■■インテグレイション Japan(2)


■幕末日本

 西日本列島の「幕末」は、1853年6月の英国艦隊来訪が始まりで、1860年3月の「桜田門外の変」によって本格化したとされる事が多い。外国艦隊の来航で天下太平が破られて江戸幕府の治世に疑問が持たれ、大老井伊直弼の暗殺で江戸幕府の権威は地に墜ち、かわって古来から続く日本最高権威の天皇を擁する朝廷の権威がクローズアップされたからだ。

 開国後の日本(江戸幕府)は、ヨーロッパから高値で手間をかけるよりも、近在の大東から技術や知識、各種加工製品を全面的に輸入する向きを強めた。
 その頃大東は、日本より数歩先を進む革新的な発展期だった。当然だが、江戸幕府よりも大東帝国の方が、ヨーロッパから自分たちに足りない技術や知識を学ぶ傾向が強く、戦災復興が重なった国内での大規模な鉄道敷設ブームに乗る形で鉄鋼、機械産業などの重工業が世界最大規模で急速に拡大していた(=第二次産業革命への移行期)。こういう点で、大東はまだまだ開拓国家としての側面が強いと言われることが多い。
 そして大東が戦災復興と新国家建設の初期の混乱から安定と拡大へと進むと、近在の日本への進出が一気に拡大した。そして日本国内では、外国人排斥の「攘夷」と共に大東を警戒する動きも出るようになる。もちろんだが、日本人と大東人の違いが分からないなどではない。大東も日本の「夷」、つまり「異国」の一つと考えられ、しかも大東は日本に対する活動が活発だったからだ。
 だが、大東に対する日本人の行動には大きなジレンマがあった。
 「尊皇攘夷運動」の象徴にして旗頭である孝明天皇が、異人(=白人)恐怖症から「同胞」である大東を頼る傾向が非常に強かったからだ。
 孝明天皇の考えでは、大東皇帝は天皇家の子孫であり、大東の皇族や貴族の中には最初の征夷大将軍である坂上田村麻呂の子孫、平家直系の子孫までいたという点で、江戸幕府よりも信頼が置けると考えていた節が強い。
 だが、孝明天皇の思ったようには、日本と大東の関係は進まなかった。続々と流れ込む大東の工業製品は、日本人に反発をもたらす理由としては十分だった。大東の製品が溢れると言うことは、日本国内の商品の売れ行きが落ちて外貨が流出するから当然だった。加えて、絹などの日本製品の輸出によって国内生産品の価格までが暴騰したし、大東の貿易商人が欧州諸国との貿易も仲介して、日本人が得る筈の利益を得ていた。
 また、江戸幕府と大東の間で鉄道敷設の約束も行われたが、敷設には大東がかなりの金額を借款する事になっており、借款と他国の手による鉄道敷設とは、ヨーロッパが世界中で使っている植民地化の典型的手段だった。
 このため井伊直弼は、大老への就任後に大東との契約を自国資本(日本資本)の形に変更する交渉を成功させる。しかし交換条件として、大東商人(=企業)の日本進出の門戸を広げる約束を交わさなければならなかった。どちらにせよ日本人の急進派の不満を高まらせる事柄であり、井伊直弼の出来ることには限界があった。その後も井伊直弼は、日本の革新的発展を促すべく近代化を進めるも強引な政策を続けたため、日本国内の急進的な尊皇攘夷派に暗殺されることになった。そして江戸幕府は、最も有力な政治家を失うことで政策能力を失い、権威までも失墜する事になる。

