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わだかまりのない、人生の達人とは

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錯信帯(自己実現の妨げとなるような思い込みや感じ方)を持っていない人というのは、普通の人とはどこか違っている。一見したところでは普通の人と変わらないのであるが、普通の人にはない独特なものを持っているのだ。

それは人種の違い、あるいは経済的、性的な違いとは関係ない。その違いは、普通われわれが人を分類するときに伝統的に使ってきた外面的な要因によって識別することができないようなものである。

彼らは金持ちであることもあるし、貧乏人であることもある。男性である場合もあるし、女性である場合もある。黒人である場合もあるし、白人である場合もある。特定の地域ではなく、あらゆるところに住んでいるし、特定の仕事についているわけではない。要するにさまざまな人間であるわけだが、たった一つ、錯信帯を持っていないという共通の特徴がある。では具体的にどういう人であろうか。

まず第一に明らかなことは、こういう人は人生のどんなことも好きだということである。何をやるのも楽しくやり、不平をこぼしたり非現実的なことばかり願って時間を浪費するということがない。人生に対してきわめて積極的かつ貪欲である。ピクニック、映画、スポーツ、コンサート、何でも好きである。都会も農場も山も、それに動物も好きである。人生すべてが好きなのだ。

こういう人のそばにいると、彼らは決して不平を言ったり、ため息をついたりしないことに気づくだろう。雨が降れば雨が好きだし、暑ければ暑いのもいいと思う。決して不平不満を言うことはない。交通渋滞に巻き込まれようが、パーティーに出席していようが、あるいは独りぼっちでいようが、ありのままの現実とうまくやっていこうとする。

楽しくないのに楽しいふりをしているのではない。現実をそのまま賢く受け入れるのであり、現実を楽しむ特異な能力を持っているのである。彼らに嫌いなものは何かと聞いてみるがいい。なんとこたえたらいいのか困りはててしまうことだろう。

雨が降ってきたといってすぐに家の中に飛び込んでしまうような感覚の持ち主ではないのだ。彼らには、雨は美しくスリリングなものであり、おもしろい体験をさせてくれるものだからである。要するに雨が好きなのだ。道にぬかるみがあっても、彼らは腹を立てない。ぬかるみを観察し、その中にザブザブと入っていく。ぬかるみも、自分の人生の一部として受け入れるのだ。猫も熊もミミズでさえも好きなのだ。

彼らとて病気や旱魃(かんばつ)、洪水といったいやなものは歓迎しないけれども、それらについて泣き言を言ったり、こんなものはなければいいのにとブツブツ言いながら現在という時をむだに費やすことはしない。

現在置かれている状況を改める必要がある場合には、そうなるように努力する。しかも、その仕事を楽しみながらやる。実際彼らは、こころゆくまで人生を楽しんでおり、可能なかぎり人生からあらゆるものを得てやろうとしているのである。




彼らは不平をこぼすことなく、ありのままの自分を受け入れる。自分が人間であり、人間である以上、それぞれなにがしかの特質を持った存在であることを知っているからである。自分がどのように見えるかを知っており、それをそのまま受け入れる。背が高いことは結構だが低いのもまた結構なのだ。頭がはげているのもいいし、毛がふさふさしているのもいい。

どちらであれ、額に汗して懸命に人生を生きることができるからだ。肉体的欠陥をごまかそうとはしないで、そのまま受け入れる。だから彼らはもっとも自然な人間なのだ。ありのままの自分を技巧を弄して隠そうとしたり、あやまるようなことは断固としてしない。人間らしいことに腹を立てるのは筋が通らないと思っている。

自分が好きだから、ありのままの自分を受け入れる。同様に世の中の物事もそのまま受け入れる。現在とは違うふうであってほしいなどとは思わない。暑さや雨など自分の意志で変えようもないことについて愚痴をこぼさない。自分と世の中をありのままに受け入れて、ごまかしたり、不平を言ったりしない。こういう人たちのそばに何年一緒にいても、彼らが自分を非難したり、はかない願いごとをするのを決して耳にすることはないだろう。黙々と自分の思うところを実行する姿を見るだけだ。子供が自分の世界をそのまま受け入れ、そのすばらしさを満喫するように、彼らがありのままに世の中を見つめていることがわかるだろう。




心にわだかまりがなく人生を楽しめる人はすこぶる好奇心が旺盛である。飽くことのない好奇心のかたまり。毎日毎日新しい、より多くの知識を求め、成功しようが失敗しようが、構わず何事にも挑戦してみる。

