■長編小説「煉獄のサイパン」

●第四章 4

1944年12月8日 サイパン島

 彼が深い闇からはい上がると、ぼやけた視界の先には暗くゴツゴツした岩の壁が見える。
(どこだ、ここは? とうとう閻魔様の前に連れてかれたか?)
 身体に痛みは感じられず、フワフワした感覚しかない。辺りは暗く空気は湿っており、気温も今までより低い。ひんやりしているという印象だ。
 しばらくは気だるい感覚に任せていたが、そこでまた深い闇へと意識が落ちていってしまった。
 次に彼が目覚めた時は、先の目覚めより少しばかり意識がハッキリしていた。
 試しに手を動かしてみたが、けだるさは有るが取りあえず思い通りに動いた。意識してみると、頭が柔らかいものの上にあるのも分かった。
(残念ながら、天女様の膝枕じゃないらしい)
 視線を巡らせると、彼の意識では先ほど見たばかりの暗いゴツゴツした岩の壁が見える。他には人の手によるものと分かるものがいくつか視界に入ったが、それよりも耳をつんざいた声が彼の意識を一気に現世に引き戻した。
「センセー! たいへーん!」
 小さな子どもが狭い場所で精一杯叫んだ声だ。
「るせーっ」
 声を大にして言ってみたつもりだが、喉はカラカラでまるで声にならない。喉から空気が抜ける情けない音が少しばかり出ただけだ。
 しかし周囲では、目まぐるしい変化が起きているのが分かる。すぐ近くに大勢の人がいるのだ。声も聞こえてくる。
「洋子ちゃん。大声を出してはいけないわ」
「ご免なさい。でも、でも、兵隊のオッチャンが」
 オッチャンの一言で複数の人の気配が近寄るのが分かる。ゆっくり首を声の方に傾けると、目の前に女の顔があった。
 犬神広志の生還を前に感涙むせび泣くという事はないが、安堵した妙齢の女性の顔があった。少しばかりやつれているが美人だった。取りあえず、黒髪に黒い瞳というのは最高だ。周りにも、ちっこい顔ばかりだが、同じように日本人であるのが分かる。
「ギョクサイ、したワケじゃなかったんだな」
 犬神が目覚めての最初の声だった。

「スゴイ回復力ね。けど、そんなにかき込んだら胃に悪いですよ」
「ああ、大丈夫だ。腹が減っては何とやら、てのを久々に実感させられただけだからな。まさに地獄に仏だ。改めて礼を言う」
「フフフ、お礼なら後でゼロセンとハヤブサに言ってあげくださいね」
 犬神の椀を持ち緩やかに笑う法子に、左手での食事を止めた犬神が怪訝な顔を浮かべる。さらに笑った法子は、ゼロセンとハヤブサはここで飼っている雌鳥よ、と補足した。
「雌鳥ね、だから卵粥なんてもんが食えるわけね。硫黄島より豪勢だぜ。で、ここはどこだ、いやどこです」
「まずは、ゆっくり食事して養生してください。お怪我は右腕上腕辺りがかなり腫れていますが、骨折じゃないと思います」
「そりゃ助かる。手当もアンタが?」
「はい。応急処置は習っていましたので。それより落ち着かれてからで構いませんので、後ほどお聞きしたい事が沢山あります。それと遅れましたが、私は山科法子、国民学校の教師です。子ども達は私の教え子です」
 笑顔を消した真顔の法子が、強い視線を犬神に向ける。もちろん色恋をしたいという濡れた瞳ではない。妙に胆が座った冷静な目で、熟練の指揮官と相対したような錯覚を犬神に感じさせる視線だった。
「俺は、日本帝国海軍航空隊の犬神広志中尉。ある程度状況は察しているかもしれないが、任務に関しては言える事はない。が、犬神広志個人としては全く別だ。山科さん、この恩は一生忘れない。ありがとう、必ず礼はする。それと丁寧口調は止めてくれ。そんなもん軍隊の中だけでたくさんだ」
