■長編小説「虚構の守り手」
●第四章「巨艦再生」(1)
一九五二年二月十八日:大阪
一年で一番寒い季節にある日本列島だが、大阪の街に白いベールが掛かることはなかった。 この街がそのような気象条件になるのは、よほど寒い冬でなければ、春を迎える直前に少しある程度らしい。 東京から汽車ので五時間以上、その日最後の特急つばめで大阪まで来た有賀幸作海将補は、その夜のうちに駅前のタクシーを捕まえてホテルへとしけ込んでいた。 軍の車を使わなかったのは、これが個人的な訪問という体裁を整えるためと、できれば少しでも公にしないためだった。 将軍や提督と呼ばれる人間が派手に町中を練り歩くのは相応しくないと、今の日本では思われるようになっていたからだ。 そうして乗ったタクシーからは、闇夜を焦がすように輝く街のネオンと、ネオンの光源である繁華街を川で挟んで広がる陸軍造兵廠の巨大な建造物がひしめいていた。 しかも、造兵廠の建物の過半の窓からも煌々とした電灯の明かりが漏れていた。二四時間体制のフル稼働中というわけだ。 (まるで今の日本そのものだな) 彼がそう思うのも無理なかった。 終戦から七年半という時間は、それだけ日本列島に変化を強要していた。そして変化は、自身の階級が奇妙な呼び名に変わっていることでも象徴されていた。
一九四四年八月十五日、大日本帝国は国体護持を日本側の絶対条件に連合国との停戦に応じた。 だが停戦受入れは、武力を用いた戦いの終わりであると同時に、国の形、民族の魂を残すというもう一つの戦いの始まりでもあった。 しかし徹底抗戦派の沈静化に失敗するばかりか、ソ連の強い影響下にある人工国家の成立すら許したため、日本の国際的地位を地の底までたたき落とされる事になる。 停戦後、日本列島に乗り込んできた連合国代表は、日本政府が統治能力に欠けるとして、事実上の軍事占領と軍の解体すら画策したほどだ。 幸いにして最悪の事態は回避されたが、だからといって楽観できる要素はどこにもなかった。 支那事変から始まる長きに渡る戦争で経済は完全に傾き、終戦時国には五千億円もの借金がうずたかく積み上げられていた。 戦いたくても、もう近代戦を行う能力など存在しないと言うのが統計数字上の結論だ。そればかりか、連合国に提出された日本の官僚達によって作られた統計数字による資料は、近代国家としての日本の死亡診断書とすら言えた。 確かに国家予算の二百倍もの借金を積み上げて何かができる国家などどこにも存在しないだろう。 そこにきての外地での大規模な造反と、造反者による広大な地域の不法占拠だ。 泣きっ面に蜂とはこのことだった。 そして追い打ちをかけるように、連合国が停戦条件の一日でも早い履行を求めてきた。 連合国が求めてきた事は、主に国政の民主化、戦争犯罪の処断、一方的軍縮、軍需財閥の解体。特に、戦争を引き起こした者達を連合国の手で断罪する事を強く望んでいた。 そしてこれらを、天皇制の維持とそれ以外の日本人に対する免罪符とするつもりだと内々に伝えてきた。 つまりは、連合国の勝利を表面上でも印象づけるため、天皇に成り代わるスケープゴートを寄越せというわけだ。 加えて連合国は、日本国の憲法改正(天皇主権から国民主権への移行)、軍の再編成(限定的解体)、日本軍の撤兵と海外領土の放棄もしくは帰属の決定(併合地域の独立か日本への存続)、満州国問題、日本の戦争犯罪の処断、財閥の解体として細分化される。そしてその後の極東地域の安全保障問題を行うことが最初から決められていた。さらに加えて、事実上の敗戦国である日本の戦時賠償問題が加わる可能性もあった。 そして一旦停戦に応じ、憑き物が落ちてしまったかのように気抜けした日本人達に、連合国の要求全てをはね除けて戦いを再開する気力は残っていなかった。それに戦争を続けたい連中は列島の外に逃げ出して、今では日の丸とは違った旗をかかげている。
