8.バレエ《眠れる森の美女》のカラボスは悪役なんかじゃない!

《眠れる森の美女》の原作といえば、グリムやペローの童話が知られていて研究もよくなされているが、バレエの《眠れる森の美女》の原作台本については、その存在自体がほとんど等閑に伏せられ、現代では完全に無視されている。バレエの台本などどっちみちつまらぬものだという先入観と、バレエをプロデュースする人たちからは「足枷となるだけの面倒くさい原典」であると考えられて極力無視される傾向があることがその原因なのだろう。しかし、フセヴォロジュスキーによって作成され、チャイコフスキーが作曲したもともとのバレエ《眠れる森の美女》の物語は、たくさんのディヴェルティスマンを寄せ集めただけの壮大で空疎なつまらぬ物語などではなく、グリムやペローの童話とは全く方向の違う、深い示唆に富んだ非常に優れた思想を持つ素晴らしい作品なのである。それが象徴するものは、もともとはロシア帝政の繁栄と永続であったが、現代では人類全体の繁栄と永続を願い言祝ぐ祝典的なバレエとなっているのであって、劇場の柿落しの演目に選ばれることが多いのはそのことに由来するのである。今回は趣向を変えて、「☆バレエ少女ニコル」と「◆やすのぶ探偵」の対話風に話を進めてそのへんのところを、解明して頂こう。

☆ニコル:私、あまり上手には踊れないけど、バレエ観るのは大好き。バレエでは本当の悪党なんてあんまり見ないけど、どちらかというと、私はカッコイイ悪役の方が好きなんだなあ。
《白鳥の湖》のロートバルトなんて、出てくるだけでゾクゾクするわ。同じチャイコフスキーでも《くるみ割り人形》のネズミの王様は悪役と言ってもネズミのぬいぐるみを被っているし、やっつけられるためだけに出てくるようでつまんない。
その代わりと言っちゃあなんだけど、ドロッセルマイアーおじさんはちょっと悪役風味なのが素敵!
でも、何てったって私が一番好きなのは《眠れる森の美女》のカラボス。『オーロラ姫は死ぬ!』と、予言するところなんて最高! 音楽にも凄く合ってるしね。

◆やすのぶ:悪役はインパクトがあっていいね。

☆ニコル:それに、悪役いないと話にならないもん!

◆やすのぶ:そりゃそうだ(笑)。ところが、ニコルちゃんの好きなカラボスはバレエでは本当は単なる悪役じゃあないんだよ。童話やディズニーのアニメでは悪役そのものなんだけどね。

☆ニコル:エエッ! 私、バレエの《眠れる森の美女》、DVDなんかで結構いくつも観て来たけど、悪役じゃあないカラボスなんて、そんなのなかったわよ。そういや、最近ユーチューブ(You Tube)で観たのの中で、3幕の結婚式のお祝いにやって来るたくさんの童話の主人公たちの中にカラボスもいたような・・・・結構バツ悪そうにしていてカッコ悪かったけど・・・。

◆やすのぶ:それ、サンクト・ペテルブルクのマリインスキー劇場で制作された[リコンストラクション](復元版)じゃあないかな? そこでは第3幕2曲目の《ポロネーズ》のところでの『童話の主人公たちの行進』が、初演で演じられたまま再現されているということだ。その中にリラもカラボスも居るってわけだね。

☆ニコル:それ、それ! でも観た感じ、この版のカラボスも結構悪役だったと思ったわ。悪役がお祝いの席に出てくるなんて『とっても変』って印象・・・

◆やすのぶ:事の発端が、カラボスをオーロラの命名式に呼ばなかったことだったので、失態を2度繰り返さないという意味で、今度は結婚式にカラボスを呼んだということかも知れないけど、あれだけ悪いことをした妖精を呼ぶなんて、どう考えても変だよね。しかし、最初のチャイコフスキーに作曲を依頼した当時の台本通りやれば、これはちっとも変じゃあないんだよ。

☆ニコル:じゃあ、最初の台本って、あれとは違うってこと?

◆やすのぶ:今やっているのは、どのカンパニーのも、長い上演史の中での試行錯誤の結果、いろいろな工夫が凝らされて、短く、観やすく、飽きさせないようにアレンジされたものなんだ。チャイコフスキーが書いたスコアをそのままやっちゃうと、音楽だけで3時間以上。休憩を入れたりすると4時間を超えてしまうんだよね。まるで阪神の延長戦みたいにくたびれるだけってなことになるんだ。それはそうとして、1890年の初演の時ですら、短くなっただけではなく、もう既に話はかなりの部分ですり変わっているんだよ。だから、この[ リコンストラクション] も、初演を再現することを目的としている以上、最初の台本すなわちチャイコフスキーが作曲した音楽そのまままの形とは違っていて当然なんだ。もちろん、この[ リコンストラクション] が正確な『初演の再現』だということを前提としての話だけれどもネ。でも、観た感じこれは少なくとも他のどの版よりも初演の状態に近いものだとは言えるだろうね。

☆ニコル:ややこしい話ね。何故そんなことが起こったの?

◆やすのぶ:それは、決してこのバレエを作曲したチャイコフスキーのせいではないんだ。彼は、ちょっと長めに書いたとはいえ、注文通りに作曲しただけなんだ。もちろん、音楽的には自分の思いを作品の中に込めたことは事実だろうけど、表向きは劇場監督官のフセヴォロジュスキーが作ったと言われる『原台本』と、それに基づいてプティパが詳細に各場面を想定した『作曲指示書』の通り作曲したんだ。

☆ニコル:チャイコフスキーは何も言わなかったの?

◆やすのぶ:そうだよ。なぜなら、チャイコフスキーが最初のバレエ作品である《白鳥の湖》を作曲した時、当時のモスクワの劇場支配人や振付者達との間で細かいことをちゃんと詰めずに、自分の交響曲や序曲を作るように、彼の思い通りに作ってしまったので、初演のときには、バレエマスターによって当時のバレエの慣例にしたがって、都合の悪いところや踊りにくいところは、省略したり、曲順を変えたり、他の作曲家の作品を挿入したりして、踊りやすいように変えられ、音楽自体がボロボロにされてしまったということが定説になっている。実際のところどうだったのか、ということは舞踊譜や演出記録が残されていないので詳細は不明だが、初演の台本と初演のポスターは残されており、この2つの資料からは、物語とダンスが融合した現在のバレエとは違って、当時の上演形態はマイムとダンスが分化した、すなわち、マイムの部分とダンスの部分は別々に交互に現れるようなものだと推測されるんだ。そしてダンスの部分はチャイコフスキーのスコアとは違うとも思える記述がポスターから窺える。例えば、第1幕にはポルカとかギャロップと名付けられたダンスが農民の娘や王子によって踊られるが、そういった曲名はスコアには存在しない。バレエマスターが踊りやすい曲だけを選んで振付したのかもしれないね。「パドトロワ」の中のヴァリアシオンをそのように名付けて踊ったということは否定できないけれども、少なくとも「パドドゥ」は踊られなかったのではないだろうか? このようにチャイコフスキーは、バレエではオペラのようには作曲家の思い通りにはならないという痛い経験をすでに積んでいたというわけだ。

こういったことに懲りていたチャイコフスキーは、次のバレエ作品では振付家の言うとおりに作曲しようと心に決めていたんだ。だから、スコア自体の物語はフセヴォロジュスキーの最初の構想のままという訳なんだ。

ところが音楽が完成して、いざその音楽に基づいて振付をする段階になると、やっぱりいろんな不都合が生じて来て、プティパは自分の作った『作曲指示書』の内容を自分で変更せざるを得ないことになってしまったんだ。バレエの制作現場とはそういったものだと言ってしまえばそれまでなんだが・・・・

☆ニコル:じゃあ、だったら自分たちが作ったものを、自分たちが変えてしまったというわけね。

◆やすのぶ:まあ、そういうことだね。このバレエにはディヴェルティスマンと呼ばれる単なる踊りの場面がたくさんあるけど、それらの音楽を削除したり差し替えたりするとか、バレエにはよく使われる習慣的な挿話みたいなものを削除するくらいなら大した問題ではないんだけどね。話の肝のような本質的なものがすり替わってしまうと、これは大問題なんだ。話がチンプンカンプンになってしまって、バレエとして一貫した構成による《眠れる森の美女》ではなくなってしまうからね。


<<青い鳥のパドドゥ>>

◆やすのぶ:まずは、物語的にはどうでもよい話から始めよう。たとえば、さっきスコアは元々の構想のままを示していると言ったけど、実は例外が1個所あって、そこにはあとから追加された痕跡が残されているんだ。第3幕の『サンドリオン(シンデレラ)とフォルチュネ王子』という踊りだ。
チャイコフスキーは最初、指示書通りにおとぎ話の登場人物4人が一緒に踊る《No.25 パドカトル(サンドリオン、フォルチュネ王子、青い鳥、フロリーヌ姫)》として4つの曲を作曲していたんだ:
「アダージョ(4人)」−「サンドリオンとフォルチュネのヴァリアシオン」ー「青い鳥とフロリーヌ姫のヴァリアシオン」ー「コーダ(4人)」

☆ニコル:フーン。そうだったんだ。でも、そんな形でなんて見たことないわね。

◆やすのぶ:そう。あの青い鳥の音楽で4人が踊るなんて、どこのカンパニーもやっていないよね。

実は、当時第1舞踊手をしていたエンリコ・チェケティという有名なダンサーにはカラボスと青い鳥が配役されていたんだ。登場人物の多い《眠れる森の美女》では、役を2つ与えられたダンサーが多かったんだね。ところが彼は自分の妙技を際立たせるために、既に出来あがっていた《パドカトル》(4人の踊り)の音楽を、元々あった4曲をそのまま全部使って青い鳥とフロリーヌ姫だけが踊る『パドドゥ』(2人の踊り):
「アダージョ」ー「青い鳥のヴァリアシオン」ー「フロリーヌ姫のヴァリアシオン」ー「コーダ」
として自分で勝手に振り付けてしまったんだ。いまでは考えられないずいぶん乱暴なことだけど、この『変造パドドゥ』はチェケティのおかげで現代でも《眠れる森の美女》の大きな見せ場の1つとして欠くことのできないものになっているんだから不思議なものだよね。実際、この踊りはプティパの振り付けとはちょっと違う味だし、なにより青い鳥が難しい振りを連発している。結局、この『青い鳥のパドドゥ』がダンスとしてあまりに素晴らしいので、元に戻して《パドカトル》でやろうなんていう振付家は出て来っこないってわけだ。

☆ニコル:そうよね。青い鳥の方がデジレ王子より断然カッコイイ!

