ブルックナーの交響曲の出版譜

概論

 楽譜に関する問題は、どんな作曲家にもついてまわるごく一般的な問題なのですが、特にブルックナーについて一般の関心を呼び起こしているのは、ベートヴェン、モーツァルトその他の作曲家の場合、問題が音楽学上の専門分野に限定されているのに対し、ブルックナーの場合はその専門知識だけでは解決不能の多くの謎を含んでいるからでありましょう。ちょうど、日本史における『邪馬台国問題』が一般の歴史ファンに多大の興味を引き起こすのは、学問では解決し得ないある種のロマンを多くのファンがその中に見いだしているからであり、『ブルックナー問題』もそれと似た現象ではないかと思われます。

 また、ブルックナーの場合は,問題が重層化しており、カテゴリーの違う3つの分野(<1>ブルックナー自身が創作途上の試行錯誤や完成後の加筆・変更を繰り返し、それがいろいろな形態で残っていること。<2>演奏や出版段階で他人が協力し、音楽の内容にまでそれが及んでいること。<3>ブルックナー没後の研究・出版が時代により変化してきていること。)に分類出来、それぞれが独自の問題をもち、あるいはそれぞれの問題が相互に影響しあって非常に複雑な様相を呈しているので、これらのことも一般の音楽ファンの関心を高める要因となっているのです。もちろんブルックナーの音楽が非常に素晴らしく、また独特の性格を持っていることが、その根底にあり、一度その音楽に共感を覚えれば深く追求したくなるのも確かなことです。ここでは、上記の3つの分野に分けて概要を示し、問題点を明らかにしていきたいと思います。


<1>ブルックナーが作成した、あるいは作成させた資料
ブルックナーは非常に勤勉な人でしたので、一曲の作品を創るのに膨大な量の原稿を書き残しました。また、作品がより完全であることを強く望んだので一旦完成した後も何度も手を加えることを常としました。それらの資料のその後の運命は次の3種に分類できます。

@各地の図書館やブルックナーゆかりの修道院・博物館などの公的機関に保存されているもの、さらには個人のコレクションで公表されているものなど、現在その存在を知ることができるもの。
A個人が死蔵しており、その公開が待たれるもの。
Bブルックナーが在世中に廃棄したもの、または死後に焼失・紛失してしまったもの。

Bについては、膨大な量のものがなくなってしまっていることは、残念ながら確かなことです。まあそれは致し方のないことですので諦めるよりほかありませんが、ただ残されている資料を考えるにあたっては、常に失われた資料についても頭の片隅にとどめておくことが肝要なことでありましょう。

Aについては、ただそれが世の中に出てくることを待ち望むのみです。私は現在でもこういったものが絶無ではないと思っています。

@については、ABがあるにも拘わらず、なお膨大な量の資料が現存しており、個々の資料のもつ意味、あるいはその重要性が吟味され尽くされていないのが現状です。1999年に私がヴィーンのオーストリア国立図書館音楽部門を訪れMus.Hs.34.614(「第八交響曲」のアダージョの第1稿と第2稿の中間形)を閲覧しましたが、この稿の重要性などまだ殆ど認知されていない状態です。それぞれの図書館は、隠れた宝がゴロゴロ転がっている『宝の山』とも言えましょう。
ブルックナーの楽譜草稿、筆写譜等の資料の多くは前述のオーストリア国立図書館音楽部門に現存しています。それらの資料番号には、記号が付いており以前は、Mus.Hs.(Codeと略記される場合もある)とS.m.が併用されていました。これは、多分重要度によって分類されていたものと推測され、Mus.Hs.はより重要なものを、S.m.は比較的重要度の低いものを指していたように見られます。しかし現在では全てMus.Hs.に統一されている模様です。Mus.Hs.(楽譜手稿の意味)とは、広く手書きの楽譜全てを意味します。すなわち、スケッチ、自筆草稿、筆写譜(Manuscript Copy)などを意味します。これらのことは、「全集版」スコアの序文を読まれるときの参考としてください。

楽譜資料は内容的に見て、おおよそ次のように分類されます。
@オーケストレイションされていないスケッチ
 普通、五線紙3段を使ってメロディーや和声の構造の概略が書かれ、作品の最初の構想・構造が示されているものです。「パーティセル」と言います。
 また、思いついたアイデアをアットランダムに書き綴ったものもこのカテゴリーに入ります。
Aオーケストレイションされたスケッチや草稿断片
 試みにオーケストレイションされたものや、最終形から書き替えによって抜き出されたページなど、断片的なものが殆どです。
B自筆草稿
 少なくとも楽章単位で完成された作曲家自筆の原稿。
C筆写譜
 完成された自筆草稿を写譜屋を雇って筆写させたもの。ある人に捧げるために筆写させたものを『献呈譜』、印刷用原稿に使うために筆写させたものを『版下』と言います。
 また、その他にも、演奏のために指揮者用として筆写させたり、曲を知ってもらうために筆写させたり、予備のために筆写させることもあります。
D自筆入り筆写譜
 筆写譜を使って、作曲家が改訂を行なったもの。ブルックナーの場合はこういったケースが数多く見られ、そのうちのいくつかは、殆ど自筆稿と同じレヴェルで考えた方がよいほど変更されているものがあります。
E特殊なケースとして、出版された印刷譜に改訂を加えたもの(「第三交響曲」の第3稿の第1楽章から第3楽章まで)や弟子が改訂したものにブルックナーが更に加筆したもの(同曲のフィナーレ)などがあります。
F手書きパート譜
 演奏のために、自筆譜あるいは筆写譜から書き写された、それぞれの楽器のための演奏用譜面。改訂があった場合転記されるので、複雑な改訂の過程を解明するために非常に有用な場合があります。

 これらの中で最も重要なものが「自筆草稿」と「自筆入り筆写譜」です。一口に「自筆入り筆写譜」と言っても、それは様々な様相を呈しています。すなわち、ブルックナーが「筆写譜」にほんのちょっと手を加えただけのものから、何十ページにもわたって「改訂された自筆稿」との差し替えが行なわれた場合まで多岐にわたっているのです。しかし、どんな場合もブルックナーは「自筆入り筆写譜」を「真正の自筆草稿」としては認めなかったようです。その証拠には、三分の一も「改訂された自筆稿」が挿入された「第八交響曲」のアダージョの第2稿ですら「遺贈稿」に含まれていませんし、その他一切のこの種のスコアは、その重要度の如何に拘わらず、その成り立ちのみから「遺贈稿」からは排除されています。

