■アンビション、ニューワールド


新世界への探検と入植の歴史

 1492年、クリストファー・コロンブスはついに大探検航海のための資金と物資をスペイン王室のイザベル女王から得ることができた。実はコロンブスはポルトガル王室に売り込みをかけていたが、提案を拒否されていたのだ。
 既にポルトガル王室の援助を受けたバルトロメウ・ディアスが喜望峰回りのインド航路を発見しており、コロンブスはポルトガルの支援を受けることができなかった。
 そのために、ポルトガルは新大陸発見の大功績をあげることができなかった。

●ヨーロッパ・ポルトガリス

 ポルトガル王マヌエル1世は、スペイン人がインドだと主張する西方の陸地が、アジア大陸の一部であるのか確認したいと考えていた。
 ポルトガルが独占するべきインド航路が逆方向からもアクセス可能だったならば、それは交易上の危機を現しているからだ。
 また、父のジョアン2世がコロンブスに援助しなかったために大西洋開拓でスペインに遅れをとった分、インド航路開拓に情熱を燃やしていた。

 1499年9月には、世界ではじめて喜望峰を回ってインドに到達したヴァスコ・ダ・ガマが本国に帰還、マヌエル1世を喜ばせた。

 1499年11月、ゴンサロ・コエーリョ率いる探検隊が、スペインの主張する土地が新大陸なのかアジアなのか確認する旅に出た。その過程で、ゴンシア島(のちのバミューダ島)を発見した。

 既に冬季であったため、コエーリョ探検隊は帰還しようとしたが、航海中に嵐に遭遇、海流に流され、新たな陸地を発見した。この陸地を発見した段階で、コエーリョは熱病に倒れ、同乗していたアメリゴ・ヴェスプッチが探検隊の指揮を執っていた。そのため、その土地を”アメリカ”と呼ぶようになり、更に新大陸全体も同じ呼び名となったのだった。
 本来なら新大陸はコロンブスの名ち因み”コロンビア”となるのが正当なのだろうが、歴史の偶然から新大陸は”南北アメリカ大陸”となったのだった。

 1500年、辛くも生還したアメリゴ・ヴェスプッチは、休む間もなくリスボンで編成の途上にあったペドロ・アルヴァレス・カブラルを艦隊司令とする探検艦隊に編入された。
 ヴェスプッチは、13隻から成るカブラル艦隊のうちの一部を、スペインがまだ知らない”アメリカ”探検に転用するようにマヌエル1世に進言した。
 妥協を重ねた結果、3隻から成るバルトロメウ・ディアス探検隊が組織された。ヴェスプッチはこれにオブザーバーとして乗船した。
 マヌエル1世としては艦隊を全てインドに送り、インド産の香辛料を一掴みでも多くインドから持ち帰りたかったが、ヴェスプッチの語る”緑豊かな永遠の土地”も興味深かったため、いわば保険としてアメリカ探検を許可した。

 1500年4月、ディアス探検隊は改めてコエーリョ探検隊の航路をなぞり、はじめて北アメリカ大陸に上陸した。一方、本隊のカブラル艦隊は8月にインドのカリカットに到達したのだった。

 1494年制定のトルデシリャス条約では、「カーボベルデの西270リーグを境界線とし、それより東側はポルトガルに優先権を認め、西側はスペイン領にする」と定められていたため、本来ならば北アメリカは全てがスペイン領のはずだった。
 同時に、トルデシリャス条約によれば南アメリカ大陸の一部(のちのコンソラシオン)がポルトガル領になるはずだった。
 そこで、1501年にマヌエル1世はスペイン王フェルナンド2世と新大陸における領土分割について交渉し、「イスパニョーラ島北側100リーグ以北の取得優先権を得る」代わりに、トルデシリャス条約で定められた「南アメリカ大陸の一部の取得優先権をスペインに提供する」交換条約を結んだ。

 既に1500年1月にスペインの探検家ビセンテ・ヤーニェス・ピンソンが南アメリカ大陸東部のポルトガルのものとなるべき土地に上陸し、カーボ・デ・サンタ・マリア・デ・ラ・コンソラシオンと命名していた。ここが、のちのコンソラシオン(慰め)である。
 寒冷な北アメリカの経済的な価値は低いと判断したフェルナンド2世は、ポルトガル王の申し出を受け入れることとなる。こうして、北アメリカ大陸におけるポルトガルの優越的地位が固まった。