◆やすのぶ:でもその結果、シンデレラ組の方の出番がなくなってしまった。さて、それはたいへん困ったことになったんだ。何故って、シンデレラはリラの精も踊ったプティパの娘のマリア・プティパに配役されていたんだから・・・。プティパは怒っただろうねえ。結局、お鉢がチャイコフスキーに回って来て、彼はシンデレラのために1曲追加曲を書かされるはめになってしまったんだ。この新しい音楽に振り付けられた踊りは、赤ずきんちゃんの踊りの次にはめ込まれた。それで、もともとのスコアの《No.26 物語の踊り(赤ずきんちゃんと狼)》の後に、番号のない《サンドリオンとフォルチュネ王子》として印刷されているんだ。そういうわけで、1回しか踊らないシンデレラの音楽が、スコア上は2か所に存在するということになってしまった。だって、もともとの《No.25 パドカトル》の配役はスコアでは変更されていないからね。だから現代の上演でも時々みかける、王子が片方の靴を持ってシンデレラを追いかけるディヴェルティスマンの曲は、元々はなかったんだよ。今では、赤ずきんとシンデレラを分けるために『No.26a 赤ずきんと狼』、『No.26b シンデレラとフォルチュネ王子』と表示することが多いね。

☆ニコル:面白い話ね。シンデレラのワルツって流れるような感じでとっても素敵。これがなかったら、何か損した気がするのよね。

◆やすのぶ:話は戻って《No.25 パドカトル》の音楽を4人で踊ろうと青い鳥組だけの2人で踊ろうと、オーロラの物語には全く影響ないから、まあどちらでもいいことなんだけど、物語の根本の筋書きを、音楽の意味するものとは違うものにすり替えてしまうとなると、それは問題だ。だって、バレエには言葉がないから音楽自体が言葉なんだよ。それが言葉と違って演じられるということは『言行不一致』。観客に深い感動を与えることなんて出来っこないよね。

実際、振付者たちは踊りを振りつけるのに夢中になって、しばしば物語の流れよりも踊り自体を優先しちゃうことは《眠れる森の美女》に限ったことじゃあないんだよね。でもその結果『ダンスは素晴らしいけど、このバレエはいったい何を言ってるの?』てなチンプンカンプンな筋書きになってしまうってことがよくあるんだ。だから、バレエの物語なんて・・・って言われることになるんだがね。

少なくともチャイコフスキーが作曲した時点では物語は整然としていたんだよ。ところが、振付家と作曲家のスタンスの違い、一般観衆の作品に対する一種の固定的なイメージ、上演時間や舞台装置の都合、観客のダンス志向(筋書きよりも美しいダンスの方を求める傾向)などで本来の意図とは食い違うところがたくさん出てきてしまったんだ。そういった物語上の矛盾の中でも最も問題なのがカラボスの予言。


<<「死ぬ」のか「眠る」のか>>

☆ニコル:フーン。じゃあ、いったいあの恐ろしい予言の場面は、もともとの台本ではどうなっているの?

◆やすのぶ:もともとは
「カラボスはオーロラの美しさが永遠に保たれるように『オーロラ姫は永遠に眠る!』と、予言する。」
ということだったんだ。スコアのト書きにも、《No.4 フィナーレ》の168小節のところに
"Elle s'endormira et son sommeil sera éternel"(彼女=オーロラは眠りにつくだろう。そして、その眠りは永遠となるだろう)
と書かれているんだ。その個所の音楽は高音の方へ煙のように消えていき、最後は永遠の眠りを暗示する無音のフェルマータとなっている。このフェルマータの緊張が最高に達した時、カラボスの高笑いの音楽が突然飛び出すのだ。

ところが、その後
「カラボスは『オーロラ姫は死ぬ!』と予言する。」
に変えられてしまったので現代では、あの絶妙のフェルマータを無視し、高笑いの音楽は『死の宣告』にすり替えられてしまっているんだ。もっとも、これはペローの童話がそうなっていたんだから、話を元に戻しただけだとも言えるんだけどね。

どうも、童話の筋立ての方が『死ぬ』と劇的にはっきりしていて話として分かりやすいし、それに何より、その方が誰もが昔から知っている筋書き通りなので、突然『オーロラ姫は永遠に眠る!』なんてことを言われると、その趣旨を理解する前に、みんなうろたえてしまって違和感の方が先に立ち、台本に反対したんだろう。だから結局みんなが知っている話の方向にシフトしていったんだろうね。

☆ニコル:どっちでもたいして違わないと思うんだけど・・・・

◆やすのぶ:いやいや、それが大違いなんだよ。[リコンストラクション]のことで、さっきニコルちゃんが、カラボスが3幕に出てくるって『とっても変』と言っただろう。カラボスが本当の悪役に見えるから変なんだよ。もともとの台本では、カラボスは単なる悪役じゃあなかったんだよね。それが初演の再現と銘打った[リコンストラクション]でさえ、いろんな演出上の変更を受けて、すでにカラボスは単純な悪役の方向にどんどんシフトしていったようだね。それで、変更を受けた部分と受けていない部分が混在した中途半端な状態を再現しているってわけだ。行列のカラボスの削除し忘れもその1つだと思うね。だからニコルちゃんが感じたように変なんだよ。

そもそも『死ぬ』という予言は、理由はどうであれ王国がカラボスを招待しなかったことに対する彼女の報復の言葉として発せられたのだから、カラボスは完全な悪役を意味している。その結果、ここでは『善悪の対立』というドラマツルギーが成立するんだ。だから『善が悪を滅ぼす』という分かりやすい物語の顛末が可能となったわけだ。だから3幕に滅びたカラボスが登場するなんて有り得ないことなんだ。バレエは言葉がないのでこういう分かりやすさは必須なんだよね。現代のどのカンパニーの《眠れる森の美女》でも、この設定を採用しているので第3幕にはカラボスは現われないだろ。オーロラを目覚めさせる直前にカラボスは王子にやっつけられて死ぬ、あるいはオーロラが目覚めたときにカラボスは滅びると解釈して場面構成をしている振付家もいるくらいだ。本来、妖精が人間にやっつけられたり滅びたりするなんて発想自体が変なんだけどねえ。キリスト教が入って来て、妖精のような土着信仰由来の信仰対象を中途半端に否定した結果、そういう発想が不自然でなくなったのかもしれないね。

一方、『眠る』という予言は、『王国のカラボスを招待しないという選択』の誤りを、カラボスは皮肉をもって警告しているだけなのだ。初演台本でカラボスはこう言っている。
「オーロラは、6人の名付け親の贈り物のおかげで、この世で最も美しく、最も魅力的で、最も賢明な姫となるだろう。私には彼女のこのような性質を奪う力はない。しかし、彼女の幸福が決して壊されることがないように−ほらご覧、何て私は善良なのだろうー指か手を最初に刺したときから眠りにつくだろう。そして、彼女の眠りは永遠となろう」。
これは、さっき言ったスコアのト書き=作曲指示書と全く矛盾しないだろう。[リコンストラクション]での、あのあやふやなマイムはなにか疑わしい感じだよね。初演で既に台本通りでなくああいう風に変更されてしまっていたのか? あるいは[リコンストラクション]が現代の解釈にアレンジしたのか?

☆ニコル:ロイヤルのマイムの方は、前半はちゃんと台本どおりのことをはっきり演技してるし、カラボスは最後に『死ぬ』ってことさら大仰にマイムするんだよね。リラはそれを受けて『死ぬんじゃなくて眠るんです!』って、演劇的でとっても分かりやすいわ。

◆やすのぶ:とにかくカラボスが『永遠に眠る』と予言したのは、招待された妖精たちがオーロラに与えたさまざまな美徳が『永久に継続する』すなわち『絶対老いないようにするために眠る』という『究極の付加価値』を付けようという贈り物なんだ。しかし、そんなものを貰ったって人間には全く手に負えない。人々はただただうろたえ、途方に暮れてしまうのだ。フセヴォロジュスキーの台本には『善悪の対立』というドラマツルギーなど存在せず、全く別の主張が繰り広げられているというわけなんだ。
さらに補足すると、事が起こるのは、オーロラ16才の時というのと、20才の時という2つの設定があるんだけど、いずれにしても、要するにこれは『美しさの頂点に達した時』という意味であって、普通の人間なら必ず起こる、そのときからの身体的劣化を、『眠り』によって永遠に防いで美徳を固定してやろうとカラボスは予言したんだ。言い換えれば、妖精たちの贈り物を無理やり最大限にパワーアップしてやろうという事なんだ。これは悪意と言うのではなく大いなる皮肉だと言ってもよいのかもしれない。

☆ニコル:『死ぬ』って、まあ現実的だけど、『永遠に眠る』って、死ぬよりもっと恐ろしいことじゃあない? 少なくとも現実には有り得ないことよね。眠っていても、心臓はずっと動いているんだし栄養補給しないと持たないわよ。

◆やすのぶ:そうだよね。だから、この予言は何か人間の根源的な性質にかかわるものを象徴しているんだと思う。

ところで、さっき「カラボスは単純な悪役の方向にどんどんシフトしていった」って言ったけど、実際[リコンストラクション]の映像を見てみると、予言の場面で、カラボスは『眠る』というマイムなんてしていないし、雰囲気は厳粛なままで、してやったりの高笑いもなさそうだ。一方、続いて登場するリラの方は『死ぬのではなくて、眠るのです』とはっきり分かるマイムをしているので、2人の話はかみ合ってない感じだね。そうした矛盾が行列にカラボスが出てくるという中途半端な演出にも現われているんだと思う。まあ、第3幕でのカラボスの登場を削除するくらいでは矛盾は解決しないんだけど・・・。

この中途半端さは『眠る』か『死ぬ』という根源的なものだけではなく、いろんなところで小さな修正がなされていて、ちょっとづつ辻褄が合わなくなっているんだ。たとえば、プロローグの幕開きの場面での赤ちゃんオーロラの登場だ。


<<赤ちゃんオーロラの登場>>

☆ニコル:オーケストラだけの序奏が終わって、最初に幕が上がったら乳母達がいる。彼女らはオーロラが寝ている揺りかごを抱えている。そして貴族たちが登場してきたら、乳母達は彼等にオーロラのお披露目をしている。そのあとファンファーレが鳴って王様とお妃さまが登場するって流れでしょ。

◆やすのぶ:いや違うんだ。赤ちゃんのオーロラは最後に登場するんだ。台本では、カタラビュットやその他の登場人物がいろんなことをした後:
「トランペットの音。小姓たちに先導されて、フロレスタン王と王妃の登場。乳母たちや養育係が揺りかごを運んでいる。その中には生まれたばかりの王女オーロラが休んでいる。」
となっている。このことについては、森田稔著の『永遠の《白鳥の湖》』(新書館)P204にも指摘されている。
<第1曲の18小節でカタラビュトが舞台中央前方に進み出て、集まっている宮廷人に対して、間もなく王女の誕生を祝う祝宴に王が到着することを告げる。【舞踊譜】は、ここでカタラビュトが舞台の左方へ行き、王たちが到着する前に、揺りかごを覗き込んで、オーロラ姫を見ることを指示しているが、台本(上述)ではまだ舞台には揺りかごはない。>
ここで言う【舞踊譜】とは森田氏の説明によれば、1903年の上演に用いられたステパーノフのシステムによるものだということで、1890年の初演から10年以上経っているので、その間に変えられたのかもしれないけど、現代の演出でも【舞踊譜】の方(赤ちゃんオーロラは始めから登場している)を採ってるものが多いように思えるネ。

☆ニコル:私がお妃さまなら、自分で姫を披露したいと思うけどねえ・・・

◆やすのぶ:そうだよねえ。ニコルちゃんと同じように考えたのか、パリのオペラ座のヌレエフ版の映像は、オーロラは先に登場してるけど、王妃が自分で抱いて一同に披露しているね。

☆ニコル:この演出、和やかで親しみが持ててとってもすてき!イギリスのジョージ王子が退院の時、ウイリアム王子とキャサリン妃と一緒にテレビに映っていたのと同じよね。

◆やすのぶ:でも、当時のやんごとなき人々の間では、現代の人間的な感覚より【舞踊譜】のやり方のような儀式的な方が正しかったのかも知れないね。だって、台本の方がよほど自然なのに、それをわざわざ変えるくらいなんだから・・・。

チャイコフスキーが作った幕開けの《No.1 行進曲》は、楽曲形式的には挿入部が2つある、いわゆる小ロンド形式(abaca)で出来ているんだ。(a)は登場の行進を表しているのは当然だが、(b)は尊大なメロディーと、それのちょこまかした変奏の交替で出来ているよね。(c)は優しいメロディー。その後音楽が盛り上がってファンファーレが響いてから最後の(a)に入るんだが、そこでやっと王家の3人が登場するんだ。台本やスコアには詳しくは書いてないけど、プティパとの打ち合わせで、それぞれの場面場面を想定してチャイコフスキーはこの音楽を作ったんだと思う。(b)のところ、スコアには『カタラビュットが語る』とだけ書かれているが、この対話風の音楽は、誰かと問答をしているような感じだね。たぶん大切な妖精たちへの贈り物に遺漏がないか最終チェックしているんだと思う。だいたいどの演出でも、招待者リストの巻物を見てチェックしているんだけど、7人の小姓が出てきて、そのうち6人が贈り物を持っていれば、観客に贈り物の数が1つ足りないことがはっきり分かるよね。この対話風の音楽は、カタラビュットと手ぶらの7人目の小姓との「君は不要だ!」「それはちょっとまずいんじゃあないでしょうか?」というやりとりだと思うんだ。(C)にも『カタラビュットが語る』と書かれているが、こちらはまだ披露されていないオーロラの目映いばかりの美しさについて述べるような優雅な音楽で、その後のワクワク感は貴婦人たちの期待の高まりを表しているんだよね。オーロラが既に居るのならあの音楽はいったい何なんだということ。そしてその頂点でファンファーレと共に王家が登場するって寸法だ。

☆ニコル:上手く出来た音楽ね。

◆やすのぶ:そりゃあチャイコフスキーだからね(笑) こんな全てお見通しの音楽なんだから、音楽が示す通りの演出をやらないと、芝居が全く生きて来ないんだよね。
とは言っても、バレエではグダグダと解説的な芝居をするより平明さが好まれる。そして何より踊りが観たい!だからどんどん手が加えられて行くんだろうね。
パリオペ版は、全部で147小節あるうち75小節をカットして半分の72小節しかないんだよね。だらだら分かり切った芝居をやらずに、お目当ての妖精の踊りにさっさと移行しようというわけだ。ほかのプロダクションでもこの第1曲は短くされることが多いね。
細かい動作や道具の省略→音楽の無効化→不要の音楽自体の短縮、カット。
という風に流れて行くんだろうね。


<<なぜ予言が死ぬから眠るに変えられたのか>>

☆ニコル:それじゃあ、みんなが知ってるペローの『オーロラは死ぬ』という予言が、何故『オーロラは永遠に眠る』に変わったのか、もっと詳しく教えて!