 さらに、ブルックナーにおいては、「自筆草稿」や「自筆入り筆写譜」が2つ以上の形態を含んでいる、といったケースが非常に多く見られます。すなわち、一旦完成した時点での原形態を「第1形態」とすると、そのスコアにブルックナーが更に随時加筆している場合があるからです。この場合「第2形態」、「第3形態」と進み、現在我々が認知出来るのは「最終形態」だけとなります。したがって、こういった場合の「第1形態」や「第2形態」の再現は不可能となるわけですが、ただ、「以前の形態」が「筆写譜」として現存し、それにブルックナーが加筆していない場合においてのみ「第1形態」あるいは「第2形態」の再現は可能となります。こういった事象の好例として「第三交響曲」のヴァーグナーに贈呈された「バイロイト贈呈譜」をあげることが出来るでしょう。もし、これがなければ「第三交響曲」の第1稿の完全な再現は不可能だったのです。

 また、「自筆草稿」や「自筆入り筆写譜」には、他人の加筆が見られる場合もあり、それがブルックナーの指示あるいは承認のもとに行なわれたのか、または他人が勝手に行なったのか、判断の難しいものもあります。「第七交響曲」の「自筆稿」などは、その好例です。

 かつて一部の『ハース版』支持者が持ち出した考え、すなわち<ブルックナー自筆であっても、彼が他人の助言に不本意ながら従った結果によるものであり、真意は別のところにあると見られるものは、それを復元しなければならない>という論法は、全くブルックナーをバカにしたようなものであり現在は否定されていますが、まだ根強く今もあちこちの文章の中にその痕跡を見ることが出来ます。どんな状況であれ、ブルックナーが書いたものは、彼自身が決定したものであり、それを後世の他人が覆すという根拠は全くないというのが私の考えです。私は『ハース版』愛好者ですが、それは単にハースの作った版に共感を覚えるというだけであって、権威付けのための論理を展開するのではなく、ハースがブルックナーを愛した結果生まれたハースにとっての『理想版』に賛意を示すだけにとどめるべきでしょう。

 最後に、ブルックナー独特の考えに基づいて、交響曲を含む彼の考えた主要作品の自筆稿を、ブルックナーの遺言に従うと言う形で、彼の死の直後に帝室並びに王室図書館(現在のオーストリア国立図書館)に移管された、いわゆる「遺贈稿」と別称されるものがあります。その状況と、遺贈された自筆譜に対する考え方はブルックナーの楽譜の問題における最重要な事象ですので次に詳しく、このことについて見てみましょう。なお帝室並びに王室図書館と言うのは、当時のオーストリア皇帝はハンガリー王をも兼ねていたことに由来し、普通は宮廷図書館と言います。

<2>遺贈稿
1893年11月10日付でブルックナーは遺書を書き、彼の死後のことについて重要なことをいくつか指定しています。この遺書は全部で6項目にわたり、その中の第4番目の項目に自筆稿についての言及があるのです。ここでその第4項目の全文を土田英三郎氏の翻訳から引用させていただきましょう。【注】

 《以下に掲げる私の作品、すなわち交響曲--これは今までに8つを数え、第九番目のものはなろうことならやがて完成されるであろう--、3つの大ミサ曲、弦楽五重奏曲、テ・デウム、詩篇第百五十篇、そして合唱曲ヘルゴラント、以上の作品のオリジナル手稿譜を、ヴィーンの帝室並びに王室図書館に遺贈する。また、同図書館の帝室並びに王室監督局には、これらの手稿譜の保管に配慮を賜るよう、切に懇願する。
 同時に、ヨーゼフ・エーベルレ商会は、同社が出版を引き受けた作品の手稿譜を適当な時期に帝室並びに王室図書館から借り受ける権利を有するものとし、また後者は、ヨーゼフ・エーベルレ氏と商会に対して前記のオリジナル手稿譜を相応の時期に貸与する義務があるものとする。》

【注】「音楽芸術」1984年4月号、音楽之友社、p22から『ブルックナーの版問題再考』土田英三郎著


この遺書の作成には、弟子のフェルディナント・レーヴェ、シリル・ヒュナイス、及び弁護士のテオドーア・ライシュが証人として立ち会いました。そして、ブルックナーの死後直ちに(1896年11月26日)、この遺言に忠実に従って、ブルックナーの手元にあったオリジナル手稿譜は宮廷図書館に移管されました。これらは現在オーストリア国立図書館の音楽部門に保管されている資料番号Mus.Hs.19.473〜19.486にあたるものです。まずその内容を一覧表にして示しましょう。


遺贈稿

資料番号 作品名 備考 全集版
Mus.Hs.19.473 交響曲第一番 『ヴィーン稿』 I/2
Mus.Hs.19.474 交響曲第二番 『第1稿(旧稿)』 未出版
Mus.Hs.19.475 交響曲第三番 『第1稿(第2稿の稿態)』最初の3つの
楽章はブルックナーの手元になく、
フィナーレのみが遺贈された。
III/2
Mus.Hs.19.476 交響曲第四番 『第2稿』1878年のフィナーレではなく
1880年のフィナーレを含む。
(IV/2)
Mus.Hs.19.477 交響曲第五番 唯一の自筆稿
バス・テューバのあとからの挿入を
明白に示している。
Mus.Hs.19.478 交響曲第六番 唯一の自筆稿 VI
Mus.Hs.19.479 交響曲第七番 唯一の自筆稿
数多くの他人の書き込みあり。
アダージョにブルックナー自筆の打楽器
パート譜が貼付されている。
(VII)
Mus.Hs.19.480 交響曲第八番 第1楽章、スケルツォは『第2稿』
アダージョは『第1稿』
フィナーレは『第1稿(第2稿の稿態)』
(VIII/2)
Mus.Hs.19.481 交響曲第九番 アダージョまで IX
Mus.Hs.19.482 弦楽五重奏曲 インテルメッツォは含まない。 XIII/2
Mus.Hs.19.483 ミサ曲第一番 . XVI
Mus.Hs.19.484 詩篇第百五十篇 . XX/6
Mus.Hs.19.485 合唱曲「ヘルゴラント」 . XXII/8
Mus.Hs.19.486 テ・デウム . XIX

