受難 あれは、不運が重なったとしか言いようのない出来事だった。 「どうしようか…」 僕達は、途方にくれていた。 今日は久しぶりに宿題を出す、と土井先生が言い出したのは今日の午前の授業の終わりでのこと。僕は同室の虎若と宿題をやろうと思って、部屋に戻ったばかりの虎若に声をかけた。 「虎若、一緒に宿題やろうよ」 「ごめん!今日生物委員会の集まりがあるんだ。明日じゃダメ?」 虎若は顔の前でぱん、と手を合わせる。僕は眉を寄せた。提出は明後日。明日にしたいのは山々だけど、明日は会計委員会で集まりがある。経験上、早く切り上げられるとは思えない。 「…明日は会計委員会なんだ」 「そうかあ」 虎若が心底気の毒そうに僕を見てくる。委員会が開かれるたびにヘロヘロになる僕の姿を見ているからだろうか。 「…しょうがないや。他を当たるよ」 「ごめんね」 虎若は申し訳なさそうにそう言って、そそくさと駆けて行った。僕はため息をついて、机の上に宿題を広げる。なんとか自力でやってみようと問題を読み始めた瞬間、急にがらりと部屋の戸が開いた。 「うわ!」 「…何びっくりしてるの?」 そう言って僕を覗き込んできたのは兵太夫だった。僕はびっくりして跳ね上がった心臓を抑えつつ、兵太夫を見返す。 「びっくりするじゃないか!声くらいかけてよ!」 「ごめんごめん。そんなにびっくりするとは思わなかったから」 兵太夫はそう言いながら、僕の近くに腰を下ろした。手にはなにやら本を持っている。 「――で?どうしたの?」 「宿題。一緒にやろうと思って」 兵太夫はそう言うと、虎若の机をずるずると動かして僕の近くまで寄せ、その上に本を乱暴に置いた。宿題をとりあえず広げて、僕の目を見て、それからふう、とため息をつく。 「三治郎が生物委員会でさ。庄左ヱ門とやろうと思ったんだけど、庄左ヱ門も伊助も学園長のおつかいだって。ついてないなー」 てことは僕は第二候補か。まあ、残りのメンツを考えれば――乱太郎、きり丸、しんべヱ、金吾、喜三太――喜んでいいのか、腹を立てていいのかわからなくなってきた。 そんな僕を後目に、兵太夫は右の膝を立ててその上に右ひじを載せ、右手の指で筆を弄んでいる。目は真剣に問題を追っているようだけれど。 「団蔵」 「な、何?」 思わず声が裏返る。兵太夫、視線が怖いよ… 「団蔵もぼーっとしてないで考えてよ」 兵太夫の冷たい視線が突き刺さる。僕は反論することも出来ず、しおしおとそれに従った。 だからといって問題の答えが見つかるわけじゃないのに。 「どうしようか…」 僕は幾度目かのその台詞を吐いて、自分の手元を見下ろした。視線の先には、真っ白なままの宿題が横たわっている。さっきから随分考えているのだけれど、これっぽっちもわからない。ちらりと兵太夫を見やったけれど、やっぱりあっちも手元が動いていない。 「――こうしていてもしょうがないよ」 兵太夫は不意にそう言うと、虎若の机の上に広げた本をばたばたと片付けた。手早くまとめると、すっと立ち上がる。 「ここで考えていても答えが出ないのなら、誰かに教えてもらおう」 「あっ、兵太夫――!」 虎若の机、元に戻してから行ってよと僕が言う前に、兵太夫はさっさと出て行ってしまった。 「待って!!」 僕は一瞬虎若の机を見て戻すかどうか躊躇ってから、慌てて兵太夫の後を追った。 「で、誰に教えてもらうの?」 足早に歩く兵太夫の後を追いながら、僕はそっと話しかけた。兵太夫はちらりとこちらを見た後、小さくため息をつく。 「庄左ヱ門と伊助は学園長のお使いで留守。は組で頼れそうなのはあの二人だけだ。でもそうかと言って出題元の先生に聞きに行っても教えてくれるはずがない。だから……」 「そうか、先輩か!」 兵太夫の言葉を遮るようにそう言ってから、しまったと思った。兵太夫がジト目でこっちを見ている。 「わかってたんなら聞かないでよ」 兵太夫はふい、と顔を前に戻した。迷うことなく、上級生の長屋へと足を向けている。 