■長編小説「虚構の守り手」

●付録「年表」(1)

●ねじ曲がった第二次世界大戦の終幕

1944年6月6日
 ・「ノルマンディー上陸作戦」

1944年6月9日
 ・ルーズベルト大統領、脳溢血で急死(※ターニングポイント)
 ・副大統領のウォレスが大統領に即時昇格。ただし、戦争中という事と次の選挙まであと5ヶ月だった事から、各大臣以下スタッフはほとんどそのままとする(副大統領のみ新たに任命)。
 ・ルーズベルトの死をドイツは悪し様に罵り、日本は昭和天皇の意向もあって東条内閣が丁寧な弔意を送る。

1944年6月19〜20日
 ・「マリアナ沖海戦」 日本惨敗

1944年6月26日
 ・アメリカ、日本に限定降伏(国体護持)の講和を水面下打診。
 ・水面下で講和(日本降伏)の交渉開始。

1944年7月8日
 ・サイパン島陥落。

1944年7月18日
 ・日本、サイパン島玉砕発表、東条内閣総辞職。

1944年7月20日
 ・ドイツ、「ヒトラー暗殺未遂事件」発生。以後、政治的混乱続く。

1944年7月26日
 ・アメリカ、「サンフランシスコ宣言」。日本に条件付き降伏を公に勧告。ソ連、アメリカを非難。ドイツ、日本を強く非難。

1944年7月28日
 ・日本政府、同宣言を国内事情から一度黙殺(無視)。

1944年8月6日
 ・アメリカ、サイパン島から東京を大規模無差別爆撃。
  (皇居は避けるも、公官庁街の近くの市街地を無差別爆撃)

1944年8月8日
 ・日本政府、サンフランシスコ宣言を受諾決定。以後日本国内で、政治的混乱が強まる。

1944年8月15日
 ・日本、連合国と停戦。ドイツ(枢軸国)は日本との関係断交。

1944年9月2日
 ・日本、連合国と停戦調印。アジア、太平洋の連合国軍は順次欧州に移動開始。二ヶ月で半減、特に陸軍は過半が移動。

1944年10月〜
 ・中華地域、国共内戦を事実上再開。戦後一年後ぐらいから本格化し、当初は国府軍圧倒的優位。
 日本軍は表向きはどちらにも味方せず、順次日本領内に撤退。日本本土でも、条約に従う形で動員解除急速に進む(実際は国庫の問題から)。
 ただし、大陸日本の存在があるため、中華民国軍の万里の長城近辺に大軍が駐留を続ける。

1944年11月
 ・アメリカ合衆国大統領選挙、共和党が勝利。

1944年11月15日
 ・日本、「列島重大事変」。大規模な軍事クーデターが発生するが失敗。クーデター派は満州、朝鮮半島に逃亡。日本は本土と外地で政治的に分裂。その後日本政府はクーデター派の説得にことごとく失敗。クーデター派は自らの軍事力を楯にして立てこもり状態に入る。
 ・アメリカ、停戦後の日本への内政干渉強化。同時期、ソ連の極東工作活発化。主にクーデター派と接触。

1944年12月
 ・アメリカ合衆国大統領に共和党のトマス・デューイ就任。アメリカ政府首脳刷新。

1945年1月20日
 ・米ソのベルリン競争過熱。東西双方で大攻勢が開始されるが、ドイツ側の事情で米英軍がリード。

1945年2月27日
 ・ドイツ、ヒトラー自殺。

1945年2月28日
 ・「ベルリン陥落」 米軍がベルリンを占領。

1945年3月8日
 ・ドイツ無条件降伏。第二次世界大戦終戦。
 ・東西分割占領ラインは、ベルリン東側のオーデル川。ドイツ主要部とチェコ(スロヴァキア除く)、オーストリアは既成事実的に英米が占領。ソ連の東欧での協定違反が原因。
 ・ソ連の満州(日本のクーデター派)への肩入れ強まる。

1945年4月
 ・ポツダム会談始まる(デューイ、チャーチル、スターリン)。

1945年5月26日
 ・「ポツダム宣言」採択。ドイツと分裂する日本に対する処置と不法占領下の北東アジア問題を討議。その後国連設立の話し合いへ。意見の食い違いから、米ソの対立が表面化。

1945年7月
 ・アメリカ、世界初の原子爆弾の実験に成功。
 ・「国際連合(UN)」成立。常任理事国に、アメリカ、ソビエト連邦、イギリス、フランスが選出(有力候補と言われた中華民国はアメリカの後ろ盾を得られず。表向きは内戦が理由)。

 

●日本分断と東亜動乱

1945年8月15日
 ・満州を中心に「大東亜人民共和国」建国宣言。ソ連など東側は承認。しかし、冷戦崩壊まで西側諸国を中心に三分の二以上の国からは、国家として承認されず。(以後、大東亜人民共和国は「大陸日本」とする)

1945年9月
 ・大陸日本に対する日本政府の説得はことごとく失敗。米軍の大戦力(主に海軍)が北東アジア近海に展開して示威行動を行うが、大陸日本の態度は硬化するばかり。また、欧州での果実を多く得られなかったソ連が極東アジアで強く出たため、アメリカも戦闘行為には及ばず事態は完全に膠着。各国の独立承認がないため、国連ではなく米ソを窓口とした話し合いが細々と行われる。
 ・大陸日本を強く非難する中華民国は完全に蚊帳の外。一度米軍の輸送力を借りて万里の長城を勝手に超えるが、精鋭部隊が大打撃を受ける。この時、大陸日本に中華民国が供与を受けた米軍兵器が大量に捕獲される。