なお、日華事変から数えてまる七年に及ぶ日本人の戦死者の数は、民間人もあわせて約百万人だ。 連合国の反撃が本格化した直後に降伏したため、戦闘で失った領土は南洋諸島の過半だけだった。だが、停戦時に残されていた海外領土の多くは造反軍により占拠されるか、大半が連合国の手により主権を失っていた。 当然だが、停戦と同時に東南アジア、中国大陸からは即時全面撤兵を余儀なくされた。 また、幸いにして日本本土のほとんどは無傷で、ドイツのような悲劇は回避されていた。しかし、食料供給地となっていた満州・朝鮮が切り離されたのは致命傷以上の痛手だった。このため日本政府は、アメリカ政府に財政支援、食料援助をせざるを得なくなる。これもその後の日本が、連合国のいいようにされる原因の一つともなった。 それが停戦から半年ほどたった、ドイツ降伏で第二次世界大戦が終わった頃の状況だ。 そして戦争が完全に終了した時とほぼ同じくして、大日本帝国の実質的解体と、新たな日本国の建設が開始される。 ちなみに、講和や戦争と直接関係はないが、戦前・戦中日本が抱えていた問題は以下のようになる。戦争を主導した視野狭窄な軍部、経済を支配した巨大財閥、腐敗した政党政治、貧困を極めた小作農、対立を深めていた労働争議、戦争による絶望的な財政赤字、軍の暴走を招いた大日本帝国憲法になる。 すべてを列挙してしまうと、当時の日本が軍事力だけが突出した後進国だったことを嫌が上にも思い知らされる。これでは、軍部独裁か共産主義革命のどちらが起きても何の不思議もない。事実日本は軍部独裁となった。 だが、だからこそアメリカを中心とする連合国は、日本政府をこづき回して様々な制度を作り替え、新しく提示していった。 そうしてできあがったのが、有賀が今立っている日本国だった。 それを有賀に再認識させるように、宿泊していた帝国ホテル(大阪支店)のロビーには、新しい日本地図が掲げられている。 本州、九州、四国、北海道の四つの島を中心にした日本列島に加えて、アメリカの一時的な軍事占領が行われた南樺太と千島列島、国民投票で日本に残ることを決めた沖縄と南洋の島々のいくつかが、行政権的な意味での新たな日本領だった。 そこには、かつての領土だった朝鮮半島や関東州は含まれていない。台湾もまるで賠償金のような形で現地の日本資産ごと中華民国に返還され、その後苦難の道を歩むことになる。残った南洋諸島についても、第一次世界大戦後にドイツから得た領土は含まれていない。列島日本という新しい領土、新しい言葉も、納得いくというものだ。 隣りに掛けられているアメリカ製の世界地図でも、満州や朝鮮半島は「不法占拠地域」とされ、それぞれ帰属を主張する国に強引に分けられているいる。もちろん、実質が違っている以上、形式を出るものではない。 また、大阪で最も格式のあるホテルということで、停戦後数を大きく増したアメリカ系と思われる白人の姿も増えた。彼らは、自らの持つ色とりどりの瞳で、フリル付きのエプロンに着物という女中の姿をさも珍しげに眺めている。 そうした光景をロビー脇のソファでコーヒーを飲みながら眺めていると、待ち合わせていた人物がやってくるのが分かった。 有賀は立ち上がりながら、手をさしのべる。 「お待ちしていました、バーク提督」 「こちらこそ、有賀提督。お久しぶり」 有賀の相手は、アーレイ・バーク。現在アメリカ海軍の中将の地位にあるアメリカ海軍きっての猛将だ。一旦は解体寸前にまで追いやられ、ようやく再編成されつつある日本海軍の手助けのためアメリカ海軍から派遣されていた。 今ここで二人が再会したのは、お互い私用という体裁があるからで、だからこそ外国人と軍人が多い大阪の街が選ばれたのだ。 でなければ、日本海軍最大の拠点呉か、米海軍の出張所にされつつある横須賀が最適だった。
