第十五回・「ラバウル烈風空戦録」

著 者:川又千秋

発行日:1989年6月15日〜1997年6月25日

発行所:中央公論社 C★NOVELS

1 初陣篇 1988年11月25日
2 進撃篇 1989年6月15日
3 雄飛篇 1989年11月15日
4 征空篇 1990年3月15日
5 激闘篇 1990年6月15日
6 爆砕篇 1990年11月20日
7 血戦篇 1991年7月21日
8 怒涛篇 1991年2月20日
9 風雲篇 1992年4月25日
10 激突篇 1992年6月25日
11 回天篇 1992年9月25日
12 流星篇 1993年9月25日
13 昇龍篇 1994年3月01日
14 殲滅篇 1995年5月25日
15 逆攻篇 1997年6月25日
外伝 1 1993年12月20日
外伝 2 1994年10月15日
外伝 3 1996年2月25日
総解説 前期篇 1993年05月31日

 さて今回の作品は、架空戦記屈指の名作と言っても過言ではない作品を紹介します。いやそれよりも、黎明期から発展期にかけての架空戦記というジャンルを引っ張ったその牽引力にこそ最大の賞賛を贈るべきでしょうか。
 ただ惜しむらくは、「総解説 前期篇」がある通り、15巻を重ねながらまだ前半部(もしくは中盤途中まで)しか語られていない事であり、後半部の一部は外伝などで補完され、大東亜戦争の終戦日が記されていますが、物語が完結していない点にあります(こう書くと佐藤大輔の作品群のようにも思えますね(苦笑))。
 これは、1997年6月に最後の巻が出てから今まで(2004年9月現在)続刊が出ていない事から打ち切り、もしくは作者が書く気を無くしたと判断せざるをえず、本作を高く評価できない最大の原因になっています。
 1ファンとして、実に惜しいことです。

 ま、個人的には、ミロクの中尉こと三田六郎中尉が非業の戦死を遂げたところまで描いてくれたので、川又千秋作品というカテゴリーで考えると、ある程度満足しているんですけどね(w

あらすじ

 本来なら、ここである15巻(+外伝)の長大な物語について紹介していくところなんですが、あらすじにしてしまうと架空戦記としてはかなりありきたりになり、また今回は詳しく解説しているサイトがあるのでパスさせていただきます。
 あらすじその他についてはここを参照してください。
 実に詳細かつ分かりやすくにまとめられています。
http://www9.ocn.ne.jp/~seiten/rf/index.htm(コピペで対応してください。)

論評・批評?

論評・批評?
 さて、皆さんはこの作品をご存じでしょうか? いや、架空戦記を好まれている人なら知らない人の方が少数派ではないでしょうか。少なくとも題名ぐらい一度は聞いたことがあるのではないかと思います。そう思い、今回はあらすじはあえて外させていただきました。
 ・・・と言い訳だけで逃げるのもアレなので、いちおうほんの少しだけ触れるましょう。

 本作は、私達の世界とは少し違った世界での大東亜戦争を、この戦争を戦い抜いた風間健児という一人のエース・パイロットの視点から丁寧に描き出した作品です。
 このため架空戦記というよりも、この世界の戦争体験者が私的にまとめた戦争記録というスタンスが貫かれています。
 これが本作の最大の特徴であり、こういった視点での架空戦記ものでこれを越える作品はいまだ存在しないと思います。と言いますか、他ではほとんど見たことありませんね。こういう描き方で架空戦記を成立させることが難しいという事でしょうか。

 なお、この世界と私達の世界の違いは、横山社長(笑)率いる国立飛行機という架空の小さな軍用機メーカーの存在以外ほとんどないのですが、大東亜戦争が始まると少しずつ歴史の流れは変化していき、日本にとって少し幸運な戦争展開と、海軍のやや積極的な戦闘姿勢(笑)、そして航空機の開発状況の良性な進展に支えられながら、欧州での政治的激変などを経て終戦にまで流れていきます。そしてその戦争期間は、1941年12月8日〜1948年12月4日までという実に丸7年にもおよび、どうにかこうにか日本がアメリカ以下の連合国と停戦する事で終幕を迎えるようです(ただし、天皇家を主体とした君主制は廃止されている模様(「天皇制」という言葉はサヨやアカが作り上げた忌まわしき造語なので使用を避けます)。
 ただし、15巻を重ねながら開戦少し前から始まって1945年半ばぐらいまでしか描かれてなく、以後7年以上も続刊は出ておらず、事実上の打ち切りと判断せざるを得ない状況です。

