■長編小説「虚構の守り手」

●第五章「醜き世界」(1)

  一九五一年六月二五日深夜 対馬海峡

「「山城」より信号、『我ニ構ウナ』!」
 戦艦「山城」を見つめていた見張員から、絶叫とも言える報告が届く。しかし、信号を送ってきた当の「山城」は、誰かが何かをできる状態にはない。救援も人命救助以外は、既に手遅れなのは見れば明らかだった。
 鋼鉄の梁が折れ曲がる独特の金属音。炎が燃え盛り空気を揺らす音。搭載弾薬誘爆の連打。数百メートル離れていても、すべての音が聞こえてきそうなほどの損害を受けていた。
 それは断末魔の軍艦の姿に他ならなかった。

 戦闘前日の夜、極秘裏に行動を開始した「大東亜人民共和国軍・日本列島解放軍集団・第一挺身団」だったが、ほとんど偶然に対馬海峡外縁を警戒行動中のアメリカ艦隊に捉えられてしまう。
 この頃のアメリカは、デューイ政権末期にあってレッドパージの真っ最中だった。このため、東側に属する大東亜人民強国と僭称する東側勢力に対して、軍事的にも強い態度に出ていた。
 具体的には、東シナ海から対馬海峡を軍事的に封鎖していたのだ。また、対馬海峡封鎖は、大陸日本の宗主国といえるソ連に対する海上封鎖も兼ねているだけに、常に大きな戦力が割かれていた。
 アメリカ海軍が極東地域を重視していたのは、大東亜人民海軍が戦艦二隻を保有し、ソ連極東艦隊も新型の巡洋戦艦を二隻ウラジオストクに配備していたからでもあった。
 しかも、ソ連極東艦隊の活動が日本海で活発になっており、六月二十日からアメリカ最強の「ミズーリ」、「ウィスコンシン」を中心とする打撃艦隊が緊急配備されていた。
 もっとも、大陸日本側の目論見では、アメリカの打撃艦隊はソ連極東艦隊により津軽海峡近辺に釣り上げられており、二十四日から二十五日にかけての対馬海峡から東シナ海南東部には駆逐艦以上の「敵」は存在しないはずだった。

 なおソ連極東艦隊は、巡洋戦艦「セヴァストポリ」、「クロンシュタット」を中心として、「チャパエフ級」巡洋艦などを加えた艦艇で構成されている。運用ノウハウの全くない空母など欠片もなかった。
 しかも、新型の巡洋戦艦も、曰く付きのものだった。なぜなら大陸日本が保有する「扶桑」を、膨大な量の資源のバーター取引で買い入れ、その主砲を取り外して完成されたものだからだ。
 このため、イタリアの技術をロシア風にかみ砕いて完成した設計図面に日本製の砲塔を載せ、さらにドイツから奪った技術、イギリスから借りたロイヤル・ソヴェリンのノウハウを活用し、アメリカ製の堅牢で優れた部品などを使用するという、全ての列強の技術が注ぎ込まれたキマイラ(合成獣)となって完成していた。
 これだけ多数の国の技術をすりあわせた巡洋戦艦を建造したソ連の造船関係者には、大いなる賞賛を与えても良いだろう。
 もっともスターリンは、より大型のソビエツキー・クラスの建造再開を極めて強く望んだというが、さすがにそれは叶わなかった。セヴァストポリ級が建造できたもの、大陸日本にいた日本の造船技術者の協力がなければ難しかっただろう。
 しかし、日本の技術が強く反映された高速戦艦の存在は、アメリカを強く刺激した。
 日本製の十四インチ砲を搭載した高速戦艦が、アイオワ級完成までの約三十年間アメリカ海軍をシュミレーション上で悩ませてきた金剛級戦艦の影と強く重なったからだ。しかもソ連は、最高速力三十三ノットと公表していた。
 そして航空機が発達した時代にあっても、十分な打撃力を持った高速艦の存在は極めて脅威と判断されていた。これは一九四二年のソロモンでの戦いが、その想いを強くさせていた。
 だからこそ、アイオワ級戦艦が日本海や東シナ海を跋扈していても何ら不思議はなかった。少なくともアメリカ海軍にしてみれば、常識的配備と考えられていた。

