青息吐息

 その夜はあいにく、雨だった。
 仕事の帰りで家路に急ぐ利吉は歩みを早める。
その先には森があった。鬱蒼と生い茂る木の影響で昼間でもあまり日が射さない場所。
 利吉はその中へと入っていった。町を通って行くよりも、こちらの方がいくらか近いのだ。
 ――どこかで雨宿りしていきたいものだけれど。
 利吉は溜息をついた。
 ――これ以上帰りが遅くなったら母上が何と言うか…
 利吉は笑顔のままでとんでもないことをする母親を思いだした。
 三月前のあの日は家に入れてもらえずに、我が家の前で野宿をした。
 二月前のあの日は玄関の戸を開けた瞬間に上から刃物が大量に落ちてきた。
 一月前のあの日は雑炊の中に剃刀が入っていた。
 ――次は…
 利吉は思わず身震いした。
 ――それもこれも、父上が帰ってこないからだ!!
 利吉が心の中でそっと親不孝したその時、前方からぱしゃぱしゃと足音がした。
「ん?」
 こんな場所で、こんな天気の時に人に会うなどとは思っていなかった。
「あれは…」
「あ、利吉さん」
 足音の主は立ち止まった。
 主は二人。利吉の父親である山田伝蔵の勤める忍術学園のくの一教室の生徒、ユキとトモミだった。
「ユキちゃんにトモミちゃん…こんな所で一体何を?」
「実はこの森を抜けたところに美味しいお団子屋さんがあって…お使いの途中だったんですけど」
 ぺろりとユキは舌を出した。その向こうで草むらががさりと音をたてた。
「随分サービス精神の充実したお団子屋さんだね。こんな所まで見送ってくれて」
 言うと、利吉は二人を両脇に抱えて跳んだ。今までいた場所が深くえぐられる。
「何か取られた物は?」
 利吉は二人を下ろしながら言った。トモミは首を振った。
「いいえ。…でも、これが…」
 トモミは懐からそっと書状を取りだした。
「あちら側のねらいはこれだけです」
 利吉は小さく頷くと前を見据えた。
「五人か…あれで全部?」
「はい」
 ユキは緊張した面もちで頷いた。
「ユキちゃんは一番左。トモミちゃんは二番目をお願い。…大丈夫だよね」
 二人は頷いた。それを視界の端で確認すると、利吉は走った。

「はあああああっ!!」
 気合い一閃。
 流石に普段から(一年生相手に)鍛えているだけあって、二人の蹴りは鮮やかだった。
 しかし相手は大の男なのだ。一年生のようにはいかない。
「痛えじゃねえか」
 蹴られた部位をさすりつつ、男はにやりと笑みを浮かべる。二人は舌打ちして身構えた。
 背中を雨粒に混じって冷たい汗が流れる。
 ――マズイ…
 ほぼ同時に地を蹴った男達は二人に襲いかかろうとしていた。
 咄嗟に身体が動かない。
 二人の瞳に絶望の色が浮かんだとき、男達の身体は地に落ちた。
「!!」
「二人とも、よく頑張ったね」
 男達の後ろには息一つ乱れていない利吉が立っていた。

「送るよ」
 利吉は落ち込み気味の二人に申し出た。
「女の子だけで夜道を歩くのは危ないからね」
「……」
 二人は黙ったままだった。気まずい沈黙が流れる。
「…気にしてるの?」
 おそるおそる利吉は二人の顔を覗き込んだ。
 二人とも、目に涙を浮かべていた。
「…悔しい…」
 ユキが消え入りそうな声で言った。
 利吉は無言でそっと髪を撫でる。
「男の子なんかに負けたくなくて…強くなりたくて…行儀見習いだなんて言って学園に入ったのに…」
 トモミも沈んだ声で言った。
「何も出来なかった…今まで学園で一年生相手に満足していた自分が…情けなくて…」
 利吉は内心うろたえていた。
 どうしたものか。なかなか言葉が見つからない。
 ――『女の子なんだし』は禁句だよなあ…
「…焦らなくても、良いんじゃない?」
 利吉は少しずつ、少しずつ言葉を紡いでいく。
「なんていうのかなあ…その、『負けたくない』っていう気持ちはよく解るよ。私にもそういうのはあったし…でもね」
 利吉はぽりぽりと頬をかいた。
「焦ることないんじゃないかな。逆に焦ると失敗することもあるし…『負けたくない』って思うばっかりに気持ちばかり先走ると大変だよ?」
 利吉は二人をそっと見た。二人とも黙ったままで利吉を見ている。
「あ…えっと…なんていうか」
「かーわいーい」
 二人は急に笑い出した。利吉は驚いて一瞬まばたきをした。
「利吉さんってこーゆーところもあったんですね」
「以外よねえ」
 二人は笑いながら利吉をじっと見た。
「でも…格好良かったですよ、あの時」
「彼女いないなら立候補しちゃおうかしら?」
「わあああ!!一体何を…」
 利吉は顔を真っ赤にして言った。ユキとトモミは笑いながら駆けていった。
「護衛、ありがとうございました!!」
「有り難ーいお言葉も!!」
 そんな科白を残して。
 一人取り残された利吉はふと空を見て思った。
 ――しばらくは雨の日の外出は控えた方が良さそうだ…と。

 次の日。
「はい、利吉。これお願いね」
 夜遅くに帰ってきたために少し遅い朝食を摂っていた利吉に、母親は大きな風呂敷包みを差し出した。
「これを父上に…?」
 げんなりとした表情で利吉は尋ねた。瞬間、母親の拳が利吉の頬をかすめ、背後の柱に手形を付ける。
「行ってくれるわよね?」
 額に四つ角を浮かべながら母親は笑顔で言った。
 ――女って…
 そう思いながらも、利吉は頷くしかなかった。
 重い腰を上げながらそっと風呂敷包みに触れる。
 瞬間。指先に妙な感覚が走る。
 慌てて手を放し、おそるおそる利吉はその包みの中を覗いた。
「これは…」
 その中にはこれでもかと言うほどに剣山が入っていた。
「母上、これは…」
 そろりとそのうちの一つを取りだして見た瞬間、利吉は思わずうっと声をあげた。
 その剣山の先は怪しく光っていたのだ。
「何を塗ってあるんですか?」
 コレ、と利吉は剣山を指差しつつ母親の方を向く。
「さあ」
 母親はち、と舌をならすとそっぽを向いた。

 利吉は再び剣山の山を見て思った。
 ――女って怖い。
 利吉の女性恐怖症は暫く治りそうになかった。

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