渙然氷釈

「利吉さーん!!」
「え?」
 長期にわたる大仕事を終え、漸く家路についた利吉は背後からの己を呼ぶ声に立ち止まった。
(あれは…)
 利吉は走ってくる人影に目を凝らした。少なくとも同業者ではない足の運びでばたばたと駆け寄ってくる。
「わ!!」
 やはり人影は同業者ではなかった。足下の石に躓いて派手に転ぶ。溜息を一つついて、利吉は駆け寄った。
「大丈夫かい?」
 利吉はその人物を助け起こした。すみません、と呟いて上げたその顔に利吉は見覚えがあった。
「え…と、君は確か第三協栄丸さんの所の…」
「網問です」
 少しはにかみながら網問は言った。
「で?私に何か?」
 利吉は網問の小袖に付いた砂を払ってやりながら問う。
「ああ、すいません…あ、あの…その…」
「――何?」
 利吉は網問の顔を覗き込むようにして尋ねる。網問は思い切って言った。
「助けて下さい…ッ!」
「助けて下さい…って誰かに追われているのかい?」
 網問はこくりと頷く。利吉は周りを見回した。
「追っ手は迫ってきてはいないようだけど…誰に追われているんだい?」
「お頭…それと、あと陸酔いしない海賊の皆さんに」
 さらりと答える網問と利吉との間に冷たい風が流れる。利吉は暫くして漸く口を開いた。
「――つまり、味方に追われているってコトか?」
「はい。どうしてでしょうねえ」
「聞きたいのはこっちだ!」
 利吉は大声を上げて――そして口をつぐんだ。網問の目にかすかに涙が浮かんでいたからだ。
「あっ…じゃなくてさ、心当たりはない?ええと…その…追われるような」
 利吉はこういった場面が苦手だった。思わずどもると、網問はクスリと笑った。
「利吉さんって面白い人ですね」
「――違うと思うけど…」
 言った瞬間、利吉ははっとして地面を蹴った。
「危ない!!」
 利吉は網問に覆い被さるようにして伏せた。そのすぐ上を数本の矢が通過する。
「誰だッ!!」
 利吉は懐から手裏剣を取り出すと、矢が飛んできた方向にそれを放った。かさりと音をたてて木の葉が揺れる。
「逃げられたか…」
 利吉は舌打ちした。そしてそろりと体を起こすと、網問を抱え起こした。
「…本当に追っ手は兵庫水軍の人たちかい?」
 利吉は網問に問いつめるようにして言った。網問は少し考えてから答える。
「そもそもの始まりは、コレなんです」
 網問はそう言って懐から小さな袋を取り出した。大きさは手のひら程度。中に何か四角いものが入っているのだろうか、布が一部角ばっている。
「中身…見た?」
 利吉が尋ねると、網問は首を振った。利吉は頷くと、その袋をそっと開ける。
「これは…割り符…?」
 利吉は中に入っていたものをつまみ上げた。小さな木の札に何か書いてある。
「これ、拾ったの?」
「えっと…お頭がその袋を持っていて、で、何ですかって言いながらその袋を横から取って見てたら、いきなり怖い顔してお頭が…」
「…で、逃げたと」
 網問はこくりと頷く。利吉は頭痛を覚えた。
「どうやら大事なものらしいね。お頭に返した方が良さそうだよ…でも」
 利吉はそっと後ろを見た。
「どうやら別にそれを狙っている人もいるようだね」
 ――5人。
 心の中でそう呟くと、網問に小さな声で言った。
「――戦闘経験は?」
 利吉の問いかけに、網問は少し考えてから同じように小さく答えた。
「――少しだけ。訓練程度です」
「それなら大丈夫だ。いい?自分の身は自分で護れるね?」
「――やってみます」
「じゃあ、いくよ」
 利吉は言うが早いが振り向きざまに抜刀し、真後ろにいた敵に斬りつけた。不意のことで、敵はかわす間もなくその場に崩れる。
 周りにいた4人は突然のことに戸惑いながらも、攻撃態勢に入る。3人は利吉に、そして1人は網問に向かっていった。
「わ」
 網問は咄嗟に懐から小刀を取りだして、自分に向かって振り下ろされる刃を受け止めた。が、相手の方が力が強く、そのままの体制で網問はしりもちを付く形になった。網問は素早く右足を相手の鳩尾に食い込ませた。
「が…」
 何とも言えない声を発して敵は倒れた。その向こうでも、利吉の周りで3人の敵が倒れるのが見える。
「お疲れさま」
 刀をしまいながら言う利吉を見て、網問はほっとしたのだった。

