■長編小説「煉獄のサイパン」

●第八章 1-2

「驚いたわ。こんなに急に呼び出すんだもの。てっきり、前と同じように誰か連絡に来るのかとばかり思っていたわ」
 その日の深夜、収容所の外れ。探照灯の明かりがほとんど届かない収容所の外れ。南洋桜と日本人達が呼ぶフレーム・ツリーの側に、米軍の中古服を着た数人の男女が集まっていた。
 この南洋桜が並木上になった場所は、収容所内での小さな憩いの場所となっており、収容所の日本人なら半数は知っているだろう。だが、収容所の奥まった場所にあるので米兵は見向きもしないものだ。
 その南洋桜の一本に犬神が体重を預け、顔には目と白い歯が見えており、彼らしい不敵といえる笑みを浮かべている。
「急に悪かったな。まあ、急ぎお座敷がかかったと思って諦めてくれ。こっちも準備があって迎えをやる余裕がなかった。それよりも」
「ええ、結局奈央子も一緒に連れて行くことにしたわ。私よりも数字に強いから役に立つはずよ」
 隣で奈央子が強くうなづく。
 法子の言葉に少し目を細めた犬神だが、少しの間だけ法子と奈央子を見つめる。しかし、いきなり破顔をして再び白い歯を見せた。
「了解、と言いたいところだが、俺は見ての通りだ。身体はなんとか動くようになった。アメ公の食いもんのおかげだ」
「じゃあ、お役ご免なの?」
「まだ分からねえ。迎えの兵に、俺が行けるかどうか判断してもらう。そこで浜までは一緒に行ってもらう。悪いが、そこまでは保留だ。それと、迎えの小型艇が今晩2時に近くの浜まで来る」
「危険はないの。浜は米兵が巡回しているし、サンゴ礁の外には探照灯を照らした船が通るわ」
 不確定な事が嫌いな法子が口にする。
「だから迎えの船、まあ潜水艦なんだが、こいつも滅多な事じゃ近寄れない。も少し沖には、天敵の駆逐艦がいる事もある。それに米軍は、馬鹿でも怠け者でもない。まあ、少しばかり油断してるけどな」
 ウインクして話を締めくくった犬神は、次の瞬間には顔を引き締める。
「とにかく今夜は、俺に付いてこい。絶対に離れるな。機会は一度きりなんだ。万が一俺から離れた時は、各自家に戻って何事もなく過ごすこと。それと、いちおうアンタらが消えた場合、日本人の間で数日は風邪で倒れているよう示し合わせてもらってある」
 そう言って準備を整え、時計を気にしつつ歩き出す。犬神の歩みはしっかりしており、少なくとも外見上はもう大丈夫に見える。武器は何も持っていないように思うが、全て念のためだろう。武器を持たず米軍の中古服を着ただけなら、収容所を抜け出したぐらいに思われ、それ以上疑われる可能性も下がる。
 そう当たりを付けた法子と奈央子の前に、時折人影が現れては犬神に報告をしては立ち去っていく。切れ切れに聞こえてきた声から、米軍の警戒に対しての最終報告のようだ。そうした様から、かなり入念に準備された行動だと伺い知れた。
 そして何事もなく、黒一色の浜辺の近くへと到着した。もうすぐススッペ浜だ。右手には旧オレイア飛行場、左手すぐ側には砲台後が今も見えるアフトナ岬が見える。どちらも日米の戦いにより残骸以上の存在となっており、米軍も再利用していないためまるで死んだように静まりかえっている。
 米兵の間でも、激戦のあったこの辺りには両軍の幽霊が出るとかで、哨戒任務を嫌がる傾向が強いらしいと、法子は米兵たちの噂話から知っていた。
(けど、幽霊の正体って、本物の日本兵じゃないのかしら)
 少しばかり余裕の出た法子は、弱い月明かりの中浮かび上がる周囲の情景を見渡した。すると、視界に入った奈央子が何やら危惧をいだいた目をしているのを見とがめた。
「どうしたの、奈央子? 何か心配事」
「いいえ、心配事という程ではないんですが」
