春日遅遅

「う〜ん、春は良いねえ」
 小平太は大きくのびをした。小さく呻くと、ほう、と息をつく。
 厳しい訓練で緊張し続けた精神をリラックスさせるには丁度良い昼下がり。春の日差しが柔らかく降り注ぎ、暖かい風が頬を撫でる。
 耳に聞こえるは鳥のさえずり。
 鼻をくすぐるは花の香り。
 傍らには友人の姿があった。
 木陰で安らぐ仙蔵。その横で読書にふける長次。蝶を捕まえようとあちこち動き回る文次郎に、それを呆れつつも優しい目で見守る伊作。
 本当に穏やかな春の昼時だった。

「でもこうしていられるのも後少しだねえ」
 ふと、伊作が呟いた。
 仙蔵が不意に伊作を見て、長次が本から視線を上げる。蝶を追っていた文次郎も動きを止めた。
 小平太も伊作の方に振り向く。
「伊作?」
 小平太がそっと名を呼ぶとはっとして伊作はそちらを見た。
 そして漸く自分が皆に注目されていることに気付く。
「あ、ごめん。つい…卒業も近いし、就職活動も始めなきゃなって考えてたら…」
 伊作は思わずどもる。長次が再び本に視線を戻す。
「就職したら…っていうか学園から飛び出したら…今でこそこんな風に呑気にしていられるけどそれこそ…」
「そうだな」
 声を発したのは長次だった。本を見つめたまま長次は淡々と続けた。
「卒業して外に出たら汚れた世界が待っている。地獄絵図さながらのな」

 瞬間、太陽が雲間に隠れ、風が止んだ。
 鳥のさえずりも止まった。
 花の香が消えた。
 その場の空気が一瞬にして変わる。
 重苦しい雰囲気。
 視界が白黒になったように感じた。

 と、沈黙を破るように伊作が叫んだ――ように見えた。
 口が大きく動いており、一瞬間音声が途絶える。しかし、口の動きとは少し遅れて小平太の耳には、はっきりと、そしてゆっくりとその声が聞こえてきた。
「――誰かが――誰かがやらなきゃいけないんだ!!綺麗事なんて言っていられないんだよ!誰かが地獄を見ないと、誰かが泥を被らないとこの社会は成り立たないんだ!」

 ふと、脳裏をいつかの会話がよぎった。
『就職…どうする?』
 伊作が少々間延びした声で問うた。
 仙蔵が少し考えて答える。
『私は…やっぱりどこかの城だな。収入も安定するし。なまじフリーになるよりは敵も少なそうだしな』
『でも、城がもし落ちゃったらそれで終わりだろ?私はやっぱりフリーの忍者に憧れるな…伊作は?』
 そう言ったのは小平太だった。
『そうだなあ…やっぱり僕は教師になりたいな』
『ふふふ…小さいな、伊作!』
 文次郎が言う。伊作はぴくりと眉を動かすと文次郎を見た。
『じゃあ、文次郎は何になりたいのさ』
『学園長だ!!!今より大きな人間になって絶対学園長になる!!!』
 文次郎が部屋のど真ん中で叫ぶ。長次はぼそりと言った。
『俺は……旅に出たい』
『?』
 その場にいた全員が長次を見た。
『旅に出て自分を見つめ直したい』
 その科白を言ったのが文次郎だったら小平太は間違いなく『変な冗談言うんじゃねえ』などと言って叩いていたところだろう。
 しかし、その科白を発したのは長次だった。
 一瞬止まった空気に小平太は少々背筋が寒くなるのを覚えた。
 その止まった空気をさらに凍らせたのは伊作だったのだ。
『――でも…教師になっても血の臭いのする世界からは抜けられないんだよね…結局は逃げられないんだよね…』
 その時の伊作の表情は小平太の瞼にしっかりと焼き付いていた――

 それからどれだけ時間が経ったのだろう。
 ほんの少ししか経っていないようにも思えるし、半日が過ぎたような気もした。

 気がつくと、陽が再び差していた。
 暖かい風が小平太の髪をなびかせる。
 耳に聞こえるは小鳥のさえずり。
 花をくすぐるは花の微香。
 傍らには友人の姿があった。
 木陰でぼんやりとする仙蔵。その横で本を抱えて居眠りをする長次。花をくわえておどけたポーズをとる文次郎に、それを見て思わず後ずさる伊作。
 まるで先程の出来事がなかったかのように、余りにも平凡な時が刻まれていた。
 もしかすると先程のことも春の陽気が見せた夢だったのかも知れない。実際、先程のことを思い出すと、自分はまるで第三者の立場に立って思い出していることに気付くのだ。
 夢か現か…小平太は暫く首を捻っていた。
 が、すぐにそれを考えるのを止めてしまった。
 ――うららかな日和に難しい考え事は止めよう。
 小平太はほう、と息をついた。
 手を組んで、空に向けて大きく伸ばす。
「春は良いねえ」
 先程と同じ一言が口元からこぼれる。
 春の日はこうして、何事もなかったように流れていったのだった。

●あとがき

●戻る