周辺施設の御案内・2


築港赤レンガ倉庫  (建物は非公開)

 海岸通ギャラリー・CASOの北西に隣接する、「築港赤レンガ倉庫」についてのページです。

 「CASOの隣のれんがの建物はどうなってしまうのですか?」といったお問い合わせを多く受けますが、CASOおよび住友倉庫では赤レンガ倉庫の管理・運営は行っておりません。赤レンガ倉庫は1999年に住友倉庫から大阪市に移管され、現在市の管理下で再生策を検討中です。

(住友倉庫の運営による「海岸通ギャラリー・CASO」は、赤レンガ倉庫に隣接していますが赤レンガ倉庫の中に入っているわけではありません。また、赤レンガ倉庫の管理・運営は行っておりません。)



人工地盤(2003.10〜)
 
親水護岸の様子(2005.4)

 海岸通ギャラリー・CASOと赤レンガ倉庫の間にあるのは、安藤忠雄事務所設計の「親水護岸」および「人工地盤」です。
 人工地盤の下は将来駐車場となり、上の広場からは南港を含む大阪港が一望できます。
 階段状の親水護岸からはこれまで防潮堤で隔てられていた海まで降りることができる、港の新しい憩いの場となります。
 親水護岸の方は2003年秋より、人工地盤上の広場と階段は2006年春より供用を開始しています。ぜひ散歩にお越しください。


2001年3月末の人工地盤の工事の様子

2002年2月末の人工地盤の工事の様子


築港赤レンガ倉庫の概要


   倉庫業廃止間もない頃の赤レンガ倉庫(1999年)
   左が旧300倉庫、右が旧200倉庫
   (倉庫の間と両脇にかつては臨港鉄道が走っていた)
  築港赤レンガ倉庫は、大正12年(1923年)10月に住友倉庫によって建設された、大阪に残る数少ないレンガ建築です。

 北側の旧200倉庫は2階建。
  高さ13m、延床面積4,500平方メートル。
 南側の旧300倉庫は1階建。(建築時2階建)
  高さ13m、延床面積2,800平方メートル 。


 現在、赤レンガ倉庫は大阪市の管理下にあり、非公開 です。


大阪港・築港計画 (大阪港第1次修築工事)


大阪港入口の澪標(みおつくし)
 江戸時代の大坂は諸国の物資が集中する「天下の台所」であり、多くの船が全国からやってきました。諸国廻船は各藩蔵屋敷のある中之島周辺の川岸までさかのぼりましたが、それより大型の菱垣廻船・樽廻船(大坂〜江戸間)、北前船(大坂〜日本海沿岸)は川が浅いため市内まで入れず、安治川や木津川の河口に停泊しました。

 川は幾たびもの土砂すくいの作業(これによって天保山などの人工の山ができました)にもかかわらず上流からの土砂の堆積で浅くなりつづけ、大坂市内に洪水を起こしたり船の交通を妨げたりし続けました。


 明治初めの大阪開港当初、大阪の港湾機能の中心は安治川の河口から5キロさかのぼった富島・川口地区(今の西区川口2〜4丁目。中央卸売市場の対岸あたり)にありました。
 川口地区には外国人居留地や関税施設、波止場、歩道や並木道などが作られ多くの外国商人・宗教関係者などが居住しましたが、川幅が狭いうえ川底が浅く、大型船は入港できませんでした。
  明治初期の川口居留地
  (8番地、現在の住友倉庫本社・川口倉庫)
  大正時代の大阪、川口・富島地区
  (手前の客船が泊っている側)のカラー絵葉書
  対岸のレンガ倉庫は住友倉庫
  (現在では中央卸売市場が建っている)

 1000トン級の大型船は安治川河口の天保山周辺に碇を下ろして停泊し、はしけ舟で貨物を市内に運んでいましたが、海上での作業は大変な上、冬の間は強い西風が吹いて小船が転覆するなど海難事故が続きました。
 このような状態を嫌い、次第に外国航路の大型船が神戸や横浜へ素通りして大阪に入港しなくなり、居留地の外国人も、学校や教会関係者を除いて神戸に移ってゆきました。

  大正〜昭和のはしけ荷役   大正初期の安治川の荷役
  (左側が富島、右側の煉瓦倉庫が住友倉庫
  奥へ向かうと海に出る)


 大阪にきちんとした港が必要だとの声は市民にも国にも強く、イギリスやオランダの技術者らが招かれて、何度も河川のつけかえ・改修と安治川河口・天保山地区への新港建設のプランが作られましたが、政府や市の財政難が実現を阻みつづけました。