 そう切り出した奈央子は、仮病が判明しそれどころか二人がいない事も分かったら今度は他の人たちに害が及ぶのではと心配していた。
 それを聞いた犬神が、ニヤリと笑いかける。
「心配すんな。作戦まで1週間もない。で、作戦が成功すればここの米軍は少人数の女子どもにかまけている暇はなくなる。それにな、アンタらは日本軍の大規模な攻撃が成功したら、流れ弾か延焼で死んだことにされて、葬式済ましちまう事になるんだぜ。米軍も疑いようがねえ」
 冗談で口にしていい事じゃないでしょう。犬神をたしなめた法子だが、奈央子はその言葉に今度は嘆息してしまった。
「じゃあ、私達は二度も死んだことにされるんですね。この後、どこに行けばいんでしょうか」
 瞬時に真剣な顔になった二人だが、歩みを止めた犬神が真顔で二人を見つめる。
「お二人の身元は、軍が責任を持たせていただきます。そのぐらいはさせて下さい。お願いします」
 今までより真剣な顔、声が多いのは、彼が社会の中、組織の中に戻っている証だが、法子はなんとなく寂しいものを感じた。
 同じ事を感じたのだろう、奈央子も大きな鳶色の瞳を少しばかり振わせ法子に視線を向けていた。そんな奈央子に、いつものように頭を斜めからなでようと思い、奈央子の顔が少しばかり安堵した時だった。
「っ!」
 法子は瞬間何が起こったか分からなかった。目に残った残像が正しければ、もう数センチにまで自身の手が伸びていた奈央子が突然視界から消え、法子自身は万力のような手で捕まれると、もの凄い力でどこかの暗がりの中に放り込まれたのだと理解できた。
 それが思考として理解できたのが、上に人間が覆い被さり、法子の口を手でふさいでいる状態の時だった。その間気を失ってはいない筈だから、一瞬もしくはものの数秒のできごとの筈だ。
(何が起こったの! いいえ、まずは自身の目で確かめなくては)
 そう思い直し、まずは暗がりそのものを見つめる。
 まずは、覆い被さり息を殺しているのが犬神だというのは分かる。他の者であったら、まさしく幽霊だ。
 また二人が潜む暗がりは、米軍がばらまいたタガンタガンが繁ったものだ。低木ぐらいの高さだが、茂みの多さから伏せた状態の人間なら楽に隠れられる。
(それより、奈央子は?)
 茂みの合間から少しばかりの月明かりが差す方に目を凝らすと、人が一人倒れているのが分かる。影の大きさ形からも奈央子以外にありえない。
 見ると同時に駆け寄ろうとするが、依然もの凄い力で押さえ付けられたままで身動き一つ適わない。そうして暴れる法子に、犬神が視線を合わせる。
「待て、危険だ。耳を澄ませてみろ」
 小さく鋭い声にハッとした法子が耳を澄ませると、遠くから声が聞こえてくる。英語だ。良く聞けば足音も聞こえ、急ぎ近づいてくるのが分かった。
 そうして数十秒すると、米兵声が聞き取れるところまで近寄って来た。遠くには車、ジープの音も地面のかすかな振動と共に伝わってくる。
 しかも離れた場所にいるもう一台のジープには探照灯が据えられており、光のビームを遠くから投げかけているのまで見て取れた。
 そして米兵達は、辺りに他の気配がないからだろうか、きびきびした声からおどけた声や冗談交じりの会話が、かなりの大声で交わされるようになっていた。
「どうだ、他にもいた筈だ」
「いないぜ! あそこに倒れているだけだ」
「いいや、こいつは集光スコープ付きだ。最低二人はいた。間違いない!」
「まあ、分隊長とサーチライトを待とうぜ」
「まったくだ。こうも暗いと、ハンドライトぐらいじゃどうにもならん」
「それより、ゴーストちゃんは何だったのかな〜」
「てか、やけに小柄じゃないか」