1946年5月
 ・二つに分かれた日本を中心に、米ソ主とする国連立ち会いのもと、北東アジアでの日本人及び周辺民族の大規模な移動、移民のみが合意され実行に移される。この間、数十万の日本人が日本列島に帰国するも、大量の共産主義者と連合国から糾弾される日本人が大陸日本に渡る。
 ・その後大陸日本の赤化が急速に進み、現実から乖離した政策の数々から、早期に大陸日本内の共産主義勢力が疎まれる。

1946年11月
 ・大日本帝国、国号を「日本国」とする。
 ・叛乱勢力を阻止できなかった日本政府は、大陸造反以後、連合国の大幅な内政干渉を受ける。結果、憲法や制度を民主化の美名のもと大幅改訂(以後、「列島日本」とする。)。また、連合国の数々の内政干渉が、大陸日本に多くの日本人を大陸にさらに走らせる。
 ・以後二つの日本は、一時的な人の移動期間を除いて断絶。軍事的にも激しく対立し、一触即発の状態が続く。

1947年3月
 ・アメリカ、艦隊を初めとする軍事力の一部を日本近辺に常時配備。造反した日本人に対して脅迫を用いた説得を続行。大陸日本の姿勢をますます頑なにさせる。

1948年
 ・イスラエル建国。「第一次中東戦争」勃発。

1948年9月
 ・ドイツ連邦共和国成立。ソ連が占領統治したオーデル川以東の旧東プロイセンは、ポーランド領とソ連の飛び地となり、旧ドイツ領、ドイツ住民のあまりの少なさから共産主義政権の共産主義政権のドイツは成立せず。米英仏ソの協同占領地だったベルリン(東ベルリン)も、ドイツ新政府に返還される。欧州での東西対立構造固定化。以後欧州では、オーデル川を挟んで東西対立が進む。これにより、ソ連の欧州での防衛姿勢と東方重視政策強化。

1949年
 ・「北大西洋条約機構(NATO)」成立。
 ・社会主義諸国、「経済協力機構(COMECON)」結成。大陸日本は後に加盟。

1949年5月
 ・大陸日本にて軍事クーデター。無茶な政策ばかり行った共産主義勢力が完全に排除され、軍部と官僚、資本主義を容認する社会主義政党による支配体制が作られる。しかし、東側陣営のスタンスは全く変わらず。スターリンもクーデター派支持を表明。
 ・国内経済と内政運営は以後好転し、ソ連からの援助と国内開発、軍需により経済は急成長したとされる。

1949年11月
 ・中華人民共和国、北京を占領。西安で独立宣言。中華民国は共産軍の包囲作戦を前にほとんどの地域で敗退を重ねる。北京方面の中華民国軍と難民が、大量に大陸日本に亡命。

1950年2月
 ・中華人民共和国、中華主要部を制圧。中華民国政府は1950年春には台湾島に逃亡。当初北京に首都を置く事に強い懸念があったが、国内の権威付けのためそのまま強行。ただし、北京は常に防衛都市とされた。
 ・また、共産側を強く援助したソ連は、見返りにウイグル(東トルキスタン)の自治独立を人民政府に認めさせる。西側は対抗して、インド側からチベット保護を開始。
 ・いっぽう大陸日本は、クーデターまでは共産軍に大きな援助を行い、クーデター後には敗退した国民政府側の者を亡命として、一千万人以上受け入れる。

1950年春
 ・大陸日本国内での兵力の動きがリークされ、対馬海峡を中心にした二つの日本の軍事対立が突如激化。列島日本では、慌てて軍備の再編成が進められる。アメリカは、列島日本からの情報をあまり重視せず。

1950年6月25日
 ・「東亜動乱」勃発。大陸日本が、北九州に侵攻。
 ・「対馬沖海戦」。米海軍大損害。
 ・列島日本では、国内のリベラル政党による極めて強い反対で徴兵と総動員法案が否決。限定的な戦時法の実施と動員のみが行われる。政府レベルでの対応と防衛が遅れる。
 ただし、侵攻と時を同じくした国内でのテロ活動の殆どは封殺。最終的に数千人の逮捕者を出す。旧特高、憲兵の再評価。

1950年6月27日
 ・国連、国連軍の編成を賛成3、棄権1で決定。米軍を中心にした日本救援軍の編成と派遣が始まる。

1950年7月
 ・「日米安全保障条約」締結。
 ・米軍、原爆実戦使用。釜山壊滅。大陸日本が、釜山の惨状を広く公表し、国際世論がアメリカを非難。米軍の国連軍編成が大軍レベルで難しくなる。「東亜動乱」は、年内には北九州地区で戦線膠着。国連軍も、米軍の原爆投下で派遣が下火。
 ・列島日本は自らの戦争で経済が息を吹き返し、九州の北半分以外では戦争特需が到来。ただし鉄が足りないため、広畑など八幡以外の製鉄所の機能拡張が急がれる。

1950年9月
 ・大陸日本軍、熊本方面に攻勢をかけるも、大損害を受け作戦は失敗。
同月
 ・国連軍、大陸日本軍の戦力分析の結果、後方への奇襲上陸を断念。

1950年10月
 ・米軍の本格的援軍(師団規模の地上部隊)の第一陣が九州に到着。大陸日本の進撃は完全に沈静化。以後約一年は、第一次世界大戦の西部戦線のごとく小競り合いに終始。双方とも政治的制約から戦力、決定打共になし。

1950年12月
 ・大陸日本、北九州地区の住民の多くを解放。以後数ヶ月、列島日本及び国連軍は難民対処で身動きがとれなくなる。その間に、大陸日本軍の主要戦線は野戦要塞化。

