力のために。<其の一>


「おい、あいつが来たぞ」
 建物の影で、少年達がにやりと笑みをこぼした。一番体のでかい少年があご指した方向を見れば、十歳くらいの少年が廊下を歩いてくるのが見える。
「行け」
 一番大きな少年の指示で、三人の子供達がばたばたと走り出した。そのうちの一人は水の入った桶を抱え、件の少年の歩いていくであろう先の廊下に飛び乗る。残りの二人は、あたりに大人がいないかどうかを確認した。
 廊下を歩いていた少年は、目の前に現れた一人の少年と桶に眉をひそめた。少し立ち止まりかけて、しかし避けて通れないことを悟ったのか、歩みを再び進めようとする。
「待てよ」
 桶を持った少年は、言うや否やその手にしている桶の中身を、彼に向けて思い切りぶちまけた。冷たい水と――幾枚かの汚れきった雑巾が彼に襲い掛かる。
 同時に、先程見張り役に回った二人のうちの一人が、今や空となった桶を持つ少年に目配せした。それを目ざとく受け止めた少年は、手にした桶を放り投げ、代わりにずぶぬれになった少年の着物をぐいと引いた。
「てめえ、謝れよ!!」
 水が口に入ってしまったのか、咳をする少年は、思いがけない言葉に目を丸くした。謝られることはあっても、こちらが謝らねばならないような事柄は思いつかない。無言のままでいる少年の背に、大人の気配が近づいた。
「どうした?長次がなにかしたのか」
 落ち着いた、威厳ある声。彼は少年――長次の父親でもあり、またこの理不尽な行為を行っている四人の少年達の父親でもあった。四人はともに正室の子であるが、長次だけは妾腹だった。彼ら四人は、なんのかのと因縁をつけて長次をいびるのが常となっていた。
「父上!私が廊下の掃除でもしようと思って桶を運んでおりましたら、長次がぶつかってきたのです。おかげで廊下は水浸し。なのに謝ろうともいたしません」
 嘘だ、と長次は心の中で言った。自分はいきなり水をかけられたのだ。ぶつかった覚えもなければ謝る理由だってない。
「本当か長次」
 父親は視線を合わせようとしない。長次は必死になって自分の無実を訴えたかった。しかし、それは声にはならずにぐっと喉の奥で飲み込まれてしまう。
 嫌がらせが始まった頃は、しっかり言えていたのに。
 本当のことを告げ口すれば、報復は何倍にもなって帰って来た。そのたびにひどい傷を受け――それを見た母親が悲しそうな顔をするのを何度も見た。傷による痛みより、そちらの方が長次にとって苦痛となる。
 ならば、と長次は思った。自分が口答えせずに彼らの計略に乗ってやれば、余計な報復は受けずに住む。報復さえ受けなければ、誤魔化すことも難しくない。単に、髪の毛を拭いたり、土を払ったり、服を着替えたりすれば母上にばれることもない。そうすれば母上を悲しませずに済む。
 いつしか長次は反論することをやめてしまっていた。あらぬ罪を何度もかぶせられ、そのたびに父や家人に咎められてきた。それでも長次は申し開きをしなかった。ただただじっと押し黙るだけ――それが自分の取りうる最善の策だと信じて。
「長次。こちらへ来なさい」
 父の思い声が耳の奥に響く。
 ――ああ、また怒られるのか。
 どこかぼんやりと、長次はそう思った。ニヤニヤと笑う先程の少年の隣を通り、長次は父の背を追った。ふと庭の方に目をやると異腹の兄が納屋の影からこちらを見やり、勝ち誇ったような笑みを浮かべている。
 長次と彼の目が一瞬かち合った。どうしたわけか、怒りは全く湧いてこなかった。


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