環境問題について



まず、今の環境問題について簡単ではありますが説明したいと思います。 この内容は、一部、2000年夏にありました「NHK・BS1・地球法廷・地球温暖化」の討論中に私が書いた文章を用いております。 不勉強なところは多々あると思いますが、環境問題の重大性を認識していただくためにまとめてみました。


山積みの環境問題

一言で環境問題と言ってもその項目は数多く存在します。全てではありませんが書き出しますと...
 
大気汚染 地球温暖化問題・オゾン層破壊・酸性雨・自動車や工場そして火力発電所からの排気ガスCO2・NOX・SOX・HCなどが原因
海洋汚染 水質汚濁・酸性雨・珊瑚礁の破壊など
土壌汚染 ダイオキシン・PCBなどの廃棄物・環境ホルモン・核廃棄物など
食糧問題 人口爆発・食料の安全性・遺伝子組み替えの問題など
その他の問題 異常気象・砂漠化・化石燃料の枯渇・森林伐採・ヒートアイランド現象....

上記しましたように問題は山積しております。 では何故このような問題が発生してきたのでしょうか?

問題は、経済活動の中の物質の循環

私たちは、その経済活動においてお金を流通させ循環させております。 そのお金の流れの循環に乗って製品(商品・食料・燃料...)として物質も流れます。 しかし、お金は循環するのですが、物質が循環しない社会構造に現在なっており、循環しない物質は最後に廃棄物(ゴミ・CO2・NOX...)となって大気・土壌・河川・海に廃棄されます。 その廃棄された物質の中で人間や動植物に有害な物が問題視され、今の環境問題となって現れています。

太陽からの恩恵のおかげで、そもそも自然界の循環は、何も足さず、何もひかずその循環が成り立っています。 それは、生産から廃棄までの循環が自然界の許す範囲内の量であることと、循環経路が確立されているところにあると思います。 人間も自然界の一部であることは言うまでもありませんが、経済発展と科学技術の発展により大量生産・大量廃棄が当たり前になり、その活動はお金(経済)というものに翻弄され歪められ企業は環境を考えないで製品を作り出し、消費者はそれを使用し廃棄します。 その廃棄された物の中には自然分解されにくい物や有害物質が含まれていることがあります。 もうこれは、循環しているとは言えませんね。やはり新たな循環型社会の確立が必要です。


上の図は、全てではありませんが、現在の物質エネルギーの循環をまとめてみたものです。 エネルギーや物質の循環が不完全なことがわかってもらえると思います。 

昔の日本に循環型社会を見る(NHK・BS1地球法廷へ投稿)
循環型社会の確立は、環境問題だけでなく様々な問題の解決が望めると思います。 昔の日本の生活習慣を調べていくと、に「リデュース」「リユース」「リサイクル」などと言った「循環型社会」の要素があったことがわかってきました。

「リデュース」:廃棄物を出さない努力
「リユース」 :廃棄物の再使用
「リサイクル」:廃棄物の再資源化

その昔、化石燃料をあまり使用していなかった昭和より前の時代の生活風景を調べると、高度に経済発展する前の時代ですので金銭的に貧しいことがわかってきます。そして、その時代の身近な衣・食・住の循環状況を簡単に例をあげてみると以下のようになります。
 
衣類 衣類は家族内で「リユース」される(兄弟間で着回す)破れたり汚れたりした衣類は「リサイクル」する(昔よくあったズボンの膝のあて布やパッチワークの服、その後は雑巾)ムギワラ帽子・ワラジ・ワラゾウリなどはその名の通りワラを編んで作ったもので穀類収穫後の「リサイクル」が成り立っていた。リサイクル」ショップとして古着屋が既に存在していた。今は廃れてしまった「質屋」の存在は庶民にとって大きな存在だった。
食品 小さくても庭に畑があったり、近所に田畑が多く存在していたので、収穫した食物を地域の人たちに販売(交換)することが広く行われていた。食べ残しなどはほとんど無く、調理の際に出た生ゴミなどは、家の畑の堆肥にするくらいで、ほとんどゴミが出ない。無意識に「リデュース」がされていたと考えられる。肥料としてフン尿を発酵させ田畑にまくのが当然とされており、もっと昔の時代では、フン尿の売買が行われ、食物の「リサイクル」と、住宅密集地の衛生状態の維持を成り立たせていた。
住居 古屋などを取り壊した時に出る木材などは「リファイン」し「リサイクル」「リユース」される、土壁などは粉砕した後、水を混ぜて塗ればまた使用することが出来ます。木クズなどは集められ、風呂など湯を沸かすための燃料になります。今もある集合賃貸住宅(長屋?マンション)が存在し、家族単位で住居の「リユース」が行われている。