うまくいかなかったり、多くの成果をあげられなかったら、そのときは後悔してくよくよせず、いさぎよく諦めてしまう。彼らは学び続けるという意味では真理の探究者であり、いつもわくわくしながら新しい知識に挑戦する。もうこれだけ身につけば十分だとは決して思わない。

床屋へ行けば、髪の刈り方を知りたくなる。自分が人より優れているとは決して思わないので、他人の賞賛を得ようと知識をひけらかすことは決してない。子供や株の仲買人や動物たちからも学ぼうとする。溶接工やコックたちの技術を知りたいと思う。

彼らはいつも生徒であって先生ではない。いくら学んでも学び足りないので、知識をひけらかしていばったりはしない。そんなことはしたいとも思わないのだ。どんな人物、どんなものごと、どんなできごとも、もっと知識を吸収するよい機会を与えてくれるのだと思っている。

また自分に興味のあることを貪欲に追求する。知りたいことを教えられるまで待つのではなく、こちらから追求していく。ウェイトレスにも遠慮なく話しかけるし、歯医者に向かって、一日中他人の口に手をつっこんでどんな気持ちですかと、ものおじせずに質問する。詩人にはこのフレーズはどういう意味かと率直に尋ねる。

彼らは失敗を恐れない。実際、失敗を歓迎することすらよくある。仕事でりっぱな業績を残すことと、人間的に立派であることは別のことであると考えている。自分の価値は自分の内部にあると思っているので、外部のできごとはそれが有効で有益なものであるか否かという基準だけで客観的に判断することができる。

失敗というのは他人の一つの批評にすぎないことを、また、失敗してもそれは自己の価値を損なうものではないから恐れる必要がないのだということを知っている。楽しいから何にでもトライするし、参加する。事を恐れずはっきりしたものの言い方をする。

同じく、他人やものごとに腹を立てて頭がはたらかなくなるようなことをしない。自分についてもそうであるが、他人の行為やものごとに対してもかくあるべきだなどと勝手に考えない(こういう考え方は、すでに一つの生き方になっているので、そのたびごとにいちいち考えなくてもよいのだ)。

ありのままの他人を受け入れ、ある事柄が気にくわなければ、自分で気に入るように努力して変える。他に対して期待するところがないから、裏切られたといって腹を立てることもないわけだ。自分で自分を駄目にしてしまうような感情を取り除くことができ、自分を向上させるような感情を昂揚させることができるのである。




充実した人生を送っている健康な人は、過ぎてしまったことをくよくよ考えて、現在をむだにしているという後ろめたさも感じないし、悩むこともない。もちろん、彼らもまちがいを犯し、それを認め二度とくりかえすまいとするが、いたずらにくよくよ悩んで時間を浪費することはない。前に自分がやったことが気に入らないからといって、自暴自棄になり、現在という時を無為に過ごしてしまうことはない。

自分の心の中に後ろめたい気持ちがまったくないということは、健全な人間であるまぎれもない証拠の一つである。過ぎたことを嘆くことはしないし、また他人に向かって、「どうしてもっと違うふうにやらなかったの」とか「あんなことをしてよく平気だな」などと言って、その人に後ろめたい気持ちを抱かせるようなこともしない。

「これまでの人生はこれまでの人生だ。くよくよしたところで過ぎ去った人生を変えられるわけではない」ということが腹の底からわかっているのだ。

彼らが後ろめたさを感じないのは意識して努力した結果ではない。それが自然なのだ。だから、他人にも後ろめたさを感じさせない。現在をつまらないと思ったところで自分がみじめになるだけだし、過去から学ぶほうが、過去をとがめるよりもはるかに優れた行為であることを知っている。

彼らは、自分がいかに気分を害しているかということを相手に訴えて、そのことによってその人を思いどおりに操ろうなどとはしないし、同じ手口で彼らを操ろうとしてもむだということがわかるのであろう。

彼らは決して腹を立てない。ただ、無視するだけだ。腹を立てるよりは立ち去ってしまうか、あるいは話題を変えようとするだろう。普通の人にはうまく功を奏する戦術も彼らには通用しない。後ろめたさでみじめな思いをしたり、あるいは他人にそうした思いをさせるよりは、うまくやれるときにやればいいさと気楽に構えている。




同じように、心にわだかまりのない人はとりこし苦労をするということがない。彼らとて、いついかなるときも冷静でいられるわけではないが、自分から進んで将来のことについて苦悩しつつ現在という時を過ごすことはしない。