 だが、事を起こそうとしている大陸日本側にとって米艦隊が邪魔なことこの上ないため、ソ連に要請して日本海に釣り上げてもらったのだ。
 しかし三十三ノットの健脚は伊達ではなかった。
 二十四日深夜に作戦を開始した大陸日本の動きを、優れた警戒網によりキャッチした情報に従い、ただちに日本海からとって返してくる。もっともそれが、彼女たちにとって幸運だったとは言い切れなかった。
 対馬海峡の狭隘部は海面状況が良好とは言い難く、しかも燃費無視で21万2000馬力で飛ばしてきた二隻の戦艦によって、米軍部隊が艦隊行動を取れる体制になかったからだ。
 その上「ミズーリ」と「ウィスコンシン」は、そのままの速度で戦闘海域に突進。慌てて船団との間に立ちふさがろうとした「武蔵」、「山城」などとの距離を詰めた。
 アメリカ側としては、いまだ開戦に至っていない状況を、船団を巨砲で人質に取ることで事態を先延ばし、できうるなら中止させようとしたのだろうが、相手が悪かった。
 相手はすでに戦争を決意しているのだ。

 突然、サーチライトが照射され、次の瞬間戦闘の火蓋が切って落とされた。
 距離一万四千メートル。かつて四国沖で砲撃戦をしたように、この時も安全距離を最初から無視した「武蔵」の砲撃は正確だった。もちろん後続する「山城」も同時に発砲した。
 ドイツ、アメリカの技術を応用したソ連製レーダーと従来の光学装置による狙い澄ました一撃が、「ミズーリ」と「ウィスコンシン」を捉える。
 突然のサーチライト照射による光学装置の機能低下と、突然の攻撃に小さな混乱に見舞われたアメリカ側は反撃が遅れる。そもそもアメリカ側は、いきなり砲撃されるとは考えていなかったので混乱も大きかった。
 そこに二隻の砲弾が低進弾道で襲来。
 凄まじい勢いで空気を切り裂き、メイドインアメリカのすぐ側を通り過ぎ、第一射、第二射は定石通り外れたが、第三射は完全に捕らえた。
 三度目の射撃により、旗艦「ミズーリ」は瞬時に爆沈してしまう。
 「武蔵」の一撃は、「ミズーリ」の舷側装甲をやすやすと貫いて第二砲塔弾薬庫を直撃。稀にみるラッキーヒットだったのだ。しかし「山城」は「武蔵」ほど幸運ではなかった。
 「山城」の放った十四インチ砲も、第三射で数発が「ウィスコンシン」を直撃。艦後方の構造物の過半を破壊するも、砲弾の大半がバイタルパートを貫くに至らなかった。
 考え抜かれたアメリカ製の鎧が、角度という幸運も味方して辛うじて近距離からの十四インチ砲弾に耐え抜いたのだ。
 当然、近距離からの十六インチ高初速砲弾が、カウンターとして飛来。
 敵も第三射でクリーンヒットを放った。
 その後も距離の問題もあってほぼ三十秒に一回で襲った約一・二トンの巨弾は、次々に「山城」の周囲に着弾。手数ですら圧倒した彼女の砲弾は、見る間に独特の艦様を持つ同艦を粉砕。「武蔵」が目標を変更するまでに、「山城」をシロクマに襲われたアザラシのように無惨な姿へと変えていった。
 これが、今「武蔵」に乗る立花の眼前で展開されている光景だった。

