第十四回・「真珠湾軍事裁判開廷ス」

著 者:副田護

発行日:1995年8月10日

発行所:廣済堂出版

真珠湾軍事裁判開廷ス

 今回は、架空戦記のカテゴリーに含むと考えると、かなり異色な作品を紹介したいと思います。

 本作はシリーズ化前提の作品が多い今と違い最初から1冊読み切りで書かれた作品で、話の流れが中盤まで表題にある「真珠湾軍事裁判」を中心に語られており、またこの前提として行われた大東亜戦争も裁判に沿った形で、事後報告のような形式が非常に強く、どちらかと言えばストラテジーレベルでのポリティカル・シュミレーションの色が見えます。また小説内で目指される事柄については、SFに近いかもと感じました。
 それは、公明正大な軍事裁判を行う人々を強く描き出す事と、その後のアジアを中心とした理想社会の創世の道のりまでが語られており、「ユートピア小説」の片鱗が見えるのではと感じたからです。
 そして、私がこうした既視感を感じたのは、これが20世紀後半の一般的な日本人の良性な代表的価値観によって作られた、自らが見たいであろう姿を映した作品だったからではないかと思います。だから「ユートピア小説」だと私は感じるわけです。
 ま、順に見ていきましょう。

あらすじ

 1943年(昭和18年)、日本勝利。太平洋戦争終結。
 物語は、この大前提から始まる。
 1941年(昭和16年)、真珠湾に向かう日本機動部隊への米艦載機からの奇襲で始まった太平洋戦争は、約二年後、日本のオーストラリア占領により、一応の終結を迎える。
 そして勝利国となった大日本帝国は、恒久平和のために、戦争犯罪を断罪する裁判の開廷を主張する。
 だがそれが勝利者の敗者に対するリンチではなく、米内光政首相は、敗戦国の米・英の指導者や統治者だけでなく、日本の政治家や軍人もその対象とした中立的なものとされたのが最大の特徴だった。
 そして、被疑者を日本占領下のハワイに連行した。
 真珠湾に曳航された豪華客船クィーン・エリザベス号の船内大ホールで、史上初の軍事裁判は、いよいよ開廷の日を迎える。
 そこでの史上初の軍事裁判は、日・中・東南アジア諸国判事が、ルーズベルトやマッカーサーのみならず、戦勝国である筈の東条英機などを裁く形が取られ、出来うる限り公正な姿勢が貫かれたものとなった。
 だが、裁判冒頭一つのハプニングが発生する。
 それは日本側の被告の半数以上が、欧米社会での裁判冒頭の「無罪」宣言を「有罪」と断じてしまったからだ。
 なお裁判は、アメリカ側の開戦前の奇襲攻撃、捕虜虐待などの軍事行動全般に対する責任追及に止まらず、双方の開戦にいたった政治家・軍人の断罪に及び、さらにはこの時まだ開発途上である核分裂兵器開発に関わる人々の罪まで問うものとなった。
 そして欧州での戦火が未だ消えない最中、真珠湾軍事裁判は無事閉廷し、新たな世界秩序の道しるべとなった。

 その後第二次世界大戦は、欧州での呆気ない幕切れと独裁者全ての退場により地球規模での混乱の目が摘まれ、日本人を中心とした理想社会を追い求める人々の尽力により、アジアを中心とした新たな世界秩序の構図が形成され、来るべき混沌へと立ち向かって行く事になる。

論評・批評?

 冒頭でも言いましたが、本作に対する私の読後の第一印象は、一種の「ユートピア小説」であり、戦後日本人の持つ理想の一事象を描きあげたSFと言うのがこの作品に対する評価です。
 正直言って作品の表面上を覆っている「架空戦記」的な要素は、言ってしまえば天空の城ラピュタの上っ面(笑)、付け足しやデコレーションでしかなく、当然「架空戦記」と言う言葉は似つかわしくなく、百歩譲っても戦略シュミレーションで、戦術的要素(個々の戦闘)は評価するに値しませんし、ミリタリー・ストラテジーや戦争経済と言う点から見るとお話にすらなりません。
 昨今のように、Web上で情報が簡単に手に入る頃でなかった事を加味しても評価は低くせざるを得ません。
 また一方、欧州の戦闘が殆ど語られていないまま、ナチスドイツが史実とほぼ同じスケジュールで滅ぼしたのはまだしも、そこで主要な働きをしたソ連の独裁者スターリンをアッサリ暗殺してしまうなど、戦略シュミレーションと言う言葉すら似つかわしくない評価しかできない作品構成になっています。
 つまり「架空戦記」としては、荒唐無稽な兵器こそ皆無ですが、「ト空(トンデモ系架空戦記)」に分類できる程度の考証と密度でしかない、としか判断できません。