1951年3月
 ・列島日本軍及び国連軍が、初の大規模な地上反撃。大陸日本軍の野戦要塞線に捕まり大きな犠牲だけを払って後退。

1951年9月
 ・大陸日本、熊本前面で小規模な攻勢。農作物の奪取が目的と言われる。

1951年12月
 ・「クリスマス攻勢」大陸日本の攻勢が失敗。戦線が膠着したまま時間だけが過ぎ去る。
 ・以後、またも小競り合いだけの膠着状態に陥る。

1952年3月
 ・国連軍、日本艦隊が中心となって対馬海峡の「ミグ回廊」の破壊を目論むが、多くの損害を受けて失敗。

1952年6月
 ・「大陸大返し」。大陸日本が「作戦目的を達成した」として北九州から全面撤退。国連軍、列島日本軍はこれを阻止できず、追撃戦で大損害を受ける。
 ・「第二次対馬沖海戦」。大陸日本側が作戦成功。
 ・以後夏までに、日本軍及び国連軍は、占領地を全て奪回。足止めなどのために残った大陸日本軍は、任務を終えると降伏。

1952年夏
 ・米、初の水爆実験(ビキニ実験)
 ・国連軍による大陸日本に対する航空攻勢は失敗。多くの損害を出し、ソ連軍の関与が強く疑われる。ソ連側は「ごく小数の自発的義勇兵」の参加を後に認める。

1952年秋
 ・二つの日本に対して、国連が仲介と停戦の話し合いの場を設ける。大陸日本も代表を送る。

1952年11月
 ・共産圏、「ワルシャワ条約機構」成立。大陸日本は後に加盟。

1952年暮れ
 ・国連軍、対馬に上陸作戦決行。大陸日本は、ごく一部を除いて既にほぼ撤退。国連軍、対馬奪回以後対馬は列島日本(+米軍)により要塞化される。「ミグ回廊」完全消滅。
 ・以後、双方は、国連軍の戦略爆撃以外は、海空での小競り合いだけになり小康状態化。米軍の戦略爆撃も、迎撃に特化した大陸日本の空軍に対して効果は微弱となる。

1953年1月
 ・米、アイゼンハワー大統領就任

1953年3月
 ・ソ連、スターリン死去
 ・大陸日本、スターリンの死に大きく動揺。しかしソ連の姿勢は、少なくとも表向きはほとんど変わらず。
 ・同月、大陸日本で軍の一斉人事異動。列島解放軍総司令官だった富永大将など、軍強行派が事実上粛正される。以後行方不明となる需要人物が多数出る。軍トップの牟田口大将、石川大将は留任。

1953年4月
 ・二つの日本が停戦の話し合いを本格化。大陸日本では、広田弘毅が中心となって活動

1953年7月25日
 ・「東亜動乱」休戦発効
 ・国家としての相互承認のないまま、列島日本と大陸日本の分立と対立が固定化。一部捕虜、抑留者の交換と移民が実現した他は、休戦と非武装地域(海域)の設定以外何も解決せず。

1953年9月
 ・二つの日本の停戦発効と停戦協定に従い、朝鮮半島南部にソ連主導で「大韓人民共和国(共産韓国)」が独立を宣言。朝鮮半島北部は、現地での国民投票の結果、大陸日本が領土としてそのまま保持。ただし共産韓国国内では、民族自決に従いロシア人、日本人住民が国外に移住して資産が国外に持ち出されたため、以後は東側の援助があるも長らく世界最貧国の一つとして過ごすことになる。
 ・国連軍、共産韓国を承認する為、大陸日本(大東案人民共和国)の主権も承認。しかし列島日本は承認せず。他、中華人民強国や旧大日本帝国に侵略を受けた国を中心にして、承認しない国は多数に上る。共産圏の団結に速くも溝が生まれる。また、大陸日本、共産韓国共に、国連加盟は遅れる。
 ・また、以後二つの日本は直接国境を接しない地理条件によって、直接的な国境紛争や武力衝突からは遠ざかり、強く対立しつつも次なる戦争に向けて互いに国内再建と経済建設に向けて動き出す。

 
●冷戦期間

1954年
 ・大陸日本、満州北部で大油田発見(正確には、本格的な採掘開始)。「大和油田」と命名。その後、大陸日本の再起と発展の象徴となる。(※史実の大慶油田)

1955年
 ・「アジア・アフリカ会議」。列島日本も参加。
 ・列島日本、「神武景気」。大規模な戦災復興景気を発端として、高度経済成長始まる(〜一九七三年)
 ・列島日本、憲法改正。連合軍による歪な点を是正。軍も組織などを変更。組織は米軍に近いままだが、ほぼ旧軍の名称に戻る。
 ・列島日本、二大政党制安定化(自由党と民主党による五五年体制。共産党は憲法で完全否定。社会党系政党も弱小のまま)

1956年
 ・ソ連、「スターリン批判」。スターリンの強い後ろ盾を得て国を保っていた大陸日本の立場が、いっそう微妙になる。しかもソ連も、大陸日本と距離を置く姿勢が出る。
 ・大陸日本内では、対西側融和路線と共産主義政権復活の二つの流れが生まれ、以後数年間内政的混乱が続く。大規模な暴動も発生。暴動の裏には、中華人民共和国の影あり。大陸日本は、列島日本への圧力こそ減らすが、同じ陣営となる共産中華への事実上の圧力は減らさず。
 ・「日ソ共同宣言」。列島日本はソ連と国交正常化するも、大陸日本問題、賠償問題、領土問題などで禍根を残したまま。
 ・大陸日本、共産韓国、共に国連に加盟。日ソの取引で、列島日本が両国の国連加盟を事実上黙認。
 ・西側諸国、大陸日本をソ連から引き離すため、表裏双方で接触を行うようになる。
 ・「ハンガリー動乱」
 ・ソ連は世界戦略上、大陸日本を自陣営を認める姿勢を続ける。
 ・ソ連のコントロールが緩んだ為、大陸日本と共産中華の関係悪化が急速に進展。

1957年
 ・「国際地球観測年」列島日本も南極観測に参加。昭和基地建設。世界中でロケット打上機運高まる。
 ・大陸日本と共産中華の境界線で、互いに軍隊を積み上げるチキンゲームが本格化。敵対関係が進む。

