【註】森田p270〜271に述べられているモデスト作の台本の改訂版の最終部分。蘇演の時にプログラムとして出版されたものと言われている。アポテオーズには題だけあって本文は無い。茶色で表示。
【@スコアのト書きの問題点】
自筆譜へのト書きなどの書き込みがチャイコフスキーの意図した物語に最も近いのは疑いの無いところだ。2つの出版譜、【初版=ユルゲンソン版】(1896年)および【全集版】(1957年)は、ほぼ忠実に自筆譜を反映しているので2つの版には本質的な違いは無い。存在するのは僅かな誤植と死後の追加と見られる加筆だけである。それらは個別のナンバーの中で解説される。
ここでは、手短に4つの問題点を指摘しておこう。
第一に、【ユルゲンソン版】と【全集版】では一部内容が違うこと。すなわち、【ユルゲンソン版】にない書き込みが【全集版】には少なからず存在することである(表では、それらを赤字で示した)。これらは全て 【ユルゲンソン版】の不注意による欠落だろうか?もちろん、一部はユルゲンソン版の見落としと見なせるが、全てがそうであるとは全く思えない。たとえば《No.13 白鳥たちの踊り》の各曲に付けられた踊り手の指定(II.(オデット・ソロ)、III.白鳥たちの踊り、V.パダクシオン (オデットと王子)、VI.(全員の踊り))は【ユルゲンソン版】には全て欠落している。こんな重大で連発するミスは普通常識では有り得ないことから考えて、これらの 【全集版】での表記は、チャイコフスキーが書いたものではなく(すなわち【ユルゲンソン版】出版の時点では存在せず)、彼の死後誰かが追加書き込みしたものが 【全集版】に反映していると考える方が自然ではないだろうか。とにかく、チャイコフスキーが作曲途上で書きこんだものと、その後のチャイコフスキー自身または他人が書き込んだものとは厳密に区別されなければならないが、現行の2つの版だけでは判断できないのである。もちろんそういったことを解説したものは皆無であり、【全集版】の注解はロシア語でありかつまた不十分であるので、さらなる精密な自筆譜の研究が待たれるところである。
第二に、2つの台本に比べて極端に情報量が少ないということ。ト書きの大部分は、長い文章の初めの部分だけが書かれていて、肝心なところがetc.と記され省略されてしまっていることである。etc.以下を安易に初演時の台本やモデストの台本で補填してよいものかどうかということは熟考を要する。というのは、面倒くさいから、あるいはスペースがないからという単純な理由ではなく、初演の台本と趣旨が違うのでチャイコフスキーは争いを避けるため、あえて書かなかったのでは?という可能性を完全には否定することは出来ないからである。
第三に、《No.4 パドトロワ》《No.5. パドドゥ》《No.19
パドシス》のようなチクルスのダンスには全くト書きが書かれていないことである。《No.13 白鳥たちの踊り》にも殆ど無い。もちろん、諸国の踊りやワルツのようなディヴェルティスマンやコールドバレエのような純粋な踊りに対しては筋書きは不要だが、これらのチクルスのパは音楽を聴くに付け、何らかの物語がその音楽の中で表現されていると思わざるを得ない。いわばパダクシオン的要素が強いのだ。それらの中に物語的説明が欠落してることがこのバレエのドラマを分かりにくくしてる最大の原因だろう。表面上のディヴェルティスマンの体裁にかこつけて、チャイコフスキーはト書きを省略してしまったのは、どちらの場合も彼が頭の中で描いた物語と台本の物語が一致しないことによる混乱を避けたからではないだろうか。第二、第三の仮説は非常に奇妙なもののように思えるが、チャイコフスキーは、何らかの理由で、自筆稿上での物語に関する自己主張を避ける必要を感じたのかもしれない。これは音楽を聴くにつけ痛切に感じることである。
第四に、各ナンバーのうち、題名を変更したものが存在するらしいこと。《No.10情景》は当初《
Entr'Acte=間奏曲》と名づけられていたが《情景》に変えられたらしい。スコア上での痕跡はないが全集版の脚注に記されている。《No.10》と《No.14》は全く同じ音楽で、第2幕を包む枠構造を示しているが、幕の前後で白鳥の模型を見せるシーンが必要となったので、変更されたものと見られる。また《No.19(パドシス)》はユルゲンソン版では何の注記もなく《パドシス》となっているのだが、全集版では《(パドシス)》とカッコつきで表示されている。こちらは何か、いわくがありそうだが詳細は不明。もともとは別の標題があったのか、あるいは《No.15》のように標題が欠落していたかとも推定される。いずれも自筆譜を確認して、確かなところが示される必要があるように思われる。