 明治18年(1885)の大洪水では、市内の衛生状態が悪化し港の土砂もますます増えてしまいました。河川改修、新港建設の声が高まったため、大阪市はオランダ人技師デ・レーケのプランと調査で、気象や海底の地質に基づく、将来的に日本の経済力や船の大型化に合わせて拡大可能な築港案を設計しました。
 こうして明治30年(1897)、大阪市は外国貿易に対応できる近代港湾を建設する目的で、安治川河口の天保山周辺で築港事業(大阪港第1次修築工事)を開始しました。
 明治36年(1903)には大阪市街から天保山までの市電大桟橋(現在の中央突堤)が完成します。


明治30年(1897)10月17日、
大阪港修築第一期工事起工

明治36年(1903)7月1日、築港大桟橋完成
(全長455m、幅27m、水深8.5m)

大阪港築港の図(大正末期、住友桟橋竣工当時のもの)


 しかし、市の財政事情や軟弱地盤による難工事により、大型船をつける岸壁、倉庫などの陸上施設、鉄道・道路など陸上運送の基盤の整備が進まず、築港の利用も残念ながら低迷しました。せっかく完成した大桟橋も大型船の利用がほとんどないまま、魚釣り客や納涼客でにぎわうありさまでした。
 日露戦争後の不況、市の財政の悪化もあり、築港事業は大正5年(1916年)に中止となります。

   
   大正時代の住友倉庫 築港北海岸通(現在の天保山ハーバービレッジ付近)の倉庫群

 ところがその頃から第一次大戦による空前の景気により輸出入貨物の築港利用が増大し、築港一帯は多数の倉庫や工場、それらの労働者の住宅が立ち並び非常な賑わいを見せるようになり、はしけによる荷役に代わり大量の荷物を捌く埠頭・倉庫の需要が高まりました。
 築港事業中止後まもなく、民間業者が市に代わって岸壁を工事し、そのかわり完成後の埠頭の優先使用権を得ようという出願が相次ぎました。こうして赤レンガ倉庫やCASOのある「住友岸壁」を含む岸壁・突堤が民間の力を借りて整備され、築港地区は再生します。昭和4年(1929年)に、「大阪港第1次修築工事」がようやく完成しました。


 住友岸壁は、住友家が大阪港建設中止の窮状に鑑み、大阪市に代替施工を申し出て大正15年(1926)に完成させた450mの岸壁でした。今で言う民活導入のはしりとも言うべき施設であり、船をつなぐ岸壁、荷役・保存・陸送の拠点になる上屋や倉庫をそなえ、海陸一貫作業ができる貨物ターミナルです。第1線〜3線からなる上屋・倉庫群は住友倉庫が整備しましたが、赤レンガ倉庫はその第1号施設です。


 大正12年竣工当時の赤レンガ倉庫を岸壁側から見た写真
 後の地盤沈下に伴う土盛り工事により、倉庫は現在約2m地中に埋もれている
住友岸壁(今CASOのあるあたり)
 いま現在CASOが建つ場所の写真
 住友岸壁東接の物揚場と背後倉庫から成っていた


  住友岸壁(南岸ターミナル)全体計画図

  工事中の住友岸壁

  住友岸壁に第1船が入港

  住友岸壁に3隻が同時接岸


赤レンガ倉庫の全盛期

 赤レンガ旧200倉庫と旧300倉庫の間には、昭和3年(1928年)に開通した臨港鉄道の側線が通り国内各地からの貨物列車が走りました。一方住友岸壁は国内や大陸へ行く貨客船への貨物の揚げ下ろしで大いににぎわいました。
 赤レンガ倉庫のある築港一帯は、日本最大の商工業都市となった大阪市の表玄関として、人や貨物が行き交う海陸交通の結節点となったのです。


  大型船が入港する住友岸壁
  (昭和40年代撮影。町並みをのぞく、岸壁や住友倉庫の様子は戦前とほぼ同じ)
  手前の岸壁に面した灰色の大きな2階建倉庫が、現在改装されてCASOに
  なっている
  その上方に見えるのが赤レンガ倉庫

  活況を呈する住友岸壁

  臨港鉄道の様子
 
  臨港鉄道による荷役


戦災と水害を超えて

 太平洋戦争当時、大阪港の倉庫群は兵員・軍需物資の輸送や国内統制品の配給の拠点となりましたが、戦況の悪化と通商破壊戦で物流は途絶してゆきました。さらに大阪の港湾・工業地区は連合軍の重要な攻撃目標となり、何度も激しい空爆にさらされました。
 特に昭和20年(1945年)6月1日の大空襲では築港を含む大阪市西部一帯は見渡す限りの焼け野原となり、赤レンガ旧300号倉庫の屋根も一部炎上する被害を受けました。戦前21万人を超えた港区の人口は、疎開と空襲で終戦直後には僅か1万人になりました。
 