1958年
 ・共産中華「大躍進」。
 ・無茶な政策により経済・産業が一時的に崩壊し、未曾有の飢饉で数千万人の餓死者が発生。
 大陸日本に対する、ソ連の姿勢が再び親密化。以後の大陸日本は、東側でも有力な市場経済(社会主義市場経済)を持つ国という利点と、地下資源と食料、重工業を武器に大きく発展。以後十年にわたり、ソ連と共に大きく躍進したと宣伝される。また、東側ながら民間企業や資本主義(軍部独裁+社会主義市場経済)が生き残っているので、第三国経由で西側経済とつながりを保つ役割を持つようになっていく。連動して、ソ連極東も大きく経済発展。後に、シベリア鉄道も路線強化されるほどとなる。
 ・「長城紛争」
 大躍進で発生した大量の飢餓難民が、大陸日本に亡命を開始。
 大陸日本は、当初は反共産中華政策の一環として、スパイ審査だけで受け入れ。しかし大規模化すると共産中華が強く反発。軍隊を派遣して亡命阻止に動く。共産中華の動きに合わせて、大陸日本も境界線に軍備を増強。偶発事件から銃撃戦発生。そして互いの疑心暗鬼から大規模な戦闘に発展。
 「エスカレーション理論」をシミュレートするように、双方が軍を次々に投入して戦争は大規模化。空中戦も起きて、日本側は洋上からも艦艇による艦砲射撃も実施。ほとんど全面戦争のような状態に発展。
 国連は強く警告するが、国連に加盟しているのが大陸日本だけなので、効果はほとんどなし。アメリカも迂闊に動けず。
 しかし、装備に優れる筈の大陸日本軍が大規模な攻勢に出ないことから、弱腰だと判断した共産中華側が大軍を投入。既成事実による「領土奪回」を画策して大規模な侵攻を開始。掠奪し放題と考えた各軍閥の軍隊は、半ば無秩序に大陸日本領内に侵攻を開始。当初、全てに対応不可能な大陸日本軍は、遅滞防御戦のみの対応しかできず。しかし朝鮮半島、本国中枢から注げる限りの増援を注ぎ込んで反撃。最終的に、侵攻した五十万人以上の人民解放軍は殲滅される。
 そして大陸日本は、国土を奪回する直前にソ連に打診する。それは正式な宣戦布告と、共産中華に対する全面戦争の許可を得ることだった。しかしソ連政府が強く止めた為、宣戦布告と全面戦争は中止される。
 紛争の結果、大陸日本の国家意識の上昇と団結が強化されて軍部が威信を取り戻し、国内で燻っていた共産政権復活に向けての動きは立ち消える。共産中華では軍と中央双方の権威が低下。しかし紛争に大挙参加した地方軍閥も壊滅状態のため、相対的な力関係に大きな変化無し。
 国際的には、勝利するも越境しなかった大陸日本の評価が見直される。
 ・以後、大陸日本と共産中華は国交断絶し敵対状態になる。
 ・双方の対立激化により列島日本への直接の圧力が減る。軍備を多少抑制した列島日本の経済成長が加速。この頃から国防費はGNP3%が目安になっていく。同年、東京タワー完成。

1959年
 ・「キューバ革命」キューバにカストロ共産政権成立。大陸日本はいち早く国交樹立。
 ・ソ連、ロケット打上に成功(人工衛星スプートニク1号)
 ・辻政信、大陸日本の大統領に就任。数年前の長城紛争での対応が評価された形となる。

1960年
 ・大陸日本、列島日本での明仁親王(皇太子)の婚礼に際して大きく報道すし、さらには異例の祝電を送る。
 ・「安保闘争」。列島日本では、反米運動と親共産主義派の学生運動が激化。大陸日本打倒も掲げるが、裏に大陸日本の影があり。東京の一部では、市街戦まがいの争乱に発展。戦後初めて戒厳令布告。鎮圧に軍隊すら出動して政治問題化。しかし当時の首相だった岸信介は、この時の果断な決断から逆に大陸日本派のレッテルが取り除かれ評価を高める。
 ・列島日本、「日米安全保障条約」改訂。
 ・この時期、列島日本では大学生を中心とする大陸日本亡命が活発になり、阻止するため海上保安庁を大幅強化。大陸日本も対向して、海軍の沿岸警備隊を強化。大陸日本では、海軍の再建の端緒となる。

1961年
 ・大陸日本、戦艦《武蔵》を近代改装して現役復帰。多数の大型ミサイルを搭載した姿となる。対抗措置で、列島日本も戦艦《大和》を緊急に現役復帰。

1962年
 ・「キューバ危機」全面核戦争3分前といわれる。
 ソ連はキューバに巡洋戦艦を派遣するも、
 二つの日本も対馬海峡と東シナ海、日本海で、深刻な睨み合い。巨大戦艦の睨み合いが象徴的となる。米ソ同様に戦争直前にまで軍事的緊張が高まり、双方に早期の核軍備を決意させる。
 大陸日本、辻政信大統領辞任して下野する。

1963年
 ・列島日本、OECD加盟。大陸日本は、東側の優等生と言われるほどの経済発展を開始。二つの日本は、経済発展で競い合う姿勢を強める。
 ・米、マーティン・ルーサー・キング牧師演説。「私には夢がある」(黒人差別問題)。世界初の衛星放送。ケネディ大統領暗殺。アメリカの斜陽始まる。

1964年
 ・「ベトナム戦争」開始。
 ・列島日本、東京オリンピック開催。国威上昇に拍車。大陸日本も参加。列島日本に、戦後初めて正式に大陸日本の人間が入国。両者の間に緊張緩和(デタント)機運高まる。
 ・大陸日本は、ソ連のロケットで自国人を宇宙に送り届けて列島日本のオリンピック開催に対抗。
 ・大陸日本、新京タワー完成、列島日本より高くする。また満鉄の「弾丸特急鉄道構想」を発表。