 犬神も表情を改め頷き返すが、言葉の最後におどけた顔になった。法子も顔を弛める。
「ええ、分かったわ。犬神、さん」
「そう、それでいい。別嬪さんに堅苦しく言われたらたまんねえぜ。それと、他の難しい話は後でしよう。……けどよ、アンタらここに住んでるのか?」
 途中極端に小さく呟いた言葉の後、犬神はあきれ顔になり、自然法子も彼の顔の先に視線へと注いだ。
「いいえ、戦火を逃れて避難しただけよ」
「戦火って、去年の梅雨からか?」
「梅雨? ええ、そうね。6月半ばからね」
「じゃあ、半年近くもここにいたわけか。そりゃ、生活感もひとしおってなるわな」
「半年。……半年も経つのね」
 言葉にしたときだけ感慨深げな法子だったが、すぐに表情を改める。
 今は周りに子ども達が興味津々でいる。法子が心を弱くするわけにはいかないのだ。犬神の方も、法子の表情の急変を読みとっておどけたまま続ける。
「で、ゼロセンとハヤブサってのは、あの白いのか?」
「え、ええ、そうよ。毎朝卵を産んでくれるわ」
「なるほどねえ。ところでもう一つだけ聞いていいか」
 気を取り直し意外に可愛く小首を傾げる法子に、山科が小声になる。顔はさっきと同じ笑顔だが、目は真剣だ。
「卵の事は分かった。けど、俺がこんなに米を食っていいのか? 避難ならたいして食い物もないだろ。ましてや半年も、だ。俺は、ニューギニアの激戦地に取り残されかけたことがある。食い物のない状況はよく知ってるつもりだ」
「大丈夫、とは言わないけど、まだ一月や二月は心配ないわ。周りを見て、積み上げられているもののほとんどが食料とその名残よ」
 かぶりを振り、手を水平にゆっくりと半周させたところには、簡単な戸棚、木箱、行李、壺、麻袋などが積み上げられている。よく見れば缶詰や瓶もあり、やたらと丁寧に整理されている。
 じっくり眺めた犬神は、流石に目を丸くした。
「山科さん、アンタ今すぐ主計将校になれるぜ。いや、参謀にだってなれそうだ」
「ありがとう。けど、せめて立派な主婦になれると言って欲しいわ。あと、その主計将校とやらは、私じゃないわ。あの子よ」
 小さく指さした先には、おかっぱ頭が随分伸びてしまった奈央子が、幾人かの子ども達と向き合っている。犬神の目にも何かを教えていると分かった。
 また、教えている奈央子も含めて時折こちらに視線をやっているが、表面上は無視している。
「で、今は何を?」
「隠れる以外何もする事がないから、授業代わりの事をしているの。少しなら教材や筆記用具も持ってきたし、勉強をしておいて損する事はないわ」
「まあ、そりゃ道理だが、じゃああの娘さんも教師か? 見た感じかなり若いが、数学の教師てとこか」
「いいえ、中等科の生徒よ」
 へー。感心したような口をしながらも、目だけは真剣さを湛湛えたまま、ゆっくりと起きあがろうとする。
 法子は慌てて手を貸すが、すぐ目の前にあった犬神の顔は、負の感情を全てを押し込めて、完全に陽気な笑顔で埋め尽くされていた。
「俺にも、授業受けさせてくれよ。ここ数年、飛ぶ事以外何もしてないんだ」

「たいした餌をあげられていないのに、私より立派よ」
「まあ、雌鳥だからな」
 その日の深夜、子ども達が寝静まるのを待って、法子と犬神は洞窟を出て窪みまで来た。
 洞窟の入口には鶏を入れた籠があり、中の鶏も小さく丸まっている。
「けど、砲撃や爆撃があっても、ちゃんと卵を産むのよ。私達が洞窟の奥で震えていた朝だってね」
 籠をなでながら法子が口を開いた。
 周囲はごく僅かに月明かりが茂みの間から降りている他は、全くの暗闇。よほど夜目になれていなければ動くことも難しいが、法子は半年間の経験があり問題はなかった。いっぽう犬神は、視力3・0を誇っていて夜目も強い。孤狼の二つ名は伊達ではないことを見せ、動きざまに法子を少しばかり驚かせた。