【A初演台本の問題点】
初演時に公開された台本(1876年10月19日付の「演劇新聞」で発表、1877年2月20日のモスクワ初演時に使用)
この台本を誰が書いたかのについては、はっきりしたことは分からないが、バレエの作曲をチャイコフスキーに依頼したモスクワの劇場管理部長であったウラディーミル・ベギチェフ(1828〜91)が、作曲者と意見を交換しながら作成したものであると推測されている。もちろん彼一人で作り上げたのではなく、当初振り付けを担当したヴァシリー・ゲルツァーも、振り付け者としての立場から制作に関与したと言われている。また、1877年2月20日の初演以降の公演のために新聞発表と同じものが1200部発行された。ただ、大きな問題はこの台本の原作が何であるかという点であろう。《眠れる森の美女》や《くるみ割り人形》では、はっきりした原作が存在し、それに基づいて原台本が構想され、そこからプティパが詳細な作曲指示書を書き留めた。チャイコフスキーはこの指示書に忠実に作曲したわけだが、それでもスコア、台本、実際の初演の状態はそれぞれ微妙に食い違っている。振付段階でいろいろと問題が生じたからだろう。《白鳥の湖》では原作そのものが知られていない、あるいは存在しない。民話を基にした子供のための絵本などからチャイコフスキー自身が着想を得たという説が有力ではあるが、それは推測の域を出ない。そのような状態で始まった制作の過程では、スコア、台本、実際の初演の状態がバラバラなのは当然の結果である。
ここでは直接初演台本の原本にあたることは出来なかったので、3種の和訳を参考として作成した。
(A)《白鳥の湖の美学》小倉重夫著、春秋社、1968年、P24〜33
(B)《チャイコフスキーのバレエ音楽》小倉重夫著、共同通信社、1989年、P24〜39
(C)《永遠の「白鳥の湖」》森田稔著、新書館、1999年、P289〜300
この3種の訳は、もちろん同じ原文からの翻訳であることは明らかだが、細部では様々な違いが生じている。特に小倉氏の2つの訳は(A)を土台にして(B)を補正して作成したものではなく、全く新しく訳し直した観がある。一例を見てみよう。
オディールがオデットに似ていることに驚いたジークフリートが訊ねたベンノの答え:
(A):「さて、私はオデットを知りません。貴方はオデットにどこでお会いになったのですか」とベンノは答える。
(B):「私の見るところでは全然・・・。貴方は誰を見てもオデッタを思い出してしまうのですよ!」。
(C):「私の目には、あまり・・・ あなたはずっとオデットをみていたでしょう」とベンノは答える。
この3つの文の違いは、同じ原本からの訳し方の相違に起因するなどとは到底思えない。特に小倉氏の2つの訳:(A)では、この台本の筋書きでは第2幕でベンノはずっと王子と一緒にいるので、見当違いな回答になっているし、(B)では、他の候補者も皆オディールに見えるように解釈できるのでベンノの回答としては不適当だ。なぜこのような大きな違いが生じてしまったのだろうか? 私の推測では、小倉氏の訳は、彼が持っている《白鳥の湖》の物語に対する私的なイメージの方に引っ張られて直訳しなかったのか、あるいは両訳とも執筆当時の、とあるバレエ制作現場での演出を優先して直訳しなかったのかのどちらかでは無かっただろうか。したがって、表内の記述はほぼ森田氏の訳に従っている。
【Bモデストの台本の問題点】
プティパは、チャイコフスキーの生前から、《白鳥の湖》を改訂してサンクト・ペテルブルクで再演することを目指していた。そのための台本の改訂はチャイコフスキーの弟モデスト・チャイコフスキーに依頼された。モデストは脚本作成の実績もあるし、以前に《白鳥の湖》にかかわったことがあるからであろう。この改訂台本の着手が、チャイコフスキーの生前なのか死後の事であるのかは不明だが、2種の形態で現在に伝わっているようだ。1つは1894年9月26日付で劇場管理委員会に提出された手書きの台本で、1895年1月15日にサンクト・ペテルブルクで行なわれた改訂初演のときに出版されたものであり、もう1つは1895年10月4日付検閲通過、翌1896年に出版された【ユルゲンソン版】に露仏対訳で掲載されたものである(上表の拙訳)。両者の物語はほぼ同一であり(違いは訳し方の相違による)、わずかに第3幕の最後と第4幕に省略と変更がみられるだけだが、枠組みとして大きく相違するのは、改訂初演時に出版されたものは3幕4場(第1幕と第2幕を合わせて、それぞれ第1幕第1場、第1幕第2場としたため)に変えられているのに対して、【ユルゲンソン版】では4幕のままであるということである。