機略縦横<後編>
「いてえっ!!」
「駄目、文次郎!動いちゃ!!」
「しみる〜っ!何塗ったんだ!!…ってこれ薬間違ってるよ!伊作〜っ!!どうにかしてくれって言うか後輩しっかり教育しとけ!!」
「わああああごめんなさい先輩っ!間違いました!!」
「…五月蠅い…」
学園に帰った伊作達は文次郎と小平太の治療に当たっていた。保健委員だから、と乱太郎もそれを手伝う。保健室は賑やかになっていた。
「随分元気じゃないか」
保健室の主、新野洋一が溜息混じりに言う。その声は、文次郎の悲鳴と小平太のわめき声と伊作の叱咤の声と乱太郎の謝罪の声と長次のぼやきにかき消された。
誰も聞いていないか、と苦笑して洋一はふと壁際の少年を見た。一人壁にもたれかかって、じっと黙っている。時折、肩から落ちる黒髪をうるさそうにかき上げては溜息をついていた。
「仙蔵君?」
洋一は遠慮がちに声をかける。しかし仙蔵は何の反応も示さなかった。洋一は思い息を吐き出すと伊作達を見た。
一段落つくと、伊作は腰を上げた。
「さてと…文次郎、小平太、ちょっと待っててね。食堂のおばちゃんにご飯作ってもらってくるよ」
伊作は保健室を出ようとした。
「あ…私も手伝います」
「いいの?」
乱太郎も後に付いていった。二人は連れだって廊下に出る。
「…先輩」
廊下を出てすぐ、乱太郎は伊作に話しかけた。
「あの…仙蔵先輩は…小平太先輩達を…見放した…わけじゃ…ないんです」
「??」
とぎれとぎれに、言葉を飲み込むようにしながら言う乱太郎を伊作は怪訝そうな目で見た。
「私たちは、仙蔵先輩と脱出しました…よね?それで、その後仙蔵先輩はずっとお城の方を見てて、私たちが声をかけても反応しないくらいでそれで」
「ちょっと待って乱太郎君」
暴走し始めている乱太郎を伊作は立ち止まって制した。
「もしかして…僕がまだ仙蔵のこと怒ってると思ってる?」
乱太郎はこくこくと頷いた。伊作は小さく溜息をついた。
「…あの時は見苦しいところを見せて本当にごめん。僕の考えが甘すぎたんだよ。仙蔵はちゃんと文次郎と小平太のことを考えてたんだ。それを…僕が…」
「…まだ『ごめんなさい』してないんですか?」
押し黙ってしまった伊作に乱太郎が問う。伊作ははっとして顔を上げた。
その伊作の胸元に乱太郎の小さな手がそっと触れる。
「…痛いでしょう?ここ」
「――え?」
伊作は思わず声をあげた。乱太郎は手を放すと、今度は自分の胸元に両手を当てて見せた。
「私もよくきり丸とかしんべヱとケンカするんですけど…どうしても謝りそびれちゃうんですよね。そういう時ってここがきゅう…っとするんです」
乱太郎は微笑んだ。伊作は少し戸惑い、そして小さく溜息をついた。
「…ありがとう。心配させちゃってごめんね。乱太郎君のお陰で仙蔵に謝る決心が付いたよ」
伊作は乱太郎の頭をくしゃっと撫でた。
乱太郎はそんな伊作を見て、笑みを浮かべた。
食事を運ぶと、文次郎と小平太が待ちわびたという表情で待っていた。
目の前に膳が置かれると、二人はいつもと変わらない食欲を見せた。
「半日前に大怪我した人間には見えないよ」
伊作は苦笑して、そして気がついた。仙蔵と長次がいなくなっていたのだ。
「あれ?仙蔵と長次は?」
辺りを見回す伊作に、小平太が答える。
「はんはひょうひがひっはっへいっはへ」
「…小平太。飲み込んでから喋ってよ」
「なんか長次が引っ張っていったぜ」
小平太は口の中のモノを飲み込むとそう言った。そしてまた食事に戻る。
