アラカルト

ここでは、音楽以外のオーナーが興味ある話題を取り上げます。


9、大阪市とサンフランシスコ市の姉妹都市解消

姉妹都市関係というのはいったいなんだろう? 普通の関係と違って特別に親しい関係、まあ親友って間柄なんだろう。それなら、これまで親友らしい特別の努力をしてきたのだろうか? よく分からない。昔、近所の交通科学館にはサンフランシスコ市のケーブルカーが展示されていた。それはいつの間にか無くなったし、今や交通科学館そのものが無くなっている。これは単なる個人的思い出だが、半世紀以上も姉妹都市関係が続いてきたのだから、テレビが取り上げるような何か恒例のイベントなどが出来ていてよさそうな気がする。たとえば、桜の季節や夏祭り、ハロウィン、クリスマス等のきっかけを利用して、市主催で大々的なパレードや祭りを行なうなど・・・親友の関係をアピールする努力の継続が大切なことだった。一方の、サンフランシスコの方ではどうなのだろうか? 大阪市もたくさんの都市と姉妹都市となっているのだからサンフランシスコだけを特別視するのは難しかったのかもしれない。そうだとすると、姉妹都市とは普通の関係に少し色を付けたようなものに過ぎず、こちらの都合で親友関係を振りかざすのもいかがなものかとも思う。日頃の積み重ねが大切だったというわけである。

多分そういったことが今回のサンフランシスコ側の「無視」という結果に繋がったのではなかろうか。大阪市側が大阪市民としての尊厳を認めてほしいと要請したのに対して、本当の親友ならばサンフランシスコ市は、これこれの理由であなたは間違っていると歴史的事実を明示して大阪側を諭すべきだろう。とにかく、姉妹都市関係は両市の合意において成り立つものであるし、それをを解消したところで今後は普通の友人すなわち、ロスアンジェルスやシアトル、その他のアメリカの都市と同等の友好関係になるだけであって、何も敵対しようなんてことではさらさらない。この点でサンフランシスコ市の反応は、なにかピント外れのような気がする。サンフランシスコ市は姉妹関係は継続していると見做しているようだが、その見解は、次の選挙で現吉村市長とは違う意見の人が市長になるかもしれないので、それまでは留保されていると受け取るべきだろう。はたして次の市長戦でこの問題が争点になるのだろうか?

慰安婦問題は大きな政治カードの1つである。それに磨きをかける効果的な手法として外国拡散策が取られてきたのだが、そういう動きに対して国民は鈍感すぎるように思う。このままほっておいては、これからどんどんグローバル化していく子供たちの将来に禍根を残さないのだろうか? という点についてもっと敏感になるべきだ。野党の主張は別として、大阪自民の見解は不思議だ。「国際政治問題に地方が口出しをしては、政府の方針の足を引っ張ることになる」というものだが、政府段階で硬直化してしまっている現状に対して、細い糸を頼りにしても現状を少しでも打開しようという努力に対して、何か別の解決策があるのか? より良い対案を示さないとお話にならないように思うのだがいかがなものだろう。

ことしのノーベル平和賞にはデニ・ムクウェゲ氏とナディア・ムラド・バセ・タハ氏に決まったように、女性差別、女性虐待問題は現代における最重要課題の1つである。そういう流れに乗っかった活動は支持を得やすいのだろう。戦争がらみでは慰安婦問題よりも、もっと至近で現実的な問題であるライダイハン問題を支援するのも一つの方法だとは思うが、やはりそれは当事者であるベトナム系移民が主体になってやるべきことだろう。

さて、日米間の平和への努力の1つとして記憶すべきものがある。それは戦前行なわれた日米間の人形の交換である。このことはネットにもたくさん出ている(一例↓)。こういった事例をも鑑みて、1つの事象だけを取り上げるのではなく、女性差別、女性虐待全体に立ち向かうための像を大阪市からサンフランシスコ市の公園に贈呈するという案はどうだろう。大阪市民のこの問題に対する心意気を示すためである。もちろん、それには現在ある像を私有地に移すことを条件としてである。サンフランシスコ市の公式見解ではなく、一部の市民の意見であることを明示するためである。もし、サンフランシスコ市から同様の、真に女性差別、女性虐待を無くすための像が贈られてきたら、中之島公園あたりに設置して、友好の祭りの象徴に出来るのではないだろうか。これは単なる1つの提案に過ぎないが、たぶん、これに対しては、両市ともに少なからず抵抗があると予測される。姉妹都市関係を解消した現状とはいえ、吉村市長には様々な知恵を結集してこの問題の解決に息長く取り組んでいただきたいものである。それは将来に禍根を残さないためでもある。

https://blogs.yahoo.co.jp/komonjo2004/44095623.html

2018・10・10


8、続カーリングの楽しみ

ワールドカップが新設され、その最初の大会が蘇州で開催された。年間に4つの大会があって今季のラストは北京だ。2022年の北京冬季オリンピックを見据えての中国の国策の一環だと思われるが、たいしたものだ。来期以降も引き続いて同じようなものが開催されるのだろうか?
種目としては、4人制男子、4人制女子そして男女2人のミックス・ダブルス(MD)の3つが行なわれた。日本は、男子と女子のみでの参加であった。前回書いたように、急造の4人制オリンピック選手のペアが圧勝するような現状のレベルでは、日本のMD参加は無理なのは致し方ない。

ところで、女子は6戦3勝3敗で、まあまあの成績だったが、男子はどうだろう。6戦全敗、それも全てコンシード(碁や将棋の投了のようなこと)負け。1試合だけ、ユーチューブで実況を見ることが出来たが、試合を観ていても全く面白くなかった。石が思った所に来ないのだ。他の試合も、多分同じようなものだったのだろう。男子は決して弱いチームではなかったのだが、勝ち負け以前の段階にあったように思う。この男女の差はどこから来るのだろうか?