◆やすのぶ:作品成立の経緯からじっくり話して行こうか。そうすりゃ、だんだん分かってくると思うよ。まず登場するのが、イワン・アレクサンドロヴィチ・フセヴォロジュスキーIvan Alexandrovitch Vsévolojski。

☆ニコル:聞かない名前ね。

◆やすのぶ:この人はロシアの貴族で、外交官としてパリに長い間滞在しているあいだに、フランスかぶれになってしまったというわけ。彼は特にバレエが好きだった。いわゆるバレトマンと言われる人種で、祖国ロシアの首都、サンクト・ペテルブルクで、自分の理想を実現しようとしたんだ。普通のバレトマンは自分の思いのたけを込めてぐちゃぐちゃと文句を言うだけだが、彼は自分の思いを実現することが出来る立場にいたということなんだ。彼がロシアに帰国して就いた役職が劇場監督官というサンクト・ペテルブルクとモスクワの劇場を管理監督する立場だったんだ。たぶん希望してなったのだろうね。そこで自分のかねてからの思いを実現するために劇場の運営に関していろいろと改革を行なった。そして、才能ある芸術家を集めて世界で一番のバレエを制作しようとしたんだ。
そういった思惑の中で、音楽面で白羽の矢が立ったのがチャイコフスキーだったんだ。フセヴォロジュスキーはチャイコフスキーにバレエ作品を作曲させて、それまでのプーニやミンクス等による踊りのためにのみ存在するルーティンな音楽を打破しようとしたんだ。

まず提案されたのが《ウンディーナ》=《オンディーヌ》(水の精)という作品。ところが、これは以前チャイコフスキーがオペラの題材としてすでに使っていて、完成はしたものの初演はされず、また彼自身も気に入らなかったのか、結局破棄されてしまって現在では残っていないという、いわくつきの題材だったんだ。だから同じ題材でバレエを作ることにチャイコフスキーは気が進まなかったんだろうね。この話は立ち消えになってしまった。

次に出て来たのが《白鳥の湖》の再演。自分の既に完成した作品が上演されるということでチャイコフスキーはたいへん喜んだと思うんだが、結局これも立ち消えになった。たぶんプティパが『そのままの音楽ではバレエとして上演できない』と主張して、クラシックバレエの様式にのっとって大幅な改作を要求したんだろうね。現代でも《白鳥の湖》の原典として上演の標準になっている「プティパ=イワノフ版」を観れば、プティパがどんなものをチャイコフスキーに要求したかは想像がつくというものだ。チャイコフスキーは改作の約束はしたものの、やる気は全くなかった。自分の作品に自信があったからだろうね。
しかし、フセヴォロジュスキーはそれでも諦めなかった。

更にその次に彼が提案したのがペローの童話に基づく《眠れる森の美女》だったんだ。しかしチャイコフスキーは、これにも最初はあまりやる気は出なかったんだな。

☆ニコル:何故?

◆やすのぶ:もちろんチャイコフスキーは、この童話の物語の構造の欠陥(『落ち』が既にプロローグにある)を知っていたし、フセヴォロジュスキーの構想では、ルイ14世時代のフランス王朝の香り漂うもので、リュリやラモーの様式を採りいれた音楽を作ってほしいなんて言ってきたし、3幕では童話の主人公たちをいっぱい登場させて、彼等にデフィレdéfilé(行列)をさせたいということだったんだ。いわば、パレードのはしりだね。

☆ニコル:ディズニーでもやってる大がかりなパレードって、そういうところから生まれたのかもね。

◆やすのぶ:行列には、童話の主人公たちだけではなくて、最初にニコルちゃんが話したようにリラもカラボスも加わっているんだ。しかし、リラとシンデレラを踊ったマリア・プティパは行列ではシンデレラで出てくるので行列のリラは代役。他にも3幕でディヴェルティスマンを踊るダンサーのほとんどは本人が行列に参加しているんだけど、カラボス、青い鳥のチェケティだけは行列には記載なく、レガートが代役で青い鳥に扮している。不思議だね。

そんなこんなで、チャイコフスキーは作曲に全く気乗り薄だったんだ。彼は、もっと筋道の通った論理的な話で、そのうえドラマティックなものが作りたかったんだろうね。それで、何度もしつこく迫って来ても、うやむやにしていたんだ。ところが、遂にフセヴォロジュスキーが台本そのものを送りつけて来た時、チャイコフスキーは打って変わって熱烈な返事を即座にフセヴォロジュスキーに送り返した。童話とは違って、台本の中に存在するドラマの真理を発見したんだろうね。それがこういう文面だ。

『・・・・やっと台本を読むことが出来ました。どうしても今すぐ申し上げたいのですが、私は言いようもなく感動し、魅了されました。これは私がやりたいことと全く同じです。私が作曲するのにこれ以上に良い台本は望めません。」(1888年8月22日)

☆ニコル:なにがそんなにチャイコフスキーを惹きつけたの?

◆やすのぶ:要するにチャイコフスキーは、この台本から、ペローの童話にはない、途轍もなく壮大な隠喩と話の筋道がはっきりした物語進行の論理性を見出したんだろうね。そして、それをはっきり象徴するものの1つが、『オーロラは死ぬ』という予言から『オーロラは永遠に眠る』に変えることだったんだよ!

物語的には、第3幕は童話の主人公たちがお祝いに駆けつける単なる結婚式の祭典だから関係ないし、第2幕自体、そもそも童話には描かれていない《ジゼル》風のバレエ的情景を見せるために存在する付け足しのようなものだから、これも関係ないでしょう。第1幕も単に予言が実行される様を描いているだけであって、これも関係ない。とすると、チャイコフスキーを惹きつけたのは主にプロローグの物語進行、なかでも悪役とされているカラボスの行動だということになるね。だからここを詳しく見てみよう。

☆ニコル:プロローグという名のついた幕が別個に1つあるわけね。

◆やすのぶ:そうなんだ。《白鳥の湖》なんかでは、イントロダクションを単なる音楽だけの序奏とせず、ちょっとした小芝居(オデットが白鳥にされた理由)をする版があって、それをプロローグと言うんだけど、《眠れる森の美女》ではプロローグが1つの幕になっていて、話のほとんどはここで決まっちゃうんだ。本体の3つの幕は、プロローグでの予言が実現していく様を描いているだけであって、物語的には何の発展性もない奇妙な構成なんだよね。でも、そのおかげで、逆に純粋にバレエ的なアイデアを盛り込む余地がたくさんあるとも言えるんだ。

☆ニコル:だから、踊りが楽しいんだよね。

◆やすのぶ:そういった劇の構造だから、プロローグがちゃんとしていないと、第1幕以降で、素晴らしい装置や衣装、観客をうならせる華麗で技巧的なダンスが繰り広げられたとしても、それこそ単なる踊りの連続になってしまって、小骨が喉の奥にささっているような気持ち悪いもやもや感が続くんだ。いわゆる『全幕バレエとしての踊りと物語の完全な融合』によるスッキリとした深い感動が得られないんだよね。

さて、元々のペローの童話がどうなっていて、フセヴォロジュスキーはそれをどういう風に変えたのか? それぞれ個々のケースについて変化を見てみよう。


<<登場する妖精の人数は8人か7人か?>>

◆やすのぶ:ペローの童話では、王様とお妃の間に長い間子供が出来なかったが、遂に待望の女の子が生まれた。そこで娘の将来が幸福になるように盛大な命名式を行なった。生まれた姫に考えられる限りの美徳が授かるように、国中の妖精をそこに全員招待した。妖精は全部で7人いるということだったので、お礼の宴会のために金で出来た宝石の飾りのついた立派な食器(ナイフやフォークやスプーン)を7人分用意した。ところが実際にやって来たのは8人。宴会で食器がなかった8人目の妖精は、それを恨みに思い、最初の6人がそれぞれの贈り物を姫に授けた後、「姫は針を指に刺して死ぬ」と予言したんだ。

☆ニコル:なぜ8人いるのに、7人と思ったの?

◆やすのぶ:童話の説明では、その老女の風体の妖精は「50年以上も塔から外へ出なかったので、死んだか、魔法にかけられた」と思われていた、ということなんだ。

☆ニコル:よく解らない話ね。妖精って死んだり魔法にかけられたりなんてしないでしょう。それと、贈り物を授けたのは6人ということなら7人目の妖精はどうしたの?

◆やすのぶ:8人目の妖精の隣に座っていたので、彼女の怒りの気配を感じて、みんなが姫に贈り物をしようと立ち上がった時、一人だけこっそり壁掛けの後ろへ隠れて彼女の贈り物を授けなかったんだ。そして、最後に出てきて8人目の妖精が何か悪い贈り物をしたときに備えたんだ。なんせ、彼女は姫に『世渡りの知恵』を授けるつもりだったから、それくらいの気が利いたんだろうね。バレエではダンサーが出たり入ったりするので、どの版を見てもこの辺の話の流れがいまいち分かりにくいね。

☆ニコル:7人目の妖精とか、8人目の妖精とか、ややこしいわね。ちゃんとした名前はなかったの?

◆やすのぶ:そうなんだ。ペローの童話の本編には登場人物の名前は全くないんだ。だから名前は全部バレエになった時に付けられた。実は、姫にさえ名前はないんだよ。ただ、ペローの童話には続編があって、そこでは眠り姫と王子の間に出来た2人の子をオロール(曙)とジュール(日)と名付けているんだ。その続編の内容は、王子の母親が眠り姫母子を食べようとするような本編とは別の話なので、バレエでは全く無視しているがね。でも、本編には全く名前がないのに、不思議なことに続編には名前のついた人が何人か出てくるんだ。こんな変な構成から見ると、ペローの童話は元々別々の2つの話を無理やりくっ付けたものだったのかもしれないね。なぜ、そんな無理をしたのかというと、ペローの時代の政治的状況を暗喩するためだったとの説もあるけど、フセヴォロジュスキーにとってそれは不要のものだったのか、全く削除してしまった。で、彼はその続編に出てくる名前だけを拝借して、眠り姫のことをバレエではオロール(Aurore)としたんだ(子供の名前を親に充てたというわけだね)。ディズニーのアニメもバレエを真似てオローラ(Aurora)としている。日本ではオーロラ姫と言う方が一般的だから、ここでは童話のときは「眠り姫」、バレエのときは「オーロラ姫」としようね。その方が通りがいいんだよ(笑)。

☆ニコル:もともと命名式の時の話なんでしょ!赤ちゃんの名前がないなんて、ペローの話ってとても変ね。 もっと変なのは、7人目の妖精がそれほど気が利くんなら、壁掛けの後ろに隠れるなんてことをしないで、始めっから8人目の妖精に自分の分の食器を譲れば良かったのに・・・・

◆やすのぶ:そうだよね。7人目の妖精がそうすれば丸く収まって、この話はなかったということだ(笑)。でも、まあ・・・事前に食器に名前が彫り込んであったのかもしれないしね。童話ではそんな説明なかったけど、きっとそうだよ。

☆ニコル:妖精も名前はないんでしょ!

