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安心立命は全托から --- 想念力だけでは救われない

近頃、精神科学的な本がたくさん出版されてきて、信念とか念力とか想念とかいう言葉が科学的に説かれています。現今では、西欧側からこうした言葉が、精神科学的な言葉として移入されてきて、日本でもそうした訳本が多く出板されるようになり、心理学者、医学者、それに一部の宗教家が、それを自己の研究結果として、自己の思想として発表しているのです。

それはそれなりに学説でもあり実証的発表でもあって、私もどうこう言おうと思ってはおりませんが、そうした学説なり思想なりが、一度び宗教者の口から宗教思想のごとく発表され始めると、大変な過ちが起こり始めるのです。

信念の力というのは、まことに結構でありまして、神仏を信ずる力の方にも向けられる言葉でありますが、これが念力とか想念の力とかいうふうに転じてまいりますと、それを宗教者が宗教の話として、神仏を口に説きながら話される場合には、余程気をつけて話しませんと、聴衆や信者を誤った道に引き入れてしまいかねないのです。 

想念の力すなわち念力と、祈りということの区別をはっきりつけている宗教家は少ないのです。例えば、「職が欲しい、家が欲しい、金が欲しい」といったような場合、「その欲する目標に向かって一心を集中し、つまり想念の力を強くしていけば、その職なり家なり金なりが、自己の下に引き寄せられる。だから、その目的物に向かって一心を集中しなさい」というような教えがあるのです。

また或いは、「『自己の欲する物は、すでに与えられているのである』と堅く思いこむことです。常に想いつづけることです」というように教えたりもしているのです。「さすれば、必ずその物は、あなたに与えられる。もし、その希望が叶えられぬとするならば、それは神が『あなたに必要がない』と思われるからである」と希望が叶えられぬ時の言い訳までしているのです。

そしてこうした教えが、宗教の一つの方法であるように、信者や読者にはどうしても受け取れてしまうような説き方、あるいは書き方がしてあるのです。こうした教え方は、純粋な宗教精神からすると、実に困った、誤った説き方なのです。こうした説き方が、「新しい宗教である」と思われたり、「宗教的祈りである」と思わせたり、「科学的宗教」と言って「宗教の一つの説き方である」と思わせたら、真の宗教精神から、人間を功利的精神に引き下げてしまうことになって、宗教の堕落になってしまうのです。

想念の力ということと、祈りということとは、まるで違うことなのです。想念の力ということは、精神科学であって、宗教ではありません。想念の力と祈りとを混同して、共に宗教の分野に置くことはできません。

宗教心の祈りの心は、想念の世界、つまり業因縁の渦巻く三界を超えた働きになるのです。想念の力(念力)のように、業因縁の世界の幸不幸を問題にするのではなく、真実の世界、神仏の世界に到達して、真実の人間の姿(仏、菩薩)を顕し得る心の働きとなるのです。いいかえますと、祈りとは、自己の本体、直霊(神)に合体する為のものであり、念力とは相対的世界、肉体界、幽界、霊界の三界に働く想念の力であります。

祈りは、自己の想念の力をすっかり神様にお返しして、お任せして、空になってしまった心境であり、念力は、自己の想念の力を他に働きかけて、自己の想い通りに相手を動かそうとする心であり、業因縁の執着する心、把われの心であります。

こうしたことを認識せず、祈りと念力とを、同じと思わせるような説き方をすることは、宗教への冒涜であります。

宗教は人間の心から執着を放して、自由自在な心、神と等しい無礙の心にさせる教えでありますが、念力は執着の心であって、これを強めるということは、執着力を強めるということになるのです。お互いが念力を強め合ったら、次第に力と力の争いになってゆきます。昔の行者は、念力による試合のようなことを、よくやっていたようでありまして、滝の水を止めたり、石を念力で持ち上げたり、降ろしたりして、闘ったようです。

こんなことは、何ら宗教とは関係のないことで、只単なる力の錬磨というにすぎないのです。従って、念力では人類の平和、世界の平和はおろか、一人の人間の真実の平和を築きあげることもできないのです。念力の世界には闘争や不和がありますが、祈りの世界には闘争も不和もないのです。もしあったとすれば、それは過去の誤った想念行為の消えてゆく姿として起こっているだけなので、その祈りをつづけてゆけば、やがて不調和な姿は無くなってしまうのです。

ですから、宗教者が、祈りと念力の相違を認識せず説くことは、信者を外道(誤てる道)に引きずってゆくことになるのです。まして、「無くてならぬ物は、必ず与えられる」とか「念じても与えられぬ物は、神がその人に必要でないと思われるからだ」とかいうことを付け加えているのは、宗教者としての大きな矛盾であります。よくよく気をつけなければいけないと思います。 