1965年
 ・米、北ベトナムに対して「北爆」開始。
 ・大陸、列島双方の日本軍が、それぞれ南北ベトナムに派兵開始。各地で戦闘を交え、再び日本人同士が殺し合う。極東での軍事緊張も少し強まる。
 ・列島日本は、派兵の代償として多くの外貨、技術、市場をアメリカからもらう。高度経済成長にカンフル剤となる。
 ・大陸日本は、北ベトナム支援の橋頭堡として、中継点ばかりでなく生産拠点としても活用され、こちらも軍需の特需に沸く。

1966年
 ・共産中華で「文化大革命」始まる。未曾有の粛正と飢饉、文化破壊が発生。ナンバー2の林彪が大陸日本に政治亡命し、共産中華の現状を全世界に暴露。大陸日本で共産中華国境に対して準動員体制。ベトナム戦争と合わせて、大陸日本の国是である「東亜の開放」機運が高まる。
 ・「第二次長城紛争」
  文革で主な役割を果たす若者数十万人が、自発的に満州奪回、林彪引き渡しを旗印に長城地帯に殺到。大陸日本がソ連を介した全世界放送で蛮行を伝えた報道の後に、業を煮やして武力鎮圧。その後両軍の戦闘にも発展。様々な意味での国際問題となる。
 大陸日本、共産中華の国家崩壊に伴う流民を警戒し、結局、共産中華に対する戦争もを中止。

1967年
 ・列島日本、原爆実験成功。大陸日本の「東亜の開放」に冷や水。共産中華が文革で国際的評価と国力を大きく下げた事もあって、大陸日本の軍事行動に向けての動きは沈静化。原爆開発の後ろには、アメリカの強い支援があり(ベトナム戦争積極参戦の報償)。
 ・列島日本、北ベトナムに対してベトコン補給路に対する戦術爆撃を強化。大きな成果を挙げるが、途中でアメリカに止められて中止。
 ・「ヨーロッパ共同体(EC)」成立

1968年
 ・ベトナム戦争、「テト攻勢」。列島日本軍も激しい戦闘に巻き込まれ、国内で反戦機運が高まる。反戦運動の裏に大陸日本や共産主義の影があるとされるも、国民全体も非戦機運に傾く。しかし列島日本政府は、アメリカと共に最後まで南ベトナム派兵を続ける。
 ・二つの日本の巨大戦艦が、ベトナム沖で睨み合い。全世界中継される。列島日本は、米英と同様に空母も派遣。
 ・大陸日本、原爆実験成功。当初は西側から酷い非難と軍事圧力に晒されるが、そもそも西側諸国との交流が少ないため自然終息。

1969年
 ・米、月面着陸成功。
 ・列島日本での学生運動最後のピーク。今度は大陸日本との連携を謳ったりするが、以前ほどの力はなし。無茶な亡命騒ぎも起きず。

1970年
 ・列島日本、大阪エキスポ開催。高度成長や核軍備と合わせて、列島日本の国威上昇。ロケット打上にも成功。ベトナム戦争を国内発展で誤魔化す。
 ・関係の悪い大陸日本を特別招待し、前後して二つの日本の間でのデタントを再開。

1971年
 ・列島日本、「ニクソン・ショック」による円の国際的価値上昇(360円→320円)を受けてGNPがドイツを抜いて世界第二位となる。

1972年
 ・アメリカのニクソン大統領訪中。
 ・日中国交正常化。大陸日本が強く反発。しかし日中間の交流や経済協力は、大陸日本問題もあってあまり活発化せず。二つの日本のデタント機運が再び低下。
 ・中華人民共和国(共産中華)が国際的に認められ、逆に台湾島の中華民国の政治的地位が急落。共産中華が独立を認めない大陸日本も存在が危ぶまれる。背景には、共産中華の核武装とアメリカが共産中華もソ連包囲網に加えるべく動いた結果。大陸日本は伝統的親ソ政策と対共産中華包囲戦略をさらに強化。戦車や戦闘機、ミサイルの最新型を図面ごと購入するなど、形振り構わない軍拡に出る。第三国への兵器輸出も活発化。「悪の軍事国家」として世界的に見られるようになる。
 ・日本、冬季オリンピック開催(札幌)。大陸日本は、列島日本と共産中間国交樹立に抗議して不参加。圧倒的に冬季競技に強かった為、大きな番狂わせとなる。
 ・戦略兵器制限条約(SALT)調印

1973年
 ・第三次中東戦争勃発。アラブ諸国は、イスラエルを支援する先進国に対して原油値上げで対抗。
 ・「オイルショック」西側諸国大打撃。列島日本の高度経済成長終了(※GNP上昇は史実の8割程度にとどまる)。以後、列島日本は、安易な外貨獲得のため武器輸出を拡大(武器輸出三原則は、核兵器、弾道弾兵器は輸出しない。東側には何も輸出しないとなる)。一方、年間産油量5000万トンの油田を持つ大陸日本が、第三国を通じて石油を少しだけ安価で世界中に販売。国際的地位を高めると同時に、石油で外貨を稼ぎ国内開発を進展させる。

1974年
 ・列島日本、南ベトナムより完全撤兵。日本軍はアメリカよりも長く止まり、一部民間船も動員して脱出船団を組織。一部は北ベトナム軍と戦闘。日本のベトナムへの固執は、大陸日本との対立が原因と言われる。
 ・米、「ウォーターゲート事件」でニクソン大統領が辞任。アメリカの斜陽強まる。