 空襲を受ける大阪港
 (上が南、下が北。左上端が住友岸壁のあたり)

 大阪港 築港・北岸地区(現在の天保山ハーバービレッジ付近)
 の空襲被災(左奥が住友岸壁、大きな建物が7号倉庫)

 輸送船として徴用された日本の商船隊は
 全滅に近い打撃を受けた

 昭和天皇、住友岸壁の築港7号倉庫屋上から
 焼け野原の大阪市内を視察(昭和22年(1947)6月6日)


 敗戦後は焼け跡整理の後、ようやく港湾機能の再建にかかりましたが、その矢先に高潮と風水害が襲いかかりました。

 昭和20年(1945年)9月の枕崎台風、昭和25年(1950年)9月のジェーン台風などの襲来で、大阪港をはじめとする大阪市西部の臨海地域は激しい高潮に襲われて深さ2〜3mほども浸水し、港湾も市街・人命も大きな損害を受けました。


 ジェーン台風(昭和25年(1950)9月3日)により、
 住友岸壁は高潮による浸水被害を受けた

 参考:室戸台風(昭和9年(1934)9月21日)により
 築港の大桟橋に打ち上げられた汽船

 大阪市内では大正・昭和初期から工業用水となる地下水のくみ上げ過ぎによる地盤の沈下が進行し、台風による高潮被害を受けやすくなっていました。
 そのため市は港区をはじめ臨海地域一帯の地盤嵩上げ事業を昭和40年代までかけて実施しました。
 港区・大正区の川は大きく拡幅され内港化し、出た土砂で港区などの港湾・市街地は全面的に盛り土でかさ上げされ、区画整理されました。


 住友倉庫・大阪港支店(住友岸壁)の
 構内の盛り土工事

 住友倉庫・大阪港支店(住友岸壁)構内の
 臨港鉄道側線の沈下状況

 赤レンガ倉庫も、一帯の盛り土工事により地面からの高さが約2m低くなり、南側倉庫では2階部分を撤去しました。
 今でも赤レンガ倉庫の下には人間の背の高さ程の赤レンガの壁と、盛り土前の舗装や線路敷が埋まっているはずです。


赤レンガ倉庫の現在

 赤レンガ倉庫は戦後も現役の倉庫として、輸入貨物の保管等に使われ、戦後復興と高度成長を支えてきました。

 しかし港湾物流は昭和40年代から世界的に海上コンテナを使って荷役のスピードアップと効率化を図るようになり、在来船を中心とする築港地区は流れに対応しきれず物流拠点としての地位を南港のコンテナ埠頭に譲ることになります。


 住友岸壁での在来船荷役(綿花)

 神戸港でのコンテナ荷役(昭和43年(1968))

 倉庫に求められる役割も、在庫を作らないジャスト・イン・タイム方式の生産・販売にあわせた配送センター化など高機能化し、老朽化した築港地区の倉庫は次第に、南港や郊外のインターチェンジに建設される大規模倉庫・配送センターにその地位を譲りました。
 赤レンガ倉庫の機能も南港などの新鋭倉庫に移されてゆきました。



  天保山ハーバービレッジ



 ウォーターフロント開発がブームになった1980年代半ばから、機能低下した築港地区の岸壁の再開発が進められるようになりました。
 築港北側の天保山一帯は倉庫群が撤去され、海遊館をはじめとする複合施設に生まれ変わり面目を一新しました。
 築港南側の南岸地区(住友岸壁)も、赤レンガ倉庫を中心に周辺を国際的な芸術・文化の交流拠点とする構想があります。

 赤レンガ倉庫は平成11年(1999年)に倉庫としての役目を終え、現在大阪市が管理し再生を期しています。なおCASOは、大阪市の計画に先行して、赤レンガ倉庫に隣接する鉄骨造倉庫(昭和43年・1968年竣工)の一部を再生利用して住友倉庫が建設したギャラリーです。

 築港赤レンガ倉庫は、20世紀に物流の結節点であったように、21世紀には国際的な芸術活動の結節点として再生することでしょう。




展覧会&ワークショップ「アートと建築 築港赤レンガ倉庫−過去、現在、未来」
第1回は2000年12月に開催第2回は2001年3月。

参考文献:
「住友倉庫百年史」平成12年、株式会社住友倉庫
「大阪築港100年」平成9〜11年、大阪市港湾局
参考リンク:
大阪観光案内」内の「大阪の文明開化の歴史を歩く 川口・九条界隈
港の風景 大阪臨港線に沿って
れきしさんぽ「港区の戦争の跡」
大阪市ゆとりとみどり振興局
大阪市アーツアポリア事業
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