訳者端書き
米国のブルックナー研究家であるディヴィッド・グリーゲル氏が彼のウェブ・サイトで公開している[Bruckner Symphony  Versions]を紹介しましょう。彼は、真摯で卓抜な感覚を持った根っからのブルックネリアンであって、このウェブ・サイト上でブルックナーの交響曲の複雑な創作過程について、最新の情報に基づき簡潔で非常に的確な解説を行なっていますので、ブルックナーの楽譜の問題を概観したい人にとって、これは手軽で恰好の入門ガイドと言えるでしょう。
たとえば、「第五交響曲」には、2つの『形態』、『1876年形』と『1878年形』がありますが、新旧両全集版では『1878年形』しか出版されていません。なぜなら1876年完成の自筆稿そのものにブルックナーは改訂を加えたので自筆稿は1つしかなく、それを辿って元に戻し『1876年形』を再現することは不可能なことなのです。もし、1876年当時の筆写譜が存在すればそれは可能となりますが、残念ながら現在のところそのような筆写譜は発見されていません。しかし、この曲の場合『形態』が1つしかないとすることは、創作過程を考える上でも、また元々の音響構造を考える上でも非常に不十分なことなのです。グリーゲル氏は、こういったことを全交響曲におよんで深く分析したうえ、それぞれ必要な『形態』を明確に区別し簡便に表現するすることによって、ブルックナーの創作過程の全容を的確に私たちに示してくれています。
翻訳にあたっては、出来るだけ原文に忠実になるよう心がけましたが、一部日本語の表現において意訳的になった部分もあることをおことわりしておきましょう。また、我が国では『版』とか『稿』という用語は比較的自由に使われていますが、ブルックナーのこの問題を明確に表すため、私はこれらの用語を限定的に使用して翻訳しています。すなわち、英語のVersion,Edition,Manuscript(ドイツ語のFassung,Druck,Handschriftに対応する)を『形態(形)』、『版』、『稿』と区別して訳しましたので、お読みいただくときはこの点にご注意いただきますようお願いします。
また、原文にはありませんが、それぞれの『形態』の性格を私は3つに分類し、次のような記号によって示しました。

@ 確定的(原稿または筆写譜)な資料が存在し、完全な再現が可能なもの
# 原稿そのものが次段階の改訂に使われたため、今後改訂前の筆写譜が発見されない限りその『形態』の正確な再現が難しいもの
+ 印刷版に関わるもの

さらに私は、付録として「交響曲の主な資料」「交響曲の出版譜」の2つの項目を設け、別の角度からこの問題について私見を述べ、関連の表を作成しました。

なお、原文をお読みになりたい方、または本文中のMIDIをお聴きになりたい方は、下記のグリーゲル氏のウェブ・サイトを参照してください。                 

http://www.geocities.com/dkgriegel/versions.html

                                                              川崎高伸

ブルックナー交響曲の諸形態



編  纂 デイヴィッド・グリーゲル
翻  訳          川崎高伸
最終更改   2000年8月24日



序文

ブルックナーの交響曲の複雑な楽譜上の問題を解りやすく簡単に示す方法は色々考えられますが、この序文では、私が選んだ方法がどんなものであるかを説明することとします。

まず第一に、私は、違いが大きいものと小さいものを用語上で区別はしません。すなわち、『修正』、『改訂』、『改作』、といった段階を規定するような用語を使いません。全てについて、一旦完成された『形態』を、その完成された年を冠して『○○○○年形』と表示します。   

ここに示した『ブルックナー交響曲の諸形態』のリストは、関係の近いものを混ぜ合わせたりせず、出来るだけ多くのものを取り上げるように心がけました。したがって、いくつかのケースにおいて違いの非常に少ないものもリストアップされていますが、これは出来るだけたくさんのものを示すことによって、読者の皆さんにその判断をゆだねたいと思ったからです。私は、いわゆる『ブルックナー問題の単純化』は意図しておりません。(訳注1)

私は、本稿で用いた『形態』と<版>と言う2つの用語をはっきりと区別して使っています。すなわち『形態』とは、出版されたかどうかにかかわらず、ある交響曲の創作段階の一つの局面を示しているのです(完成されずに放置されたいわゆる未定稿をも含みます)。一方、ここで言う<版>とは出版されたスコアのみを意味します。<版>のうちのいくつかは、対応する複数の『形態』を合成して作られています。本稿では『形態』を取り上げることを主体としており、出版物については補助的に述べているに過ぎません。