「会って早々申し訳ありませんが、造兵廠から来る予定の案内の者が遅れていまして、今しばらく私とお待ちください」 「分かった。しかし、日本陸軍の方も混乱が続いているということだろうか」 「戦時ですからね。混乱しない方がおかしいでしょう。それと、日本陸軍ではありません。「日本陸上自衛軍」ですよ、バーク提督」 「ああ、そうだった。しかし英語でも変な発音に思えるのに、繊細な日本語だとなおいっそうそう思われるのでは。単なる「海軍(ネイビー)」でなく「海上自衛軍(セルフ・ディフェンス・ネイビー)」だなんて。以前のエンペリアル・ネイビーの方が私にはなじみ深い」 「ハハハ、アメリカ人のあなたから言われてしまうと立つ瀬がない。けど、服と同じで自然に馴れるものですよ。それに今の我々の任務は、文字通り国土を守ることこそが第一ですから、それなりに相応しい名称でしょう」 待つための暇つぶしの会話なので、半ばとりとめのない話が続く。しかしそうした会話をしている事自体、この数年の激変を物語っていた。何しろ数年前まで、お互い罵りあい戦っていたのだ。 しかも、有賀とバークは前線での艦艇勤務が多く、同じ戦場で戦っていた事もあるほどだ。 だが、二人ともそうしたわだかまりなど全くないようで、造兵廠の方から案内が来るまで談笑を楽しんでいた。
「いや〜、えろぉすんませんでした。ほんま、ソーリーですわぁ」 陽気に語りながら二人の前に立ち広大な造兵廠を案内するのは、造兵廠に勤務する地元出身の軍属で、名を東雲といった。昔なら五等軍属で今の階級では三佐にあたる腕利きの技術将校だった。 純粋な軍出身者でなくても相応の肩書きを与えるようになっただけでも、旧陸軍からの変化が分かる。 そんな事を有賀が思っていることなど全く気にせず、目の前の技術将校は大きく腕を振り回して、短足がに股でせわしなく歩いていく。 「いや、今北九州で頑張ってはる栗林閣下の口利きって事やからワイも急いだんですけど、どうしても手ぇ離されへん仕事がおましてなぁ、ほんまカンニンやでぇ」 全く軍人らしさ感じさせない彼の振る舞いに、流石の二人も苦笑することしきりだった。 だが、ひとたび技術的な話になると、目の前の技術将校の知識・見識は見事なものだった。 ただそのおおらかな語り方から、陸軍装備に詳しくないであろう二人の案内役を自認しているだけにも思える。彼の性格は、一種の人徳とすら言えた。 そして彼の案内と従兵の荒っぽいジープの運転の果てに案内された先が、入口が拡張されて目新しくなった大きな工場だった。 「さ、ここが第一の目的地や。バークはんには大したことないやろけど、我が自衛軍最大の戦車工場がこの中にあります」 「今の日本の命運を握るかも知れない場所、ということだな」 有賀が相づちをいれると、「どうでっしゃろ」と独特のイントネーションで応えて、脇にある小さい方の扉へと歩みを進めていく。 扉は小さな空間を挟んで二重構造になっており、扉の両方には小銃を構えた衛兵が待機している。それだけ重要なのだ。 そして通行証を示して中に入ると、建造物いっぱいにラインが組まれ、その上を鉄の塊がゆっくり動いているのが目に入った。 フォード式の巨大な戦車工場だった。 ラインには、部署ごとに同じような部品が両脇にうず高く積み上げられており、工員が手際よく取り付けていた。 「ノックダウン式ですか?」 バークが英語で問いかけるが、関西弁の技術者にノックダウンという言葉が理解出来たらしい。 「イエス、イエス」 嬉しそうに応えると、奇妙なイントネーションのままも英語で語り始めた。 (京都帝大出の技術者なら当然か) そう思いつつも、じゃあ最初から英語で話せよ、通訳させられた俺が馬鹿みたいじゃないか。そんな悪態を心の隅に置きつつも、有賀は工場を見回した。 工場内部は、やや古びれた建造物の中に、アメリカから持ち込まれた作業機械群が所狭しとならべられ、その上をかなり大柄の戦車が組み上げられているのが分かった。 (なぜ、わざわざこんな事を?) そう感じた有賀は、バークにも理解出来るように英語で尋ねてみた。 