1,ベルリオーズ「幻想交響曲」殺人事件
ベルリオーズの「幻想交響曲」は、ロマン派標題音楽のはしりとして、かつ標題音楽的表現のもっとも成功した例として有名です。周知のように、そこにはかなり長い標題的説明が付されており聴衆はそれに従って聴くことが可能となっています。しかし、標題音楽は絶対音楽に劣るものであるという風潮があって、音楽を表題的に聴くことは、より低レヴェルなことのように思われがちです。実際、ベートーヴェンの「田園交響曲」について、あくまでもこれは具体的な事象を表すものではなく、気分や感情を表現するものであって厳格に構築された絶対音楽として聴くのが本筋であるといった評がなされることがありますが、これはベートーヴェンを擁護しているようで、決してそうではないのです。音楽の表題的要素と絶対的要素の程良い融合がこの曲の本質であって、標題的要素を過小に評価することによって、この曲およびベートーヴェンの権威を高めようとする論調は正しくありません。この曲の標題的要素は、それとして正当に評価されるべきです。
一方、「幻想交響曲」については、標題的要素ばかりが強調されすぎて、一段程度の低い音楽と見られがちです。しかし、この作品も厳格に構築された絶対音楽としての側面をもっており、この曲の解説にはそういった面がないがしろにされる傾向があります。ここでは「アダージョ楽章」を中心に、この作品の標題性と絶対性の見事な融合をスコアを参照しながら辿っていきたいと思います。
いずれにしても音楽を、標題的であるとか絶対的であるといった観念的見地から優劣をつけることは避けなければなりません。どのような作曲法で作られたものであれ良いものは良いのであって、レッテルで評価するのは間違いでしょう。かつて、19世紀後半のヨーロッパの音楽評論家や音楽ファンは、ワーグナー派とブラームス派に分かれて論戦に明け暮れていたらしいのですが、そういった本質をはずれた、単なる論争のための論争の繰り返しからは、何も建設的なものは生まれないし、歴史的真実を覆すことは出来ません。彼らのやった不毛の戦いからは何も生まれないのです。良い音楽はどんな形式を取っていても聴き継がれ、つまらない音楽は歴史の女神のヴェールの中に安住の地を見つけるのですから。
前置きが長くなりました、そろそろ本題に入りましょう。「幻想交響曲」には結構長い物語が付いています。まずは、その物語を見てみましょう。
《異常に敏感な、そして豊かな空想力に恵まれた若い音楽家が、希望のない恋愛の故に深い絶望におちいり阿片を飲む。毒薬は彼を殺すには弱すぎたが、しかし彼を奇妙な幻想を伴った深い眠りにさそう。彼の感覚や気分や記憶が、病んだ彼の心の中で音楽的なイメージや音楽的発想に変えられる。彼の『想い人』である彼女自身は、彼にとっていつでもどこでもつきまとう固定観念とも言うべき一つのメロディーとなる。》
と言うことで、全体は5つの楽章に分かれ、それぞれの楽章には次のような表題と短い筋書きがあります。
第1楽章 『夢、情熱』
《最初、彼は魂の疲れを、漠然とした渇きを、薄暗い憂鬱を、そしてあてのない喜びをおぼえる。それらは、彼が『想い人』に出会う以前に経験したものである。そして突然の彼女の出現によってもたらされる爆発的な恋愛感情、抑えきれない嫉妬心。しかし、やがて彼は心の平安を回復し、宗教的な慰めにひたる。》
第2楽章『舞踏会』
《舞踏会のとき、騒々しく華やかなお祭り騒ぎのさなかに、彼は再び『想い人』を見出す。》
第3楽章『田園の情景』
《田園における夏の夕方、彼は二人の牧人が羊飼いの笛でお互いに呼び合っているのを聞く。田園的な二重奏、のどかな景色、風によって柔らかく揺れる木々の穏やかなざわめき、最近彼に知られるようになった希望へのある根拠。これらのものが全て一つになって、彼の心は穏やかな静けさによって満たされ、彼の希望には明るい色彩がつけられる。しかし彼の『想い人』があらためて現れ、痙攣が彼の心に起こり、そして彼は暗い予感によって満たされる。もしも彼女が彼を捨てたならば?牧人の一人が単純なメロディーを再び歌い始める。もう一人はもはや答えない。陽は落ちる。遠雷が響く。孤独。静寂。》