1975年
 ・ベトナム戦争終戦。社会主義陣営の勝利。列島日本、南ベトナムの難民を多数受け入れ。脱出の一部援助も行う。
 ・大陸日本、カムラン湾への駐留始める。
 ・列島日本、水爆実験成功。大陸日本に衝撃。
 ・初の先進国首脳会議(サミット)開催。米・英・仏・独・伊・日が参加。列島日本の国威は大幅に向上。

1976年
 ・二つの日本が、二国間対話を行う。カーター政権のアメリカ政府と列島日本の考え方にズレ。二つの日本の間で、力の外交が展開される。
 ・共産中華、周恩来、毛沢東死去。毛沢東側近の江青ら「四人組」逮捕。以後共産中華は、改革解放路線へと針路を取り始める。

1977年
 ・「中越紛争」。共産中華がベトナム国境に大規模越境攻撃。大陸日本はベトナムを支援し、兵器などを供与すると共に自国領から領空侵犯やベトナムへの艦隊派遣で圧力。共産中華、西側との関係を親密化に動く。さらに共産中華は大陸日本との対立を強める。
 ・共産中華(中華人民共和国)、原爆実験成功。西側諸国から非難高まる。双方の日本との対立が強まり、大陸日本は親ソ政策を強化。また大陸日本は、インドなど共産中華の敵対国との関係も強化。各地の発展途上国への経済進出も強まる。

1978年
 ・列島日本、自らの石油戦略からアラブ諸国との関係強化を本格化。多くはアメリカの後ろを追いかけるもので、初期はイランとの関係も強化。

1979年
 ・イラン、イスラム原理主義革命。
 ・ソ連、アフガニスタン侵攻。大陸日本は、後にソ連の要請を受けて少規模の戦闘部隊を派兵。
 ・レバノン紛争 「第二次オイルショック」

1980年
 ・「イラン・イラク戦争」
 ・列島日本はタンカー護衛、機雷掃海のためペルシャ湾に艦艇派遣。戦中はイラクの化学兵器を使用後は中立の姿勢を示す。
 ・大陸日本は武器売買でイラクとの関係強化。後に軍事顧問団も派遣。この頃から二つの日本の兵器が、世界中の市場に出回り出す。
 ・西側諸国、モスクワ・オリンピック不参加。大陸日本は、柔道などで大活躍。

1981年
 ・米、レーガン大統領就任。軍拡路線に傾倒。
 ・列島日本、「中期防衛力整備計画」で軍拡。中曽根政権成立後の翌年には、GNP3%枠を10数年ぶりに突破。大型空母の建造も決まる。大陸日本もソ連と歩調を合わせつつ軍拡に転じる。極東の軍事緊張が高まる。大陸日本でも、対向した軍拡政策を策定。双方の日本で、巨大戦艦の近代改装実施。

1982年
 ・「フォークランド紛争」 アルゼンチン側に輸出された列島日本の兵器が活躍。対艦ミサイルが威力を発揮し、中古の通常型潜水艦が原子力潜水艦を撃沈。以後、列島日本の武器取引額増加。経済成長の要因の一つと言われる。

1983年
 ・米、戦略防衛構想(SDI)発表。

1984年
 ・「第三次長城紛争」
 対立の続く大陸日本と共産共産中華が、越境亡命者を巡る偶発事件から大規模な軍事衝突に発展。
 当初は国境警備隊同士の銃撃戦だったが、すぐに増援を送り数に勝る共産共産中華軍が一部越境。これを大陸日本が全世界に中継。その後大陸日本軍が総攻撃を実施。激しい空中戦も行われ、共産中華国境側にも激しい爆撃を加える。ソ連の新型機を既に導入していた大陸日本に対して、共産中華空軍は歯も立たず。砲火は北京郊外にまで及び、共産中華では非常事態宣言が出され、市民にも多くの犠牲が出る。大陸日本は海軍も大挙出動させ、共産中華の海上交通を強く脅かす。潜水艦による艦艇撃沈まで実施。
 最後の第三次世界大戦一歩前と言われ、世界中でも戦争準備の前段階まで進む。
 結局、大陸日本軍が越境してきた共産中華軍を完全に殲滅するも、大陸日本軍の残虐性と軍事衝突の国際的な政治的影響で、国内でも軍部の政治的権威が失墜。以後、官僚と財界にパワーシフト。
 一方共産中華では、敗北で軍人や各軍管区の権威を低下させ、兵員数も大幅に削減することに成功したので、内政的には大きな成果があったとされる。しかし経済的には大きなマイナスで、紛争による経済の混乱で外資の多くが撤退し、この年のGDPはマイナス成長を記録する。
 ・東側諸国、ロサンジェルスオリンピック不参加。大陸日本も不参加。

1985年
 ・ソ連、ゴルバチョフ書記長就任。改革始まる。ソ連、大陸日本から顧問を呼んだり、調査団などを大陸日本に派遣。
 ・米、債務国に転落。
 ・列島日本、対外貿易黒字世界一。
 ・「プラザ合意」日米、円の切り下げに合意。アメリカに対する反感増大。列島日本は起死回生の財政政策を打ち出し、列島日本経済の金融面の膨脹始まる。

1986年
 ・ソ連、チェルノブイリ原発事故。
 ・ソ連、「ペレストロイカ」始まる。
 ・大陸日本、親ソ政策の影響で自らも資本主義経済と開放政策を推進。まずは、国内の法制度整備と第三世界との交流を活発化。
 ・米、スペースシャトル打ち上げ失敗。アメリカの宇宙開発停滞。逆に列島日本では、航空産業の拡大に伴い宇宙予算は増額傾向。

1987年
 ・列島日本、「バブル景気」到来。
 ・大陸日本、事実上の独裁政党だった東亜社会党が左右二派(社会民主党、東亜人民党)に分裂。改革か路線堅持で揺れる。
 ・アフガン内戦激化、国連武力介入決定。列島日本もPKF派遣。
 ・列島日本、外国人労働者、事実上の移民の急増始まる(じゃぱゆきさん)。後に、大陸日本からの流入が増える。