スコアの出版時、すでに変更されていた台本をなぜ元に戻したのだろうか?もっともはっきりした理由は、チャイコフスキー自身のスコアが4幕であったからそれに合わそうとしたからであろうが、モデストやユルゲンソンがプティパの行きすぎた改訂を快く思っていなかったという推測も成り立つのではないだろうか。さらには、スコア自体が1876年のままであることから、本来は初演の台本が用いられてしかるべきなのに、あえてモデストの台本を採用したのは、初演の台本にはベギチェフやゲルツァーのアイデアが多く紛れ込んだものであって、すでにチャイコフスキーの音楽とはかけ離れたものになってしまっていたからと考えることも出来るのではないだろうか。
モデストの台本では、各幕がいくつかの<場面>(Scène)で分けられているが、これはチャイコフスキーがかなりのナンバーに表題として用いた《情景》(Scène)と同じ言葉である。それを私があえて訳語を変えて表示したのは、その付け方の方法と意図が全く異なるからである。小倉氏の訳はかなり自由な意訳が含まれるが、森田氏の訳はスコアのロシア語編に忠実である。私の訳は、出来るだけスコアのフランス語編に忠実になるよう心がけて訳出した。なぜならフランス語の方がロシア語より、より正しい意図で書かれているように思えるからである。四者の違いを一例としてあげておこう。
(第4幕の<場面1>から)
<フランス語>Les cygnes sous la forme de
jeunes filles attendent avec agitation le
retour de leur bienaimée souveraine
Odette. Pour diminuer la longueur du temps
et calmer leur inquiètude, elles essayent
de se distraire par des danses.
拙訳:娘の姿をした白鳥たちが、愛する女王オデットの帰りをいらいらしながら待っている。不安を鎮め、寂しさを紛らわせるため、彼女らは踊って気晴らししようとしている。
<ロシア語>森田氏訳:娘の姿をした白鳥たちがオデットの帰りを待っている。不安と寂しさを紛らわせるために、彼女らは踊って気晴らしをしようとしている。
小倉氏訳:白鳥の娘たちがオデットの帰りを不安げに待ち、やがて、彼らは踊りの中に気晴らしを求める。
《白鳥の湖》を有名にしたのはプティパ・イワノフ版である。プティパは、この作品を高く評価しており、モスクワで上演が中断してしまった《白鳥の湖》の再演を目指した。そのため、自分のバレエの構想に合うようにチャイコフスキーに改作を促したのである。チャイコフスキーは表向き改作に同意したものの改作は行なわれなかった。自分の作品に自信があったからではなかろうか。プティパがどんなものをチャイコフスキーに要求したかは、実際にプティパ・イワノフ版の舞台を観てみれば解る。ここでは、チャイコフスキーが直接関与せず(あるいは内心拒否したとみられる)、プティパと音楽を担当したドリゴによって作られたプティパ・イワノフ版については詮索せず、チャイコフスキーが直接たずさわったと見られる1877年モスクワの初演版の方に焦点を絞って検討してみよう。
4.初演と追加曲
初演版は、当初ワシリー・ゲルツェルが制作(台本作成や振付)を手掛けたが、彼は振付途上で病に倒れ、オーストリア人のユリウス(ヴェンツェル)・ライジンガー(1827〜92)が引き継いだといわれている。初演版興行は1877年2月20日から2回の振り付け変更やバレエマスターの変更をしながら1883年1月2日の最後の上演まで、約6年間で41回(数え方により32回、39回という説もある)も上演されているのである。そして上演が打ち切られた理由は、度重なる上演により装置や衣装が摩耗してしまったということと、当時の監督官フセヴォロジュスキーのサンクト・ペテルブルク重視の政策により経費が削減されダンサーが半減したため上演不能になったことによる(【森田】p131&p138)とある。初演がどのような形で上演されたかについての詳細の振り付け資料等は全く残されていないので、いくつかの周辺資料から推測するほかはない。その資料は5つ残されている。
(1)チャイコフスキーのスコア(序奏と29曲の音楽)
(2)初演にあたっての追加曲《ロシアの踊り》と《パドドゥ》?