この大会では、スコア的に面白い試合が2つあった。
一つは女子4人制の方で、『12対0』という試合結果があったこと。ということは、少なくとも2エンド以降はすべて勝ったチームのスチール得点だったのだ! スチールとは「盗取」という意味である。カーリングは、エンドごとの最後の1投によって得点が確定していくので、常に後攻が試合の主導権を握ることとなる。だから、逆に先攻の方が得点した場合をスチールと呼ぶというわけである。そして、点を取られた、あるいは盗られたチームが次のエンドでは後攻になるというルールがある(ブランクエンド「双方無得点」の場合は先攻後攻は変わらない)。すなわち、試合終了時、獲得点数が『0』ということは、少なくとも2エンド以降は全て後攻だったということになる(最初のエンドは別の方法で先攻後攻を決める)。野球の12対0とはニュアンスが相当違うのだ。ところが、同じチーム同士でもう一度試合をした結果、今度は『0点』のチームが8対2で勝っている。カーリングとは不思議なものだ。日本男子は、どの試合もボロ負けだったが、こんなひどいことにはならなかった。

もう一つはMDで、第1エンドで『6点』を取る試合があったこと。すなわちMDでは最初に1つ石を置いてから5つ石を投げるのだが、それらが全部得点に繋がったというわけだ。まあ、めったに見れないことで、麻雀でいえば役満上がりってなところだろう。アンビリバボー。大量点を取られた方としては、少なくとも3投目以降は、真ん中の石の集団を蹴散らすか、間に割って入るべきだった。ところが、思うように石が行かず、真ん中の相手集団を最後まで温存してしまった結果が6失点に繋がったのだ。この試合、最終的には18対4の大差で終わった。ところで、6点取れそうな場面が今年のMD世界選手権の日本対ロシアの1:49のところで起こっている↓。ロシアが直前に投げた軌跡の通りに投げれば6点取れることろだった。ところが、最終投は関係のない所をスルーしてしまった。氷の状態や石の状態を読み誤ったのか? あるいは何か迷いがあったのか? すなわち解説者が言う通りハウスの真ん中に置きに行って2点を取るか、1つだけある相手の石をはじき出して大量得点を目指すかである。石の曲がり方は氷の状況に左右される。石の止まる位置は、投げた人次第である。スイープで伸ばすことが出来ても縮めることは出来ない。藤澤の最終投は、コースは2点取りで、スピードは中途半端なはじき出しであった。前に投げた山口より余程狙いやすい位置にあったにも拘わらず・・・。このエンドで終わったはずのところが、結局延長戦にもつれ込み、危うく勝ったのだったが。

https://www.youtube.com/watch?v=n79OwU8Q5OA

国際大会に出場できるようなチームは、どのチームも相当実力を持ったチームであろう。それなのに、試合の結果を見ると、プロとアマの対戦でもそうはならないような、悲惨なものをときおり見つける。観戦していて全くつまらない。上の例も、そういった類のものであるし、今回の日本の男子の戦績も似たようなものである。何故だろうか? 思うに、氷の状態の把握と適正な対応にチームとしてのバラツキあるのではないか、ということである。要するに、今試合をしている氷の状態がどんなものかによって、チームとしてすぐさま対応できるかどうかについての能力の差が点差に現れるのではないだろうか。 そうであるとしたら、国際水準をクリアしている女子のロコソラーレに、そのノウハウを伝授してもらうか、あるいは、ロコソラーレに男子部とMD部を作るのが国際化への早道ではないだろうか。

とにかく、まずはMDのレベルアップと国際大会参加が直近の課題だ。4人制から引き抜いた急造ペアなどではなく、本格的な国際水準のプレーヤーを育てることが急務だ。日本も少しは国段階での対策を講じないと中国に大きく後れを取ってしまうだろうことを痛感した。

このワールドカップは、全試合8エンド制で、延長戦なしというルールだった。観客のことを思えば、今後とも8エンド制が主流を占めていくと思われる。観客数を増やすためには、さらにサッカーのルールに近づけていくのが良いのではないだろうか。私案だが、8エンドを前半後半に分けて、4エンド後休憩。1エンド後攻のチームは、4エンドの結果に関わらず5エンドは先攻とし、8エンド終了時同点の場合は、延長戦を2エンド行なう。先攻後攻は1エンド、5エンドの順。現在のルールでは、8エンドに得点したチームがエクストラエンド(延長戦)では先攻となるわけだが、一旦引き分けた以上、それでは公平さを欠くように思うからである。それでも引き分けた場合は、サッカーのPK戦のようなものを導入したらよいと思う。たとえば、ハウスの真ん中に相手の石を1つ置き、それに対して一人ずつが最終投として投げ得点を競うということで、8投で決着がつく。もし同点ならそれを繰り返すというわけある。

このようなルールの大きな変更は、作戦、練習方法などに大きな変化を要求しているので、選手側に少なからず抵抗があるだろうが、試合を短く面白くすることによって観客を増やす努力をすることが、カーリングを世界的なメジャーな競技にするための至上命令であるとの認識を共有することが、まず大切なのであろう。ありていに言えば、今大会のYT放映の余った時間でちらりと見せた、藤澤のスエーデン戦でのトリプルテイクアウト(相手の得点可能な3石を放り出す)のようなファインプレーを観客は観たいわけで、それが成功するかしないかに観客は沸き立つのであって、かすりもしないような段階では、全く観る気が失せてしまうというわけである。