「ジャップだから小柄なのは当たり前だろ」
「けど見ろ、女に見えないか。黒い髪が長いぜ」
「まあ敗残兵だろうから、伸び晒しだろうさ」
「いや、おかしい。身なりが俺達に近いぞ」
「ガッデム。じゃあ、味方だったてのか」
 会話が急に緊迫度合いを増し、地面を通してドタドタと走る様が伝わってくる。そこに急接近するジープも加わり、騒音は倍以上になる。法子達の茂みまでは10メートルほどで、4、5人の米兵がサーチライトの中の奈央子を取り囲む。
 と、奈央子の首が動き小さなうめき声を出すのが分かった。とは言っても、法子からはちょうど見えていた口元が動いたのが辛うじて見えただけだ。
 何しろ周辺は、米兵の下手くそな英語で満ちている。今はとにかく、奈央子が生きていることに安堵するしかなかった。
「う、動きやがった。生きてるぜ」
「待て、撃つな。捕虜にするんだ」
「どうだ、坊主ども仕事はしているか」
「はい、分隊長。捕虜一名負傷を確認。これより……」
 到着したジープからの声に反応した兵士の言葉は、それ以上続かなかった。言葉の雷が周囲を埋め尽くしたからだ。
「この、馬鹿野郎ども! 手前えらの目はガラス玉か。そりゃ収容所の服だ。それに女の子じゃあねえか。なぜ、最初に警告を出さなかった!」
(この声……)
(知ってるのか?)
(ええ、私達が捕虜になった時のGI達だわ)
 二人の小声の会話の間に、分隊長ことマードック軍曹は、素早く奈央子のもとに駆け寄ると、慎重かつ丁寧に上体を起こして負傷を確認する。瞬間、軍曹の身体が固まる様子が法子からも分かった。
「なんてこった。……エドワード、応急措置をしろ。弾は肩を貫通しているだけで急所は外れてる。オマエでも出来る。それと、俺が転がすから急ぎジープで病院まで運ぶぞ。それから、他の者はこの場に残り、他に日本人もしくは日本兵がいないか捜索を続けろ。指揮は伍長に任せる。ただし、30分して何もなければ帰投せよ。それとだ、無闇に発砲するな!」
 「イエッサー」命令一過、兵士達が動き出す。
 マードック軍曹と衛生兵らしいエドワードは、奈央子の救急措置を急ぐ。そして、彼らにとって出来る限りの丁寧さで奈央子をジープに乗せると、来たとき同様素早く立ち去ってしまった。
 数分後、その場に残されたのは、4名の米兵だけだ。
「どうするよ」
「命令通り、この辺りの捜索を続ける」
「いや、そうじゃなくてあの子を……」
「分かっている。だが、これは事故だ。それに、理由が何であれ収容所の外に出ているから、責任はあっちにある。俺達が処罰を受けることはない」
「んな事言ってんじゃねえ!」
「じゃあ、何だ。懺悔なら後で牧師様にしろ。事故だったんだ。撃ったお前が悪いんじゃない。それに、狙撃したとは言え、それは小銃だ、大砲じゃない。急所を外していれば死ぬことはないだろう」
「だといいがな。でないと寝覚めが悪すぎるぜ。誰だよ、幽霊退治しようなんて言ったヤツは、畜生」
「分かったから、始めるぞ。二人居たんなら、近くにまだ潜んでいる筈だ。二人ずつペアで捜索だ」
 そんな会話の後、4人の男達が動き出す。片方は、法子達の潜む場所を目指している。
「なあ、もう一人って、やっぱあの美人か?」
「美人でも、ジャップの教師だ。軍国主義の走狗さ」
「けど、俺達より英語うまかったぜ」
「じゃあ、鸚鵡でもアメリカ人やイギリス人か? それにあの人なら、馬鹿じゃないからこっちが呼びかけたら撃つ前に出てくるさ」
 そう言うと、大声で二度投降を呼びかける。
(何と言っている)
 茂みの中、犬神が耳元で囁く。息づかいは冷静だが、身体の強ばり方から緊張が直に伝わってくる。
(撃たないから投降しなさい、3分だけ待つと)
(その後は?)