それぞれの『形態』の後に、私はそれに対応する<版>を示しました。それらの中で、ブルックナーが出版に関わったか、あるいは関わったかも知れない<版>については出版年によってそれを示しました<○○○○年版>。また、その他のものについては、編集者の名前によってそれを示しました。後者のカテゴリーに含まれるものは、たとえば、新旧の<ブルックナー全集版>をあげることが出来ます。また、前者のカテゴリーには、寛容に過ぎるかも知れませんが、「第五交響曲」の<シャルク版>を除いて、19世紀に出版された全ての<版>を含めることにしました。私のあげた『形態』の中には未出版のものも含まれていますが、これらの多くは<ブルックナー全集版>の編集報告(VorlagenberichtまたはRevisionsbericht
)に述べられています。

ブルックナーの交響曲の中には、後世の指揮者が自分の演奏のために勝手に手を加えたものが出版されてもいないのに『何々版』として横行しているケースもあります。たとえば「第四交響曲」の『マーラー版』(1984年にロジェストヴェンスキーによって録音されています)や「第五交響曲」の『マタチッチ版』といわれるものがそれに当たります。それらは非常に興味深く、聴き継がれ、研究されていくべきであるとは思いますが、ここでは、実際に出版されたものに限定することにしました。

また、編集者が勝手に作り上げた<版>もあります。「第五交響曲」の<シャルク版>、「第九交響曲」の<レーヴェ版>、「第二交響曲」と「第八交響曲」の<ハース版>などがそれです。ある<版>が、一つの特定の『形態』と符合しない場合、私はそれを一番近い『形態』の所へ置き、角かっこに入れることによって、完全には一致しないことを明示しました。たとえば、「第九交響曲」の〔レーヴェ版〕は<オーレル版><ノーヴァク版><シェーンツェラー版>などのいわゆる<原典版>とは大幅に異なっていますが、私は角かっこを加えることによって、同列に配することにしました。なぜなら、それは単に極端なアレンジに過ぎないものであり、ブルックナー自身が行なったような創造的変更は認められないからです。そういった変更は、作曲者自身しかなし得ないものなのですから。しかし、それらの<版>も聴き継がれ、残されていくべきであると私は考えていますので、角かっこを付けた上で一番近い『形態』の所に置いたのです。

諸『形態』を完全なものにするためには、ブルックナーの生前に出版されたいわゆる<初版>群を含まなければならないでしょう。それらの<版>のうちのいくつかの版下(印刷用原稿)は現存しています。そして、版下と印刷されたスコアの間には常に細部での相違が見られるのです。このことは、しばしば見なされているようには、版下にない変更が根拠がないということを示しているのではありません。それは単に、校訂が印刷原版上においても誰か《多分ブルックナー》によってなされたことを意味するに過ぎないのです。ブルックナーの実際の意図を知ることは大変難しいことなのかも知れません。

<初版>群と自筆草稿資料との間には細部の相違が見られる傾向があります。もし、その相違や成立の状況がブルックナー自身と全く関係なくなされたと見なされる場合、私は相当する『形態』における根拠のない<版>としました。(「第五交響曲」や「第九交響曲」の<初版>のことを意味します。)しかし、ブルックナーが関与したと見られる場合は、必要に応じて別の独立した『形態』としました。

ブルックナーは再々交響曲に改訂を加えたように、交響曲の番号付けにも変更を行なっています。1863年の「ヘ短調交響曲」は最初「第一交響曲」として作曲されました。それは彼の友人のルドルフ・ヴァインヴルムに宛てた1865年1月29日付の手紙の中で、彼は《現在「第二交響曲」を作曲中です》と述べていることからも解ります。この「第二交響曲」というのは、後にブルックナーが「ヘ短調交響曲」を番号から外したために、現在我々が知っている1865/66年のハ短調の「第一交響曲」のことなのです。同様のことが1869年の「ニ短調交響曲」の時のも起こりました。この曲の自筆稿にははっきりと「第二交響曲」と書かれていました。したがって現在のハ短調の「第二交響曲」は当初「第三交響曲」として作曲されていたのです。しかし、1872年か73年頃「ニ短調交響曲」は番号から外され、1872年の「ハ短調交響曲」に最終的に「第二」の番号が与えられたのです。一般には、これら2曲の番号のない交響曲は無視される傾向がありますが、私はこれらを同等に扱いました。なぜなら、ブルックナーは極度に自己批判の強い作曲家であったがゆえに広く公開するべきではないと考えた2作品を番号から外しただけであって、作品自体を破棄したわけでは無いからです。実際、この魅力的な2つの交響曲は十分に楽しめる作品であると私は確信しています。

以下の各交響曲での記述の多くは、<ブルックナー全集版>の序文から得られたものですが、そのほかにも、ウイリアム・キャラガン、ベン・コーストヴェット、マーク・クリューゲ、ファン・カイスおよび川崎高伸の各氏から得られたたくさんの細部についての重要な情報が含まれています。また、次の2つの論文が非常に有用であったことも付け加えておきます。
#Dermot Gault, "For Later Times", The Musical Times, June 1996, pp.12-19
#Paul Hawkshaw, "The Bruckner Problem Revisited", 19th-Century Music, Summer 1997, pp96-107