これらに加え、民衆の使用する家庭用品などを修理する修理屋が多く存在したことを忘れてはいけません。
 今の時代、使い捨てが一般的な考え方ですが、物を大事にする心を思い出しましょう。 何でもすぐ捨てるのではなく修理して最後まで使う...こうでなくちゃいけませんね!でも、物を大事にすることでの副作用もあるので御注意を..詳しくはここ

調べていくうちに、見事なほど「リデュース」「リユース」「リサイクル」が行われ、「循環型社会」が成り立っていたことが判りました。何故「循環型社会」が崩れてしまったかは、貧しさから逃れるための、過度に化石燃料を使用した経済発展がこの循環を壊してしまったと言う他に無いと思います。では、昔の生活はそんなに良かったのか?と言うとそうでもありません。

衛生面や、生活上の利便性、エネルギー網や通信網や交通網の未発達..その他、今なくてはならない物ばかりです。これらを残しつつ自然環境と共存できる科学技術を考えていくことが、これからの新しい「循環型社会」を造りあげていく上で不可欠ではないでしょうか。そして、この新しい「循環型社会」を造りあげていくことで、経済発展の意味が問い直され、本当の、今はまだ無い「幸福」を私たちは手に入れることが出来るように思います。

昔の生活習慣を調べていくと、今でも通用する何かを見つけることが出来ると思いますので、みなさんも探してみては如何でしょうか?(歴史文献を調べたり、お年寄りに聞けばいろいろ教えてもらえますよ!

化石燃料の使いすぎについて

化石燃料は現在の燃料の主流として消費されています。 化石燃料とは石油・石炭・天然ガスなど炭化水素です。 化石燃料は比較的安価に購入することが出来るのでこれまで多用され続けてきました。 しかしこれでよいのでしょうか?化石燃料は燃やすことで地球温暖化や大気汚染の原因となるCO2やNOXを大量に発生します。新エネルギーの開発も急務だと思います。

地球温暖化問題について

上記しましたように化石燃料を燃やすことでCO2などを発生させます。 これらは地球温暖化現象の原因となる物質で、化石燃料を大量消費している限り発生し続けます。 地球温暖化が進むとどうなるかは皆さんご存じの通り、気温上昇により北極・南極や高山地帯にある氷や雪が溶けだし海に流れ込み、海面上昇で私たちの住んでいる場所か海の底...そして気候も変化し、食料の生産も大打撃を受けること間違いなく飢餓状態に... また、別の説では地球温暖化現象により、気温上昇で北極・南極や高山地帯にある氷や雪が溶けだし海に流れ込むことで海水の淡水化が起こり、海水の循環構造が損なわれ地球のフルオートエアコンとも言えるものが動かなくなり、いずれは氷河期が訪れるという説です。 日本気象学会のある報告では50年後には顕著にその傾向が現れてくると言うシミュレーション結果が出たとのことです。

地球温暖化は、我々の住む環境を一変させる意味で、放射能汚染と同じく重大な問題と私は考えております。

環境問題は誰の責任?

人間はその生活を続けていくためにお金が必要です。 そしてそのお金を稼ぐために、お金になるであろう製品を、競争の名のもとに人々の必要・不必要にかかわらず製品としてよけいに生産し流通させ人々に「製品を選ぶ権利?」を与え消費させています。 その消費者は製品の生産者であり、直接ではなくてもこの流れのどこかに関わっているものと考えることが出来ます。この仕組みは人類の営みそのもので、変えることは出来ないと思います。 そうであるとすれば、その生産・流通・消費活動の中で有害になるプロセスの内容を変化させる必要があると思います。この構造を造り出したのも私たちであり、この構造の中にどっぷり浸かって生活している私たちは、これらを私たちの責任として是正していく必要があるのではないでしょうか?(自業自得か...

何が一番大切?