(3)初演の台本
(4)初演の舞台の版画
(5)初演のポスター
(1)「チャイコフスキーのスコア」は、どの程度初演に生かされたかは全く分からない。一説によると、3分の1程度は削除や他の作品と置き換えられたようだ。
(2)《ロシアの踊り》は確かに初演に使われたが、全集版付録の《パドドゥ》の音楽の方は、ソベシチャンスカヤの4回目の上演の時のパドドゥの音楽がこの《パドドゥ》と同一なのかどうかは定かではない。
(3)「初演台本」は1876年10月19日付の「演劇新聞」に発表されたものなので、1877年2月20日のモスクワ初演までに4カ月ほどの期間が存在している。監督官から振付家、ダンサーに至るまで統制のとれたマリインスキーでさえ、《眠れる森の美女》の台本と実際の初演では相当の食い違いが生じているくらいであるから、この《白鳥の湖》の場合も初演までに実際の練習のなかで相当の変更・修正がなされたことは想像に難くない。
(4)数枚残されている「初演の舞台の版画」は現代の舞台の写真のようなものではない。舞台の印象を描いたものか、舞台制作のためのイメージスケッチのようなものを版画化したものだ。したがって、これを厳密に複写する必要はないと思う。少なくともここには踊れるような床はない。
(5)「初演ポスター」には、上演の日時場所、主演カルパコワIの慈善公演であること、デコールの担当者すなわち裏方名、ヴァイオリンのソリスト名などとともに、特に重要なのは、出演者名と舞踊単位ごとのダンサー名が一覧として記載されていることである。現代のバレエ公演でもプログラムとは別に、当日実際に出演するダンサー名簿が配布されるが、ポスターのダンサー名の表示はこれに近い性格のものではないだろうか。そうであるとすれば、ここに記載されている舞踊単位、ダンサー数、ダンサー名は相当信頼のおける情報が網羅されていると考えて差し支えないと思われる。なぜなら、ファンが花束などの贈り物する時の拠り所として杜撰なものならきついクレームが来るだろうからである。であるとしたら、もし初演台本と、このポスターとの間で不整合が生じた場合は、台本の方を優先すべきではなく、ポスターに従うべきであろう。したがって、『初演版復元』を標榜するプロダクションが存在するとしたら、それは少なくとも「初演ポスター」との齟齬のないものであるべきだ。それゆえ、ここではほぼ確定している「初演ポスター」を中心に話を進めて行くことになる。しかし、当時のバレエはダンスとマイムが完全に分離しており、ポスターではマイム部分が全く分からないのは致し方ないことである。
【《ロシアの踊り》】
物語が公表された当初から、話がロシアを舞台にしているのではなく、ドイツの民話風になっていたので、あまり風評が芳しくなかったのだが、特に諸国の踊りの中にスペインやイタリア、ポーランド、ハンガリーの踊りがあるのに、ロシアの踊りが無いということが槍玉に挙げられ、愛国心というようなからめ手からチャイコフスキーにせまり、《ロシアの踊り》という番外曲を作らせてしまった。これはヴァイオリン独奏主体のたいへん素晴らしい曲で、ヴァイオリン協奏曲の中間楽章にしてもおかしくないくらいの出来栄えである。そのスコアには『ロシアの民族衣装を着た女性第一舞踊手が踊る』と明記されており、初演ではオデット・オディールを踊ったカルパコヴァIがこれを踊ったことが上記の初演ポスターにも明記されている。
曲は、イ短調2/4で、ゆっくりした踊りと動きの激しい踊りの2つの部分に分かれる舞踊曲にはよくあるスタイルを採っている。総奏の一撃の後、独奏ヴァイオリンが華やかなパッセージをモデラートで演奏し、それがトリルに変わったところでリズミックな弦楽の伴奏が付く。すぐに独奏ヴァイオリンのカデンツァが続く。このカデンツァの終わりの方で、『ロシアの衣装を着た女性第1舞踊手(La
première danseuse)』が登場する。これがプリマ(女性主役)のことを限定的に意味するのかどうかは私は知らないが、多分オディール役のことを指しているのであろう。テンポはアンダンテ・シンプリーチェに変わり独奏ヴァイオリンがチャイコフスキーらしい憂いに満ちた主題を演奏し、この女性が踊り始める。主題はソロ以外にも現れ、独奏ヴァイオリンは技巧的に変奏する。突然テンポがアレグロ・ヴィヴォになり、オーケストラが荒々しく咆哮する。最後にテンポは更に速くプレストになり、主題が極端な速いテンポで奏され熱狂的に終わる。
この曲のヴァイオリンのカデンツァに続くゆったりした主要主題は、ユルゲンソン版では「アンダンテ・シンプリーチェ」(Andante
simplice)とテンポ指定されており、全集版はそれを踏襲しているが、もともと自筆譜では「アレグレット・シンプリーチェ」(Allegretto
simplice)であったと欄外に注記されたている。振付の段階でアレグレットでは速すぎるとのクレームが出て変更されたのだろう。したがって、演奏のみの場合はアレグレットの方が望ましいように思われる。
なお、参考資料(C)の森田本巻末xiiページに次のような記載がある。
