五里霧中

 利吉が初めて野村雄三と出会ったのは9歳の頃。
 父、山田伝蔵が忍術学園に赴任してまもなくの頃であった。

「こんにちは…君が利吉君かな?私はお父上の同僚で野村雄三っていう者だけど」
 手裏剣投げの稽古をしていた利吉は赴任したての新任教師、野村雄三を見てにっこりと笑った。雄三は利吉の頭をくしゃくしゃと撫でながら言う。
「朝から随分熱心だね。…お父上はいらっしゃるかな?」
 まだ25歳であるこの新任教師は伊賀の出であった。年は若いが腕は相当立つ。利吉は初めて雄三に会ったときに父親のいったことを思い出していた。
「父は今出てますけど…もうすぐしたら帰ると思います。あがってください」
 年齢に合わずずいぶんと丁寧な対応をする利吉を見て、雄三はクスリと笑ったのだった。

「そちゃですが」
 利吉はそう言いながら雄三に茶を出す。母親の見よう見まねだろう。意味も分からずにいっているようだった。
「…野村先生」
「ん?」
 利吉に呼ばれて雄三は湯飲みに伸ばしかけた手を止める。利吉はじっと雄三を見て言った。
「その懐に何が入っているのですか?」
 雄三の表情が凍り付いた。子供だと思って警戒心をゆるめた己の未熟さを悟った。警戒心をゆるめた所為で、無意識のうちに懐をかばっていたのだろう。利吉の目はそれを見破っていた。
 ――流石は山田先生の息子さんだ…侮れないな。
 雄三は口元に笑みを浮かべると、懐に手を入れ、竹筒を取り出す。
「これだよ」
 言って、雄三はそれをちゃぷちゃぷとならす。利吉はその竹筒を食い入るようにして見つめた。
「何が入っているのですか?」
「毒――お茶で出来た毒だよ」
 雄三は利吉の方を見ていった。利吉は驚いて、雄三の湯飲みを見た。
「はは、大丈夫だよ」
 雄三はそんな利吉を見て思わず笑う。
「今度、授業で見せようと思ってね。実家で作っておいたのを帰ったついでに取って来たんだ。身近なモノでも毒になりうることを教えなきゃいけないからね」
 そう言う雄三の顔が少し翳ったのを利吉は見逃さなかった。

 9年後。
 利吉は同じようにして湯飲みを見つめていた。
 手の中にはあの時と同じような竹筒が握られている。利吉は周りに誰もいないことを確かめるとそれをほんの数滴、その中に垂らした。そして素早く竹筒をしまう。
「早くしろ!!茶を入れるのにどれだけかかっている!!」
「は〜い、ただいま」
 飛んでくる罵声に、利吉は裏声で答えた。女装をするのには抵抗を感じたが仕方がなかった。
 ――この城の城主を自然死に見せかけて葬る…か。
 利吉は任務内容を心の中で呟く。それにはこうするしかない、そう自分に言い聞かせた。
 既に二月も繰り返している行為だった。
 どうやら薬がじわじわと効いてきたらしく、城主は今、病の床にふせっている。
 もう少し、もう少しだ。
 利吉は自分にそう言いながら茶を運んだ。