この答えは異論もおありのことと思いますが、私の考えでは....
私たちの生活は何で成り立っているのでしょうか? お金?..いいえ違います。 お金があっても商品が無くてはお金は無意味、タダの紙切れです。 生きていくために必要な商品は?..食料・水です。その大事な食料や水は何処から得られるのでしょう?...スーパー・コンビニ?..違います、自然環境から得られるのです。 即ち、お金がどれだけあっても、農作物や水が手に入らなければ皆餓死するのです。 太平洋戦争を経験なさった方ならおわかりと思いますが、お金があっても食料や商品が手に入らない状態を経験なさった方は沢山おられると思います。
 地球温暖化の影響で気候変動がおこり食糧生産に影響があればどうなるかはご想像の通りです。日本のカロリーベースでの食糧自給率は約41%です。 食料のほとんどを海外から輸入していると言うことです。 もし気候変動で食料輸出国が輸出の余裕が無くなれば日本は見捨てられ飢餓状態に陥ること間違いありません。 極論と言われるかもしれませんが、そうなってからでは遅いと言うことです。
 今から50年後には世界人口は100億人に達すると言われています。地球温暖化だけでなく、人口増加で食糧危機にみまわれることになるのかもしれません。
それまでに、今から誰もが出来る環境対策を始めるべきではないでしょうか?

リサイクルについて(NHK・BS1地球法廷へ投稿)

 私はガラス瓶やペットボトルのリサイクル、リユースを実現するためのシステムを仕事で作ったことがあります。 そのシステムを作っているときは、「環境によいことをしているのだ」と単純に考えていましたが、よくよく考えてみると必ずしも環境に良いとは言えないのではないかと考えるようになりました。(以後、ガラス瓶やペットボトルを「瓶など」と表します) 最近、「リサイクル」に関して疑問をなげかけるような本が沢山売れていると言うことを知りやはり同じ考えの人はいるのだと実感しました。

 「リサイクル」と言えば地球温暖化問題に無関係のように思われるかもしれませんが、全ての問題はどこかでつながりあっているものです。

 「瓶など」は内容物を消費した後、資源ゴミとして「★ゴミ回収車」が回収し集積場へ持っていきます。集積場では人や「★機械」が瓶などを色や形で分別していきます。分別されたガラス瓶などは、そのまま再利用可能なものはメーカーに戻され、人や「★機械」が洗浄し消毒され、再利用可能か人や「★機械」が検査し合格品は「リユース」されます。そのほかの、「リユース」出来ない「瓶など」は色などに応じて「リサイクル」可能なものは、「★機械」により融解し成形され、ガラスの場合はガラス製品に、ペットボトルなどは「★機械」により「チップ」になり「リサイクル」される製品の材料として「★流通」し、リサイクル製品(衣料品や容器など)を「★工場」で作り、「★流通」を通して、消費者が使用します。 その後、消費者はゴミとしてこれらの「リサイクル」「リユース」した物を捨てて行き、この一連のサイクルを繰り返します。「リサイクル」・「リユース」出来なくなれば燃える物は「★消却」され、埋め立て地へ「★輸送」され「★重機」により整地され「ゴミの島?」の出来上がりです。

 現在、「★」で書いた部分にはエネルギー源として石油など化石燃料が何らかの形で使用されてCO2を排出しています。  CO2排出は地球温暖化につながると言うことですから、これは問題です....ここで言いたいのは、「リサイクル」や「リユース」のサイクルの中で使用される化石燃料などの量が、製品を最初に生成したときより多いのではないのかと言う懸念です。(本当?)

即ち、「リサイクル」はしない方がよいのでは?ということです。 

確かに資源は再利用され有効に利用されるのでしょうけど..それ以上に資源を使っては意味が無いと思います。 まして、よけいなCO2を排出するのであればなおこのとです。やはりこれは、最初の時点から石油などの化石燃料を原材料としてエネルギーやケミカルを抽出していると言うことが原因なのでしょうか?