 そうして窪地の石にそれぞれ腰かけると、まずは犬神が44年6月以降の戦況を語りだした。
「いいか、これから話す事はニュース映画や新聞で報道されている事だけだ。俺が軍人として知っている事は、アンタが知っていい事でもないし、万が一を考えたら知って得する事でもない。分かるな」
「ええ。分かっているつもりよ。ただ、最初に一つだけ聞きたいことがあるわ」
 何だ? 犬神に促され続ける。
「犬神さんが気が付いた時、玉砕と言ったけど、それはサイパン島の事?」
 法子の目は、これだけは真実を語れと言っている。
「そうだ。7月18日に大本営発表された。東条英機首相の総辞職と同じ日にな。内地なら誰でも知っている事だから、今から話すつもりだった」
「7月に総辞職? それなのにアメリカとの戦争は終わっていないの。ここは絶対国防圏だから、日本が破れれば負ける時だとみんな言っていたわ。だから私も、勝つにしろ負けるにしろ、長期間隠れなくてもいいって、危険な海を行く疎開船より避難を考えたのよ。それに、島をこんなにしたと言うのに、軍や政府は何をしているの? 人も国も引き際が肝心だわ」
「そう言うな。それと、一応俺も海軍将校だぞ」
 少しばかり厳しい顔をしてみせた犬神は、まずは浮き世から離れてしまった人間を元に戻すのが先と感じた犬神は、じっくりと表面上発表されている事、日本国内の様子など語ってから次へと移った。
「つまりだ、サイパン島を含めたマリアナ諸島の事は、日本国内では自分たちも玉砕して果てた島の人々を見習って戦うという以外で口にする者はいない。言えるわけもない。それに10月末からは、決戦場はフィリピンに移っている。
 で、俺達がこの島の攻撃に来たのは、サイパンから敵の爆撃機の群が内地に押し寄せた事への報復攻撃だ。まあ、殴りかかればその時だけ人間安心するもんだし、国民に対して軍が頑張っていると見せとかないと面子が立たないって所が真相だろう……あ、いや、最後の言葉は忘れろ。俺の憶測だ」
 険しい顔同様に暗い心に陥りかけた法子だが、犬神のあまりの慌てぶりにクスリとなった。
「個人の憶測なら聞いても大丈夫じゃいの? けど、サイパンは玉砕発表されたのね」
「ああ、そうだ。内地じゃサイパンの軍民6万人は、国民の範となって全員果てた事にされている。軍人、特に将校や下士官の多くは常識的に本当の全滅はあり得ないとは思っているが、誰も異論を唱える者はいない。そんなヤツは、非国民ってやつだからな」
「本当に? 軍から学校には、戦時訓を生徒ばかりか親御さんにまで教え、サイパン島みたいな状況になったら自決して果てろと教えるよう言われたわ」
「で、皆に教えたのか。死して虜人の辱めを受けず。鬼畜米英。一億火の玉って」
 法子は、ゆっくり、しかし重々しくかぶりを振る。
「教えるようには言われたけど、私は戦陣訓内に書かれている本当の事を伝えたわ」
「本当の事?」
「ええ。戦陣訓は、きちんと全文を読めば死ぬ事を言っていないのは分かるわ。陛下だって、可能性がほんの少しでも残されている限り、生き抜くことをお認めになる筈よ。それが臣民の務め、憲法も教育勅語もそう教えているわ」
「なるほど、アンタは学のある人なわけだ。けど、内地でそんな事言ったら、憲兵や特高が飛んでくるぜ」
「では、無闇に死ねと教えるのが正しいと?」
「俺は否定したいけどな。で、こんなひねくれ者と話すアンタは、結局何がしたい。何をしている?」
「決まっているわ。子ども達を守るのが教師の、私の今の務めよ」