(それしか言ってないわ。けど、降伏しましょう)
 瞳を法子に真芯に向ける犬神は、小さく頭をふる。
(ダメだ。今夜しかないんだ)
(じゃあ、私が降伏するから、米兵が消えた後、あなたが行って。あの人たちは、私が潜んでいると思っているの。呼びかける前の雑談で分かったわ。だから、すぐに納得していなくなるわ)
(なるほどな。だが、それも控えたい。どう考えても、あんたのおつむの方が友軍の為になる。だから、アンタが行ってくれ。落ち合う場所は、アフトナ岬北側のタガンタガンの茂みがある小さな入り江状になった場所だ。ここからだと岬に向けて、あっちに真っ直ぐ歩けばものの5分ほどの位置だ)
 それから早口に、月の位置を目安にした時間、合い言葉など必要事項を早口で伝える。
「さて、そろそろ時間切れだな」
 犬神の力が緩み、二人して間近で見つめ合ったまま数瞬が過ぎる。
「……いけねえなあ。アメ公のトーキーだとヒシと抱き合ったり濃厚な接吻ってとこなんだが、その暇もないらしい。……じゃ、アバヨ」
 それだけ言うと、茂みの後ろ目指して音もなく移動していき、数メートルほどの場所でやおら走り出した。ちょうど二人の米兵から茂みが影になるし、米兵も瞬間射撃を躊躇したので、そのまま暗闇の中へと消えていく。その間一瞬の事で、音すら出せない法子は声をかけることすらできなかった。
 代わりとばかりに米兵が罵り声をあげ、走り去る米兵の足音の残滓だけが残った。
 そして米兵の気配が消える沈黙の中、法子一人が茂みの中に残された。他の米兵も犬神が去った方に急ぎ走り去ったので、人間の気配は数分をせずして自身以外いなくなったのが気配が伝わってくる。
 突然の一人きりだ。頼れる者もなく、また頼ってくれる者もいない孤独が法子の心を支配した。特に、この数年間誰かの心配をしていればよかっただけだと唐突に理解できた事はショックだった。そしてさらにショックだったのは、孤独であってもするべき事があるという点に次なる自分の拠り所を移そうとしている自身に気付かされた。
「フフフ、何が本当の明日のためか、なんて偉そうな事よく言えたものだわ」
 小さな自重が法子の口から溜息のように漏れた。
 自分の信じる明日のため、信じるもののためなどではなく、自分自身がそれにすがっていただけだと思い知らされた。
 しかし、交わした約束を違える事はできない。そうした思いが、結局法子の心に再始動を掛ける。
(10分、いいえ千数えたら動くわよ)
 沈黙の夜空の中そう決意した法子は、周囲を油断無く伺いつつ、この数分間の出来事が思い浮かんでは消していくという作業も同時進行で行わなくてはならかなった。
 突如暗闇の中からの銃撃。奈央子の負傷。咄嗟の潜伏。米兵の殺到。旧知の米兵。運び去られる奈央子。犬神との会話。救いは、奈央子が生きている事と治療を受けられるだろうという事。そして、犬神が「アバヨ」と言いながらも、今生の別れのような顔をしなかった事だ。いつもながらの不敵な笑みで、悪運だけを連れ歩いている顔だった。
 そんな顔を残してくれた犬神が、今の法子にはありがたかった。
(さあ、行くわよ)
 心の中で決し、なお慎重に茂みを出ると、そこは米兵の射撃前とほとんど変化なかった。闇に馴れた目で注意深く地面を追うと、砂の地面に足跡と轍の跡、そして他より黒ずんだ場所があるのが小さな違いだ。
 法子は、その黒ずんだ砂を触れ物に触るように少しだけすくい上げ、ハンカチに大事にしまい込むと浜に向けて歩み始めた。