 ちなみに、のちにコンソラシオンで大量に栽培されるようになる赤色の染料を産出する木は”ブラサ”と呼ばれ、更に訛って”ブラジル”となる。この”ブラジル”の木は、こんにちではコンソラシオン連邦の象徴的な木である。そしてその一部でその後発見された莫大な量の黄金(金山=ミーナ・ジェライス)は、僅かばかりながらスペイン帝国の存続を長引かせる事になる。

●ポルトガル領植民地

 本国人口の少なさにより、ポルトガルの海外植民地は領域支配よりも交易のための海上覇権の目的に適うように建設されていた。その例外的な存在として、ポルトガルによる北アメリカ植民地がある。ここだけは、領域支配が目的だったのだ。

 北アメリカにポルトガル初の植民地”テラ・ノヴァ”が建設されたのは、1507年のことである。以後、ポルト・イリエウスを中心に”リオ・デ・ペゴス”、”コスタ・デ・エレイラ”をはじめ20余りの植民都市が建設された。

 ポルトガルの海外進出の波は、1541年、ついに極東の日本にまで到達する。
 日本に至るまでの過程で、アフリカ東岸のスワヒリ王国南部を植民地化、アラビア半島のオマーンを滅ぼし、セイロン島のコロンボ、インド(ティムール帝国)のゴアにも植民地を得ていた。16世紀半ばには東アジア貿易にもくいこみ、未だ交易規模全体から見えば小規模ながら活動を続けていた。
 さらに1551年には明からマカオに居留権が与えられた。
 日本の大友家などの戦国大名が真っ先に南蛮貿易に着手、織田信長らの保護もあり、貿易は大きく成長した。

 大東国に新たな交易相手としてポルトガル人が登場するのは1544年のことになる。
 既に1430年代には、大東貿易商はポルトガル人の存在を知っていたが、南蛮貿易の規模自体が小さいために、報告が支配階級である公爵レベルまで上がってこなかったのだった。

 その後も目新しい文物を提供してくれはしたが、ポルトガル自体が地球の反対側に位置する人口100万程度の小国であるが故に、東アジアで大きなプレゼンスを発揮することはなかった。
 更に1580年にはアヴィス朝が断絶、スペイン・ハプスブルク朝との同君連合が形成され、ポルトガルのアジアにおける影響力は縮小してしまった。

 当時、イベリア半島に遅れて国内の統一と中央集権化がはじまった新興国であるイングランド、フランス、ネーデルラントなどの国家群は、サラゴサ条約によって新大陸への進出を阻まれていた。
 ヨーロッパの貿易戦争において、スペイン・ポルトガルこそ先進国であり、既得権益を握っていた。
 その世界秩序に反抗し、教皇に聖別されたサラゴサ条約を侵害することは、いかに宗教改革の時代が近づいていようとも難しかった。
 よって、新興国は法の抜け道を突く形で、私掠船を用いた海賊行為により合法的にスペイン・ポルトガル船を襲って新大陸帰りの金品を奪うようになった。
 スペイン国王フェリペ2世は海賊行為に業をにやし、のちにイングランドとの開戦に踏み切り「アルマダ海戦」が惹起されることになる。


ポルトガル=アメリカ王国

 話は1580年のスペイン-ポルトガル同君連合に戻る。

 ポルトガルの北アメリカ植民地”テラ・ノヴァ”は、1580年以後、スペイン=ハプスブルク帝国の拡張を良しとしないイングランドやフランスの私掠船の攻撃を激しく受けるようになった。また、植民都市への上陸と焼き討ちも多発した。
 その対抗として、ポルトガル王室はスペインからの分離主義派の頭目と見做されていた旧アルガルヴェ王国系の貴族をテラ・ノヴァ公国の公爵に据え(1589年)、北アメリカ植民地の機動的な防御を担うよう命じた。

 テラ・ノヴァ公国は本国の期待以上の働きをみせた。
 北アメリカを征服するにつれ、アルガルヴェの名はアメリカ領土を示す意味も帯びるようになり、北アメリカのポルトガル人は自らを”アルガルヴェ人”と呼ぶようになる(※超越者の視点より:ヤンキーやディキシーみたいなもの)。