資料番号に付け加えられている記号Mus.Hs.(楽譜手稿の意)はウィーンのオーストリア国立図書館に所蔵されている資料であることを意味します。


(訳注1)『ブルックナー問題の単純化』とは、ハースが「第二交響曲」や「第八交響曲」で行なったことを受けて、戦後デリック・クック等が提唱した、一つの交響曲に一つの『理想形』を求める考え方です。たとえば、「第三交響曲」では、第1楽章とスケルツォについては第3稿を採り、アダージョとフィナーレでは第3稿にカット部分を第2稿から復元した形を採るといったように、2つの資料を合成して作り上げようという考え方です。これは、カットは周囲に強制されてブルックナーが嫌々行なったものであるという考え方から導き出されたものです。しかしこの考えは、現在では時代遅れのものとなっています。なぜなら、カットはブルックナー自身が行なったことは事実であるし、合成することは木に竹を繋いだように様式感の不統一をもたらすのです。また、それより何より第1稿や『アダージョ2』が出版されている現今では、選択肢が増えてしまって到底1つの『理想形』など作り得ないような状況になってしまっているのです。






1,交響曲ヘ短調

@ 1873年形  <ノーヴァク版X>
          <[ヒナイス版](アンダンテのみ)>

ブルックナーは最終的には、この交響曲に番号を与えませんでした。しかし、彼はこの曲と同じ調であるヘ短調の交響曲をその後全く作らなかったので、この曲を呼ぶには「ヘ短調交響曲」というのが一番便利でしょう。

この交響曲には2つの草稿資料が存在します。一つはブルックナーの自筆稿であり、もう一つは彼が作らせた筆写譜です。この筆写譜の存在に注目しましょう。身銭を切って作らせたのですから、ブルックナーは少なくとも完成当初は、これを単なる試作品とは考えていなかったことが解ります。ブルックナーは筆写譜の2つの中間楽章にたくさんの表情指示を書き加えています。これはこの筆写譜を誰かに託し、この曲を演奏して貰いたいとブルックナーが思っていたからに他なりません。

<ノーヴァク版>はブルックナーの自筆稿に従っていますが、ブルックナーが筆写譜に加えた修正も取り入れています。一方、1913年に緩徐楽章のみが出版された<初版>の<ヒナイス版>には、テンポ、表情指示、オーケストレイション、さらには音符そのものにも変更が加えられています。(レオポルト・ノーヴァクの序文による)



2,交響曲第一番

#1866年形  『ハースの編集報告に記述』
@1877年形  <ハース版><ノーヴァク版I/1>=両者はいわゆる<リンツ版>
@1891年形  <ハース版><ブロッシェ版I/2>=両者はいわゆる<ウィーン版>
+1893年形 <1893年版(初版)>『ハースの編集報告に記述』

ロベルト・ハースの編集報告には上記の4つの『形態』が詳しく述べられています。また、ハースは2つの『形態』(『1877年形』と『1891年形』)のフルスコアと『1877年形』のパート譜を出版しました。そのためこの2つの『形態』のみが<リンツ版>、<ウィーン版>と呼ばれて広く知られるようになりました。

しかしハースやノーヴァクが<リンツ版>と呼んだスコアは、実はブルックナーが1877年にウィーン!で改訂したものであり、さらに1884年の改訂分も含まれている可能性があります。『改訂されていないリンツ稿』とも言われる『1866年形』は1868年の初演の時の『形態』です。これは『1877年形』と色々な面で異なっており、特にフィナーレにおいてその違いが最もはなはだしいのです。『1866年形』はハースの編集報告により大体復元が可能です。ウイリアム・キャラガンは1998年にそれを復元させゲオルグ・ティントナーがレコーディングしています。『1866年形』の完成にさらに先立って、ブルックナーはアダージョとスケルツォの元の形を作曲しています。これらはウォルフガング・グランジュランによって編集され、ブルックナー全集版の一部として出版されています。

<ウィーン版>として出版されている『1891年形』は上述の形態とはかなり異なっています。ハースとともに、ノーヴァクのシリーズではギュンター・ブロッシェが1980年にこれを出版しています。『1893年形』は最初に出版された形態であり、多くの細部で『1891年形』と異なっています。詳細はハースの編集報告の5ページから8ページに述べられています。



3,交響曲第0番

@1869年形  <ヴェース版><ノーヴァク版XI>

ブルックナーはこの交響曲の番号(「第二番」として作曲された)を最終的には取り消し「0」と草稿に記入しました。そのため、彼の3つもあるニ短調の交響曲をそれぞれ区別するため、通例この曲は「第0番」と呼ばれています。しかし、この「0番」というのは、「第一番」より前という意味ではないことに注意すべきです。また、ドイツ語で0番を意味する「ヌルテ」(Nullte)と呼ばれることもあります。

