■ファイト、国内国家たち(5)

 独裁者の消えた日本、外敵の去った大東。
 それぞれには、戦国時代を締めくくるための最後の戦いと次の時代への扉が待っていた。
 

■戦国時代の終焉(大東の場合)

■最後の戦い

 「第三次日本・大東戦争」が終わって日本人が立ち去った後、大東には強制的に中断されたままの戦国時代が残されていた。

 南北両陣営も基本的に大きな動きはなく、俗世化し武装した宗教勢力も二つに分かれて対立していた。
 しかし情勢は、北軍が大いに優位にあった。これまでの戦いと日本軍の侵略によって、旧大東州は既に大きく疲弊していた。対して北軍中核を占める田村氏は、新大東州を拠点としているため疲弊はあまり見られなかった。新大東州に駒城などの中立勢力が多いのは北軍にとっては気になる点だったが、大東の実権を握れば自然と付いてくるという目算も同時にあった。つまり北軍にとっては、既に疲弊しきっている南軍残余を降伏させてしまえば、自分たちを中心として大東の再統一が叶うという事になる。

 日本軍が去った頃、大東の大諸侯は10数年前からそれなりに変化していた。旧皇領は混沌した状態に戻り、一事はそこを殆ど占めた馬名氏はほとんど姿を消していた。馬名行儀の子孫は辛うじて伯爵の地位は保っていたが、英雄が去って後はもはや大諸侯とは言えなかった。当時の南軍の中心は、日本との戦いでも大きな役割を果たしたとされる、多々野、保科を中心とする旧大東中原に勢力を持つ名門中の名門貴族だった。
 一度は没落した坂上伯は、馬名没落に比例してかなりの勢力を取り戻していたが、彼らは馬名などを憎むため北軍に与していた。旧高埜領の多くも北軍諸将の領土となっているため、北軍と南軍の勢力差は、単純に石高(人口)で言うと、「北:南=2:1」にまで開いていた。当初南軍優勢だった経済格差も、東京大火と大坂の裏切りと没落によって大きく変わり、南都を抱える茶茂呂氏の隆盛もあって完全北軍優位となっていた。
 ただし二つの勢力にそれぞれ付いた神道は別で、北軍側に与する主神道は既に青息吐息で、日本撃退により功績の大きかった
照神道が旧大東州で大きな支持を得ていた。
 また一方で、日本の侵略であまり大きな役割を果たさなかった北軍に対して、旧大東州の住民の目は厳しかった。
 北の諸侯での例外は駒城だが、駒城伯は日本が撃退されると中立状態に戻ってしまい、北軍の再三再四の参戦要請を巧みに断っていた。

 しかし日本人が完全にさって数ヶ月が経過した1599年3月、茶茂呂系貴族の黒姫氏が同人種の茶茂呂氏などを頼りついに北軍への寝返りを実施。これで大東の最後の戦いが動き始める。
 北軍は再び広大な仙頭台地へと大軍を進め、主神道信徒には戦後の覇権が欲しければ自力で
照神道を殲滅するように伝え、自らは南軍主力の撃滅へと向かった。南部でも黒姫氏を先鋒とした北軍の茶茂呂連合軍が進撃を開始し、南軍の最有力武将である多々野氏の動きを封じた。
 こうなっては、保科伯爵を中心に利波伯爵、片脇勲爵、それと馬名伯爵の残骸ぐらいしかまともな諸侯のいない南軍の不利は明らかだった。旧皇領や中小の諸侯を全て合わせても400万石程度で、対する北軍は総力を傾けた場合倍以上の国力を持っていた。実際仙頭台地に進軍した互いの軍勢は、南軍14万に対して北軍は30万以上あった。しかも北軍は騎兵も戦虎も豊富で、そして大砲や鉄砲も十分に装備していた。経済的優位もあるため、補給に関しても北軍が優勢だった。

 1599年6月、「緑ヶ原会戦」。
 防戦に徹して相手の疲弊と後退を狙う南軍に対して、北軍は相手をじっくり攻めつつ兵力と機動力の優位を使い相手を着実に包囲していった。さらに一日で戦闘が終わらないと、夕刻以後から得意の戦虎による夜襲を敵戦線後方各所で実施。
 翌日に再開された戦闘で、昼近くに南軍戦線は崩壊。砲兵と殿が奮闘したおかげで全面崩壊は避けられたが、戦闘の結果利波氏の領地が戦略的孤立を強いられ、馬名領深くに北軍が入り込んだため、以後南軍の勢力は「決戦」ができないほど疲弊する。

