■ドントフォーゲット、アザーエリア


 大東洋は大東の事実上の内海と化し、北アメリカ東部の勝者はポルトガル、南アメリカの勝者はスペインと言ってさしつかえない状況になっていた。
 一方で、他の地域はどのような歴史を辿っていたのだろうか。
 その一部をご紹介しよう。


■西・中央・南アジア(インド)

●ティムール帝国、第二ティムール・インド帝国


 中央アジア発祥のティムール帝国の功罪のうち、「功」の部分はほぼ忘れ去られている。歴史に刻まれているのは、膨張したティムール帝国が末端から壊死し、それが時期的にヨーロッパ勢、日本帝国のインド洋進出と合致していたということだけだ。
 現在、南アジアにおいて宗教や民族が織り成すモザイクが、それぞれの独自性を紛争という形で表現せざるを得ないのも、日本またはヨーロッパ勢の都合によって任意の場所で直線的に分断されてしまったのが遠因となっている。
 だがティムール帝国の末路も、イスラム世界が膨張しすぎて他の地域へ進出しすぎた末の出来事だった。
 そう言う視点から見れば、インドで起きた事は半ば自業自得でもあった。

 1370年、中央アジアにて、ティムールによってティムール帝国が建国される。「モンゴル帝国の後継者」を自称する彼は瞬く間に帝国を拡大する。

 1405年、一代で巨大帝国を建設したティムールが没する。30年余りの間に、オスマン朝トルコやマルムーク朝(エジプト・イスラム帝国)、明帝国と戦い、インドに侵攻するなど、実に国際色豊かな戦争にあけくれた人生だった。

 1442年、ティムール帝国の西に位置したシーア派国家カラ・コユンル朝の支援を受けた国内反乱によりティムール帝国は分裂、一時滅亡状態になる。
 ジャハーン・シャーのコユンル朝とバブール・バイスンクールのコラサンに分割された旧ティムール領だったが、シーア派官僚と貴族の圧政の結果、住民反乱が勃発した。

 1480年までにコラサンは滅亡し、カラ・コユンル朝は王族が交代してアク・コユンル朝になった。ティムール第1帝国時代の生き残りであるアフマド・ザマーン1世が第2帝国の皇帝の座についた。

 1524年、1世紀の混乱を乗り越え、ティムール軍はインダス川を超えてミルザ・ジャミ将軍指揮のもと、デリー・シンド・ラージプート・グジャラートといったインド亜大陸中西部の諸国を征服した。
 これを「ザマーン・ティムール朝時代」という。もしくは、分かりやすく「ティムール第2帝国」や「ティムール朝インド帝国時代」とも言われる。

 1556年、のちに大帝の称号が必要になるティムール第2帝国第3代皇帝にムザーファルが即位。
 ベラール・ゴンドワナ・アーマドナガル・ゴルコンダ・ビジャープルなどの中小国家群を併合。以後は地域紛争を徹底して取り締まり、領内安定とスンニ派イスラム教の布教を20年にわたり実施する。だがこれが、インド全体に大きな争乱を呼ぶ火種となった。

 1576年、南インドで強大化していたマドゥライのクリシュナッハ・ペリアヤ王を破り、インド亜大陸の過半を勢力下におく。

 1581年、同じイスラム教国家ベンガルのスレイマン・ハン・カラニ王を捕らえる。ここにインド亜大陸の統一が成った。西アジアのペルシア王国と西に接し、中央アジアのチャガイタイ=ハンと北に接した。事実上のインド統一によって、ティムール帝国は絶頂期を迎えた。
 周辺のチベット・オイラト・アッサム・タウングといった東の隣国たちは、明帝国の庇護を受ける身となった。
 とはいえ、明帝国も衰退の兆候しきりであり、ティムール帝国がちょっとでも本気になれば国家の命運は風前の灯だろう。