 もっとも、全く評価に値しないかと言うと、これはどういう視点でこの作品を見るかによって変化するでしょう。
 本作の表題にある「真珠湾軍事裁判」においては、日本人の理想を追い求めた一つの形として、かなりバランス良く構成されていると思います。この点に関してはよく調べられており、なるほどと思わせる点も多々見受けられます。
 また、その後の理想的アジア社会(国際社会)構築の流れは、理想論としては非常に心地よい感覚を持たれる方も多いでしょうし、途中私もそのような感覚を覚えました。
 そして本作は、基本的にこういった視点から見るべきで、作品自体もそのように構成されています。

 ただ、私個人の読後の感想を正直に言うと、全体を貫かれている理想論とその実現の過程が青臭過ぎて、かえって鼻についたと言うことになります。
 この世界の戦後を代表する言葉として出された「バンブー・カーテン」も、政治的パロディとして面白いと思うよりも、青臭ささの方が目についてしまいました。
 もちろん、小説の主旨の一つが、史実の極東軍事裁判が、戦勝国による如何に不当なものであるか、と言うことに対するアンチテーゼなのは理解できますし、感情の一部はこれを肯定したいのですが、当時の世界レベルでの民度、各国政府の政治的成熟度など諸々の国際的背景を考えると、どう考えても実現不可能な理想論を前に出しすぎたなぁ・・・と嘆息させられてしまいます。
 そして、ミリタリーオタクや架空戦記マニアに対する蜜として設定されているこの世界の太平洋戦争の展開なのですが、これが如何にも不味いです。
 基本的に史実と同じ状況で太平洋戦争に至った日本が、アメリカに勝利出来る可能性など、宝くじで2億円が当たるぐらい低い確率しかないので、日本軍優位に戦争展開する必要はあるでしょうが、まずもって日本海軍が強すぎで、その上戦闘の描写が少ないうえに散文的かつ淡泊です。
 しかも軍事裁判として取り上げれそうな作戦ばかりが、どう見ても小説の都合により日米双方で行われ、挙げ句の果てに日本軍が大挙して豪州に攻め込むというのは、評価のしようがありません。米軍が政治目的のため、稼働空母の全てを史実のドーリットル隊の東京空襲のような任務に投入するなど、作戦の投機性を少しでも考えると目眩すら覚えてしまいます。
 よって、ここでは戦闘についてのツッコミは、これ以上一切行いません。また、本作の目的が戦闘面を描き出す事にない以上、追求するのは無意味でしょう。

 さて、では本作は何を見るべきでしょうか。
 架空戦記として見るなら戦闘面以外にスポットを当てるなら、このコンテンツの定番となっている「戦争経済」に視点を向けるべきでしょうか。いや、やはり本作の主旨である「真珠湾軍事裁判」とその延長として描かれている理想世界の実現にスポットを当てるべきでしょう。
 と言うわけで、少しだけ見てみましょう。

