを見る前に、この当時の大東の産業についてもう少し見ておきたい。
 まずは大東本国の総人口の簡単な推移を見ていただきたい。

 1810年:6000万人
 1820年:6100万人
 1830年:6200万人
 1840年:6400万人
 1850年:6700万人

 10年ほど後に大東同様に国内戦を経験したアメリカは、戦争当時で白人人口2400万、黒人350万なので、黒人を含めても大東の方が2倍半近くの人口があった。当時の大東は、清朝、インド世界に次いで世界第三位の人口大国だった。
 そして1820年頃が、近世における大東の人口ピークだった。
 1830年までの人口増加はわずかに100万人で、人口増加率は1%を大きく割り込む(0.15%)ほどとなった。この時期の海外移民は、全てを合わせても年間1万人を越える程度だったので、完全な人口停滞に陥っていた事になる。また1820年代は従来の伝染病である天然痘、ペストなどに加えてコレラが大流行したため、人口増加率をほぼゼロにしてしまっていた。
 1840年になると、1830年代から産業革命が進展している地域で都市部への人口集中が開始され、人口増加率が10年前の倍近い数字を示した。またこの年代から、主に豊水大陸と北米北西部への農業移民が本格化しているので、実際の人口増加は数字以上となる。
 1850年までの10年間は、大東島での産業革命がいよいよ本格化すると同時に、豊水大陸と北米北西部への移民も規模が大きく拡大した時期になる。各地の鉄道敷設もあって都市への住民の集中はいっそう進み、工場労働者獲得の為、四半世紀以上事実上中止されていた日本からの移民受け入れも再開された。
 一方では、毎年10万人以上が農業移民として豊水大陸と北米北西部に移民するようになっていたので、人口増加率は0.6%を上回った。以後この数字は、戦争期を除いて上昇をしていく事になる。

 停滞期から四半世紀(ほぼ一世代)ほどで、総人口は一気に一割も上昇した。この住民のほとんどは、都市の工場、石炭などの鉱山に吸収され、商業資本化が進んだ国内の農地と海外植民地からもらされる食料で腹を満たした。
 1840年代は鉄道の敷設が進んで、連動して鉄鋼生産量も爆発的な増加を示した。豊水大陸北西部の鉄鉱石が、蒸気貨物船を使って初めて南部の茶茂呂に移入されたのは1846年の事だった。
 大東島の各地では蒸気機関が蒸気を吹き出しつつ唸り、力強くピストンを回し、数々の工業製品を無尽蔵に作り始めていた。国全体の動きは、イギリスはもちろんアメリカなどの二番手にも若干遅れていたが、大東は確実に文明の階段を自力で上っていた。
 そしてその象徴こそが、「大東南北戦争」で使われた国産兵器の数々だった。

新時代の兵器

 1840年代から60年代にかけては、世界規模で各種兵器が革新的な進歩を遂げた時期だった。
 世界各地で欧米諸国が戦争を繰り広げた事と、何より産業革命の進展によって新たな武器の大量生産が可能となったからだった。
 代表的なものを順番に見ておこう。

 ・小銃(ライフル)