 険の強い犬神の言葉に法子は決然と顔を向けた。犬神は、彼女の瞳を真っ正面から受け止め、しばし見つめ合ってから静かに口を開いた。
「悪かった。アンタも、ずっと戦っていたんだな」

 犬神の一言から、しばし沈黙が支配したが、長くは続かなかった。法子は何よりも情報に飢えていたし、犬神は沈黙が一番嫌いだった。
「で、この場所はそれだけ安全て事か」
「そうね、必要以上に動き回らなければね。ナフタン山は小さな山だから、山麓はともかく中は米兵からも忘れられた場所なの。だからこうして少しばかりノンビリもしていられるのよ。米兵が入ってこないから、逃げ回らなくてもいいわ。
 だから私達がしている事は、日々の暮らしの維持。これが一番重要ね。後は暇を見つけてその日何が起きたかを見ておくこと。それと夜になったら子ども達に何でもいいからお話をしてあげることね。遊び道具や娯楽がないから、ここは子どもには辛いわ」
「まるで、シェヘラザードだな」
「確か、千夜一夜物語だったかしら?」
「ああ、千夜一夜物語の語り部のお姫様さの名前。毎夜物語を語って聞き手の王様を楽しませるだけでなく、人倫と寛容を教えるんだ」
「よくご存じね。さすが将校さんだわ」
「何、子どもの頃読んだだけさ。それより、他の日本人もこの辺りに潜伏しているのか」
 法子はかぶりを振る。
「分からない。少なくとも私は遠くで米兵を見た以外、人に会うのはそれこそ半年ぶり。大きな戦闘も7月前半にサイパン島ではなくなった。隣のテニアン島も8月初日に砲火の音は聞こえなくなったわ。ターポッチョ山、島の真ん中にある大きな山からは、時折銃の音が風に乗ってやってくるけど、それも今じゃほとんど聞かないわね。音のほとんどは、米軍が出す工事の音と、爆撃機の音ばかり」
「なるほど、少なくともこの辺りはアンタらだけか。じゃあ、ターポッチョ山に行く方法は?」
「行こうとした事すらないから分からないわ。けど、夜中隠れながら慎重に進めば、行けるんじゃないかしら。飛行場と地下倉庫以外は人影は見ないし、道にも警備らしい車が夜に行き交っているけど、ほとんど形式上している感じしか受けないわ。たまに、近くの道を通るとき大きな笑い声が聞こえるぐらいよ」
 だが、行けたとしても、後はどうなるか分からないか。そう呟いた犬神は、一転顔を上げる。
「それにしても山科さん、アンタなんでそこまで明確に言える? どっかで見てきたような言葉ばかりだ」
「そうよ。近くに向こうからは分かりにくい見晴らしのいい場所があるから、毎日覗いて観察しているもの」
「なんで、そこまでする? ここに隠れていれば、取りあえずは大丈夫そうだが。それに、アンタのしてる事は、ほとんど兵隊の仕事だぜ」
「住んでいた場所がどうなっていくかを知るのが、それほど変な事。それに私、生き延びた者には、後の者に何があったか伝える責務があると思うの。あと、米兵の動きを知っておく事は、潜伏を続けるには大切よ」
 まいった。両手を軽く上げる仕草で降参した犬神は、気を取り直す。
「昼間の言葉じゃないが、山科さん、アンタ軍の司令官になれるよ。アンタと同じだけの考え方がみんなできてりゃ、もうちっとマシな戦ができたろうさ」
「そうかしら、私はただ何も知らない事が怖いだけ。大東亞戦争が始まってからは、ずっとそう」
「知ろうとするのは、戦で一番重要さ」
 そうなの? 妙に素直になった法子の表情を面白くみながら、犬神は目だけは真面目に続ける。
「情報が簡単に手に入らないからって、憶測や面子に派閥争い、縄張り争い、ついでに希望的観測とやらで戦争指導をするより百万倍マシさ。それに、手に入る限りの情報と知識で最善を尽くすのは、やりたくてもなかなか出来るもんじゃない」