 本作の主題である「真珠湾軍事裁判」は、史実の「極東軍事裁判」に対するアンチテーゼです。これは間違いないでしょう。(「ニュルンベルグ軍事裁判」については、ほとんど考慮されていないと思います。)
 しかも検事や弁護士、そして日本側の被告の多くが「極東軍事裁判」の参加者で構成されています。それ以外にも歴史的に有名な人々が多く含まれており、作品内での簡単な履歴紹介を見るより、実際の文献をあたり彼らがどのような人物か追いかけても面白いでしょう。
 一方、この世界での敗戦国となった英米からは、ルーズベルト、ハル、マーシャル、マッカーサー、パットン、ルメイ、ハルゼー、ドーリットル、ハーストなど、様々な軍人や戦争に深く関わった人々がエントリーされています。
 ただ、被告人とされた人々の描き方が公平とは言い難いです。
 確かに、「極東軍事裁判」で不利という言葉すら不足するリンチを戦わざるを得なかった先人たちへの思いが強く込められているのは分かるので、彼らを公正かつ高潔に描き、青臭いレベルでの国家としての戦争や外交がどう言うものであるかを示す点に異論を挟む気はありません。
 これこそが、この小説の一つの目的の筈ですからね。
 ただ、公平でないと言った通り、アメリカ人側の被告を少し悪印象のまま描きすぎです。
 ルーズベルト(大統領)、ハル(国務長官(日本で言う外務大臣))、マッカーサー(フィリピン軍司令)、パットン(西海岸司令)、ルメイ(ハワイ方面所属)、ハースト(大衆向け新聞社の社長)などがその代表(というか過半)ですが、これらの人々の過半が極端すぎる人種差別主義者で描かれていたり、それぞれなじり合いをするなど低能かつ下品に描かれすぎています。
 もちろん日本側も、悪評の高い牟田口将軍など数名が同列に扱われていますが、日本人で悪く描かれているのは今でも悪評の高い一部の人だけで、この辺りのバランスがもう少し欲しいと感じます。
 文明人として言葉で戦いをするのですから、もう少し上品であるべきでしょう。それに、一方を悪く描きすぎると本作の主旨からも外れるかと思います。
 日本=正義の図式は架空戦記の定番とは言え、政治面に主題をおいている以上、もう少し公平なバランスが必要でしょう。
 また話しの関係上、歴史上の人物があまりにも大勢登場し過ぎて、必然的に人物描写がステレオタイプのものが多くなり、一人一人の描写がどうしても淡泊になり、全体としての印象が薄くなっています。このため、史実の人物評をした文献などで予備知識を持っていないと、この小説にのめり込む事は難しいと感じました。
 もっとも、「極東軍事裁判」の表面的事象とある程度公平に書かれた資料などを知っていれば、それなりに楽しめるのではと思います。

 しかし、この小説はここでは終わりません。
 この後も非常に重い課題を扱っているのですが、表題から考えると大きく逸脱しています。
 それは単に第二次世界大戦(厳密には太平洋戦争)の決着をつけるだけに止まらず、アジアを中心とした新たな世界秩序の模索であり、理想社会の実現が後半3分の1ほどを使い語られているからです。
 ただ、これは日米の講和の際、日本が講和の条件として日本の植民地を全て放棄するという事を宣言し、戦後の世界覇権を握るため正義の国を目指すアメリカとしても対等の条件で望まざるをえず、当然これに欧州列強も続くことを余儀なくされる、というような流れがあります・・・。
 もっとも、史実を知る私達から見れば、このような夢物語のような事が実現できる筈ないというのは言うまでもないと思うのですが、話は日米講和と軍事裁判で作られた理想的な国際社会の建設目指して驀進し、最終的にアジアとオセアニア地域を内包した巨大な国家連合(今の欧州連合のような組織)が作り上げられ、欧米もこれに対抗するため理想社会の建設に邁進していくというような、本当に夢のような事が語られていきます。
 まあ、ここで細かく書くは避けますが、私がこれを読んだとき、これだけ見ていると百年先の未来の話しを見ているような既視感に襲われました。
 だからこそ、「SF」であり「ユートピア小説」だと感じたのです。