 歯がゆいと思えた僅かな時間が過ぎ去った。
「砲術長より艦長、敵二番艦照準完了」
「即時発砲開始。「山城」を救え!」
 号令と同時に轟音が周囲を満たした。
 斉射だ。
 爆発的なエネルギーを砲口から発散する消炎火薬が生み出した火焔の先に、マッハ2以上で突進する四十六センチ砲弾が目に入った。
 周囲に着弾。
 六年前と変わらぬ真っ赤な水柱を吹き上げたが、予想通り命中弾はなかった。「山城」のデータ転送もあって見事に相手を挟み込んでいたが、運がなかったようだ。林立する水柱で激しく動揺しながらも、主砲を懸命に旋回させている「ウィスコンシン」の姿が見える。
 「山城」によって少なからず傷を負っているようだが、まだ致命傷にはなっていない。流石、合衆国最強の戦艦だ。
 立花は、敵手を刺すように見つめたまま、無言で双眼鏡をのぞき続けた。一度命令を発した以上、何かが起きるまであとは砲術長の任務だ。
 距離一万二八〇〇メートル。設計当初の想定からは考えられないような近距離から、再び「武蔵」の豪剣が振り下ろされる。
 直前に「ウィスコンシン」も自らの槍を素早く突きだしたが、立花の見たところ狙いが甘かった。慌てて繰り出しすぎたのだ。しかも波の荒い海峡では、大和級戦艦の方が圧倒的に安定性が高く有利だ。一斉射先なら随分違ったであろう弾道を描いたウィスコンシンの砲弾は、「武蔵」艦橋の僅か頭上を通過していく。
 巨弾の通過は急行列車が過ぎ去るようだと表現されるが、命中しなければただの流星雨。音付き打ち上げ花火だ。遠目でみればきっときれいに違いないだろう。
 双眼鏡の先では、外れ弾を見て慌てるように砲身を動かす敵手の姿が見える。
(だが遅い)
 彼女が次の砲弾を繰り出す数秒前、「武蔵」の放った砲弾が「ウィスコンシン」を包み込むように着弾していく。
 ひとつ、ふたつ……か。
(2発命中。条件を思えばたいしたもんか)
 命中弾は第一砲塔の辺りで大爆発を起こし、さらに艦中央部では、「ボスっ」という装甲を貫く音が聞こえるほどの見事さで舷側に突き刺さるのが遠望できた。
 もちろん後者はそんな気がしたに過ぎないだが、立花の想像は正確だった。
 次の瞬間「ウィスコンシン」の艦中央部で大爆発が起きる。
 煙突から夜目にも白い煙がたつのが見える。ボイラーを直撃したのだ。きっと今頃、缶室はボイラーの爆発で阿鼻叫喚の灼熱地獄だろう。
 しかし地獄の中からも、「ウィスコンシン」は次の砲撃を繰り出した。さすがは戦艦。簡単に屈するものではない。ただし発砲は二箇所から。第一砲塔は、さきほどの命中で煙を噴き上げるだけの穴と化している。
 しかも寸前のボイラー爆発で諸元が狂ったらしく、二十数秒で飛来した砲弾はかなり離れた場所に着弾した。
 反対に、さらに少し遅れて繰り出された「武蔵」の砲弾は三発が命中した。
 致命傷だった。
 主楼が雨細工のように傾いでいくのが見える。
 艦中央部下部からは、さらに誘爆するのも遠望できた。
(あれだけの爆発で誘爆や爆沈にならないとは、流石としか言えないな)
 そんな事を思いながら見つめていたが、さらに繰り出された斉射弾が「ウィスコンシン」に引導を渡す。爆沈にこそ至らなかったが、もはやただの屑鉄だった。沈没するのも時間の問題だろう。
 それを見届けると、立花は次なる命令を下した。
「砲撃停止。進路右二十度に変進。船団に接近中の巡洋艦に目標変更後、射撃再開。副砲と高角砲は適時射撃せよ」
 命令の復唱とその命令が実行されるのを見ながら、再び立花は観察者に戻った。おかげで真っ先に見たくないものが視界に飛び込んでくる。
 十六インチ砲弾をしこたま食らって断末魔の炎を吹き上げている「山城」だ。
 すでに総員上甲板が命令されたらしく、乗員が次々に飛び込んでいくのが見える。
 しかし「武蔵」も他の友軍艦艇も救助に手を貸すことはできない。まずは敵を撃退するのが先だ。
 今は、進路の関係からちょうどすれ違う形になった「山城」に、最後の敬礼を向けるしかできなかった。
 彼にとっての小さな救いは、「山城」の側から羅針盤に自らの体を縛った艦長が答礼するというような、映画や講談ものに出てきそうな劇的情景を目にしなかった事ぐらいだろう。