「で、具体的にどの先輩に聞くの?」 「二年生に聞くのは癪だし、滝夜叉丸先輩とかだと教えてもらう以前に自慢が始まるだろうし…ま、無難な線で不破先輩とか…」 言いかけて、兵太夫は急に足を止めた。あまりに急なことで、僕は止まりきれずに兵太夫にぶつかった。 「ふがッ!へいだゆ…」 「立花先輩!」 いきなり兵太夫の声のトーンが上がった。軽やかな足取りで、廊下の先へと走っていく。その先を見遣ると、丁度廊下の先を曲がってきた麗しの作法委員長こと立花仙蔵先輩が視界に入った。 「兵太夫」 立花先輩は兵太夫のほうを見てにこりと笑った。綺麗な黒の髪がさらりと揺れる。兵太夫は立花先輩に走り寄ると、こちらも満面の笑みを浮かべた。 「立花先輩!実は、宿題でわからないところがあって…今聞きに伺おうと思ってたところなんです」 嘘つけ!!僕は心の中で叫んだ。ついさっきまで不破先輩とか言ってたくせに。 「どれだ、見せてみろ」 「立花先輩にしたら簡単すぎるかもしれないんですけど…」 既に先輩への態度を完璧すぎるほどに習得している兵太夫を呆然と見ていた僕は、慌ててそこに駆け寄った。折角立花先輩が解説してくれる気になっているんだ。聞き逃すわけにはいかない。 慌てて兵太夫の近くに寄って――そして僕は硬直した。 「団蔵――」 「ひっ!!」 僕は思わず声を上げた。さっきまで死角になっていて見えなかったけれど、立花先輩の後ろ――廊下の角のところに潮江先輩がいたのだ。潮江先輩は低い声で僕の名前を呼ぶと、恨めしげにこちらをじっと見ている。 「どうした、文次郎?そんな気分の重くなるような声を出して」 そんな潮江先輩に、立花先輩はさらりと髪をかき上げながら言った。 「ま、普段の素行を考えれば、後輩がお前ではなく私を頼る気持ちもわかるがな」 たたた立花先輩ー!! 僕の背を、嫌な汗が伝っていく。立花先輩は明らかに挑発モードだ。僕は恐る恐る潮江先輩を見た。 ――めちゃめちゃ睨んでるよ… 潮江先輩の目が怖い。僕が潮江先輩でなく立花先輩を頼ったのを目撃した挙句、その立花先輩に挑発されて、余計に機嫌を損ねたようだ。 「だーんーぞーうー。お前はッ!ヘタレ集団の保健委員会と影の薄い火薬委員会に先を越された反省として、委員会内の協力体制を整えると先日言った所だろうがッ!!協力体制を作るにはまずは人間関係だッ!!なのにお前は――!!」 「うるさいぞ文次郎」 立花先輩が容赦なく肘を潮江先輩に入れる。咄嗟に反応した潮江先輩には大きなダメージは行かなかったようだが、ボルテージがどんどん上がっているのがわかる。 「仙蔵…貴様…」 「見苦しいぞ文次郎。これも人徳の差というものだ。お前のそういう強引な態度に、後輩達もついて来られなくなったのではないか?そうだろう?団蔵」 ひいいいいいー!! 僕は頭からさあっと血の気が退くのを感じた。どう返事するべきなんだ!?この場合!!『はい』と言えば潮江先輩を、『いいえ』と言えば立花先輩を敵に回してしまう―― 僕は藁にも縋る思いで、先ほどから口を噤んだままの兵太夫に視線を送った。助けて、と訴えたはずの視線は、兵太夫にさらりと流される。 『団蔵。頑張って』 兵太夫の無責任な応援が耳に届くみたいだ。 答えきれずにいる僕を見て、ついに限界に達したのだろう、潮江先輩が顔を真っ赤にして大声を上げた。 「仙蔵!勝負だ!!」 「勝負?」 立花先輩の眉がぴくりと動いた。潮江先輩は右手の人差し指をびしり、と立花先輩に突きつける。 「ああそうだ、勝負だ!!どっちが後輩により慕われているか、勝負しろ!!」 立花先輩はやれやれと頭を振った。 「……よくもまあそんな無謀なことを。受けてやっても構わんが、お前が後悔するだけだぞ。第一そんなもの、どうやって比べるんだ」 「先輩のいいところを、後輩に一つずつ挙げさせる。先に出なくなった方が負けだ!!」 ええええええー!? 僕は頭がくらりとするのを感じた。