【バレエ・マスター、レイジンゲルの要請に応じてチャイコーフスキイが作曲して、初演時に踊られた。しかし、作曲した時には、すでにピアノ・スコアは出版されていたので、そこには入らなかった。オーケストラ・スコアは残っていないので、全集出版時にシェバリーンが管弦楽配置した。】
この補足の前段は良いとして、後段のオーケストラ・スコアの記述は誤りである。《ロシアの踊り》は、すでに1896年に出版されたユルゲンソン版に巻末の付録として含まれており、それを復刻したブロード版にも印刷されている。したがって、1957年の全集版は自筆譜とユルゲンソン版を参照して作られている。
【<ソベシチャンスカヤのパドドゥ>】
由来の怪しいソベシチャンスカヤ伝説に基づくと見られる1つの完全な形態を持つパドドゥが全集版には付録として掲載されており(《全集版付録パドドゥ》)、第3幕で王子がオディールを花嫁とすることを宣言する直前に、この2人の踊りのために挿入されるよう指定されているが、ここでは純粋な《白鳥の湖》のための音楽、全30曲のみを対象としているので検討されない。ただ、このパドドゥにまつわる物語はたいへん興味深いものであるし、現代の《白鳥の湖》上演にも大きな影響を与えているので、詳しくは別項の<ソベシチャンスカヤ伝説>を参照願いたい。ここで述べておきたいのは、《ロシアの踊り》が追加曲とはいえチャイコフスキーの作品であることは明白だが、この《全集版付録パドドゥ》は作品としては面白いものだが、チャイコフスキーの作品とはどうも思えない。《白鳥の湖》の青白い情念の世界とは異質の音楽であることを付け加えておく。
5.初演ポスター
以下、ワイリーの研究書の「付録B」に掲載されている『Affiche
of the First Performance of Swan Lake, in
English Translation』(《白鳥の湖》初演のポスターの英訳)のうち、配役と20の舞踊単位ごとのダンサー名の部分の引用である。基本的にワイリーの英訳のままであるが、読みやすいように一部順序を変えたり補足したり(かっこ表記)している。また、オデット・オディールについては、原文がロシア語であるのでここではロシア語名のオデッタ・オディーリアに戻した。また、英訳にはいくつか疑問点が存在するが、注記がないためロシア語のポスター原文に由来するものなのか英訳時のミスなのかは不明である。このポスター自体はモスクワのボリショイ劇場のアルヒーフに保管されている<初演=1回目(カルパコワI主演)の分>。ここでの配役は1回目のものである。なお、4回目(ソベシチャンスカヤ主演)の分のポスターもそこで見ることが出来る。共に解説書に写真が掲載されることが多く、以前You
Tubeで見ることが出来た。初日と違う踊りの個所は緑色で再掲した。
なお、これをご紹介いただいた「チャイコフスキーー三大バレエー」(新国立劇場運営財団情報センター刊行2014)の著者である渡辺真弓様に深くお礼申しあげます。同書には《眠れる森の美女》の初演時の豪華な配役一覧表も掲載されており、たいへん興味深い内容となっている。
≪初演ポスターの登場人物と出演者名≫
|
自筆譜および
ユルゲンソン版 |
全集版 |
ユルゲンソン版
のピアノ編曲譜 |
本稿での用法 |
(1) |
Intrada |
Intrada |
Intrada |
Intrada |
(2) |
Var.I |
Var.I |
--- |
Var.I |
(3) |
--- |
[Var.II] |
Var.I |
Andante con moto |
(4) |
Var.II |
Var.[3] |
Var.II |
Var.II |
(5) |
Var.III |
Var.[IV] |
Var.III |
Var.III |
(6) |
Var.IV |
Var.[V] |
Var.IV |
Var.IV |
(7) |
Coda |
Coda |
Coda |
Coda |
(20)ハンガリーの踊り・チャルダッシュ
(21)スペインの踊り
(22)ナポリの踊り
(23)マズルカ
(24)情景
[第4幕]湖のほとり
(25)間奏曲
(26)情景
(27)小さな白鳥たちの踊り
スコアのト書きには<娘の白鳥が子供の白鳥に踊りを教える>と指示されている。実際、初演では16人の子役たちが白鳥たちに混じって《パ・ダンサンブル》を踊ったことがポスターに記されている。緊迫した場面に全く不釣り合いなこの情景に対して、チャイコフスキーは何らかの意図を込めて作曲したことは明らかだが、そのことは全く考慮されず【プティパ=イワノフ版】では台本の修正(ヒナ鳥に踊りを教える→気晴らしに踊る)とともにこの美しい音楽は削除され、別の曲に差し替えられてしまった。そこでの振り付けには、8人の黒鳥が登場する。そしてこれは白鳥のひな鳥を省略した補償を意味するらしい。
(28)情景
(29)最後の情景
*コラム《白鳥の湖》こぼれ話
(1)《白鳥の湖》の初演は大失敗だったと言われているが?