彼らの心は常に現在にむけられている。すべての気苦労は現在に対してなされるべきであること、現在の生活を後まわしにして避けるというのは愚かなやり方であるということを、常に思い出させるシグナルのような心のはたらきが彼らにはあるのだ。

こういう人たちは、過去や未来ではなく現在を懸命に生きる。未知のことにおびえたりせず、新しい未知の経験を自分から求めていく。曖昧模糊としたものを探求していくのが好きだからだ。

彼らは常に現在という時を味わうようにしている。自分にできるのはこれだけだということを知っているのだ。未来の予定を立て、その予定が現実になるときまで何もしないでぼんやり待つなどということをしない。一瞬一瞬が同じように生きがいのある人生なのである。

彼らは、毎日毎日を最大限に楽しく充実した生活をする不思議な能力を持っている。まさかのときに備えつつ、事を先に延ばすようなことはしない。世間の常識が自分の行き方を認めないからといって、自分を責めたりしない。現在を精いっぱい幸福に生きようとする。そして、未来が現在となればその現在を同じように精いっぱい楽しく生きる。

彼らは、楽しいことを待つ愚かさを知っているがゆえに、常に現在を楽しく暮らそうとするのだ。まったく自然な生き方で、子供や動物の生き方とたいへん似ていると言える。たいていの人は、棚からぼたもち式の生き方で何も得ることなく過ごしているが、彼らは現在の時を充実させるのに忙しいのである。




こうした、心が健康な人々の著しい特徴は、自立心が強いということである。家族の人間に対して強く深い愛情を持っているが、あらゆる人間関係において、依存よりも自立のほうが大切であると思っている。

自分自身の自由を大切にし、他人に期待されたりすることによって自分を縛らないようにする。彼らの人間関係は、判断をくだす個人の権利を互いに尊重しあうことから成り立っている。彼らの愛情は相手に価値観を押し付けることがない。

彼らはプライバシーを何よりも大切にする。たとえ他人の反感を買おうともである。彼らはときどき一人になりたがる。プライバシーを守るためにさまざまな工夫をする。そして、八方美人になるようなことはしない。自分が愛する人間は慎重に選ぶ。そして、その愛情は深くこまやかなものである。

自立していない不健全な人間は、彼らのことをなかなか好きになれないかもしれない。というのも、彼らは自分の自由のことになると頑として意思を貫くからである。誰かが彼らに助けを求めても、助けることが自分自身にもその当の人物にも害になるといって拒絶する。彼らが求める人物というのは、自分から進んで人を頼らないようにしている人間であり、自分の意志でものごとを決定し、自分の力で自分の人生を生きているような人間である。

彼らは人とつき合うのが好きだし、一緒にいたいと思うのだが、自分を支えとして寄りかかってこなければもっといいと思う。だから、こういう人を頼りにし始めると、たちどころに無視され、その場を立ち去られてしまう。彼らは、頼られることも頼ることも拒否する。子供に対してはやさしくふるまうけれども、絶えず大きな愛情を持って、子供たちが自立していくように仕向ける。




こうした幸福で充実した人生を送っている人というのは、普通の人たちと違って、他人に自分の行動をいちいち認めてもらおうとしない。他人に認められたり、称賛されなくても一切気にかけず自由に行動できる。

一般の人が求めるように、名誉など求めない。他人の意見に振り回されることがないし、他人が自分の言動を気に入ろうと入るまいとほとんど気にしない。他人を感動させてやろうとか、他人の目にとまるような行動をしてやろうなどという気が一切ない。心が自分の内側に向いているので、自分の行動に関する他人の評価には関心がないのである。

評価や称賛には淡白である。彼らにはそんなものは必要ないように思える。自分の正直な気持ちが相手に伝わろうが伝わるまいが平気でいられる。自分の言いたいことを、相手の気に入るようにと言葉で伝えることはしないからである。しゃべっていることが彼らの考えていることそのものなのである。

逆に、人に何を言われようと、それをくよくよ気にかけて、何も手につかなくなるということがない。ひとから何かを言われれば、それを自分自身の価値観のふるいにかけ、自分の成長のために生かそうとする。すべての人間に好かれる必要があるとは思っていないし、自分のなすことがすべて他人に認められたいという願望も持っていない。自分が常に一部の人間たちから不評を買うであろうことも承知している。他人ではなく、自分自身が命ずるままに行動できるという点で彼らは普通の人とは異なっているのだ。