 いつしか戦闘もアメリカ軍の撤退で幕を閉じていたが、頑として沈没を拒むように漂流する「山城」は付近を照らした。
 当然「山城」の断末魔の炎が、付近を航行していた多くの艦船を照らし出している。
 これでは空からの敵に攻撃してくださいといっているようなものなので、乗組員の救助もそこそこに、一隻の駆逐艦が魚雷で介錯を行おうと、ゆっくり好位置をしめるべく動き出しているのが船団の側からも見えた。
「いいか、よく見ておけ。そして決して忘れるな」
 甲板上に出た部下に短く諭しているのは、少将となっていた西竹一だった。
 彼は、この度の日本本土解放の戦いに際して、自ら志願して戦車部隊の最上級指揮官の一人として第一挺身団に身を置いていた。
 アメリカからソ連に供与され、さらにそのお下がりとしてもらったLSTの中には、彼の軍馬たちとなっているティーゲル・ツヴァイが満載されていた。
 もっとも、船を無理矢理改造したので一個中隊も載せることができず、彼が直率する戦車旅団主力は同様の改装を施した特別製の戦車揚陸艦数隻に分乗していた。もちろん、整備をはじめとする支援部隊も分乗している。
 彼の座乗する艦は、そんな船団旗艦の任務にもなっていた。船も不足しているのだ。
 話しかける彼の横では、沈みゆく双方の戦艦に静かに敬礼を送っているアイゼンビュット曹長の姿があった。
「曹長たちは、なぜ今回志願したのだ? 国内の事でなら君たちが命を張る義理もあるだろう。しかし今回は、純粋に日本人の問題だと思うのだが」
「閣下、私はそうは考えません。大東亜人民共和国は建国からようやく六年に達しようかという国ですが、事実上の主権を持つ歴とした独立国家です。そして自分たちは、この国の軍人となることを自ら誓約しました。その上、この難し屋の扱いに一番精通していると自負しています。であるなら、志願は当然だと考えます」
 途中足下の甲板をトントンと叩いた曹長は、当たり前のことと言いたげに断言した。
 いかにもドイツ人らしく、日本人的あいまいさは欠片もない。
 しかし西にとっては、いかにもドイツ人らしいドイツ語よりも、彼の語った内容の方が重要だった。君臨しているつもりの日本人たちの知らないうちに、自分たちの作り上げた人工国家は、日本を模倣しながらも日本とは全く違うものへと変化しつつあったのだ。
 そういう視点で見ると、自身の部下達にもその片鱗を見ることができる。
 第二中隊の小隊長の一人は、朝鮮半島出身の将校だ。今回の作戦は第一派の消耗部隊を除いて全て日本人で構成されていたが、将校だけが例外とされた。そして将校の中には、かつて半島日本人ともいわれた朝鮮人がかなり含まれていた。
 彼らは故郷に対して屈折した意識を持っていても、日本の統治の中で日本の将校として育てられ、日本帝国軍人という意識は今でも強い。それこそが、彼らの社会での数少ない出世街道だからだ。
 それ以外の外人は、「軍事顧問」として出しゃばる赤いロシア人を例外とすれば、彼の部隊にいるようなドイツ人だったが、彼らとて革命以後にお雇い外国人や貸し出し外国人ではなく、人民共和国への帰化と軍への誓約をしている。
 しかも、日本人以外の要素がもたらす影響は今はまだ小さいが、これからはどんどん大きくなるだろう。万里の長城で睨み合っている戦友の中には、元中華民国に属する将兵も多数いる。
 であるにも関わらず、変化に全く気づかない時代に取り残された日本人達は、ある種の生物の持つ帰巣本能に従うかのように、日本本土へと押し寄せようとしている。
 本当にこれでいいのか。哲学者や政治家ならそう自問自答すべきかもしれないが、西は軍人だった。そして呼び寄せた家族や新しい部下達のために成すべき事は二つ。
 一つは任務を手抜かり無く行い、少しでも部下達や戦友が戦場で倒れることを減らすこと。そしてもう一つは、彼の新しい国を守ることだ。それは、これから押し寄せようとしている、彼の知らない国となった場所でも同じだろう。
 そして今は、西たちの側が祖国の真の解放をするという、彼ら以外誰も理解しないであろう大義名分を果たすことこそが彼の任務だった。
(なんてことだ)
 笑うに笑えない結論に達した西だったが、今は大河に流される流木に過ぎなかった。
 そして彼を運ぶ日本解放船団と言う名の濁流は、まもなく日本本土へと達しようとしていた。