 一方、新政府成立後の大東帝国内では、250年近く続くいた影響で既に組織疲弊が深刻化している江戸幕府に対して見限る雰囲気が強かった。さらには、大東国内でのナショナリズムの昂揚と歴史的劣等感の払拭のために、大東の側からの「日本統一」が強く考えられるようにもなっていた。こうした大東の膨張傾向は、清帝国に対する外交的成功も追い風となっており、大東人にとって「自らによる日本統一」は日本に対する劣等感の完全な払拭と自らのナショナリズムを満たす最大のテーマだった。
 しかし、大東国内での戦乱と大東再統一後の内政努力、諸外国に対する外交の為、日本への干渉に大きな力を割く事が難しかった。これが大東による日本への動きを緩やかなものとしていた。
 そうした中で日本での井伊直弼の暗殺は、大東の政治的動きに変化を促す大きな切っ掛けとなった。
 江戸幕府をなくして、日本の上だけをすげ替えて「併合」や「統一」ではなく「統合」という形を目指そうという動きが出てきたのだ。
 大東は、自らの新たな政策の早期実現のため、「自らの皇帝も皇族(天皇家)の一つであり、日本の統治権がある」という説を日本に流布する事に務めるようになった。また、欧州諸国を利用しようとしている幕府及び反幕勢力の行動が危険すぎ、「日本民族」に大きな危機をもたらすとも警告した。その上で、今こそ全ての「日本民族」は諸外国の圧力に立ち向かうため、「一つの帝」のもとで再び統合しなければいけないと煽った。公家、庶民の人気を得るための貿易という形を取ったばらまきも実施されるようになり、阻止しようとする幕府との対立も強まった。
 そして徐々に、日本の天皇、皇族、公家への働きかけを強めていった。天皇の政治利用は、日本人の心理に最も効果的だったからだ。

 大東の宣伝戦略と皇族に対する政治工作は年々効果を発揮し、日本国内には外見も言葉も同じな大東人が数多く闊歩するようになる。そして彼らが、「日本と大東」が一つになること、この当時に初めて出た「東西統合」、「日東統合」という新鮮な言葉を、大量の大東金貨を(料亭などで)ばらまきながら宣伝した。
 また、海外貿易港として急速に発展していた香取湾の横浜には、外国人居留地とは別に大東人居留地も建設された。
 当時日本は、ヨーロッパでカイコが病気で全滅した影響で、ヨーロッパに対して生糸や絹製品を輸出して、様々な近代的文物を手に入れていた。しかし最大の取引相手は江戸時代を通じて大東であり、開国後も変化はなかった。良質な金鉱を多数持つ大東からもたらされる金貨は、江戸時代中期以後は江戸幕府にとってもある意味生命線に近かったからだ。大東の貨幣が幕末に急速に広まったように言われることがあるが、大東の「金」自体はあしかけ200年以上の歳月をかけて西日本列島の江戸幕府に染み渡っていたのだ。長年の移民以外にも、こういう点も西日本が大東への拒否反応をあまり示さなかった遠因になっている。

 そして水面下では、「皇族の合体」による日本統合への布石を打っていった。この結果、1862年に大東に対する神戸の開港を受け入れさせる事に成功し、翌年諸外国が来る前に確固たる拠点を早期に築いた。
 そうした上で、天皇のいる京の都への最短ルートを確保し、次の一手を打つ。これが大東皇帝と日本の天皇の会見だ。しかも大東側はこれを国家行事とはせずに、あくまで「皇族内」の「私事」とした。しかも分家が本家に挨拶に行くと見せかける。
 これを孝明天皇が受け入れたため、日本側の視点から見ると大東皇帝による天皇への拝謁が行われる事になる。日本から見れば、源平合戦の頃以来の航続同士の接触で、しかも日本側が優位に立つ好機と考えられた。しかし大東側の文献を見ると、対等で、私事で、公式行事ではなかった。公式文書にも記されていた。 
 江戸幕府はやはり反対したが、皇族内の事として、源平合戦の頃の膨大な資料まで添えられては、当時の江戸幕府に反対を押し切る力はなかった。
 そして大東帝国は短期間で話しをまとめあげ、途中まで大艦隊が護衛した大東皇帝の艦隊が日本を訪問する。
 戦闘艦艇の多くは人目に付かないように石山湾の半ばで離れて待機し、煌びやかな大船団が人々の度肝を抜き、それに乗ってきた馬車の大行列が神戸の港から大坂を経由して京の都へと練り歩いた。その様子は多くの日本人に目撃され、それまで実体があまり知られることの無かった大東という存在を強く印象づけた。中継地の大坂は商業と物流の中心(※最大で日本の七割近くが集中していた)で、京は大都市で商業と伝統工業の中心だったため、話しは民間中心にあっという間に日本中に広まった。
 しかも大東皇帝の孝明天皇への訪問は、その後年中行事のように行われるようになる。そして1863年には、大東皇族と日本天皇家との間に婚姻を行うことも決められ、江戸幕府が画策していた「公武合体」による日本国内での権威向上と政権安定という目論見が吹き飛んでしまう。
 多くの日本人も、時代の変化と新たな権力の出現を強く意識するようになった。気の早い者、目先の利く者は、大東との関係を強める動きを進めるようになった。