 また、本作の魅力の一つに架空の航空機の開発を丁寧に描いていく様があり、これを横山宏氏の手によるモデリングとジオラマ写真で掲載するのも、本作の楽しみの一つと言えたでしょう。
 「零戦」の「栄」を二つ搭載した「双戦」、涙滴型風防を備えた「雷電」、自動空戦フラップをギミックした「烈風」、単発ジェット戦闘機の「閃風」など荒唐無稽さの少ない、実際にあり得たと思えるような、実に魅力溢れる航空機達が登場し、不屈の主人公(笑)風間健児が次々に乗り込み、作品の場面場面で華を添えていきます。

 と、ここから1ファンとして、私の内心のノスタルジーの赴くままマンセーなレビューでも書きたいところなのですが、本作の目的が作品世界の解体とその後を追求するものと私が勝手に解釈している以上(笑)、この世界の数字の上での裸体図をできうる限り見てみましょう。

 さて、本作ですが、基本的に私達の世界と同じ状況のまま日本は大東亜戦争に突入していっているように思えますし、これを特に否定するファクターは存在しません。
 もっとも、全く同じというわけでもなく、開戦直後からチョットした軍艦の配置状況や各部隊の動きの違いなどから、日本軍にやや有利の戦争が展開して、1942年秋の時点で連合軍をガダルカナル島から追い払い、米機動部隊を一度完全に撃滅してしまいます。
 また、双方の空母戦力の拮抗から1943年4月に、私達の世界では全く発生しなかった一大決戦が発生して、そこでアメリカ太平洋艦隊は甚大な損害を被り、その後洋上機動戦力の不足から、主に太平洋方面での侵攻が著しく遅れる事になり、この流れは日本側のチョットした幸運に支え続けられ、1946年に三度発生した艦隊決戦にまで続いていくようです。
 また南東方面でも、ガ島の陥落により米軍の進撃は停滞し、日本軍の新兵器(「烈風」や「閃風」)導入などもあって戦線は拮抗したまま、連合国側は無為に日々を過ごすことになります。
 まあ、この辺りまではあらすじにしてしまうと、少しトンデモな架空戦記と言えるかもしれません。

 ですが、1943年8月13日金曜日に驚天動地の歴史的変動が訪れます。
 そう、私達の世界では幻に終わったヒトラー暗殺が成功してしまい(航空機で移動中に爆殺)、総統閣下のいなくなったドイツ第三帝国はナチス共々呆気なく消滅し、その後欧州では通常状態に復帰したドイツとソ連以外の連合国が事実上の講和をしてしまい、講和を否定したソ連とドイツが泥沼の戦いを続ける中、1944年8月25日にフランス自由政府はパリに復帰することで、事実上の終息を迎えてしまいます。
 もちろん独ソ戦が継続されますから、ドイツにとっての戦争が終わったワケでもありませんが、このドイツの急速の政治的激変で、英国を中心とした欧州の連合国諸国民はすっかり戦争する意欲をなくしてしまい、対日戦を強行に推進してきたルーズベルトが死去して、トルーマン政権に変わったアメリカにおいてすら、1945年5月に日本との停戦(条件付き降伏)を図ろうという動きが出てきます。
 欧米にとって、ドイツが常態に復帰して、ソ連が貪欲さを隠さなくなった時点で、すでに戦争で気息奄々な日本との戦争など半ばどうでもよいという事なんでしょうか。ま、ナチスドイツが消えた時点で、勝ったも同然というところですね。
 私も全く同意見です。
 しかし、アメリカの出した日本にとっての苛酷な講和条件(「1941年12月8日以降に占領した全地域からの即時全面撤退、内南洋統治領の完全非武装化、大陸からの段階的撤兵を条件として和平協議に応ずる」と声明)は、事実上の条件付き降伏提案に等しく、それが気に入らない日本は、その後もあまり戦争に乗り気でないらしい連合国相手に戦争を継続し、早期に実戦配備に成功したジェット戦闘機やその他ドイツからもたらされた新兵器とその応用兵器の数々を頼みの綱として戦争を継続して、戦略爆撃機による本土空襲に合いながらも1948年暮れまで戦い続ける事になります。
 もっとも、この作品の当事者たる風間健児の視点では、この世界の現代人とやらは、私達の世界の人々とあまり変わらない骨のない価値観を持っているらしいので、この日米停戦後の講和条約は、事実上アメリカに対する日本の完全な屈服に近くなるのではと予測でき、少なくとも日本がアメリカの経済植民地となる事は間違いないでしょう。
 それが、未完に終わった本作から見えてくる一つの情景になります。
 ですが、未完であるが故に、戦略面、戦争展開で語られていない事も多いので、少しこの点を見てみましょう。

