ANTON BRUCKNER(1824.9.4〜1896.10.11)


 アントン・ブルックナーは、上部オーストリアのリンツ近郊、アンスフェルデンという村で生まれ、ヴィーンで没したオーストリアを代表する作曲家の一人です。彼は、幼い頃から音楽の才能を示し、72年間の生涯の全期間にわたって150曲あまりの作品を残しました。その大半は、宗教的あるいは世俗的声楽作品であって、彼を代表する作品となった交響曲は11曲、その他には少数の器楽作品が残されているに過ぎず、オペラや協奏曲は全く作曲されませんでした。

 ブルックナーの生涯は大体次の3つの期間に分けることが出来ます。
1,サンクト・フロリアン時代(ほぼ30年間)
12歳で父に死に別れたブルックナーは、生家のあるアンスフェルデンを離れサンクト・フロリアン修道院に預けられます。助教師としてのヴィントハークやクローン・シュトルフでの短い赴任期間をはさんでのサンクト・フロリアンでの生活は、彼の心のふるさととでもいえるものであり、遺言により彼はこの修道院に葬られています。
2,リンツ時代(ほぼ10年間)教会オルガニストとして、またアマチュア合唱団の指導者として過ごした時期であり、これまで触れてこなかったジャンルの音楽を積極的取り入れた時期でもあります。
3,ヴィーン時代(ほぼ30年間)主に、大学の音楽教授としてヴィーンで暮らした時期で多くの名作が作曲されました。

この、3つの期間は、完全には一致しない3つの創作期間、すなわち<初期><過渡期><後期>にほぼ対応します。
サンクト・フロリアン時代には多くの声楽作品とともに、2つの大作、「レクイエム」(1848)、「荘厳ミサ曲」(1854)、が生まれました。
リンツ時代には3曲の大ミサ曲、「第一番ニ短調」(1864)、「第二番ホ短調」(1866)、「第三番ヘ短調」(1868)を中心に、2曲の交響曲、「ヘ短調交響曲」(1863)、「第一交響曲ハ短調」(1866)と、「詩篇第146篇」(1860)ほか、いくつかの声楽・器楽作品が作曲されました。
ヴィーン時代は殆ど交響曲の作曲・改訂に専心した時代であって、おりにふれていくつかの声楽作品や室内楽作品が作られました。


 ブルックナーは子供の頃に父をなくしたため、非常な苦労を重ねて成人しました。修道院のようなところがなければ、彼は大作曲家として大成しなかったでしょう。そして生涯を通じて大変な勉強家でありました。非常に厳しいことで知られたジモン・ゼヒターに師事していたとき、ブルックナーがあまりに勉強するのでゼヒターから『君のように勉強熱心な生徒は見たことがない。あまり勉強しすぎて身体をこわさないよう注意しなさい。』というような生活指導の手紙を貰ったくらいです。そのため彼の創作活動の成果は、他の大作曲家と違って、成長の歴史でもあるのです。これは何も初期の作品が取るに足らないつまらないものであるという意味ではありません。作曲というものが窮め尽くせない奥の深いものであるということを物語っているのです。

 ブルックナーの創作活動には2つの大きな転換点があります。ちょうど蝶が幼虫からさなぎへと、そして成虫へと変態するように、自らを変えていったのです。そしてそれは、自らの内からでた欲求というよりも、他人から目を開かされたといった意味合いの強いものだったのです。
 1つ目の転換点は、先ほど述べたゼヒターに和声や対位法などの作曲の基礎的技術を学び(1855年〜1861年)、オットー・キツラーに音楽形式やオーケストレイションを学んだ(1861年〜1863年)ことです。ブルックナーはそれまでの創作活動の中心であった声楽曲の作曲技術を、より強固で確実なものにするためこの2人に師事したのです。その勉強の成果が修了の直後、ブルックナーの意図していた作品、すなわち3つの大ミサ曲となって現れたのです。一方キツラーの教程の最終段階には、ピアノによるソナタ楽章の実践、多楽章室内楽(ソナタ形式を含む)の実践、ベートーヴェンの「悲愴ソナタ」のオーケストレイション、オーケストラによるソナタ楽章(序曲)の実践、そして、交響曲の作曲、最後に「詩編第112篇」という風に段階的カリキュラムが組まれていました。ブルックナーはそれらの課題に熱心に取り組みそれぞれに成果を上げています。交響曲については、キツラーは当時のロマン派交響曲の一般的作曲法をここで教えたのですが、ブルックナーは熱中して作曲し、かなりの自信作「ヘ短調交響曲」を完成しました。あまりの熱中は、すでにこの時点で師のキツラーを遥かに越えてしまう結果となり、師からはあまり良い評価が得られなかったようです。しかしこの段階では、まだ一生を交響曲創作に捧げるというところまではいかず、自身の宗教音楽作曲家としての大成を目指していたようです。
 2つ目の転換点はリンツへの転居によって、その地の音楽愛好家マイフェルト夫妻からもたらされました。彼はベートーヴェンの交響曲の素晴らしさをブルックナーに吹き込み、彼の妻ベティーは上手にピアノを弾いたので、ブルックナーと彼女はベートーヴェンの交響曲を連弾で楽しんだのです。ブルックナーはベートーヴェンの「第9交響曲」に特に感激し、当時この曲をオーケストラで聴くことを非常に熱望していました。そして、この作品が彼の後半生を決定づけたのです。すなわち交響曲作曲を彼の生涯の仕事としてはっきりブルックナーは認識したのです。したがって、1869年の『0番』と言われる「ニ短調交響曲」以降の全てのブルックナーの交響曲には、ベートーヴェンの「第9交響曲」の影響が著しく示されているのです。

