「美術のボケ」

Bijutsu No Boke

浅野幸生、岡本光博、小川しゅん一、
木内貴志、現代美術二等兵、shimoken、山本太郎
キュレーター:桑原暢子


ASANO Yukio, OKAMOTO Mitsuhiro, OGAWA Shun-ichi,
KIUCHI Takashi, Gendaibijutsu NITOUHEY, shimoken,
YAMAMOTO Taro
Curated by KUWAHARA Yoko







浅野幸生 ASANO Yukio
岡本光博 OKAMOTO Mitsuhiro
小川しゅん一 OGAWA Shun-ichi
木内貴志 KIUCHI Takashi
現代美術二等兵 Gendaibijyutsu NITOUHEY
shimoken
山本太郎 YAMAMOTO Taro

キュレーター:桑原暢子 KUWAHARA Yoko



会場 海岸通ギャラリーCASO 展示スペース A室

日程 (年月日) 2007年10月2日(火)〜10月28日(日)
          休館日 なし
          時間  11:00〜19:00(最終日のみ〜17:00)

協賛:株式会社住友倉庫、朝日新聞文化財団、IDea/アサヒ精版印刷株式会社

展覧会代表 岡本光博 おかもとみつひろ

浅野幸生 ASANO Yukio

「Island」

「a much too sunshiny day」
岡本光博 OKAMOTO Mitsuhiro

「BATTA mons」

「w#102 ドザえもん」
小川しゅん一 OGAWA Shun-ichi

「小川たいつプロジェクト」

「小川たいつプロジェクト」

「小川たいつプロジェクト」
木内貴志 KIUCHI Takashi

 「1パターンの絵画」

 「絶対反対」
現代美術二等兵 Gendaibijyutsu NITOUHEY

「ワニが死んだときに迎えにくるやつ」


「ヤングマン」

「ジャミロな くわい」
shimoken

  「mari(u)nette 4f」

  「militant bathhouse~fuji629」

  「militant bathhouse~can't ride」
山本太郎 YAMAMOTO Taro
  「風神ライディーン図屏風」
  「白翁群鶏図」 2003年制作 166×366cm 紙本金地着色
  「仏延命図」 2004年制作 108×181cm 絹本着色



「美術のボケ」展覧会概要 (桑原暢子)  


 - 漫才における「ボケ」と「ツッコミ」の定義
   ボケ:常識からの逸脱
   ツッコミ:ボケを秩序を持って統制する
    (太田省一『社会は笑う ボケとツッコミの人間関係』青弓社)


モダニズム以降、美術とは深く考えるものであるという常識が出来上がっています。
その為、現代美術は難解で小難しく堅苦しい等のイメージが付きまといます。しかし全ての作品に「何かしら深いもの(哲学的思想、個人の精神世界、社会を反映しているもの等)」が表現されているわけではありません。実際には日常の些細な出来事やダジャレを用いて制作された作品も数多く存在しているのです。それらの作品は一目見ただけ、もしくは少し頭をひねれば理解できます。また作品の完成度として子供の工作適度であったり、または誰にでも作ろうと思えば作ることができるようなものであったりもします。それらの作品を漫才の手法であるボケの定義「常識からの逸脱」という視点から鑑賞することによって、作品内に潜むおかしみや笑いを見つけ、楽しむことができるのではないかと考えています。今展覧会ではダジャレや言葉遊び、笑いを含むおかしみを主役にしている作品を展示します。

ところでこのようなダジャレを主軸においた作品、つまり「内容的に浅いもの」や「誰にでも作ろうと思えば作ることができるもの」を作品として目にした時に私たちは、「なぜこれが美術作品なのか?」という疑問を抱くのではないでしょうか?ではなぜ「なぜこれが美術作品なのか?」と問うのでしょうか?
そこにはモダニズム以降の作品に見られる「知的な美術」という美術における常識があるからなのです。デュシャンが既製品を作品に使用して以来、視覚に訴える絵画や彫刻ではなく作品に内在する問題提示そのものが重要視されるようになりました。目に見えるものを通じて目に見えないものや問題を表出しているものが美術を支配したと言っても過言ではないでしょう。ポップアート、ミニマルアート、そしてコンセプチュアルアートとその傾向は時代を追うごとに強まっていったのでした。そしてコンセプチュアルアートで物質を否定し、モダニズムで重要であった他の要素を排除した美術作品における純化を遂行したことによって全てをやり尽くしてしまった感が否めない状況下に陥ってしまうのです。80年代以降の美術作品はその状況下でも尚、新しいものを制作することが求められたのです。そんな中ネオエクスプレショニズムやシミュレーショニズムが登場してきます。それらの作品もまた視覚的に楽しむことができるものであったとしてもやはり知的な解釈が必要なものでした。その傾向は現在にも続いており、モダニズム以降継続しているWhat’s new?は未だに存在しているのです。

