十七.大観艦式

 1950年4月末、アメリカ大西洋・大平洋艦隊、つまりアメリカの全ての海軍は、かつてない程の艦隊演習を行った。
 アメリカは通常の演習だと説明したが、これは、西海岸の混乱に日本帝国が介入すればどうなるかを想像させるために行われた事は間違いなかった。ないしは、いつのまにか友好国となっているソヴィエト連邦に対する圧力を急速に強めている西欧列強に対するメッセージでもあった。
 また枢軸各国は、各種の情報からアメリカが戦争準備をしていることは間違いなく、これはその準備が完了した事を裏付けるもので、その戦闘正面は欧州正面だと考えていた。
 太平洋は、西海岸の混乱と日本帝国と太平洋諸国の強大化のために、もはや通常の手段では手を出せる状態になかったからだ。また、西海岸に日本帝国が進出を図れば、アメリカ国内こそが戦場になるのではと言う予測と言うか現実に即した意見もあったが、日本帝国は国内で戦時体制を強化こそしていたが、まだ手をだすそぶりは見せていないかった事からこれは否定されていた。
 どちらにせよ、世界各国の新聞が煽り立てている通り、世界中は戦争の火種に不足を感じておらず、いつどこで大戦争が勃発しても不思議ではない状況だった。
 世界中の識者は、第二次大戦が不完全燃焼だったからこのような事態になったのだと言ったが、そのような発言に何の意味もなかった。
 世界中の政府は、そのような世迷い言しか言わないインテリの言うことなど聞くことはなく、もっと現実的に自らの国家を守るための準備を急いだ。軍備増強計画の始動、予備役動員の開始、前線部隊の即応体勢の強化などである。
 だが、日英独を中心とする枢軸国側は、あくまでも先制攻撃でなく防衛を主眼とした作戦を考えており、あわよくば軍備の増強と戦争準備が戦争を抑止できないかとも考えていた。それこそが、世界秩序を未だ維持していた列強のあるべき姿だったからだ。
 そしてその最たるイベントが、日本本土近海で行われようとしていた。
 それは戦後の予算縮小により、第二次世界大戦後一度しか行われていない四年ぶりの日本統合艦隊の季節はずれの大観艦式とその後の大演習だった。これは、新生日本の力と自分達の戦力の巨大さ練度の高さを改めて見せつけ、戦争を少しでも抑止しようというのが目的だった。
 実際、日本政府は、どうせ戦争をするならもう半年の猶予を欲しがっていた。

 またソヴィエト連邦は、トロッキーがまだソ連経済の体力では、英独との全面戦争をできる状態にないと止めていたが、第二次世界大戦で肥大化したドイツ軍(陸軍・空軍)の脅威を訴える軍部の声を無視する事はできそうにもなかった。これは、トロッキーがスターリンとは違い軍部の権限を一部復活させていた皮肉でもあった。また、トハチェフスキーの指導により機械化軍団が再建されていた事も、赤軍の強気の発言を助けていた。
 そして同じ戦争をするなら先制攻撃。一撃でドイツ中枢を破壊するしかないとして、その準備が急がれた。トロッキーも軍人の権威を復権させた事から分かるように、武力による世界革命を否定したわけではなく、結局この流れに同調する事となる。しかし、開戦は自らでなくアメリカが引き金を引くことが条件とされた。また、同時に後門の狼である日本に混乱をもたらすために、共産中華に中華大陸内で戦乱を起こす指導を行い、大量の物資を援助した。これをトロッキーは、革命は混乱の中から起こるもので一石二鳥を狙うものだと赤軍首脳に説明した。
 そしてトロッキーが狙っているのは、後手の一撃によるドイツの撃破と欧州の赤化であった。

 一方アメリカ連合は、西海岸の混乱は内政問題と言い切り何とか話し合いによる解決しようとし、さらに、仏連邦の一連の活動を隠れ蓑として、そして自らもこれに全力を投入していると見せかけ本来の作戦の準備を急いでいた。
 それは、今まで戦争を全てくつがえす程の巨大な作戦であり、戦争というものを新たな次元に至らしめるものだった。
 アメリカ上層部は、すでに自らが世界から完全に孤立しており、既に資源問題と市場問題から経済的に劣勢に立っていることも理解しており、これを打破するには枢軸国側に対する服従か、あるいは攻め滅ぼすしかないと結論していた。彼らの中には、不思議な事に『共存』の文字は存在していなかった。
 そして服従は論外としたので、選択は一つしかなかった。そしてその為の作戦も、一つしかなかった。奇襲攻撃により、枢軸側の強大な正面戦力(海軍力)を完全に撃滅、爾後大西洋か大西洋に乗りだし、どちらかを蹂躙した後、大英帝国か日本帝国と雌雄を決するのだ。
 そして、経済力と戦争にかかる経費の関係から、武力による全面外交が行えるのは、これが最後のチャンスだった。