2018・9・26

【追加】もうひとつ加えるに、ルール上でカーリングの試合を面白く無くしているのがブランクエンドルールではないだろうか。すなわち、得点の無かったエンドの次のエンドでは先攻後攻が交替しないというルールである。いかにも合理的なルールのように見えるが、ここに弊害が生じるのだ。極端なことを言えば、絶対ミスをしない両チームが対戦した場合、最初に後攻を取ったチームがブランクエンドを重ねて後攻を維持し、最終エンドの最終投で1点を取って勝つというスタイルが成立するのではないかという疑問である。こんな空想の展開は別として、実際の試合でも、特に序盤や終盤において後攻がブランクエンドを選択することがよくある。1点<ブランク<2点という簡単な図式が存在すると仮定して、その価値判断に該当するケースが結構実戦では生じるのだ。
ブランクエンドが観ている者にとっては全く時間の無駄使いのように見えるのは、点を取らないという努力自体が魅力ある作戦とは見えないからだろう。さらには、1つのエンドが引き分けに終わった筈なのに、一方だけが後攻の権利を得るという不公平感も問題となる。カーリングというゲームが考案された初期には、どんな感覚だったのだろう? きっと選手の技術も氷の状態も未発達な中での、偶然性が大きく支配していた環境からの公平性によって作られたルールだったのだろう。だから、しっかりした技術を持った人たちの試合を観ると不公平に感じるのではないだろうか。0−0で終わったエンドでは、自動的に後攻が継続するのではなくて、1点取る(次先攻)か、1点スチールさせる(次後攻)か、についての選択権をを後攻に与えるようにルールを改正するという案はどうだろう。この方がより公平感が増すように思う。もちろん、私が提案した4エンドハーフ制の場合、4エンドや8エンドさらには延長エンドでは、次の後攻選択の余地が無いのだから0−0のままである。要するに次のエンドを後攻にするためには一種のペナルティーが必要だということである。ということは、1点取らされた場合とか1点スチールされた場合と同じ結果になるのではないかとの疑問が生じるが、様々なケースを考えた場合、無条件で後攻を獲得するという現行ブランクエンドルールよりも、改正案の方が多彩な戦略を構築できる点で優れているように思うのである。

2018・10・5


7、関西国際空港会社

以前にも高潮被害があったにも拘わらず、今回の状態はリスク管理の甘さが問われてしかるべきだろう。大阪の他の地域では高潮での被害はそんなにたいしたことはなかったのに、関空だけがダメージを受けたというのは、全く経営がなってないことを意味する。それはそれとして、関空会社の緊急時の対応の拙さを1点指摘しておこう。それは数千人の利用者が関空島内に取り残されたことである。その原因は、タンカーが橋にぶつかって、鉄道が動かなくなったことにある。関空では強風で鉄道が止まることはしょっちゅうで、代行バスもあるし、風が止めば鉄道は動いた。ところが今回のあの強烈な台風は、たった数時間で過ぎ去ったにも拘わらず、線路に道路がめり込んできて当分使えそうになくなってしまった。「こら、あかんでえ」というのはテレビの映像を見ていた我々ですら瞬時に分かったように、関空会社は事の重大性をすぐに察知したはずである。この非常事態に関空会社は即座に敏速に対応すべきであった。すなわち孤島になった島から観光客を一刻も早く救出することである。幸い今回は片側車線が使えたからまだましだったが(というか、このことが危機感を減じさせたのかもしれないが)、『橋が使えなくなった時どうするか』というマニュアルはなかったのだろうか? もしあったのなら、なぜそれを発動しなかったのだろう? すぐに動けるのは、たぶん船しかないように思える。普段からそういった場合の敏速な対処法を押さえておくべきであったのだ。しかし、ニュースをテレビで見る限りは定期便しか動かなかったようだ。とにかく、近くにいるフェリーや観光船あるいは漁船を特別にチャーターして、希望者はすべて当日中には島外へ出ることが出来るようなマニュアルの存在があったのだろうか? もちろん、そういった場合行政が先頭に立って敏速な措置をすべきであった。なんせ大阪の表玄関であって、お客様を迎えるところであるのに、今回の対応の悪さは是非改善されるべきだ。
さて、港も破壊された場合はどうかな? ヘリコプターか? 自衛隊出動か?

それはそうと、大阪商人の町を自負する大阪なのに、こういった困った時が最大のビジネスチャンスであるとの理解が関空会社や行政にあったのか? という疑問。もちろんそれで金儲けをしようなんてケチな話ではない。大阪は万博誘致に動いている。その成否は定かではないけれど、官民一体で即座に対応しておれば、観光客たちは即座にそれを世界中に拡散しただろう。「さすが大阪だ。やることが違う!」。それは市長の演説の何倍も効果があっただろうことは火を見るよりも明らかなことだ。