 結果、江戸幕府は大東への警戒感をさらに強めるが、逆に日本国内では「東西統合」の言葉は一層強まるようになる。
 民衆の間にも大東を同じ「日本人」と見る向きが今まで以上に強まり、「大東皇帝」という名の皇族に連なる「新しい将軍」が強い国家を作って安定をもたらしてくれるのなら、という期待までもが強まるようになる。この中で、「平家物語」が果たした役割は小さくないと言われている。おかげで、平家の一部が大東に落ち延びて命脈を保っている事を、庶民でも多くの者が知っていたからだ。
 しかも大東皇帝の存在を江戸幕府程度にまで視点を落として考えれば、当時の日本人の多くにとって精神的ハードルは極端に高くはなかった。そのうえ大東には、過去2世紀の間に多数の日本人移民が移住している為、親近感は過去に例がないほど強まっていた。農民の間には、食い扶持に困れば大東に行けばいいという風潮さえ育っていたほどだから、大東と一つになれば旅だった人々やその子孫に会えるようになると考えられるようにもなった。
 そして西日本国内での情勢を、反幕勢力(初期は長州藩が中心)が利用した。大東の事はともかく、旧態依然とした江戸幕府を打倒して革新的な新政府を作る以外に、日本が生き残る道が存在しないと考えていたからだ。しかも反幕勢力の一部は、早期から大東との統合も止むなしと考えていた。この急先鋒の一人が、桂小五郎、後の木戸孝允だった。木戸は持ち前の頭の回転の早さから、大東統合以外は西日本列島に大きな破滅をもたらすと結論していた。
 一方、江戸幕府は大東への警戒感をいっそう強めたが、幕府自体の組織疲弊、武士勢力の弱体化、圧倒的な国力差と数百キロ隣という極端に近い距離、などの問題からもはや処置無しの有様だった。
 大東を今から追い出しても、日本の民衆から幕府が突き上げを喰らう可能性が高いし、大東が怒り狂って武力に訴えて幕府を倒す可能性も考えられた。そして大東の巨大な軍事力に抗う統べを、江戸幕府は全く持ち合わせていなかった。
 それ以前の問題として、やはり江戸幕府自身がどうにもならない段階に至っていた。


■日本統合

 その後西日本列島では、天皇のいる京の都を主な部隊とした政争とテロ、加えて小規模な戦闘が何度も起きるが、その都度徳川幕府の権威低下は続いた。大東が警戒し、さらに庇っているため、諸外国による日本への干渉は最小限で済んでいたが、その事が江戸幕府の民心離反をさらに強めた。「征夷」できない幕府に用はないと言うことだ。
 だが一方では、新政府は必要だが日本は日本、大東は大東でそれぞれ自立すべきだという考え動いている人々もいた。彼らによる大東人に対するテロも頻発し、中には大東に密航までして事件を起こす者まで出た。
 この論者たちを、「東西統合」へと収斂させたネゴシエーターの一人が、一介の地方下級武士に過ぎなかった坂本龍馬だった。
 彼は無血による日本の革新、いわゆる「日本の夜明け」を求める急進派で、そのための手段として「東西統合」と「日本民族の統合」を求めた。
 そして日本国内では「薩長同盟」という幕府打倒の体制を作り上げ、大東にも何度も渡って交渉を行った。
 彼が「日本、大東分立派」を「東西統合」に向けさせた手法こそが、「連邦国家」構想だった。これを坂本は、欧米の国家の有り様から着想を得たとされる。
 極めて単純に説明すれば、今日の形通りに日本皇国、大東帝国それぞれに国内政府を作り、その上に「統合政府」を置くという案になる。しかもこの案だと、大東が保有する世界各地の植民地が自治を持つ際にも利用できるという利点があった。
 さらに大東にとっては、西日本を直接併合なり合併した際に生じる様々な面倒を最小限に出来るし、日本側の革命勢力にとっては自分たちが少なくとも西日本列島を統治できる利点があった。さらに日本の革命勢力にとっては、国内問題より難しい海外との交渉や問題、そして戦争は、少なくとも当面は大東に押しつけることが出来るという思惑もあった。
 ここでの最大の問題は、二つの天皇家をどういう形で「東西統合」するか、だった。国家主権の問題でどちらが上に立つのかと言えば、国力の差から大東皇帝が国家元首になるのは疑いなかった。だからこそ大東は、日本人に対して大東皇帝が「新しい将軍」だという認識を与えようとした。直接的な事を好む大東人は、形だけの「権威」ではなく実際の「権力」があれば良かったのだ。
 しかしこれでは、近代国家として二重権威になる可能性もあった。日本の天皇家が大東皇帝の権威を認め、その大東皇帝が「君臨すれど統治せず」を行い、大東の中央政府が日本民族社会全てを統治する事になるからだ。
 そこで考え出されたのが、皇帝家と皇族を一つの枠組みの中に居れば、国家としては大東皇帝が元首となるが、皇族の中では天皇が皇帝に権威を与える形となる。つまり日本民族内では日本列島の天皇家が名目上での元首になるが、対外的には大東皇帝が新たな日本民族国家の元首となるのだ。