 犬神は5分と言ったが、姿勢を低くして歩き、なるべく何かの影になり、他から遮蔽された場所を探しつつ進んだので、倍以上の時間をかけて落ち合う場所とおぼしき浜辺にたどり着いた。
 浜辺では静かに波が打ち寄せ、海中には夜光虫が光を放ち、さらに月明かり、星明かりが海面に反射して幻想的な光景を作り上げている。
 普段は何とも思わない情景だが、ここが激戦地だったと教える浜辺で沈む米軍戦車の残骸が、全ての光を送り火のようにも見せる。
 そんな中、波打ち際近くに何かの気配があった。法子も相手にも緊張が走る。だが、誰何の声もなく、銃声もしない。ましてや探照灯もない。
「必勝」
 咄嗟に伏せた上体の法子が、手で口をおおい指向性を高めた声を飛ばす。すると向こうからも「信念」という返事があり、互いの緊張感は少しだけ消えた。
 そしてなおも姿勢低く進むと、答えた側の情景がおぼろげながら見えてきた。
 はるばる日本本土からの訪問者は、米軍がばらまいたタガンタガンの種が繁ったアフトナ岬の影になる部分に伏せていた。その向こうには小さな入り江があって、人が5人も乗れば一杯になりそうな小型船が浜に乗り上げていた。そちらにも人間が一人待機している。
 そして茂みの中から、視認性の低い服装の男が姿を現し、注意深く申し合わせた合い言葉の交換を行った後に、スキのない敬礼を決める。
「私は帝国海軍《伊29潜》甲板員の田野上中尉です。……あなた、お一人ですか」
「はい。犬神広志海軍中尉の命令を受けて参りました。犬神中尉は、米兵の目を引きつけるべく囮を買って出ており、ここには来ないと思います」
「了解しました。それで他の者は? 犬神中尉他2名と連絡を受けましたが」
「他の一名は米兵に撃たれ負傷。捕虜となりました。他にも手助けして下さる方は何名か見かけましたが、この場に来るかどうかは分かりません」
 そこまで言うと、田野上中尉が首を横に振る。
「犬神中尉より、他の者は接触しないと連絡を受けています。我々は時間内に誰も来ない場合、そのまま立ち去る予定でした。では、急ぎ短艇にお乗り下さい」
 田野上中尉の方が早口で早々に移動することを口にする。素人の法子達にも、相当危険な橋を渡っているらしい事が肌で伝わってくる。
 法子も力強く頷き、法子の後ろに田野上が続く。
 急かす将校は、性別、年齢は気にしていない風というより、もしかしてこちらが女である事に気付いていないのではとすら法子には思えた。
 犬神と階級は同じながら、犬神の方がよほどしっかりして見える。顔つきから判断できる年齢も、自分とさして変わらないのではと思いつつ、急かされ短艇へと急ぐ。 
 そして法子が乗るのを確認すると、田野上と短艇で待っていた水兵らしき男が短艇を海へと押し出し、浮く直前に二人が飛び乗る。そうした様はキビキビとしており、少しばかり頼もしいさを感じさせる。
 短艇は静かに進む。どうやら隠密作戦用に作られたものらしく、姿勢を低くと言われたまま法子は付近に視線を這わせる事に専念した。
 そうして船は浜辺から500メートルから1キロ半ほど離れた場所にあるサンゴ礁に近づく。サイパン島を海面に留め置いている天然の防波堤であり、島を巨大な山に見立てた場合の外輪山もしくは火山の火口に当たる。
 珊瑚を超えると一気に水深は増す。その様は海の色で一目瞭然なので、漁をする者以外島の者で近づく愚か者はいない。当然ながら波も荒く、タナパグ近辺の広い環礁部に港と泊地が形成されているのも、サンゴ礁が作る穏やかな入り江のおかげだ。
 だが短艇は、サンゴ礁の合間にある小さな裂け目を目指し、ついには外海へと出た。