2018・9・8


6、大阪城

大阪城の本丸天守閣へのぼるには2つのルートがある。南側の桜門から入るルートいわゆる表口と、北側の青屋門から極楽橋を渡って入るルートいわゆる裏口である。かつては桜門から入る人が多かったが、環状線に大阪城公園駅が出来てからは立場が逆転して北側がメインルートのような様相を呈してきた。ところがそこに問題がある。このルートは、たくさんの人が通るにかかわらず、やたら階段が多い。↓の動画を見てお分かりのように1分30秒あたりでは乳母車を持って歩いている人がいる。難儀なことだ。ところが、問題なのは2分あたりから見えて来る巨大なスロープ。そのためにもとからある階段は草ぼうぼうで通れなくなってしまった。なぜこんなスロープを作ってしまったのか? まあ、乳母車を持ってこの階段を上り下りするのはそれこそ大変だ。だから限られた予算で車いすや乳母車を通すためには致し方ないことだったのだろう。

https://www.youtube.com/watch?v=lKsOgOl8Xs0

とはいえ、史跡をあんな風に手を加えてしまって良いものだろうか? 公園であることと史跡であることを両立させるためにはどうすればよいか? 答はもちろんお金である。大阪市内の他の公園と比べて、けた違いに多くの人が訪れるのであるから、そこに多額の税金を投入するというのは当然のことだろう。地下鉄を掘る技術があるのだから極楽橋を渡った所にエレベーターで地下へ潜り、豊臣本丸遺構の下をトンネルでくぐって天守閣へ直結する方法が最善なのではなかろうか? その程度の税金投入は当然のことだと思う。動画で見た限りは工事中の個所が多いので、歩きやすくするために更にスロープを整備しそうな気配もある。是非ともそんな破壊行為は一刻も早くやめてほしい。とにかくこのルートは階段で上がることが必然であり、城とはそういうものだ。単なる利用者の利便だけで城の状態を改造して欲しくない。

ところで城といえば、名古屋には観光資源が乏しいので、金のシャチホコで有名な名古屋城天守閣を、大阪城のような鉄筋コンクリートではなく、木造で再建しようという話が話題になっている。昔の設計図が残っていて、江戸時代の状態をそのまま再現できるらしい。大阪城は天守閣の形をした博物館だが、名古屋は姫路城や彦根城の天守閣のようなものを新たに作るということなのか。確かに観光の目玉にはなると思うが、名古屋市民はどう考えているのだろう? 大阪城の時がそうであったように、やはり市民の盛り上がりが一番大切だと思うのだが如何なものだろう。そのためには、経済効果を喧伝するよりも、市民のプライドをくすぐるような形で盛り上げていくのが一番だと思う。ごく少額でなおかつ自発的な寄付を募ることによって、たとえ1円の寄付でも事業に参加しているという共通意識を持つことが木造天守閣再建のための最大の力となるのではなかろうか。

ところがそこに奇妙な横やりが入った。私はただの傍観者なのでよく分からないが、どうも新しい木造天守閣にエレベーターを付けるという要望があるようだ。設計図にそんなものがある筈はないけど、誰でもが簡単に上へ行けるようにしてほしいということなのだろう。しかし、それでは木で作るという趣旨から全く外れてしまう。そんな中途半端なものでよいのだろうか? 市民はどう考えているんだろう? そういった風潮が進むと姫路城にもエレベーターを付けよということになるのかな? 大阪城の青屋門からの階段などはどう考えるのか? 名古屋城天守閣のこれからの成り行きは興味あるところだ。

2018・6・7


5、カーリングの楽しみ

4年に一度冬季オリンピックの時に話題が沸騰するカーリング。しかし、その他の期間は全くマイナーゲームに成り下がってしまうことの繰り返し。今回のオリンピックで女子は銅メダルを獲得し、大いに盛り上がった。カーリングファンの私としては、これを機にカーリングがもっとメジャーなスポーツとして、底辺の拡大(カーリング人口の増大)と、オリンピック期以外のテレビ放映の増加を願っている。

今年のオリンピックでは、新種目のミックス・ダブルス(MD)に日本の代表選手は残念ながら出場できなかったが、4年後の大会には日本代表選手が是非とも出場して欲しい。メダルを狙うにはこういう新種目が一番だ。そのためもあってか、今年の世界選手権の代表を選ぶ日本選手権では4人制のオリンピック選手を急造のペアにして出場させたようだ。結果は圧倒的。オリンピック選手の藤澤・山口ペアは8戦全勝、そして世界選手権では11戦8勝3敗、5位であった。その上、銀メダルを取ったロシアチームには予選で勝っている。こういった実績を積み重ねれば、オリンピック出場も可能であるし、充分メダルを狙えるだろう。ただ、4人制との兼ね合いが問題になるということだ。

そもそも、カーリングとはゲームなのかスポーツなのか? 私のような素人ファンの目からすると、低レヴェルの競技ではゲーム的要素が大きく、レヴェルが高くなるにしたがってスポーツの要素が増えてくるように見える。レヴェルの高低はショットの正確さによるのだが、そこにはスイープ力と氷を読む技術が大きく影響して来る。要するに、レヴェルが低いということは氷が読めず、スイープによって石をコントロール出来ないということだ。そのスイープ力というのがまさにスポーツなのだ。そして、レヴェルの高低が入り混じった中で起こる競技内容の不可解さが観戦するときの面白さの大きな要因になっているのも確かだ。実際のところ、今年のMD世界選手権戦では、日本代表は予選リーグ7戦を5勝2敗で通過した。敗れた2敗というのは、初戦ニュージーランド(NZ)ペア(結果最下位)と第2戦リーグ首位のペアが相手だったということだ。首位に破れるのはまずは順当として、最下位のペアは勝った相手が日本だけだったのだ。ということは両者には実力に相当の差があったことが窺え、その差にも拘わらず日本ペアが負けてしまったということは、勝ち負けには氷を読めていないという不安から来るメンタルの要素が大きく関わるということなのだろう。さらに、日本ペアは全部で11回戦って、たった1つの例外を除いて、敗れたのは最初の2戦だけである。その例外とは、準々決勝の対韓国戦である。この一戦は終始日本優位に進み、ある局面では大量得点で相手を突き放すチャンスがあったにもかかわらず、ミスでそれをものに出来ず、ズルズルと進んで結局粘り負けてしまったような試合だった。ショットが決まらなかったのは、最初の対NZ戦の敗戦が大きく影響したのではないかと思う。というのは、この一戦NZ戦の時と同じシートが使われたということで、その時のイメージが頭にこびりついていたので迷いが生じて正確さを欠いたのではと考えられるからである。