遺贈稿以外の重要資料

作品名 ブルックナーの考えに基づく自筆稿 全集版 左記自筆稿に準ずる資料 全集版
交響曲ヘ短調 C56,7[a](KRS.) . .
交響曲第一番 L8Wertitsch145 『リンツ稿』 I/1 . .
交響曲第〇番 V17(LOM) XI . .
交響曲第二番 . . Mus.Hs.6034,Mus.Hs.6035『第2稿』 (II)
交響曲第三番 . . Mus.Hs.6081『第3稿』 III/3
交響曲第四番

Mus.Hs.6082『第1稿』

IV/1 . .
VSB & KRS『第2稿』のフィナーレ zuIV/2
交響曲第八番

Mus.Hs.6083『第1稿』の第1楽章
Mus.Hs.6084『第1稿』のスケルツォ

VIII/1 Mus.Hs.40.999『第2稿』のアダージョ VIII/2
ミサ曲第二番 NDL『第1稿』 XVII/1 Mus.Hs.29.301『第2稿』 XVII/2
ミサ曲第三番 Mus.Hs.2105 XVIII . .

(注)
*NDLは、Neuen Domes、Linz(リンツの新大聖堂)の略、同所の資料室に保存されている。
*その他の略記号等は、当HPの『交響曲の主な資料』を参照。
*ブルックナーの考えに基づく自筆稿とは、全曲あるいは、少なくとも楽章単位で全部ブルックナーが書いた原稿のことであり、遺贈稿は全てこれにあたるが、その他のブルックナーが意図していたと思われる『遺贈すべき資料』をこの欄に掲載した。
*自筆稿に準ずる資料とは、全集版に別稿として出版された版の基本資料として用いられたもののうち、筆写譜にブルックナーが加筆・訂正・削除したものをいい、一般には自筆稿とみなして差し支えないものをいう。
*全集版にかっこ付きで記載されている巻名は、資料に合致させるためには、相当の修正を要するものである。


 遺書の記載と実際に宮廷図書館に移管された自筆譜を比較すると若干の相違が見られます。すなわち、「第三交響曲」の初めの3つの楽章(この自筆稿については、当HPの雑談コーナーに、その波乱に富んだ運命の概略を掲載しています)と「ミサ曲第二番」、「ミサ曲第三番」が抜けています。これらは、出版のため等の理由で持ち出された自筆稿が、ブルックナーの死の時点までに、彼の手元に戻って来なかったことを意味します。また、ブルックナーは遺書での記載を実現するため自筆稿を次々と封印していったのですが、「第一交響曲」については『リンツ稿』と『ヴィーン稿』の両方を封印し、「0番」の交響曲も封印しているのです。しかし、移管にあたっては「第一交響曲」は『ヴィーン稿』のみ移管され、「0番」については外されてしまいました。このことは、遺書の文言を忠実に実現した(指定された曲だけを、最終自筆稿1種だけを移管する)ものと考えられますが、ブルックナー自身は全ての自筆稿を遺贈したかったのではないかと推測することも出来るのです。もし、そうであるなら遺書の文言は不充分であったと言わざるを得ません。

 私たちは、遺書があって、そこには将来の出版のために遺贈された自筆稿を供するようにしたためられており、実際に遺贈稿が存在することから、簡単にそれがブルックナーの最終意思であると考えがちですが、実際にはそんなに単純なものではありません。その理由は次の通りです。

@ブルックナーは『最終形態』を遺贈するとは言っていない。単に『自筆稿』を遺贈すると言っているだけである。
Aブルックナーは現行の出版譜(彼の生前出版されたスコア)が不適当なものであるとは述べていない。少なくとも日本で出版されている伝記を読む限りは。
Bブルックナーは筆写譜や印刷譜に加えた後の改訂は無視して、遺贈を純粋自筆稿のみに限定している。
Cブルックナーはどのような形が未来に残されるべき最終形態であるかを述べていないし、また、そのような具体的行動を取ったという形跡も残っていない。

上記項目に少し補足しましょう。
Aについて、デルンベルクは《ブルックナーが、骨抜きにされた印刷版と対面したとき、どのような反応を示したかはわからない。というのは、このことを伝えうる立場にあった人々は、当然のことながらとても話すような気にはなれなかったであろうから。われわれが知っていることといえば、ただ、ブルックナーがしだいに疑い深くなっていったということである。》【注】と述べています。前者については、なるほどそうでしょう。今後、書簡集などからブルックナーの本音がどこにあったのかを探っていかなければならないところです。後者について、デルンベルクは「第八」の演奏についての有名なヴァインガルトナーへの手紙、と「第九」の筆写譜のカール・ムック(指揮者)への贈与の2点の実例をあげています。しかし、ヴァインガルトナーへの手紙の出版に対する懸念は、前後関係が不確かな訳の不備もあるのですが、ヴァインガルトナー自身が出版するわけではないので、筆写譜のスコアやパート譜を印刷用の原稿に流用することを見越した注意書きと考えた方が自然ですし(実際編集にあたる弟子はヴァインガルトナーとは別の考えを持っているはず)、筆写譜をムックへ渡した際のブルックナーの言葉《この曲には何事も起こらぬように》は楽譜の出版を懸念してではなく、演奏にかかわる数々のトラブルを懸念しての発言と見る方が妥当でしょう。自筆譜は自分が持っているのですし、それが印刷に使われるはずだからです。