 一方その頃、二つの神道勢力の決戦も行われていた。北軍の侵攻に呼応して根こそぎ動員で集めた10万の習合兵を進める主神道軍は、三峰山地北方平原で迎撃に現れた照神道軍と激突。双方合わせて25万の習合兵が、互いに「巫女姫」の再来を願いつつ血みどろの戦いを行うという、ある意味救いようのない戦闘が数日間に渡って続いた。
 そして順当に数で押し切った照神道軍が勝利し、戦闘に続く凄惨な追撃戦の結果、主神道は主な神道習合兵と彼らが持つ装備、つまり軍事力をほとんど失ってしまう。

 照神道の勝利は、本来なら南軍の希望の星だった。だが北軍と照神道の方が一枚上手で、既に双方ともに新しい同盟相手との握手を済ませていた。
 北軍は、権力者は神道を政治に利用してはならないという考え方を今更持ち出して、その後も続いた照神道軍の二社臨界大社への進撃を無視した。自分たちは東京への進軍、南軍各諸侯の本拠地への進軍を優先した。

 そして首都東京が北軍に対して城壁の門扉を友好的に開く事で、大東の戦国時代は実質的に終焉した。
 終焉に際して、日本のような双方の死命を決する戦闘や、旧勢力の籠もった城の落城などという劇的な光景は見られなかった。
 終焉の光景は、二社臨界大社とその周辺で行われた虐殺と暴力、そして北軍を花束と花吹雪で歓迎する東京の人々だった。

■戦乱の幕引き

 7月末からは、北軍の東京入城と南軍諸侯の降伏の為の会議が開催された。
 会議の中心は北軍の盟主である田村公爵家だったが、南北の争いには終始中立を貫いた駒城などの新州の中立諸侯の意見を無視することもできなかった。このため当初こそ南軍に対する話しが中心だったが、中盤以後は大東の今後を決めるための会議となった。
 この会議で、戦乱初期を主導した馬名氏の断絶が決まるなど、戦国を生き残った諸侯の新たな配置が確定された。
 だが戦国以前との違いも大きかった。諸侯や人種の面では、戦乱全般において茶茂呂人、
古大東人、アイヌ人が活躍したため民族としての復権がある程度進む事になる。平行して大東人だけの集権的な政治を続けるわけにもいかないし、今までの政治の欠点も明らかになったため多くの政治改革が実施された。
 しかし行われた改革の多くは、皮肉にも馬名行義が途中まで行っていた事がほとんどだった。この点は日本の織田信長と似通っていた。
 そうして再編成された大東国では、多くの民族、下層民衆の意見を汲む制度が整えられていく土壌が形成される。
 大東の君主制度全体も近世的な中央集権体制へと進み、戦乱の間に各大貴族の間で培われた洗練された官僚制度、軍制が導入され、近世的国家に昇華していった。しかし飛び抜けた絶対者や君主が現れなかったため絶対王政には一度も至らず、戦乱を実質的に終息させた当時の田村公爵も皇族の婚姻こそするも自らは皇族にはならず、天皇の権威は以前よりもむしろ低下した。

 また、大東再統一後は、日本に対する復讐戦を望む声が高まるも、政府は国内の安定化と平和状態への移行を重視した。戦乱の時代から安定した時代への移行には莫大な資金と努力が必要だという事を新時代の為政者達の多くが理解していたからだった。
 安定した時代が到来すると、商工業のさらなる発展に平行して首都東京、旧都大坂、その他大東の主要な都市には、政府の権威付けを目的として「見せる」ための豪華な城塞や宮殿が造営されるようになる。諸侯もこれにならい、今まで大東に無かった豪奢な城塞建築、宮殿建築が各地に建設される。そうした建造物は、文化的にはまだ大東より進んでいた日本からの影響も強く、日本の城郭や天守閣を模した建物も造られた。
 ただし大東の建造物は、神社ですら古くから焼き煉瓦を多用していたので日本とは少し趣が異なっていた。また、平坦な地形が多いせいか、遠くからでもよく見える高層建築を作りたがる傾向が昔から強かった。
 しかし平和な時代が到来したからこそ、大東の文化の一側面である景観の変化が起きていったと言えるだろう。
 そしてそうした姿は、近世へと順当に時代を進んだ大東の次のステージに向けての準備運動でもあった。

