あるひるさがりのはなし。<後編> 伊作は、慎重に顔を出した。視線の先には件の図書室がある。目を閉じて、気配を探る。中ではたいした動きはないようだった。 伊作はすばやく後ろを振り返る。廊下の後ろの方で待機している乱太郎、きり丸にすばやく合図を送ると、一気に図書室の戸の横まで移動した。もう一度目を閉じる。ゆっくりと呼吸を整えた後、伊作はすばやく戸を開け、中へ滑り込んだ。 気配を消したまま、伊作は図書室内を奥に進む。きり丸の話から察するに、長次は本棚の奥にいる筈だ。小走りで本棚の間を進むと、見慣れた後姿が見えた。5年生の図書委員、不破雷蔵だ。 「不破」 「ひっ!」 雷蔵は引きつった声を上げて振り返った。伊作は、雷蔵の口を慌てて塞ぐ。突然のことに状況が把握できていない雷蔵に、伊作は語りかけるように言った。 「僕だよ」 「先輩」 雷蔵は漸く状況が飲み込めたようだった。ほっと息をつくと、指だけで奥を指し示す。雷蔵の示した先には、長次がいた。 長次は長次で、もう伊作が図書室内に入ったときから気づいていたのだろう。全く驚く様子もなく、伊作に軽く視線を投げかけてきた。手には縄標が握られている。伊作が雷蔵の前を通って近づくと、長次も自ら伊作に歩み寄った。 「何処だ?」 「あの壁の向こう」 伊作の質問に答えながらも、長次はちらとその壁のほうを見やった。 「今は動きを止めている。しかしこちらが近づけば暴れだすかもしれない」 「だから僕を呼んだのか」 伊作は納得した様子だった。確かに、怪我人が出るかもしれないという理由で呼ばれるのは解らないでもなかったが、なんとなくしっくりこない気がしたのだ。少々の怪我なら自分達で手当てできるだろうし、動けないような怪我をする危険性があるなら援軍を呼ぶ方が普通だ。 暴れだすかもしれないのなら、自分が呼ばれるのは確かに筋が通っていると伊作は思った。 文次郎は、接近戦を得意とする。暴れている本人にでさえどこに攻撃するかよく解っていないのに、それを他人が見切るのは難しい。接近戦はかなり不利だ。小平太は罠を張った上で敵を翻弄するのが得意だが、室内では罠の出番は少ない。仙蔵など論外だ。狭い室内で火薬なんて使われようものなら、貴重な書物が何冊も失われることになる。 ――僕なら… 伊作はそっと懐に手をやった。手が扇に当たる。いざという時のために、眠り薬を仕込んだ扇を携帯しているのだ。これを使えば、相手の動きを止めることが出来る。伊作は奥の壁をぐっと睨み、懐から扇子を引き抜こうとした。 そのとき。 目の前に、スッと大きな手が現れた。長次である。長次は無言でこちらに手のひらを向けている。手出しするな、ということだろう。 「え…?」 伊作が長次に何か問おうとすると、長次はくるりと背を向けた。手に縄標を巻きつけたまま、つかつかと壁に歩み寄る。長次は表情を全く崩さず、右手でおもいっきり壁を打った。 「長次!!」 伊作は思わず声を上げた。打ったところを中心に、壁が割れている。その向こうで、きらりと光るものがあった。 「動くな」 長次は淡々とした口調で壁の穴に向かって語りかけた。しかし、壁の向こうの相手は聞いていないようだった。何か爪のようなものを割れ目にかけ、そのまま一気に穴を拡げる。 「!!」 長次が後ろに一歩退いたその時。 『影』が壁から飛び出し、長次に飛び掛った。 「おいで」 図書室の前の廊下で待たされていた乱太郎ときり丸が呼び寄せられたのは、そのすぐ後だった。2人を呼びに来たのは雷蔵である。 「乱太郎君、急いで。怪我人だよ」 「えっ!?」 雷蔵の言葉に驚く乱太郎だったが、それとは裏腹に、雷蔵の表情は穏やかであった。首をかしげる乱太郎に、雷蔵は苦笑交じりで言う。 「心配ないって。敵さんももうすっかり大人しくなったから」 「…全く。人を心配させておいて」 「勝手に心配したのはお前だろう」 やや膨れ気味に言った伊作に、長次はさらりと返してみせた。 「でも…」 伊作がまだ何か言おうとしたとき、ぱたぱたと小さな足音が近づいてきた。 「先輩!!」 「乱太郎」 伊作は表情を和らげ、乱太郎に向かって手招きをした。乱太郎は救急箱を胸の前でぎゅっと抱え、恐る恐る近づいていく。本棚の所為で見えなかった『敵』が漸く視界に入ったその時、乱太郎は思わず声を上げた。 「わあ…可愛い」 乱太郎は急に態度を軟化して、それに駆け寄る。乱太郎がそっと手を差し伸べると、『敵』はみゃあ、と鳴いて乱太郎の手を舐めたのだった。 「壁と壁の間に入って出られなくなっていたんだ」 驚いた『敵』――猫に引っかかれた箇所を手当てしてもらいながら、長次は事の次第を話した。 「本当に無茶だよ。引っかかれたところからバイ菌でも入ったらどうするの?」 「だからお前を呼んだ」 諭すような口調で言う伊作に、長次は淡々と答えた。伊作はなんとなくむっとして、消毒液を塗る手に少し力を込める。長次は少し眉を動かした。 「それならそれで、どうして相手が猫だってあらかじめ言わなかったのさ」 僅かに痛がっている長次には目もくれず、伊作はきつい口調で問うた。 「相手が人間だとも言ってない」 「だってきり丸が血相変えて飛んできたから」 「ええッ!?俺!?」 思わぬところで矛先がこちらを向いたのを察して、きり丸は思わず声を上げた。きり丸は慌てて弁解する。 「だって…中在家先輩が急に真剣な目つきになるから…俺もてっきり…」 「猫が困ってたんだ。死活問題だろう」 長次はさらりと言ってのけた。一瞬の沈黙の後、どっと笑いが起こる。その輪の中で、件の猫が再び『みゃあ』と鳴いたのだった。 「平和だねえ」 「そーですねー」 長次の傷の手当てを終えた伊作と乱太郎は、再び先ほどの縁側に戻り、茶を飲みなおしていた。傍らでは件の猫が丸まって、日差しを浴びている。伊作はそんな猫を見て、ふわりと表情を崩した。 「…そういえば、あの壊した壁、どうするんだろう」 猫を見ていた伊作は、思い出したようにふと呟いた。乱太郎も一瞬動きを止める。二人の脳裏には、ぱっくりと口をあけた図書室の壁が映し出されていた。2人が少ししょんぼりした表情になったその時。 みゃあ。 丸まっていた猫が、かわいらしい声で鳴いてもそもそと動いた。沈みかけていた2人の表情が、再び和らぐ。 「…どうにかなるんじゃないですか」 「そうだね」 2人は顔を見合わせ、そして笑う。かくして、先刻よりたくさんの花模様を散らしながら、保健委員の午後は過ぎていったのであった。 『図書委員会か保健委員会の話』ということで書かせていただきました。 保健委員、図書委員それぞれ何人か足りない人がいない気がするのはきっと気のせいです。 …ってのはウソです。登場させる隙間がありませんでした。 こんなので納得していただけるのでしょうか… 何はともあれ、理珈様、リクエストありがとうございました!! ●戻る |