【注】「ブルックナー その生涯と作品」E.デルンベルク著、和田旦訳、白水社,p197〜199

Cについて、「第七交響曲」の自筆稿には、たくさんの他人の手が加えられていることはよく知られています。このことがこの曲のハース版とノーヴァク版の違いの内の大きなウエイトを占めているのです。それは、この自筆稿そのものが初版出版の印刷用原稿として用いられたことからも窺えます。この他人の書き込みをブルックナーがどう考えていたのでしょうか?
もし、他人の書き込みがブルックナーの意にそぐわないのなら、それらは削除してから封印すべきであったでしょう。また、それがあまりに多いのなら、注意書きを添えて印刷の際はそれらを無視するように指定すべきであったでしょう。アダージョのブルックナー自筆の打楽器のパート譜の貼付についても、それが最終的に不要であると決定したのなら取り去ってしまえばよいのです。また、ページの差し替えなどブルックナーにとってお手のものだったはずです。しかし、現実にはそうはならなかったのです。
逆に、他人の書き込みがブルックナーの最終意思なら、遺贈という行為自体の意味が不鮮明になってきます。<現行の出版譜の不正を正す>という遺贈稿の役割が、後世の私たちの単なる幻想に過ぎなかったということになってしまいます。

こういったことにブルックナーは、はっきりした言明を行なっていないのです。ということは、現代の音楽学の常識、作曲家の最終意思に基づいた決定版をあらゆる資料から1つだけを作り上げるという常識、はブルックナーの作品には通用せず、現行全集版のように複数の形で演奏されることをブルックナー自身が望んでいたとすら考えさせられるのです。

いずれにしても、遺贈稿はブルックナーの最重要資料であり、全集版は、まずこれらの遺贈稿の純粋な再現を根幹としなければならないということは、議論の余地のないところでしょう。


<3>他人の関与がみられる「初版」群の出版
 ブルックナーは友人や弟子達の絶大な協力により出版の準備を行なったし(資金面においても、校正面においても)、また、たびたび彼らの意見に従っていました。そしてその結果、出版の際にかなりの変更がなされているにもかかわらず、ブルックナーはそれと同じ修正を自筆稿に行なわなかったので、両者の間に相当の不一致が生じています。
伝記では、その間の正確な状況説明はなされておらず、ただ伝記作者の思うところが述べられているだけであります。したがって、様々な伝記の記述から<無断で変更を加える弟子達と、それを制止できない気弱なブルックナー>あるいは<ブルックナーの指示を無視する弟子達>といった構図が私たちの脳裏にはびこってしまっています。しかし皆さん、これはちょっと変だとは思いませんか?たった1曲だけならそんなこともあるかも知れませんが、ブルックナーの生前に出版されたのは交響曲だけでも7曲(「第一」・「第二」・「第三」・「第四」・「第五」・「第七」・「第八」)にものぼるのです。ブルックナーは、出来上がった出版譜を見る度にほぞを噛んだのでしょうか?またそれについて、なにか対策を講じなかったのでしょうか?『原典版派』の人たちはその対策として、ブルックナーが残した遺書の文言とそれを実現させるための『遺贈稿』のとりまとめを挙げていますが、先にも述べたように、この『遺贈稿』からは「初版」群を排除するような強い意図が読みとれません。また、ブルックナーは将来だけでなく、出版の時点でも最善のものを求めていたと考える方が自然でしょう。

 さらに伝記では、ブルックナーの性格として、<高貴な人や目上の人に対しては必要以上にへりくだり、弟子や目下の者に対しては尊大な家父長的態度をとった>と記されていますが、こちらの方は、私はありそうなことだと思います。私自身の性格と照らし合わせてみても納得できるし、ワーグナーとの会見記や皇帝謁見の場面など、まるで見てきたような情景が伝記ではおもしろおかしく描写されていますが、そういったことは多分事実だったのでしょう。そして、弟子達を叱りとばすブルックナーもあったはずです。
もしそれが真実であるとすれば、大切な出版の時に、尊大なはずのブルックナーが、原典版派達の述べるところの<弟子達の思い通りにことが運ばれることに手出しが出来なかった>のでしょうか?この論法は、非常に矛盾に満ちているように私には思えます。ブルックナーは弟子達の献身的な努力に対して、満足し感謝していたのではないでしょうか?

 そうであるとしたら、現在全く無視されている弟子達の関与した「初版」群のスコアに対して、何らかの価値を見いだし、しかるべき評価を与えなければなりません。グリーゲル氏の『諸形態』もそういった観点から、これらを彼のリストの中に取り入れているのです。

こういったことは、生前出版された6曲(「第五」を除く)に限られるのであって、1903年出版の「第九」や1899年出版の「第六」、1913年の「ヘ短調交響曲」のアンダンテのみの出版、さらには、ちょうどブルックナーの死の年である1896年に出版された「第五」はそれぞれ独自の観点から評価しなければならないので、各交響曲の項目のところで説明していきたいと思います。

 生前出版された5曲(「第四」を除く)と自筆稿との相違を概略すると次のようになります。
@強音部でのディナーミク(強弱法)について、金管を弱めることによってオーケストラをバランスよく響かせるようにした。
Aピアノからフォルテに突然変わるようなブルックナー独特の強弱法を弱め、クレッシェンドやディミニュエンドを多用する、よりなめらかなものに変えた。
Bリタルダンドやアッチェレランドを加え音楽をより柔軟なものにした。
Cスラーの追加や変更によりフレージングを変え、よりなめらかな音楽にした。
Dごく部分的にカットや繰り返しによる追加を行なった。
Eごく一部でオーケストレイションの変更、楽器の追加を行なった。

というように、これらの作品では、一般に言われているような、形式を損なうような大カットや、ワーグナー風アレンジというのは見られません。
なお、「第四」については、ブルックナーとフランツ・シャルクが「第三」の第3稿で行なった徹底的改訂ととほぼ同様のことを、フェルディナント・レーヴェがブルックナーの監修のもとに行ったので、そこでは上述の変更に属するものの他に、徹底的なオーケストレイションの変更とスケルツォとフィナーレに大規模なカットが施されています。