 急に船の動揺が増し、波が高くなるのが見た目で分かる。天気が良いので嵐の筈ないが、海や船に馴れていない法子にとっては大波も同然だ。
 だが短艇は、サンゴ礁から100メートルほど沖に来たところで機関を停止。田野上中尉が一斗缶と鉄の棒らしきものを取り出すと、一斗缶を半分海に浸して鉄の棒で叩き出した。
 ガン、ガン、ガガン、ガン。一定のリズムを持って静まりかえった海で鳴らされる。法子にもそれが何かの合図であると分かるが、米軍の船に見つかるのではないかと気が気ではなかった。それを察したのであろう、叩く作業を二度行った田野上が白い歯を見せる。
「ご安心下さい。敵哨戒艇は、今の時間なら早くとも30分は視界にすら入りません。また、この側の海中に友軍潜水艦が待機しているのです」
 確信に満ちた言葉であり、それに応えた法子も笑みを返す。が、その時50メートルも離れていない場所で、海が泡立つのが見て取れた。
 泡立ちはすぐにも波のざわめきとなり、そして飛沫へと変わった。泡の側には何か光るものがあり、航跡を描いてもいる。
(まるで大きなクジラみたい)
 大きな飛沫をまき散らし小刀のような鋭角的な船首を一瞬だけ見せて浮上した潜水艦の浮上の様が、法子にはそんな風に思えた。
 もっとも一通り浮上しきった潜水艦の姿は、突如鋼鉄の塊が出現した手品のようにすら思え、頼もしさよりも一種不気味なものすら感じさせた。
 そんな感傷に浸っている法子をよそに、短艇は再び動き出し、素早く友軍潜水艦に接舷する。潜水艦の側でも背中のこぶのような艦橋、船体後部の甲板に多数の人間の姿が見えて、甲板からは縄ばしごが垂らす作業が行われていた。
 そして田野上中尉に促されるまま、法子はぬめる潜水艦の船体を苦労して縄ばしごづたいに登る。そして潜水艦側の水兵の力強い手に引かれ、一気に甲板の上に上がった。
 手を握った水兵は、握った手が女性の手であった事に瞬間驚きの表情を浮かべていたが、法子には艦橋で油断無く周囲を警戒する水兵に混ざり自分を見下ろす中年男性の方が印象強かった。
 その様は、法子が今まで見てきた軍人や水兵と言うより、どこか達観した隠者のようにすら思えたからだ。
 もっとも一瞬の事であり、法子も水兵に促されるまま人一人がやっとくぐれるほどのハッチへと身を沈め、潜水艦艦内へと案内される。

 ラッタルを降りた中は、一言で言えば臭く狭く蒸し暑い場所だった。しかも男臭く、汗くさく、油臭く、そして糞尿臭かった。
 照明も小さいものしか灯されず、最初に入った場所は通路らしいのだが、とにかく狭く天井も低い。しかも壁や天井にはパイプが縦横に張り巡らされ、狭さと圧迫感を倍増させていた。
 だが、何かしらの感想を抱いていられる時間はひどく短かった。艦内のそこかしこで復唱される「急速潜行」の声と共に艦が急に傾ぎ、法子の側をもの凄い勢いで水兵達が通り過ぎていったからだ。
 誰かが腕を引いて脇に避けてくれなければ、濁流に揉まれた流木のようになっていたのは確実だ。
 そして手を引いた主、いつの間にか艦内に入ってきた田野上中尉は、責任者にお会い下さい。こちらへ。と言うと、先ほどまで人の濁流となっていた廊下を静かに歩きだした。
 それが法子が生まれて初めて体験した潜水艦であり、その潜水艦《伊29潜》にとっても、生まれて初めて女性を招き入れた瞬間でもあった。



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