その余りのお気楽さに伊作は溜息をつきつつ、小平太の口の横のご飯粒をそっと取ってやった。
「ちょっと見てくる」
どうしても不安をうち消すことが出来なくて、伊作は保健室を後にした。
「何か用か?長次」
「…解っているだろう」
ちょっと来い、そう言われて廊下に引っ張って行かれた仙蔵は長次を睨んだ。
「だから何のことだ」
仙蔵は繰り返した。長次は仙蔵を睨み返す。
「…もう少しで文次郎と小平太が…見損なったよ」
長次は仙蔵から視線を外した。仙蔵は何も言わずに長次を見ていた。
空気がピンと張りつめたその時。
「長次!待って!!」
伊作は走ってくると仙蔵と長次の間に割って入った。
「…伊作」
「長次は勘違いしてるよ。仙蔵はあの二人を見放そうとしたわけじゃない!!」
伊作は思わず叫んだ。
その場に沈黙が流れる。
長次も仙蔵も、伊作を見ていた。
「…ごめんね、仙蔵」
沈黙を破ったのは伊作だった。
「…伊作…」
仙蔵は掠れた声で言った。
「――あの時は本当にごめん。仙蔵はちゃんと全部考えてたのに…」
「…違う。悪いのは私の方だ」
伊作は仙蔵の方を振り返った。仙蔵は伊作を見た。
「私にはおごりがあったのかも知れない。頭の中で色々考えて、その通りにすれば上手くいくといつも思っていた。でも…」
仙蔵は視線を落とした。
「伊作に言われて目が覚める思いがしたよ。私はもう少しで…」
「もういい」
止めたのは長次だった。長次は仙蔵の肩に手を置いた。
「過ぎたことは過ぎたことだ。現に文次郎と小平太は無事だったんだから…酷いこと言ってすまなかった」
「長次…」
伊作はそれを見てほっとしている自分に気付いた。
――よかった…元通りなんだ…全部…
「…はは」
伊作は小さく笑った。
同時に、頬を涙がつたっていく。
なぜだか解らないが、涙は止まることなく絶えず頬をつたっていった…
翌日。
「あっ、伊作先輩だあ」
小平太と文次郎の様子を見に行こうとしていた伊作は乱太郎に呼び止められた。
「あ、乱太郎君」
伊作は乱太郎の方を振り返るとにっこりと笑った。
「『ごめんなさい』出来たみたいですね」
「うん。乱太郎君のお陰だよ」
伊作は乱太郎の頭を軽く撫でた。
乱太郎は伊作を見上げて、首を傾げた。
「…あれ?先輩、泣きました?」
「え…っ」
予想外の問いに、伊作は思わず後ずさった。
「目が少し赤いですけど…もしかしてまだ…」
「違うんだ、コレは…」
説明しようとして、伊作は思わず詰まってしまった。
説明しようがない。
伊作は暫く考え込んで、乱太郎の両肩に手を置いた。
「先輩?」
いつもと少し様子の違う伊作を見て乱太郎は戸惑う。
「…昨日確かに僕は泣いたよ。でも、『ごめんなさい』はちゃんとしたから」
「…って、泣きながら謝ったんですか?」
「違うっ!!」
思わず大声を上げてしまった伊作は、きょとんとする乱太郎の前で軽く咳払いをした。
「ん…と…何て言うのかな…人はね、目の奥に涙のたまった袋を持っているんだ」
「袋?」
「そう。人が泣くときはその袋がいっぱいになったときなんだけど、昨日は僕の袋が急にこけちゃったんだ」
「???」
頭の回りに?マークを浮かべる乱太郎を見て、伊作は溜息をついた。
「…今は解んなくてもいつか解るから」
それだけ言うと、伊作は微笑んで見せた。
乱太郎は相変わらず?マークを浮かべている。
――いつか解ってくれるはず。綺麗な心を持ったこの子なら。
伊作は心の中でそう思った。