第4楽章『刑場への行進』
《彼は彼の『想い人』を殺したことを夢見る。彼は死刑を宣告され、刑場にひかれる。その行列には、あるときは憂鬱で荒々しく、またあるときは荘重で華やかな行進曲が伴う。騒がしい爆発は直ちに規則正しい歩みの重々しい響きによって続けられる。最後に、愛への最後の未練のように『想い人』の主題が現れるが、それは斧の落下によって切り取られる。》
第5楽章『魔女の祝日の夜の夢、魔女のロンド』
《彼は魔女の祝日(それは彼自身の埋葬でもあるのだが)に出席していると思っている。それは、幽霊や魔法使いやあらゆる種類の化け物の恐ろしい群によって囲まれている。不気味な音、うなり音、キーキーいう笑い声、遠くからの叫び声、それらにまた他のものが答えているように見える。彼の『想い人』の旋律が聞こえてくる。しかしそれは、気高さや慎ましさを失っている。そのかわりそれは今や卑しい踊りの調子、つまらないグロテスクなものとなっている。彼女は魔女の祝日にふさわしい喜びの挨拶を受けて到着する。彼女は悪魔の騒々しい宴に加わる。そこで葬式の鐘、「怒りの日」のこっけいな旋律が響く。魔女の踊り。その踊りと「怒りの日」とが一緒になる。
この物語は、ベルリオーズ自身が作ったものですが、彼が述べているように、これは非現実的な『夢の世界』の出来事なのです。(当初の形では、「第1」、「第2」、「第3」、の3つの楽章は現実の世界であり、その後主人公は阿片を飲み「第4楽章」と「第5楽章」を夢見るということになっていました。しかしベルリオーズは後に、上記のように最初から阿片を飲み全編が夢の中のことであると変更したのです。)このことは非常に大切なことです。物事を音楽で表現することは結局非現実的なことです。マイクを持って行って実際にその音を採る訳ではないのですから。ベートーヴェンの「田園交響曲」での鳥の鳴き声や嵐の情景はどうしても嘘っぽいですね。そのためかどうか、これは直接の描写ではなく『感情の表出』とか『作曲者の自然観や世界観』を表すものであると理論武装する必要があったのです。実際のところ、本当の音を録音したものよりも、音楽としての「田園交響曲」ほうがよっぽどその場を共有している感じがしますしね。翻って考えてみて、『殺人事件』の顛末の描写などと言うことを音楽で表すことは全く非現実的で嘘っぽいに決まっています。そこでベルリオーズは『夢』を持ち出したのです。現実世界での『夢』というものは、その内容は虚構ですね。もともと虚構である音楽が、直接『現実』のことがらを表現するより、虚構である『夢』を表現することにしたほうが、より現実的であるということなのです。
それではこの『夢の殺人事件』はいつ、どこで行なわれたのでしょうか。それを検証してみましょう。もともと殺人の描写などないという意見もありますが、局部描写のない裏ビデが売り物にならないと同様、ベルリオーズがこの話の『売り』である殺人描写をしなかったはずはないという前提に立って話を進めていきましょう。理屈などはあとで何とでもなるのですから。『解説』の中で殺人について唯一述べられている箇所は第4楽章です。短く《彼は『想い人』を殺したことを夢見る。》と書かれています。しかし、この楽章を通じて、彼が殺される箇所はありますが彼が殺した部分は見あたりません。私が聴くところによると、これは裁判風景と行進、それに刑場でのことの3点の描写がなされています。序奏は出廷の描写でしょう。すぐに現れる主題にしたがって裁判が進行していきます(17小節)。ファゴットは検事の告発文の朗読でしょう(25小節)。裁判がたけなわになって、最後にファゴットがモゴモゴ言っているのは裁判長による判決文の朗読です(49小節)。刑が決まると直ちにこの楽章の中間部である行進曲に移ります(62小節)。このマーチは刑場への行進とは、とても思えません。英雄の凱旋のような行進曲ですね。ベルリオーズはここで次の2つのことを揶揄しているのかも知れません。