充実した人生を送っている人たちのもう一つの特質はその正直さである。責任逃れをしたり、体裁を繕ったり、嘘をついたりしない。

嘘をつくことは自分自身が直面している現実を歪曲してしまうことだと思っている。だから、そういう自己欺瞞的なことはやらない。嘘をつくことによって、他人を守れるような場合も嘘をつかないようにする。自分のことは自分で責任を持つべきだと思っているから、他人もそうあるべきだと考えるのだ。だから、他人から見ると彼の行動は冷たいように見えることがしばしばある。だが、彼らはただ、他人も自分のことは自分ではんだんしてやればそれでいいと思っているだけなのだ。こうであったらならばいいのに、という願望ではなく、ありのままの現実をうまく処理することを考えているからである。

こういう人は他人を責めない。彼らは自分の人格に関しては常に心の内に目を向ける。今の自分がこうなったのはあいつのせいだ、などというふうには考えない。同様に、他人があれをやらなかったとか、こんなことをやったとか言って、他人のことをとやかく言って時間をつぶすようなことはしない。

他人のことをあれこれ言うのではなく、他人とともに語り合う。責任を他人に押し付けるのではなく、他人とともに責任を分かち合おうとする。他人の噂話をしたり、陰口をたたいたりしない。自分の人生を充実させるのに忙しいので、他人のつまらない行為につき合っている暇はないのだ。彼らは行為者であって、他人を責める批評家でもないし、不満家でもない。




こうした性格の人たちを観察してみればわかることだが、彼らは周囲の価値観に自分を合わせるということをしない。

と言って、彼らが反抗的な人間なのではない。たとえ他人と衝突することになろうとも、自分の意志は自分で決定していく人間なのだということだ。道理にかなっていなければ、些細な規則は無視してしまえるし、伝統的なしきたりで人生に重要な意味を持つものであっても、それが自分にとってつまらないものであれば、静かに肩をすくめて拒絶してみせる。礼儀であるというだけで、カクテルパーティーに出席したり、つまらない世間話などしたりしない。自分というものをしっかり持った人間だということだ。

社会は自分の人生において重要なものであると思ってはいるが、社会に振り回されたり、奴隷のように服従させられるのは拒む。社会を反抗的になって攻撃するようなことはしないが、社会を無視して行動すべき時を確実に心得ているのだ。

彼らは、決まりとか組織、制度といったものにほとんど関心がない。自分を律する行動の規範は持っているけれども、他人やものごとをそれに合わせたいという欲求は持っていない。他人はこうあるべきだ、というような考えは持っていない。誰もが自分の意志で選択して行動すればよいと思っている。他人の判断に従って行動するから、つまらないことで頭がおかしくなってしまうのだ。

彼らは、世の中はかくあるべきだというふうに固定的に考えない。ものごとに対して、清潔でなければならにとか、整然としていなければならないとかというふうに、先入観を持って見ない。自分が活動しやすいのが一番いいと思っている。組織も彼らにとっては目的を達成するための役に立つ手段にすぎない。組織に神経質に縛られることがないからこそ、独創的な活動ができるのである。

どんな問題であれ、自分なりのやり方で処理する。それが一杯のスープをつくることであれ、報告書を書くことであれ、草刈をすることであれ・・・・・・。彼らは自分の想像力を行動に生かす。だからあらゆることに独創的なアプローチができるのである。一定のやり方でものごとをやらねばならないと思っていない。手引き書を見たり、専門家に意見を求めたりしない。自分で一番いいと思ったやり方で問題に取り組む。この独創的なやり方を、彼らは例外なく持っている。




充実した人生を送っている人は、人の行動に対する洞察力を持っている。だから、他人には何が何だかわからないような複雑な事柄でも、はっきりと明快に見通すことができる。問題を解決するのに、感情を持ち込まないのである。

彼らにとって問題というのは、乗り越えるべき一つの障害物に過ぎないのであって、自分の個人的な感情を反映させるべきものではないのである。自分にとって大切なものは心の内にある。

だから、外的な事柄は、心の外のできごとなのであるから客観的に見ることができ、心の内の大切なものを脅かすものとは考えないのである。

普通の人には、彼らのこの考え方がなかなか理解できない。大部分の人は、外的なできごとや思想や人間に容易に脅かされてしまうからである。しかし、自立している健全な人というのは、外的なものに脅かされるということがない。そうでない人には、彼らのまさにそういうところが脅威なのかもしれないが。