「五里霧中でも?」
「そうさ。霧の中でいるはずと思っただけで影に突きかかって無駄に動くより、目の前で本当に見えた敵にだけ突きかかる方が正しいだろ。まあ我が皇軍の場合、蟷螂の斧て気もするけどな」
「そ、そんな状態で、今まで戦っていたのですか?」
 犬神のあまりの物言いに、つい語気が鋭くなった。
 瞬間、失言だったと犬神は苦い顔をしたが、すぐに引き締める。冗談で通せる話ではない。
「緒戦はともかく、ここ最近はそんな感じがする。物量の差ってやつもどうしようもないぐらいにあるが、みんな目先の都合のいい事しか見てないさ。でなきゃ、サイパン島玉砕なんて、自分たちの致命的敗北を美辞麗句で飾ると思うか」
 法子は首を横に振るしかなかった。
 玉となって砕け散る。一見美しい言葉だが、軍隊だけならともかく守られるべき臣民に国家がさせて良い事ではない。少なくとも彼女の常識と良識はそう言っている。
 すっかり首をうなだれてしまった法子に、犬神は居心地が悪くなったが、かけるべき言葉もなく、しばし視線を他に泳がせた。
 二人が座った場所からは、法子達が「秘密基地」と呼ぶ、この小さな窪地の全貌が掴める。
 昼間一通り、奈央子と言う少女に丁寧に案内されたので、暗闇でも一通りどこに何があるか把握できるようになっていた。
 今座っている窪みは、洞窟寄りの場所が鶏の飼育場所と昼間使っていた勉強の場所になっている。中央部は、相撲ができるほどではないが、小さな子どもなら多少じゃれ合うぐらいはできるだろう。
 そこから正反対の場所には石で囲んだ植え込みがあり、葱や少しばかりの野菜が植えられていた。内地で見かけるものばかりで少し驚かされた。数はごく僅かで、無事育ってもたいして食べ物の足しにはならない。だが、それでも野菜は貴重だし、草を育てることは子どもの心の平穏に役立っていると言っていた。窪みの外にも、目立たないように同じような「畑」があり、主に鶏用の雑草や稗、粟も野草程度に育てている。だが肥やしには、自分たちの排泄物を利用するという徹底さだ。
 そして小さな菜園の側には、うまく考えられた厠がある。すでに犬神もお世話になったが、座る事が分からず最初は難儀させられ、子どもの前で赤っ恥をかかされた。毎日清掃もして、近くの土に穴を掘って埋めているのでかなり清潔だ。少なくともニューギニアにあった野戦陣地とは名ばかりのものとは比較にもならない。
 そして洞窟内は、大きく二分されている。食料を置く場所と眠る場所だ。それ以外のものはない。衣服や道具を詰めた行李や容器がそれぞれの隙間に置かれているだけ。半年前は眠る場所にも苦労するほど食料が積み上げられていたそうだが、今では食料の方が小さくなっている。大部分は、ここで寝泊まりする人間の寝室代わりだ。とは言え、地面と直に触れないように粗末な板きれを敷いて、みんな毛布などにくるまるだけ。どうやって持ってきたのか、犬神の使った落下傘もさっそく活躍している。絹なんて久しぶりの感触と、法子は少しばかり喜んでいた。
 また、洞窟の中央には小さなたき火ができるようになっている。煙を上げたら見つかるんじゃないかと言ったら、スコールの間と雨が水蒸気になる間なら、岩の間から漏れる小さな煙は全く見分けが付かないと、遠目からも判断したそうだ。
 そして犬神が食べ物の次に気にした水は、洞窟の奥で静かに涌き続け彼を得心させた。5人、10人分なら平気な量だった。
 そうして窪みを見渡していくと、ふと光を反射するものが目に止まった。水を満たしたタライや洗面器だ。昼間は気付かなかったが、洗濯板らしいものも見受けられる。