@英雄の凱旋というものは刑場への行進と何ら変わるものではないと。(民衆にとっての困難の始まりであるとか、この英雄が次には負けて断頭台の露に消えてしまうだろうとか)
A主人公は彼の犯罪が英雄的なものであると自画自賛していると。(思い通りにならないにっくき『想い人』を殺したのだから)
行進がうやむやのうちに終わると、音楽は主部に戻り刑場での刑の執行の準備にかかります(114小節)。観衆のざわめきが頂点に達し主人公も刑を目前にして極度に興奮します(140小節)。断頭台の上に立つと彼の『想い人』の姿が頭をかすめ(164小節)、良く知られた首チョンパ(169小節)。ピチカートで首が断頭台から転がり堕ちます。最後は何故か昇天の音楽が(彼は地獄へ堕ちるはずなのに)(170小節)。これもベルリオーズの皮肉の表現でしょう。
ここで注目したいのは、『解説』がほぼ現在形で書かれているということです。そして、それにも拘わらず《『想い人』を殺した》と、ここだけはフランス語の複合過去形が使われているのです。普通の文の流れでは《『想い人』を殺すことを夢見る。》でしょう。したがって以前に殺したことを夢見ているのです。それともう一点、普通『恋人』と言われているのを私はあえて言いにくい『想い人』としました。なぜならこの話は主人公が一方的に恋いこがれているだけであって、彼女にとって彼は何でもない存在なのです。恋人どおしの恋愛話ではないと言うことです。いわば今流行のストーカー殺人的な物語と言えましょう。したがって『恋人』という言葉はこの場合適切でないと私は考えています。ベルリオーズの勝手な思いこみの『想い人』の話なのです。それでは前の楽章を見てみましょう。
一つ前の楽章は、第3楽章で、これが非常に怪しいのですが、そこに入る前に第2楽章『舞踏会』について少し触れてみましょう。この楽章は序奏とコーダのついた三部形式のワルツです。ワルツの中間部とコーダに『想い人』が現れるのです。序奏は、踊りが始まる前のうきうきした気持ちと、どんな人と踊るかというちょっとした不安を表現しているといわれています。ワルツは非常に分かりやすい楽しいメロディーです。ここではチャイコフスキーのワルツのような憂いは感じられません。ハイソの優雅な社交といったところでしょうか。中間部では3拍子に変形した『想い人』の主題がざわざわした中から現れます。それはやがてワルツのリズムに乗って踊り出します。それにワルツの主題の断片がまとわりつきます。ちょうどストーカーのように彼の目が彼女をしつこく追っていくような感じです。やがて彼は彼女を見失って、ワルツが再現します。踊りの絶頂の中で、突然彼女のテーマだけが現れます。彼の頭の中には彼女だけしかないということでしょう。すぐに最後の踊りの興奮がそれをかき消してしまいます。
さて、問題の第3楽章です。これまでに述べてきたように、彼の『想い人』は第2楽章までは生きていたし、第4楽章ではすでに死んでしまっていることは明らかです。すると彼女の死の時期は、第2楽章と第3楽章の間か、第3楽章の中か、第3楽章と第4楽章の間か、の3カ所に絞られてくるわけです。ここで注目したいのが、第3楽章の『牧人の笛』の部分です。楽章の最初と最後に置かれた本体部分とは異質のこの部分は、ちょうど額縁のような役割をしているのです。すなわち、額縁の中の絵のように他の楽章とは切り離された環境や状況を暗示しているのです。『夢の中の夢』という二重構造なのか、あるいは逆にマイナスのマイナスはプラスという発想に立って『夢の中の現実』を表しているのか、いずれにしても他の楽章とは次元が違うということを、この額縁構造によってベルリオーズは暗示しているのです。私はこれらを『プロローグ』と『エピローグ』と名付けました。ちなみにこういった額縁構造で異空間を表現する方法を採っている例がもう一つあります。それはチャイコフスキーの「白鳥の湖」の第2幕です。このことについては「白鳥の湖」のところで詳しく述べることにしましょう。