1988年
 ・イラン・イラク戦争終戦
 ・大陸日本、保守派がクーデター未遂。改革派が政治的に勝利。保守派、軍部の政治的権威は大きく低下。数ヶ月後、朝鮮半島南部に駐留する列島解放軍の撤退始まる。
 ・二つの日本、平和的会談を実施。人的交流、経済交流も本格的に再開。
 ・列島日本、「青函トンネル」開通。本州・四国唯一の架橋「瀬戸大橋」完成。日本国内の社会資本整備完了の象徴となる。以後、一部を除き大規模公共事業減少。列島日本内では、急速に融和の進む大陸日本への注目集まる。一部では経済交流と投資が始まる。
 ・列島日本、名古屋オリンピック開催。大陸日本も参加し、融和ムードが進む。また日本では、オリンピック閉会に伴う景気縮小に警戒感が強まり、いっそう大陸日本への関心と接近を行う。

1989年1月3日
 ・大陸日本、初の本当の意味での民主選挙実施。同時に国民投票を実施し、国の行く末を定める。
 ・大陸日本、改革を内外に示すため、国号を「大東亜人民共和国」から「東亜連邦共和国」に変更、本格的な改革始まる。憲法大幅改訂、地方自治、民族自治を強めるなど多岐に渡り国政を改革。独自に民主的な総選挙も実施。(※個人資産、一般企業や市場経済は元から存在している。)
(※以後、大陸日本は東亜連邦と記載)
 
1989年1月8日
 ・列島日本、昭和天皇裕仁逝去。明仁親王践祚。東亜連邦からの特使を列島日本が受け入れ。二つの日本の融和ムードが心理面で急加速。二つの日本では、「平成御一新」と呼ばれる変化が始まる。

1989年6月
 ・共産中華、「天安門事件」。改革派失脚、民主主義化に向けた動きも停止。共産中華の一党独裁と軍国主義が強まり、国際的孤立深める。以後経済的にも大きく低迷。
 列島日本は、事件以後長らく共産中華を事実上無視。制裁措置として資産、邦人の大規模引き揚げも実施。

1989年11月
 ・「マルタ会談」(ブッシュ・ゴルバチョフ)。冷戦終了。
 ・「対馬の和解」 列島日本と東亜連邦が完全に和解。相互承認と共に国交樹立。
  同時に、共産韓国は、東亜連邦と国交を断絶して国際的に孤立。共産中華も、大陸日本との和解への制裁として列島日本との関係を一時的に絶つ。逆に東亜連邦は台湾と国交樹立。共産中華が大陸日本の境界線に軍隊を並べて威嚇するが、それ以上の軍を並べて対向。今度は紛争に発展せず。

 

●冷戦崩壊

1990年
 ・ソ連、ゴルバチョフが書記長から大統領に。
 ・列島日本、「満州特需」。
 ・東亜連邦という広大な市場を与えられ、そのまま好景気を維持。広大な土地と市場が手に入ったも同然なので、国内の無軌道な不動産バブルが徐々に終息。バブルで膨れあがった国内の膨大な名目資産と景気そのものを軟着陸させるためにも、東亜連邦の完全な資本主義国化に全力を投入する。アメリカを始め世界中に向っていた実体を持たない膨大な投資も東亜連邦に傾注。「バブル経済」は「満州特需」に移行。内需拡大への転向予定は、そのまま東亜連邦への外需拡大と実質を伴った資産拡大に発展。その後矛盾も大いに吹き出し、幾分落ち着いた好景気の中で企業淘汰と経済改革が進行する。

1991年1月
 ・「湾岸戦争」
 二つの日本が共同で多国籍軍側に派兵。双方にとっての初めての共同戦線となる。東亜連邦とアメリカの関係も改善。以後、PKO、PKFで世界各地に協同派兵するようになる。巨大戦艦「大和」「武蔵」、47年ぶりに肩を並べる。
 ・イラク軍が散々に負けた事で、東亜連邦の武器輸出に大打撃。列島日本の経済進出に頼る傾向が強まる。

1991年夏
 ・南アフリカ、アパルトヘイト(人種隔離政策)完全廃止。東亜連邦でも日本人とそれ以外の民族、人種の格差が問題視される。

1991年暮れ
 ・ソ連崩壊。冷戦終結。東欧各地で革命、民主化。東亜連邦の改革は順調。ソ連などから東亜連邦に多くの移民が流れ込むようになる。

1992年
 ・大陸日本、東亜連邦の名でオリンピックにも参加。国際的に大陸日本の変化が受け入れられ始める。
 ・「欧州連合(EU)」成立。ユーゴ崩壊。

1993年
 ・二つの日本は、独自の核軍縮を決定。弾頭数の大幅削減、東亜連邦の戦略爆撃機、中距離弾道弾、列島日本の大陸間弾道弾全廃。(巡航ミサイル、潜水艦発射型弾道弾のみ保有)
 ・両国共に通常軍備の大幅削減も実施。軍事費は一気に三分の二に減少。
 ・東亜連邦、日本資本以外の外資の投資が急加速で拡大。共産中華に戻り始めていた欧州資本も東亜に流れる。

1994年
 ・大韓人民共和国、金日成死去。金正日による軍を用いた強権政治開始。官僚が強く反発。しかし、大陸日本(東亜連邦)との断交以後、経済的苦境が続き国庫は破綻。同時期に飢饉発生。
 ・日米コンピュータ競争に一つの節目。OSを巡る争いで、日本は「TRON94」を発売。東亜との関係が影響したと言われる。以後、TRONとアメリカのMS社のWindowsが世界で市場を二分。

