《白鳥の湖》の原典を探る。
     ーそれは復元ではなく創造である。ー


 バレエ音楽《白鳥の湖》といえば、チャイコフスキーの代表作のひとつであることは言うまでもないし、現代において上演される全てのバレエ演目の中で、もっとも観客を呼ぶことが出来、もっとも頻繁に上演されてきた作品のひとつであることは誰しもが認めるところであろう。そして、あの『白鳥のテーマ』はバレエやクラシック音楽に興味のない人たちの間でも、知らぬ人は誰もいないくらいよく知られたメロディーなのである。ところが、このバレエ作品《白鳥の湖》は、作曲されて以来百数十年、作曲者チャイコフスキーが思い描いた通りに上演されたことは一度も無かった。このことは、スコアと実際の舞台上演とを対比すれば一目瞭然である。

 なぜこのようなことが起こるのか? その理由の一つとして、チャイコフスキーは音楽自体はきっちりと書き上げたのだが、この大作を構築する部分部分の音楽がいったい何を表現しているのか、台本に密接にリンクすべきスコア上のト書きを非常に中途半端であいまいな形でしか残していないからである。 例えば「第1幕の中心的音楽である《パドドゥ》は、いったい誰と誰によって踊られるのか?」というようなごく初歩的な疑問にすら、スコアは答えていない。さらに、初演に先立って公表された台本は、個々の音楽にきっちり符合するものではなく、すでにチャイコフスキーの音楽とはかなりかけ離れた存在となっており、この《パドドゥ》を誰が踊るのかについても示されていないし、そもそもこの《パドドゥ》の音楽自体が第1幕に存在するのかも明示されていない。

 ところで、同じような舞台芸術である「歌劇」では、歌詞や音楽は確定しており、演出家は衣装や装置においてのみ自己主張が出来るだけである。そのため、たとえば《魔笛》や《ニーベルンクの指輪》のような現代版の奇妙な衣装や装置が出現することになるのだが、結局はそれだけのことで、音楽そのものは何も変わらない。それに対して、いわゆる「全幕バレエ」は、歌詞もなく音楽自体もカット、挿入、変更が自由で、演出家の考え次第でどのような物語にも変えることが自由なのである。ここで取り上げるチャイコフスキーが作曲した《白鳥の湖》などはその最たるもので、「男の白鳥物語」にしたり、「ルートヴィッヒ二世の物語」や「イギリス王家を模した物語」にすることも可能なのである。

 作曲家が書いたようには演奏されないなどということは、現代の演奏の常識からすれば、にわかには信じ難いことなのだが、バレエの音楽と上演現場とのギャップの大きさは、クラシック音楽を愛好する者にとって、まことに不思議な現象と見えるのである。それは舞台だけではなく、市販されているCDについても同様である。音楽だけしかないCDにおいては、交響曲や協奏曲のように、指揮者はひたすらスコアだけに集中すればよい筈なのに、関係の音楽は全て再現すべきという網羅主義に毒されているのか、舞台における様々な演出を横目に見てるからなのか、削除や挿入が頻繁に行なわれ、完全にチャイコフスキーが書いたスコアを忠実に再現しているCDなどどれ一つとして存在しないのである。

 《白鳥の湖》の物語には、これといった原作はない。いくつかの演劇の物語を基に、絵本などに示されている様々な民話の要素を加味してチャイコフスキー自身が構築したものと推定される。そうであるにもかかわらず、ト書きの不十分さから彼の音楽が表現する『オリジナルの物語』を、誰も厳密には知らされていないのである。この資料的あいまいさを逆手にとって、自由な解釈の余地が残されていると理解され、多くの人々の努力によって、物語上で様々なシチュエーションが試みられ、そこから振付上、音楽上の多彩なヴァリエーションが生まれる結果となったのである。いわばバレエ団ごとに違う《白鳥の湖》が上演されている現状なのだ。さらに、同じバレエ団でも監督が代われば違う《白鳥の湖》が演出されることとなる。逆に、こういった状況こそが、バレエ《白鳥の湖》が永く愛されてきた活力の源の一つであるのは皮肉なことであるとも言えよう。たとえば、セリフの確定したオペラの《カルメン》などでは全く考えられないことなのである。

 ここでは、さまざまな《白鳥の湖》が制作・上演されてきた中で、チャイコフスキーが作った音楽そのものを動かすことのできない金科玉条として、周辺の様々な資料から彼がどのような物語を描こうとしたのかを追求していきたい。そしてその結果を、次の章で私が考えた『オリジナル音楽に適合した台本』として披歴することとしよう。