「道理で身なりが綺麗なわけだぜ」
「えっ?」
 犬神の呟きに法子が反応した。随分色々と周囲を見続けていたらしく、法子の顔には普段の色がかなり戻っていた。それを見届けた犬神は、呟くように淡々と続ける。
「何、ニューギニアの辺ぴな基地に行ったとき、遠くの基地からようやく逃れてきた兵隊の群を見たことあるのさ。いや、驚いたね。これが名にしおう皇軍の姿かと。それに比べればアンタ達は、天と地ほどの差がある文化的な生活さ。それに兵隊は、最前線じゃ洗濯とは縁遠い。まともな水が無いことも多いしな」
「前線はそれほど大変なのですか。私達も、最初は大変でしたが、それでも最低限の身なりを整えるゆとりはありました。不潔なのは病気の元ですし」
「丁寧語、やめてくれ。にしても、納得だな。アンタ達が努力したから、人としての生活を維持できたのさ。水と食い物、それに秩序や決めごとがないと人は人じゃなくなる。俺だって、あんたが助けてくれなきゃ今頃トカゲや虫の餌さ」
「顔の辺りにハエは集っていたわ。身体にウジが涌かなかったのは運が良かった」
「俺は悪運だけは人の一千万倍ぐらい強いんだぜ。けど、怖いこと平気で言うね。見た事あるのか?」
「まだサイパンが無事だった頃、沈没した船の船員が沢山入った時、包帯をほどいた傷口にウジが涌くのは見たわ。正直、ゾッとした」
 なるほどな。そう結んだ犬神は、しばらく沈黙したあと視線を法子の方に据える。
「で、これからどうする? はっきり言って、政府も軍ももうサイパン島どころじゃない。軍ばかりか国民全般にまで本土決戦の言葉が出ているぐらいだ。それにここも、食い物がいつまでも続くワケじゃないだろ」
「今、その事を考えていたわ。日本軍が島を取り返せない以上、降るべきじゃないかって」
「降る。正気か? いや、本気か?」
 真剣に見る犬神の目に正対した法子の目は正気で冷静だった。犬神の方も、戦陣訓のお決まりの一節を唱える狂気は持ち合わせていない。
「本気よ。犬神さんは ハーグ陸戦条約やジュネーブ条約をご存じ?」
「どっちも戦争に関連した国際条約だろ。アンタもよく知ってるな。どこで教わった。いや、このご時世だ、教えるとこなんてないよなあ」
「国際法の基礎的な事は、本からの知識と兄から教わったわ。私法律の勉強をしたかったの。それと兄は、犬神さんと同じで海軍将校をしているわ」
「海軍将校、山科ねえ。兄さん何してるか分かるか?」
「開戦前、ドイツに武官として赴任したきりよ。そう言えば、下の名前が犬神さんと同じよ。字は違うけど。それが何か?」
「いや何、俺様に員数外の零戦をくれた軍令部の偉いさんに、同じ名字の人がいたんだ。その偉いさんの下の名は知らないが、アンタの兄さんがドイツなら別人だろ。で、条約がどうしたって」
 え、ええ。すっかり話の腰を折られが、犬神に促され話を再開する。
 法子の話によれば、米軍がサイパン島で俘虜の扱いに関して国際法を守っているようなので、日本軍が来る見込みがない以上、降伏するのが一番妥当だと言う。
 「根拠は? 何か見たのか?」またも犬神の強い言葉に、法子は力強く頷いて続ける。
「二つ目の飛行場の向こうに、ススッペ湖という沼に近い湖があるの。その向こうに建物が並んでいて、沢山の人が動いているのが見えたわ」
「俘虜収容所ってワケか? 規模は?」
「正確な数は。けど、百や千ではないわ。規模から考えて、数千から万の単位になると思うの」
「全部地方人なら、島の半分以上がそこにいる可能性もあるわけか。で、それを見たアンタは、今まで米軍に降ろうとは思わなかったのか」