「お茶をお持ちいたしました」
 利吉は相変わらず裏声で言った。城主は寝たままの姿勢でちらりと利吉を見ると低い声で言った。
「人払いじゃ」
 周りにいた人間は、怪訝そうに利吉を見て静かに去っていく。
 これから何が起こるのだろうか。利吉は他人事のように考えていた。
「そなた名を何と申す」
「利奈と申します」
 利吉は出来るだけ平生を装って答えた。
「――で、誰の差し金じゃ」
 利吉は目を見開いた。城主は利吉を見てにやりと笑う。
「――何を仰いますか、殿。私は…」
「10年前じゃった」
 利吉の言葉を遮って城主は話し始める。
「同じような手口でわしを殺そうとした者がおっての。じゃがな、わしにこんな風に呼び出された瞬間、ぷっつりといなくなってしもうたわ」
 城主はくっくっと笑った。利吉ははっとした。
 ――それはもしかして…
「…で?お前はどうする」
 城主の声に利吉は我に返った。城主を睨み付けると、冷たい表情で言った。
「その先人のためにも私は退きません。なんならこの場ででも構いませんが」
 利吉はすっと針を取り出す。城主は一瞬息を詰まらせて言った。
「…人を呼ぶぞ」
「どうぞ御勝手に。その前にこの針が貴方の体に刺さり、家来の方々がいらっしゃるまでに毒は体に回っているでしょうから。ご様態が急変されたと私が申せば疑う者はおりますまい」
 利吉が言い終わると、しばらくの沈黙が訪れた。利吉は針を構えたままで言う。
「…なんなら、この場は見逃しておいてさらにこれを続けることもできます。殿はどちらがお望みですか?」
「そんなもの…ここで見逃せばわしが家来に全て申し、これをしてそなたを処刑せしむるぞ」
 城主は必至に言う。どこか逃げるすべはないかと探している様子でもあり、最後の悪あがきのようでもあった。
「そのようなことを仰ればすぐに噂が飛びますぞ。殿はお病気のあまり気が触れておしまいになった、もはやこの城の城主は続けてはいけぬと」
 利吉は言い放った。城主はしばらく唸っていたが、急にぐらりと倒れた。どうやら心臓も弱り切っていたらしい。利吉は城主の首筋に手を当て、確認すると裏声で叫んだ。
「誰ぞ!!殿の様子が…!!」

 無事任務を終えた利吉は、家には帰らず、学園を訪れた。
 目指している部屋は父親の部屋ではなく、雄三の部屋だった。
「失礼します。野村先生、いらっしゃいますか」
 利吉が雄三の部屋に入ると中には誰もいなかった。利吉は頭をかきながら部屋を見渡す。と、利吉の目が違い棚に止まった。
「これは…」
 利吉がそれを手にした瞬間、後ろから声がかかった。
「なんだ。来てたのか利吉く…」
 利吉は思わず振り返る。そこにいたのは雄三だった。雄三は利吉の手元を見て思わず言葉を切った。
「…聞いたよ。あの城へ行ったんだって?」
 利吉はそれを握ったままゆっくりと頷いた。雄三はそっと近寄ると利吉の手からそれを受け取る。
「…10年前…暗殺に失敗したのは野村先生だったんですね?」
「そうだ」
 雄三は竹筒を見ながら言った。
「元々私は忍びには向かなかったのかも知れない。いや、持久戦に、と言った方が良いかもしれん。あの毒を使う決心はしたものの、やっている間とても辛かった…日に日にあの殿様が弱っていくのが解ってな。じわじわと相手をいたぶっている自分に気付いたとき、嫌気がさしたんだ」
「…だから…だから伊賀を?」
「ああ。あの日、私は任務を放棄してそのまま里を出た。そしてそんな私を拾って下さったのが山田先生だったんだ」
 言うと、雄三は竹筒を前に置いた。
「この竹筒、覚えているよな。私が利吉君に初めて会ったときに持っていたものだ」
「はい」
 利吉はその竹筒を見た。あの時の雄三の表情の翳りを思い出す。
「これは、あの後ずっと山田先生に預かって頂いていたんだ…どうしても捨てられなくてな…それが、昨日いきなり山田先生が『大掃除で出てきた』と」
「そうだったんですか…」
 利吉は雄三を見た。彼が十年前にどうしてもできなかったことを自分はやってしまった。
 満足感もあり、自己嫌悪の念もある。

 雄三は恐らく忍びとしての『心の鬼』を、十年前に竹筒の中に封じてしまったのだろう。
 しかし自分はまだそれを持っている。
 ――将来、己は竹筒を手にするときが来るのだろうか。
 利吉はそう考えながら再び竹筒を見た。
 その答えは誰も、知らない。 

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