 一方、ティムールの去った後の(イラン)地方では、シーア派人口比率が漸増。オスマン朝トルコの支援を受けたペルシア王国が南下して、アク・コユンル朝を滅亡に追いやり、イスマイール1世治下でペルシア王国が繁栄期を迎えた。
 ペルシア王国の版図はオスマン朝トルコと接することになるが、オスマン朝トルコにとっては、インドを得た事で圧倒的な兵役資源を有するティムール第二帝国と境を接するよりは安眠できる状態に落ち着いた。
 また、対ヨーロッパ政戦に国力リソースを割きたいスンニ派のオスマン朝トルコとしては、シーア派が多数派の地域の統治コストを払った上に対ティムール戦備の維持費も払うなど御免被りたかったのだ。
 この早熟で打算的な民族自決主義を味方にしたペルシアは、ティムール帝国から古都イスファハンを含む帝国西部をすら獲得した。

 その後、ティムール帝国は第4代皇帝のムザーファル大帝時代に全盛期を迎え、あとはゆっくりとした衰退の道を歩んでいく。
 イスラム教を庇護しすぎた為、インドで主流のヒンズー教徒からの強い反発を受けたからだった。
 帝国が決定的に揺らぐことになる17世紀半ばには、ヨーロッパ勢(ネーデルランド、イングランド、フランス)と日本帝国がこぞってインド亜大陸争奪に参加し、インド洋、インドを戦場として荒らし回る。結果インド経済も大混乱に陥り、ティムールの国家衰退を助長すると同時に、インドの植民地化が誰も思ってもみなかった速度で進行してゆく事になる。


オスマン朝トルコ帝国

 1517年、マムルーク朝が滅亡し、地中海東部はオスマン朝トルコの内海と化した。
 1529年には、オーストリアの首都ウィーンを包囲、ヨーロッパ諸国を震撼させた。
 同時期、オスマン朝トルコは『立法者』スレイマン一世のもとで全盛期を迎える。
 1560年代には、イスラムの聖地メッカをもオスマン朝トルコの領土に加え、オスマントルコは西アジアのイスラム諸国とヨーロッパ諸国を震え上がらせる超大国となった。
 バルカン半島のワラキア・モルダヴィア・トランシルヴァニアの3候国はオスマントルコの属領になった。オスマン朝トルコは多民族国家であったからこそ非ムスリムにも寛容であり、東ローマ帝国亡き後の分裂状態にあったバルカン半島に平和をもたらした。
 こうした点は、インドで強引なイスラム教布教を進めたティムール帝国と対象をなしていると言えるだろう。

 ハンガリー王国は1526年に「モハーチの戦い」に敗れた後に急速に衰退、オーストリアとオスマン朝トルコで分割されるに至った。軍政国境地帯たるオーストリア王領ハンガリーの誕生である。
 以後、旧ハンガリーを舞台にキリスト教圏対イスラム教超大国という宗教論的・文明論的対決の時代が150年にわたり続くことになる。

 1571年には「レパント海戦」でキリスト教圏海軍が勝利するが、地中海東部の制海権は変わらずオスマントルコ海軍が掌握していた。

 17世紀、オスマン朝トルコは軍を二分割して国の東西に配置せねばならず、しかもヨーロッパ諸国の軍事技術発展及び量的拡大に伴い、オーストリアとの国境に配置すべきイェニチェリを減らせなかった。軍事費の増大により、オスマン朝トルコの財政は慢性的な赤字状態に陥っていた。

 1660年代、オーストリア王領ハンガリーの領民によるクルツォク反乱が頻発、オスマン朝トルコはこれを支援した。

 1683年、ハンガリー人の大規模な反乱が起こり、反乱軍はオスマン朝トルコに救援を要請した。15万もの軍勢を用いて、オスマン朝トルコ軍はオーストリアの首都にして神聖ローマ帝国皇帝御在所であるウィーンを包囲した。第二次ウィーン包囲である。

 第二次ウィーン包囲は、ドイツ諸侯・ポーランド・オーストリア軍から成るキリスト教圏軍が組織され、今回もヨーロッパ側がオスマン朝トルコ軍に勝利した。この時期にはヨーロッパ諸国の軍事技術はオスマン朝トルコ軍を凌駕し、更に発展していた。「三十年戦争」を経たヨーロッパ諸国は、それ以前とは比べ物にならない程の兵力を自在にぶん回す怪物に変わっていた。
 オスマン朝トルコの侵攻は、自らがこれまでの狩られる存在ではないと、ヨーロッパ人に広く知らしめることになった。新大陸で出会った原住民と同じように、独自の高い文化と軍事力を有するイスラム圏ですら、もはやヨーロッパの敵としては力不足なことを。

