◆タイ王国
正式国名 アユタヤ朝タイ王国
総人口 2500万人(百万単位以下四捨五入)
日系人構成比率 4%
首邑 アユタヤ
首相 国王
首相 宰相
国家形態 立憲君主制



●特徴
地理
 その国土はインドシナ半島の中央部、チャオプラヤ川を中心とした地域に広がる。
 大きな河川と平原が国の中枢部をしめるので、豊かな農業国となっており、アジアの穀倉と呼ばれるほどである。
 だが、地下資源などの天然資源は全くなく、近代化の大きな足かせとなっている。

政治
 1855年の改革と、1932年のクーデターにより近代化と立憲君主制への移行を果たしている。
 しかし、1932年のクーデターを主導した軍人が国政にも大きく関わっており、文民統制を絶対と考える日系国家からは対外的にあまり好感を持たれていない。
 独自の外交路線をとっているが、基本的には親日、親英政策を伝統としており、国土を割譲させたフランスを敵視している。(英国への割譲は売却という形だったので反発はそれ程でもなかった。)
 また、熱心な小乗仏教国でもある。


文化
 スコータイ王朝の始祖イントラチット王三男で3代目となるラームカムヘーン王(タイ国の3大王の一人)は、タイ文字の制定、スリランカから上座部仏教を取り入れ国教とする、交易の自由を認めるなど、内政、文化面で多くの実績を上げ現在のタイの基礎を作り上げる。
 その後アユタヤ王朝の歴代王により、タイ文化が育てられ、小乗仏教を国教とする独自の文化を創り上げている。
 民衆も国も非常に熱心に小乗仏教を信仰しており、この国の政治すら左右する程である。
 そして、世界的に小乗仏教国として非常に有名である。


産業
 東南アジア最大の農業国として有名で、その輸出品目の最重要品目も米である。
 しかし、それ以外の産業はあまりなく、他の産業も農業かそれをもとにした加工業となっている。
 自力で近代化を果たしているが、まだ軽工業以上には手は付いておらず、重工業製品はその多くを輸入に頼っている。


歴史
 現在のタイ国の地にいわゆるタイ族の国家が形成されたのは13世紀ごろで、それ以前はモン人の国ドラバラディ、マレー人の国シュリービジャヤ、クメール人の国クメール(カンボジア)があった。
 ドラバラディはチャオプラヤ川下流域を中心に、ナコンパトムなどいくつもの堀で囲まれた都市を作っており、仏教を信仰する高度な文化圏が存在していたらしい。シュリービジャヤは、スマトラ島からマレー半島に至る地域で海上交易を行う大乗仏教を信仰する国で、クメールは、カンボジアのアンコールを首都として、タイ東北部はもとより13世紀はじめにはタイ全土をも支配していました。
 クメールの勢力が弱まってきた13世紀頃、中国東南部より千年以上の年月をかけて南下を続け、11世紀頃にはタイ各地に都市国家を形成し始めていたタイ族が統一国家を形成する。それがスコータイ王朝の始となる。一方、北タイでは、チェンマイ(ラーンナタイ)やパヤオといったタイ族国家も形成されていた。
 1351年ウートーン侯は、アユタヤに首都を移し、自らラーマティボディ1世と称し、国号をアユタヤとした。
 王朝はその後現在に至るまで続くが、その間、決して平和な時が続いたわけではなく、初期には東方のクメールを破り、北方のチェンマイと戦い、16世紀中頃からはビルマ(ミャンマー)と戦い、一時は属領となってしまった。
 その後、1595年より日本で始まった慶長の役による膨張で日本の強い影響を受けるようになり、その後日本の技術、政治制度を導入し中世国家としてアユタヤ王朝は完成し、その後中世的中央集権国家となる。
 17世紀初頭、ナレースワン大王は現在においてもタイ最高の王として知られている。
 その後パックスニッポニアの繁栄の一部を享受しつつ、小さな繁栄と衰退を繰り返していたが、タイ王朝3大王の一人、チュラロンコーン大王(ラーマ5世)は、1855年英国との間に自由貿易を原則とする修交通商条約を結び、その後、他の西欧諸国とも同様の条約を結んだ。さらに思い切った中央集権化と近代化を行い、タイの独立を保ち、司法、行政制度を整備し、財政を整え、郵便通新事業、鉄道、教育制度、さらに軍制改革、奴隷制度廃止など近代国家としての基礎を作り、絶対君主制を確立した。
 またこの頃より日本の庇護を離れ、友好関係を維持しつつも独自の道を歩むようになる。
 第一次世界大戦とその後の世界恐慌は、タイに深刻な不景気をもたらし、1932年、日本や欧州に留学し、民主思想を学んだ一部軍人によりクーデターが起き、絶対君主制から立憲君主制へと移行。
 その後も、軍隊の影響は強く残っているが、近代化に向けて努力が続けられている。


第三章 準日系人国家  それ以外の近隣各国 ■