 この結果、アメリカ軍が決定した作戦正面は大西洋となった。その理由は、大平洋方面の国家郡の国力、軍事力が、この頃になるとステイツより完全に優勢となっていたからだ。しかも、先だっての戦争で、奇襲攻撃には必要以上に警戒してもいた。それが証拠に以前とは比較にならないぐらい太平洋での哨戒活動が活発になっており、ハワイ諸島には日本の誇る強大な空母機動艦隊すら常駐して、天皇のバスタブたる日本近海には、潜水艦の接近すら困難となりつつあった。
 それに大西洋方面なら、いまだ第二次大戦の混乱から抜け出しきっておらず、友邦との共同攻撃も可能であり、しかもアメリカから近い距離にその本拠地が存在する事も大きな理由だった。
 秘匿作戦名は『ピース・メーカー』。
 この作戦にかける時間は最短4年、最大7年だった。それ以上は国庫が持たず、戦争に勝利しても国内経済が自壊してしまうからだ。
 主攻撃正面を大西洋とし、太平洋に対する陽動作戦と共に奇襲攻撃を敢行し、電撃的侵攻作戦でイギリス本土を占領するのが第一段階での作戦目的だった。そしてイギリス本土を橋頭堡として欧州大陸侵攻作戦を行い、二年以内にフランス、ソヴィエトと共同でドイツを屈服させ、以後大平洋方面に順次兵力を傾け、状況によって日系国家郡と決戦を行い日本帝国をいかなる手段を持っても攻め滅ぼし、これによってアメリカの覇権を確かなものとし、アメリカを中心とした新たな世界秩序を作り上げるとされていた。
 彼等は、特に白人系アメリカ市民はそれが正義であると信じた。旧帝国主義的国家を打破し、アメリカ主導による自由主義による平和な世界をつくりあげる事を。
 そして、彼ら枢軸同盟の帝国主義者がはびこっているから、今アメリカ国内がこのように混乱しているのだと頑なに信じるようになった。彼らがいては自分たちに明日はないと。
 ここまで極端な思考(と言うより思想)は、国内にすら混乱の生じた祖国アメリカに、幻想を抱き続けるにはそう考える以外なかったから出てきたのかも知れない。
 作戦開始は、日本人が行う予定の大観艦式の当日。祭で浮かれる彼等の艦隊を一撃で粉砕し、後顧の愁いを完全に断ってから欧州全面侵攻作戦をとり行う事とされた。

 アメリカ海軍は、日本で執り行われる大観艦式を『ピース・メーカー』の格好の第一次奇襲攻撃対象とし、その戦力を欧州の戦力を割いてまで派遣した、とされている。ここでなぜこういう表現が用いられているかというと、実際には潜水艦発射による核攻撃以外彼女たちを攻撃したものはなく(それすら成功とは言い難い)、作戦名まで与えられていたのに、いったいどんな戦力が移動したのかがいっさい明らかになっていないからだ。
 潜水艦はその配備は朧げながら戦前より予想されていたもので、戦後もこの移動した戦力がどの程度か未だに明らかになっていない。戦後の調査でこのために要した資金、物資、人間はかなりのものになることまでは判明したが、それが一体何だったのか、アメリカ軍がその資料を完全に抹消してしまった為、今となってはいっさい謎となってしまっている。
 しかし、例外にこの作戦の実在を示す事件があった。それが『アリューシャン事件』と呼ばれるものである。
 事件の発端は、アイヌ王立海軍の日本の観艦式への艦艇派遣問題で、これは軍の威信問題だともめた末の妥協案として北大平洋での同時演習も行うことになり、その戦力の一部がアレウト(アリューシャン)諸島に派遣されたことだった。
 その頃当海域は、季節はずれとも言える異常気象により、比較的低緯度でオーロラすら見える磁気嵐が吹き荒れ、濃霧がひどく流氷による艦船の沈没事故が相次いでいたため、この哨戒もかねて艦隊を派遣したのだが、この時丁度、諸部族連合に表敬訪問していたアイヌ王族の乗った王室ボート(といってもかなり大形の砕薄氷型客船)への、念のための出迎え(最新の軍艦の方が探知能力に優れ難破、座礁しにくい為と説明されている)の為だったとも言われている。
 そして、その演習艦隊は戦争が始まった六月になってから母港のヒトカップに帰投したのだが、この時ボートが難破・沈没し、遭難していたくだんの王族が艦隊に救助されており、そして演習艦隊の艦艇が少なからず損傷し、それが実際見たものの話では砲撃戦を行った後ようだったという証言があることだ。さらに同海域近くで操業していた漁船の話からも、ちょうど艦隊がその海域にいたと思われる頃、大きな閃光と爆発があったことが証言されている。
 このような事実(?)から、軍事評論家や各種研究家は『これはアイヌ王国が極秘に米軍の攻撃を察知し、彼等の攻撃前に逆に奇襲攻撃をかけ完全に撃滅したのだ。』という一応の結論を出している。しかし、これは両国政府が完全に黙秘し、否定している為未だに結論が出されていない。
 このため仮称「アリューシャン事件」は、ミリタリー・ミステリーの一つとされている。
 だがこの事件当時、世界はそんな些細なことなど問題としている場合ではなくなっていた。最も派手な号砲により、第三次世界大戦が開始されていたからだ。
 それは、日本が観艦式のため、北半球の日本帝国国内に向けて行われるテレビジョン放送の生中継中に伝えられ、新時代の戦争がどういうものかを世界中に刻印する事なる。
 販売が開始されたばかりの街頭カラーテレビにかぶりついていた日本中の国民は、水平線の彼方まで続く軍艦の隊列が悠々と航行する光景の見学者から、突然、その驚愕の光景を見る歴史の目撃者となったのだ。

 ここよりは、歴史上最大規模の戦争『第三次世界大戦』について取り上げるところなのだが、この第三次世界大戦は、時代的な区分では「近代」ではなく「現代」となっていくので、ここから先について述べるのは次の機会としたいと思う。


「第五部  第三次世界大戦」に続く(2005年開始予定?!)
 
本来なら今すぐにでも始めたい所なのですが、あまりにも壮大な大戦争な上、他のコンテンツが大規模展開中ということで、現在執筆中(と言うか、まだ構想中)ですので、しばらくは世界観やデータ面での足場を固める事に専念したいと思います。
 それまでは、別コーナーの「八八艦隊1934 −八八艦隊育成計画−」をお楽しみ下さい。
 (2004年4月17日 管理人:扶桑かつみ)

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