 小銃という言葉は、基本的に近世に入って登場した。西ヨーロッパで発明され、大東や日本に至ったマスケット銃も、初期のライフル銃の一種だった。
 大東の銃の歴史は、古くは明朝からの輸入だった。しかしこれは初期型の原始的なもので、実質的には16世紀序盤に東南アジアでポルトガル商人に出会ってから始まっている。当時は日本同様に「火縄銃」と呼ばれ、短期間のうちに猟銃型、軍用銃型合わせて100万丁以上が生産された。
 その後、ヨーロッパより若干遅れてフリントロック、つまり火打ち石を用いた形式を取り入れた(=「打石銃」)。さらに同時期に銃剣(バヨネット)を導入し、合わせて大規模で革新的な軍制の改革も、大東人なりに試行錯誤をしつつ実施された。軍制については旧来の大東の軍制が優れていた事が導入を容易くしていたが、だからこそナポレオン戦争などでヨーロッパ諸国に後れをとらなかったのだ。
 1840年代までの大東の銃も、欧米と同様に銃身の前から玉を込める先込式の「前装式」の「滑腔(かっこう)銃」だった。滑腔というのは、要するに内側がツルツルということだ。加えて銃弾の形状も球形だった。
 19世紀の大東では上記の形式の銃を、戦国時代から続く大商人の剣菱屋がほとんど一手に生産を担っていた。これはナポレオン戦争が影響しており、従来の手工業的な生産では急場の生産量が確保できないため、機械式の大量生産方式が模索され、自力開発と欧米からの技術輸入によって実現したためだった。そしてこの結果、大東での兵器生産の多くが、民間企業によって行われるようになった。
 ちなみに剣菱屋は、17世紀から東アジア・大東洋各地にも自らの製品を輸出してそれなりに知名度もあり、この頃は「剣菱銃」として有名だった。
 そして大東が銃の大量生産技術確立に向けて動いている頃、つまり1840年代に入ると銃は急速な発展を開始する。
 まずは1830年頃に、ヨーロッパで「雷管」が発明された。雷管は今までの火打ち石式と違って、雨や湿気という悪条件でも確実に着火する優れた特性を持っていた。無論だが、火縄とは比べものにならない。
 1846年には、今日では一般的な形状の銃弾が実用化される。この銃弾は、発明者の名前から「ミニェー弾」とも呼ばれた。同銃弾はライフルつまり銃身の内側に施条(ライフリング)された銃に特化したもので、非常に長い射程距離の実現と命中精度の飛躍的な向上をもたらした。「ミニェー弾」に関しては、渡来前に大東独自に発明されたという説もあるが、本格的導入はフランスから輸入されてからとなる。
 大東では、雷管もミニェー弾も水力紡績業や鉱山業から身を起こした神羅屋が最初に実現(=複製)に成功し、「神羅銃」として大東人同士の戦争で大量生産されることになる。従来の武器大手である剣菱屋も同種の銃を少し遅れて作り、さらに剣菱屋は自らの沽券に賭けて「剣菱後装式」と呼ばれる画期的な銃を大東南北戦争終盤に作り出す。それがプロシアに続いて世界で二番目となった、後ろから弾を込めるという今では一般的な後装式銃だった。
 「後装式銃」は、銃弾と装薬(=火薬)を一体化した金属薬莢採用以前でも従来の2倍半となる1分間に5回の射撃が可能だった。しかも姿勢を低くしたままの装填が可能という、従来型の前装式銃と比べると決定的な違いを持っていた。この銃を見て、ヨーロピアンが大きく驚いた記録が幾つも残されている。
 こうして世界から技術を取り入れつつ大東でも発展した銃は、その後世界中の戦場でも使われることになる。

 ・大砲(キャノン)

 銃に比べて規模の大きな兵器である大砲は、先進地域のヨーロッパ西部でも技術発展が停滞する事が多かった。
 発明当初からの前から弾を込める形式が主流で、砲弾も「前に向けて」撃った。
 当時の大東の大砲も同様の形式で、ヨーロッパよりも生産技術、冶金技術が少し後れていたので同様の大砲が生産されていた。そして大東では、青銅の原料となる銅、錫を産出しないので、16世紀から鉄製の大砲が使われていた。このため製鉄技術、冶金技術も必要に迫られて向上した。大東での主な用途は、戦国時代が終わると船への搭載となり、陸上での主力も沿岸砲台用となった。戦争で使われることはヨーロッパに比べて少なく、競争相手は常に散発的に戦闘を行う国々でヨーロッパ諸国ほど必然性が少なく、技術的な発展も少し遅れることとなる。
 そして世界では、19世紀に入ると砲弾の方が改良される。
 銃と同様の雷管の利用により中に火薬を詰めた砲弾が炸裂しやすくなり、戦争中に従来の丸形の砲弾から今日一般的となる形状へと急速に変化した。また信管は曳火信管という、少し遅れて作動する信管の導入によって、「あられ弾」や「ぶどう弾」と呼ばれる敵の頭の上で小さな砲弾をまき散らすタイプの砲弾(=キャニスター)も生産されるようになった。この砲弾は、塹壕などの遮蔽物の影に隠れている相手に有効なため、大東国内での戦争でも多用されることになる。