1.《白鳥の湖》の成立
チャイコフスキーがモスクワのボリショイ劇場の劇場管理部長、ベギチェフから《白鳥の湖》の作曲の依頼を受けたのは1875年5月末のことであり、9月10日には「バレエの2幕を書き上げた」とリムスキー=コルサコフに手紙で伝えている。全曲が完成したのは1876年4月20日(新暦5月2日)である。また、ベギチェフはチャイコフスキーに800ルーブルを手付金として支払ったことが知られている。チャイコフスキーのモスクワ音楽院での年俸1500ルーブルと比較すると、これがどの程度の額か想像できるかもしれない。なお、チャイコフスキーがフォン・メック夫人から受けていた年金は毎年3000ルーブルだったと言われている。
ただ、1875〜6年にすべてが作られたのかというと、どうもそうではないらしい。というのは、《白鳥の湖》のOp.20という作品番号は、すでに1873年には決まっていたように見えるからである。その前後の作品番号を調べてみると、《交響曲第2番》Op.17:1872年、《幻想序曲:テンペスト》Op.18:1873年、《6つのピアノ小品》Op.19:1873年、《6つのピアノ小品》Op.21:1873年、《弦楽四重奏曲第2番》Op.22:1874年、《ピアノ協奏曲第1番》Op.23:1875年の順となっており、このことから、1873年には、構想や作曲試行の域を超えて具体的に作品の全体像が形作られ本格的作曲が始められていたと推定され得るのである。チャイコフスキーの場合、作品番号は完成や出版の時に付されるのではなく、長期を要する作品の場合、本格的に作曲を開始した時点で付されるようだ。たとえば、歌劇《エウゲニ・オネーギン》Op.24も、《第4交響曲》Op.36の後に完成しているのも同じような例である。

また、別の角度から見てみると、当時、チャイコフスキーは彼の妹アレクサンドラの嫁ぎ先であるカメンカのダヴィドフ家に滞在することが多く、彼女の子供たちが成長して家庭演劇をやれるようになったとき、積極的にそれに参加したと言われている。そこでは絵本などから導き出される童話的題材が選ばれ《白鳥の湖》も演目の中に含まれていたことはダヴィドフ家の人々の回想録や手紙にも残されている。それは、子供たちの年齢からみて1860年代後半から1870年代始めのことだろう。はっきりと確定的には言えないが《白鳥の湖》が取り上げられたのは1871年のことらしい。そうであるとすると、この家庭演劇での経験を膨らませて、1873年には本格的バレエ作品としての構想が出来上がっていたことは十分窺えるのである。

これらのことから、《眠れる森の美女》や《くるみ割り人形》のように他人の提案した題材によって作曲依頼されたものではなく、チャイコフスキーが既に《白鳥の湖》作曲に取り掛かっていたものを、1875年春にモスクワの劇場管理部が取り上げ、正式に注文したということであって、作曲依頼は、いわゆる「お墨付き」のようなものと見なすことが出来るのではないだろうか。この時からボリショイ劇場全体が《白鳥の湖》上演に向かって動き始めたのだと理解すればよいと思われる。他の2曲と違って、《白鳥の湖》はチャイコフスキー自身が構想しベギチェフに提案した素材だったと言えるのではないだろうか。ベギチェフからの「依頼」というのは、チャイコフスキーの作曲途上のアイデアの「追認」という風に捉えるのが正しいのではないだろうか。



2.《白鳥の湖》のスコア
チャイコフスキーの生前には、スコアは出版されなかった。作品自体が、失敗とは言えないまでも大きな反響を呼ぶに至らなかったことと共に、引き続き改作の可能性が付きまとっていたからかも知れない。とにかく、改作の可能性が無くなったチャイコフスキーの死後の1896年になって初めてスコアは出版された【ユルゲンソン版】。出版者ユルゲンソンがチャイコフスキーから非常な信頼を受けていたことは、2人の間の多くの手紙からも分かるのだが、ユルゲンソンは出来るだけチャイコフスキーのスコアを尊重しようとしていたことは、スコアそのものから十分理解できる。それとともにユルゲンソンはプティパによる改訂上演も視野に入れていたのであろう。彼はプティパがドリゴに依頼した3曲の追加曲もそのスコアに巻末の付録として含めている。モデストによる改訂台本の採用もその一環だろう。そして不可解な、《No.13白鳥たちの踊り》の3回目のワルツ(第6曲=大きな白鳥の踊りと言われている曲)が変イ長調からイ長調へ移調されたことについても、プティパによる白鳥たちの踊りの各部分の並べ替えに対応したものであるとすると、一応の説明はつく。ユルゲンソンはその程度の追加変更で『プティパ=イワノフ版』が上演されることを期待していたのかも知れない。しかし、実際にプティパの意を受けたドリゴが改訂補筆した『プティパ=イワノフ版』は、音楽の内容にまで深く立ち入っているため、このスコアからは上演不可能である。なおこの版には、チャイコフスキーが初演のための追加曲として書いた《ロシアの踊り》も付録として追加されている。
このスコアは1951年にニューヨークのブロード兄弟社から再刊された【ブロード版】。内容は【ユルゲンソン版】と同一と見られる。