 いっぽう主神道が滅亡して旧領は照神道領に編入されたが、照神道の栄光は長くは続かなかった。主敵を失った照神道の主に旧主神道領での政治は善政にはほど遠く、以前よりも重い税、軍役、賦役が待っていた。この話しは瞬く間に大東中に広まり、信徒の大部分が集中する旧大東島でも、旧来の”自然神道”に回帰する者が増えだした。この回帰現象は戦国の世に民衆が飽きていた大きな証拠で、戦乱の終息と共に照神道は急速に廃れていく事となる。それでも一部の急進派が武力に訴えようとしたりテロを実施するも、それがますます照神道から民心をひき離す事になる。最終的には、天皇家が命じたり諸侯が討伐することもなく、ほぼ自然消滅した。彼らが残したのは、戦いの記録と現在も世界遺産として伝えられている巨大な神社建築だけだった。

■戦国時代の終焉(日本の場合)

 「第三次日本・大東戦争」は、日本では金銭と物資、そして人命の散財でしかなかった。得られたのは、大東人からのさらなる恨みと憎しみだけと言われた。
 しかも戦争に参加した全ての武将が疲弊した。主に関東、東海、奥州の武将で、また日本中の水軍武将も疲弊した。そうした中で比較的軽傷で済んでいたの徳川氏だった。徳川家康は持ち前の外交力を用いて豊臣秀吉と交渉して、象徴的な意味合いで小数の兵力を派遣した他は将兵の世話をするという役割に終始し、その多くも結果的には日本中に負担させる事で多くのマイナスを切り抜けていた。大東から亡命した大坂商人を主に擁護したのも徳川家康であり、彼は大坂の豪商達が持ち出した資金、経営力、海外交易路などを手に入れていた。
 そうして豊臣秀吉没後の徳川家康は、自らの大勢力と持ち前の政治力を駆使して一気に次の覇権を狙う。
 しかし大東征伐に積極的に兵を派遣しなかった事は日本の政治上ではマイナス要因であり、この点が長らく徳川家康の足を引っ張った。
 それでも1600年秋の「関ヶ原の合戦」で勝利すると、その後1603年の征夷大将軍就任と江戸幕府開府、1615年の豊臣家の滅亡と順調に自らを中心とする新たな国家形成を実現する。

 なお、豊臣家を含めて戦国時代に落ちぶれた大名など有力者の幾人かは大東に亡命したと言われることもあるが、殆どの場合は噂だけだった。日本に居られないというだけで日本人を受け入れるほど、この頃の大東人はお人好しではなかった。


■日本の鎖国

 「第三次日本・大東戦争」後の日本と大東の関係は一事完全に断絶した。数年間は密貿易すら行われなかった。
 この状態を、江戸幕府を開いた徳川家康は早期に改善しようと試みた。日本側は、戦乱の終わった大東が怒り狂って復讐に来ることを何よりも恐れていたからだ。日本側としては、当面は国家公認の貿易を行うことを画策した。
 国家公認と言うことは、日本側が暗に大東を独立国として認める事を意味している。伝統的に大東天皇を認めなかった日本としては画期的な事だった。日本国内で、大東公認の実現に向けて大きく動かした徳川家康の政治手腕は非常に高く評価できるだろう。
 しかし一方では、国家として認めてるので恨んで攻めてこず、尚かつ国交と貿易を開こうというのは虫のいい話しだった。