 瓶などを例に書いてみましたが、私としては、急にこれらのサイクルを変化させることは困難だと思います。 今のリサイクルはこういった意味でまだ不完全な状態にあると思います。 社会全体がリサイクル・リユース・リデュースを受け入れ循環型社会になれば解決されると思います。 その第一歩として今のリサイクルシステムを進歩させていく必要があると思います。 

自然と人間の関わりに境界線は引けるのか?(NHK・BS1地球法廷へ投稿)

自と他の境界線は無いか、あえて唯物論風に考えてみました。

私自身、ニューラルネットワークや人工人格やらを研究した経験があり、自分とか他人とか言うことを考えずに進むことは出来なかったので、その辺の話をちょっとします。まず、自分とか他人という存在はどういったものなのでしょうか?。 簡単に言えば存在を確認するためには、感覚機能が必要です。 それぞれの感覚機能で他者を感じることで、他者ではない自分が存在しているといことを意味づけています。 もう少し詳しくその流れを書けば、「感知>記憶>判断>行動」という単純かつ複雑なサイクルで成り立っており、サイクル中の「記憶>判断」が行われたときに「他者の存在」を確認し、「他者の存在」を確認できたと言うことで自分の存在を意味づけています。 この一連のサイクルの繰り返しが人間で言う「意識」だと私は技術者として解釈しています。存在とか実在とか言うのは、物を感知しこの一連のサイクルの「判断」が作りだ出したイメージだと思います。 そしてその意味づけはあいまいで、もとは全て他者からの情報で成り立っており、他者から「リンゴは青い」と教えられれば「リンゴは青い」と言うことが当たり前になってしまい、他者から本当は「リンゴは赤い」と教えられれば「リンゴは赤い」と言う「判断」になってしまいます。(私がNo343「リサイクルとリユースと地球温暖化問題について」で書いた中に出てきた選別機は、この辺の技術を応用して作りました。)

もう少しこの辺のことを飛躍して(仮説として)考えていきたいと思います。 上の説明で行くとそれぞれのつながりは、他者からの情報のにより変化すると言うことになります。 人間同士のつながりも、人付き合いなどの情報交換で成り立った個々人の記憶のネットワークではありませんか? 情報交換により記憶の内容が変化し、ネットワークのつながりも変化し、人間社会は成り立っていると思います。 また、そこには「感知>記憶>判断>行動」と言ったサイクルに個々の行動自体も当てはまると思います。

自然環境で言えば、山や川や海、そこにある水の動きや風のながれなどは、分子原子です。 それぞれを細かく調べていくとそれぞれの物質は関係しあい移動し続けます。 例えば、水の流れや風の流れなどは地形を変えていきます。 もっと細かく例えば遺伝子や分子・原子レベルでも同じようなことが言えるのではないでしょうか?(詳しく書くと長くなりますので書きませんが、「感知>記憶>判断>行動」と言った各要素を原子間力や場・重力・電磁気力などに置き換えて考え、個々の力の掛かり方や動であると仮説として考えたときです。)

ということは、唯物論的になりますが、人間も空気も土も水も「自然全体」が分子・原子で出来ている限り、どれもが関係しあうネットワークでつながりあい、変化し続けているのではないでしょうか? そして、その瞬間瞬間を私たちは実感して生きていると私は思います。即ち、全てが(宇宙全てが)どこかで関係しあっている以上、自とか他というふうに境界線を引くことは出来ないのではないかと思います。

自と他の境界線を引くということは、人間は自分が自分でありたいと判断したとき、他者に影響され変化するのがイヤであるという判断から来るのではないでしょうか? 自分を変化させようとすることもあれば、今の自分を維持しようとすることもあります。 その判断を起こさせるのも、もとを正せば他者からの情報です。

しかし、「全ては物質です」と言って唯物論的にかたずけてしまうのは人間社会の中で、また自然環境を考えその中で生きていく上で人間や自然の存在をを軽視する思考につながる中途半端で危険な考えであることが直感的にわかります。 であるなら「全てはつながりあって動いている」とか「全ては生きている」とか言うほうが安心でき、的を射ていると今の私は思います。

阪神大震災の時に被害を受け、自然災害の恐ろしさと、ライフラインの脆さと自分は「生かされている」ということを感じたことを、この文章を書いている今思い出しました。「まさに則天去私の境地でした」。
 弱い心のよりどころとして神仏が存在していると信じ、祈りを捧げている自分もいれば、上のような唯物論的考え方をする自分も存在する。 このような多面性を持ち、まわりの状況(情報)によって移ろいやすい心の持ち主が人間ではないでしょうか?(多分私だけじゃないと思います。)

最後に、このような考え方を修得したのは他者(自然も含めた)からの情報からの応用された発想による物だと思います。 普通はこの辺のことは直感的にわかるのですが、自と他の境界線が無いのではないかと言うことをあえて唯物論風に考えると私の場合こんなふうになりました。


2000.9.1〜
最終更新:2000年9月17日

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