『プロローグ』はイングリシュホルンとオーボエの対話で出来ています。イングリシュホルンが吹いた同じメロディーをオーボエがエコーのように後からなぞるのです。そしてオーボエは遠くから聞こえるように舞台裏で演奏するようにスコアには指定されています。(『プロローグ』が終わるとオーケストラの定位置へ戻るようにとも指定されています。)途中で(11小節から)ヴィオラのトレモロが加わりますが、これは風にそよぐ木々の葉擦れの音を模しているのでしょう。このように『プロローグ』は『ダイアローグ(対話)』であるのに対して『エピローグ』は『モノローグ(独白)』になっています。『エピローグ』では『プロローグ』と同じメロディーをイングリシュホルンが吹きますが、オーボエが吹いた箇所は、ティンパニによる遠雷に変わってしまっています。さあ、もう種がお解りでしょう。ベルリオーズが『牧人の笛』と言っていたのは実は、主人公と彼の『想い人』を暗示していたのです。『プロローグ』では彼の歌に遠くから答えていた(答えて欲しいという希望を表すといった方が正確でしょう)にもかかわらず、『エピローグ』ではもはや答えてくれる希望は全くなくなったことを示しているのです。『想い人』はすでに死んでしまっているからです。ティンパニは彼女の亡霊を表しているのです。このように見てくると、第3楽章の中のどこかで彼女が死んだはずであるということに確信が持ててきたでしょう。それをこれから探っていきましょう。
第3楽章のアダージョの主部は変奏曲を主体としています。ベートーヴェンの「第九交響曲」の第3楽章以来で変奏曲形式を採る緩徐楽章として最も成功したものの一つと言えるでしょう。非常に考え抜かれた立派な作品であります。これは8つの部分に分かれており、そのうちの5つは主題と変奏に関する部分であり、残りの3つは挿入部分とコーダです。主題は第1ヴァイオリンとフルートによって提示されます。和声や伴奏がなく単音での響きは、第1楽章で提示される時の『想い人』の主題と全く同じ音色と響きを持っています。大事なものを示すときは何も付け加えないというのがベルリオーズの主義なのでしょう。それとこの主題と『想い人の主題』に強い関連性が感じられます。この主題をベルリオーズの標題文の表現にしたがって『恋の希望の主題』と名付けましょう。
『恋の希望の主題』(20ー32小節)は、普通、変奏曲に用いられる単純な二部形式や三部形式によらず、全く自由な歌の流れで作られています。全体は3つの部分(20−23,24−27,28−32小節)に分けて考えることが出来、その第二の部分にこの主題の特徴があります。すなわちこの部分では「ドドーレッドレーシソー」というメロディーが2回続けて弾かれるのです(動機Bとしましょう)。ベルリオーズはこのことに何か意味を込めている筈ですが、私にとって今なおこれは謎のままとなっています。『恋の希望の主題』は全体として緩やかな上昇曲線を描きながら最後の部分で急激にしぼんでいくようにメロディーラインが構成されており、夢と希望が膨らんでいくようで、結局最後は元に戻ってしまうような感じになっています。
第1変奏(33−47小節)、主題のメロディーラインが降りてきた着地点が、ちょうど始まりの3度上になり、そのまま3度高く主題を奏します。そこに第2フルートと下から上ってきた第2ヴァイオリンが重なってもとの主題を奏するので、非常に美しくまたより柔らかく響きます。彼の希望が膨らんでいくことを暗示しているようです。ここで注意するのも動機Bの箇所です。クラリネットとホルンがCーDesーCとC−D−Cの2つの動きをしますが、これはこの交響曲の基本的な動きであり『想い人の主題』に端を発しています(第1楽章、85−94小節)。
第1挿入部(48−68小節)、ブランコが揺れるような感じから始まり、非常に楽しげな、幸せな感じの部分です。最後のヴァイオリンと各木管楽器が呼び交わす部分など単純でありながら非常に色彩的で効果的です。