 ちなみに、砲弾の改良が可能になったのは、大砲の製造方法そのものがナポレオン戦争の頃に大きく変化した事が強く影響していた。今までは、鋳型に鉄や青銅を流し込んで筒を最初から作っていたが、大砲の側を回転させて穴を掘る形の製造方法が採用されたからだった。水力もしくは蒸気の力を用いてドリルで穴を開けると、均等に穴を作ることが出来るため火薬の無駄を削減し、連動して大砲そのものの軽量化も実現した。だからこそ軽量で機動性の高い大砲が大量生産出来るようになり、ナポレオン率いるフランス軍の原動力となった。そしてナポレオン戦争中に、ヨーロッパ全域に広まった。
 大東でもナポレオン戦争後に穴を開けるタイプの大砲の生産が行われるようになり、今までの製鉄、冶金で培った技術と合わさって優秀な大砲が生産されるようになっている。
 1860年代以後のさらなる革新的な製造方法が研究、導入されるのは、戦後の事だった。

 ・蒸気船(スチーム・シップ)

 蒸気船が登場して以後も、阿片戦争まではいわゆる「帆船」が戦闘艦艇としても有効だと考えられていた。当時の蒸気船は「外輪船」だったので、被弾に弱く艦の側面に大砲を並べる従来の形式だと不利と考えられていたからでもあった。
 そして導入以前の問題として、いわゆる帆船は進化のピークに達しつつあった。二世紀以上にわたって同じ形で、戦術も確立されていた。軍港、造船、資材の調達などのシステムとしても確立され過ぎていた。つまりは保守勢力となる運用する側、海軍が、蒸気船の導入を拒んでいたのだ。
 なお、今日も存在している練習船としての帆船のほとんどは、19世紀前半に完成した技術をもとにしている。

 大東で蒸気船が最初に注目されたのは、風を無視して航海できるという性能そのものからだった。大東洋広くに領域を持つ大東としては、海流や風に影響されずに航海できるという点は、非常に魅力があった。また、風や海流の関係で大東洋から直に入ることがほぼ不可能な北極海に入ることができるというのも、今後の国防と資源開発などから有効と考えられていた。欧米列強に対向するためにも、蒸気船の導入は肯定的に見られた。
 しかしあくまで商業利用、通信利用、航海の利便さが蒸気船に求められた事だった。遠距離の情報伝達と、軍用、戦闘用としては迅速な兵士の運搬が期待されただけで、武装を施すにしても主に自衛を目的とした規模でしかなかった。この点欧米各国も大きな違いはなく、「阿片戦争」での軍艦としてのデビューも、東インド会社の武装商船が飾っている。
 そして「阿片戦争」で威力が立証された1840年以後、蒸気船の軍艦が雨後の竹の子のように世界中で増加する。既に産業革命が始まっていた大東も例外ではなく、欧米先進国に負けない勢いで蒸気の力を用いた戦闘艦艇の整備を熱心に行った。
 特に自らの戦争中は、戦列艦級の大型艦の外輪型への大改装すら実施され、南北両軍は制海権を奪い取るべく蒸気軍艦を整備した。しかし戦争中盤以後、一つの事件によってさらなる変化が加わる。同じ事件は、同時期のヨーロッパの黒海で行われていたクリミア戦争でも見られた。
 事件とは、陸上を艦砲射撃した際に、相手側の反撃で蒸気軍艦が容易く破壊された事だった。これは雷管の登場で中に火薬を詰めた砲弾が一般的となり、陸上からの命中精度の高い砲弾が命中すると、木製の軍艦に簡単に火がついてしまう事が原因だった。
 結果以後の軍艦は、最低でも船体表面を鉄などの金属(鉄)で覆った軍艦が主流となり、今までの停滞が嘘のように完全鋼鉄製の軍艦へと急ぎ進化していく。