ブルックナーはこの交響曲を1869年の1月から9月にかけて作曲しました。トリオとアンダンテはスケッチの段階で一度書き替えられています。(1869年3月18日付のトリオのスケッチだけが残されておりノーヴァクの編集報告で見ることが出来ます。アンダンテの方は1869年7月13日付のモーリツ・フォン・マイフェルト宛の手紙の中で変更したことが述べられています。)ベンヤミン・ギュンナー・コールズによれば、ブルックナーは1887年10月と1891年4月の間にも時々『見直し』を行なったとのことです。(ヨハネス・ヴィルトナー指揮の「第九交響曲」へのコールズの論評参照)しかし、このことについては、さらに詳しい情報が現れない限り、『1890年形』の存在を確定することは出来ません。ノーヴァクの主張した1863年10月から1864年5月にかけて作曲されたというこの曲の『第1稿』の存在説を、現在ではもはや殆どのブルックナー愛好家は信じていません。

この曲には3つの手書き資料が存在します。自筆草稿(リンツの上部オーストリア州立博物館所蔵)、筆写総譜(Mus.Hs.3189)および筆写パート譜(ウィーンの楽友協会図書館所蔵)です。もう一度繰り返すことになりますが、筆写総譜やパート譜の存在は、ブルックナーがこの作品を、少なくとも当初は、単なる試作品ではなく、演奏を目的とした完成された交響曲であると考えていた明白な証拠となるものです。印刷譜は現在までに2度出版されています。<ヴェース版>と<ノーヴァク版>です。両版とも編集上の追加をたくさん行なって いますが、<ヴェース版>のほうが<ノーヴァク版>より、より広範囲に改変されていると言われています。



4,交響曲第二番

@ 1872年形  <キャラガン版II/1>
# 1873年形  『キャラガン編集報告に記述』
# 1876年形  『キャラガン編集報告に記述』
@ 1877年形  <〔ハース版〕><〔ノーヴァク版II〕><キャラガン版II/2>
+ 1892年形  <1892年版(初版)><キャラガン版>

キャラガンは『1872年形』のスコアとパート譜および『1877年形』と『1892年形』を合成した形を編集中です。初演の時の形『1873年形』および再演の時の形『1876年形』はそれらの編集報告の中で述べられるでしょう。

1872年の最初の『形態』は1991年まで演奏されませんでした。この『形態』で興味深いことは中間の2つの楽章の順序が逆になっていることです(スケルツォにアダージョが続く)。『1873年形』は1876年の改訂に属する変更の多くをすでに含んでいます。たとえば、アダージョのコーダでのホルンソロからクラリネットソロへの変更やスケルツォの繰り返しの省略等です。また、『1873年形』と『1876年形』のアダージョにはヴァイオリンのソロがあります。

ブルックナーは1877年にこの曲を全面的に改訂しました。『1877年形』の手書き資料の一つMus.Hs.6035は1892年の<初版>出版の際の版下にも用いられました。しかし、<初版>自体はゲラ刷りの段階で更に修正が加えられています。 

『1877年形』と『1892年形』は殆ど同じ形です。キャラガンは、この2つの『形態』を合体させて1つのスコアにするつもりでいます。『1892年形』にはいくつかのオーケストレイション上の小さな変更とともに、第1楽章の最後の部分での小節数の増加が見られます。(訳注4・1)<1892年版>には、疑わしいフレージングや強弱法上の変更が見られますが、<キャラガン版II/2>ではこれらは採用されないでしょう。

<ハース版>は『1877年形』に基づきながら随所に『1872年形』を混ぜ合わせています。(デリック・クックは《ハースは『1872年形』を忠実の再現した》と解説しましたが、この誤りは残念ながら現在でも一部で繰り返されています。)<ノーヴァク版>は<ハース版>より更に『1877年形』に近づいています。しかし、<ノーヴァク版>はハースの印刷譜をリプリントしているため、ハースが加えた『1772年形』からのパッセージをそのまま保持しています。キャラガンの決定的な2つのスコアは過去の3つの<版>に取って代わることになります。






5,交響曲第三番

@ 1873年形  <ノーヴァク版III/1>
# 1874年形  『レーダーの編集報告に記述』
# 1876年形  <ノーヴァク版zuIII/1(アダージョのみ)>
           『他の3つの楽章についてはレーダーの編集報告に記述』
@ 1877年形  <ノーヴァク版III/2>
+ 1880年形  <1880年版(初版)><エーザー版>
@ 1889年形  <ノーヴァク版III/3>
+ 1890年形  <1890年版(第2版)><レートリッヒ版>