「東雲技術三佐、なぜアメリカから完成品を持ってこないんですか? その方が早いでしょう」 「やっぱりそう思いますか? 確かにM4系列やったら、中古の完成品がそのまま駐屯地や前線いってるらしいからなあ」 東雲技術三佐は英語で話していても、関西弁に思えてくる。言葉とは不思議なものだ。そんな愚にも付かないことを思いつつも、さらに聞かずにはいられなかった。バーク少将も同様らしい。 「それが普通では。大戦中に作った戦車ならアメリカ中に余っている筈ですよ。やはり、技術習得のためですか?」 「そう、それもある。けど、最終的にはここで一から生産するのが目的や。上の方は、今回の事が短期間で終わっても、その次があるって思ってるんちゃうか。それやったら、いつまでもお下がりやとやっていかれへんやろ」 サラリと言ってのける。しかも、あんたらもそう思てるからここに来たんやろ、と畳みかけてきた。東雲の言葉に、バークが両手を軽く上げておどけて見せた。 「どうやら技術少佐は、東洋の神秘で我々の心の中が見えるようですね」 白人らしいスラリとした体に彫りの深い顔だちという、日本人の思い描くアメリカ人らしい人物だが、アメリカ人であるだけにおどけた姿もとても似合っていた。 有賀が同じことをしても、ブリキ玩具のゴリラが不細工にポーズを取っただけになるだろう。 そしてバークがおどけてみせたように、彼ら海軍関係者が陸上自衛軍の兵器生産の総本山を訪れていたのは、日本陸海双方の自衛軍とアメリカとの共同作業を調整するための視察だった。 そしてそれが、今日本を襲っている悲劇から日本を救う手だての一つと考えられていた。
一九五一年六月二十五日、突如、大東亜人民共和国軍が無防備な対馬海峡を押し渡って北九州に押し寄せた。それが東亜動乱の始まりだ。 だが後世から見れば、それは決して奇襲とは言えなかった。前兆はいくつもあったし、原因も多くあったからだ。 第一の原因は、停戦後の大日本帝国から日本国になった事による混乱があった。 戦後、日本が有していた海外領土は、領土面積に言えば多くが大東亜人民共和国に不法占拠されていた。一八九五年から半世紀にわたり領土として熱心に開発を行ってきた台湾も、アメリカが奪い取るように中華民国に返還された。かろうじて沖縄、小笠原群島が日本の手に残ったが、ほとんどが米軍占領下にあった南洋諸島の過半もアメリカに明け渡すことになる。日清戦争以後の領土で辛うじて残ったのは、防衛の難しい南樺太と千島列島だけだ。 軍縮予定の軍隊及び軍備の多くも、大東亜人民共和国に流れたため軍縮の必要性も薄れた。それどころか、ソ連を中心とする共産主義と大東亜人民共和国の脅威を前に、日本の軍事力を維持・再建の必要性に迫られる。そのためアメリカは、日本に大規模な財政支援、食料援助、軍事支援をせざるを得なくなったほどだ。 これが戦後数年の日本の現状になる。 結果として、アメリカの意のままに日本政府は動かざるをなかった。 その象徴が、日本の民主化と軍の再編成だった。 軍の名称が、陸軍、海軍から、自衛軍に統合され、その下に陸海空自衛軍が再編成後に所属する事になった。もちろん軍の権限、統帥権は天皇にはなく、改訂された憲法上でも内閣総理大臣のものとされた。 また、徹底抗戦派の造反と満州を中心とする新国家建国も、列島日本に深い影を落とす。 正式な外交窓口がないのでまともな交渉にならず、米ソの仲介で辛うじて成立した話し合いも、両者和解にはほど遠いものだった。 わずかに成功した事は、戦後約2年間にわたり、出身地域別の帰国と個人として望む場合の相互移動を認めるという事柄だけだった。 これすら国連を介して行われ、他の話し合いは、いついかなる場合でも平行線を辿った。大陸日本側の名目的な独立後は、説得どころかまともな話し合いにならなかった。 しかも列島日本側としては、ソ連をバックアップにした軍事力を前にしては、武力に訴えることもできない。