カーリングは『氷上のチェス』と比喩されることがよくある。しかし、実際の試合を観ていると、とてもそのようには思えない。チェスは将棋や碁と同じで、打ち手の技量に応じて『打つ手を間違う』ということはまずないからである。ところが、カーリングでは、それぞれの石の特徴、刻々と変わる氷の状態により、それを読み間違えるととんでもない結果が出て来る。もちろんそういったことを読み取ることが技術の一環と言えるので、より経験を積んだ者の方が技術的に上位であるということになるのだが、不確定な要素も多い。先に述べたようにメンタルな要素が非常に大きいのだ。

そうした中でとんでもないことが起こる。今年の世界選手権大会女子のロシア対中国戦でそれは起こった。
最終10エンドに入ったときロシアは7対4で勝っていた。中国は、それを覆すためには4点を取る必要がある。そのためには、ハウス内に石を溜め、ガードの石をたくさん置いて紛れをたくさん作り出すところに活路を見出すという作戦になる。逆に、ロシアにとっては、相手に2点を取らせれば勝なので(3点の場合でも、同点延長戦では後投げロシアが有利)、石をなるたけ排除して紛れないように進めるという余裕の戦いのはずだった。ところが、実戦では、なぜかロシアは中国に1点なり2点を与えようとはせず、中国に合わせて、ハウス内に石を置いてガードで固め、点を取りに行く作戦に出た。相手を甘く見たのか? スチール出来ると見たのか? 自分たちのプレッシャーを計算外にしたのか? 作戦変更をチーム内で共有しなかったのか? とにかくこの局面では、自分たちの石も相手に利用されるというリスクの方が大きいことを認識しなければならない。ロシアにとっては無駄で最悪のゲーム展開となった。リードはスルーを投げ、セカンド以降も石を排除することのみに専念すべきであったのだ。ところが、実際はどんどん石が溜まっていき、ミスショットがミスショットを呼び、さらに石が溜まってしまって、どんどん局面が難しくなり、サードにミスショットが増え、スキップの負担が増大したということだ。結果、中国のナイスショット、ロシアのミスショットの連発で、最終的には中国のビッグエンドとなり、4点を獲得した中国は7対8で大逆転勝利したのだ。解説者は「アンビリーヴァブル!」と叫んでいた↓。
紛れるからミスショットの確率も増えるわけで、ロシアはなぜそのような紛れるような作戦をして、勝ってる試合を落としてしまったのか? そもそも『氷上のチェス』といわれるのなら、そのような作戦は有り得ないと思うのだが、どうなのだろうか?

https://www.youtube.com/watch?v=7inXGynoWA0

とにかく、観ている方は面白いけど、ロシアは勝つ気があるのかを疑ってしまうことも確かだ。ルール内で最善を尽くすのがスポーツならば、いくら何でもあんな作戦は無いだろうと・・・技術以前の問題ですよ! 試合を面白くするためにはルール自体を変えなくてはね。とは言え、現行ルールでも、観ている方が予測したこととは時々違う風に展開することがあるので、全く油断ならず、そういった面では面白い競技であることは確かだ。

2018・5・16



4、公用語について

世界共通の言葉というのは人類の悲願である。世界中の人が同じ言葉を話してこそ真の平和がもたらされるのだと思う。
かつて、エスペラント語という人造語が国際語を目指して考案されたが、現在に至ってもあまり普及しているとはいえない。それを母国語として使う人たちがいないからなのか、その言葉が持つ文化的蓄積が無いからなのか。とにかく残念なことである。私の若い頃は公用語としてフランス語が第一にあげられることが多かった。しかし現在では、英語が幅を利かしている。私個人の感想では、あのゲルマン語の上にフランス語をのっけたような言語は文法的にはあまり好きではないが、なんせ相手に通じなければ話にならないということで、どんどん英語の世界語化が進んできたように思う。実際、大阪にも中国人や韓国人の観光客がたくさん増えて、道を訊かれたりする機会も増えてきたが、その時に話す言葉はカタコトの英語である。現状、それしかないということだ。

ところで、駅の表示や案内板に最近では中国語やハングルでの表示が目立つようになってきたが、私はそれには反対である。なぜなら、そのような表示は当該の国民しか読めないからである。また、他の言語、ベトナム語、タイ語やインドネシア語は何故無いのかとの問題も生じる。駅の表示や案内は普通に日本人が読めるものに限定すべきだと思う。すなわち、日本語と共通語と目される英語で十分だということである。もし、スペースがあるのなら、英語の説明を充実すべきだと思う。もちろん、空港近辺や観光地の駅でのアナウンスについては、観光客の多い国の言葉を使うことも効果的だろう。注意書きなども同様である。しかし、全国画一的に中国語やハングルが表示の一角を占めるのは如何なものか? わざわざ外国に旅行に来て外国の雰囲気を味わおうとしているのであるから、観光客たちもそれを歓迎するのではないだろうか。

2018・4・28


3、電車の名称について

いつもは乗らない電車に乗ると時々不安になることがある。
どれが目的の駅に速く着くのか?
この電車は目的の駅に止まるのか?
別料金が必要なのか?
たとえば、阪急神戸線に乗ると、特急はあるのに急行はなさそうだ。阪急や阪神の特急には別料金が要らないのに近鉄では必要だ。南海の場合は同じ特急でも別料金の要る車両と要らない車両がある。京阪に乗ったら各停なのに準急と言っている。
最近は、インバウンド政策の効果によって外国人観光客がおおぜい日本を訪れるようになった。大阪に住んでいてもあまり利用しない電車では迷うことがしばしばなので、彼らにとっては不安が大きいのではないだろうか?