これとは別に、ロシアではチャイコフスキー全集の一環として、1957年に自筆譜に基づいて《白鳥の湖》が作られた【全集版】。これは、アメリカのカルマス社からコピー版が出版されている【カルマス版】。この【全集版】ではさまざまな細かい事項が各ページに脚注として詳細に記載されている。また、ほんの少しではあるがスケッチの断片も掲載されており、全集版の面目を保とうとしている。付録としては、《ロシアの踊り》とともに由来の怪しい《パドドゥ》が加えられている。しかし、ドリゴが編曲して差し替えた3曲はここには無い。

両スコアについては、基本的には【ユルゲンソン版】も【全集版】も『プティパ=イワノフ版』のためのドリゴの細かい改変は採用していないが、自筆譜に基づくはずの両者の間でも細部には微妙な差異が存在する。詳細は各ナンバーの分析の項で検討されるが、特に問題とされるのは、ト書きの欠落した3つの舞踊ツィクルス《No.5パドドゥ》、《No.13白鳥たちの踊り》、《No.19(パドシス)》である。プティパによって第1幕から第3幕に移された《No.5パドドゥ》は舞踊内容に大きな差異が見られるが、【ユルゲンソン版】も【全集版】もそれらを採用していない。ただ、【ユルゲンソン版】は付録に代替用のオデットのヴァリアシオンを加えている。《No.13白鳥たちの踊り》については上述の通り。《No.19(パドシス)》の第3曲《アンダンテコンモート》を全集版では《ヴァリアシオンII》としているのは明らかな誤解釈である。この内容の濃い変化に富んだ物語的音楽は、ダンサーの踊りを見せるためだけのヴァリアシオンではないことは明らかだ。

最近《白鳥の湖》の新しいスコアが現れた。ミュンヘンのヘフリッヒ社(Musikproduktion Hoeflich)から2006年に出版されたもので【ヘフリッヒ版】、内容はほぼ【全集版】に則しているが、細かな脚注は削除されている。付録も【全集版】と同様、《ロシアの踊り》と《パドドゥ》である。【カルマス版】の印刷は非常に悪いが、こちらは新たに原版を作っているので、いたって読みやすい。ただ、この版は全集版からのみ作られたようで、【ユルゲンソン版】や自筆譜を再チェックしたような形跡は見られないため、【全集版】の再検証としての研究用にはあまり役に立たない。

なお、本稿では原初の版ではなく【ブロード版】と【カルマス版】および参考として【ヘフリッヒ版】を使用している。
(1)《Le lac des cygnes》Op.20 Grand Ballet en 4 Actes,  Peter Ilich Tchaikovsky, Broude Brothers New York 1951
(2)《Le lac des cygnes》Op.20 Ballet en 4 Actes,, Peter Ilich Tchaikovsky, Kalmus Warner Bros. Publications Miami
(3)《Schwanensee》Op.20 Ballett in vier Akten, Peter Iljitsch Tschaikowsky, Musikproduktion Jurgen Hoflich Munchen 2006





3.《白鳥の湖》の台本

物語について述べられた初期資料は3つ存在する。
@自筆スコアに書かれたト書きなど:黒色、(赤色=ユルゲンソン版にはないが全集版には存在するト書きなど) なお、表中の(○○○)などのカッコは、印刷スコアそのものに存在するカッコである。日仏対照。
Aモスクワ初演の半年前に公表された台本:黒色+赤色=自筆スコア@のト書きに一致する部分、緑色=etc.などで@に述べられていない部分、ピンク=@で述べられている部分で、それと矛盾する記述
Bサンクト・ペテルブルク改訂上演時に弟のモデスト・チャイコフスキーによって書かれた台本:黒色=自筆スコア@のト書きに一致する部分(含む赤色部分緑色=初演台本に一致する部分(含むピンク部分)、青色=@Aにない、あるいは@Aに符合しない部分。日仏対照。

三者三様それぞれに問題が存在するが、以下一覧表でそれらの内容を比較してみよう。

@スコアへの書き込みについては、ほとんどが各ナンバーの冒頭に記載されているし、音楽の途中での指示は記載個所の小節数を付したので、ト書きと音楽との関係については全く問題が生じないが、ABの台本は一連の文章として書かれているので、妥当なナンバーと思えるところへ私が振り分けた。なお、2つの出版譜以外に次の資料を用いた。
『永遠の「白鳥の湖」』森田稔著新書館【森田】
『白鳥の湖の美学』小倉重夫著春秋社【小倉美学】、
『チャイコフスキーのバレエ音楽』小倉重夫著共同通信社【小倉バレエ】