<4>ブルックナー死後の交響曲出版の概要と問題点
@初版系
 ブルックナーの没後、彼の交響曲の名声が高まる中で、大手の出版社が次々と番号付の9曲の交響曲をシリーズで出版していきました。ユニヴァーサル版(フィルハーモニア版)、オイレンブルク版(ライプツィッヒ)、ペーター版がこれにあたります。これらは、上記生前または死後に出版された「初版」群(「第三」については1890年の「第2版」)に基づくものですが、それらのコピーではなく、別の版型で作られています。したがって、内容的には全く「初版」を引き継ぐものですが、ごく微細な部分において、誤植の訂正や一部手直し、さらには新たな誤植の付加が含まれており、完全に「初版」と一致するわけではありません。したがってこれらの諸版は現在ではほとんど無視されて良いと思われます。何故なら、元々の「初版」をのみ問題とすれば事足りるからです。こういった観点から、我が国では現在、いくつかの交響曲について「初版」そのものによる「復刻版」が音と言葉社から野口剛夫氏の解説で出版されています。なお、オイレンブルク版(ライプツィッヒ)では番号付の9曲を3曲づつ3巻に合冊したハードバック版も出版されていました。ペーター版については、筆者は「第九」以外は未見です。したがって、その他の交響曲は出版目録だけで、実際には刊行されなかったのかも知れません。

 これらの中で、注目すべきはヨーゼフ・フォン・ヴェース(Josef von Woess)が校訂したユニヴァーサル版のシリーズの中に「遺作のニ短調交響曲」として「0番」が1924年に初めて出版されたことです。また、ユニヴァーサル版の出版目録を見ると当時のブルックナーの交響曲の受容状況を垣間見ることが出来ます。すなわち、レコードやCDのなかった時代、交響曲は平常ピアノで楽しまれていたわけで、各交響曲には、指揮者用大型スコアと研究用小型スコアの他にピアノソロ、連弾、2台のピアノのための3種類のピアノ編曲譜が出版されており家庭で楽しむことが出来るようになっていました。また、それらに先立ってユニヴァーサル版では、1913年にヒナイス校訂で「遺作のヘ短調交響曲のアンダンテ」も出版されています。

 ここで、これらの「初版」系の出版物のその後の動向を見てみましょう。ユニヴァーサル版はフィルハーモニア版に引き継がれ、現在ほとんど絶版ですが、ごく一部入手可能なものもあるようです。ペーター版やオイレンブルク版(ライプツィッヒ)も絶版となり、オイレンブルク版については戦後一時、ハンス・フェルディナント・レートリッヒ校訂による「第三」、「第四」、「第七」の「初版」系のスコアとハンス・フーバート・シェーンツェラー校訂の「第五」、「第九」の全集版とは別種の「原典版」系のスコアの2系統が出版されていましたが、現在はノーヴァクの全集版のコピーが全交響曲にわたって出版されています。

A第一次全集版
 「初版」やその系統の出版物については、ブルックナーの死後の早い時期から、自筆譜との相違がしばしば指摘されてきましたが、1920年代に入って「初版」の正当性を疑う議論が白熱化し、「原典版」出版の機運が高まってきました。そういった中で第一次全集版が、アルフレート・オーレルやロベルト・ハースを中心にして次々と出版されていきました。これが第一次全集版といわれるものです。最初、オーレルは「第九」と「四つの管弦楽曲」を担当しましたが、校訂路線の対立から、すぐに全集版出版事業から手を引いてしまいました。したがって、ほとんど全ての編集はハースによって行なわれました。オーレルとハースの違いは、現代の全集版にまで影響を及ぼしています。すなわち「第九交響曲」は他の交響曲と編集の仕方が少し違っているのです。音友版でもブルックナー協会版でもブライトコップフ版でも結構ですから、スコアをお持ちの方は一度「第九」とその他の交響曲のスコアを比較対照してみてください。一番分かりやすいのは、「第九」は使用楽器が少ない部分でも、常に1ページには1つの段落しかないことです。言い換えればそういったところでは(例えばトリオの大部分など)全休符がやたらと目立つのです。しかしその他の交響曲では、一般の印刷版の常識にしたがって、全休止の楽器は省略し、1ページに2つないし3つの段落を使ってページの節約をしているのです。ブルックナーの原稿には楽器の省略などはないので「第九」のやりかたの方が、より原稿の姿に近いとは言えるでしょう。それがオーレルの方針だったのです。あと、臨時記号に対する考え方もオーレルは、より愚直であったと言えるでしょう。

 ハースは、時の政権、すなわちナチスの『第三帝国』の国家政策に協力的でした。その痕跡は現代まで残されています。すなわち、ブライトコップフ版(ハース版)の「第八交響曲」には編集者の序文がないのですが、その理由は序文の中でハースがナチスのプロパガンダ(宣伝文)を入れてしまったからで、戦後再刊される際にその序文は不適当と見なされ削除されたのです。ハースの方針は『第三帝国』の時代には事業をスムーズに遂行させましたが、敗戦によってハースは責を問われ、その職を追放されてしまったのです。そのため事業はとん挫し、予定されていた「ヘ短調交響曲」、「交響曲第0番」、「第三交響曲(バイロイト筆写譜)」(第1稿のこと)、「第四交響曲第3稿」(レーヴェ稿のことで、現在でも未出版)などが出版されないままに終わりました。

 ハースの編集したスコアの中にも不思議な現象が見られます。それはスコアの練習記号(Buchstabe)の活字の形です。1944年(大戦末期)に出版された「第七交響曲」の練習記号の活字の形が他の曲とは違っているのです。そして「第七交響曲」と同じ年に改訂再刊された「第四交響曲」ではトリオだけが「第七交響曲j」と同じ形の活字が使われているのです。これは、この年の改訂でトリオだけが差し替えられたことを意味しています。何故、44年になって活字の形を変えたのかは不明です。

  第一次全集版は、完結はしなかったけれども、非常に立派な業績を残しました。残念ながら、編集報告を含めてそれらの全部が現代に復活しているわけではありません。それらの復活は、今後に期待したいところです。一方で、この全集には問題点もあります。特に「第二交響曲」や「第八交響曲」においてなされたことなのですが、ハースは複数の自筆稿を混合し実際には存在しない稿態を作ってしまったのです。そのため「第二交響曲」では、旧稿を新稿に挿入する際、スムーズに流れるよう繋ぎのフレーズを作曲してしまい、「第八交響曲」では逆にブルックナーが新稿でカットをする際書き替えた繋ぎの部分を、ハースはある部分で旧稿に戻しただけで注釈を加えなかったので、ハース版をカットして演奏すると実際にはあり得ない稿態になってしまうことです。