そこで、基本的な電車の種別は法律で規定して、それは必ず電車の呼称の最初に表示しなければならないということにしてはどうだろうか。種別というのは:
@表定速度150km以上の電車
A別料金を要する電車。
B各駅には止まらない電車
C各駅停車
の4種類である。
@の表定速度とは、単純に距離を時間で割ったものであって、例えば大阪東京間を500kmとして、2時間半かかるとすれば表定速度は200kmである。表定速度150km以上を、たとえば「特急」という呼称とした場合、現在では新幹線だけしか、そうは呼べないだろう。新幹線でも大阪東京間を4時間もかかるような電車は「特急」ではない。もちろん私鉄でも、150km以上の表定速度を持つダイヤを開発すれば「特急」と称することが出来るというわけである。
Aこれは表定速度にかかわりなく、別料金が必要な電車、列車の総称である。座席指定の場合と自由席の場合があるが、それをたとえば「別料」と呼ぶことにしよう。
B別料金が不要で、止まらない駅がある電車の総称。「急行」と呼ぼう。
C各駅停車の電車で、従来通り「普通」と呼ぶことにしよう。全ての路線で「普通」は必ず置かなければならないが、下記のような例外は認められよう。
私の提案は以下のようになる。呼称はさらに洗練されるべきだとは思うが、是非法律化していただきたいものである:

@「特急」 Limited express
A「別料」 Extra charge
B「急行」  Express
C「普通」 Regular

各社の路線事情、その他によって4種類だけでは不便な場合が生じるので、補助的呼称が必要となる。1つの編成に2種の性質の車両が併結される場合「別料・急行」、「急行」が途中で各駅停車に変わる場合(逆を含む)「区間急行」Segment  expressと呼ぶことにしよう。A,B,C,D,Eの5駅があって、1つはA,B,C,E,と止まり、もう一つはA,C,D,Eと止まるような場合も「区間急行」と呼ぼう。

また、停車駅が異なる「急行」が2つ以上ある場合、それぞれ別の追加呼称を付けるべきだろう(「快速急行」「直通急行」など)。さらに、「別料」や「急行」「普通」に追加のニックネームを付け加えることは全く自由であり、各社創意工夫して自社に合った個性的なネーミングを考案して欲しい。

運行の実態に沿った名称が国内で統一的につけられているということは、不案内な土地に行ったときには安心感につながる。ひいては、外国からの観光客にとっても有り難いものだろう。たいへんお金がかかるインフラを整備するだけではなく、こういった呼称などを統一することはインバウンド政策にとって非常に有益なことだろう。まあ、これも相当金のかかる事業だとは思うが・・・

2017・12・15


2、大阪都構想について
大阪都構想といえば、元々の考え方は:
@大阪の二重行政の解消
A地方分権による東京一極集中の打破
であった。これは橋下府政、橋下市政を通じて推し進められてきたが、結局挫折してしまった。一点目は大阪の、二点目は全地方の、有権者の誰もが持つ根本的な願いであったはずであったにも拘わらずである。その挫折を決定づけたのが大阪市民に対して行なわれた住民投票による否決であった。ところが、二重行政の解消というのは、どうも大阪市を無くして大阪府に吸収するような形で進められて来たような気がする。私は賛成票を投じたが、私自身生まれてから70年近くずっと大阪市に住んでいて、大阪市民であるという意識は常にあったけれど、大阪府民であるという意識はこれっぽっちもない。古くからの大阪市民の多くは同じような思いであると私は推測している。そんな大阪市民に対して「大阪市をぶっ潰す」賛否を問うのだから否決されても当然だろう。
もし、東京都のような大阪都を創るのだとすると、いろんな手続き上の問題は煩雑になるとは思うが、大阪市を無くして大阪都に統一する(言ってみれば大阪全体を大阪府にする)というようなものではなく、大阪市を拡大して区部を作り、市部、郡部は東京の都下(三多摩・島嶼部)のような扱いにすべきだったのだと思う。区割りはそのための前提整備であるとはっきりと言うべきであった。だから住民投票は、現大阪市民だけに問うのではなく、新しい区部に該当する周辺市民に対しても同時に行なうべきだあった。構想の根底には大阪市の拡大がコンセプトであるということを常に周知しておくべきだった。

要するに、朝三暮四 【註】という言葉に謂われているような政治的配慮の欠落によって住民投票は失敗したのではないだろうか。
維新の会は、都構想をまだあきらめてはおらず、もう一度住民投票をすることを目指しているようだが、既得権益との妥協で実現するのではなく、元々の構想に従って、少なくとも三重行政の愚にだけはならないように進めてほしいと思う。