◆やすのぶ:むむ・・・・痛いところをズバッと! 何故食器を譲らなかったのだろうねえ? バレエのように、カラボスが後から乗り込んでくるんだったら、はっきり分かるんだけど、ペローの童話はその辺のところをぼかしているね。
それはそうと、バレエの方は7人の妖精全員に名前がちゃんと付けられているよ。スコアに書いてあるんだ。もちろんチャイコフスキーが付けたんじゃなくて、フセヴォロジュスキーかプティパが付けたんだろうけどね。登場順に
キャンディート(Candite)【註】
クーラント(Coulante)
ミエット(Miettes)
カナリ<カナリア>(Canari)
ヴィオラント(Violente)
リラ(Lilas)
カラボス(Carabosse)
となっているんだ。でもバレエでは別の具体的な植物や徳目の名前になっていることも多いね。ちなみにカラボスというのは『春姫(プランセス・プランタニエール=Princesse Printanière)』という童話に出てくる名前で、そこから借用したということなんだ。

【註】スコアの目次にはキャンディード(Candide)となっており、普通はキャンディードと呼ばれるが、楽譜本体の題はキャンディート(Candite)なので、ここではキャンディートを採用した。他の妖精はトで終わるのが多いので韻を合わせたという意味もあるのかもしれない。


ここで注意してもらいたいのは、妖精は童話の8人ではなくて、バレエではカラボスを含めて全部で7人だということだ。これは、予言を『死』から『眠り』に変えたことと同じくらい重要なことなんだよ。

☆ニコル:単に、ケチって1人節約しただけじゃあないの?

◆やすのぶ:いや。ペローの童話でも、国中の妖精は7人との認識だったんだ。7人の小人なんて話もあるし、7というのはこういう場合の決まり数字なんじゃあないかな。だから、悪い予言をする8人目の妖精は、童話では、いわば『想定外』ということなんだよ。「死んだか魔法にかけられたか」なんて苦しい説明をしなくても「誰もが知らなかった」と言ってしまえば済むことなんだがね。食器を7人分しか作らなかったのは、知識の及ぶ範囲が7人だけだったということなんだ。ところが、バレエでは1人減らして、カラボス込みで7人にしたということは、カラボスも『想定内』の存在に変えたことを意味しているんだ。カラボスを知ってて6人分しか作らなかったということだね。童話の『知らなくて作れなかった』と、バレエの『知ってて作らなかった』、これは、この物語の根底を理解する上での大きな認識の違いなんだ。


<<式部長官カタラビュット>>

◆やすのぶ:何故『想定内』だということがはっきり分かるかというと、式部長官カタラビュットがカラボスに辱めを受ける(帽子を脱がされ、カツラを取られ、禿げかけの毛髪を全部むしり取られる)という、大概のバレエで削除されることなく観ることが出来る非常に印象的なシーンは、実はペローの童話には存在しないんだ。

☆ニコル:へーそうなんだ。でもあそこが一番迫力があって、一番怖いところなんだよね。

◆やすのぶ:そもそも、童話には式部長官なんて登場人物はいない。悪い予言をする老女の妖精の存在は『想定外』だから、姫の不幸は誰の責任でもないというわけなんだよね。バレエでカタラビュットという式部長官を登場させたのは、単なる狂言回しの役割のためではなく、この物語の原因を作った人物としての役割を担わされているんだ。
カタラビュットはカラボスの存在を知っていたにも拘わらず、彼女をあえて招待しなかった。『姫にはカラボスの美徳は必要ない』と判断したからなんだろうね。だからカタラビュットがカラボスから辱めを受けるのも、もっともだというわけなんだ。もし童話のように、8人目の妖精が悪意のみの存在であったのなら、このシーンは単なる見せしめの茶番に過ぎないので全く意味をなさない。カタラビュットが何か重大な失敗をしでかしたからこそ彼は罰を受けるということで話にまっとうな筋道が付くというものなんだ。
ところが、童話の方に大きくシフトしてしまった現代のバレエでは、話の流れがうやむやになってしまい、結局この場面では『怖さ』よりも『滑稽さ』の方が目立ってしまっている。それは、カタラビュットの罪を前面に出さないからだと僕は思う。
言うまでもないが、忠実で有能な行政官であるカタラビュットがうっかり招待し忘れたなんてことは有り得ないし、姫に悪いことが起こるように悪意に基づいて招待しなかったというわけでも決してない。彼は純粋に『カラボスは姫にとっては必要ない』と思ったからこそ招待しなかったんだ。あとで説明するつもりだけど、ここがカラボスの予言を引き出すバレエの物語のいわゆる『肝』なんだよ。そして、チャイコフスキーが感動したのはこの点にあると僕は思っている。

ちなみにカタラビュット(Catalabutte)という名前もオーロラと同様、ペローの童話「眠れる森の美女」の続編から取ってきたものなんだ。眠り姫を目覚めさせた夫は、やがて隣国へ戦争に行くのだが、その敵の名前が、なんとカンタラビュット皇帝(l'Empéreur Cantalabutte )というわけだ。これも童話の話とは全く関係のない、単なる名前の借用に過ぎないんだけどね(nが落ちたのは何故だろうね?)。

☆ニコル:でも、バレエでは巻物になった招待者名簿を見るシーンが何度かあるけど、結局カラボスを招待し忘れたということではないの?

◆やすのぶ:確かにバレエでは、カタラビュットや王が、最初に招待名簿を確認することや、カラボスが来ると聞かされたとき、カタラビュットが彼女を招待し忘れたことを名簿を見て再確認しながら、王が彼を叱責する場面も描かれている。それは初演の時に公表された台本にもそのように書かれているからなんだ。
しかし、プティパの『作曲指示書』やチャイコフスキーのスコアのト書きには、招待名簿の確認やカラボスを招待し忘れたという弁明など、どこにも一切述べられていないので、元々そんなシーンは想定されてなかったんじゃあないかな? だから『指示書』を書いた後に思いついたアイデアじゃあないかなと思うんだ。 カタラビュットにはカラボスを招待する意思がなかったからこそカラボスから罰を受ける、と考えた方が一本筋道が通っているよね。だから<<赤ちゃんオーロラの登場>>の項で述べたようなやり取りがあったんだと推測出来るんだ。
『忘れた』という言い訳は、いわば役所のお役人がよくやる『事を荒立てず丸く収めるための方便』のようにも見えるけど、本当のところはカラボスを根っからの悪者にするためには、カタラビュットは罪のない被害者であった方が効果的だから、初演の練習中に台本が書き変えられたんじゃあないかな? 悪のカラボスを印象付けるためには出来るだけ理不尽な振る舞いをした方が分かりやすいからねえ・・・・これもペローの童話の内容の方にシフトして行った結果の、ゆがんだ辻褄合わせじゃあないだろうか?


<<妖精が贈り物を授けるシーン>>
☆ニコル:妖精たちが登場する場面で、リラの精以外の妖精たちはオーロラに贈り物をするのに、リラの精だけは贈り物をしないということを、はっきり分かるような演技で見せているビデオ、私観たことないんだけど、何故?

◆やすのぶ:うーむ、その辺のところは話の根幹だから、童話ではきっちり述べられているんだけど、バレエではどの演出もうやむやだね。振付師は踊りを優先させたがるし、演出家はバレエに言葉がないからゴタゴタした細かい話などあまりやりたがらないんだよ。それに観客はそんな分かり切った芝居観たくないって3拍子揃ってるんだから、話の辻褄合わせなんてどんどんなおざりにされていくんだよ。そのあげくが、バレエの話なんて何の意味もない詰らないものだという一般の評価になっていくんだから、どうしようもないね。

実は、初演の台本には、カラボスの予言が終わった後「まだ名付け子に贈り物をしておらず、揺りかごの陰に隠れていたリラの精が、ここで進み出る」とあるんだから、初演を再現したはずの[リコンストラクション]では、5人の妖精は贈り物を授けるのに、リラは授けないということをちゃんとやっていそうなんだけど、これを見てもはっきりしないね。[リコンストラクション]では5人の妖精たちは贈り物と一緒に登場するのに、リラの精だけは贈り物を持った従僕を従えずに手ぶらで出て来るということで代用しているのかもしれないけど、そりゃカラボスの出現を予見しているようで、なおさら変だ。すでに、初演に向かっての細かい演出をする時に、いい加減になってしまっていたのかもしれないね。

☆ニコル:衣装や踊る人の都合で、どんどん変になっていくのね。ヌレエフの演出だと、踊るリラと予言を覆すリラは別の人!それに最初に出てくる妖精も童話といっしょで一人多い7人。だから曲が足りなくて、2人で踊るヴァリアシオンもあったりするわ。結局初演の台本より2人も多いってことよね!

◆やすのぶ:ヌレエフは、リラのお伴をする精霊たちを演じるコールドを含めて、妖精たちの踊り《No.3 パドシス》(6人の踊り)全体を美しく華やかにしたかったんだろうね。実際、他のどの演出よりも、宮廷的な重厚さと豊富な踊りが兼ね備わっていて眼福だよね。しかしその結果、リラの衣装の矛盾(踊れる衣装とカラボスと釣り合う重厚な衣装)が極端になって収拾がつかなくなってしまって2人にしたんだろうね。

☆ニコル:チュチュのリラの精とロングドレスのリラの精。

◆やすのぶ:片一方で、妖精たちと華やかに踊るためのチュチュ、もう一方で魔女のようなカラボスの衣装に対抗するための踊れないロングドレス。効果的な演出を突き詰めていけば、結局物語的には崩壊せざるを得ないということなんだよね。

しかし、この話の原点に立てば、妖精たちは全員姉妹なんだから、同じいでたちであるべきで、バレエとして踊りを優先するのなら、カラボスもチュチュを着て登場するべきだったんだよね。そうすればヌレエフの悩みも生じなかったんだろう(笑) 実際、ニュージランドバレエではカラボスは黒いチュチュを着ていて派手に踊るんだ。でも、プティパの時代では、そんなこと考え及びもしなかったんだろうね。特にペローの童話では呪いをかける妖精は他の妖精たちとは全く違う悪役なので、同じデザインの色違いを着たとしたら全く不自然になってしまう。こういった衣装の点からも[リコンストラクション]では、予言が『死ぬのか眠るのか』あいまいになってしまっているんだ。

とにかく、初演の台本では《妖精たちの踊り》(グランパ・ダンサンブルGrand pas d'ensemble)のところで「妖精たちが贈り物をする。次にリラの精が贈り物を持って揺りかごに近寄ると騒ぎが起こる。小姓たちが・・・・カラボスの到来を告げる。」とあるので、この間にオーロラへ贈り物が授けられるのだろう。そして、たぶんそれは妖精たちが1人ずつ踊るヴァリアシオンの中で行なわれる。でないとその他の場面では、リラの精を除いた他の妖精たちだけが贈り物をする機会なんて見当たらないからね。

☆ニコル:でもリラの精も他の妖精と一緒でヴァリアシオンを踊っちゃうよ!