 一九五〇年六月二五日午前二時半、海上での遭遇戦から開始された「東亜動乱」。
 その初動は、双方とも混乱に満ちたものだった。
 海戦の約一時間後の黎明より、空からの奇襲攻撃を予定していた大東亜人民共和国空軍、海上強襲を予定していた日本本土解放軍集団・第一挺身団ですら例外でなかった。
 しかし、ミスが少ない方こそが戦争のイニシアチブを握るという原則は、ここでも冷徹に機能していた。
 完全な戦略的奇襲を受けた日本自衛軍と在東亜アメリカ軍は、開戦から一週間は為す術がなかった。福岡市の無防備都市宣言がその結果となる。
 比較的まともに抵抗したのは、即時待機していた各空軍基地の防空戦闘機隊と、防人として北九州沿岸防衛の任務に就いていた陸上自衛軍・第四師団だけだった。
 もっとも彼らですら、「ミグ・ショック」と「人海戦術」の前に善戦したという戦況レポートを書くのが限界だった。
 自衛軍に対して、いずれ日の丸に戻る予定の人民軍側は、暫定国旗とした満州国の旗を万民平等の象徴としてそのまま国旗として振り立てながら、北九州各地の砂浜に最初の足跡を記した。
 もっとも、第一歩を記したのは日本人ではなかった。そう言われている。
 陸軍司令の牟田口が考えつき、派遣軍司令の富永の下で最先任作戦参謀を務める辻が作戦にしたと言われる、歴史上悪名高い戦術が取られたのだ。
 だが、上陸第一歩を記した者たちは、陸上自衛軍・第四師団の猛烈な水際攻撃を受けほとんど全滅したので、歴史上では実態を伝えられていない。しかし、その過半は中華人民共和国成立により祖国を追われた、旧中華民国の兵士だというのが冷戦時代の西側の研究結果だった。
 人民軍の第一挺身団は、輸送船舶の関係から四〜五個師団規模、約十万人とされる。だが実数はより多く、すし詰めにされた一部輸送船によって、その総数は第二次元寇に匹敵する約十五万人とみられている。そして兵士の半数が、旧中華民国の兵士だったのだ。
 彼らは、初期の阻止砲火を生き残ったすし詰めの輸送船から、旧式火器による貧弱な火力で、海岸線がまだ遠いのに貧弱な舟艇で上陸を開始。ヒロポンとアルコールにより戦意を昂揚された彼らは、友軍による敵味方を問わない支援砲撃によって「援護」されつつ、北九州沿岸に考え抜かれて構築された水際陣地を人の海で覆い尽くしたのだ。
 そして、人の海が最前線を突破する頃には、せいぜい人の池ぐらいに小さくなり、現地を死守した陸上自衛軍の兵士と共に消え去った。
 人民軍側の記録にもほとんど残されていないが、いまだに北九州の海岸線の各所で人骨が発掘されたり、海岸に打ち上げられたりする事こそが歴史の証人だ。そして生き残った僅かな者達は、功績により家族共々日本人としての籍を手に入れ、黙して語らなくなったと言う。なお一説には、作戦を立案した当の辻政信が、この作戦に立ち会って滂沱の涙を流し、戦後も生き残った者の世話をしたと言われている。