【註】朝三暮四とは、中国の故事成句であって、良い政治家にとって、苦痛を伴うがやらねばならないことを実現させるためには、どのように話を持って行くべきかということを、猿使いと猿たちのやり取りに譬えたものである。
ところが『政治家が妄言を弄して有権者を騙くらかす』ことの譬えのように使われることがある。出典↓を見れば、それは間違いであることは明らかだが、誤用がまかり通るのは、今の政治が揚げ足取りばかりにうつつを抜かし、本当に論議しなければならないことを避けている、という風潮の現れだと思う。

http://protaka.sakura.ne.jp/asasan/

2017・11・1

1、《銀河鉄道の夜》が意味するもの
宮澤賢治の名作《銀河鉄道の夜》は、完成されないままで残されている。現在残されている原稿は、推敲が重ねられたことを示していて、外見上4つの異なる時期に書かれた草稿に分けることが出来る。全集版は、それらを時期ごとに整理して、4つの稿態として掲載している。とはいえ、それらはブルックナーのいくつかの作品のような完全に別個の初期形とその後の改作形が存在するわけではない。現存する1つの原稿に加えられた修正について、原稿用紙の種別、筆記の態様などを勘案して執筆時期ごとに分離し、それぞれの段階での確認し得る稿態を再現したということである。したがって、再現された初期の3つの稿態とは、現存する原稿の一部分を創作時期ごとに初期化したに過ぎないのだが、全体構想が移り変わっていく状態や最終稿態で削られてしまったものを垣間見ることが出来るので、作品をより立体的に把握することが可能となった。ちょうど、ブルックナーの《第五交響曲》における私の『オリジナル・コンセプツ』に相通ずる編集方針であると言えるかもしれない。

物語の内容は、主人公ジョバンニが、彼の優秀な級友であるカムパネルラに同行して、銀河鉄道に乗って旅をするという話である。カムパネルラは、祭りの日に烏瓜の燈火を川で流しているときに、川に落ちたいじめっ子の同級生ザネリを助けるが、自分は川に流されて死んでしまう。

この物語の中で銀河鉄道とは何を意味するのか? それは、いわば「三途の川の渡し舟」のようなものであり、現在生きている我々の世界と死後の世界を結ぶものとして、賢治はそれを鉄道として表現したということなのだろう。カムパネルラの家で遊んだアルコールラムプで動く精巧な鉄道模型や、ジョバンニが野原から見た窓が一列小さく赤く見える列車のような、現実世界の情景が幻想を生み出すみなもととなっている。二人の乗った銀河鉄道には、タイタニック号の沈没で犠牲になった少女も乗込んでくるが、彼女は「だけどあたしたち、もうここで降りなけぁいけないのよ。ここ天上へ行くところなんだから。」と言っている。宗教別に降りる駅が違っているということなのだろうか。

では、なぜ死者を運ぶ鉄道に、死なない主人公のジョバンニが乗るのだろう? 
当初の筋書きでは、それはブルカニロ博士の実験ということになっていた。実験的臨死体験ということだ。博士からのいろんな教えによって、ジョバンニは自らが受けたいじめから立ち直るという筋書きだ。しかし、改訂でそれは廃された。ジョバンニは、突然襲ってきたつらい境遇(去年は幸せだった)から自殺願望をすることによって臨死体験をすることに変えられたのだ。本当の自殺未遂なのか、単なる夢の上での自殺体験なのかは読む人の自由なのだが、とにかくジョバンニは幻想の鉄道旅行の末に、自分の意志で、死と決別するのだ。

そこには家族への愛が、大きく影響する。優秀で一点の曇りもなく幸せそうに見えたカムパネルラだったが、実は彼の中にも大きな翳りがあったことを、ジョバンニは旅行の最後に来て知ることとなる:
<「・・・あっ、あすこにゐるのはぼくのお母さんだよ。」カムパネルラは俄かに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫びました。>その直後、カムパネルラはジョバンニから永遠に去っていくのだ。
<7、北十字とプリシオン海岸>の章で、これから会いに行く母親に対してどう釈明しようかと悩むカムパネルラに対して、ジョバンニが<「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないぢゃないの。」>と言う。それは、はるか下界ににいる自分の母親から連想しているのだ。ところが、ジョバンニからは優しく見えたカムパネルラのお母さんは、実は継母であって、本当の母親はすでに亡くなっていたことを、ジョバンニは旅の最後の時になってやっと知るのであった。彼には、病気だとはいえ優しいほんとうの母親がいるのだ。このことは、ジョバンニの劣等感からの解放を意味する。ジョバンニにとって、カムパネルラは憧れであったとともに、自己嫌悪の源泉でもあったのだ。自殺願望は、いじめなどの外からの圧力と同様、自身の劣等感からも生じるのだということを賢治は示しているのだ。<「カムパネルラ、僕たち一緒に行かうねえ。」ジョバンニが斯う云ひながらふりかへって見ましたら、そのいままでカムパネルラの座ってゐた席に、もうカムパネルラの形は見えず、、ただKいびろうどばかりひかってゐました。>(「一緒に行かう」は自殺を意味し、「姿」ではなく「形」を使っているところがすこぶる微妙。)