各著者の方々にお礼申し上げます。


[登場人物]
【初演台本】
まとまった登場人物一覧表などは添付されていないようだ。
(下記ポスターの註参照)

【初演ポスター:1877年2月20日】
オデット(善良な妖精)、領主である女公=女王、ジークフリート公子=王子(彼女の息子)、ヴォルフガング(彼の家庭教師)、ベンノ・フォン・ゾメルシュテルン(王子の友人)*、フォン・ロートバルト(邪悪な妖精、客の姿をしている)、オディール(彼の娘、オデットに似ている)、式典長、シュタイン男爵、男爵夫人(彼の妻)*、フレイゲル・フォン・シュヴァルツフェルス、彼の妻、宮廷の騎士1,2,3(王子の友人)、伝令官、急使、村娘1,2,3,4*、男女の宮廷人たち、客人たち、小姓たち、村人と村娘たち、召使たち、白鳥たち、白鳥の子供たち

(註)この「初演ポスター」に記載された登場人物は、ロシア語で書かれているが、それをワイリーが英訳したもののさらなる和訳である【ワ】。ところが、森田本のp289〜290に掲載されている「初演台本」和訳の登場人物の記載とほぼ同じである【森】。僅かな違いは次の通り。
<【森】ベンノ・フォン・ゾメルシテイン→【ワ】ベンノ・フォン・ゾメルシュテルン>
<【森】その妻、男爵令嬢→【ワ】男爵夫人、彼の妻>(シュテイン男爵夫人=ポリヤコワを意味し、娘は誤読と思われる)
<【森】村娘1,2,3→【ワ】村娘1,2,3,4>(村娘のダンサーは4人挙げられている=スタニスラフスカヤ、カルパコワII、ニコラエワII、ペトロワIII)
これらの相違は、その内容から見て森田本の誤訳と見られるが、森田本の初演台本に記載の登場人物は、台本自体のものではなく、このポスターからの転記ではなかろうか。もともと初演台本には登場人物の記載は無かったのではないだろうかという疑念が生じる。

【ユルゲンソン版スコア1896年】
領主である女公=女王(王妃)、ジークフリート公子=王子(彼女の息子)、ベンノ(ジークフリ−トの友人)、ヴォルフガング(王子の家庭教師)、オデット(白鳥の女王)、フォン・ロートバルト(邪悪な妖精)、オディール(彼の娘)、式典長、伝令官、宮廷の貴人や貴婦人たち、招待者たち、農民たち、召使たち、白鳥たち、フクロウ、その他、その他

【全集版スコア1957年】
以下原文ロシア語:オデット(善良な妖精)、領主である女公=女王、ジークフリート公子=王子(彼女の息子)、ヴォルフガング(彼の家庭教師)、ベンノ・フォン・ゾメルシュテルン(王子の友人)、フォン・ロートバルト(邪悪な妖精、客の姿をしている)、オディール(彼の娘、オデットに似ている)、式典長、シュタイン男爵、男爵夫人(彼の妻)、フレイゲル・フォン・シュヴァルツフェルス、彼の妻、
以下原文フランス語:領主である女公=女王、ジークフリート公子=王子(彼女の息子)、ベンノ(ジークフリ−トの友人)、ヴォルフガング(王子の家庭教師)、オデット(白鳥の女王)、フォン・ロートバルト(邪悪な妖精)、オディール(彼の娘)、式典長、伝令官、宮廷の貴人や貴婦人たち、招待者たち、農民たち、召使たち、白鳥たち、フクロウ、その他、その他
(註)ロシア語部分の原型は不明だが、フランス語部分はユルゲンソン版であり、両方とも単純にコピーして貼り付けただけである。

[第1幕]


初版スコア1896年へのト書き(仏語・和訳)
赤字は全集版1957年の追加
初演台本1876年10月19日公表 初版(ユルゲンソン版)に掲載の
モデストによる台本(1896年)仏語及びその和訳

《白鳥の湖》4幕の大バレエ作品20
《LE LAC DES CYGNES》
 GRAND BALLET EN 4 ACTES OP.20#(註)
. 4幕の幻想的バレエ《白鳥の湖》
《LE LAC DES CYGNES.》
Ballet Fantastique en 4 acts.*(註)
#(註)
スコアの標題や楽譜の第1ページには
Grandの文字は存在するが台本には無い。
*(註)
ロシア語原文からの仏訳。
仏語原文の方にはなぜか「幻想的」の文字は無い。
《導入》
Introduction 
 1 第1幕:
ACTE I:

《No.1.情景》
《No.1. Scène.》
舞台は背景に城のある豪華な庭園の
一部分、小川には美しい橋が架かっている。
王子ジークフリートと彼の友人たちが
テーブルの周りに座ってワインを飲んでいる。
La Scène représente une partie d'un parc
magnifique; au loin on voit le château.
Un pont gracieux est jeté sur le ruisseau.
Le prince Siegfried et ses amis sont
assis devant des table en buvant le vin.