アメリカも時を経るごとに膨脹的なソ連に対する対決傾向を強めこそすれ、自らの戦時債務返還までは再び戦争を始める気はない。 しかも唯一実を結んだ相互移動事業も、問題は山積していた。 満州や朝鮮からの帰国を望んだ官僚や軍人、資本家、一部の移民者は、丸裸状態で彼らの支配領域から放り出された。いっぽう、入れ替わるように解放されたばかりの元政治犯が、大量に大陸日本側に流れ込んだ。何しろ実質的にはソ連の支配領域だから、彼らは喜び勇んで海をわたって行った。これが大陸日本側の赤化を呼び込む。この辺りは、とりあえずはソ連の目論見どおりだった。 ここでの列島日本の成果は、半島系日本人の過半を相手に押し付けることができたぐらいだとすら言われたほどだった。 その後も国連を介した話し合いや交渉が持たれたが大きな成果はなく、大陸日本では共産党殲滅を目的としたクーデターが発生。軍部主導を取り戻した大陸日本の戦争への熱意が再燃してしまう。当然だが、それまで行われていた相互移動も停止した。 そして戦争の二つ目の撃鉄となったのが、シナ(中華)中央での決着が一九五〇年に共産党勝利で幕を閉じたことだった。 シナ中央では、当初圧倒的優位だった国民党軍が、都市部に押し込められて各地で兵糧責めにあって各地で惨敗した。また、国民党内の腐敗堕落と、人民、軍人を道具以下に扱う愚行で民心が酷く離反。西安で独立宣言した中華人民共和国が、ソ連や大東亜人民共和国の援助を受けて、計画的後退の後は徐々に支配領域を広げた。 国民党軍は、北京・紫禁城の宝物庫胡宮院から膨大な美術品を持ち出すなど悪あがきとも言える逃走を重ね、何とか米華共同統治下にあった台湾島に逃げ延びた。一部は海南島に落ち延びた後に、日本や東南アジア各地、アメリカへと亡命していく。 また華北部の国府軍とそのシンパの人々が、大挙、それこそ数百万人単位で地続きの満州、いや大東亜人民共和国に持てるだけの資産を抱えて逃げ込んだとも言われた。資産を持っていったのは、今後の生活のためと言うよりは、身代金や亡命代金というわけだ。 そして大陸を追い出された人々の一時的受け入れ先の一つとして、日本列島も大混乱に見舞われたことが、大東亜人民共和国軍に解放戦争を決意させたと言われる。 後は雪崩を打ったように事態は流れた。 箇条書きにすると以下のようになる。
開戦の前年夏、東側陣営で作られた輸送船舶の多くが、対馬海峡の朝鮮半島側を極秘裏に多数通過したのを確認。 日本海や東シナ海での、新旧二つの日本軍の接触が増加。 日本軍の再編成は、遅々として進まず。 日本のなけなしの軍備が、ソ連を警戒して北方重視に配備される。 大陸日本の脅しに近い戦争決意を、ソ連が水面下で了承。 第二次世界大戦終了から約五年、アメリカの巨大な軍事力の約90%が動員解除される。 アメリカが自らの爆撃機戦力と核戦力が、十分な戦争抑止力になると思い込みすぎる。
おおよそは以上のようになるが、最後のファクターは一九四九年にソ連の原爆実験成功で効力が低下するなど問題があった。簡単に言えば、いまだ実戦で使われたことのない新型爆弾の威力と戦争抑止力にアメリカがナーバスになり、対馬海峡を挟んだ二つの異質な国家の混乱を呼び込んでしまったと言えるだろう。 そしてその末に発生したのが、歴史的に「東亜動乱」や「日本戦争」と呼ばれる、大東亜人民共和国によって始められた日本との戦争だった。