◆やすのぶ:そうなんだ。そこでチャイコフスキーは、《リラの精のヴァリアシオン》の最後で音楽的なトリックを仕込んだんだ。この曲はハ長調だね。そして、続く《コーダ》はニ長調。この普通でない2曲の調関係の間で、チャイコフスキーはフェルマータを2つ挟んだうえ、57〜60小節のバス音はハ音ーロ音ー変ロ音ーイ音(ニ長調の属音)と半音階的に下行させ、和声的には奇妙な進行を行なっている。これはねえ、実は全曲のしょっぱな《イントロダクション》で、威嚇するように始まる『カラボスの動機』の1小節目のバス進行と全く同じ音なんだ。抜け目ないチャイコフスキーはこういう形で、リラの精がカラボスの出現を予見したことを音楽的に表しているんだ。そして、2つのフェルマータは実に効果的なんだよね。本来ならリラの精は突然踊りを中断して、ちょっと考えるしぐさをしながら、贈り物をせず、王に中座の言い訳をして立ち去るという演出であるべきなんだ。

☆ニコル:「おなかが痛い」とか「贈り物忘れちゃった」とか?

◆やすのぶ:そりゃないだろ。ニコルちゃんじゃあないんだから(笑)。とにかく儀式の途中なんだからそれなりの言い訳をして中座するというわけだ。だから《コーダ》にリラの精が出てくるのも変なんだよね。ところが、実際のバレエでは、どの演出もリラの精は、あの奇妙な終結のフレーズを全く意に介さず、他の妖精たちと同じように機嫌良く踊り終わって拍手をもらっているよね。まあ、こりゃ劇としては大チョンボなんだが、バレエだから許されるんだろうね。


<<カラボスとは>>
☆ニコル:バレエで描かれるカラボスとはいったいどんな存在なの?

◆やすのぶ:こういった寓意の効いた話では、特にカラボスのようなキャラクターでは、いろんな解釈が成り立ってそれぞれが説得力があるんだ。まず最初に言えることは7人の妖精たちの長姉であること。これは初演台本のリラの次のセリフからも明らかだ。
「・・・そう、私の小さなオーロラよ、私たちの姉カラボスが望んだように、お前は眠るでしょう。しかし永遠ではありません。・・・・」
この『姉妹』ということから導き出されるのは、善良な妖精たちとカラボスの本性は同じなんだということだ。決して『善と悪』というような真っ向から対立するものではないのだ。たとえば『自然』というものを思い浮かべてごらん。『自然』には、明るい『太陽の光』や恵みをもたらす『雨』などのようなものがある一方で、『嵐』や『雷』、『地震』、『津波』のように、我々に試練を与えるものもある。こういった試練を『悪』とは言わないだろ。カラボスとはそういった存在なんだ。

☆ニコル:そうなの。じゃあもし、カラボスを招待したとしたらどんな美徳が姫に与えられたの?

◆やすのぶ:『地震』を与えるようでは誰も呼ばないよね(笑)。この場合は、それに対する『備え』を教えてくれるとしたら、大切なことなんじゃあないかな。至近な例では、東日本大震災で多くの人たちが犠牲になってしまった。でも地震や津波は今に始まったことではないよね。たくさん残されている先人の警告をないがしろにしてきた結果、犠牲者が増大したんだと考えると、カラボスを呼ばないということによって、どんな結果がもたらされたかが理解できるだろ。

☆ニコル:それなら、私でも呼ぶわ!

◆やすのぶ:別の観点から言うと、カラボスという名前の中にも秘密があるんだ。Carabosseという綴りを見てごらん。

☆ニコル:うーん。良く解らないけど、ひょっとしたらカーボン(Carbon)?

◆やすのぶ:当たり! よく似てるだろ。カラボスって『炭』の妖精ってわけだ。

☆ニコル:炭素の元素記号がCっていうのもカーボンから来ていて、カルボナーラ(carbonara)って炭焼き職人風っていうのもそうでしょ。

◆やすのぶ:うん。だから黒い衣装を着ていて当然なんだ。

☆ニコル:分かった。悪役だから黒いっていうわけじゃあないのね。

◆やすのぶ:そこでだ。例によって話は横道に逸れるけど、ニコルちゃんは薪炭奉行ってなんだか知ってる?

☆ニコル:知ってるわよ。こう見えても私、歴女のはしくれなのよ! 大河でやってた上杉家の家老の直江兼継って薪炭奉行の息子だったって話だよね。

◆やすのぶ:よく知ってるねえ。じつは大出世で有名な豊臣秀吉も、本当の出世のきっかけは薪炭奉行になったことからなんだよ。織田信長のような合理主義者が、草履取りの逸話のような、気配りとか自分に対するおべっかみたいなものだけで人を出世させるとは思えないからね。きっと、薪炭奉行としての行政手腕が買われたんだよ。信長は飯炊きや暖房に使うたきぎの費用が馬鹿にならないことを悩んでいた。そこで秀吉を薪炭奉行に登用したというわけだ。秀吉のやったことは中間搾取の排除と治山治水事業との一体化、いわば縦割り行政の欠点を衝いたということなんだ。特に秀吉の偉いところは、そうやって行政改革をしたというだけではなく、リストラの対象者を含めて全ての人が不平を言わずに済むように処理したということなんだ。政治家の鑑だよね。ニコルちゃんは歴女なんだったら、もっと詳しいことを知りたければ色々調べてみたらいいよ。

☆ニコル:そうなんだ。一度図書館で調べてみようかな。

◆やすのぶ:当時の薪炭奉行というのは、字の通りたきぎや炭、すなわちライフラインのうちのエネルギー供給システムを管理する役職ということだ。現代で言えば、電気・ガス行政といったところがそれに該当するだろうね。ということは、津波による原子力発電所の大事故のことなんかも《眠れる森の美女》の話は大いに教訓となるものなんだよ。自然のサイクルの中で人間が制御できる範囲を超えたものを使うことへの津波は大いなる警告だったと思うよ。フセヴォロジュスキーは、当時のロシアの政治について寓意を込めて、この台本を作ったのだろうが、それが今の日本にもぴったり合っているのが凄いところなんだよね。チャイコフスキーが台本を見て感動し、急に作曲を決意したのは、まさにこのことがきっかけだったと思うよ。

☆ニコル:このバレエって奥が深いんだね。

◆やすのぶ:炭から連想するのは、脱臭剤や浄水器などもあるね。炭には浄化作用があるんだ。だからカラボスは浄めの精とも言えるだろうね。

☆ニコル:世の中の汚いもの不要なものを綺麗にご破算にしちゃうわけね。

◆やすのぶ:さらにもう一つ付け加えると、初演台本の第1幕にはこんなオーロラの言葉がある:
「予言が成就するためには、私が手か指を刺さなくてはなりませんが、私は決して針もピンも手に取りません。私は歌ったり踊ったり楽しくしますが、決して縫物はしません」

☆ニコル:それで、このセリフがカラボスと何の関係があるの?

◆やすのぶ:オーロラはプロローグのドサクサでリラの精から『知恵』という贈り物をもらい損ねたんだ。だから、よくいる綺麗で目先の賢さだけのオネエサンのように、こんなことを言うんだよね。いや、ニコルちゃんのことを言ってるんではないよ(笑)

☆ニコル:よく言うわね。

◆やすのぶ:縫物しなくたって、結局針で手を刺しちゃうんだけど、このオーロラの言葉は、要するに『仕事をしない』ってことだよね。してみると、カラボスの贈り物は『巧みに仕事をこなせるようになる』ってなところかな。それなら、カタラビュットが彼女を招待しなかった理由も簡単に解るというものだ。だって、お姫様は仕事なんてしないから、そんな能力は必要ないってことだよね。表面的には、この理由がいちばん直截で物語としては解りやすいかもね。


<<宝石の精>>
◆やすのぶ:第3幕には不思議な登場人物が出てくる。[リコンストラクション]の行列に加わるカラボスも変だけど、金、銀、サファイア、ダイアモンドの4人の妖精が踊る《No.23 4つの宝石のパドカトル》はもっと変。
話の筋書きからして、童話の主人公たちやプロローグに出て来た妖精たちが結婚の祝いに駆けつけて踊るのは理解出来るんだけれど、なぜか、ここで突然宝石が踊る。

☆ニコル:あの中で宝石の精3人が踊るヴァリアシオンなんかディズニーにも使われていて、可愛くて素敵! 
宝石が出て来たって別に変だとは思わないけど、言われてみると何故あそこになって突然宝石が出てくるのか不思議だわね。

◆やすのぶ:そう。バレエを見ていると、《宝石のパドカトル》には必然性がないというか、単なる『賑やかし』に過ぎないんだよね。カットしちゃったって話の筋書きに影響を及ぼすことなど、これっぽっちもないよね。
でもしぶとく生き残っているのは、これらの踊りが短くて可愛いので、バレエのお稽古によく使われるのと、音楽がキラキラしていてチャーミングだから外せないといったところじゃあないかな。

☆ニコル:私もダイアモンド演ったことあるわ。ウフッ。

◆やすのぶ:チャイコフスキーのスコアでは、この《宝石のパドカトル》は、注文通りアントレと4つの宝石のヴァリアシオンとコーダの6曲で出来ているんだ。元々の台本では4人が公平に4つのヴァリアシオンを1人づつ踊るように設定されていたんだよ。
でも、[リコンストラクション]を観ると、初演ですらその通りには踊られなかったんだよね。《金の精のヴァリアシオン》と《サファイアの精のヴァリアシオン》はカットされてしまって、4曲(アントレ・銀・ダイアモンド・コーダ)しか使われない。
ニコルちゃんがさっき言ったように《銀の精のヴァリアシオン》で金・銀・サファイアの3人が踊るように変えられてしまっているんだ。
ちなみに《金の精のヴァリアシオン》の音楽は全くなくなってしまったわけではなく、第2幕の幻影の場でのオーロラのヴァリアシオンに転用されたんだ。しかし、もともとそこにはチャイコフスキーがオーボエソロの綺麗なヴァリアシオンを書いていたので、現代ではスコア通りオーボエの音楽が使われるのが普通だ。その方が余程この場に合っているしね。なぜプティパがこんなところで差し替えをしたのか全く不可解なんだ。
ところで、ヌレエフは、使われなくなったこの幻影の場でのオーロラのための転用ヴァリアシオンを再利用して、オーロラがヴァリアシオンを踊った後に、デジレ王子もヴァリアシオンを踊れるように、さらに転用しているね。変われば変わるものだ。

☆ニコル:ヌレエフは幻影の場もパドドゥの形式に近づけたかったのかもね。それと、幕間の時間つなぎに演奏するヴァイオリンソロの美しい《No.18 間奏曲》にも振りを付けたりしてデジレ王子がたっぷり踊れるようにしているわね。

◆やすのぶ:さて、話を戻して《宝石のパドカトル》の存在理由なんだが、それを解くヒントは王の登場の場面にある。

☆ニコル:そういえば、宝石たちは行列の中ではなくて、王さまと一緒に出てくる。

◆やすのぶ:プロローグの妖精と同じFéeとなっているので混同しがちなんだけど、両者の本質は全く違うんだよ。プロローグの妖精たちは、いわば『自然の妖精』なんだ。日本で言えば「山の神」「古木の神」「滝の神」・・・ってところかな。だから王家にとっては最も大切なお客さん。オーロラに自然の恵みを与えてもらうために招待したということなんだ。

本来、プロローグでは舞台奥に高壇がしつらえられていて、妖精たちはまずそこに登場すべきなんだ。台本にも「妖精たちは自分の側からも名付け子に贈り物をするために、高壇から降りてくる。」となっているようにね。チャイコフスキーは、台本に忠実に、例の《妖精たちのパドシス》の直前に突拍子もない強圧的なファンファーレを響かせている。6人の妖精はそのファンファーレを合図に階段を下りてくるのだ。また、そのファンファーレの直前すなわち《No.3 パドシス》の冒頭は、「オーロラに幸を賜るよう、どうぞ降りて来てください」と王妃が妖精たちにお願いをする情景なのだ。
ファンファーレというのは音楽の標題的表現のうちでも最も限定的なものの1つだから、それに合った動きをしないと、まるでお話にならない。プロローグの行進曲の後半で、ファンファーレが鳴って王と王妃が登場するってのは全く当たり前の演出だろ。それ以外に王と王妃が登場するきっかけなんて考えられないからね。ところが、妖精たちの降臨のファンファーレは、どの演出でも全く無視されている。 なぜなら《No.2 踊りの情景》では、本来は城の小姓たちや若い娘たちが踊るんだが、多くの演出では登場した妖精たちがすぐに踊ってしまうので、あの他を威圧するファンファーレが何を意味するものか、観客にはさっぱり分からなくなってしまったのだ。現代の演出では、あの異質な、何のために鳴らされるのか解らなくされてしまったファンファーレは、演出上の邪魔もの以外の何物でもないというわけだ。さらに言えば、最初の妖精たちの登場の場面も、王と王妃は立って礼を尽くして彼女たちを迎えなければならない(たとえ招いていないカラボスであっても)。ところが、実際のバレエでは妖精たちの挨拶を王と王妃が受けるといった演出がなされることが多く、そりゃ本末転倒も甚だしいというものだよ。

一方、今言ったプロローグの妖精たちに対して、第3幕の宝石の精たちは人間の作ったものなんだ。人間が作ったものの中にも精が宿るという考え方なんだろう。物を大事にしようというのと同じ発想だね。そう考えると、王に従って出てくるのも解るでしょ。

☆ニコル:じゃあ、何故彼女たちが3幕に出てくるの?

