誰もビリーをいわゆる”アイドル系”だとは思わない。ジョントラボルタのように
スレンダーで背が高く、スタイルがいいタイプがもてはやされる中、背が低く骨太で
血走った目と折れて曲がった鼻、そして一方に偏ったにやけ方をするビリーは、
場違いで正に町のチンピラだった。

それでもビリーはヒーローだ。アルバム「THE STRANGER/ストレンジャー」は400万枚売れ、
4つのシングルカットを送り出した。
次のアルバム「52nd STREET/ニューヨーク52番街」は最初の一ヶ月で200万枚売れた。
これらのアルバムを出す前の6年間もビリーはレコーディングを続けてきたのだが、
見た目にはこの2年間こそが彼に大きな成功をもたらしたように見える。
しかしビリーはそうではないと言う。
「もう何年も僕は”サクセスフル”でいるよ。
 なぜなら20歳の頃からミュージシャンとして独り立ちしているからね。
 それ位の年齢で、ミュージシャンとしてだけで自活できるなんて”ミラクル”さ。」

実際この8年間でビリーが自活できなかったのは精神病院に入院していたほんの短い期間だけだった。
「鬱状態に陥ったとき、他の人達には宗教、精神療法、精神科医などがあるけど、
 僕には精神病院だったのさ。一度どん底を経験しているからそれ以下に落ちることはないよ。
 僕は大丈夫。他の人達が僕についてどう思おうと、
 富や名声なんかに関係なくぼくはハッピーな人間さ。
 僕は今トップに向かって進んでいるが、もしトップに行けなくてもそれは
 どん底にいるという意味ではない。ただトップにいないというだけのこと。」
 

 自作自演が好きなビリーだから私(筆者)はこの話を部分的にしか信用していない。
彼は生まれつきロールプレイングが好きで、もし彼がエレベーターできちっと正装した
見知らぬ人々と一緒になったら顔を歪めながらジェスチャーたっぷりで他愛も無いことを
早口で喋りはじめるだろう。また、彼が飛行機の中でヒンズー教徒を見つけたら、
「おい、俺に10ドル貸せよ。」と先制のパンチをくらわせずにはいられないだろう。

彼が育ったのはレヴィタウンというロングアイランドのあまり人が行かないような田舎である。
そこで彼は街のチンピラだった。強盗や恐喝をするようなヤクザではなく、
二流のチンピラだった。彼は一時期ボクシングをやっていた。
それでなぜ彼の鼻が曲がっているのか説明がつく。
 彼が育った郊外の町について、
「誰もがみな平均的な、ありきたりの生活ををしていて誰一人、
 他の者を気にかけるようなことはない。
 そこでは誰もが「ゼロ」になる自己認識の危機にある。」

とビリーは語る。しかしビリーにとってそこでの生活は平均以下の辛いものだった。
彼が7歳の時まではいわゆる「中流家庭」だったが、父ハワード・ジョエルが
生まれ故郷のヨーロッパへ去ってしまった後は、母ロザリンドが秘書としての賃金で
ビリーと姉のジュディを育てた。両親の離婚は精神的衝撃とそれ以上に貧困をももたらした。


 ビリーは歴史の先生になりたかった。生徒としてもかなりのできだった。
だがその動機は妙だった。
「テレビはあったが壊れていて、修理する金がなかった。
 そうなったらどうする?僕は片っ端から本を読んだんだ。
 歴史の本をまるで小説のように読んだよ。僕のロマンティシズムはF.S.Fitzgerald,
 E.Hemingway, M.Twain, Sartre,Kafka, Hesseのような作家から
 影響をうけたものなんだ。」

 彼の内面的なものや外見的なものから、彼の曲は郊外のバラード歌手的なものと
よく思われがちだが、ビリー自身はそれを否定している。
 
「実は曲を書いている時、あるイメージや自分が持っているメッセージに向かって
 書いているのではないんだ。自分でも何をやっているかわからない。
 しいて言えば、ただ進んでいるだけ。何週間も自分はからっぽで、
 ただ歩き回って、最悪の人間で、不精ひげをのばし、たばこを吸って、
 酒を飲んで酔っ払い、全てを呪い、物を投げ、もうおしまいだと思う。
 そして、この状態から急に上手くいくようになる。僕はそれを分析もしないし、
 合理的に処理することもない、ただその通りになるだけ。
 時々ショーの後で、『あなたが言ったあのことが私にとってこれだけの意味がある
 んです』、と言われる。このことから僕は学ぶこともあるが、僕はバラード歌手のような
 曲の作り方をしているのではない。その瞬間をありのままに進んでいるだけ。」

彼はピアノレッスンを4歳で始めた。
「クラシックピアノを弾きながら育ったことでテンション&リリース(緊張と弛緩)の哲学が
 その中で身についた。ブギの為ブギなんて嫌いだ。」
 
「コンサートピアニストになるのはそんなに楽しい人生ではないように思えた。
 クラシックを弾けることは嬉しかったがそれほど楽しんではいなかった。
 ただピアノの先生がピースをくれて、僕はそのレコードを買いに行ったものさ。
 だから早くから耳は肥えていたんだ。」


 彼の即興で何でも弾く技術については必ずしも楽しいことばかりではなかった。
彼は今でも思い出す・・・
「ベートーベンのソナタをブギウギ風に弾いたら2階から
 父親が降りてきて思いっきりぶっ叩かれたんだ。
 これが唯一子供の頃に叩かれた記憶さ。」