人生を楽しめる人は、いかに笑うべきか、いかにして笑いを作り出すかを知っている。どんな状況の中にもユーモアを見出し、まじめくさったものも不合理なものも笑いとばす。他人を笑わせるのが好きで、また笑わせるのがうまい。生まじめに深刻な顔をして重々しい態度で人生を生きる人間ではないのだ。

場違いなときに浅薄なことをするといってよく顰蹙を買うけれども、彼らにとってよいタイミングなどというものはないのだ。現実の世の中は、しかるべきときにしかるべきことが起こることはないのだということを知っているからである。彼らはつじつまのあわないことが好きなのだ。

とは言っても、敵意から笑いをつくり出すのではない。人をあざけって笑いをつくり出すようなことは決してしない。彼らは人を笑うのではなく、人とともに笑うのだ。人生を笑うのではなく、あらゆるものを笑いの種として見るのだ。たとえ、自分の仕事に真剣に取り組んでいてもである。他人がおのずから楽しくなれるような雰囲気を作り出すことができ、自分も楽しむことができる。一緒にいると楽しくなるような人間なのである。




この幸福な人たちは、相手に対して防衛的に構えたところがみごとなほどない。他人と競技して相手に感動を与えてやろうという気持ちもない。他人に褒められようとして、自分を飾ることをしないし、お義理に自己の釈明に努めることもしない。

彼らの態度は飾らず、さり気なく自然である。大事でも小事でも、それを特に問題化しようという気にならない。口角泡を飛ばすような論争をしないし、カッカして、相手をやり込めるような議論の仕方はしない。淡々と自分の意見をのべ、相手の意見に耳を傾けるだけである。無理やり持論を相手に押し付ける不毛さを知っているのだ。彼らは次のように言うだけだ。

「結構。われわれの意見は食い違っている。何も一致させる必要はありませんよ」

それ以上は問題としないのだ。相手を言い負かして意見を一致させようとか、相手のまちがいを指摘し説得して改めさせようという必要を感じないのである。彼らは相手に悪い印象を与えることを気にしないが、わざとそうしようとしているわけではない。

彼らは無益な争いは決してしない。出世するためならどんなことにもすぐ飛びつき、時流に乗って人の先頭に立とうとするタイプではない。人と争うことが何か変化をもたらすのであれば、あえて争うことも辞さないが、無益な争いは必要ないと思っている。

彼らは殉教者ではない。行為者であり、他人を助けようとする人間である。他人の生活をより楽しく快適なものにするような仕事にいつも取り組んでいる。社会を進歩させる最前線の戦場で戦っている戦士なのである。

しかし、その戦いを夜寝るとき、ベッドまで持ち込まない。だから胃潰瘍になったり、心臓病になったり、その他の病気になることがない。

彼らは固定観念で物事を判断しない。国籍や民族、体格や性の違いなどはほとんど念頭にないことが多い。他人を外見で判断する浅薄な人間ではない。彼らは一見享楽的で利己主義者のように見えるが、大量の時間を他人に役立つことに使っているのである。それは彼らがそうすることが好きだからにほかならない。




充実した人生を送っている人は、病気とは縁遠い人間である。彼らは自分が風邪とか頭痛で何もできなくなるとは思い込まない。そうした病気を治す力が自分にはあると信じている。自分がいかに気分がすぐれないかとか、いかに疲れているかとか、持病にいつも悩まされているかということを、他人に触れ回って歩かない。

彼らは健康管理がうまい。自分が好きだから、よく食べ、規則的に運動し、病気にならないようにする。

多くの人は、これをやらないから病気になって、しょっちゅう活動できなくなってしまうのだ。彼らは充実した人生を生きたいから、自分の健康に気をつけるのである。

彼らは、ものすごくエネルギッシュである。あまり睡眠はとらなくていいように見える。しかも起きている間は活発に行動する。要するに健康なのである。彼らは仕事を完成させるために、ものすごいエネルギーを発揮することができる。それというのも、現在を充実させるものとしてその仕事を自分で選んだからである。

彼らのエネルギーは超人的な肉体から生ずるのではない。それは人生を愛し、人生で活動することを愛している結果なのである。彼らは退屈するということを知らない。彼らにとって人生のあらゆるできごとが、行動や思考や感動を促すよい機会となるのである。