 旧稿を一部分回復するというハースの考え方の論拠は《ブルックナーが周囲の批判に負けて、不本意ながら削除や改訂を行なったので、ブルックナーのもともとの意思にしたがって削除されたものは復元されなければならない》というものでした。うがった見方をすれば、「第五交響曲」や「第九交響曲」と違って、それらは従来版(すなわち「初版」)とあまり差がないため、ハースは、よりショッキングなスコアを出したかったのでそうしたのではないかと勘ぐることも出来ましょう。いずれにしても、現代ではこれらの版は否定されており、異なった自筆稿は別々に出版されるべきであるというのが主流の考え方です。しかし私は、これらの版はハースのブルックナーに対する敬愛の証として、また、ブルックナー交響曲演奏のための1つの実施解答として、更にまた、ブルックナー受容の歴史的意義をも認めたうえで、今後も残され演奏されるべきであると考えています。ただ、そのためにはハース版を用いるにもかかわらずカットをすることは断じて避けねばなりません。カットをしたいのなら「初版」や「ノーヴァク版」を使うべきです。何故なら、先に「第八交響曲」について述べたように繋ぎ目が全く変になってしまうからです。そういった演奏はたまに見られます(例えばシューリヒトの「第八交響曲」など)。

B第二次全集版

 第二次世界大戦後,レオポルト・ノーヴァクがハースのあとを引き継ぎ全集版出版事業を再開しました.そして,この系統はノーヴァクの死後も他の人たちに継承され現在に至っています.ノーヴァクはハースの既刊分については,そのまま再刊せず,もう一度洗い直して再刊しました.この場合,新版はハースの原版を用いながらも,それへの手書き修正や新しいページの差し替え、あるいはハースの編集報告からの引用によって作られました.結局この新全集版は次の3つの異なる様相を呈した版の集合体となっています.
@ハースと同じ資料に基づくもので,基本的には同一であるが,誤植の訂正その他の微細な変更のあるもの.
 「第一交響曲」ヴィーン稿I/2【注1】,「第四交響曲」1878年のフィナーレ(フィナーレ2)zuIV/2,「第五交響曲」V,「第六交響曲」VI,「第九交響曲」IX
Aハースの用いた資料とは違う資料を用いたり,更に多くの資料を参照したり,逆にハースの使った資料の一部を使わなかったり,さらには自筆稿への他人の書き込みに対して別の見解を示したりして細部で相当の違いがみられるもの.
 「第一交響曲」リンツ稿I/1,「第二交響曲」II,「第四交響曲」第2稿IV/2,「第七交響曲」VII,「第八交響曲」第2稿VIII/2
Bハースが出版しなかったものを新たに出版したもの.
 「第一交響曲」アダージョとスケルツォの初期稿zuI/1【注2】,「第三交響曲」第1稿III/1,「第三交響曲」1876年のアダージョ(アダージョ2)zuIII/2,「第三交響曲」第2稿III/2,「第三交響曲」第3稿III/3,「第四交響曲」第1稿IV/1,「第八交響曲」第1稿VIII/1,「第九交響曲」トリオの2つの初期稿zuIX【注3】,「第九交響曲」フィナーレzuIX【注4】,「ヘ短調交響曲」X,「第0交響曲」XI