従来の兵器

 従来の兵器として取り上げられることが多いのが、鉄砲が登場する以前の兵器だろう。
 刀、槍、弓、鉄で鎧う甲冑などだ。大東の場合は、戦国時代に鉄砲が普及しすぎた事と、その後二世紀の間も海外で活発な活動を行った事から、日本より刀剣類が廃れていた。特に歩兵の剣術という面での衰退は大きく、慌てて日本から撃剣(のちの剣道)を導入したほどだった。日本からの導入までは、銃剣術としての面も持つ槍術が残され、大東固有の武道としてもその後発展する事になる。
 それでも、刀剣、槍などの装備は騎兵の装備として長らく使われ、19世紀半ばの大東でも現役兵器の一つとして数えられていた。しかし騎兵、刀剣騎兵、槍騎兵、鎧騎兵(=重騎兵)など数種類があった。このため大東での剣術(槍術)は馬術と一体の現役の戦闘術でもあり、武道としては発展しなかった。
 また刀剣は、武士のステイタスとしての需要があった。こうした工芸品に近い刀剣の一部は、大東よりも刀剣の象徴化が進んで技巧に凝った西日本列島からの輸入も行われていた。
 また刀剣以外の兵器では、槍は銃剣の普及と共に歩兵の装備としては廃れ、弓も伝統武芸の中でしか生きながらえられなかった。弓道は、戦国時代以後の大東で盛んな武道の一つだった。甲冑については鉄砲の普及で一気に廃れるが、ヨーロッパにならった「重騎兵」または「胸甲騎兵」となる「鎧騎」の胴鎧や、半ば大東独自の鉄兜として生きながらえる事になる。

 大東固有の兵器として有名なのは、動物兵器の剣歯猫による戦虎部隊だが、こちらは19世紀半ばにおいてもまだ現役だった。
 剣歯猫の非常に優れた知覚能力と人間をはるかに圧倒する格闘戦能力は、銃が進歩した時代でも偵察や奇襲、夜間行動全般で十分に価値があると考えられていた。
 また、大東ばかりか世界中の牧場で「牧羊猫」として剣歯猫の繁殖と普及が進んでいた事が、戦闘兵器としての供給を容易にしていた。豊水大陸、北米大陸北西部の広大な牧場にも、必ずと言っていいほど狼、ピューマ、コヨーテ、ディンゴなど駆逐する為に剣歯猫がいた。得意の集団戦で、灰色熊すら撃退した。寒さにも強いので、ユーラシア大陸北部でも活躍した。中には先祖帰りで野生化して、カンガルーを追いかけていたりもした。なお北米の方では、後に「帰還」や「凱旋」したとも言われている。
 紀元前の一時期、人の手により絶滅の危機にまで追いやられた剣歯猫は、19世紀半ばにおいては有史上で最も繁栄した大型の猫科動物だった。

 なお20世紀に入るまでの生物兵器の代表である馬は、この頃の大東で大きく変化していた。大東には、大東馬と呼ばれる北東アジア地域一般の足と首の短いやや小柄な馬が生息していた。馬の体重は500キログラムほどあって、サラブレッドなどの首や足が長くスタイルの良い馬との体重差は少なかった。
 しかし17世紀中頃に、メキシコで半野生化したスペイン馬が輸入され、以後大東各地で在来種と混ざり合って急速に繁殖し、19世紀に入る頃には一部の食用以外、乗用と馬車引きに用いる馬のほぼ全てがスペイン馬を中心とした西洋系の馬の亜種となっていた。この馬は新東馬とも呼ばれ、江戸時代の日本にも盛んに輸出されていた。