無骨な戦車が日本人の手により手際よく組み上げられていく情景を見ながら、有賀は日本人の上を覆い尽くす暗雲に暗い想いを抱いていた。 それが分かるのだろうか、バークが工場の喧噪に負けない明るい声をかけてきた。 「さすが日本の技術者や職人は優秀だ。これなら今我々が呉や横須賀でしている事も順調に運びそうだな、有賀」 有賀は、バークに軽くうなづく。 「そう言っていただけると心強い。私は軍艦以外は素人なので、乗艦がない以上今はこうして歩き回る以外ないんですよ」 「お気持ちはお察しするが、何かを成すための時間が人には必要だ。それを怠った者がこれまでの歴史上どれだけいたか。それを思えば日本自衛軍の態度は謙虚で実直だ。そして堪え忍ぶ事の勇気を忘れない者こそが勝利すると私は確信しているよ」 バークの言葉は、まさに良識あるアメリカ人の理想の一種そのものであったが、それだけに今は全く正しいように思える。そう感じたのか、関西弁訛の英語が間にはさまってきた。 「ワシには歴史や戦争の事はよう分からん。けど、工廠の事は色々大変やけど何とかします。九州に届ける戦車の事も任しとき。せやから、海軍さんの技師や上の方にもあんじょう言うといてや。そのために陸軍とアメリカさんの悪巧み見せたんやからね」
一九五二年二月十九日 呉
東雲陸軍技術少佐の言葉を胸に、翌日有賀とバークは汽車で呉海軍工廠に来ていた。 到着は、工場見学のあと陸上自衛軍の高官と話し合いなど様々な事があったため夜行列車になり、呉の海軍用の旅館にしけ込んだのは夜も明けようという頃だった。おかげでロク睡眠がとれなかったが、朝一番でいただいた風呂と今眼前に広がる旅館心づくしの朝食を前にしていると気力も出てくる気がした。 もっとも、和食に馴れていないバークは、ぎこちなく箸を使いながら食の異文化交流を続けていた。おかげで朝の会話は、有賀が主導権を握っている。 彼は、口の中のものを二三度息をかけながら冷まして食べ終えると、これからの事を口にした。食べていたのは、少し甘めの匂いを白い湯気にとけ込ませている厚焼き卵だった。 「ところでバーク提督。私は呉の事に係り切りでしたが、横須賀の方はどうなっているんですか」 「横須賀のご同業から連絡いってないのか?」 「はい、全く。まあ我が海軍の伝統が邪魔をしておりまして。しかも横須賀の第六ドック周辺は、今やサイエンス・フィクションのごとくの秘密基地並に厳重ですしね」 「SFか、こりはいい。けど、私にしてみれば今この現状こそが、異星人の星でもてなしを受けている気分だね。ここが月や火星だと言われても、素直に受け入れてしまうよ」 焼き海苔を食べたのか、口から黒いものをのぞかせながら笑顔を向けてくる。どうやら有賀の言葉によほどおかしみを感じたらしい。そんな口調のまま続ける。 「ああこれは失礼。けど、横須賀の第六ドックが秘密基地というのは同意だね。ステイツの技官が大挙して押し寄せて、日本の技術者や将校と毎日喧嘩腰の討論をしていたのは知っていたが、詳細まではなんとも。「信濃」を改造していたという、有賀が知っているレベルでしかないよ」 言葉の最後には、知っているが機密で話せないという声色があった。だから有賀もそれ以上追求することなく、会話を少しずらす事にした。雑談を用いてでも話さねばならない事は山積している。 「なるほどねぇ、まあ秘密基地て意味じゃあ、呉の第四ドックも変わりありませんがね。いまだに建造時に作った屋根がそのままですから、中に入らなきゃ何してるか分からんでしょう」 「確かに。しかしドック入りしてから長いな。我が国にそれほどいじられては、さぞ日本の技官の方々もご立腹のことだろう。任務の重さに目がくらみそうだよ」 「ハハハ、そうでもないようですよ。まあ牧野さんや堀井さんに会ってくだされば分かります」 有賀の言葉に短く答えたバークだったが、彼の手にはきゅうりとタコの酢の物の鉢が握られ、それを凝視したまま固まっていた。 (異文化交流ってのは、技術交流より大変だなあ) 自然と優しげな苦笑が浮かぶ有賀だった。