「ええっ!?コレ…そんなに大事なものだったんですか!?」
 水軍館に網問の声が響く。第三協栄丸はそれまで閉じていた目を開き、いきなり立った。
「そうだっ!コレはさる大名から預かったもので、戦の火種になりかねないような代物なんだ!!」
「どうしてそれを早く言ってくれなかったんですか!?お陰でこっちは凄い苦労をしたんですから!!」
「だからっ!!それを言おうとしたら逃げたんだろうがお前ッ!!」
 網問と第三協栄丸は互いに妥協というものを知らないかのごとく、論争(と言えるほどのものではないが)を繰り広げる。その真ん中で、どうして良いものかと利吉は頭を抱えていた。
「すみませんねえ」
 と、そんな利吉に茶が差し出された。
「あ、どうも。えっと…」
「義丸です。自己紹介は初めてですよね、利吉さん」
 そう言って、義丸は微笑んだ。利吉ははにかみながら茶に手を差し出す。
「…で?アレを狙ったのは誰だったんです?」
 義丸は盆を横にのけながら言った。
「…詳しいことはまだ解りませんが、あの大名と敵対関係にある大名が数名いるんですが…どうやらその中の1人のようですね」
 義丸は、ほう、と呟いた。
「なかなか広い情報網をお持ちで」
 義丸の言葉に利吉の眉がぴくり、と動く。
「それはお互い様ですよ――ところで」
 空気が冷え始めたのを感じた利吉は咄嗟に話題を変えた。
「すみません。なんだか喧嘩になっちゃったみたいで」
「いえいえ、うちの網問がお世話になりました」
 呑気に構える義丸に、利吉はここぞと問いかけた。
「…それより、止めなくて良いんですか?あの2人」
「大丈夫です。あの2人のことですから…ほら」
 義丸の言ったとおり、網問はあらかた言い尽くしたらしく、網問は肩で息をしながらその場に座り込んでいた。一方の第三協栄丸は立ったままで網問を見下ろしている。
 暫くその状態が続いた後、徐に第三協栄丸はつかつかと網問に近寄った。網問は一瞬第三協栄丸を睨み付けたが、殴られるとでも思ったのか、下を向いてぎゅっと目をつぶった。
「あ…」
「大丈夫ですって」
 思わず止めようとした利吉を義丸が制止した。何か言いたそうな顔をする利吉だったが、素直にそれに従う。
 第三協栄丸はその大きな手を網問の頭にぽん、と乗せた。
「ま、なんだ。お前も無事だったことだし、今回のことは大目に見てやろう」
 網問は一瞬、目を丸くして――そして、上を向くとにっこりと微笑んだ。
「ありがとうございますっ!」
 網問は元気良くそう言って頭を下げた。
「ね」
 義丸は利吉の方を振り返ってそう言う。利吉もふっと微笑んで、そして茶をすすった。口の中に入ると共に、温かみが体中に行き渡る。
(たまにはこういうのもあり、か――)
 満たされた思いで、利吉はそっと水軍館を出る。目の前に続く道を見て、利吉は重要なことを思い出した…そう、この道の先には、夫と息子を待ちわびて随分機嫌を崩している女主人の守る、我が家があるのだ。
(第三協栄丸さんの爪の垢、貰って帰ろうかな…)
 これから我が身に起こる苦難を思い描きつつ、利吉は家路についたのだった。

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