こんにちは、いやこんばんはですかな、ここではお寺の近所をちょっと時代を遡って尋ねてみます。
ちょうど本遇寺の前の道が90年くらい昔は川であったそうです。その川の名前が「蜆川」(しじみがわ)、その川にかかっていたのが汐津橋。このページの由来です。
蜆川といいましてもすぐ南を流れる堂島川は、全国から米を運び込む蔵屋敷が並ぶそれなりに大きな川でしたが、蜆川はだんだん川幅が狭くなっていったんで ちぢみ川がその名の由来とか、まあ蜆くらいは取れたんでしょうけどそんな立派な川ではないようですな。



この地図は明治44年頃のものを元に近年作られたものですが、もうこの時代には、曽根崎川といわれていたようです。曽根崎といえば近松の「曽根崎心中」、その道行の舞台にもなりましたし同じく「心中天網島」では『その涙が蜆川へ流れたら、小春がくんでのみやろうぞ。』という切ない恋の舞台にもなった粋な川でもあったようです。元禄時代、東の芭蕉、西の鬼貫といわれた廃人、いや俳人 上島鬼貫が一時 汐津橋のたもとに住まいしておりました。
「家は汐津ばしという橋のほとり也。前には軒の松風ながれにひたして、なおひややかに、後には野径のむし 時しも野分に吹き送りて、おのれおのれの声かすむなり。」
コンクリートジャングルの今となっては、軒の松風に吹かれてみたい。いや ほんまに。


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汐津橋界隈今昔