第2変奏(69−86小節)、ヴァイオリンの細かい動きと木管の付点音符の合いの手に乗って、ヴィオラとチェロが暖かく、柔らかい響きで主題を奏します。ここでは6拍目の裏に鋭いスフォルツァンドがあり、ちょうどタンゴのリズムのようなうきうきした感情を表しています。しかし後半、弦の密やかな刻みから様相が一変し、なにやら雲行きが怪しくなってきます。そして、急激な高潮のあと。
第2挿入部(87−116小節)に入り、弦の荒々しいトレモロに乗って、ベートヴェンの「第九交響曲」の第4楽章の低弦のレシタティーヴォのような、怒りの叫びが聞こえてきます。これも『想い人の主題』から出来ていることにその特徴があります。すなわち、ソドソミというメロディーラインをヴァイオリンのトレモロのソと低弦のドソ(ドレ)ミでなぞっているわけです。低弦の叫びの間を縫って、フルートとオーボエが『想い人の主題』を殆ど変化せず切れ切れに非常に神経質な響きで答えます。そしてそれは、低弦の怒りが大きくなるに従ってい最後は絶叫の拒絶となってしまいます。やがて興奮は収まり、チェロだけがDesの音で深いため息をつきます。この和声から外れた音は、先ほどのクラリネットとホルンのDesに関連しています。やがて音楽は、何事もなかったような田園調に戻り次の変奏へ向かいます。
第3変奏(117−130小節)、ベートーヴェンの「第五交響曲」の第2楽章の第1変奏のように、ここでは16分音符が正確にメロディーラインを縫うように進んで行きます。ただ、ここではピチカートであることと音量がピアニッシシモであることが変奏であることを解りにくくしているのです。これはベルリオーズの狙いでもあるのです。殆ど潰えた希望を表しているのですから。そして念を押すように、3小節目からクラリネットが、全く新しく、それでいて『恋の希望の主題』と奇妙に符合するような主題を吹奏します。これを私は『恋の諦めの主題』と名付けましょう。さて、先にも触れましたが、この変奏の動機Bのところで初めてピアノ4つと言う異例な指示があるのです。クラリネットには更にEchoと記されています。皆さんこれをどうお考えですか?ケンカ別れをするまではエコーはなく、そしてこの変奏と次の変奏には極端なエコー指示があるのです。もちろんベルリオーズは意図的にこのようなことをしたのは明白です。
これが何を意味するのか皆さんのお考えをお知らせください。
第4変奏(131−149小節)、ここでもベートーヴェンの「第五交響曲」の変奏に倣い第1ヴァイオリンが32分音符の細かい動きで正確にメロディーラインを縫うように進んでいきます。第2変奏の時の32分音符とは全く意味合いが違うのです。ここでは完全なメロディーの流れになっているのです。それにも拘わらず、ベルリオーズは第2ヴァイオリンに主題のメロディーを変化せずそのまま形でも並奏させているのです。何故でしょうか?伴奏は駆り立てるような32分音符の連続になっています。そして木管は『恋の諦めの主題』を演奏します。動機BのところではPresque rien(quasi niente)<殆ど音がない>と指定されています。この指定通りの演奏なんてはたしてあるのでしょうか?音楽はやがて決断を確信したかのように高潮し、ラレンタンドのすえコーダへ入っていきます。
さて、残されたのはコーダの25小節(150−174小節)のみとなってしまいました。この中に、殺人場面はあるのでしょうか?音楽はホルンのヘ長調の深い和音にのって弦楽器が交互に『恋の希望の主題』の断片を歌い継ぐ間に木管楽器が『想い人の主題』を懐かしく思い出させてくれます。そして155小節。ここです。ここで主人公が『想い人』を刺すのです(7度の下降音形)。彼女の体から血が(チェロのピチカート)。襲い来る戦慄。そしてもう一刺し(157小節)。溢れ出る鮮血(フルートのトレモロ)。事切れる『想い人』(弦のトレモロ)。2倍に拡大された『想い人の主題』の断片(160小節)は、むくろとなった彼女を表し、3連符の伴奏リズムは死体が冷たくなっていくさまを暗示しています。そして焦燥感にさいなまれる主人公(164小節)。それは、やがて静まり、死体の影だけがぼんやりと浮かびだし(170小節、フルート)、全ては暗闇の中に溶け込んで行きます。