◆やすのぶ:ペローの童話では、招待した妖精たちに引き出物の豪華な食器を贈っただろう。それをもらえなかった招待されなかった8人目の妖精が怒りだしたんだ。そのことを、フセヴォロジュスキーはバレエにも取り入れて決着をつけたかったんだろうね。それで第3幕に宝石を登場させてカラボスに贈るということにしたんだ。いわば、贖罪あるいは改心という意味なんだね。

☆ニコル:そうなんだ!

◆やすのぶ:ところが、カラボスを単純な悪人に仕立てあげてしまうと、カラボスの登場する余地などなくなるから、そういったことがみんな必要がなくなってしまうんだよね。だから《宝石のパドカトル》自体、宙に浮いてしまって無意味なものになってしまったんだ。それで、さっきも説明したように初演ですら、すでに形骸化されてしまって、単なる『賑やかし』になってしまっている。

さらに後年、ディアギレフのバレエ・リュッスが《眠れる森の美女》を西ヨーロッパに持ち込んだとき、意味のない《宝石のパドカトル》は《フロレスタン王子と姉妹たち》という風に名前を変え、男性ダンサーを加えパドドゥ形式に近づけて踊られたんだ。無意味な《宝石》なんていらないけど、音楽が良いから踊りからは外せないので出てきたアイデアなんだろうね。だから現代では、この《宝石のパドカトル》はやりたい放題、いろんな形を観ることが出来るんだよ。まあ、バレエにとっては多彩な表現が出来て、その方が良かったのかもしれないけどね(笑)。

結局、カラボスを悪役に徹しさせるのも、妖精たちを、日本で言うところの妖怪に似た存在にしてしまうのも、キリスト教という一神教という強大なバックボーンがあるからではないだろうか。ヨーロッパの土着民族の多神教的宗教観に基づいた神は、そういった形でしかキリスト教に取り入れられなかったのではないかな? まあ、難しい宗教論は別として、多神教国である我が国では、妖精たちがもともと持っていた多神教性を前面に押し出した演出がなされるべきだと思うよ。だって、日本では500年前に入った立派な教義をもつキリスト教が、現在でも、たくさんある宗教の1つとしてしか存在していないのに対して、土着信仰由来のクリスマスやハロウィンは国民的行事になっているからねえ・・・

☆ニコル:ハロウィンのときは、私毎年仮装をしているよ! 初めは顔にシールを貼るだけだったんだけど、今じゃあ可愛い衣装も作っちゃうんだ。

<<フェーリー>>
◆やすのぶ:当時のバレエではフェーリーが流行っていたんだ。

☆ニコル:フェーリーって何のこと?

◆やすのぶ:舞台用語では『夢幻劇』と訳されるけど、それもさっぱり分からないよね。フェーリー(Féerie)とは妖精(Fée)からきた言葉で、妖精の絡む空想話、要するに『お伽話』ってことなんだ。そこでは舞台制作者たちが、奇想天外な劇の情景を描くために、あるいは劇や踊りの本筋とは関係なく、機械仕掛けや電気装置、花火などを駆使した舞台装置を使って、観客をびっくりさせて喜ばせようとしたというわけだ。手品や中国の雑技のようなものも取り入れられることもあった。《眠れる森の美女》も、まさにフェーリーそのものなんだよ。小倉重夫氏は著書の《チャイコフスキーのバレエ音楽》の中でこう語っている:
『今日、われわれが目にする舞台が、いかに厚みのない質素にして淡白なものか、(初演の台本を見れば)おわかりいただけよう。彼ら(初演当時の舞台製作者たち)の意図はまさしく、一大スペクタルな夢幻劇そのものなのである。』 (カッコ内は私が補充した)  

☆ニコル:仕掛けで盛り上げようってやつね。日本のスーパー歌舞伎みたいなもの?

◆やすのぶ:うーん、ちょっと違うかな。でも、けれん(外連)という発想には似通うところがあるかも。 とにかく初演では膨大な費用を投じて観客をびっくりさせる舞台装置を作ったんだよ。その1つは第1幕の最後、オーロラが眠る城を木々が覆い尽くすシーン。まさに《眠れる森の美女》という題名を彷彿させる場面なんだ。ここでは床に、網のようなものか半透明のシートで出来た中幕が用意されていて、それをロープで吊り上げていくという仕掛けが使われた。その中幕には木の葉や枝が張り付けてあって、下に行くにしたがってだんだんそれらが密になっていく。だからその幕が吊り上がっていくと、木が萌え上がって背景の城がどんどん隠されていくって寸法だ。
もう1つは、第2幕リラの精がデジレ王子を連れて眠れる美女の城へ向かうシーンだ。そのシーンは《No.17:パノラマ》って呼ばれる。もちろん、これはチャイコフスキーが名付けたんではなくて、プティパの作曲注文書に指示されていた通りに彼が曲を付けて《パノラマ》と名付けたんだ。

☆ニコル:ハープの伴奏で「ゆりかごで揺れる」ような夢のような印象的な音楽だよね。

◆やすのぶ:うまいこと言うねえ。あれは、ゆりかごではないけど、ゆっくりと揺れる感じが大切なんだ。

☆ニコル:パノラマって「360度の絶景!」なんて時に使われる言葉よね?

◆やすのぶ:今はそういう意味でしか使われないかも。だから、リラの精が王子を城へ連れていく場面を何故《パノラマ》って呼ぶのか不思議だよね。だってニコルちゃんの印象を具体的に言えば、富士山型の山の頂上とか、ランドマークの塔など、遮るものが何も無く360度展望出来る場所をパノラマって表現しているんだからね。しかし、本当は逆なんだ。360度展望を「パノラマの装置のように見えますよ!」と、比喩的に使われていたんだが、本家の仕掛けが廃れてしまったのでワケが分からなくなってしまったってことだ。

☆ニコル:じゃあ、「パノラマ」って、本当はどういうものなの?

◆やすのぶ:パノラマ(panorama)というのは、ギリシャ語由来の造語[pan(全て)+horama(眺め)]で、1788年に英国のパーカーという人が作った装置の名前なんだ。円形の建物の内壁に絵を書いてゆっくり回していくと、中の観客は自分の周りの景色が全て見えるという様な仕掛けなんだ。それが遠近法や、照明、それに動く模型の追加など、いろいろ工夫を凝らして進化していった。ところが映画の出現でそういった大掛かりな装置は廃れてしまったんだ。だから、そんな仕掛けは現在では見かけないよね。
でも舞台演出ではその名残がまだ残っているということだ。建物を円形には出来ないので、舞台の背景を左右に動かすことによって「パノラマ」の効果を演出するというわけだ。《眠れる森の美女》では、車輪付の舟に乗ったリラと王子が川に沿って旅をするように見える場面で、ロールで巻いた長い背景画をずらしながら舟が動いているように見せる装置を使うことがあるが、これを「パノラマ」って言うんだ。

☆ニコル:要するに巨大な動く絵巻物ってとこね。

◆やすのぶ:そうそう。舞台で見ると、背景が動くんではなくて、王子や観客自身が動いていると感じるというわけだ。とにかく、チャイコフスキーは注文通りの音楽を《No.17:パノラマ》で書いた。夢の中で舟に揺られて旅しているさまを上手く表現しているよね。演出家は予算をケチらずに、ちゃんと「パノラマ」を使ってほしいよね。

先に取り上げた木々が城を覆いつくす場面もチャイコフスキーは見事な音楽を作っている。リラの精の主題をバックに弦楽器の細かい動きを使って木々が萌え上がるさまを巧みに描いているんだが、これらの映画音楽のような手法も実際の舞台でやってこそ効果が100%発揮できるというものなのだ。

☆ニコル:でも、そんな仕掛けを使ってるの、あまり見かけないわね。

◆やすのぶ:そう、何十年か前はやっていたんだろうけど、今はどこの団もやらないね。だからその部分の音楽もカットされることが多い。情景に合わせたチャイコフスキーの音楽が聴けないのは残念だよね。場所を取るし、お金もかかるしね。専用の劇場で大きな倉庫が無いと難しい。でも、そういうのをやらなくなった一番大きい原因は、観客はダンスの方を観たいのであって、そんなことに費用をかけたってあまり喜ばれないということだろうね・・・ということは、音楽ファンがこのバレエをあまり重要視していないことが最大の原因なのかも。熱心な音楽ファンなら、こんな《眠れる森の美女》の最大の見せ場をいい加減にやられたら「木戸銭返せ」とクレーム付けるに決まってるからね。
いずれにしても、バレエは物語とダンスの絶妙な融合であることには変わりがないので、ダンスだけ重視して物語や情景をおざなりにやられると、感興が削がれ安っぽく見えるんだよね。その辺を小倉氏が指摘したというわけだ。

☆ニコル:いまならCGとかプロジェクションマッピングなんかを使っていかないと駄目なのかしらね。

◆やすのぶ:舞台装置の制作経費や技術の衰退が原因なんだろうね。当時は舞台装置の責任者の名前がプログラムに載っていたくらいだからね。現代ではプロジェクションマッピングなどで誤魔化さざるを得ないんだろうけど、精巧な模型や仕掛けの方が実在感があるんだけどねえ・・・
所詮、CGや映像はヴァーチャルなんだよ。物語自体が夢のような話なんだから、舞台の上では、映像のヴァーチャルではなくて模型のリアルさが求められていると思うんだ。

あと、この大掛かりな装置にまつわる話だけど、《No.17 パノラマ》が終わると、このパノラマの装置を入れ替えてオーロラの寝室にするために、チャイコフスキーには間を持たせるための音楽だけのつなぎの部分が求められた。それが《No.18 間奏曲》だ。しかし、実際にはそれほど時間が必要でなかったのか、結局この間奏曲は初演では削除された。今でもこのバレエでは滅多に演奏されないね。ただ、ヌレエフは彼の版の第2幕で、デジレ王子の憂鬱な気分を表現するためのソロとしてこの音楽を使ったんだ。非常に難しい踊りでヌレエフ版をやるときのデジレ役のダンサーの試練となっている。でもこの《間奏曲》での王子の踊りは技術的過ぎて、あまり音楽には合っていないように僕は思うね。無理やり挿入した感じ。それより、ニューヨークシティバレエの《くるみ割り人形》で、クララを夢に導くために挿入された無言劇や、ノイマイヤーが《くるみ割り人形》に振り付けた《パブロワとチェケティ》の方がよほど情感がぴったり合っている。

☆ニコル:普通の版では、第2幕は物語にはあまり関係ない夢の情景みたいなものだけど、デジレ王子が踊りまくるヌレエフ版て、第1幕と同じくらい重要に扱われていて他のところから音楽を寄せ集めているんだね。さっき<<宝石の精>>で話にでたオーロラの転用ヴァリアシオンも王子が難しそうに踊っちゃうし・・・。



<<ハープとピアノ>>
◆やすのぶ:話はちょっとそれるけれど、《眠れる森の美女》には不可解なオーケストレイションが存在していて、時々話題になることがあるんだよ。真相はよく分からないんだがね。

☆ニコル:どういうこと?