【17小節】
幕が開く。
Le rideau.

【53小節】
村人たちが王子を祝いに現れる。
王子の家庭教師であるヴォルフガングは、
ダンスで王子を陽気にしてくれるよう
彼らに頼む。村人たちは承知する。
王子はワインを振舞うよう命ずる。
召使たちはその命令を実行する。
婦人たちには、花とリボンが配られる。
Une foule de paysans vient pour féliciter
le prince. Son gouverneur Wolfgang les
engage a egayer le prince par leurs danses;
les paysans consentent. Le prince ordonne
de les régaler de vin. Les valets éxécutent
ses ordres. On donne aux femmes des fleurs
et des rubans.
これは、ドイツでの出来事である。


第1幕の舞台は豪華な庭園で奥にぼんやりと
城が見える。
小川に美しい小さい橋が架かっている。


舞台には、領主の若い王子ジークフリート
がいて、自分の成人を祝っている。
彼の友人たちがテーブルの周りに座って
ワインを飲んでいる。





王子をお祝いに来た村人たちと、
もちろん娘たちが、若い王子の家庭教師で、
ほろ酔い加減の老ヴォルフガングに
頼まれ踊る。

王子は踊っている男たちにワインをふるまい、
ヴォルフガングは村の娘たちの機嫌をとって
リボンや花束を贈る。





第1幕:
ACTE I:

面は、お伽噺の時代のドイツである。
La scène se passe en Allemagne au temps fabuleaux
des contes.



第1幕:お城の前の壮麗な庭園。
Jardin magnifique, au fond: un château.

<場面1>
<Scène I.>
王子ジークフリートの成人を一緒に陽気にお祝いしよう
として、ベンノや王子の友人たちが彼を待っている。
Benno et les amis du prince Siegfried, l'attendent pour
célèbrer, par une joyeuse fête, l'époque de sa majorité.

ジークフリートがヴォルフガングを従えて現れる。

祝宴が始まる。
Le prince entre suivi de Wolfgang.
Le festin commence.


村の若者たちや娘たちが王子をお祝いにやってくる。
王子は、若者たちにはワインをふるまい、
娘たちにはリボンを贈るように命じる。
Des paysans et des paysannes arrivent pour féliciter
le prince, qui ordonne de donner à boire aux hommes
et d'offrir en cadeau des rubans aux filles.

すでにほろ酔い加減のヴォルフガング
は教え子の命令を遂行させるよう手配する。
Wolfgang déja un peu gris fait éxecuter les ordres
de son élève.
 2 《No.2.ワルツ》
《No.2. Valse》
(コールドバレエ)
(Corps de ballet)
踊りはますます賑やかになっていく。
村人たちの踊り。
Danses des paysans.

 3 《No.3.情景》
《No.3. Scène.》
1人の使者が走ってきて、
王子の母である女王の到着を知らせる。
召使たちはあたりを片付ける。
家庭教師はしらふの振りをする。
Accoure un courrier et annonce l'arrivée
de la princesse mère. Les valets mettent
tout en ordre. Le gouverneur s'éfforce
de se donner l'air d'un homme sérieux.







1人の使者が走ってきて、王子の母である
女王の到着を知らせる。
この知らせが遊びを遮り、踊りは中止されて、
村人たちは奥へ退く。
召使たちは急いでテーブルを片付けたり、
酒瓶を隠したりする。
もったいぶった家庭教師は、自分が生徒に
悪い見本を示しているのに気づいて、
役目にふさわしいしらふの振りをしよう
と努める。




<場面2>
<Scène II.>
王子の御守役たちが走りこんできて、
母の女王がお見えになると知らせる。
この知らせは、みんなの陽気な気分を断ち切る。
踊りは止み、召使たちは急いで机を片付け、
宴の痕跡を隠す。

若者たちもヴォルフガングも酔ってない振りをする。
Des pages accourent et annoncent l'approche de la
princesse mère.
Cette nouvelle interrompt la joie générale.
Les danses cessent et les serviteurs se depêchent
d'enlever les tables et de faire disparaître les traces
du banquet.
La jeunesse et Wolfgang font des efforts pour cacher
leur commencement d'ivresse.
【30小節】<ファンファーレ>
(女王の登場。)
(Sortie de la princesse)

(彼女は息子の結婚について話す。etc.)
(elle engage son fils de se marier etc.)






