「俘虜施設らしいものに気付いたのは9月よ。ここから二里も先だもの。それに、日本人として簡単に敵に降るのは屈辱だわ。やれるだけの事をやってからじゃないと。けど、もう軍が来てくれないなら……」
「子どもに同じ事が言えるか?」
「言ったわ。けど子ども達は、日本軍や米軍の事より、俘虜収容所に家族がいるかと問うただけよ」
 犬神の低く鋭い指摘にも、法子の声は全く怯まない。
「で、どう答えた」
 何となく予測はついたが、犬神は聞かずにはおられなかった。
「可能性は半分と言ったわ。いるかも知れないし、ターポッチョ山の方で私達と同じように潜んでいるかもしれないと」
「で、今日に至るか。強いガキ共だな。アンタも」
 言ってから、一拍子おいてから犬神は続ける。
「あんたの考えはよく分かった。で、よく分かった上でお願いがある」
「お願い?」怪訝顔の法子に、真剣な眼差しで続ける。
「ああ、お願いだ。軍人としての命令じゃない。俺、犬神広志個人としてのお願いだ。単刀直入に言う、今少し降るのを遅らせてくれ」
「理由、聞かせてくれるわね」
 もちろん。有無を言わせぬ顔の法子に、真剣な眼差しのまま笑顔を作った犬神は続けた。
 アンタらが降伏するのは止めないが、俺はお断りだ。それに、帝国軍人としての義務もあるから、降伏はできない。もちろん、死して何とやらとは別問題だ。俺の矜持と軍人としての義務感の問題だ。
 ただ、怪我が治るまでは側にいて欲しい。腕がこれでは身動きどころか日々の生活も難しい。それと、島のことを知っている限り全部教えてくれ。特に米軍の事をな。
 終われば、昼間の平和な日和に白旗掲げて全員山を下りればいい。軍や政府は色々言ってるが、女子どもに米軍が撃ってくる事はないだろ。俘虜収容所があるなら尚更だ。
「それで、犬神さんあなたはどうするの」
「さあ、持てるだけの食い物や道具を抱えてターポッチョ山の方で潜伏を続けようと思う。友軍が逆襲に来る可能性は、国と軍が健在である以上皆無じゃない。それに軍事目標が何もない町を無差別爆撃するような米軍を許すわけにはいかない」
「ここは使わないの? 私は言わないわ」
「アンタは大丈夫だろ。多分奈央子嬢ちゃんも。けど、子どもは無理じゃないかな。あいつらが口を割るとは考えにくいが、やっぱ態度に出ちまうだろ」
「それは、そうかもしれないけれど」
「けどはなしだ。こっちから迷惑をかける以上、少しは気楽に行ってもらいたい。で、聞いてもらえるのか」
 犬神がここぞとばかりに顔を近づけ瞳を据える。
 あまりに真剣なのだが、目の前10センチ前にある顔に法子が小さく吹いてしまった。
「犬神さん、間近で息を吹きかけないでね。それに、これでも私、年頃の女よ。まるで求婚か逢い引きを受けているみたいだわ」
「いや、そんなつもりは微塵も。……あ、そうだ、同一行動中アンタに手は出さない。あっちの嬢ちゃんにも。これは男犬神広志としての確約だ。血判状を書いてもいいぜ」
 犬神の慌てようと真面目さに、法子は自分の言葉が原因とはいえおかしくなった。
「フフフ、いいわ。あなたの男意気に免じて、話し合いにかけるわね」
「話し合い?」
「ええ、全員に関わる行動には、嘘と隠し事なしがここの大原則。全て子ども達にも話してから多数決するのよ。こんな状況だから、もしもの事を考えて子ども達には自立心も教えておきたいの。だから楽観はしないでね。浮き世から離れても、決まり事はあるのよ。分かりました中尉さん」
「合点承知だ、姉さん」
 あなたより随分年下よ。そう答えた法子の笑い声に、犬神は爽やかな笑みと共に敬礼を決めて見せた。


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