率先垂範

「山田先生、見てください、コレ」
「ん?」
 急に同僚に呼びかけられ、伝蔵は今まで読んでいた書物から目を上げた。
 半助が笑顔でなにやら紙の束を持っている。
「…それは?」
 伝蔵はしげしげとその紙を見つめた。半助はそれを伝蔵に渡す。
「昨日、作文の授業をやったんですよ。『目標にする人、憧れる人について書きなさい』ってね。それがこれです」
「ほお。で、それがどうかしたんですか」
「まあ、読んでみてください。私にしか読めない字は全部直してありますから」
 半助を訝しげに見つめながら、伝蔵はその紙に目を落とす。
「これは…」
 一枚一枚紙を繰っていく間に伝蔵の表情が緩んでくるのが半助にも解る。半助も笑みを隠せなかった。
 最後の十一枚目を読み終わると、伝蔵はふう、と溜息をつく。
「…ったくもう…隣の奴のを写したんじゃないだろうな」
「私がそんなことさせると思いますか」
 伝蔵の独り言に、半助は小さく口を挟む。
 伝蔵は紙の束を置いて徐に立ち上がると、不意に踵を返した。
「茶でも入れてこよう」
 半助は照れ隠しにそんなことをする伝蔵の背中を見やって、再び微笑んだ。
「こんなの見せられて、喜ばない親はいないからなあ」
 半助は、『利吉さんみたいになりたい』と書かれた十一枚の紙の束を、トントン、と揃えた。

「…で、みんな『利吉さんみたいになりたい』って書いたんですよ」
「へえ」
 同じ頃、保健室では、乱太郎がそのことを誇らしげに伊作に話していた。
「でも、どうして全員そう書いたって解ったの?」
 伊作は乱太郎に尋ねる。今日書いた作文を全員が発表することなど考えられず、その疑問はもっともだった。
「それはですね」
 乱太郎は人差し指を立てて言った。
「その直後のお昼休みにきり丸達とその話をしていたんです。そしたら3人とも『利吉さんみたいになりたい』って書いたってコトが解って…そしたら、その話を聞いていた団蔵が『僕もだよ』って…それで気になって全員に聞いてみたんです」
「そしたらみんな同じコトを書いてた…か。山田先生も鼻高々だろうね」
 伊作はそう言って微笑んだ。乱太郎も同じように微笑んだ。
 と、そのとき、ギシリと廊下が鳴った。
「新野先生かな?」
 乱太郎は首を傾げて立ち上がろうとした。しかし、それを伊作が制する。
「――待って、乱太郎君。新野先生は出張中だよ?それに…」
「それに…何ですか」
 乱太郎はごくりと唾を飲み込んだ。伊作は乱太郎の前にでながら言う。
「――血の臭いだ」
 乱太郎の顔色がさっと変わる。伊作は固唾をのんで障子を睨み続けた。
 足音は徐々に近づいてくる。それほど遅くもなく、どちらかというと急ぎ足でこちらに向かってきていた。
「――――!!」
 部屋の前で足音は止まった。障子に映った影は長身で、細身で…
「……もしかして」
 伊作はハッとして障子を開けた。後ろで乱太郎がぎゅっと目をつぶる。
「!」
「……ごめん。驚かせちゃったかな」
 噂をすれば影。
 驚く乱太郎と伊作の前で利吉はにっこりと微笑んだのだった。

「利吉さん」
 伊作は掠れた声で言った。
「それ…」
「ああ、これね」
 利吉は左肩に添えていた手をそっと放した。左肩と、添えていた右手は真っ赤に染まっている。
「仕事でちょっと…ね。薬を分けて貰おうと思って」
 とても怪我をしているとは思えない口調で利吉は言った。
「…ぼ、僕、山田先生に知らせてきます!!」
「待って、乱太郎君」
 走り出そうとする乱太郎を制止したのは伊作だった。驚いて振り返る乱太郎をちらりと見やって、伊作は言う。
「…直接ここにいらっしゃったということは、山田先生には知られたくないのでしょう?」
「………」
 利吉は伊作を見て驚いた表情を見せる。そして、その後こくりと頷いた。それを確認すると伊作は乱太郎の方に向き直った。
「乱太郎君、行き先は変更。井戸に行って水を汲んできてくれる?」
「あ…はい」
 乱太郎は弾かれるように保健室を飛び出したのだった。

「…これでよし」
 その後の伊作(と乱太郎)の適切な処置によって、何とか止血は完了した。
「有り難う。ごめんね、気を使って貰っちゃって…父に知られるとまた余計な心配かけちゃうしね」
 利吉はそう言って、転がっている包帯を拾い上げ、それを元通りに巻き始めた。
「いいですよ、利吉さん。僕達がやりますから」
 それを取り上げようとする伊作に、利吉は笑って言った。
「コレくらい自分でさせてよ。それより…」
 利吉の目が鋭く光った。伊作もハッとして後ろを見ようとした。
「見るんじゃない」
 利吉は聞こえるか聞こえないかといった声でそう囁いた。伊作は後ろにむきかけていた首を元に戻す。
「どうやらしっかりと払いきれなかったみたいだね。変な虫がくっついて来ちゃって」
 利吉はそう言いながら手の中の手裏剣を見せた。
「戸を開けた瞬間にしゃがむ。それだけだ。いいね?」
 再びの小さな利吉の声に伊作は軽く頷いた。そして徐に立ち上がる。
「伊作先輩?」
「お茶でも煎れてくるよ。乱太郎君はそこの薬品を元に戻しといてくれる?」
 伊作は乱太郎が部屋の奥に行くのを確認してから、勢い良く戸を開けた。

 全ては一瞬の出来事だった。
 戸が開かれる。
 伊作がしゃがむ。
 その頭をぎりぎりでかすって手裏剣が飛ぶ。
 そしてそれが何かに命中する音と、小さな断末魔の叫び。
 伊作が頭を上げたときには全て終わっていた。
 利吉は伊作ににっこりと微笑みかける。
「今日は本当に有り難う」
 そう言って、倒れた者と共に、利吉は静かに夕日の中に消えていった。
「かっこいい…」
 後に残された伊作は、ポツリと呟く。それを聞いて、乱太郎はにっこりと微笑んだのだった。

「…やってくれますねえ、利吉君も」
「…あやつめ…生徒を危ない目に遭わせよって」
 屋根の上では、半助と伝蔵がその様子を見守っていた。
「利吉の奴…今度学園に来たら説教だな」
 息子の愚痴を同僚に漏らしながら、ほっとしている自分がいることに伝蔵は気付いたのだった。

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