九. 新大陸

 日本人の数ある海外進出地域で最も大きな問題となったのがポロニタイ(和名:秋津大陸)西部地方の勢力争いである。
 十七世紀当時、条約により江戸幕府からも北方経営にフリーハンドを得ていたアイヌは、南方経営を日本にほぼ独占されていたこともあり、必然的に北太平洋方面へと目を向けるようになっていた。そしてその先には広大な北アメリカ大陸があり、赤人(白人)などより、よほど自分たちに近い先住民族たちとの交流を深くしていった。
 また、その頃の北ユーラシアではコサックを中心としたロシアによる略奪的な進出が行われいたが、清帝国との協調の元、彼らの東進を阻止し太平洋進出を完全に阻み、後のロシア帝国、清帝国との間のネルチンスク条約にてアイヌは北東ユーラシア地域の覇権を確かなものとしている。
 そしてユーラシア大陸北部全域での膨張を止めた十六世紀後半には、既に緑豊かなポロニタイ(秋津=北米)大陸への進出を開始していたアイヌは、現地住民との交流を深め交易を開始しており、交易の拡大に伴いしだいに活動範囲を広げつつあった。
 そしてポロニタイ大陸の進出範囲を広げていくにつれて、スペイン人との接触が増えていき衝突なども発生するようになった。そして、最終的にはスペイン人をアズトラン(メキシコ)から駆逐する事となる。だが、これは双方がそれ以上進出する気があまりなかったため(アイヌは領土欲があまりなく、スペインはそれ以上の膨張ができる国力はさまざまな理由により既にない状態だった)、それ以上大きな問題に発展する事なく、互いの勢力境界を設定することができた。
 しかし、時がたち北米大陸東部地方への進出を積極的に行うようになり、ちょうどアイヌが五大湖あたりまで商業的進出したところで大きな問題が発生する。時に十八世紀後半の事だった。
 その頃、北米大陸東海岸では、植民地人が大英帝国から独立し、西部、つまりアイヌ人(と日本人)が勢力を拡大しつつあった地域に向けて進出を始め、その中間に存在した先住諸部族(インディアン)との何度目かの全面戦争を開始していたからだ。もっとも、アメリカは東部地方での先住民との戦いを戦争でないといまだに言っており記録も少なく、歴史的には完全に闇の中で、中東部にいた先住民との戦いも戦争でないと否定している。
 なお、当時のアイヌと先住諸部族(インディアン)との関係は、比較的良好な状態にあった。なぜなら、アイヌ人が新たなる大地を植民地や入植地としてではなく、民族的なゆるやかな同化により自国領ないしは同盟国とすることを目論み、今までのアイヌ本土近隣地域の民族同様の条件と態度で臨み、それがある程度の成功を収めていたからだ。この当時のアイヌは、移民の盛んだった大東海(太平洋)沿岸地域以外の先住諸部族からは、便利な交易商人として内陸諸部族から見られていた事からも、それが見て取れるだろう。
 そしてそのような関係もあり、十八世紀中ごろアメリカ合衆国が西部進出を本格化しだすと、東部海岸地域から落ち延びて来ていた部族を中心とした先住諸部族がアイヌ人に援助を要請して来るようになる。この要請に対してアイヌ国政府は、先住民族たちに『恩』を売る最大のチャンスと考え、また当地の自分達の権益保護もあったため、全面的な支援を開始する政策を決定する。
 歴史的にはこの決断こそが、後の北米情勢を激変させる事になったと言われている。
 支援は、まず東海岸部や中部平原からの亡命者の衣食住の保証だった。このため多数の船団が、アイヌ本国から函館(江戸幕府の強い要請で新たな土地の命名は日本名(漢字名)にするようにされていた。ちなみに英語名はバンクーバーである。)へと到着した。それだけでなく、王立海軍の陸戦隊の上陸を皮切りに傭兵団、軍事顧問団など直接的な軍事的支援はもちろん武器、弾薬の援助、果ては義勇兵の参加など膨大な軍事力をポロニタイへと送り込んだ。そして、それら全て行動を勢力圏の治安維持のためと発表し、日系国家群の全面的な支持のもと行なわれた。もちろん、それらに以外の人道的支援の人員・物資も多数もたらされていた。
 これに対してワシントンにあったアメリカ合衆国政府は、得体の知れない亜細亜の帝国に対して、民族感情に裏打ちされた強い不信感と不快感を示したが、西欧列強ですら一目を置くアイヌ国、そしてその後ろにいる日本人の帝国(江戸幕府)を本格的に敵に回して戦争を起こすわけにも行かず(当時まだ日英戦争、ペナン沖海戦はおこなわれていない)、中部の平原を舞台にインディアン達と激しい抗争を繰り返しつつも見てみぬ振りをした。
 だが合衆国が異常なまでの熱意をもって行なった西部開拓は、十九世紀初頭にはついにアイヌの勢力圏にまで及び、そして偶発的事件から局地戦争へと発展した。
 当時、陸軍力の常備兵力の約半分を現地に駐留させていたアイヌ王国は、それにも関わらず余りにも本国より離れていた事もあって、開戦当初戦線の拡大を望まなかった。だが、現地諸侯、現地住民、現地軍、先住諸部族の強い要請と国民感情に引っ張られた結果、北アメリカでの全面戦争を決意する。そこには、西欧に自分たちの軍事力がどれほど強力かを見せつけておく事により、今後のアジア政策を有利にすることできるだろうという思惑を持った江戸幕府からの強い要請もあった。実際、義勇軍という名目で多数のサムライたちも派遣されていた。