【注1】ギュンター・ブロッシェ校訂
【注2】ヴォルフガング・グランジャン校訂
【注3】ベンヤミン・グンナー・コールズ校訂
【注4】ジョン・フィリップス校訂

最後に、私見による新全集版の今後の課題と問題点を列挙しておきましょう。
(1)編集報告
 現在、編集報告は交響曲の分野ではノーヴァクによる「ヘ短調交響曲」、「交響曲第0番」、「第五交響曲」および「第六交響曲」といった比較的問題の少ない交響曲とトーマス・レーダーによる大部の「第三交響曲」が出版されているのみで、問題作は「第三交響曲」を除いて未出版です。各交響曲の早期の出版が望まれるところです。しかし、膨大な量の「第三交響曲の編集報告」でさえ、関係資料のあまりの多さにより内容的には不完全なものとなっていますので、他の交響曲についての困難さは推して知るべしといったところでしょうか。
(2)初期交響曲の初期段階の整理
 ティントナー盤に聴くキャラガン校訂の「第一交響曲」の『1868年初演形?』に見られるように、現行の全集版の体系はいくつかの初期作品において不完全なように思われます。それらは、整理され、ある一定の形態が確立されるべきでありましょう。その場合注意すべきことは、資料の混用(すなわち年代の違うものを合成すること)は避けるべきです。もしそうすると結局ハースの二の舞になってしまうからです。このことの対象になる作品は次の通りです。
「第一交響曲」ー『1866年形』、『1868年形』
「第二交響曲」−『1872年形』、『1873年形』
「第三交響曲」−『1874年形』、『1876年形』
これらは全部、現在出版されている全集版の各巻の内容とは相当違うもので、編集報告の範疇には入りきらないものなのです。
(3)『遺贈稿』の完全な復元出版
 各交響曲を複数形態で刊行する全集版においては、『遺贈稿』がどれなのかを明示するとともに、ある例外を除いて『遺贈稿』に完全に一致した形になるよう各版を見直す必要があります。それらを具体的に列挙してみましょう。
@典拠資料は『遺贈稿』のみを主体とすべきであり、他の関連資料は参考程度に止めておくべきであり、決して『遺贈稿』より優先されてはならない。現行全集版の資料の選択について、下記に各交響曲ごとの問題をまとめておこう。
「第一交響曲」I/2『ヴィーン稿』で特に問題なし。
「第二交響曲」『遺贈稿』は第1稿の確定形態にあたるもので未出版。これはブルックナーが『旧稿』と言ったもので、フィナーレには改訂挿入されたページ(現行第2稿)が添付されている。現行のハース版やノーヴァク版IIは筆写譜にブルックナーが改訂を加えたもの(第2稿)を基にしているし、キャラガン版はパート譜など別の資料を混用しているようである。
「第三交響曲」III/2で特に問題なし。
「第四交響曲」IV/2でノーヴァクは1886年の『ニューヨーク稿』を使用したが、私は、これは第3稿(レーヴェ稿)への一つの布石であると見なしており、『遺贈稿』へ立ち帰るべきであると考えている。
「第五交響曲」V特に問題なし。
「第六交響曲」VI特に問題なし。
「第七交響曲」VII印刷用版下として用いられたこの曲の『遺贈稿』は他人の書き込みをより厳密に区別するべきであろうし(消すわけではない)、アダージョの打楽器については、『遺贈稿』の状態通りページ下に別掲として印刷すべきであると考えている。
「第八交響曲」VIII/2では『遺贈稿』のアダージョは第1稿の稿態であるが、これは現行出版譜通り第2稿自筆稿を用いるべきであるが、ハースが用いた資料が何なのかを解明してから、その資料選択を行なうべきである。
「第九交響曲」IX特に問題なし。
Aかっこを付けて校訂者によって加えられた、表情に関する指示は、全て洗い直し、真に必要なものだけを残し、その他は削除すべきである。基本的に全集版は、演奏のための配慮を極力避けるべきであるというのが私の基本的考えである。どっちみち指揮者や演奏家はスコアやパート譜にいろんなことを書き込むのであるから、校訂者がそのための便宜を図る必要はない。純粋に資料の通りを提示すればよいのである。
Bブルックナーがスコアに書き込んだ、言葉による指示事項や完成の日付は全て書かれた場所に印刷すべきである。特にメトリークの数字は無視すべきではない。
Cティンパニのトレモロの指示や、曲の途中での拍子変更、二重線やその他の音楽上の指示はブルックナーの指示通りに再現すべきである(余計な臨時記号を除く)。
D他の筆写譜等に記載されている重要なヴァリアントは、編集報告だけでなく、スコア本体の序文に掲示されるべきである。たとえば、「第五」のアダージョ末尾等は1989年の増補で序文に追加されているが、他にもそういったものが存在するはずである。
(4)初版譜の復刻再刊 
 全集版というものは、文学など他の分野においても作者の全業績を網羅すべきものであって、残されたものを恣意的な判断で切り落とすべきではない。ブルックナーの場合、「初版」群は、他人の関与が大であるとはいえ、少なくともブルックナー自身に全く関わりなく作られたものでない以上、『疑わしきは罰せず』の立場にたって全集版に組み入れるべきであろう。ちなみに「アポロマーチ」が今日では、他人の作品であることが証明されているにも拘わらず、全集版に組み入れられているということは、この曲の歴史的意味から正当なことであると私は感じている。

交響曲第1番『ヘ短調交響曲』

形態 オリジナル版 改訂版
訂正版
コピー版、海賊版、     
演奏用編曲版
.編集報告 XRB ノーヴァク 1982 . .
1863年形  ノーヴァク 1973       . .
初出版形 ヒナイス 1913(UE)
アンダンテのみの出版
. .



交響曲第2番『第一交響曲』(エルステ交響曲)

形態 オリジナル版 改訂版
訂正版
コピー版、海賊版
演奏用編曲版
1865年形 zuI/1 グランジャン 1995
(未完のアダージョ別稿と
放棄されたスケルツォ別稿)
. グランジャン(Dob)
(左記アダージョの完成版
と現行トリオ付きスケルツォ
別稿)
1866年形 ハースの編集報告に
一部が取り上げられている。
. .
1877年形 ハース 1935 . (BH)
. I/1 ノーヴァク 1953 (音楽之友社)
(Eulen)
1891年形 ハース 1935 . .
. I/2 ブロシェ 1980 (Eulen)
1893年形 ヒナイス(Dob) . .
. ヴェース(UE,Phil)    (Eulen LZ)
. (Peter) .





交響曲第3番『第〇交響曲』(ヌルテ交響曲)

形態 オリジナル版 改訂版
訂正版
コピー版、海賊版
演奏用編曲版
.編集報告 .XIRBノーヴァク 1981 . .
1869年形 XI ノーヴァク 1968 . .
初出版形 ヴェース 1924(UE)     ..

.




交響曲第4番『第二交響曲』(ツヴァイテ交響曲)

形態 オリジナル版 改訂版
訂正版
コピー版、海賊版
演奏用編曲版
1872年形 . . .
1873年形 . . .
1876年形 . . .
1877年形 [ハース]1938         . (BH)
. II[ノーヴァク]1965    (音楽之友社)
(Eulen)
1892年形 ヒナイス(Dob) . .
. ヴェース(UE,Phil)      .
. (Peter) .
. (Eulen LZ) .




交響曲第5番『第三交響曲』”ワーグナー交響曲”(ドリッテ交響曲)

形態 オリジナル版 改訂版
訂正版
コピー版、海賊版
演奏用編曲版
.編集報告 IIIRB レーダー 1997 . .
1873年形 V/1 ノーヴァク 1977    V/1 ノーヴァク 1993 (Eulen)
1874年形 . . .
1876年形 zuV/1 ノーヴァク 1980
(アダージョのみ)
. .
1877年形 V/2 ノーヴァク 1981 .. (Eulen)
1879年形 第一版 (レーティッヒ版) . .
. エーザー 1955(Br) .
1889年形 V/3 ノーヴァク 1959 . (音楽之友社)
(Eulen)
1890年形 第二版 (レーティッヒ版) . (音と言葉社)
. ヴェース(UE,Phil) .
. (Peter) .
. (Eulen LZ) .
. レートリッヒ 1961(Eulen) .