 この日本人の間でしか通用しない仕掛けに、皇族、皇帝家双方、朝廷、大東政府も乗ることを決め、後はどうやってソフトランディングで邪魔な江戸幕府を解体するかという事になる。
 一つの手段は、江戸幕府に「大政奉還」という形で将軍職、つまり政治の実権を朝廷に返上させ、現状での日本政府を解体する事。しかし、幕府に一定の名誉と実権が残る可能性があった。もう一つは、天皇の側から「王政復古の大号令」を行い、強制的に江戸幕府の権威を奪ってしまう事。こちらの場合は、幕府は完全消滅する以外の選択肢は無かったが、幕府の強い反発が予測された。そしてどちらの場合にせよ、同時に皇族と皇帝家の姻戚関係を結び、「東西朝の統合」へと持っていくというのが骨子だった。
 そして色々と議論され、様々な勢力による駆け引きや陰謀が行われたが、大筋は上記の線で進むことになる。

 日本皇国、大東帝国の二つの国を作り、その上に中央政府としての「日本政府」を作り連合国家とする。しかし二つの天皇家を再び一つにした為、「連合」ではなく「統合」となる。このため国号は「日本帝国」ながら、通称では「統合日本(インテグレイション・ジャパン)」と呼ばれる。特に19世紀の日本人は、日本帝国や日本政府という言葉を使わずに、統合日本や統合政府と言う事が多い。また「統一」ではなく「統合」なのは、日本と大東が一つになったのではなく、合わさったという考えが強かったことを示している。
 新たな国は、権威君主による議会制民主主義国家を目指し、帝国主義の時代へと船出していく事になる。

 1867年10月、徳川慶喜が率いるようになっていた江戸幕府が、起死回生の「大政奉還」を自ら行うってイニシアチブを得ようとした。だが、それを帳消しにする形で反幕勢力は11月に「王政復古の大号令」を実施し、二世紀半に渡り西日本列島を平和に統治してきた江戸幕府は戦乱も革命も経ずに消滅し、新国家へと移行する。
 この間戦争が起きる危険性もあったが、石山湾、香取湾に浮かぶ大東の大艦隊と神戸に上陸していた海兵隊の存在が、近畿地方中枢部に集まっていた倒幕軍、幕府軍の戦闘を抑止した。