ブルックナーが1873年に「第三交響曲」を完成した時、彼は2つのコピースコアを作らせました。1つはワーグナーに献呈されたスコア(いわゆるバイロイト稿)であり、もう1つはMus.Hs.6033として知られているスコアです。ハースは1944年に第一次全集版に加えるために『1873年形』を編集しました。しかしこれは、第二次世界大戦中ライプツィッヒで1組の未訂正の校正刷りを除いて焼失してしまいました。ノーヴァクが出版した<1873年版III/1>はワーグナー献呈譜に基づいていますが、いくつかの細部でMus.Hs.6033でのブルックナーの訂正を取り入れています。Mus.Hs.6033にはその他にも、1874年になされた改訂が含まれています。『1874年形』における主な変更は、両端楽章における金管セクションの扱いにあります。ここでは、「第四交響曲」の『1874年形』のスタイルに似た扱いがなされているのです。ブルックナー自身は、この『1873年形』から『1874年形』へ相当改良したと見なしていますが、現在までこの『1874年形』は出版されないでいます。

次の改訂の波は1876年に始まります。それは一旦この年の11月に実を結びます。この『1876年形』は、これまでアダージョのみしか出版されていませんが(ノーヴァクの<1876年版zuIII/1>、この『形態』全体は正確に再構成出来ると言われています。『1876年形』を完成したブルックナーは、そこからオーケストラのパート譜を作らせました。この事実は、ブルックナーがこの時点で、作品が一旦完成されたものであると考えていたことを示しています。

しかしながらブルックナーは更に、次の年の1月から10月にかけて徹底的な改訂を行なました。『1877年形』です。そしてその翌年1月にはスケルツォに41小節に及ぶコーダを付け加え、それをパート譜に写させました。ノーヴァクの<1877年版III/2>は、スケルツォのコーダを含んでいますが、正確な『1877年形』の再現には、これを含まない方が正当であると言えるかも知れません。

『1880年形』は、この年出版された<初版>の形態です。これは『1877年形』とほとんど同じです。主な違いは次の3点です。第1楽章『1877年形』の67−68小節は『1880年形』ではカットされました(約2小節の空白をやめて、直接曲頭に戻るように変えられています)。1878年に書き加えられたスケルツォのコーダもここではカットされました。フィナーレにおける379−432小節と465−514小節に印刷されているカット指示(vi-deの表示)は、ブルックナー自身によるものです。この『1880年形』は校訂された形で1950年にエーザーによって再刊されました。

最後の段階として、第2の出版譜のための改訂作業が上記の約10年後に続きます。『1889年形』はこの版のための印刷用原稿であり、ノーヴァクはこれを基に<1889年版III/3)を出版しました。『1890年形』は1890年に出版された<第2版>の形です。これは、その後の改訂を含んでいますが、それらのうちのいくつかはブルックナー自身に由来する可能性があります。特に、1889年の原稿と違う2つのパッセージは、1880年の<初版>に戻っているのです。出版に際してブルックナーがそれらの変更をキャンセルしたのかも知れません。1890年の<第2版>は、その後いくつかの出版社がこれを再刊しましたが、1961年にオイレンブルクから出版されたレートリッヒの校訂によるものが良く知られています。


6,交響曲第四番

@ 1874年形  <ノーヴァク版IV/1>
@ 1878年形  <ハース><ノーヴァク版zuIV/1>(両版ともフィナーレのみ)
           『他の3つの楽章についてはハースの編集報告に記述』
# 1880年形  『ハースの編集報告に記述(フィナーレ)のみ』
@ 1881年形  <ハース版(1936)><〔ハース版(1944)〕>
@ 1886年形  <ノーヴァク版IV/2>
+ 1888年形  <1889年版(初版)><レートリッヒ版>

この作品の最初に完成された形態は『1874年形』ですが、ブルックナーは1878年に全く新たに筆を起こしてスケルツォ以外を徹底的に改訂しました。そしてスケルツォについては1874年のものを改訂せず、完全に別の曲“狩りのスケルツォ”を作曲したのです。このような全曲にわたる徹底的変更は、さすがブルックナーにおいても後にも先にも類例がありません。これが『1878年形』です。(ブルックナーは1876年または1877年にもいくらかの改訂を行なっていたようですが、詳細は不明です。)ブルックナーはさらに1879年11月19日から1880年6月5日にかけてフィナーレだけをもう一度新しく書き直しました。そして1878年の最初の3つの楽章と1880年のフィナーレを合わせて完成稿としました。これがいわゆる1878/80年稿であり、1881年に初演されたときの形です。したがって1878年のフィナーレは単独で残されることになり、ハースは1936年に「第四交響曲」を出版するときこれを付録として付け加えました。