ブルックナーの11曲の交響曲は、4つの時期に分けることが出来ます。まず、それを表にしてみましょう。

創作時代区分 交響曲の時代区分 作品名
初期
(1824〜1860)
・・・・・・・ なし
過渡期
(1861〜1869)
模索期
(1863〜1869)
「ヘ短調交響曲」  1863
「第一交響曲」   1866
「ニ短調交響曲(0番)」1869
後期
(1870〜1896)
確立期
(1870〜1876)
「第二交響曲」   1872
「第三交響曲」   1873
「第四交響曲」   1874 
「第五交響曲」   1876
発展期
(1879〜1887)
「第六交響曲」   1881
「第七交響曲」   1883
「第八交響曲」   1887
模索期
(1887〜1896)
「第九交響曲」   1896


<模索期>の3曲は、語り口はブルックナーですがスタイルがまだ確立していない状態を示しています。ブルックナーがどのような方法で交響曲を作曲すべきか探っていた時期でありましょう。そしてベートーヴェンの「第9交響曲」という大きな指針を発見し、「0番」によって自分の進むべき道を見いだした時期でもあります。
<確立期>は、4曲続けさまに交響曲が作られた時期です。一旦進むべき道を知ったブルックナーは、堰を切ったように毎年新作を書き続け、かつ一作ごとに目覚ましく成長を遂げた期間でもあります。このヴァルキューレのような巨大な交響曲の4姉妹は、ブルックナーの金字塔であるとともに、以降彼を悩まし続ける娘達でもあったのです。
<発展期>の3曲には、成熟したブルックナーが交響曲作曲に新しい可能性を求めてさらに奥深く追求した苦闘のあとが示されています。これら3曲の中では、「第六交響曲」と「第七交響曲」は新しいスタイルの構築を目指しているのに対して、「第八交響曲」は<確立期>の成果の深化を目指しており、幾分違った傾向が見られます。
最後の<模索期>の「第九交響曲」には、彼が到達した最高の交響曲作曲技法が示されているとともに、さらに深く追求し模索し続けたあとをも示されています。それは、上記の小さな表でも分かるように、十分時間がありながら、この作品を完成することが出来なかったという事実にも端的に現れています。他の大作曲家なら完成期にあたるこの時期、ブルックナーには究極の完成というものはなく、螺旋階段を昇り続けるように、ひたすら求め続けるという傾向が顕著に現れているのです。それ故、彼の作品は驚異的な深みに到達したとも言えるのです。

 ブルックナーは、彼の勤勉さによる自身の絶えざる成長と、完璧さを追求する性格から、完成作を何度も吟味し直すことを習慣としていました。それは、彼の全生涯にわたって継続していますが、特に次の2つの時期には、単なる手直しではなく、徹底的な作品の再創造を行なっています。このことについては、従来他人の影響によるものと説明されることが多かったのですが、あくまでもブルックナー自身の内的欲求から起こったことであることを強調しておかなければなりません。

<第1次改訂期>(1876〜1880)
4連作の創作により驚異的な成長を遂げたブルックナーは、これまでの作品を冷静に見直し改訂を加えました。
@全く別に新しく書き直した作品:「第四交響曲」
@当初のスコアを用いながらもかなりの部分で差し替えをした作品:「第三交響曲」
@相当手を加えた作品:「第一交響曲」、「第二交響曲」、「第五交響曲」(当初のスコアの第1,2楽章は行方不明のため詳細不詳)
<第2次改訂期>(1887〜1891)
過去の作品の集大成である「第八交響曲」を作曲したブルックナーは、この作品を含めて「第四交響曲」以前の作品を再度見直しました。
@全く別に書き替えた作品:「第一交響曲」、「第八交響曲」のスケルツォ
以前のスコアを用いながらもかなり書き替えた作品:「第三交響曲」、「第八交響曲」の第1楽章、アダージョとフィナーレ
@相当手を加えた作品:「第二交響曲」、「第四交響曲」

第2次改訂期には、「第一交響曲」から「第五交響曲」に対してブルックナーは興味ある対応の違いを示しています。
@「第一交響曲」全て自分で改訂
A「第二交響曲」全て自分で改訂
B「第三交響曲」フィナーレのみ弟子の協力
C「第四交響曲」全曲弟子の協力
D「第五交響曲」殆ど対応なし

なお、出版にあたっては全ての交響曲は再度吟味され、表情や強弱指示に変更が加えられて出版されました。なお、「第五交響曲」については、フランツ・シャルクが大きく改訂しています。
 

(注)表の『交響曲の時代区分』の年代が開いていたり重なっていたりしているのは初稿の創作を対象にしているからです。各『交響曲の年代』も初稿の完成時を示しているに過ぎません。