 1618年以後、宗教戦争(=三十年戦争)の嵐がヨーロッパを吹き荒れ、ネーデルラント軍がテラ・ノヴァ植民地を一時的に占領した。
 1621年にはネーデルラント軍は去るが、アルガルヴェ公爵は占領中の教訓から人口増加策を推進するようになった。スペイン本国はもちろんノヴァ・イスパニアでも入植者を募集し、テラ・ノヴァの防衛力強化を図った。
 基本的に植民地を収奪可能性の面からしか評価せず、長期的な投資は奴隷制プランテーションの運営程度だったスペイン人は、自営農として植民地に定着しようとする意思が弱かった。それでも、一定数は厳しい植民地での生活に命運をかけようという男女を見つけることは可能だった。
 むしろ、イングランド人やスコットランド人、アイルランド系ケルト人は自営農として自活する意思と技能を持っていたため、17世紀前半に数万人がテラ・ノヴァに移民したとみられている。だが彼らは、現地ポルトガルの同化政策によって、もと宗主国とは切り離された存在となった。

 17世紀前半、スペインは超大国の座から滑り落ちようとしていた。三十年戦争の戦況悪化と国力の衰退(自然破壊による大飢饉など)にあわせて、スペインによる旧ポルトガル領における圧政がみられるようになった。
 1640年には不満を持つ住民が蜂起してポルトガル王政復古戦争が勃発、反乱を主導したポルトガル王家の血筋を引くブラガンサ家はスペインと戦った。
しかしこの反乱は失敗し、多くのポルトガル系難民や没落貴族、役人や財宝と共に、ポルトガル王家はテラ・ノヴァに退避することになった。

 テラ・ノヴァにおいて、ブラガンサ家とアルガルヴェ家の婚姻が成立、ここにテラ・ノヴァ公国は発展的に消滅し、1641年ポルトガル=アメリカ王国(P.A.A.K)が成立した。
 大西洋に面するポルト・イリエウスの街は、ポルト・ノヴァ・リスボンと改名することとなる。
 なお、この年をアメリカ独立の年と呼ぶことがある。

 また、1607年に建設されたイングランドによるバージニア植民地は、三十年戦争の初期にテラ・ノヴァ植民地を起点にはじまったスペイン軍の攻撃を受け壊滅した(※1641年までは、スペイン軍は北アメリカ内の自由な通行が認められていた)。
 1620年には、テラ・ノヴァから北に遠く離れた土地にプリマス植民地が建設され、こちらは初期の苦難を乗り越えた後は順調に発展することになる。
 1624年、プリマス植民地はイングランド王領植民地に再編成され、人口1000人の規模になった。

 一方、1580年の時点でのポルトガル領テラ・ノヴァ植民地の人口は約6万人であった。旧大陸でも取るに足らない数だが、当時の新大陸では圧倒的な数字だった。
 建国直後からポルトガル=アメリカ王国が採用した、インディアンに対する宥和政策の効果が大きい。インディアンを労働力として積極的に活用し、自国の市民として取り込んだのだ。ラテン気質のあるポルトガル植民地は、イングランド植民地ほどは肌の色で差別をしなかった。混血に関しても、北欧人よりも鷹揚だった。
 また、タバコ・砂糖生産のために白人労働力を投入するのは、人的資源の無駄とみなされた。白人は武器をとるべきとされ、1641年以後はスペイン軍を迎え撃つ準備が粛々と進められた。
 インディアンを白人と同等の国民として見なす布告がポルトガル=アメリカ王国国王の名で公布され、海岸沿いの監視塔や砦の建設にインディアンは狩り出された。また、トウモロコシか砂糖による現物課税が課せられた。
 このように、自由には責任がつきまとう。
 時には充分に納税できないインディアン部族が続出したため、新編成のポルトガル=アメリカ王国軍がみせしめに部族ごと皆殺しにした例もあった。

 (※なお、近年では”インディアン”との名称は使われていない。”ネイティブアメリカン”への脳内補正を推奨します。)

 1642年、チェロキー族の反乱。
 ポルトガル=アメリカ王国軍8000に対し、チェロキー軍(諸部族の連合)28000が激突。大きな犠牲を出しながらも、王国側が勝利。
 以後、王国によるフロリダ諸部族討伐と併合が推進された。

 1648年、ヴェストファーレン条約締結によりヨーロッパ中部を荒廃させた戦争が終わった時点で、ポルトガル=アメリカ王国の自由インディアンを含めた人口は20万を超えた。また同条約において、ポルトガル=アメリカ王もヨーロッパ世界に認められる事になる。

●新大陸を巡る戦い

 1639年以降、イングランドでは国内が混乱し、内戦状態に落ちていった。
 クロムウェルの台頭と共和制イングランドの成立、王政復古の流れのなかで、絶対王政の終焉につながる合理主義の土壌がイングランドに築かれた。