交響曲第6番『第四交響曲』”ロマンティック交響曲”(フィールテ交響曲)

形態 オリジナル版 改訂版
訂正版
コピー版、海賊版
演奏用編曲版
1874年形 W/1 ノーヴァク 1975    . (Eulen)
1878年形 ハース(フィナーレ、
その他の楽章は編集
報告に部分的にとり
あげられている)
zuW/2 ノーヴァク 1981
(フィナーレのみ)

.
1880年形 . . .
1881年形 ハース 1936 . .
. [ハース] 1944 (BH)
(Dover)
1886年形 W/2 ノーヴァク 1953 . (音楽之友社)
(Eulen)
1888年形 レーヴェ 1889 . ..
. ヴェース(UE,Phil) .
. (Peter) .
. (Eulen LZ) .
. レートリッヒ 1954(Eulen) .




交響曲第7番『第五交響曲』(フュンフテ交響曲)

形態 オリジナル版 改訂版
訂正版
コピー版、海賊版
演奏用編曲版
.編集報告 VRB ノーヴァク 1985 . .
1876年形 ハース(編集報告に部分
的にとりあげられている)
. .
1878年形 ハース 1935 . (BH)
. X ノーヴァク 1951 (音楽之友社)
(Eulen)
. X ノーヴァク 1989 .
シェーンツェラー 1969(E8) . .
1896年形 シャルク 1896(Dob) . (音と言葉社)
(Kal S)
. ヴェース(UE,Phil) .
. (Peter) .
. (Eulen LZ) .




交響曲第8番『第六交響曲』(ゼクステ交響曲)

形態 オリジナル版 改訂版
訂正版
コピー版、海賊版
演奏用編曲版
編集報告 VIRB ノーヴァク 1986 . .
1881年形 ハース 1937 . (BH)
. Y ノーヴァク 1952 (音楽之友社)
(Eulen)
1894年形 . . .
初出版形 ヒナイス 1899(Dob) . .
. ヴェース(UE,Phil)    .
. (Peter) .
. (Eulen LZ) .




交響曲第9番『第七交響曲』(ジーベンテ交響曲)

形態 オリジナル版 改訂版、
訂正版、
コピー版、海賊版、
演奏用編曲版
1883年形 . . .
1885年形 [ハース] 1944     .    (BH)
. Z ノーヴァク 1954 (音楽之友社
(Eulen)
. 編集者不明(Kal C) .
初版(Gut) . (音と言葉社)
. ヴェース(UE,Phil) (Kal S)
. (Peter) .
. (Eulen LZ) .
. レートリッヒ 1958(Eulen)     .



交響曲第10番『第八交響曲』(アハテ交響曲)

形態 オリジナル版 改訂版
訂正版
コピー版、海賊版
演奏用編曲版
1887年形 [/1 ノーヴァク 1972 [/1 ノーヴァク 1992  (Eulen)
1888年形 . . .
1890年形 [ハース] 1938 . (BH)
(Kal S)
. [/2 ノーヴァク 1955 .
. [/2 ノーヴァク 1955 (音楽之友社)
. フォッグ 1992(Eulen) .
1892年形 初版(Has) . (音と言葉社)
. ヴェース(UE,Phil) .
. (Peter) .
. (Eulen LZ) .




交響曲第11番『第九交響曲』(ノインテ交響曲)

形態 オリジナル版 改訂版
訂正版      
コピー版、海賊版
演奏用編曲版
1889年形 zu\ コールズ 1998
(トリオ1スケッチ)
. コールズ(Dob)1998
(トリオ1の完成版)
コールズ(Dob)1998
(トリオ1のヴィオラとオルガン
のための編曲版)
1893年形 zu\ コールズ 1998
(トリオ2断片、上記と合冊)
. コールズ(Dob)1998
(トリオ2の完成版上記と合冊)
コールズ(Dob)1998
(トリオ2のヴィオラとオルガン
のための編曲版、上記と合冊)
1894年形 オーレル 1932 . (BH)
(Kal C)
. \ ノーヴァク 1951 (音楽之友社)
(Eulen)
シェーンツェラー 
1963(Eulen)
. .
初出版形 レーヴェ 1903(Dob) . (音と言葉社)
. ヴェース(UE,Phil) (Kal M)
. (Peter) .
. (Eulen LZ) .
1896年形 RB オーレル 1932
(フィナーレスケッチ)
. .
zu\ フィリップス 1994
(フィナーレの自筆資料
のみによる再構成)
. フィリップス1992(Dob)
(フィナーレの完成版)
zu\ フィリップス 1996
(フィナーレ・ファクシミレ)
. .



出版社

BH            Breitkopf & Haertel Musikverlag, Leipzig        ブライトコップフ・ウント・ヘルテル社、ライプツィッヒ
Br             Bruckner Verlag Wiesbaden                ブルックナー出版
Dob           Verlag Ludwig Doblinger                   ドプリンガー出版
Dover       Dover Publications Inc., N                ドーヴァー出版
Eulen LZ  Ernst Eulenburg, Leipzig,(before World War II)     オイレンブルク出版、ライプツィッヒ(戦前)
Eulen       Ernst Eulenburg, London etc.(after World War II)   オイレンブルク出版、 ロンドン(戦後)
E8             Eulenburg Octavo Edition                 オイレンブルク・オッターヴォ版、チューリッヒ
Gut           Albert Gutmann Wien                   グートマン社、ウィーン
Has            Carl Haslinger                        ハスリンガー社、ベルリン
Kal             Edwin F. Kalmus                       カーマス社        
(C-Conductor Score, M-Middle Size, S-Small Size)    (Cー指揮者用スコア、Mー中型サイズ、Sーポケットサイズ)

Ontomo    Ongakunotomo Shuppan(Japan)            音楽之友出版(東京)
Oto            Ototokotoba Edition(Japan)               音と言葉社出版(東京)
Phil           Wiener Philharmonischer Verlag            フィルハーモニア社、ウィーン
UE             Universal Edition, Wien                  ユニヴァーサル出版、ウィーン

Haas and Orel  First Complete Edition(Musikwissenschaftlicher Verlag, Wien)  
 ハース版とオーレル版は第一次全集版として音楽学出版社(ウィーン)から戦前出版された。
I/1 etc.         Second Complete Edition(Musikwissenschaftlicher Verlag, Wien)   
 ローマ数字の付いたものは第二次全集版として音楽学出版社(ウィーン)から戦後出版された。
 ローマ数字巻名を赤字で表示。
RBは校訂報告(Revisionsbericht)を示す。




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