前程万里

「ふぶ鬼ぃ…ぜーったい、ぜーったいに放すなよ!!」
「わかってる…って…」
 とある山の中、そんな会話が交わされていた。声は子どものそれであったが、随分震えている。特に後者のほうは消え入りそうな声だった。
「おや?」
 人気のない山の中で、そんな声を聞いているものがいた。その名は山田利吉。利吉は歩みを止め、ふとそちらのほうを見る。
 しかし、そちらの方には何もなかった。その先は崖になっており、ただそのまた向こうの景色が見えるだけで…
「ん?」
 利吉は視線を下げた。地面の部分の端にちらりと肌色が見える。利吉は少し背伸びをしてその先を覗くようにして見た。
 視界に飛び込んできたのは赤い布。
 赤い布。子どもの声。崖。ぶら下がっている。
 それだけで利吉は状況を把握した。慌てて駆け寄ろうとするも、はたと何かに気付いて立ち止まる。
利吉はゆっくりと視線を落とし、右手を自分の胸の辺りに当てた。少し困ったような表情をして、それからぶんぶんと首を振る。
 ――関係ない。あの子達には。
 自分にそう言い聞かせると、利吉はすっと手を伸ばしたのだった。

「ありがとうございましたあ」
 落下の危機を免れたドクたま達は、ぺこり、と頭を下げた。皆、感謝と尊敬の念の入り交じった表情で利吉を見る。
「怪我、してない?」
 利吉は遠慮がちに言った。一度は見限ろうとしたのだ。少し後ろめたかった。
「全然!この通り全然怪我なんて…」
 自称『リーダー』のしぶ鬼はそう言っていぶ鬼達を見回す。と、その視線をふぶ鬼のところで止めた。
「ふぶ鬼?」
 しぶ鬼はふぶ鬼の顔を覗き込む。ふぶ鬼ははっとして思わず手を後ろに回した。
「見せてごらん」
 すかさず利吉はふぶ鬼の手を掴む。残りの三人も斜面の木やら、岩に手や足をかけていたとはいえ、かなりの体重を支えていたため、ふぶ鬼の手は真っ赤になっていた。
「こりゃ酷いな。痛いだろう?」
 利吉にじっと見つめられ、ふぶ鬼は緊張しつつ頷いた。利吉は手早く手ぬぐいと水筒を取り出すと、手ぬぐいに水をかける。
「あ…大事な水を…」
 ふぶ鬼は手を伸ばし、それを止めようとした。が、利吉はその手をそっと取って手ぬぐいを当てる。
「心配しないで…帰りだから」
 利吉は視線を合わせずに言った。暫く手ぬぐいを手に当ててやってから、ちらりとふぶ鬼の表情を見る。サングラスに隠されていてよく見えないが、恍惚とした表情が読みとれた。
 利吉の『良心』がちくりと痛む。
 利吉は最後まで視線を合わせることなく、黙々と手当を続けたのだった。

「よし、これで大丈夫」
 手当を終えると、利吉はドクたま達の頭をぽん、と撫でる。
「気を付けて帰れよ」
「はーい」
「本当に、ありがとうございましたあ」
 ドクたま達は口々に言って、帰っていく。
 利吉は暫くそれを見送っていたが、急に表情を固くするとすっと近くの草むらに飛び込んだ。次の瞬間、ばたばたと足音が山道の向こうから聞こえてきた。
「探せ!探せえええ!!」
 先頭で八方斎が声を張り上げる。赤い忍び装束を身にまとったドクタケ忍者達が辺りを駆け回った。
 赤い集団は、しばらくの間付近の草むらを探っていたが、やがてここにはいないと判断したらしく、その場を通り過ぎる。利吉はそれをじっと見ていた。
 と、赤い集団の最後尾にいた男がふと立ち止まる。男は妙な袴をはいていた。
 赤い集団が見えなくなり、足音が聞こえなくなると、男は左を向き、徐に口を開いた。
「利吉君、そこにいるんだろう?出てきたまえ」
「こっちです。魔界之先生」
 男――魔界之小路の背後に、利吉はすっと降り立ったのだった。

「解っているとは思うが」
 魔界之小路はくい、とサングラスを押し上げた。
「わざとだからね」
「そういうことにしておきます」
 利吉は苦笑しながら言う。魔界之小路も同じく苦笑するが、不意に真面目な口調になった。
「…子ども達がお世話になった」
「あ…はあ」
 利吉は珍しく、間の抜けた返事をする。魔界之小路は口元に笑みを浮かべた。
「どうせまた大変なことになってるだろうとは思っていたんだが…こっちにも仕事があってね。いやあ、もう少しで生徒を危険な目に遭わせるところだった」
「私が来たときにはもう遭っていましたが」
 言ってから、利吉はしまったというように口を塞ぐ。じろりとそちらを見ていた魔界之小路は視線を元に戻した。
「…とにかく、君には礼を言うよ」
「いえ…別に大したことは」
「そこでだ」
 謙遜して言う利吉の言葉が聞こえていないかのように、魔界之小路は続ける。利吉はふと父親の知り合いに、似たタイプの人間がいることを思い出した。
「お礼と言っては何だが…私は君に気付かなかったことにする」
「!?」
 利吉は目を見開いて魔界之小路を見る。ここに来る直前、利吉は『依頼』をこなしてきたところなのだ。信じられないといった表情の利吉に、魔界之小路はゆっくりと頷いた。
「それは元はといえば君の依頼者のものだからね」
 魔界之小路はさらり、とそう言う。
「…本当に、良いんですか?」
「――私もドクタケの人間だが、盗人のような部分は気にくわなくてね」
 魔界之小路はそういって、再びサングラスをくい、と持ち上げたのだった。

「かーっこよかったよねー!!利吉さん!」
「うん!すっごく!!」
 翌日、ドクたま達はその話題で持ちきりだった。皆、顔を上気させている。
「僕も大きくなったらあんな風になりたい」
 しぶ鬼も、いぶ鬼もぐっと拳を握りしめる。が、そんな中、ふぶ鬼は利吉に手当して貰った手をじっと見つめていた。
「ふぶ鬼?」
 やまぶ鬼に覗き込まれて、ふぶ鬼はふと我に返る。
「どしたの?」
「あ…うん」
 ふぶ鬼は再び手に視線を落とすと、ボソリと言った。
「でもさ、僕達もう少ししたら利吉さんとは敵同士、なんだよね」
「あ…」
 しぶ鬼といぶ鬼は握りしめていた手を緩める。ふぶ鬼は顔をあげた。
「敵同士、ってことは戦わなきゃいけないんだよね」
「…いやだなあ、なんだか」
「うん」
 しぶ鬼達は急に暗くなる。そんな3人を見ていたやまぶ鬼は、大きな声で言った。
「もう!情けないわねあんた達!!」
「やまぶ鬼?」
「そうなったときに、戦っても恥ずかしくないように頑張らなきゃ!!」
 やまぶ鬼はそう言うと、にっこりと笑った。いぶ鬼達は一瞬固まり、その後再び拳を握りしめる。
「そうだよな!そのために頑張らなきゃな!」
「そうそう!ガンバロー!!」
「おー!!」
 いぶ鬼達の立ち直りの速さは天下一品であった。
 やまぶ鬼はそんな3人を見つめてボソリと呟く。
「…全く…本当に単純なんだから…」
 しかし、そんな呟きは3人に聞こえるはずもない。しぶ鬼、いぶ鬼、ふぶ鬼は輝ける未来を信じて、その後半日に渡って将来の夢を語り続けていたのだった。

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