 イングランド内戦は三十年戦争で疲弊したヨーロッパ大陸部の干渉を受けずに進展したが、新大陸では状況が異なっていた。
 新大陸内での拡張主義を採るポルトガル=アメリカ王国は、インディアン部族を吸収しながら北上・西進していた。既にカリブ海沿岸のリオ・グランデ川を境にノヴァ・イスパニア植民地と境を接した。
 北隣では主を失ったイングランド王領植民地が、本国から切り離され孤立していた。

 1651年、戦乱の結果イングランドの直接支配を受けるようになったスコットランドからの亡命者が王領植民地に流入。
 次にクロムウェルによるアイルランド遠征では、当時のアイルランド島総人口60万のうち1/3が死んだとされるが、その一部は王領植民地に流れ着いていた。
 それでも、王領植民地の人口は10万に満たなかった。

 1654年、平等派や国王派の反乱に手を焼いたクロムウェル護国卿は、逃亡先を与えないためにイングランドの王領植民地への渡航を制限した。

 1654年、ポルトガル=アメリカ王国はイングランドに宣戦、ニューイングランド地方を制圧した。
 また、デラウェアのニュースウェーデン植民地、ニューネーデルラント植民地も占領下に置かれた。
 同年、クロムウェル護国卿はオランダと講和、ウィリアム・ペン率いる艦隊が王領植民地に派遣され、小規模なポルトガル=アメリカ王国海軍に大きなダメージを与えた。

 1658年、ポルトガル=アメリカ王国とイングランドが講和のテーブルについていた頃、クロムウェル護国卿が死去。
 イングランドが王政復古の混乱を経験するなか、1660年にポルトガル=アメリカ王国に有利な講和条約が結ばれた。
 北緯39度以南のニューイングランド地方とニューネーデルラント植民地が、住民共々ポルトガル=アメリカ王国に割譲された。

 また、フランスの新大陸植民地であるヌーベルフランスは、1660年の段階で人口3000人余りに留まっていた。

 1689年、ポルトガル=アメリカ王国の支援を受けたイロコイ連邦がヌーベルフランスを攻撃。

 1701年の「スペイン継承戦争」では、ポルトガル=アメリカ王国はブリテン(1701年イングランドより改名)と結び、フランス・スペインと戦った。
 その過程でヌーベルフランス(ケベック、ルイジアナなど)でも諸戦闘がみられた。ヌーベルフランスの人口密度は極めて低く、フランスの植民地軍は半年余りで壊滅した。
 講和の結果、ブリテンはニューファンドランド島とハドソン湾地域を獲得、ポルトガル=アメリカ王国はスペインからバミューダ島を獲得、更に広大なルイジアナを獲得した。ポルトガル=アメリカ王国は北アメリカ大陸の東半分を領する大国となったのだ。

 ポルトガル=アメリカ王国は、新たに獲得したルイジアナ植民地を経由して、ノヴァ・イスパニアに接するアル・ガルブ植民地を建設。
 また、大チェロキー・マイアミ・イロコイ・スーの4インディアン自治区を設置した。

 その後ポルトガル=アメリカ王国は、主にイベリア半島地域並びにスペイン領ノヴァ・イスパニアからの移民を募集した。逆にブリテン島を統一したブリテン(旧イングランド)からの移民受け入れ要請は強く断り続けた。主な理由は、新教徒だからだ。このため若干だがアイルランドからの移民のみ移民審査付きで受け入れている。
 そして18世紀全般を通じて、ポルトガル=アメリカ王国は緩やかな人口増加と発展を続ける。速度としてはノヴァ・イスパニアより少し早いが、この結果広大な平原はポルトガル語を話すようになったインディアンが緩やかな時を過ごす場所として維持されることになる。

●新たな競争者

 「スペイン継承戦争」で国力をひどく消耗したスペインは、新大陸の北部を牛耳ることに成功した「もと隣人」に対するやっかみから当てつけの外交を思い至る。
 そしてフランスとの相談の末に、ローマ教会の取り決めという形で一つの条約をある国と交わす。
 その国とはアジアの果てにある大東国であり、スペインは大東に対して残るアルタ・ノヴァ・イスパニア全てを譲渡したのだ。

 当時でもアルタ・ノヴァ・イスパニアは、ほとんどスペインが入り込んだ事のない未知の場所で、事実上大東人の入植の始まっていた土地だった。
 だがこの決定により、新大陸北部の西半分、というよりポルトガル人が押さえていない土地全ての権利を、キリスト教世界上において大東が手にすることになった。

 そして18世紀の最初の四半世紀が過ぎる頃には、大東人たちが北中部地域の平原に多数姿を現して開拓を始めるようになる。
 彼らの祖国での人口飽和が原因だった。


fig.1 1701年の新世界