◆やすのぶ:第2幕まではハープがよく使われているんだけど、第3幕になるとハープはまったく沈黙して、その代わりピアノが何回か出て来るんだ。

☆ニコル:そういえば、結婚式の幕はちょっと違った感じがするわね。

◆やすのぶ:そう。オーロラとデジレの《パドドゥ》だってハープじゃなくてピアノが出て来るのでちょっと違った感じだろ。

☆ニコル:そうね。レッスンのときのピアノの響きに近いって感じかな。

◆やすのぶ:《パドドゥ》だけじゃあなくて、《アポテオーズ》や《宝石のパドカトル》にも出て来るんだ。特に《銀の精のヴァリアシオン》では大活躍するよね。

☆ニコル:まあ、あれはハープでやったんなら飛び跳ねるような感じが出なくて、ちょっと興ざめかな。

◆やすのぶ:チェレスタならもっと似合うかもしれないけど、その時はチャイコフスキーはまだチェレスタを知らなかったからねえ。
狭いピットの中にピアノを持ち込むなんて、ちょっと強引だとは思うんだけど、なぜチャイコフスキーは第3幕だけにわざわざピアノを使ったんだろう?

☆ニコル:何気なく見ていたけど、そう言われれば不思議だわね。

◆やすのぶ:俗説では、ハープ奏者が他の演奏会に出るため不在になるのでピアノで代用したって話があるけど、そんなことはあり得ないよね。
何故って、チャイコフスキーが作曲したとき、そんな未来に発生するだろう奏者の個人的事情になんて配慮出来ないからねえ。
どうしてそんな有り得ない話が話題になるかというと、当時の売れっ子演奏家は一晩に2つの出演を掛け持ちすることはそんなに珍しいことではなかったからだ。

☆ニコル:じゃあ、なぜそんな面倒なことをチャイコフスキーは楽器指定したの?

◆やすのぶ:《眠れる森の美女》は、始まりと終わりで100年の時間差があるよね。それで、第1幕と第2幕の間では衣装のデザインを変えているんだ。時代が変わったということを衣装の変化で示そうとしているわけだ。それと同じように音楽でも、その100年の差をハープとピアノで表現したという説があるんだよ。

☆ニコル:もっともらしい話だけど、それもちょっと変ね。だって、それならデジレ王子が乗る《パノラマ》の音楽は、すでに100年後なんだからハープがあったらおかしいじゃん。

◆やすのぶ:そのとおりだよね。だから僕は、ハープからピアノへ変えたのは、物語の核心に関わる変更だと思うんだ。《眠れる森の美女》ではタムタム(銅鑼)は2回大きく鳴らされる。1回目はオーロラが永遠の眠りについた後、全員を眠らせるためにリラの精が魔法の杖を振るった時、2回目は王子がオーロラにキスをして全員が目覚めた時だよね。その時リラの精は人間たちに知恵を授けたんだよ。ピアノはリラの精によって目覚めた人間たちを象徴しているんだ。だから、ピアノはお祝いに駆けつけた童話の主人公たちの踊りでは使われないだろ。目覚めた人間の捧げものである《宝石のパドカトル》、人間の象徴であるオーロラが踊る《パドドゥ》、そして感謝の《アポテオーズ》だけでピアノが使われているんだ。

☆ニコル:なるほどねえ。


<<オーロラ>>
◆やすのぶ:オーロラっていったいどんな存在?

☆ニコル:長い間子供に恵まれなかった王と王妃のやっとできた一粒種ってことでしょ。

◆やすのぶ:表面上はそうだよね。しかし、彼女の存在の意味するところは、今まで説明してきた、カラボスやリラの精、カタラビュットの意味から見て、オーロラとは『社会の幸せ』の象徴なんだよ。
個人の幸せなら、別の表現方法もあるだろうけど、ここで描かれているのは、われわれみんなが幸せになるにはどうしたらよいかということをオーロラという存在によって示しているんだと僕は思う。
だからこそ王様と王妃様の一粒種なんだ。王様と王妃様とは主権者たるわれわれ国民を表しているんだ。この国民とは、ロシアで演ればロシア国民、アメリカで演ればアメリカ国民、日本で演れば日本国民、要するに普遍的な人類全体と言い換えることが出来るかもしれない。

あの華やかで意味深長な第1幕の《花輪のワルツ》(ガーランドワルツ)には、たくさんの子供たちが楽しく踊っているだろう。それがわれわれの社会の理想なんだよ。

《眠れる森の美女》では、クラシック・チュチュを着るのは、妖精、幻影の場の精霊、あるいは童話の主人公たちだけなんだ。だから人間の役柄の人たちが着るのはドレスやロマンティック・チュチュでなければならない。時々見る、オーロラの友人の娘たちや宮廷の女官など生身の人間がクラシック・チュチュを着ている演出は絶対間違いなんだよ。唯一の例外はオーロラ! 彼女は人間であるにもかかわらず、クラシック・チュチュを着ているね。それは、彼女が単に踊りの主役であるからだけではなく、オーロラは『人間』であるとともに『国民の幸せの象徴』でもあるからなんだよ。このバレエ作品では、オーロラは2つの性質を併せ持っているということを、着ているチュチュによって示しているんだ。

☆ニコル:へー。オーロラのチュチュにまで意味があるのね。すごいわ。

◆やすのぶ:チャイコフスキーの3大バレエすべてで、クラシック・チュチュというバレエのみに存在する特殊な衣装を着ることが出来るのは、人間ではない者(白鳥、妖精、人形などなど)か、あるいは人間であっても何か特別のことを象徴する人、すなわち《白鳥の湖》のオディールやオーロラそして《くるみ割り人形》の第2幕で 『人形の国』の王妃となったマリー(クララ)に限られるんだ。

第1幕で、大人のオーロラが登場する場面、思い出してごらん。

☆ニコル:一番ワクワクするところだよね。

◆やすのぶ:うん。国王夫妻とオーロラ姫を熱愛する4人王子が登場して、姫が現れるのを待ちかねる場面だよね。そこでとんでもない音楽が流れる! ここは、寄席で落語家が登場するときの出囃子が鳴るような場面だから、本来なら期待を持たせるための明るく楽しい音楽があってしかるべきなんだが・・・。

☆ニコル:なんか怖いような音楽!

◆やすのぶ:そう。《眠れる森の美女》ではめったに使われないハ短調が、ここで響くんだ。ハ短調と言えばベートーヴェンの交響曲《運命》。ファム・ファタール(Femme fatale)、『運命の女』てなところかな。妖精たちによって定められたオーロラ自身の宿命、あるいは4人の王子たちを破滅させねばならない運命を表しているんではないかな。
ところが、オーロラがいざ登場すると、今度はコロッと変わって、軽くてコケットリーな音楽が流れる。彼女の、外見は美しいけど中身のない空虚さを表しているということだろう。でも、こんな所にもしっかりとカラボスの動機が入っていて、彼女が予言からは決して逃れられないことをも暗示されている。

☆ニコル:どこにそんなのがあるの?

◆やすのぶ:彼女が現れたところで♪タッタッタララララ とヴァイオリンが弾くのがそれだよ。聴いた感じは全く違うが、これは全曲の一番最初、序奏でのあの恐ろしいカラボスの主題と同じリズムなんだよ。この動機は、オーロラが針を刺すところのワルツを踊る場面でもちょくちょく出て来るので、彼女が常にカラボスの影響下にあることを音楽が暗示しているということなのだ。

☆ニコル:カラボスが出て来ないのにカラボスの動機だけが鳴るって、なかなか深いやり方ね。

◆やすのぶ:オーロラがひとしきり踊ると、続いてこのバレエの一番の見所がやってくる。

☆ニコル:《薔薇のアダージョ》ね。

◆やすのぶ:求婚のしるしに薔薇を一輪それぞれの王子がオーロラに捧げるところからその名が付いたんだろう。プティパは見事にこれを振り付けているよね。だから現代でもほぼ同じ振付で踊られる。特にポワントで立っているオーロラを、4人の王子がそれぞれ一回転づつさせるバランスの場面は手に汗握る圧巻だよね。
でも《薔薇のアダージョ》というのは、実は一種のあだ名なんだよ。この曲はスコアには《No.8 Pas d'action》と書かれている。そしてその中の1曲目が単なる《アダージョ》なんだ。パダクシオンてどういうものか知ってるよね?

☆ニコル:どういうものかはっきり知らないけど、踊りで芝居をするってことよね。

◆やすのぶ:そう、役者のことをアクター(actor)って言うように、アクションとは芝居のことなんだ。だからパダクシオンとは『演技の付いた踊り』、踊りと芝居が合体したものというわけだ。これについては、舞踊的にはいろんな議論があるようだけど、音楽だけに関して言えば標題音楽みたいなものだね。いわば、芝居のセリフに当たる部分を音楽がやるってことだ。

☆ニコル:それで、ここではどんな芝居をするっていうの?

◆やすのぶ:憧れのオーロラ姫に、4人の王子たちは競って求婚する。ところが、オーロラはそれをことごとく拒否する。断られても断られても、王子たちは絶対に諦めない。ってな感じの芝居をするんだ。チャイコフスキーの音楽を聴くと、その情景が目に浮かぶようだ。
短い管楽器による序奏に続いて、ハープの長いカデンツァ。そこではマイムが行なわれる。王さまは、国の安寧のために、ここにいる4人の王子の中から一人を婿に選ぶように言うと、王妃は、まずは4人と踊ってみてはと助言する。するとオーロラは踊りはじめる。まず、優美なオーロラの主題が流れる。30小節には2つの旋律が絡まったような短い動きが現れる。王子たちがそれぞれオーロラに自己紹介しながら言い争っているような感じだ。争いが頂点に達した時再びオーロラの主題が現れ、王子たちは彼女を賛美する。56小節からは木管に中間部の主題が現れる。これは短いもので、4人の王子が1人づつ順番に求婚する場面だ。だからそのメロディーの後には特徴的な速く短い上行音階でのオーロラの否定の言葉が常に続く。それは4回繰り返されるが、チャイコフスキーは王子が4人であることをハッキリ意識して作曲しているというわけだ。断られても王子たちはひるまず口々に求婚の言葉を投げかかる。オーロラは我関せずと踊り続ける。最後にフルオーケストラの中でトランペットとクラリネットだけがはっきりと断りの言葉を伝えて(76小節)壮大なアダージョを閉じる。

☆ニコル:音楽だけを聴いていると、情景が目に浮かぶわね。でも、プティパの振り付けはちょっと違うような感じ。

◆やすのぶ:そうだね。やっぱり音楽の論理と舞踊の論理では違うんだろう。しかし、これは素晴らしい振付だと思うよ。オーロラの美しさが最大限発揮され、さらに確固とした彼女の意思をも表明しているんだから。それと、バラ一輪という小道具を使って求婚の意思を表すのも言葉の無いバレエでは非常に簡明で効果的なやり方だ。《薔薇のアダージョ》の中では、薔薇は2回渡されるね。1回目は貰った後、取りあえずは丁寧に王妃に手渡されるが、2回目に貰ったときは両親の前で捨てられてしまう。明瞭な拒否の行動た。ところがこの求婚の行為は、実はもう1回あるんだ。3回でワンセットというわけだ。

☆ニコル:もう音楽終わっちゃってるよ!