朝食から約二時間後、二人は従兵を案内に二つ目の目的地の呉工廠へと到着した。そこは、日本海軍最大の艦艇建造施設と鎮守府を兼ねた巨大な空間だった。 ほかに同地域にある軍港施設、海軍戦闘部隊と教育組織の本拠地とも言える柱島一帯、近隣の航空機開発を担当する広工廠の存在を考えたら、海軍の指揮中枢として設備を整えた横須賀より、遙かに巨大な軍事基地群といえた。 ここに匹敵しうる存在は、アメリカのノーフォークとイギリスのポーツマスぐらいだろう。しかも、今もこの基地は拡張を続けていた。 アメリカから大量の土木機械を輸入もしくは中古を供与された、海軍御用達の土建屋集団水野組が施設拡充に勤しんでいた。彼らの仕事ぶりがこの時アメリカ人達に認められ、その後スエズ運河の浚渫を行うのは何年か後の話だ。 そんな彼らがいじくり回している呉では、そこかしこに機械仕掛けの恐竜のような大型土木機械が、機械の森の土を食い荒らしたり、鋼鉄の木を植樹をしているのが見えてくる。その様は、まるで海軍工廠丸ごとが造船ドックになったかのようだった。実質的な敗戦から七年、まさに呉工廠は生まれ変わろうとしていた。 その証拠に、戦争もで特に傷を負うことのなかった古びた施設が次々に取り壊され、アメリカ式の最新設備へと変貌している。 そうした喧噪に満ちた空間を抜けた二人は、巨大な工場のような建造物に行き当たった。 目的地の呉第四ドックだ。 ここは、隣りにある造船ドックと共に日本海軍の大型艦艇を建造してきた場所であり、第四ドックはもっぱら主な艤装と改装工事、そして長期的な整備を行う場所だ。 ほかにも呉には3つのドックがあり、さらに造船ドックと第四ドックに連動する大型艦専門の艤装桟橋があった。巨大戦艦とは、それだけ建造に手間を要するものなのだ。呉の工廠そのものが巨大戦艦を作り上げる専門工場と言っても良いぐらいだ。 もっとも海上自衛軍と名を改めた今の海軍に戦艦と呼べる艦は、ここに鎮座する「大和」と舞鶴に張り付いている「長門」しかない。ほかにも、練習艦として金剛級の生き残り二隻が存在したが、艦齢三十年を越えて肉体を構成する鋼鉄が劣化し、ブラフとしてはともかく、とても第一線の任務に耐えられるものではない。戦争がなければ、間違いなく解体されていたほどだ。 しかも二人が今まさに入ろうとしている中で、「大和」は大規模な近代改装中で、敵手たる人民軍側に対して劣勢に立っていた。 何しろ向こうには「武蔵」がいるのだ。 しかも今回の「大和」大改装に、「武蔵」が深く関わっていた。
二人はサブマシンガンを持った陸戦隊兵が警備する扉を二度くぐり抜けると、ようやくドック内へ入ることができた。 中では様々な機械と金属の音に混ざって、アメリカ英語、平たい発音の日本英語、日本語の怒鳴り声が飛び交っている。そして喧噪の中央に、ひとつの鋼鉄の塊が鎮座していた。後方側面からの情景なので全てを把握することは出来なかったが、幾重にも組まれたスチールや木製の足場の中に巨大な主砲塔や艦橋構造物が見えている。 (間違いなく「大和」だ。けどえらく変わってしまったなあ) 有賀は見るなりそう感じた。わずか数日ここを空けただけなのにその変貌ぶりが分かった。だが、バーグの方には別の感慨があるようだ。何しろ彼は「大和」の実物を見るのは初めてだった。 「これが「大和」か。美しい」 いつになく言葉少なげに感動しきっている。 (よりにもよってビューティフルか。エクセレントやワンダフルと言った連中はいたけど、美しいって言った外人は始めてじゃないか) バークの言葉に少しおかしみを感じた有賀は、それに合わせようと思った。確かに戦艦というものは、理屈より気分で語る方が気持ちいい。 「ご存じですかバーク提督。本艦の装甲は、我が国の誇る伝統的武器の日本刀と同じ製法で作られているんですよ」 「最新鋭の戦艦が伝統技術を、冗談だろ」 「いいえ、冗談じゃありません。我が国にはアメリカやドイツのような優れた冶金技術がないので、日本刀の職人を呼んで装甲板に炭素を染み込ませたそうです。だからでしょうなぁ、これだけ美しく見えるんです」 「なるほど、そう思えば鋼鉄の鈍い輝きもブレードの煌めきに見えてきそうだ」 「もっとも今は、錆止めだらけのあられもない姿ですけどね」 彼らの会話の後ろから声がした。