 1699年、東欧にハンガリー王国が復活した。

 17世紀までに西ヨーロッパでは中央集権的な絶対王政国家が成立し、やがて大型の国民国家に統合していた。スペイン、フランス、イングランド(ブリテン)が典型的な例である。神聖ローマ帝国やイタリア半島は未だ小国家群に分裂したままだが、国民国家として政治的統合に至る前段階に来ていた。商業帝国だったネーデルランドは、少し前のベネツィアのように緩やかに衰退するより他無かった。
 だが、バルカン半島の大部分は多民族国家であるオスマン朝トルコの治世下にあった。
 課税はされるがムスリム化を強制されなかったがゆえに、バルカン半島はイスラムとカトリックとギリシャ正教の入り乱れるモザイクがそのまま残っていた。ヨーロッパを吹き荒れた宗教戦争の嵐から守られ、宗教も分裂したまま、民族意識の共有も進まなかった。
 実現可能性は極めて低いが、もしオスマン朝トルコがヨーロッパを支配していたら、ビザンティン・ハーモニー的な融和による政教分離の失敗と、宗教的・民族的混在による国民国家の不成立がヨーロッパ全土でみられたかもしれない。そうなれば、不断の競争圧力に晒されたが故の西洋における科学技術の発達は、大いにスポイル(損なわれる)されたことだろう。
 だが、オスマン朝トルコはヨーロッパ中部に食い込むこともできず、西欧は無事だった。そのことが全人類レベルで吉凶いずれだったのかは、判断の分かれるところだろう。
 しかし文明の発展は、模倣と継承によって培われる。その事は、主に西ヨーロッパの人々が大海原に出る事で実践した。しかし今度は、西ヨーロッパの人々が作り上げた文物を模倣し継承する文明が西ヨーロッパの前に立ちはだかろうとしていた。
 それは人類の歴史におけるある種の必然だった。


アフリカ大陸沿岸

 アフリカ大陸は、サハラ砂漠北部周辺を例外として、常に世界から取り残されていた。
 地理的環境、気象条件、人的要素など様々な要素が重なり、強大な国家の出現と文明の独自発展ができないでいた。
 ヨーロッパ人が小さな帆船でアフリカ大陸沿岸を巡るようになっても、何ら変わりなかった。
 最初にアフリカの大地を植民地化したのは、先鞭を付けたポルトガルだった。

 ナバハニ王家によるスワヒリ王国は、ポルトガルに沿岸部を侵食されていた。交易を独占するポルトガルは、次にインド洋の主要な交易拠点マスカット及びザンジバルをも植民地化、16世紀初頭までにインド洋はポルトガルの海となった。
 確かにイスラム商人は量的に強大な存在でローカルに稼いではいたが、交易圏の広大さと発展性ではポルトガル商人に及ばなかった。
 しかし、ポルトガル人は数が少なすぎるため、総体としては従来のインド洋貿易に寄生している状態だった。
 そして彼らのインド洋での栄光は長く続かなかった。

 16世紀末、突如として「魔王」織田信長に率いられた日本帝国が、東南アジアの海を一瞬で制圧すると共に、その勢いのままインド洋に進出したからだ。
 そして自然を利用した環インド洋航路を全て押さえるべく行動し、当然その手はアフリカ大陸東岸に届いた。
 東南アジアがそうだったように、ポルトガルが押さえている拠点が優先的に攻撃され、そして圧倒的な数の違いから一瞬で征服された。
 そして「魔王」相手に、キリスト教の権威や威光は全く意味が無かった。
 有色人種、野蛮人の行いを同じヨーロピアンに訴えても、まともに行動を起こす国は無かった。
 むしろネーデルランドなどは、自らの進出の機会と考えて進出を強化したほどだった。

 そしてその後、日本帝国とネーデルランドがケープと呼ばれる南アフリカ南端を巡り争う事になる。

 アフリカはあくまで第三者であり、誰からに搾取される立場だった。