◆やすのぶ:《薔薇のアダージョ》のあと、宮廷の女官や小姓たちの踊りが続くが、今度はオーロラのヴァリアシオンになる。王子たちはいるけど、彼らの相手はせず、踊るのはオーロラだけというわけだ。そして、その中間部で王子たちは最後にもう1回バラを捧げるんだ。今度はオーロラは後退しながらバラを受け取りもせず、ピルエット(回転)をして拒否の意思を強く表す。音楽も音階進行に合わせて金管が強く否定の音を出す。これまでの中で一番強い拒否だ。

☆ニコル:そうだわ。言われてみると、ここでも音楽は同じことをきっちり4回やってるわね。

◆やすのぶ:でも、これはしつこすぎるからか、最近の演出では薔薇はあまり使われていないね。とにかく、王子たちは何度断られても絶対に諦めないというのが、ここでのコンセプトなんだ。

☆ニコル:ハハハ。もうこうなるとストーカーに近いみたいだね。

◆やすのぶ:とにかく、この一連のシーンは音楽的には完璧に出来ているんだから、その通りに演出する必要があるんだがねえ・・・

それはそうと、カラボスの予言通りオーロラが永遠の眠りに就いた時、王子たちはカラボスを恐れて逃げ出すという演出があるね。

☆ニコル:王の命令で消え去ったカラボスを追いかけて退場するってのもあるし、カラボスに切りかかって返り討ちに合うっていう演出も観たことあるよ。

◆やすのぶ:王子たちのしつこさに対しては、あっさり死んでしまう方が後腐れが無くて一番良いように思うけど、中には王子たちが眠っているオーロラを寝室に運ぶって演出もあるようだ。「王子たちも100年眠るのかよ」ってツッコミが入りそうだけどねえ、ハハハ・・・


<<まとめ>>
ここで、ペローの童話、フセヴォロジュスキーの構想(チャイコフスキーが作曲したスコア)、初演の形態の三者の設定の違いのあらましを表に纏めてみよう。

項目 ペローの童話 チャイコフスキーのスコア
(元々の台本)
初演(リコンストラクション)
妖精の人数 8人 7人 7人
カタラビュット 存在せず 祝宴を取り仕切る。
王家に忠実な官僚
祝宴を取り仕切る。
王家に忠実な官僚
命名式の
引き出物
純金のケース、
ダイアモンドや
ルビーの埋め
込まれた純金
の食器
純金のケース、
ダイアモンドや
サファイアの埋め
込まれた銀の食器
(宝石のパドカトルより)
純金のケース、
ダイアモンドや
サファイアの埋め
込まれた銀の食器
(宝石のパドカトルより)
妖精が贈り物
をするタイミング
妖精全員がいる
場で行なわれる。
パドシスの
ヴァリアシオン。
特定できない
招待されなかった
妖精の名前
なし カラボス カラボス
その妖精の性質 善に対する悪 善悪のない自然 善に対する悪
その妖精の存在 死んだか魔法
にかけられた。
皆が知っていた。 カタラビュットは知っていた。
(王が名簿を確認したが気づかず)
招待しない理由 いないものとの
思い込み。
オーロラには不要なので
招待の必要なし。
カタラビュットが名簿を作成した時
カラボスの名をうっかり漏らした。
予言 王女の死
(恨みによる呪い)
オーロラの永遠の眠り
(カタラビュットの選択に
対するあてつけ)
オーロラの死
(カタラビュットの失策に
対する報復)
妖精(リラ)の
フォロー
予言を死ではなく
100年間の眠り
に変更。
王子が目覚め
させる。
城を森で被うなど
姫の眠りに
必要な措置。
永遠の眠りを100年間
に期間限定する。
王子が目覚めさせる。
城を守り、姫の環境を
100年経っても
全く変えない。
死を100年間の眠り
に変更。
王子が目覚めさせる。
城を守り、姫の環境を
100年経っても
全く変えない。
眠る人たち 姫が目覚めた時
に不自由しない
使用人など。
王、王妃を含む城全体。 王、王妃を含む城全体。




<<結論>>
バレエ《眠れる森の美女》のテーマは何か? と問われると、誰もが『善と悪の対決』と答える。開幕前にイントロダクションとして演奏される『カラボスのテーマ』と『リラの精のテーマ』が強烈な対比として提示されるのを聴くと、なるほど異論はなさそうだ。ところが、ちょっと立ち入って考えてみると、これはなんか変だということに気付く。もし『善と悪の対決』がテーマだとすると、善が悪を克服してハッピーエンドになるか、あるいは悪が勝って悲劇に終わるのが一般的な構成なのだが、《眠れる森の美女》では悪であるはずのカラボスは滅びないにもかかわらず、めでたく大団円を迎えるのである。そのため、これは物語のドラマトゥルギーとしての構成の弱さを露呈していると結論付けられてしまうことになってしまう。

しかしこの結論は、《眠れる森の美女》というバレエ作品がもともと持っていたテーマを無視し、原作のペローの童話の方へシフトした結果、テーマを『善と悪の対決』と決めつけてしまったことに由来するのであって、この現代の一般的解釈こそが大いなる誤解と言えるものなのだ。

その第一の証拠は、カラボスは腹立ち紛れに『オーロラが死ぬ』と予言するのではなく、王国の官僚たち(カタラビュットを代表とする)が望んだ美徳(招待した妖精たち)の恩恵を、カラボスは『オーロラは永遠に眠る』と予言することによって、美徳を増強し永久に固定してやっただけなのだ。この法外な贈り物は、悪がもたらしたのではなく、結局人間たちの思慮不足や身勝手さが、そういう結果を招来せしめたということなのだ。

第二に、イントロダクションにおけるカラボスとリラの主題の対比が、もし『善と悪』の対比とするならば、《白鳥の湖》のように、採られる調性は五度圏上の対角にあたる調で対比されるべきであり、《白鳥の湖》では、それがロ短調=へ短調とニ長調=変イ長調という二組の調関係によって成就されている。ところが《眠れる森の美女》ではホ短調=ホ長調という同主調関係で出来上がっているのだ。同主調関係とは、対立する別のものではなく、1人の人間の2つの側面を表すようなものとたとえられよう。このことからも、台本で述べられているようにカラボスとリラは表裏一体の姉妹関係にあるということが言えるのである。語弊はあるが、この物語は2人の姉妹が仕組んだマッチポンプ的様相すら見えてくるのである。彼女たちは、そうすることによって人間社会を矯正しようとしたのかもしれない。

したがって、バレエ《眠れる森の美女》のテーマとは、本文の中で説明してきたように『自然と人間社会の調和』と見るべきだ。われわれはしばしば自然と不調和になりがちだが、それを諫めているのがこの物語の「本筋」なのだ。登場人物たちに象徴された姿をそれぞれ具体的に表してみると、王や王妃はこの国の主権者すなわち国民そのものの象徴であり、オーロラ姫は単なる幸せを求める一人の娘ではなく、国民全体の幸福への希望の象徴なのである。そしてカタラビュットは国民の幸福を実現するための、政治または官僚組織の象徴と言えるのである。

《眠れる森の美女》は、劇場のこけら落としなど、特別なイヴェントの際に取り上げられることが多い。その理由として、お目出度い結末、豪華絢爛な衣装や装置、そして美しくて華やかな音楽が挙げられることが多いが、最も重要な理由は何かと言えば、このバレエ作品が語ろうとしているもの、すなわち『自然との調和による社会の永続的な繁栄への願いとその成就』という作品本来のテーマがお祝い行事に相応しいものであるということを忘れてはなるまい。

<<あとがき>>
この一文を書くきっかけは、東日本大地震によって引き起こされた未曾有の大災害(震災・津波・原発事故)とその後の政治的混迷と復興にかけた多くの人々の努力を見るにつけ、バレエ作品《眠れる森の美女》のテーマが『まさにこのことであったのだ』との思いを強く感じたからです。前述のフセヴォロジュスキーへの手紙の回答で示されているように、チャイコフスキーが彼の構想台本を見て即座に絶大なる創作意欲を表明したのは、このバレエ作品の主題が単なる 『善と悪の相克』などではなく、『人間社会と自然との調和』にあることを、この台本の中から彼が見抜いたからに違いありません。あの大津波は史上初めて起こったことではなく、過去に何度もあったことであり、先人たちは未来のわれわれにいくつものメッセージを残しているのです。それらを現代人はカタラビュットのように無視したため、未曾有の大災害となってしまったのです。フセヴォロジュスキーは当時のロシアのことを想って《眠れる森の美女》の構想を練ったのかもしれませんが、その寓意するところのものは、あまりにも現代日本の直面する諸問題に符合しすぎていると言わざるを得ません。チャイコフスキーの巧みな作曲技法によって、物語はこのテーマに沿って見事に音像化されています。したがって、フセヴォロジュスキーの意図通りに作られたチャイコフスキーの音楽に完全に適合する演出が、才能豊かな振付家によってなされ、上演されることを私は切に願っているところです。そしてそれは、現代に残されているプティパの振付を大きく逸脱するものではなく、ほんの少しの配慮で実現するものです。また、こういった配慮の下に制作されたプロダクションならばこそ、観衆に大きな感動と満足を与え、必ずや、直接復興に努められている方々は言うに及ばす、全国民、全世界の人々に勇気を与え、美しい『心の珠』を共有させることが出来るであろうことを私は確信しています。

<<余談>>
今年、2014年にディズニーは、名作アニメ《眠れる森の美女》のカラボスに相当する悪役マレフィセントを主人公とする実写版映画を公開した。《マレフィセント》Maleficentとは英語の形容詞で『有害な、悪事を行なう』といった意味である。アニメでは悪役の典型として描かれているので、まあ妥当な名付けだろう。私の興味を惹いたのは、ほかならぬ、アニメでは「オーロラは針で指を刺して 『死ぬ』」と大見得を切って悪役ぶりを存分に発揮していたのに対して、《マレフィセント》予告編では「オーロラは針で指を刺して『永遠に眠る』」、すなわちフセヴォロジュスキーのバレエ台本と同じになっていたことである。ここでのマレフィセントはアニメのような単純な悪役ではないということだ。マレフィセントという名前は、われわれ日本人にとっては「タバコかコーヒーの新発売商品名かな?」くらいの感覚しかないが、英語圏の人たちはそんな筋書きと名前の悪い意味とのギャップに違和感を覚えないのだろうか、不思議に思った。

実際、映画を見てみると、『永遠』というのはハッタリであって、ちゃんと抜け道が用意されていたのである。予言には続きがあり「彼女を目覚めさせることが出来るのは『真実の愛』だけである」とし、おまけに「この呪いは誰にも覆すことが出来ない」と念を押している。マレフィセントが自己完結をしてしまうので、リラは不要だ。そのためか、3人の妖精たちは全く無能に描かれている。そして、王子のつかの間の愛が『真実の愛』ではなく、マレフィセントのオーロラへの憎しみを超えた愛と自分が解くことのできない呪いをかけてしまったことへの悔悟が『真実の愛』であったというのが最後のオチとなる。

物語は最初、マレフィセントとオーロラの父、ステファンとの愛の裏切りが描かれており、妖精と人間の愛、すなわち《ウンディーナ》の影響なども幾分感じられる。こういう逸話を含めて、この映画で描かれるいろんな男女の関係は、決定的な意味を持つものは何一つない。男女愛が主題ではないのだ。男女の永続的な愛こそが至上であって、豊饒と子孫繁栄の基盤であるとの従来の一般的な考え方からハッピーエンドや悲劇が作られてきたのだが、この映画からは、そのような概念が欧米ではすでに通用しなくなっていることを示しているのかもしれない。また、この筋書きはマレフィセント役のアンジェリーナ・ジョリーの私生活をも反映しているとのことで、彼女の素晴らしい演技と共に、とあるブログで見つけたMaleficent of Angelina by Angelina for Angelinaまさにそのものであるとも言えよう。

もちろん、この映画の台本を書いた人はフセヴォロジュスキーの台本を知っていただろうし、それをヒントに呪いを『死』から 『永遠の眠り』に変えた可能性は否定できないけれども、変えられた筋書きと意味は、フセヴォロジュスキーのものとは全く違うことが映画を見てよく分かった。ただ、意図は違うとはいえ、この映画での『永遠の眠り』の採用を期に、ペローの童話ではなくて、バレエの原台本の方のカラボスの予言の本当の意味を今一度吟味してみようという振付家が現われてくることを私は期待したい。

<<プロローグの台本>>


2013・4・30 補筆
2014・6・27 補筆
2014・7・17 補筆