<答>本当に大失敗なら、一回こっきりか、あるいは当初予定されていた回数の上演だけで繰り返し上演などあるはずはないのだが、実際は1877年2月20日の初演から1883年1月2日の最後の上演まで、約6年間で41回(数え方により32回、39回という説もある)も上演されているのである。そして上演が打ち切られた理由は、度重なる上演により装置や衣装が摩耗してしまったということと、当時の政策により経費が削減されダンサーが半減したため上演不能になったことによる(【森田】p131&p138)。ということは大失敗などではなく、大成功とは言わないまでも、そこそこの評判でレパートリーとして定着していたというのが実態だろう。
(2)プティパ=イワノフ版の改訂初演は大成功だったと言われているが?
<答>この上演が大きな評判を取ったことは間違いない確かなことだが、しかしそれは《眠りの森の美女》のときの大成功ほどではなかった。1895年1月15日の初舞台から1896年の11月14日までの約1年半で16回繰り返され、その後数年は上演回数がごく少なくなったようだ(【森田】p283)。物語の内容が暗く、一般観衆に理解されるまでにはかなりの時間を要したからだろう。では、なぜ現在、初演は大失敗で改訂上演は大成功であったと認識されているのか?それは、初演の舞踊譜が現存せず、内容のほとんどが忘れ去られてしまっていることとともに、当然のことながら、改訂上演の関係者たちは、彼らの業績をより大きく印象付けるために、初演は失敗であったことを折に触れ述べてきたし、後世の人たちは、話を面白くするために、並みの評判を大失敗に、そこそこの成功を大成功にと、より大げさに表現してきたことの積み重ねが現在の一般的評価につながっているものと思われる。したがって本稿では、プティパの「改訂上演」のことを、一般に述べられている「蘇演」とは表現しない。とはいえ《白鳥の湖》が一般に名作として受け入れられるためには、膨大な時間の経過と関係者の努力があったことを見逃してはならない。
(3)三大バレエのうちで最高傑作は?
<答>チャイコフスキーの三大バレエは、《白鳥の湖》が《第4交響曲》、《眠れる森の美女》が《第5交響曲》、《くるみ割り人形》が《第6交響曲》にそれぞれ対応しているとよく言われるが、交響曲においては明らかに《第六交響曲》が最高傑作であることは疑いのないことなので、それから類推すると姉妹作の《くるみ割り人形》が最高傑作と考えてもよさそうだ。実際のところ、作曲技術的には《くるみ割り人形》が一番熟達しているのはあきらかである。また、作品の規模と内容の壮大さにおいては《眠りの森の美女》が最高である。洗練された作曲技法でも、巨大な充実性でも劣る《白鳥の湖》であるが、それでもなお私は《白鳥の湖》がチャイコフスキーのバレエの最高傑作であると思う。なぜなら、そこには『青白く燃え上がる情念の炎』がもっとも強く感じられるからである。《白鳥の湖》のどの一片を取り出しても、チャイコフスキーの天才が紡ぎだした『青白い情念』が感じられるのである。これは作品の規模や作曲技術の巧拙を超えた何物にも代えがたいものであって、《白鳥の湖》を最高傑作とする所以である。そして、これこそが<どこも切り取らずに、何も追加せずに上演すべきである>という、私の主張の根源をなすものである。さらに付け加えるならば、《眠りの森の美女》と《くるみ割り人形》には、プティパによる詳細な「作曲指示書」にほぼ忠実に作曲されたものであり、もちろんそれだからこそ成功を勝ち得たのであるが、やはり内容的な面では制約があったことを感じざるを得ないのである。これらに対して、《白鳥の湖》では、チャイコフスキーの才能が、自由に思うがまま作品の世界を創造しているのである。
(4)三大バレエ以外にチャイコフスキーのバレエ関連作品はあるのか?