 本格的に戦端を開くと同時にアイヌ王国正規軍が投入されると、今まで劣勢に立っていたインディアン達の戦線を一瞬にして戦線を建て直すだけでなく、大きく押し返すことに成功する。
 奇襲でも何でもなく、単なる強襲に過ぎなかったが効果は劇的だった。
 しかし、これは当然の結果といえた。辺境警備を主としている軽騎兵が主体の合衆国軍では、インディアンや軽装備のアイヌ人義勇兵の相手は出来ても、当時の水準で多少旧式とはいえ、強大な火力と機動力を持ち、強大な騎兵部隊を抱えるアイヌ軍正規師団の力に対抗出来よう筈もなかったからだ。その中でも戦力の中核として投入されたアイヌ近衛師団は強力で、欧米での一般的な編成と比較すると軍団規模の火力を装備し、騎兵の練度はかつてのタタールに匹敵すると言われるほどに達しており、各地で合衆国軍を大火力と騎兵集団の打撃力で粉砕していた。
 当然戦争は先住諸部族・アイヌ連合の有利に進み、連合軍は開戦一年後には、五大湖畔一帯以西を完全に占領するまで勢力を広げていた。メキシコが有する北米大陸南部一帯を含めると、この時諸部族・日系の有する地域は、北米大陸の七割に達する程だった。
 しかし、その後の合衆国正規軍のゲリラ的反撃と、アイヌ側の補給線の増大による補給の滞りなどにより戦線は膠着する。
 そして、一八二四年にフランス(フランスは英国との対立から各部族との仲が比較的良好だった。)の仲介により、ようやく北米大陸の休戦が実現する。
 交わされた条約は、現状の肯定でしかなく、明らかなアメリカ合衆国の敗北だった。
 これによりアイヌ王国と先住諸部族は新大陸での勝利つかみ、合衆国と先住諸部族居住地域との境界の設定、合衆国領内における先住民族の主権を認める州、地域の制定、その他の地域における権益保護などを盛り込んだトロント条約に調印する。
 勿論、アイヌ王国も合衆国の通商条約、不可侵条約、合衆国領内におけるアイヌ権益の保護なども約束させている。
 そしてそれと同時に今まで様々な呼び方をされ、また多数の部族の集合体でしかなかったアメリカ先住諸部族連合は、この戦争中に正式に国家として成立していた。もっとも、国家の名称は、結局『諸部族連合(トライバルズ・ユナイテッド・キングダム[T・U・K])』とされた。

 そして、この五年以内にもう一度、今度は英国を巻き込んで先住諸部族連合を中核として日系の総力を挙げ戦争を挑んでいたら、その後の歴史は大きく変わっていただろうと言われているが、現実は有色人種連合にとって厳しい現実を突きつける事になる。
 そう、この勝利は長続きせず、一八四四年に起こったアメリカ=メキシコ戦争により悲劇的結末を迎えることになったのだ。
 アメリカ=メキシコ戦争から発展して「北米戦争」と呼ばれた戦役で、民族的つながりから諸部族連合とアイヌはメキシコ側に加担して参戦したのだが、それが全くの裏目に出た。
 この戦争で前回の教訓により著しく強化された合衆国陸軍に対し、当時軍事的な劣勢が明らかにもかかわらず民族的な問題からメキシコ側に立って戦端を開いたため諸部族連合軍は大敗北を喫し、その後の反撃もむなしく国内への侵攻を許し、合衆国軍の偏執的とも言える執拗な攻撃の前に首都すら奪われ、インディアン(諸部族連合)は国の南部地方全て失う事となる。
 また、日系最大の拠点だった新出雲新界(カリフォルニア)を開戦当初のアメリカ側の電撃戦で失った日本(江戸幕府)は戦争から早々に脱落し、アイヌ王国が懸命に戦争を立て直そうとしたが、アイヌ人の大増援部隊が函館の港に着いた頃には、全てが手遅れとなっていた。
 この敗北は、諸部族にとっては最後の広大な平原を失う致命的な敗北であり、そのため合衆国に対する怨みは深く、彼等は捲土重来を帰して、何とか保持する事の出来た北米大陸の北西地方へと移住していく事となる。
 そして、北アメリカ西海岸を中心に根を下ろしていた日系移民のうち、白人による支配を良しとしない多くも北へと移住し、アメリカ憎しの感情のもと諸部族連合への忠誠を誓っている。だが、新出雲国(カリフォルニア州)へと根を下ろしていた数百万人の移民の多くは、利権の多くを保持できると分かった事からほぼそのまま残り、その後アメリカ国内で大きな日本ロビーを形成し独自の路線を歩んでいく事となる。

 そしてこの後、諸部族連合は合衆国に対して常に戦争を始めれるような体勢への軍備の整備(国民皆兵体制)を行ったため、それに対抗しなければならないアメリカ合衆国も備えの軍隊を北部国境線に配備せざるをえず、これが合衆国の経済的負担を増大させ、また陸上兵力を北方に吸収されることとなり、これが後の南北戦争の敗戦の遠因となっている。
 もっとも、この国民皆兵体制は諸部族連合にとっても大きな負担であり、常にアイヌなど日系国家からの財政援助を必要としていた程だった。
 また、この戦争により、北米大陸において西部開拓という美名をかぶせた侵略戦争を行うアメリカ合衆国(のちに連合)、アメリカ人に対して、日系諸国はもちろん亜細亜諸国全てが、強い関心を持つようになり同時に大きな反感を持つようになる。
 もちろんこの感情が、後の反米意識の根底になったのは言うまでもない。アメリカ人は、北米大陸を手に入れたかもしれないが、全亜細亜人を敵としてしまったのが、長期的な歴史的意味での結論と言えるだろう。


第三部  近代化と戦乱の時代