 そんな砂浜に、上陸からたっぷり二十四時間近くが経過してから、西少将が直接率いる独立重戦車旅団が上陸した。
 重戦車で構成されているだけに、今後の突破戦力としての遅れた登場だった。
 前に人一人を抱えた歩兵が歩き、戦車が走れる地盤を確かめつつの上陸となったが、小山のように大きな戦車が揚陸艦から九州の大地に上陸するたびに歓声や万歳が聞こえてくる。
 戦車には二種類あり、一種類は数年前から運用しているティーゲル・ツヴァイ。若干形や装備の違う車両もあるが、努力のかいあって二十四両に増勢していた。これらが第一、第三中隊構成している。そして第二、第四中隊を成すのが、ソ連からプレゼントされたばかりのヨシフ・スターリン3型重戦車だった。この他、突撃砲中隊、増強編成の機械化歩兵大隊、砲兵大隊、対空、工兵、整備、輸送、衛生など全てを中隊から大隊規模で持つ、独立編成の重機甲旅団だ。重装甲、重火力の戦車、突撃砲だけで七十両近くある。重砲もソ連製のもので、ご丁寧にカチューシャまである。部隊の大半も大戦中にソ連に供与された、アメリカ製のトラック、ハーフ・トラックで自走化されている。
 名称は独立第十一重戦車旅団となっているが、実質は諸兵科連合のミニ師団に近かった。満州の荒野ばかり見慣れた大陸の日本人達は、欧州では独立編成でしか運用できなかった重戦車の群をまとめて、違った形で運用しようとしていたのだ。
 その戦力は、参謀として従軍したドイツ出身の少佐から、アミーやトミー製の貧弱な戦車で構成された装甲師団なら、十分撃破できる装備と編成だと、お褒めの言葉をいただいていた。
 また、人民陸軍でも四つしかない戦車師団、二つしかない戦車旅団の一角を占めており、軍から選抜された兵から編成されているだけに練度も高かった。くだんの少佐も、一九四四年の東部戦線でも十分やっていけると太鼓判を押していた。
 そしてこのドイツ人少佐や西に付き従ってきたような曹長の存在にあるように、各所にドイツ人の顧問や志願兵がいた。
 最大の原因は、人民政府が従軍することでドイツ人に完全な自由を与えると、ソ連と折り合いを付けた事にあった。この部隊以外にも数千人単位で、シベリアから新たな地獄へと足を運んだといわれている。他にも軍事顧問や技術顧問として国内で数万人のドイツ人が活躍中だ。
 また未確認の資料によれば、日本が促成で近代的な軍を育成し技術者の不足を補う為に得たドイツ人の代償として、数十万もの中華民国難民をシベリアや中央アジアに送り届けたとも言われていた。
 新京の「お城」に詰めるエリート軍人にとって、地獄の東部戦線を経験したドイツ人将兵一人の価値は、着の身着のままで逃れてきた国府軍百人分の価値があったのだ。
 これが真実なら、実に彼ららしい取引といえるだろう。彼らの盤の上には「歩」がたくさんあるより、もっと役に立つ「駒」が沢山あった方が気分がいいのだ。
 西少将は「お城」の内情を少しばかり肌身で知っているだけに、上陸したとき広がっていた地獄に、思わず唾を砂浜に吐き捨てたほどだ。
 たまらずタバコの火を付けようとすると、いつの間にか旅団最先任曹長のような役割になっていたアイゼンビュット曹長が火を差し出した。
 水晶色の瞳はお察ししますと言いたげだ。
「すまんな曹長。みっともない所を見せてしまって」
「いえ、とんでもありません。ただ自分は、五年ほど前の東部戦線で似たような情景を数多く見てまいりました。その、そう言う事であります」
 あえて妙にしゃちほこばったドイツ語が彼の口から出てきた。部下への命令以外で彼がそう喋るのは珍しい。
 そんな曹長に西は彼の肩をポンポンと叩くことを感謝の印として、次の瞬間指揮官のフェイクをつけると矢継ぎ早に命令を発し始めた。
 そう、ここは戦場であり、この地を奪われた者達から見れば、彼の祖国とは言い難い場所なのだ。