<答>完成された純粋なバレエ音楽は《白鳥の湖》《眠りの森の美女》《くるみ割り人形》の3曲だけだが、次の3つの作品は《白鳥の湖》創作以前の状況を知る上で忘れてはならない。三大バレエだけが屹立して存在しているのではなく、バレエ音楽に対する多くの試行や努力がなされた上での偉業であることが理解できるからである。Cは歌劇の中に存在するバレエシーン。
@バレエ音楽《シンデレラ(ゾルーシュカ)》:これがチャイコフスキーが最初に手掛けたバレエ音楽だが、1870年に手紙など伝記的事実から着手されたことは確かなのだが、なぜか途中で放棄され、作品の痕跡は全く残っていない。
A劇付随音楽《雪娘》Op.12:1873年に作られた作品でその中には合唱曲やバレエ音楽も入ってる。
B歌劇《オンディーヌ》(水の精):1869年に着手し未完に終わった作品だが、その中の二重唱がNo.13白鳥たちの踊りの中の有名なヴァイオリンとチェロのソロの付いた《パダクシオン》(王子とオデットのグランパドドゥ)が転用されていることは記憶しておかなければならないだろう。さらにこの《オンディーヌ》という素材は、もう一度チャイコフスキーによって手がけられることになる。今度はバレエ作品として、弟のモデストが台本を書いた。1887年のことである。チャイコフスキーはそれにバレエの音楽を付けるはずであったが、なぜかそれは立ち消えになってしまった。
C歌劇《スペードの女王》の中にバレエ音楽が存在する。これは《魔笛》をリスペクトした作品であって、オペラ内で《忠実な女羊飼い》と名付けられている。米国の北西バレエ(シアトル)では《くるみ割り人形》にこの音楽を取り入れている。
(5)《白鳥の湖》か《白鳥湖》か?
<答>このバレエの標題は《白鳥の湖》なのか、《白鳥湖》なのかという問題は、たった1字の相違ではあるけれども、違いに深い意味合いが含まれているのある。
これは英語とフランス語の差にも対応している。すなわち、英語では 《The
swan lake=白鳥湖》、フランス語では《Le lac
des cygnes=白鳥たちの湖》である。もし、フランス語を直訳して英語にすると《The
lake of swans》となる。フランス語から訳された日本語では(註)、本来《白鳥たちの湖》と訳すべきところだが、日本語では複数表現はあいまいなので《白鳥の湖》とされてきたに過ぎない(《白鳥たちの湖》ではどうも語呂が悪い)。したがって、《白鳥の湖》と《白鳥湖》の差は、結局のところ『白鳥』が単数であるか複数であるかの問題に収束するだろう。
単数の場合は『湖』が主体となる。「白鳥が飛来することがあるので名付けられた『湖』」といった感じである。複数の場合は『白鳥たち』が主体となる。「湖で飛んだり泳いだりして生活している『白鳥たち』」といった感じになるだろう。
当初チャイコフスキーが付けた名前は《Ozero
lebedei=白鳥たちの湖》の方だったらしい。ロシア語でもそのように表現されていたようだ。ところが、初演のポスターにはすでにロシア語で 《Лебединое
озеро》(Lebedinoe ozero=白鳥湖)となっている。さらに、スコアでは、ユルゲンソン版も全集版も《Лебединое
озеро》と《Le lac des cygnes》が併記されている。とても奇妙なことだ。
(註)《眠れる森の美女》もフランス語(La
belle au bois dormant)からの訳である。英語(Sleeping
beauty)では《眠れる美女》となるところである。《白鳥の湖》と同様、森を持ってくることによって、より自然の中の物語であることを強調しているのだろう。
(6)パドドゥとは?