【79小節】
(女王退場。)
(La princesse s'en va)
そこにとうとう女王が侍従たちを引きつれ
登場する。

客人たちや村人たちはこぞって恭しく跪く。
若き王子が女王を出迎え、その後ろには
酔っ払って足元のおぼつかない家庭教師が続く。

女王は息子がびっくりしているのを見て、彼女が
来たのは遊びを止めさせたり邪魔をしようと
するためではなく、彼の成人の日が

彼の結婚について話し合う
のに最もふさわしい
からであると、説明する。女王は続ける。

「私は、もう年です。だから私の目の黒いうちに
結婚してもらいたいのです。お前が結婚して、
この由緒ある家系の名を汚さないことを
見届けてから死にたいのです。」

まだ結婚のことなど考えたことも無い王子は、
母の話に戸惑うが、すぐに従う覚悟をして、誰を
彼の生涯の伴侶に選んだかを、
恭しく母に尋ねる。

「私はお前に自分で選んでほしいので、まだ誰と
決めたわけではありません。」と母は答える。
「明日、私のところで大きな舞踏会を催します。
そこに貴族達が娘を連れて集まります。
その中からお前は気に入った娘を選ばなければ
なりません。その人がお前の妻となります。

ジークフリートは、事態が最悪ではない
ことを知って、「母上、私は決してお言葉
に背いたりはしません。」と答える。

「言うべきことはそれだけです。」と女王は言う。
「では、私は帰ります。気兼ねなしに思いきり
楽しみなさい。」

お付の者に先導されて女王がやってくる。
ジークフリートは母を出迎え、恭しく挨拶する。
彼女は、彼が自分を騙そうとしていると言って優しく
叱る。なぜなら、彼女は彼が宴の最中であるのに、
それを隠そうとしていることを知っているからである。
そして、来たわけを話す。
それは、彼が友人たちと楽しんでいることを邪魔する
ためではなく、明日が彼の子供の時代の最後の日
であり、婚約者を選ばなければならないことを
思い起こさせるためである。

La princesse entre précédée de sa suite;
Siegfried va à sa rencontre et lui souhaite
respectueusement la bienvenue.

Elle lui reproche doucement de vouloir essayer
de la tromper,car elle voit bien qu'il est en fête,
quoiqu'on le lui fait savoir qu'elle est venue,
non pour l'empêcher de se réjouir en
compagnie de ses amis, mais pour lui rappeler que le
lendemain est le dernier jour de sa vie de garçon;
il doit se choisir une fiancée.

「誰が婚約者になるのですか?」という彼の問いに対して、
女王は答える。「それは明日の舞踏会でわかります。
そこには、私の娘として、またお前の妻としてふさわしい
質を備えた若い娘がすべて招待されています!
その中から、お前が一番気に入った娘を選ぶのです」
A sa question: Qui sera cette fiancée?
La princesse lui répond que cela se résoudra
au bal du endemain, auquel elle a invité toutes
les jeunes personnes ayant les qualités voulues
pour être sa fille à elle, en devenant sa femme
à lui! Il choisira parmi elles,
celle à qui il voudra bien donner ce titre.

中断した宴の再開を許して、
女王は遠ざかる。
En lui permettant de continuer le festin interrompu,
la princesse s'éloigne.

【86小節】
(王子は語る「ああ、面倒の無い生活も
これで終わりだ」etc.)
(Le prince dit:C'est la fin de notre vie
sans soucis etc.)

【94小節】
(騎士ベンノは王子を慰める。
みんなが腰を下ろして、宴は再開する。)
(Le chevalier Benno le console.
On prend place et
le festin reccommence.)
彼女が去ると、友人たちが王子を取り囲む。
王子はみんなにこの悲しい知らせを打ち明ける。

「楽しかった時もこれで終わりだ。
自由の時よ、さらば。」


「それはまだ先のこと。
将来のことは放っておいて、まだある
現在を楽しみましょう!」と
騎士ベンノは王子を慰める。

大宴会が再開する。

村人たちは、集団になったり、
ひとり一人になったりして踊る。
<場面3>
<Scène III.>
王子は、物思いにふける。彼は自由な子供の時代が終わる
ことが悲しい。ベンノは「明日のことをくよくよして、
今の喜びを台無しにしないように」と彼に忠言する。
ジークフリートは宴を続けるよう命じる。
宴や踊りが再開する。
Le prince est pensif, il lui est triste de quitter
la vie joyeuseet libre de garçon.
Benno lui fait entendre qu'il a bien tort de se gâter
la joie présente par les soucis du lendemain.
Siegfried donne le signal de la continuation de la fête.