 対する大東側は、侵略戦争ばかり仕掛けてくる西の日本人達への不信が拭えなかった。
 このため家康は、自分たちの側から非武装の使節を送って人質を出して、その上で大東側の国家使節を日本に招待した。これを契機として始まった日本と大東の交渉では、大東側はあくまで大東天皇を自らの君主としたが、日本に対しては将軍家のみを日本という国家の代表とみなした。日本側もこれを暗に受け入れ、両者12世紀末より分かれたままの二つの天皇家の関係については触れることが無かった。
 大東側としては、取りあえず日本に自らを国家と認めさせた事を大きな政治的前進と考えていた。日本側は、とにもかくにも大東が復讐心をたぎらせて侵略してこない事に安堵した。
 その後1620年代に入ると、日本と大東双方に両者の間に役所と商館を設けることを取り決める。この結果、大東では日本列島主要部とのつながりが強かった大坂が窓口とされ、大東に復讐されることを内心恐れる日本側は、最初は八丈島か伊豆の大島を指定したが、大東が強い不快感を示して再度交渉を行った末に香取湾口の浦賀と定められた。さらに首都江戸のある香取湾には、戦国時代末期から日本でも自力で作られるようになった沢山の大砲を搭載した大型の直船(ガレオン艦)を中心とする艦隊も常に配備されるようになる。長崎には形式的にしか配備されなかったものが江戸近辺にだけ配備されている所に、日本の内心を見ることができる。
 しかも日本側がしかけた大東に対する戦争の心理的影響は、その後の江戸幕府の政策に大きな影を投げかけたと言われる。
 日本史上では有名な「鎖国政策」だ。

 一般的に江戸幕府の鎖国は、キリスト教の布教と影響、スペインの海外膨張、オランダ(ネーデルランド)の商人達の安易な陰謀などが強く影響していると言われる。江戸幕府がヨーロッパの国で唯一オランダとの貿易を維持したからだ。
 なお日本の鎖国は、基本的には限定的鎖国だった。オランダ(ネーデルランド)、朝鮮、琉球、そして大東。さらに少し後に清帝国との間にも総量制限付きの貿易関係を結び、主に長崎の「出島」に限った貿易を行った。大東だけは例外とされたが、それは大東の位置と日本と大東の微妙な関係を考えれば致し方ないだろう。
 また同じ日本語を話す国同士である大東に対しては、さらに他国との違いがあった。基本的に出島以外に外国人が来てはいけないのだが、大東だけは「同じ日本人が住む国」という建前で、人の往来が認められた唯一の国とされたのだ。何しろ同じ日本語を話すし外見の見分けも付けにくいので、日本人と大東人を見分けるのが難しかった。
 だがそれでも大きな制約は存在した。
 大東人には江戸幕府の出した許可証が必要だったし、基本的に案内役という建前の監視が付けられた。また日本の法度を守ることも受け入れなくてはならなかった。
 対する日本人の方は、日本から大東に渡るのは幕府の許可さえあればよかった。大東についても、大東政府からの許可を受ければそれだけで自由に行動が許された。しかし一度大東に渡った者には、日本への帰国が禁じられていた。つまり一方通行の移民が認められていたのだ。
 これはまだまだ広大で未開発の土地を持つ大東側が持ちかけた話であり、日本側はいずれ遠くない時期に自分たちの領域での人口飽和が到来することを予測して、大東側の申し出を受け入れた。
 この日本から大東への事実上の移民は18世紀以後活発となり、日本からの人の流れが大東の人口拡大と土地開発を助長していく事になる。また正規ルートを用いない大東渡航も行われ、特に鎖国を実施していない大東からさらに別の国や地域を目指すという日本人も中にはいた。また、何らかの理由で日本から出たい者、主に冒険商人、浪人、食い詰め者、犯罪者も正規、不正機を問わず大東へと旅立った。

 なお、日本では1620年代からは、基本的に幕府の許可なしに竜骨を据えた大型船の建造が禁止されている。鎖国政策を実施するためには必要な措置で、日本はせっかく発展しつつあった技術を捨てないまでも停滞させることを自ら決意する。これは日本国内での武器所持の制限と相まって、日本独自の珍しい政策としても後世知られることになる。
 ただし完全に禁止したわけではなく、幕府の認可を受け尚かつ幕府直轄とされた場合だけ大型船の建造が認められていた。それでも保有が許されるのは幕府及び幕府の譜代大名止まりで、大名が持つことは厳禁とされた。しかも幕府海軍維持費の拠出により参勤交代の江戸滞在日数の減少が認められる制度が、五代将軍綱吉の頃から作られている。

 その後日本の江戸幕府は、究極的な内政安定のための限定的な鎖国へと突入。
 これに対して大東は、特に国を閉ざす必要性を感じず、かといって西欧列強のような極端な海外膨張にも興味も向けず、マイペースに近世世界を謳歌する事になる。