ハースやノーヴァクが<1878/80年版>として出版したものは、後の改訂が加えられた形であって、実際には、ハースの場合は1881年に改訂された形『1881年形』であり、ノーヴァクの場合は1886年に改訂された、いわゆるニューヨーク稿の形『1886年形』なのです。1881年の改訂は多くのオーケストレイションの変更以外に、フィナーレでの練習記号Oのところの12小節のパッセージを4小節のパッセージに変更したことと、アンダンテの練習記号LとMの間の20小節をカットしたことが含まれます。この20小節については、ベン・コーストヴェット氏が訂正を加えたハースの校訂報告中の譜例に基づいてファン・カイス氏が作ったMIDIとMP3をここに公開します。(スペースの関係でMP3の代わりにアーロン・スナイダー氏が作ったRealAudioを聴けるようにしました。)(訳注1)『1886年形』での最も重要な変更点は、フィナーレの最後の数小節にあります。ここでは第3ホルンと第4ホルンが第1楽章の主要動機を奏します。その他の点では『1881年形』と『1886年形』はほとんど同じということが出来ます。

ハースは『1881年形』を2回出版しました。1回目の<1936年版>では『1881年形』をそのまま出版したのですが、2回目の<1944年版>ではトリオのみ元の形の『1878年形』に変更しました。ここでは最初のメロディーをオーボエとクラリネットが吹奏しますが、本来の『1881年形』ではすでにフルートとクラリネットが吹奏するようにに変えられているのです。すなわち、このことは『形態』の混合を意味するのです。

この交響曲の最後の形態は『1888年形』です。これは1940年代にハースとオーレルによって、その価値が認められ、上述の2回目のハース版、すなわち<1944年版>の序文で彼は、1888年のスコアを全集版に含めて出版するつもりであると述べています。しかし、このことは直後のハースの解任により実現しなかったので、現在我々は<1889年版(初版)>のみしか手にすることが出来ません。この<初版>はハースやオーレルが言及した『印刷用原稿』とは幾分違っています。(違いのいくつかは作曲者に由来するはずです。)<1889年版(初版)>は1954年にレートリッヒの校訂で再刊されました。 <レートリッヒ版>の序文で、彼は1888年のスコアの正当性をほぼ認めています。しかし彼はピッコロやシンバルそしてゲシュトップト(弱音)したホルンの使用については疑問を呈しています(多分これは正しいでしょう)。

(訳注1)ここに述べられているMIDIとReal Audioは下記のグリーゲルの英語版のホームページで聴くことが出来ます。
http://www.geocities.com/dkgriegel/versions.html



7,交響曲第五番

#1876年形  『ハースの編集報告に記述(部分的なスコアを含む)』
@1878年形  <ハース版><ノーヴァク版V>
@1890年形  <〔シャルク版〕>

『1876年形』は自筆草稿(Mus.Hs.19.477)の最初に完成された形です。ブルックナーは1877年から1878年の初めにかけて、数度にわたってこの自筆稿そのものに改訂を加えました。したがって、後からの改訂部分を取り除いて『1876年形』を正確に再現することは不可能とは言わないまでも非常に難しい作業なので、これは今日まで出版されないままとなっています。その代わりハースは編集報告のなかで部分的なスコアを掲載しています。それはフィナーレのコーダに至る数十小節のことです。アーロン・スナイダー氏とウイリアム・キャラガン氏は、ハースの編集報告に基づいてその部分のMIDIを作成しました(訳注1)。

現代ではほとんどの演奏に使われる『1878年形』は上記自筆草稿と文部大臣のシュトレマイヤーに献呈された筆写譜から再現することが出来ます。キャラガンによれば、『1876年形』と『1878年形』の違いは、「第一交響曲」における『1866年形』と『1877年形』とほぼ同程度であるとのことです。

もう一つの筆写譜Mus.Hs.36.693は最近発見されましたが、この中には1880年代後半から1890年代初めにかけてのブルックナー自身の手になるいくつかの修正が存在します。この筆写譜は未出版ですが、ブルックナーの変更は1896年の<初版>に反映されています。

<1896年版(初版)>はブルックナーの『1878年形』と著しく異なっています。ブルックナーがMus.Hs.36.693に加えた修正を除いて、<初版>になされたおびただしい変更は,1894年にこの交響曲の初演をおこなったフランツ・シャルクの手になるものと見てほぼ間違いないでしょう。ブルックナーが関与したかどうかを決定的にしめすこの<初版>のための印刷用原稿は残念ながら残されておりません。<初版>がMus.Hs.36.693へのブルックナーの修正を含んでいることにより、私はこれをシャルクの変更を受けた『1890年形』と規定しました。