Le festin et les danses recommencent.
 4 《No.4.パドトロワ》
《No.4. Pas de trois》
. .
 5 《No.5.パドドゥ》
《No.5. Pas de deux》
<ワルツだが速くなく、
モデラートのようなテンポで>
Tempo di Valse ma non troppo, vivo,
quasi moderato.
.
.
 6 《No.6.パダクシオン》
《No.6. Pas d'action》
(酔った家庭教師が踊る。
彼の下手な踊りがみんなの笑いを呼ぶ。)
(Le gouverneur, devenu ivre, danse et excite
par sa maladresse la gaité de tout le monde.)

【43小節】
(家庭教師は廻る)
(Le gouverneur tourne)

【50小節】
そして、倒れる!)
(et tombe!)
神妙にしていたヴォルフガングも、
さらに杯を重ね、踊りに加わるが、
もちろんあまりにも滑稽に踊る
ので、みんなは腹を抱えて笑う。


踊り終えると、ヴォルフガングは村の娘たちを
口説き始めるが、娘たちは笑いながら
逃げ回る。彼は特にお気に入りの娘に、
恋心をうちあけキスしようとするが、
娘は巧みにそれをかわすので、
バレエではよくあるように、彼は間違えて
彼女の恋人にキスしてしまう。
あっけにとられるヴォルフガング。
並居る者たち一同の笑い。
へべれけに酔ったヴォルフガングが
踊りに加わってみんなの笑いの種をつくる。
Wolfgang, tout à fait gris, devient un sujet de risée
générale en prenant part aux danses.





 7 《No.7.シュジェ》
《No.7. Sujet》
(暗くなり始める。
客人の一人が、最後のダンスとして、
杯を手に持った踊りを提案する)
Il commence à faire sombre.
Un des invités propose de danser une
dernière danse les coupes à la main.
だが、夜の訪れはもうすぐ。あたりは
暗くなってくる。
客人の一人が杯を持った踊りを提案する。
.一同は喜んでこの提案を実行する。
<場面4>
<Scène IV.>
夕暮れが近づく。もう一度踊る。これが
最後であり別れの踊り。これで解散となる。
Le soir approche; encore une danse, la dernière,
celle des adieux et l'on se séparera.
 8 《No.8.杯の踊り》
《No.8. Danse des coupes》
<ポロネーズのテンポ>
杯を打ち当てる踊り。
Danse aux tintements du choc des verres.
 9 《No.9.フィナーレ》
《No.9. Finale》

シュジェ。
(空に一団の白鳥の群れが現れる。etc.)
SUJET. Dans l'air apparait une volée
de cygnes etc.

遠くの空に白鳥の群れが見える。
「でも、白鳥を見つけるのは難しいだろうなあ。」
と、ベンノは白鳥を指差しながら、
王子をそそのかす。
「そんなことは無い。きっと見つけてやる。
銃を取ってくれ。」と、王子は答える。
「そんなものはいらないでしょう。」
と、ヴォルフガングはいさめる。
「行ってはなりません。もうお休みになる
時間です。」王子は、なるほどもう寝る時間
だと納得した振りをする。
だが、老人が安心して立ち去るや否や、
召使いに銃を持ってこさせ、ベンノとともに
白鳥が飛んでいった方向へ、
急いで追いかけていく。
<場面5>
<Scène V.>
白鳥の群れが空を横切る。若者たちの気持ちは、
休もうなどという考えからはほど遠い。
白鳥の姿は、今日一日の最後を狩で終わらせようという
アイデアを彼らに思いつかせる。
ベンノは白鳥たちが夜にはどこへ飛んでいくかを
知っている。
酔いつぶれたヴォルフガングの姿を残して、
ジークフリートと友人たちは白鳥を探しに出かける。

Une bande de cygnes traverse le ciel.
Les jeunes jens sont loin de penser au repos.
La vue des cygnes leur suggère
l'idée de finir la journé par une chasse.
Benno connait l'endroit où les cygnes passent la nuit.
Laissant sur la scène Wolfgang ivre-mort,
Siegfried et ses amis partent à la recherche des cygnes.


[第2幕]


初版スコア1896年へのト書き(仏語・和訳)
赤字は全集版1957年の追加
初演台本1876年10月19日公表 初版(ユルゲンソン版)に掲載の
モデストによる台本(1896年)仏語及びその和訳
10 第2幕:
ACTE II:

《No.10.情景》
《No.10. Scène.》

【13小節】
(白鳥たちが湖の上を泳ぐ。)
(Les cygnes nagent sur le lac.)