<答>パドドゥ(pas de deux)とは音楽におけるソナタ形式のような、クラシック・バレエの中核をなす一種の舞踊形式である。バレエがロマンティック時代からクラシック時代に移っていく(バレエは音楽とは逆にロマンティックバレエの後にクラシックバレエがやって来る)過程で形成され発展してきたものである。パドドゥはバレエの華。観客はそれをお目当てにバレエを見に来るし、ダンサーたちはこれを最も大切に考えていた。そのため、パドドゥはバレエのしかるべき場所(山場)におかれている。《眠りの森の美女》や《くるみ割り人形》も、老練なプティパが入念に構想したものであるので、抜かりなくそれが嵌められており、クラシック・バレエの華と称えられている。
パドドゥという言葉はもちろんフランス語で、 pasは歩み、ステップという意味から<踊り>、deは<の>、deuxは<2>ということであり、直訳すると<2人の踊り>となる。同類の用語に:
パドトロア(pas de trois)は<3人の踊り>
パドカトル(pas de quatre)は<4人の踊り>
パドサンク(pas de cinq)は<5人の踊り>
パドシス(pas de six)は<6人の踊り>
パ・ダクシオン(pas d'action)は<演技のついた踊り>(たとえば、《白鳥の湖》で、酔ったヴォルフガングが村娘を誘って古風な踊りを踊るといったもの)
パ・ダンサンブル(pas d'ensambre)は<ソリストたちが入り混じって踊る踊り>(たとえば、《眠れる森の美女》のプロローグで妖精たちが踊る踊りなど)
などがある。内容はパドドゥに準じて組曲形式になっていることが多い。
パドドゥの形式はそんなに複雑なものではなく、次のような部分に分かれる。
1、イントラーダ(導入):アダージョの準備をする部分。独立して1曲を成す場合と、単にアダージョの前に付けられた短い導入部分の場合がある。
2、アダージョ :、女性舞踊手が男性の補助を受け、ゆったりとした流れとポーズの美しさ、時に大胆な動きを表現するパドドゥの見せ場の部分である。
3、ヴァリアシオン:登場者それぞれが単独に踊る曲で、普通は登場者の人数分の曲に分けられる。すなわち、パドドゥの場合は、ヴァリアシオン1、ヴァリアシオン2、と男女に各1曲づつ充てられ、パドトロアでは3つ、パドカトルでは4つヴァリアシオンがあるのが普通であが、1曲で2、3人が踊ることによって曲数を減らすこともある。
パドドゥでは、アダージョで女性が中心になるので、続くヴァリアシオン1では男性がソロを踊ることになる。そしてヴァリアシオン2では女性が踊る。
4、コーダ: 速い動きの音楽の中で、ある時は一人づつ交互に、ある時はペアで踊る。華やかに盛り上げられる終曲を意味する。ヴァリアシオン2を受ける関係上、最初は男性だけが速い踊りを踊る。やがて女性が登場し32回のフェッテなど華やかな技を披露する。その後2人が一緒に踊り最高潮となって終わる。
このように、パドドゥはダンサーの能力を最大限発揮できるように仕組まれているというわけである。
これらの用語は、音楽で使われるものと同じ語が使われているが、バレエの場合は微妙に音楽の用法とは異なる。
<アダージョ>(adagio)は音楽のアダージョとは違って、テンポを指示する用語ではない。男性舞踊手の支えによってプリマがゆったりとした音楽の中で、ポーズの美しさと滑らかで艶やかな姿勢の移り変わりを見せるもので、テンポはアンダンテあたりが採られることが多い。フランス語では、バレエ用語としてアダージュ(adage)というアダージョ由来の言葉が存在するが、わが国ではあまり使われない。
<ヴァリアシオン>(variation)は、ソロで踊るナンバーで、各登場人物が単独で個性的な技を見せる踊りである。これも決して音楽の変奏曲(ヴァリエーション)を意味しない。速いテンポの曲が多く、男性舞踊手に対しては、そのダイナミックな踊りに合わせて躍動的なものが多く、女性舞踊手に対しては、細やかな技術を見せるコケティッシュなもが多い。バレエ用語はフランス語が多いにもかかわらず、バレエ界の用語としては英語風のヴァリエーションが使われる。音楽界では変奏曲との混乱を避けるためか、バレエ用語としてはヴァリアシオンが使われることが多い。
<コーダ>(coda)は、音楽の終結部ではなく、終曲を意味し、速いテンポで華やかに踊りを盛り上げる。つまり一種のフィナーレである。
【参考資料】
スコア:
(1)《Le lac des cygnes》Op.20 Grand Ballet
en 4 Actes, Peter Ilich Tchaikovsky,
Broude Brothers New York 1951
(2)《Le lac des cygnes》Op.20 Ballet en
4 Actes,, Peter Ilich Tchaikovsky, Kalmus
Warner Bros. Publications Miami
(3)《Schwanensee》Op.20 Ballett in vier
Akten, Peter Iljitsch Tschaikowsky, Musikproduktion
Jürgen Höflich München 2006
(4)舞踊組曲《白鳥の湖》Op.20a、チャイコフスキー作曲、音楽之友社、1953年
解説書:
(A)《白鳥の湖の美学》小倉重夫著、春秋社、1968年
(B)《チャイコフスキーのバレエ音楽》小倉重夫著、共同通信社、1989年
(C)《永遠の「白鳥の湖」》森田稔著、新書館、1999年
(D)《『胡桃割り人形』論ー至上のバレエー》平林正司著、三嶺書房、1999年
(E)《チャイコフスキー三大バレエ》渡辺真弓著、新国立劇場運営財団情報センター、2014年
2019・10・23