(著者注)「第五交響曲」の資料関係、すなわち自筆草稿 Mus.Hs.19.477と筆写譜 Mus.Hs.36.693、さらにはフランツ・シャルクによって相当変更を加えられた<1896年版(初版)>の三者間の関係はちょうど「ヘ短調ミサ曲」の3つの資料と対応しています。「ヘ短調ミサ曲」の自筆草稿Mus.Hs.2105と1890年から1893年にかけてブルックナーがいくらかの改訂を加えた筆写譜Mus.Hs.6015、さらにはヨーゼフ・シャルクによって相当変更が加えられた<1894年版(初版)>の関係がちょうど「第五交響曲」の場合と符合するのです。しかしハースは自筆草稿Mus.Hs.2105に基づき彼の版を出版したのに対して、ノーヴァクは筆写譜 Mus.Hs.6015でのブルックナーの修正を最終決定稿として彼の版を出版し、見解の対立が見られるのですが、「第五交響曲」においては両者は自筆草稿 Mus.Hs.19.477のみに基づいて出版しています。


(訳注1)ここに述べられているMIDIは下記のグリーゲルの英語版のホームページで聴くことが出来ます。
http://www.geocities.com/dkgriegel/versions.html











8,交響曲第六番

@1881年形  <ハース版><ノーヴァク版Y>
+1894年形  <1899年版(初版)>

この交響曲の2つの形態は非常に似通っています。『1881年形』はブルックナーの自筆草稿の形態です。そして『1894年形』は<初版>出版に関わるものです。後者にはたくさんの細部の変更がなされています。それらの中で最も注目すべきものは、トリオの後半部分を繰り返すように変えたことです。その他には強弱記号の変更やオーケストレイションの追加や変更がなされています。

「第六交響曲」の出版の準備はすでにブルックナーの生存中になされていたことはほぼ確実ですが、私は正確な日付を確定することは出来ません。1892年にブルックナーはドブリンガーに出版させるために、他のいくつかの作品とともに、この交響曲に手を加えました。しかし、少なくとも1893年の秋まではこの交響曲の彫版作業が始まらなかったことは確実です。なぜなら、ドブリンガーは他の作品、すなわち「第一交響曲」「第二交響曲」「ヘ短調ミサ曲」「詩編第150編」などの出版作業に忙しかったからです。私は「第六交響曲」の出版準備は1894年頃になされたものと推定しています。


9,交響曲第七番

#1883年形  未出版
@1885年形  <〔ハース版〕><ノーヴァク版Z><1885年版(初版)>

ブルックナーは1884年12月30日に行なわれた「第七交響曲」の初演の後、1885年に改訂をしています。この交響曲の資料としては自筆草稿(Mus.Hs.19.479)しか残されていません。筆写譜などは見あたらないのです。ブルックナーは自筆稿そのものに削除をしたり書き込みを加えたりして改訂したのです。したがって、正確な『1883年形』を再現することは、別の資料が新たに出てこない限り不可能なのです。自筆稿には他人の書き込みがたくさんあります。特に両端楽章には糊付けされて修正された箇所が多く見られます。そのためそれらの部分において『1883年形』は削除されてしまったのです。他人による修正はブルックナーの指示によってなされたものと信じられています。

全ての印刷版は、自筆稿(Mus.Hs.19.479)の解釈の相違によって異なっています。<1885年版(初版)>は自筆稿にない変更点を含んでいます。しかしそれにも拘わらず、それらはブルックナーが認めたものであると考えて良いでしょう。ノーヴァクは残された資料に基づいていますが、他人による変更の全てを受け入れたわけではありません。ハースは、ある部分において『1883年形』を復元しました。しかし『1883年形』の完全な再現は不可能であるので彼の版は2つの形態の混合という結果になっています。最も解りやすい違いは、ハースはアダージョのクライマックスでシンバル、トライアングル及びティンパニを削除したことです。他の版はこれらを含んでいます。


10,交響曲第八番

@ 1887年形  <ノーヴァク版[/1>
@ 1888年形  アダージョのみ(未出版)
@ 1890年形  <〔ハース版〕> <ノーヴァク版[/2>
+ 1892年形  <1892年版(初版)>

『1887年形』は1884年7月に作曲が開始され、1887年8月に完成しました。この『1887年形』は指揮者のヘルマン・レヴィに演奏を拒絶されたのでブルックナーは改訂を決意しました。その結果出来たのが『1890年形』であり、1889年3月に開始され、1890年3月に完成しました。