軍制

 大東の軍制は、14世紀頃に独自のものが初めて作られた。今日の「大隊(バタリオン)」に当たる編成を基本とする合理的なもので、アジア世界では突出して先進的だった。この先進性を、ヨーロッパのローマ帝国になぞらえることもある。
 その後16世紀後半をかけて行われた戦国時代でも、有効性は激しい実戦の中で立証され、さらに洗練された。この時、様々な種類の大隊を複合的に編成した「旅団(ブリゲード)」の原型である、「合師」が編成される。
 合師は、鉄砲を中心に長槍を防衛用に組み込んだ大隊を戦闘部隊の基本として、騎兵、砲兵による部隊を加えた当時としては先進的な複合編成だった。
 部隊の編成には規格化された訓練が必要であり、そのための統一された教本(マニュアル)までが作られた。これは従来の軍制でも原型が見られた事だが、兵士の訓練を規格化し、さらに訓練自体を恒常化した点は現代でこそ一般的だが、この当時としては世界的にも極めて先進的だった。訓練のマニュアル化と恒常化は、17世紀初期にオランダでも実施されて、その後ヨーロッパ全土に広まっている。
 部隊自体もテルシオより機動性があり、全ての点においてヨーロッパでのドイツ三十年戦争頃に匹敵するとされているほどだ。
 しかし当時は火縄銃だったのに銃を重視しすぎているなど欠点もあり、砲兵や騎兵の運用もまだ未熟だった。
 その後大東は大規模な陸上戦闘を経験しなかったが、ヨーロッパ勢力との小規模な衝突を繰り返すことで、海軍を中心として戦闘経験の蓄積は続いた。また知識としてヨーロッパの軍事制度が流れ込んできていたので、これを自分たちに合った形で取り入れてもいる。小型シャベルの導入は、革新的と言われた。
 しかし、本格的な陸戦がない事と自分たちの軍制に自信を持っていた為、18世紀中頃からヨーロッパで主流となった「フリードリヒ型」はあまり取り入れられなかった。ナポレオン戦争後に、ナポレオン型と言われることもある軍制(=師団制)を取り入れている。特に将校教育、兵士の訓練の強化、参謀教育と参謀団の編成は、その後の大東軍に大きな影響を与えた。
 だがこれも、大東御所のシステムとしての硬直化、軍事予算の低迷などにより完全ではなく、一部に古い思想と編成を残したまま、近代の扉が開かれた戦争へとなだれ込んでいく事になる。
 この象徴が、ナポレオン戦争でフランス軍などが散兵を導入したのに対して、大東はいまだ密集した方陣などを重視していた。これは、貴族と武士が将校から兵士までを占めていた影響で、散兵は「惰弱」と思われていたためだった。
 こうしたちぐはぐな点は、大東陸軍が大規模な陸上戦闘を直に経験しなかった影響だった。
 ただし大東伝統の戦虎兵は、もともと散兵としての要素が非常に強いため、軍全体として新たに導入する必要がないと考えられていた点も考慮しなければならないだろう。

戦争の幕開け

 大東で戦争が勃発したのは、西暦1852年6月13日と記録されている。これは最初の戦闘が記録された日であり、戦火は首都東京郊外で上がった。

 田村公爵家の別邸(冬殿)を、南軍の息のかかった白い軍装の近衛兵が取り囲んだが、当初は取り囲む以上の事はしなかった。先に銃撃した者が、実際問題として「逆賊」扱いされかねないからだ。これは御所の近衛兵と言えども例外ではなく、東京での戦闘は固く禁じられていた。田村公爵家が郊外の別邸に自らの私兵を入れたのも、東京に近衛兵以外の軍隊を入れるには厳しい審査と許可が必要だったからだ。
 そして北軍としては、新大東州の盟主である田村公爵(田村清成)以下、「のこのこ」と東京にやって来た田村家の重鎮達を事実上の軟禁状態に置くだけで十分以上の成果だと考えていた。
 この裏には、近衛兵を戦闘行為で用いて良いのは天皇だけなのだが、この時は天皇の命令が下されないままだったため、戦闘に及んだ場合、命じた者が厳重に処罰されるという事情もあった。
 そしてこの時の発端は、近代文明の夜明けらしく「一発の銃声」で始まる。

 初夏の蒸し暑いある夜、つまり6月13日の深夜に冬殿を取り囲んでいる近衛隊が、屋敷とは全く違う方向から銃撃された。銃撃は一度だけで損害も無かったため、この時近衛隊は自重した。しかし同じ夜、別方向からも銃撃が行われ、近衛隊は疑心暗鬼になってしまう。その後も銃撃はたびたび行われ、完全な狙撃により一発で兵士一命が致命傷を負った。
 既に緊張の限界に達していた近衛隊兵士は、兵士が倒れたことを合図に自らも銃撃を開始。これを冬殿からの反撃と誤解した現場指揮官が、自衛戦闘という名目で戦闘開始を命令。田村側も自衛戦闘を開始せざるをえず、一気に戦闘が拡大する。
 後は深夜の中で誤報が誤報を呼んで、夜明け前には田村家冬殿を囲む近衛隊が冬殿を総攻撃するようになる。
 この時動員された近衛兵は3個大隊の約2500名で、田村家冬殿に籠もる田村公爵の私兵は約300名と十倍近い差があった。しかも近衛兵には砲兵がいるのに対して、田村側は大砲は一つも無かった。
 周囲一キロを超える広大な屋敷は完全な包囲のもとでの砲撃が実施され、近衛隊はこれまで実戦が無かった事が悪く働いて指揮系統を乱して自ら戦闘を拡大し、田村家の別邸は近衛隊の突撃を待つまでもなく大火に包まれた。
 火災から逃げ出す者も殆どが包囲する近衛隊の銃撃で殺害され、完全に夜が明けて東京御所から戦闘停止を命令する天皇の使者が到着した頃には、田村家冬殿は完全に焼け落ち、双方合わせて数百名の死者が発生していた。
 この事件を「冬殿事件」と呼び、戦争の発端とする。