上品な発音のクインズイングリッシュで、それだけで人物がうかがえる声をしている。 「牧野さん、これは挨拶が遅れ申し訳ありません。バーク提督、紹介します。牧野茂海軍技術将補。今この呉工廠の最高責任者をしておられます」 「牧野です、初めまして」 「こちらこそ初めまして。USネイビー海軍少将、アーレイ・バークです。お会いできて光栄です。では、あなたが今この「大和」を手がけておられるのですか?」 「いいえ。そうしたいところですが、今は福井君、ああ福井静夫海軍技術二佐がこのドックの責任者です。今は所用で呉にはいないので、まあ彼の代わりにヒマが出来るとこうして眺めに来ているわけです。本当なら工廠長にも、設計家の私じゃなく西島君の方が相応しいいんですけどね」 牧野がいう西島とは、西島亮元海軍技術大佐。戦後はその卓越した建造管理技術を請われて民間に下野。今はアメリカで、呉で連れ添ってきた元部下数名と共にブロック工法についての技術指導にあたっている。
互いの紹介が終わると、そこからは場所を移して、「大和」が良く見える監督事務所に移った。 少し高い場所にあるそこからは、ちょうど「大和」の第二艦橋が見える。 「工事は順調なようですね、工廠長」 「ハイ、ようやくここまで組上がりました。これも福井君以下工員のがんばりのおかげですよ」 有賀の声に、嘘偽りない謙遜さをもつ牧野の声が答える。だが、その頑張った者の中に彼自身も含めるべきだろう、有賀の目はそう語っている。 そんな二人を見つつ、バークは我慢しきれないように目の前の巨大戦艦の現状について問いかけていった。もっとも、最初は英語で「牧野少将」と始めると、当の牧野が肩書きは少し気恥ずかしいのでもう少し柔らかくと懇願され、少し肩すかしを受けたような会話の始まりになった。 「失礼、では牧野さん、写真で見たことある姿との違いは、艦橋構造物のまわりだけのように見えますが、何が大きくかわったのでしょう。ステイツの技官もここに詰めていて、報告書は最後で出すと言い切って本国でも困っているのですよ」 「ハハハ、彼らしい。ではそれとなくレポートの件を言っておきましょう。しかし、あと半月ほどは難しいかもしれません。何しろ彼は、工員と一緒に寝る間も惜しんで「大和」にかかりきりですからね。どうやら祖国で新型戦艦を作れなかった事がよほど気に入らなかったようです。それを今回晴らしてやると意気込んでいますよ」 「なるほど。ニューポートニューズでの件はそれなりに有名です。だから本国も強くは出ていないのです。ただ、私個人の意見としても、同じ海軍軍人として「大和」の存在は気になります。ですから失礼を承知で、できれば概容だけでもと今日来た次第なのです」 もちろんこれは、日米両軍の技術交流を円滑にするための調停の一環に過ぎない。しかし彼の言葉に嘘はなかった。 戦後、日本軍の解体が止められてから、戦後受注の激減するアメリカの軍事企業の多くが、新たな仮想敵を抱え軍備を維持しなければならない日本への積極的な売り込みを始めた。 その流れを統制するためにアメリカ国防省も乗り出し、かつての敵に対して積極的な武器輸出と技術供与に出た。 しかし、中には最新技術はほとんど含まれてなかった。各国で微妙に仕様が異なる海軍艦艇の技術供与も低調だった。 だがそれも一九五〇年六月二十五日までだった。 大東亜人民軍が、大挙北九州に押し寄せた時、東シナ海警備についていた合衆国の打撃艦隊が大きな損害を受けたからだ。 この時のアメリカ海軍のショックは大きく、また復讐心はそれ以上に大きかった。軽率な者は日本人の前で、「セカンド・パール・ハーバー」と絶叫したほどだ。 だが、人民空軍が作り上げたミグの傘の前に、復讐を成し遂げることは適わず、その代わりとばかりに日本海軍(海上自衛軍)への全面協力となった。 象徴が、呉の「大和」と横須賀の「信濃」の大改装だ。「信濃」については後述するとして、まずは「大和」の変化について見ていこう。