『1887年形』と『1890年形』の間には、少なくともアダージョの中間形態が存在します。それは筆写譜(Mus.Hs.34614/b)として残されています。(なお、Mus.Hs.34614/aは、同じコピイストによる『1887年形』の、これもアダージョだけの筆写譜です。)伝記的事実から、ブルックナーは改訂を1887年10月までには始めています。そして、1888年2月には相当程度進んでいました。したがってこの中間形態のアダージョは1888年のものと推定できます。川崎高伸氏によると、このアダージョは315小節から成っており『1887年形』のアダージョ(329小節)より14小節少なく、『1890年形』のそれ(291小節)より14小節多くなっています。また、この中間形態のアダージョは『1890年形』と同様、クライマックスは変ホ長調であり、『1887年形』のハ長調はこの時点ですでに捨てられているのです。これをブルックナー自身は筆写に値すると考えたのですから、この形態はある時点での完成譜と見なして差し支えないでしょう。このアダージョは2000年7月に東京で4台のエレクトーンによって演奏されました。

『1892年形』はヨーゼフ・シャルクとマックス・フォン・オーベルライトナーによる僅かな変更を含んでいます。それらは後にブルックナーによって承認されたものと思われます。また、変更点の中にはブルックナー自身による改訂もあるに違いありません。それらの中で、フィナーレには長さに関する変更が見られます。『1892年形』の93−98小節(6小節)はカットされました。そして『1892年形』の519−520小節(2小節)は繰り返されました。都合、『1892年形』では4小節短くなっているのです。他にはオーケストレイションの変更や強弱記号の変更もあります。しかしシャルクとオーベルライトナーによって提案されたフィナーレでの大きなカットはブルックナーによって拒絶されました。

フィナーレ提示部のカット(93−98小節)は、ブルックナーが『1890年形』で行なった再現部の同一箇所でのカットに似ています。もし、提示部のカットをさらに4小節増やし、89−98小節(10小節)をカットすれば、ブルックナーが行なった再現部でのカットと一致します。

<〔ハース版〕>は基本的には『1892年形』に基づいてますが、アダージョにおいて『1887年形』からの10小節のパッセージを加えています。さらに、フィナーレではブルックナーが自筆稿上において斜線で消した4つのパッセージをハースは元に戻したため、それらの箇所では『1887年形』と同じになっています。また、フィナーレには、ブルックナーのスケッチに基づいてハース自身が作ったパッセージも含まれています。(ベン。コーストヴェット氏による)結局ハースは、彼の版を作るに当たって、ブルックナーが『1890年形』のために作曲した多くの小節のうち合計13小節をカットしたことになります。


11,交響曲第九番

@ 1896年形  <オーレル版><ノーヴァク版\><シェーンツェラー版>
<〔レーヴェ版〕>
# スケルツォ  <コールス版zu\>
# フィナーレ  <オーレル版><フィリップス版zu\>

ブルックナーが死んだとき、彼はこの曲を最初の3つの楽章しか完成できませんでした。この3つの楽章は、1903年にフェルディナント・レーヴェによって最初に出版されました。それはブルックナーの自筆稿と非常に異なっています。ブルックナーの自筆稿に基づいた3つの楽章の版は、その後オーレル・ノーヴァク・シェーンツェラー等の編集により出版されました。

ブルックナーはまた、トリオの、それぞれ未完の2つの初期稿を残しています。「トリオNo.1、ヘ長調」は1889年に書かれました。そして「トリオNo.2、嬰へ長調」は1893年に書かれました。現在普通に聴かれている「トリオNo.3、嬰ヘ長調」は1894年に作曲されたものです。ベンヤミン・ギュンナー・コールズは全集版の9巻の補巻の中で「スケルツォ」や「トリオNo.3」のスケッチなどとともに「トリオNo.1」と「トリオNo.2」を出版しました。

フィナーレについては、ブルックナーはフルスコアやスケッチの形で、ほとんど楽章全体を残しています。提示部のA主題やC主題はスコアの上から下まで完全に作られています。その上、スケッチの短い断片もたくさん残っています。それらによって、細かく詰めていくことが出来ます。残念ながら、スケッチのうちの幾枚かは現在は失われてしまいました。フィナーレの完成版で良く知られているのは次の3つです。
1)<キャラガン版>
2)<サマーレ・マツーカ版>
3)<サマーレ・フィリップス・マツーカ・コールズ版>


訳者あとがき

私がインターネットを始めてブルックナー関係の色々なホームページを訪問していた中で、特に感心したものがこのグリーゲル氏のサイトです。序文でも述べましたが、彼の考えは非常にユニークで示唆に富むものですので、これからのブルックナーを語る上での重要な基礎資料の一つになるものと私は考え、彼に日本語訳のサイトを作ることを申し出たところ、快く承諾していただき和訳に取り組むことになりました。翻訳にあたっては数え切れないくらいメール交換を行ない、細部の確認と意見の相違の調整を繰り返しました。このように、グリーゲル氏には多大なご協力、ご支援を頂いたことに深く感謝いたします。


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