1995年
 ・東亜連邦、旧東側アジア諸国(モンゴル、東トルキスタンなど)との経済共同体構想を発表。満州特需でさらに肥大化していた日本資産が、東亜連邦を経由してユーラシア奥地にも流れ込む。ロシア・シベリアへの進出と、数年後の中央アジア進出の足がかりとなる。
 ・共産中華、東亜連邦に強く反発。
 ・列島日本の都市部で大地震。東亜連邦の多大な支援で、双方の感情面での融和がさらに進む。

1996年
 ・東亜連邦の「改造」加速。この頃より、長城越境による共産中華流民(不法移民)増加。双方の政府が取り締まり強化。
 ・大韓人民共和国と東亜連邦の北朝鮮地区が統一に向けて最初の会談を持つが完全な物別れ。以後話し合いを継続。
 ・包括的核実験停止条約。日本、東亜連邦も批准。
 ・共産中華へ外資が戻り始める。

1997年
 ・東南アジア経済危機。日本、東亜経済は堅調。結果、日本を中心とする東南アジアの経済共同体構想が前進。共産共産中華、共産韓国が反発するも、経済的に遅れた共産主義国なので相手にされず。
 ・大韓人民共和国、政変発生。大水害で飢饉がピークを迎えたことが最大の原因。軍事クーデター発生で、金一族は共産中華に亡命。金体制が崩壊し、軍部と官僚団を中心にした新政府成立。大韓民国成立。各国が新政府を承認し、国際援助を開始。二つの日本も率先して支援と援助。
 ・共産中華、トウ小平死去(トウ=登にこざと辺)。中央政府の統制弱まる。この頃には列島日本との国交を回復するが、韓国問題で関係が悪化。さらに次政権の反日政策により、東亜連邦、日本双方と共産中華の対立が深まる。対中投資も増えず。

1998年
 ・二つの日本で、経済自由協定締結。関税のほとんどが撤廃される。翌年にはビザも廃止。両国の交流活発化。高校の修学旅行先が、互いの国になる傾向が強まる。
 ・二つの日本、通貨統合に合意。5年後に実施。
 ・東亜連邦初の高速鉄道(新幹線)開通。日本から技術導入。

1999年
 ・日本、中央アジア進出の影響でアフガンにPKFを派遣し、イスラム原理主義勢力と戦闘。
 ・大韓民国、初の民主選挙。急速に民主改革と「日本化」が進む。

2000年
 ・「東アジア通商連合」発足。二つの日本を中心に、アジアのEU構想具現化へ前進。共産国(共産中華、ベトナム)は参加せず。当初は参加国も限られる。アメリカに強い焦り。
 ・大韓民国と東亜連邦内の高麗王国(連邦内の自治国)が、民族統合についての話し合いを再開。

2001年9月
 ・「同時多発テロ」 アメリカ中枢で大規模な自爆機テロ。イスラム原理主義を筆頭とするテロの時代到来。
 ・国連軍、アフガン派兵。アメリカ軍を中心にした国連軍がアフガンに派兵。双方の日本も軍隊を派遣。

2002年
 ・日本と東亜連邦協同でワールドカップ開催。

2003年
 ・「イラク危機」 列島日本は欧州連合に同調。査察と経済制裁の強化以外は反対。アメリカは対イラク戦争を止める。イラクは世界中からの強い圧力を受けて、徹底したNBC兵器の査察を受ける。フセイン政権は急速に陰りを見せるも、その後も存続。徐々に民主的な政権作りが進む。
 ・二つの日本、通貨統合。国際的に「円」がより強くなる。(もともとどちらも円を使用し同じ名称のため、以前は大陸円、列島円と俗称されていた)

2004年
 ・日本、有人ロケット打上成功。自力で国際ステーションに人員輸送を実現。日本の宇宙熱高まる。

2005年
 ・国連改革 常任理事国を9ヶ国に拡大を決定。列島日本も常任理事国入り。(以前の米、露、英、仏に加えて、ドイツ、日本、インド、ブラジル、共産中華が選ばれる)
 ・日本、常任理事国問題で共産中華との関係悪化。

2006年
 ・米、イランとの関係再び悪化。一部民主化が進んでいたイラクでも反米運動が激化。中東の混乱広がる。

2007年
 ・日本、月面本格探査開始。世界中の宇宙列強との月競争に参画。

2008年
 ・東亜連邦、新京オリンピック開催。東亜連邦を依然として国家承認していない共産中華がボイコット。境界線に軍隊を並べて威嚇。
 ・「金融危機」
  世界中で急速な不景気到来。世界経済減速。新興国に大打撃。東亜連邦もオリンピック終了もあって景気後退
 ・米、大統領選挙で共和党勝利

2009年
 ・日本、革新党政党が躍進。自由党、民進党に匹敵する勢力となり、日本の政治が以後数年間にわたり混乱。国民の二大政党制への不満が噴出した形となる

2010年
 ・北アフリカのチュニジアで大規模な暴動。以後、北アフリカで革命が連鎖的に発生。
 ・日本、東亜と合同で作り上げた測位衛星システム「みちびき」が本格稼働。アメリカのGPSシステムと連動するが、アメリカとは独自のシステムのため宇宙ビジネスでの対立が激化

2011年
 ・東日本大震災。日本東部の太平洋岸で甚大な被害が発生。東亜連邦は、大規模な救援活動を実施。アメリカも対向するように救援活動を実施。
 ・日本、東亜の双方で、地上デジタル放送開始。北東アジア各地にも広がる
 ・世界人口が70億人を突破

2012年
 ・リビアのカダフィ政権崩壊。冷戦時代から関係の深かった東亜の石油戦略にも影響。
 ・日本でスカイツリー、東亜で摩天楼が完成。共にデジタル通信用の自立鉄塔。

2013年
 ・イラクで政変。フセイン政権が倒れる。

2014年