これが、私が思い描くコーダの筋書きです。皆さんどう思われますか?打楽器や激しい金管の音もなく淡々と進んでいくように描かれていることに皆さんは奇異の念を抱かれるかも知れません。しかし、殺人という行為を心理的に見てみると、かえってこの音楽が示すように、静かで透明なものであるのかも知れません。それよりここでは全ての音符がなにがしかの意味を持っていることに注意してください。そして、彼女を刺す場面はベルリオーズの発案ではないのです。これには前例があります。それは他ならぬベートーヴェンの序曲「エグモント」です。この曲の278小節目には、断頭台に連れてこられたエグモントが斬首される場面が描かれています(ヴァイオリンの4度下降音形)。その後木管の昇天の音楽が続きますね。この下降音形が『死』を表現するのに適しているのでベルリオーズは引用したと言うことでしょう。
この「幻想交響曲」の物語は、ちょうどいま我が国で時々起こる「ストーカー殺人」の先駆をなしているように私には思えます。そしてこういった事件の現場や当事者(犯罪者)の心理的な葛藤を非常に的確に表現していると言えるでしょう。どんな心理学者の説明より、この音楽を聴く方が我々を納得させるのです。それはこのアダージョだけでなく全曲を注意深く聴くことによって更に強固になります。特に第5楽章で描かれている音楽は、殺人を成就し、自身も断頭台の露と消えながらも恨みがあの世まで残るという「ストーカー殺人」の満たされざる本質をいかんなく描ききっているように思います。
これで、私、やすのぶ探偵の今回の捜索は終わります。ここで私が言いたいのは、ベルリオーズの「幻想交響曲」は、彼28歳の時のいわば若作りの作品であるにも拘わらず、異様な程の集中力と凝縮力をもって作曲されており、一般に考えられているよりもっともっと標題的な音楽であり、また一般に考えられているよりもっともっと形式的な音楽なのです。そして斬新な管弦楽手法を駆使しながらも、一方で伝統や過去の成果を抜け目なく取り入れているのです。このことが、この作品が交響曲の代表的名作としての一般の評価を勝ち得ている真の原因であろうと私は考えています。残念ながら、私の持っている「全音」のスコアの解説などは、通り一遍の表面的な解説しかなされておらず、特にアダージョなどは筆者に形式の基本構造すら視えていないのではないかという疑念すら生じさせています。最後に、皆さんのこの曲の鑑賞の一助になればと思い、このアダージョの形式の基本構造を一覧表にして示しておきましょう。
「幻想交響曲」アダージョの分析表
| 分析 | 区分 | 小節数 | 内容 | |
| プロローグ | 1− 19 | 19小節 | イングリシュホルンとオーボエの対話 | |
| 1 | 主題 | 20− 32 | 13小節 | 『恋の希望の主題』 |
| 2 | 第1変奏 | 33− 47 | 15小節 | 3度の上乗せ |
| 3 | 第1挿入部分 | 48− 68 | 21小節 | 恋の成就による幸せを夢見る |
| 4 | 第2変奏 | 69− 86 | 18小節 | 6拍目の裏の強調 |
| 5 | 第2挿入部分 | 87−116 | 30小節 | 対立と拒否 |
| 6 | 第3変奏 | 117−130 | 14小節 | 希望の挫折と『恋の諦めの主題』 |
| 7 | 第4変奏 | 131−149 | 19小節 | 抑えがたい衝動と決断への確信 |
| 8 | コーダ | 150−174 | 25小節 | 殺人と焦燥感、全ては暗闇の中へ |
| エピローグ | 175−199 | 25小節 | イングリシュホルンの独白、遠雷 | |
完
2000年12月25日
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