その後、賢治は修正を重ね、当初のジョバンニが直接心情を吐露する叙述は影を潜め、ジョバンニの実生活をリアルに描写することによって彼の置かれた環境を客観的に説明するように、原稿用紙10枚に亘る前段を付け加えた。<1、午後の授業><2、活版所><3、家>の各章である。そのため、ジョバンニが自殺願望に至る生々しい心情について述べられた<4、ケンタウル祭の夜>の章はかなり削除されてしまった。たとえば:
<今日、銀貨が一枚さえあったら、どこからでもコンデンスミルクを買って帰るんだけど。・・・ぼくはどうして、カムパネルラのやうに生まれなかったらう。・・・>
<ぼくはどこへもあそびに行くとこがない。ぼくはみんなから、まるで狐のやうに見えるんだ。・・・泣き出したいのをごまかして立ってゐましたが・・・>
などというくだりが削除された。ジョバンニの不遇(父は密猟の犯罪者、母は病気、自分はアルバイトをして家計を助けなければならない)やいじめによる苦痛の直接の表現は弱められ、読者の理解は難しくなったが、淡々と現実を描くことによって、逆に、ジョバンニの境遇とは全く違う筈の苦しみを持った読者の共感を得やすくしたのだろう。したがって、直接の心情告白が減らされたとは言え、ジョバンニの自殺願望が弱められたわけではなく、賢治は、読者がジョバンニに乗り移り、自分のこととして仮想自殺体験をするよう求めたのである。したがって、読者がそういう心境になるためには、物語の上っ面だけを読んでいては駄目で、かなりの熟読を要する。しかし、改訂前の稿と読み比べることによって、賢治の意図がより容易に理解出来るので、最終稿を読むだけではなく、初期稿との併読をお勧めしたい。それは、未完作品の特権でもある。

さて、いじめを最も端的に表しているのは「ジョバンニ、ラッコの上着が来るよ」という言葉である。それを聞いたジョバンニの心は<ジョバンニは、ぱっと胸がつめたくなり、そこら中きいんと鳴るように思ひました。>と表現されている。他人にとってはなんでもない言葉の様にも思えるが、この言葉によって『犯罪者の息子』という烙印が押され、この言葉によって仲間はずれにされ、ジョバンニは自殺願望をするに到るのである。「ラッコの上着」とは、ジョバンニが幸せだったころは彼の自慢の一品だったのだ。ところが、現在では皆が彼をバカにする対象となってしまった。いわば、自己の存立を脅かされているということなのだ。そのことが一番つらいことなのである。

言うまでもなく、いじめによる子供の自殺は大きな社会問題である。自殺防止のため学校環境の改善は当然押し進められなければならない。しかし、どれだけ改善しても根本的な問題解決とはならないのではなかろうか。というのは、いじめられている本人はいじめで深く傷つくが、いじめている側は単なる遊びとしか思っていないからである。カムパネルラのような優秀な子が周りにいても、解消できない問題なのである。人は成長する過程で様々な挫折を味わう。その時自殺願望が生じる。それを自殺に至らないようにするのは教育の責任だと思う。《銀河鉄道の夜》は、そういった教育のための教材としては最適なものの一つだと私は思う。ぜひ、そういった目的で教材に採用して頂きたい。この物語は立派な文学であることに変わりはないが、国語の時間にこれを取り上げるのではなく、道徳や生活指導の時間に採用すべきだろう。生徒に物語の意味を考えさせることが、自殺の防止に大いに役立つことになるのではないだろうか。

《銀河鉄道の夜》の章割りは<9、ジョバンニの切符>までしかない。ということは、そこまでが完成形であるということだ。それ以降(おそらく<10、タイタニック号の犠牲者>という名の章か?)については、賢治はさらに推敲を重ねるつもりであったことが窺える。ただ、この未完の状態の方が、幻想を膨らますことが出来て、この物語の情感に非常にマッチしているようにも思えるし、結論を読者が自分で考えるように仕向けているようにも見える。何をもってジョバンニは強く生きることを決意したかについて、賢治はどう答えたか? というこの物語の本旨についてにもそれは現れている。ただ、鍵となる言葉は明白である。それは「切符」である。ジョバンニは、自分が「切符」を持っていることを知らない。車掌が検札に来た時:
<ジョバンニは困って、もぢもぢしてゐましたら、カムパネルラはわけもないという風に、小さな鼠いろの切符を出しました。ジョバンニは、すっかりあわててしまって、もしか上着のポケットにでも、入ってゐたかとおもひながら、手を入れて見ましたら、何か大きな畳んだ紙きれにあたりました。こんなもの入ってゐたらうかと思って、急いで出して見ましたら、それは四つに折ったはがきくらゐの大きさの緑いろの紙でした。車掌が手を出しているもんですから何でも構はない、やっちまへと思って渡しましたら、車掌はまっすぐに立ち直って叮嚀にそれを開いて見てゐました。>
というやりとりがある。自分は意識していないけれども、世の中を渡っていく上で非常に大切なものを、実はすでに持っていたのだとジョバンニは気付く。この感覚が特に重要であって、狭い環境の中で呪縛されいじめられている子供にとって、実はそことは別のもっと大きな世界への「切符」を持っているのだ、という感覚を子供たちに気付かせることこそが自殺防止に必要なことなのである。この物語が決定稿に至ってない以上、子供たち自身が「それ」を見つけ出すのであって、教育とは子供たちの発見を全力をもって支えるということであろう。

ただ、当初の稿では、現実世界において、その「切符」とはブルカニロ博士がくれたお金を意味すると説明されている:
<博士は小さく折った緑いろの紙をジョバンニのポケットに入れました。・・・林の中でとまってそれをしらべて見ましたら、あの緑いろのさっき夢の中で見たあやしい天の切符の中に大きな二枚の金貨が包んでありました。>
しかし、改訂ではそれは削除された。お金は世の中を渡っていくためには非常に大切なものである。しかしお金と限定してしまっては、もっと大切なものの存在が見えなくなってしまう。そのため削除されたのだろう。
「切符」の持つ意味が何であるかについて、賢治はさらに推敲を重ねたかも知れない。しかし、それゆえに読者それぞれが、自分の「切符」が何であるかを自分で見つけるように仕向けられているのである。

2017・10・23
2018・9・9 補筆


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