 上陸から数時間、時計の針が天頂を差そうと言う頃、ようやく部隊の前進準備が整った。
 こうも展開が速いのは、参謀の辻少将が事実上の第一陣で乗り込んで陣頭指揮をとったからだとされるが、別の一説では辻少将の為にむしろ遅れたとも言われている。
 そんな彼らが上陸した場所は、唐津湾の虹の松原と呼ばれる名勝。
 この砂浜から国鉄沿いに一気に南下。夕刻までに一路有明海目指して突破戦闘を行うことになっていた。突破により、博多と海軍の拠点となっている佐世保や大村基地を遮断するのだ。
 また次の突破戦闘では、筑紫平野を旋回しつつ博多の後背を絶ち、玄界灘に上陸した軍主力と共に包囲戦を行い、一気に北九州の主要部制圧を計ることになっている。
 突破用の機動戦力は、玄界灘から博多と北九州の間に上陸した部隊を併せて三個師団にしかなかったが、対する自衛軍は初期の戦闘で壊滅した第四師団を含めて編成上の二個師団。作戦は十分勝算があると見られていた。
 侵攻軍の総司令官の富永恭次大将、最先任作戦参謀の辻政信少将は、共に七十二時間以内に北九州での勝利を決すると断言していたほどだ。
 また、この時上陸する第一挺身団は、この三日間の戦闘で消耗してもよいとされていた。
 なぜなら、次の上陸部隊がすでに釜山を発っており、初期の空爆だけで捨て置かれた対馬を制圧する部隊をすり抜け、第一挺身団が消耗するまでに戦線に現れる予定だったからだ。
 どこかソ連軍の戦闘方法に似ているが、一週間で北九州全土の解放を目指していた人民軍としては、初期兵力の消耗は仕方ないものと認識されていた。また補充は、解放軍として迎えられるであろう現地で補充すればいいという皮算用も考えを補強していた。この点実に旧軍的といえるだろう。
 なお、初期の突破戦力の中に、陸軍最精鋭である筈の西の部隊が含まれていたのには理由がある。
 西達が強く志願したというのもあるが、初期の宣伝のような突破戦闘を行わせた後は、凱旋軍として帰りの船で戻す積もりだったのだ。
 そして裏の事情も知らされていた西は、上層部のやり方に不満を持ちつつも、今は任務遂行に専念する事にした。
 それが彼が行った軍人としての誓約の履行であるし、既に倒れていった兵士達への義務だった。
 だからこそ、硝煙と血の臭いが渦巻く戦場で強く命令を発した。
「独立第十一重戦車旅団前進!」

 唐津沖から、大規模な機甲部隊が出発する土煙を見ながら、立花は当面の任務が終わった事を実感していた。
(やっぱり見えないなぁ……まあ、後は頼んだよ)
 西少将の姿を一目見れないかと思ったが、残念ながら高倍率望遠鏡でも海岸付近の人はアリンコぐらいにしか見えない。
 そして彼が眺めているように戦場は陸に移り、敵戦艦も予定よりはるかに早く蹴散らした以上、あとは旅順に帰って次の任務に備え整備補修する時だった。
 なお、上陸初日の戦闘で、「山城」と駆逐艦二隻を失うというアクシデントはあったが、こちらはアイオワ級戦艦二隻、ボルチモア級重巡洋艦一隻の撃沈。普通なら勝利といってよい戦果だった。
 しかし、当面兵力の補充のきかない人民海軍にとって、戦艦喪失は取り返しの付かない損害でもあった。たとえそれが棺桶に片足を突っ込んでいるような旧式艦であっても、たった二隻しかない戦艦の片方だったからなおさらだ。幸いにして海軍の象徴たる「武蔵」と重巡洋艦など他の大型艦は軽度の損傷で済んでいたが、素直に喜べるものではなかったのだ。
 もっとも新京の司令部は、海戦の勝利と上陸成功で今にも自分たちが提灯行列に加わりそうなほどのお祭り状態だった。陸軍司令の牟田口などは、新京を離れ自ら陣頭に立つと言い出して実行しそうになったほどだ。
 造反以来初の大勝利であるにしても浮かれすぎだった。あまりの感情の爆発ぐあいに、立花や護衛艦隊宛の電報を見ただけで、頭がくらみそうになったほどだ。
 過半の戦力を投入していた海軍は、損害の深刻さ、日本列島とその周辺部にある敵海軍力の強大さを前に多少冷静だったが、それでも勝利は嬉しいらしく、海軍司令の石川信吾の名で祝電が寄越されていた。
(石川さんって戦艦は好きじゃないと思ってたけど、そうでもないのかもな)
 電報を見ながらどうでもよい事を思った立花は、それを一瞥すると麾下の部隊に旅順への帰投を命じた。
 戦争はまだ始まったばかり、ここで消耗してしまうわけにはいかないのだ。立花の属する海軍にとって、これからが本当の戦いだからだ。


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