 戦争後の講和会議で、日本が植民地を放棄すると言うことは、講和会議である以上、極端に言い切ってしまえば日本の勝手であり(講和会議の場合、当事者は対等が前提)、ハル・ノートの提出された世界であるなら、アメリカからすれば付き合う必要はありません。日本が当然行うべき事ですからね。だいいち、アメリカは植民地のフィリピンを独立させる既に進めていたのですから、その内実はどうあれ別段アメリカがオタオタするような問題とは言い難いです。
 また、「植民地=悪」という図式は、今の人々にとっては当然の事であっても、第一次世界大戦後のベルサイユ会議で始めて採り上げられた事で、それがアメリカを始めとする連合国が枢軸国側に押し付けた軍事裁判で広範に国際的に認知された事象であり、実際ソ連が各地の赤化運動を激しくし、その結果アメリカの後押しでアフリカの植民地が独立できたのは1960年代に入ってからに過ぎませんし、これですら植民地が赤く染まらないための方便という政治的行動の結果でしょう。先進国倶楽部による経済植民地という構図はいまだに改善されているとは言えません。
 まあ、少なくとも1950年代までは、植民地主義はまだ十分に命脈を保っており、弱小国に過ぎない日本がどう吠えたてようとも、覆る事ではありません。

 しかも、ここに大きな落とし穴があり、日本が当時食糧自給すらままならない国家で、多数の移民や在留邦人が海外(主に大陸)に存在していたことを無視してはいけません。国家経済の貧弱さと急速な人口増加問題から、この時点で日本が全海外領土を放棄しちゃいけないんです。
 10年先ならまだしも、1940年代に日本の全ての海外領土を自主的に手放したら、日本経済は大混乱に陥って、日本帝国は大きく国力を減じることは疑いありません。加工貿易国家日本が成立するには、あと四半世紀、甘く見てもあと10年の国家的熟成が必要です。今の経済的視点で物事を見すぎていると言えますね。当時の日本は貧乏人なんですから、この点を忘れちゃ片手落ちでしょう。

 また植民地問題とセットで語られる事もある人種差別問題についても、アメリカのキング牧師があの有名な演説を行ったのが何時であるかを思えば、アメリカ社会で本当の意味で市民権を得た問題となるにはほど遠いと言うことが分かるでしょう。
 確かに、日本が欧米列強を追い払った形の東南アジアでは植民地地域の独立が進む可能性は高いですが、これも私達の世界でのフランス、オランダなどの行動を見る限り、自ら進んで手放すと言うことはあり得ません。
 「人は聖書のみで生きるにあらず」と言う事です。
 つまり、戦争で本国が荒廃した欧州列強は、植民地をここで手放したら貧乏になってしまい、あまつさえ戦争の荒廃おかげで国民を食べさせることすらできなくなり、簡単に植民地を手放す事は国家として到底許容できない、と言うことです。だからこそ彼らは植民地に固執する筈です。
 そして、それらの当時の視点や事象を全く無視して、史実戦後の理想論だけがまかり通ってしまった世界が、本作で作り上げられた戦後世界であり、如何に作者が自らの夢と理想の限りを注ぎ込んで作り上げた作品であっても、これだけ現実から外れてしまった写し鏡にしてしまった事が、本作の最大の失敗と言えるのではないかと思います。

 最低限日本をもう少し泥臭く描いてい、戦後の理想社会とでも呼べる国際秩序を、史実より少しマシな程度に抑えて、そこから理想に向かって苦難の道を歩んでいく日本人達の姿を描く程度にしておけば、もう少し良い作品になったのではと思えてなりません。
 ま、いかに人にはファンタジーが必要だからと言っても、そればかりでは興ざめですからね。
 日本人を近代史で描くなら、常に坂の上の雲を目指す姿勢を見せる方がキレイだと思うのは私だけでしょうか。

 そして、軍事裁判とそれに関わる事象に力点をしぼり、戦後世界の構築についてはその後の苦難の道のりの入口あたりを軽く触れる程度に留めるべきでなかったかとも感じました。どちらが主題なのか、読後の感想が散漫になってしまいます。
 そしてこれが、本作に対する私の最終的な評価になります。

 なお今回は、本作品が明確に戦後について事細かく触れている事と、政治面、経済面、イデオロギー面など多岐に渡って現実から離れているので、分析その他は控えさせて頂きました。(これ以上すると作品叩きになるだけだと思いますので。)

 では、最後にリクエスト下さった方へ、本作をあまり評価しなかった事への謝罪の言葉を以て終わりたいと思います。

 では、次の作品で会いましょう。