 そして京で成立を宣言した倒幕軍を核とした新日本政府は、同席した大東代表(外務卿)と共に大東政府との「統合」を宣言。大東政府は、数年かけて事前に準備を進めていた、国内政府と全ての日本人の上位に位置する「統合政府」という器を用意して、全ての日本人がここに集う事になる。
 新国家名は、日本民族による国家という意味を込めた「日本帝国」。東アジア世界からの脱却も示すため、北東アジアでの独立国を示す「大」の文字は付けられなかった。しかし二つの天皇家を再び一つにした為、「連合」ではなく「統合」となる。このため国号は「日本帝国(エンパイア・オブ・ジャパン)」ながら、通称では「統合日本(インテグレイション・ジャパン)」と呼ばれる。特に19世紀の日本人は日本帝国という言葉を使わずに、統合日本と言う事が多かった。
 新たな国は、「日本皇国」、「大東帝国」と大東が有する植民地を領土とする一種の連邦国家とされ、中央政府は現在の大東帝国政府を母体として再編成された。
 旧大東帝国と日本皇国以外では、西日本が事実上支配していた琉球王朝が最初から加わり、少し遅れて大東の影響が極めて強かった羽合王国が加わることになる。その後もブルネイなどの植民地が自治を得る際には、独立より先にまずは日本帝国の連邦の一員となる事が多かった。

■ザ・デイ・アフター

 「統合日本」となって後の日本民族は、その後典型的な帝国主義路線を突き進むようになる。そうしなければ、ヨーロッパ諸国との競争に勝ち残れず、さらには国家として生き残ることができないからだ。
 しかし、大東が新国家となる時に自らの領域の確定を実施していたので、大きな障害は殆ど無かった。産業革命と新国家建設に向けて必要なものも一通り揃っていた。
 ほとんどの場合、統合日本は「持てる国家」だった。
 新国家成立時が総領域が約2550万平方キロメートルで、さらに大東洋のほとんどの領域の支配権も有していた。そして世界中探してもイギリスに次ぐ領域を持つ事、ヨーロッパ列強から最も遠い場所に存在する事、そして国内に巨大な人口とそれを活かすだけの技術と軍事力を持つ事、巨大な国内市場、領域内の市場を持つ事、そして何より「一つの民族」、「一つの言語」によって形成された巨大国家および「一つの地域」、そして「一つの文明圏」だという事で、世界でもトップクラスの列強としての道を突き進むことになる。

 さらに19世紀の間には、ヨーロッパ列強と共にチャイナ地域の蚕食に勤しんで、自らの領域に隣接する満州地域の実質的な切り離しと勢力化、さらに漢族の排除に成功した。これで満州は、増えすぎた日本人の開拓地の一つとなった。
 ロシアとの内陸部(シベリア)でのどこか前時代的な戦争では、白人国家に勝利するという金字塔を立て、さらにユーラシア北東部の支配権を確実なものとした。北アメリカでも開発と移民に力を入れ、二つに分裂したアメリカとのレースを優位に運んだ。
 北軍(アメリカ合衆国)は、自らの産業発展のために新たな開拓地や植民地を欲しがったが、大東はブリテン、南軍(アメリカ連合国)と外交的に連携、協力することで封じ込めに成功した。
 開拓地、資源遅滞として非常に有力な南の新大陸(豊水大陸)でも、ブリテンなど他国に付け入れさせなかった。

 その後、19世紀のうちにヨーロッパ列強の一角であるロシア帝国との、本格的な戦争も実施してこれに勝利した。そしてヨーロッパを震源とする「グレート・ウォー」で、今までは潜在的でしかなかったものが巨大な存在として世界的に浮上する。ようやくヨーロッパ列強は日本帝国の危険性に気付いたが、もはや手遅れだった。戦争が終わると、日本帝国は名実共に世界最大の領土と国力、経済力、そして軍事力を持つ国家となっていた。
 そして20世紀半ばに起きた「ワールド・ウォー・II」では、世界最強の国家の一つとして活躍して勝利を飾り、今日に至る繁栄の基礎となった。
 第二次世界大戦後は、豊水大陸や北米、東南アジア、そして南大東洋地域が相次いで独立していったが、これも結果として世界規模での日本人世界を強めることになった。環大東洋に広がる巨大な「日本連合」を形成したからだ。
 こうした隆盛を実現できたのは、何を差し置いても近代化に乗り遅れなかったからだが、「日本民族」、「日本文明圏」を一つに統合できたという要素は見逃せないだろう。
 21世紀初頭で3億人を越える本国人口、環大東洋全域で4億人に達する日本語圏の形成は、今日の統合日本の繁栄には欠かせない要素だ。そして一つの民族が一つの文明圏を形成した事例が、チャイナとロシアぐらいしかない事を考えると、非常に幸運だったと言えるだろう。

 了

fig.01 近代の東西日本列島