「無くてならぬ物は、必ず与えられる」これが真理なのです。無くてならぬ物は与えられるのですから、何も殊更念力を使って物を引き寄せることはないのです。すべて神様にお任せする心境になって、大きな祈り、根本的祈りの、世界人類の平和、日本の平和の祈りをなし、自己や家族の天命の完うされることを祈った方が、余程秀れた行為だと思います。

自己の真の幸福は、常に世界人類平和の中に、そして天命が完うされる中にあるのであって、その場その時の幸福を招き寄せようとする念力などは、問題にならぬほど低い願いであるのです。それは或る時は、「恐怖の別名である」と言うこともできるのです。「無くてならぬ物は必ず与えられる」この真理を深く信念づけてゆくべきです。それが神を信ずることになるのです。神〈直霊、本体)から現象知覚に判らぬうちに生み出され、育てられてきた自分たちが、なぜ己れを生み出し、育ててきたものを信ずることが出来ぬのでしょう。実に不思議に思えるのです。太陽は、空気は、すべて自然(じねん)と己れに与えられているのです。肉体人間がいかに思念しようと、働こうと、太陽を作ることはできないのです。

しかし、自己の本体の中には、太陽を初め、すべての物を生み出す力があるのです。ですから、一度無力に近い人間の力を捨てきって、本体(神)の力にすべてを委ね、任せてゆく祈りをすることを、先ず第一にしなければならないのです。人間の想いが、恐怖なく、欲望なく、恨みなく、妬みなく、怒りなく、猜疑なく、何にも把われない、というならば、祈りすら必要ないのですが、現象人間には、必ずこのうちのどの想いかがあるのです。

そこでどうしても、この把われを放つために、本体(神)と一体になる祈りが必要となってくるのであり、最も大事な人間の行為になってくるのです。人間が相対的力によって、自己の物を獲得するのではなく、祈りによって、自然に自己の世界が作られてゆくようにならなければ、真の人類平和は来ないのです。祈りによって生まれ出るすべての力こそ、相対的の力を超えた絶対力になるので、これはもはや、力と呼ぶより、自然法爾とでも呼ぷより他に呼びようのない絶対の現れになってくるのです。そうした生き方をしている人は、現在の世界にもかなりあるのですから、誰にでもできる生き方なのです。それが信仰なのであり、宗教心なのであります。

信念ということも、本体の力を信ずる念い、自己の真実の力や運命を信ずる念い、いいかえれば、神を信ずる想念(おもい)にならなければ、真の信念とは言えないのです。絶対力(神、本体、直霊)から自然に湧き出てくる力ではなく、その場、その時の力みや自分勝手な想念の力を、信念の力と誤解してしまうのは、真の信仰心のない人たちがやることなのです。

真の信仰心とは、信念の力とか想念の力とか、そうした言葉から入ってくるのではなく、純粋認識的、純粋行為的に、自己の心に湧き上がり、行動となってゆくものなのです。真の信仰心とは、不退転の力として現れるものであり、意気張らず、強がらず、素直に、なんでもなさそうに、自然に、愛と真の行為として現れるものなのです。

それが真の祈りの大効果なのであります。信念の力とか、想念の力とかいう言葉に出たり、思ってみたりする時は、もうすでに宗教心から一歩後退している、ということになるのです。

くりかえして申しますが、念力というのは我であって、念力を強めて、自己の望みを遂げようということは、ついには戦いの姿になってゆきます。何故なれば、お互いが念力を強め合って、お互いの望みを遂げ合おうとする場合には、必ず、弱肉強食のような不調和な世界が出来てしまうからです。

そして、その人たちは常に念力を強める努力をしていなければならぬので、いつも少しもゆとりのない緊張した心の状態でいなければなりません。「油断をすれば、或いは一つ目的を想いつづけなければ、自己の望みが遂げられなくなる」ということになり、落伍者となってゆくわけになるからです。

もし、すべての人たちが、この想念の力ということを認識して、想念の力を強め合う時のことを考えてごらんなさい。想念の力の弱い者は、常に敗北者の憂き目をみているということになり、昔の武力の変形ということになってくるのは必然です。或る時は想念の力で利益を得ても、それは神に任せた心境ではなく、あくまで現象人間の自力なのですから、想念力の衰えた時には、悲惨な境遇に陥らぬとは限らぬのです。これでは魂の向上にも、悟りにも、少しも関係のないことになるのです。ですから私は、「宗教家があまり想念の力をとやかく言って宣伝することは邪道である」と言うのです。

人類は真の祈りなくしては、永劫に救われない者なのです。「自己の本体の神なることを信ぜよ。そして祈り、そして起て」と私は強く叫ぶものなのです。

『白光への道』 五井昌久 1955年 白光真宏会出版局

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 2003 Yoshiaki Sugimoto