 まず一番の疑問点は、日本がアメリカに屈服せずに7年間も戦争を継続する事ができたのか、という事です。
 ま、この点決して触れてはいけない事なんでしょうけど、後でいちおうツッコンでみますね(苦笑)
 次に、ドイツとソ連の戦いの行く末はどうなったのかという事も大きな疑問です。
 どうやら、ソ連軍による満州侵略は起きていないみたいなので、日米が停戦してもなおもドイツと戦い続けているのか、同じぐらいの時期まで欧州正面で不毛な泥仕合を演じていると想定できます。
 そしてドイツが英米と手打ちにして戦略爆撃がなくなれば、ソ連単独でドイツを完全に蹂躙できるかというとかなり難しい事であり、しかも英米がドイツと手打ちにしたと言うことは、アメリカのソ連に対するレンド・リースも大幅に低下するか、場合によっては停止している可能性もあり、重工業以外の生産力が貧弱なソ連の方が息切れしている情景すら見えてきます。
 そして、ソ連は欧州正面だけに力点を注がざるを得ず、満州に手を出すことができなかったと結論できるでしょうか。
 ただしこの点は、日米講和の時期が非常に重要なファクターと見るべきでしょう。
 恐らくはソ連とドイツの戦争が、とにもかくにも一端手打ちになり、ソ連(スターリン)の貪欲な目が満州にむき始めたため、アメリカが日本との停戦を急いだと解釈できます。
 そして、日本は史実とあまり変化のない国際秩序の枠組みの中で、戦後世界を過ごすことになるというあたりに落ち着くんでしょう。
 また、日米停戦にとっての重要なファクターに支那情勢があります。ソ連がドイツと殴り合いを演じ続けていても、支那大陸が先に赤く染まりそうになれば、アメリカの焦りが大きくなるでしょう。何しろアメリカ様は、支那市場が一番欲しかったんですからね。
 しかも1948年末の日米停戦は、史実のタイムスケジュールでは、国府軍の敗退が決定的になった時期とも言え、ソ連が戦争に首を突っ込まなくとも満州以外の支那の多くの地域で赤い旗が翻っている可能性すら見えてきます。

 で、最初の疑問に戻るわけですが、「日本が丸7年も戦争を継続する事ができたのか」という疑問ですが、このコンテンツを全部見ている人なら今更でしょうし、ましてや戦略面に造形の深い方なら言わずもがなというところでしょう。
 そうです。日本に7年もの総力戦状態の戦争継続は物理的に不可能です。たとえ英米国民が戦争に乗り気でなくても、日本軍が力戦奮闘してB-29を叩き落とし続け、三度米太平洋艦隊を撃破し、潜水艦を封殺しようとも、日本のお財布事情が戦争継続を容認してくれません。もし仮に行えたとしても、戦争が終わった瞬間に国家レベルで破産処理をおこなわなくてはいけません。
 日華事変をしてなかったら多少条件は違ってくるでしょうが(7年も戦争すれば程度問題になってしまうが)、史実と同じ経路をたどった日本では、財政的にもはやどうにもならない状況です。
 バクチ打ちで言えば、身ぐるみはがされた上に、自分の家や奥さん子供、一族郎党を賭の対象にしてバクチを続けているようなもんです。
 正直言って処置なし、としか言えませんね。