そこで重要なのが、先ほど述べた作品に求められるWhat’s new?つまり新しさや新鮮さとはどのようにして表現されてきたのかということです。「常識からの逸脱」、漫才におけるボケの定義と同様のやり方によってそれは提示されてきたと考えられます。つまり新しさの表現とはその時代の常識から逸脱することによって表現されているということが指摘できるのです。しかしそのことを理解するにはその時代においての美術の常識を知っている必要があります。美術の常識を理解する、つまり美術という文脈を熟知している必要があるのです。今展覧会での作品にはそのような美術の世界の「常識からの逸脱」ではなく日常の「常識からの逸脱」を主軸においているので誰にでも作品のコンセプトと理解することができるものを展示します。しかしただ単に日常の常識からの逸脱を図った作品群というだけではありません。それらの作品もやはり美術の常識からも逸脱しているのです。一般常識からの逸脱を図ることによって「内容的に浅いもの」を制作し、「何かしら深い物を表現している」という美術の常識からも逸脱しているということです。

ところでここで言う「内容的に浅いもの」とはということですが大きく3つに分類しています。
1、 しょーもないこと
2、 口に出すまでもないような些細なこと
3、 バカバカしいこと
これらの項目は日常的な事柄と結びついており、それはつまり漫才のネタと同様のものなのです。では漫才ほど笑えないのはなぜかと考えた時に、もともと笑いとはどのような状況において引き起こされるのかという問題に辿り着くのです。それは桂枝雀の「緊緩の法則」(桂枝雀著『落語de枝雀』1993年 ちくま文庫 p51)が深く関係しています。「緊緩の法則」とはつまり、笑いとは緊張の緩和によって起こるものであるという桂枝雀が落語の笑いについて説いた法則です。そこで漫才の笑いにもどって「緊緩の法則」を元に考察しますと、緊張の緩和は漫才においてボケとツッコミによって行われていることわかります。
 ではもし今展覧会のボケ作品が笑えるのだとしたら、それらの「ボケとツッコミ」とは一体どの部分なのでしょうか。そこには明示的なツッコミはありません。あるのは変な部分を発見する視線「観察的ツッコミ」(太田省一著『社会は笑う ボケとツッコミの人間関係』2002年 青弓社 p59)なのです。そしてその「観察的ツッコミ」とは漫才のような明示的なツッコミではなく、むしろツッコミ自体の身体性が非常に希薄なものなのです。もともと観察的ツッコミの誕生とはツッコミの省略が進んだ結果として生まれたものです。ツッコミの省略は80年代以降のマンザイブームによって引き起こされたものであると太田省一著『社会は笑う ボケとツッコミの人間関係』(2002年 青弓社 p55)で指摘がなされております。そのような「観察的ツッコミ」こそがボケ作品には必要なのです。しかしそれは作品内に含まれているのではありません。作品における「観察的ツッコミ」は観客側に委ねられているのです。漫才と比較すると、漫才のボケとツッコミは舞台上の二人の人間がそれぞれの役割で演じています。そして観客は彼らの漫才を受け取るのみです。そこでのツッコミの必要性とはボケがシュールすぎてわかりにくいものを説明するというもの、話の進行役として、そして話を終わらせるためのものとして存在しています。しかしボケ作品に見られるボケは漫才のようにわかりにくいものではなく、見てすぐにわかるようなものを提示しているのです。そしてその変を観客が見つけること、それに対して違和感を感じるということが「観察的ツッコミ」なのです。ボケ作品にとっては観客の積極的な関与が必要なのです。

このように「見て笑う」というのは難しいことなのかも知れません。しかし、漫才のような話芸におけるボケの在り方と、今展覧会のボケ作品のような視覚的要素だけで笑わせるボケの基本的な在り方は同様に「常識からの逸脱」によって行われているのです。ボケの質は同一なのですが、美術においての笑いとは漫才と比べるとボケに対して入るツッコミの種類、またツッコミが入るまでの時間的な差異があるため大きな笑いにはならないのです。

 大きな笑いにはならないかもしれませんが、今展覧会の作品は漫才と同様の笑いの要素を含んだものであることは確かです。これらの美術作品は「内容的に浅いもの」を提示しているため、「あほちゃうか」と足蹴にされてしまうかも知れません。しかし「しょーもないこと」「バカバカしいこと」を主題にしているからといって論及するに及ばないわけではありません。「何かについて深く考えるもの」としての美術作品がある中に「内容的に浅いもの」を提示することによって美術の常識からの逸脱が行われ、作品に含まれる「浅さ」が鮮やかに描き出されるのです。「笑える」「面白かった」という楽しみ方も可能であり、また「なぜ〜?」と問いを繰り返した時に浮かび上がるもう一つの作品の意味、そしてまた展覧会全体を通して「なぜこれが美術なの?」「なぜ「なぜこれが美術なのか?」と問うのか?」と問い続けることによって見え隠れする「美術とは一体何なのか?」という問題を提示することができればと考えています。



展示風景

浅野幸生 ASANO Yukio
岡本光博 OKAMOTO Mitsuhiro
(奥) 山本太郎
(手前) 岡本光博
小川しゅん一 OGAWA Shun-ichi
木内貴志 KIUCHI Takashi
現代美術二等兵 Gendaibijyutsu NITOUHEY
shimoken
山本太郎 YAMAMOTO Taro