 「冬殿事件」後、すぐに戦闘が拡大したわけではなかった。
 帝国派の盟主的位置にいた田村公爵が当主や重鎮多くが冬殿で死ぬか重傷を負った為、求心力を失っていた。さらに田村家は近衛隊と戦闘に及んだので、このまま厳しい処分が下されて事件が終わる可能性もあった。
 しかし大展天皇は、近衛隊への戦闘命令どころか出撃命令すら下していなかったので激怒した。このため、誰が近衛隊を動かしたかの方が東京御所では議論となり、一事は事件を有耶無耶にする直前まできた。
 この段階で多くの犠牲者を出した田村家は、東京に残余していた一族や田村家を中心とする帝国派が集まって協議し、一つの宣言を出して東京の人々に訴えた。
 ここで帝国派は、天皇を傀儡としようとする現政権に政権担当能力はないと断罪し、「自分たちは天皇をお守りするため、現政権及びそれに巣くう旧州の門閥貴族の打破と諸外国の圧力に屈しない力強い新政権の樹立を実施する」と宣言するに至る。
 クーデター宣言とも捕れる発言はそのまま「革命宣言」と呼ばれ、「大東南北戦争」の別名を「革命戦争」と呼ぶ事にもなる。しかもこの発言によって、「帝国派」は「革命派」と名を変え、「王道派」は完全に旧守勢力、保守勢力へと追いやられる事になる。
 なおこの宣言を出したのが、一応の田村家の名を持つも庶子つまり市民の血が流れている者だったことが後に重要となる。出した帝国派は、最悪の場合に宣言に署名した人物に責任をなすりつける積もりだったと言われているが、この場合経過はあまり重要ではなかった。
 この宣言を出したのは、当時東京沖合に停泊していた田村家の軍艦「星凰丸」に滞在して不測の事態に備えていた、田村公爵家傍系当主の田村清長(爵位は準伯爵)。事件発生後、東京近辺の田村家で最も格の高い人物で、彼の先祖は大東平氏開祖の平経盛につななる名門だった。しかし彼は先代が妾に産ませた私生児で、直系の者が天然痘やコレラなどの伝染病で早くに死んだ為、一族としてはやむなく名を継いでいた。しかも先代など先に家督を継ぐ者も早くに亡くなった為、若くして当主の座を引き継いだ。このため、「運良く後を継いだ妾の子」というのが一般評だった。
 そして当然苦労は多かったが、同時に天賦の才を持つ人物としても後に知られたように、自らの才覚と努力によって道を切り開いた。この時28才で、若い頃に偶然阿片戦争の戦闘をその目で見た事もあってか、以後大東の改革派の若手リーダーの一人と見られていた。産業革命を率先したり豊水大陸の開発にも精力的に取り組むなど、既に多くの功績も挙げていた。
 そして当然だが、領地を中心として庶民からの人気が高かった。

 「冬殿事件」とその後の「革命宣言」によって、大東国内は騒然となる。誰がどちらにつくべきかで戸惑い、その中で実質的に最初に動き始めたのは、東京兵部大学校の一部学生達だった。彼らは主に庶民と下級武士で、そして新大東州など北部出身の者が多かった。
 東京兵部大学は、新時代の軍制、兵器の扱いを学ぶために1843年に従来の教練組織を再編成して作られた近代的な将校養成学校であり、この時は設立からまだ10年を経ていなかった。またこの学校は、学術試験で入学を決める枠が一定数有るため、貴族や武士以外の入学も制限付きながら許されていた。
 その民衆や下級武士達は、庶子出身の人物が革新的な宣言を行ったという事に時代の変化を感じ、また自らの出身地の動きにいち早く従ったのだった。
 そして彼らが動き始めると、大規模な戦乱を感じていた人々が、一斉にそれぞれの陣営に向けて動き始めた。人の流れは軍の将校に限らず、貴族、武士、官僚、商人、多くの者が東京から故郷へと帰っていった。
 全ては、大東の「これから」を決するためだ。
 以後革命派を「北軍」、保守派を「南軍」と呼ぶ。