 また、たとえ英米の戦争継続機運が、総統閣下の死により著しく低下したとしても、一度戦争を始めてしまった英米政府に日本との戦争を、日本から降伏してこない限り簡単に手打ちにする理由があまりありません。
 それどころか、日本は彼らの植民地を勝手に侵略して傀儡政権をいくつも樹立したうえに、自らを中心にした新たな経済圏を作りつつある始末で、このままでは英米を中心にした世界秩序からアジアが除外されてしまう可能性すらあり、新たな世界秩序を目指すアングロ・サクソン勢力としては、一度日本を完全屈服させる事が戦争継続の理由として大きな問題はないと思います。しかも相手はドイツより遙かに弱っちいイエロー・モンキーですから、同じ白人を相手にする時と違って良心の呵責を感じる事もありませんし、既に息切れしているモンキーなど鎧袖一触の筈です。そして国力的にはまさにその通りです。
 ところが、そのイエロー・モンキーの予想外の抵抗の前に、連合軍は思わぬ苦戦を強いられます。

 で、ここから強引にこの世界の大東亜戦争の政治的流れを構築すると、ヒトラーの死とドイツの変節を経た欧州大戦の実質的終息、そして日本の思わぬ抵抗の前に、日本との戦争の質が少なくとも国民レベルでは変化したと見ることが可能ではないかと考えれるのではないでしょうか。そうでなければ、その後の戦争展開がどうにも納得のいかないものになってしまいます。
 つまり、ドイツが消えた事で欧米市民の感情内での第二次世界大戦は終了し、その後の日本との戦争は、心理面において私達の世界での旧植民地と宗主国の争いに近い構図になったのではと言うことです。
 だからこそ1944年以後のアメリカ(+イギリス)の攻撃密度と進撃速度は著しく低下し、進撃するたびに日本軍の頑強な抵抗に合って大きな人的損害を受けるので、国内の厭戦気分がその都度高まり、という英米の国内政治レベルでの悪循環を繰り返し、1946年秋に遂に発生したと思われる最後の艦隊決戦での戦術的敗北で停戦機運が大きく高まり、1947年初頭から始まった日本本土爆撃での自軍の甚大な損害を受けて以後、厭戦気分はピークに達したため大兵力の運用に大きな政治敵制限が付けられてしまい、アメリカ政府は頑固な日本政府との水面下での交渉を重ねつつも、以後一年近くをダラダラとした前線での小競り合いに終始して、ロシア人が満州を伺いだした、もしくは支那大陸が赤く染まりだした事で日本にとっての穏健な停戦に及んだと見るのが、私の考えつく恐らく唯一の日本が戦争継続できた筋道であり、戦争の幕の引き方だと思います。
 ま、ようするに、ナム戦のような状況です(艦隊決戦=テト攻勢、本土爆撃=北爆)。

 もっとも、アメリカのやる気が著しく低下したとしても、日本は常に全力で事に当たらねばならないので、停戦後待っているのは国家レベルでの自己破産以外あり得ませんけどね。
 もし日本を大日本帝国としてまともに延長させたければ、ドイツが停戦に傾いた時点でこれに相乗りするしかないでしょう。
 今までに何度も言っていますが、1943年中に戦争を終わらせなければ、戦費の増大により国家財政が崩壊してしまうからです。これだけは、どのような架空戦記であろうとも、史実と同じ状態のまま大東亜戦争に及んだ場合、否定する要因はどこにも存在しません。
 少しもの悲しくなりますが、それが当時の日本の現実で、架空戦記だろうとこれを覆すことは容易ではありません。

 と、この二つの点を見てしまうと、この作品で他に突っ込み所があるかと言えば、大きな点では特に思い当たらず(小さな点はツッコミ出したらキリがない筈)、あとは少年の心のまま(笑)風間健児の力戦奮闘を手に汗握りながら眺めていればよいのでは、と言うのが個人的な感想で、こうして書いてみた時点での結論です。
 そしてこういう点が、他の架空戦記小説と大きく違う点でしょう。
 故に私は本作は名作だと思います。

 ただ、15巻もあるのだから、もっと長々と書くことがあるのではと思っていましたが、実に意外な結果でした。要するに、この作品に対してこのような視点から眺めることが無粋という事なんでしょうね。

 では、本作が再開されるのを切に願いつつ、今回はこれにて幕とさせていただきます。

 では、次の作品で会いましょう。