どうやらその『勝負』とやらは完全に僕と兵太夫に丸投げされる格好になるらしい。困惑しつつ兵太夫を見て、僕はさらに気分が重くなった。 兵太夫が余裕の笑みでこっちを見ている。 「――この馬鹿に付き合ってやってくれるか、兵太夫」 「任せてください、立花先輩」 兵太夫の目に挑戦的な光が宿る。完全にこっちの味方だと思っていた兵太夫が、あっという間に最大の敵になってしまった。もう頼れる人は…いない。 「お前もしっかりやれよ、団蔵」 心なしか握りしめるように、潮江先輩が肩に手を置いてくる。僕はぎこちなく頭を縦に振るので精一杯だった。潮江先輩はよし、と呟くと兵太夫を見据えた。 「それでは早速一つ目だ。せーの!」 「火術の達人!」 「学園一忍者している…?」 自信満々の兵太夫に対して、僕は気弱な声を出した。とりあえず一つ言ってみたものの、次は何を言おうか。僕が必死になっているのも知らず、潮江先輩は声を張り上げる。 「では二つ目だ、せーの!!」 「冷静沈着!」 「だ、妥協を許さない…」 僕の脳裏には、帳簿が合うまで決して許してくれない先輩の姿が浮かんでいた。なんじゃそりゃ、と立花先輩が眉を下げるのが見える。でも今はそんなことを気にしているヒマはない。 「三つ目。せーの!」 「作戦を立てるのが上手い!」 「こ、向上心…」 「まあ、会計委員会が他の委員会に先をこされるたびに悔しがってはいるが…」 立花先輩の口許に苦笑が浮かぶ。こっちがネタ切れになりかけてるのに気づいているようだ。ええと、四つ目は、よっつめは… 「四つ目行くぞ!」 あああ待って潮江先輩!! 「せーの!!」 僕は何とか四つ目をひねり出そうと潮江先輩を見た。やばい。何故か、潮江先輩の夜中の訓練スタイル(頭に苦無を装備)が頭をよぎり始めた。 「成績も優秀!」 あああああどうしてこうなんだろう。一度頭に浮かんだ苦無装備の潮江先輩がなかなか消えない。うわ、『ぎんぎんー!!』とか言い始めた。 「…んぞう!」 どうしようどうしよう。いいところ、いいところ…ああもう、だから叫ぶのやめてよー!! 「団蔵!!」 「うわっ!!」 耳元でいきなり大声を上げられて、僕ははっと我に返った。すぐ傍に潮江先輩がいて、僕を睨んでいる。 「だーんーぞーうー」 「…どうやらネタ切れのようだな」 立花先輩がクスリと笑ってこちらを見た。横の兵太夫も、勝者の笑みを浮かべる。 「団蔵、もうダメ?僕はまだまだ言えるよ。髪が綺麗、でしょ?後輩に優しい、でしょ?化粧なしでも女装できるくらいに美人、でしょ?それから、他人を精神的に追い詰めるのが上手い、でしょ?」 「そんなに褒めても何も出んぞ、兵太夫」 そう言いながらも、立花先輩は嬉しそうに兵太夫の頭を撫でている。兵太夫も嬉しそうだ。兵太夫の挙げた『いいところ』の最後とかは実際どうなのかとかそういうところをつっこむ余地もない。 「団蔵」 しまった…ついつい兵太夫のほうに気をとられて、自分が最大の危機に陥っていることを忘れてた! 僕は慌てて潮江先輩の方を向いて、それから泣きたくなった。潮江先輩のそのときの顔…思い出すだけで震えが出る。 「後輩がどのように先輩を尊敬すればいいのか…一から叩きなおしてくれよう」 おどろおどろしいオーラを纏った潮江先輩がこちらへ近づいてくる。――ああ、こういうところ見てもやっぱり潮江先輩は鬼だな。 最早逃げること許されぬ状況に置かれた僕は、迫りくる先輩をどこかぼんやりと眺めつつ、先生に宿題を忘れたことをどう言い訳すべきか考え始めていた。 うわあ…すごく久しぶりに小説書いた気がします。 キリリク、「会計委員会vs作法委員会」とのことでしたが…これじゃ文次郎vs仙蔵じゃないか(爆) 団蔵も何だかんだいって不幸属性だと思います。今回はそんな団蔵視点で書いてみましたが、いかがだったでしょうか? 実は仙ちゃんのいいところを並べる(特に最後の一個)兵太夫が書きたかっただけとかそんなんじゃありませんよ、決して。 ●戻る |