いかにして、人生のあらゆる場面に自分のエネルギーを注ぎ込むかを彼らは知っている。彼らはたとえ牢屋に入れられても、想像的に頭を働かせて、物事に対する関心を失わないようにするだろう。

彼らの生活には退屈は存在しない。他人と同じエネルギーを持っていても、それを自分のために創造的に使うからである。




心にわだかまりのない人たちは、自分の価値が自分の属する狭い集団の中にあると考えない。家族、近所、地域、町、国家などと自分を同一視しない。自分は人類という大きな集団に属しているのだと考える。オーストリア人の失業者もカリフォルニアの失業者もどちらも同じであって、どちらが優れているということはない。

彼らは偏狭な愛国主義者ではない。自分は人類全体の一員であると考えている。敵が少しでもよけいに死んだといって喜ぶようなことはしない。敵も味方と同様人間なのだから。人間が勝手につくったさまざまの分類のための境界線は守る必要がないと思っている。彼らはそうした昔からの境界線にこだわらず、無視するので、しばしば叛逆者だとか裏切り者だとかいうレッテルを貼られることにもなる。

彼らには英雄やアイドルがいない。あらゆる人間を一人の人間として見る。人間としての重要さは他人も自分も同じであると考える。

心にわだかまりのない人は、いちいちうるさく公平さを要求しない。ある人間が他人よりもよけいに特権を持っていれば、そのことを腹を立てる理由とは見なさず、その当人にとって有益なことであると見なす。何かの試合をすれば、自分が勝つために相手が失策をおかせばよいとは願わず、よいプレーをして欲しいと思う。他人のへまによって自分が得するよりは、自分自身の力で勝利を得、よい成果をあげたいと思う。すべての人間が平等に天分を与えられるべきだ、などという主張をせず、自分自身の幸福を自分の内に求める。

他人のことをあれこれ批評することをしないし、他人の不幸を喜ぶようなこともしない。自分の人生を生きることに忙しいので、周囲の人間のしていることに注目などしていられないのだ。

何よりも大切なことは、彼らが自分自身を愛しているということだ。成長したいという願望に促されて彼らは行動する。どちらかを選択せよと言われたら、必ず彼らは自分を大切にするほうを選ぶ。自己憐憫や自己否定や自己嫌悪に陥るすきを自分に与えない。

彼らに、「自分のことが好きですか」と尋ねれば、「もちろん、好きだ」という答えが直ちにに返ってくる。毎日が楽しく、平穏な生活で、充実した一刻一刻を過ごしている。困ることや悩みごとがないわけではないが、そのために感情的に動揺してしまって何も手につかなくなるということがない。

精神が健全であるか否かは、すべって転んだときにどういう行動をとるかによってわかる。彼らは転んだまま泣いているだろうか。いや、すぐに立ち上がり、泥を払い落として、再び歩き始める。心にわだかまりのない人たちは幸福を追い求めたりはしない。生きることがすなわち彼らにとって幸福なのである。

次に引用するのは、「リーダーズ・ダイジェスト」に掲載された幸福論の一節である。これまで述べてきた充実した生き方をまさに要約していると言える。


幸福を見つけようとすることが、何よりも幸福から遠ざかってしまうことなのである。歴史家のウィル・デュラントは、知識の中に幸福を見出そうとしたが、見つけたものは幻滅だけだったと書いている。彼は次に旅行のなかに幸福を求めたが、退屈しか見出せなかった。さらに、富の中に求めたが、仲たがいと心配しかなかった。著述のなかに幸福はないかと探したが、疲労しかなかった。

ある日彼は、眠っている赤ん坊を抱いた女性が小さな車のなかで夫を待っているのを見かけた。しばらくすると、夫が列車から降りて近づいた。そして、その女性にやさしくキスをし、次にその赤ん坊にも眠っているのを起こさないようにそっとキスをした。それから、その家族は車で去っていってしまったのだが、後に残されたデュラントは、そのとき、はたと幸福の実体に思い当たった。むきになって幸福を追求するのをやめてみたら、「日常生活のすべての営みが幸福を含んでいる」ことに気がついたのである。



現在という時を最高に充実させることによって、あなたも幸福の傍観者ではなく、幸福な人間の一人になれるのである。錯信帯から解放されるというのは、考えただけでもすばらしいことである。そしてあなたにその気さえあれば、直ちにその道を選ぶことができるのである。

邦題『自分のための人生』 ウェイン・W・ダイアー 1976年 渡部昇一訳

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 2003 Yoshiaki Sugimoto