<もともとは《間奏曲》《No.10. Entr'Acte.》
と題されていた。すなわち幕は下りており
白鳥が泳ぐ情景は後からの追加である。>
四方を森に囲まれた、山中の荒れ果てた場所。
舞台奥に湖があり、その岸辺、客席から
向かって右手に、廃墟のように半ば朽ち果てた
小さな礼拝堂風の建物がある。
夜。月明かり。


湖上には、雛鳥を連れて
白鳥たちの一群が泳いでいる。

群れは廃墟に向かう。
先頭には、冠をいただいた白鳥がいる。
第2幕:
ACTE II:

山々に囲まれ、舞台奥に湖。
右手、湖畔に聖堂の廃墟。
月明かり。
Endroit montagneux, au fond de la Scène-un lac.

A droits, sur le bord, les ruines d'une chapellle.
Clair de lune.

<場面1>
<Scène I.>

湖には一群の白鳥が泳いでいる。
Sur le lac passe à la nage une bande
de cygnes blancs,

先頭には、冠をいただいた白鳥がいる。
ayant à leur tête un des leurs,
portant une couronne.
11 《No.11.情景》
《No.11. Scène.》
(王子の登場)
(Sortie du prince)

【17小節】
(王子は1羽の白鳥を見つける)
(Le prince reconnait le cygne)

【22小節】
(王子は撃とうとする)
(le prince veut tirer)

【24小節】
(白鳥たちは消える)
(les cygnes disparaissent)

【42小節】
(オデットの出現)
(l'apparition d'Odette)

【48小節】
(若い娘は王子に言う。
「なぜ私を撃とうとするのですか?」etc.)
(la jeune fille dit au prince:
pourquoi me persécute tu? etc.)



舞台に、疲れ果てた、王子とベンノが登場する。
ベンノが言う。
「くたびれてもうこれ以上歩けない。休もうか?」
「そうだな。」と、王子は答える。
「城からずいぶん遠くまで来てしまったようだ。
ここで夜を明かす羽目になるかもしれないな。」
「おや。見ろよ!」と、王子は湖を指差す。

「あそこに白鳥がいる。
早く銃をくれ!」
ベンノは彼に銃を手渡す。

王子が狙いを定めるやいなや、
白鳥たちの姿が消える


そのとき、廃墟の内部がこの世のものとは
思えぬ不思議な光で照らされる。
「逃げられた!残念・・・でも、
見ろ、あれは何だ。」
王子はベンノに、光る廃墟を指差す。
「不思議だ。この場所は魔法にかけられて
いるのに違いない。」と、ベンノは驚く。
「行って調べてみよう。」王子は答えて、
廃墟に向かう。彼がそこに近づくと、
階段に、白い衣服を着て、
宝石をちりばめた冠をかぶった
娘が現れる。
娘は月光に照らされている。ジークフリート
とベンノは驚いて、廃墟から後ずさる。
娘は悲しそうに頭を振りながら、
王子に尋ねる。
「騎士さま、なぜ私を狙うのですか?

私があなたに何をしたというのですか。」
王子はしどろもどろに「私は思っても
みなかった・・・。まさか・・・。」と、答える。
娘は階段から降りて、静かに王子に歩み寄り、
彼の肩に手を置いて、
「あなたが殺そうとした白鳥は、
実は私だったのです。」と、責めるように言う。
「あなたが白鳥だって?!まさか!」
<場面2>
<Scène II.>
ベンノが王子の従者数人と現れる。
白鳥を見て、彼らは射ようとするが、
泳ぎ去って群れの最後尾も見えなくなる。
ベンノは仲間たちに白鳥が見つかった
ことを王子に知らせに行かせ、彼ひとりが残る。
白鳥たちは、美しい娘に変身し、ベンノを取り囲む。
ベンノは魔術的な出来事に驚き、
彼女たちの美しさになすすべをなくする。
仲間たちが戻り、王子があとに続く。
彼らの姿を見て、白鳥たちはたじろぐ。
若者たちは白鳥たちを射ようと構える。
王子もやって来て、矢を向ける。しかしこのとき、
廃墟が魔術的な光で輝き、オデットが現れ、
命乞いをする。

Entre Benno et quelques compagnons de
la suite du prince. Voyant les cygnes,
ils veulent tirer sur eux,
mais ces derniers s'éloignent en nageant.
Benno envoie ses compagnons prévenir le prince
qu'ils ont trouvé la trace des cygnes. Il reste seul.
Les cygnes, transformés en jeunes beautés,
entourent Benno, qui est émerveillé de cette
magique transformation et est sans force pour
lutter contre leurs enchantements.
Ses amis reviennent, le prince les suit.
A leur entrée les cygnes se retirent,
Les jeunes gens se mettent en mesure
de tirer sur eux.
Le prince entre et veut aussi leur décocher
une flêche,mais à  ce monent les ruins s'éclairent
d'une lueur magique et Odette apparait i
mplorant grâce.
【100小節】
(オデットの物語)
(recit d'Odette)
「いえ、そうなのです。聞いて下さい・・・。
私はオデットと申します。私の母は善良な妖精です。
彼女は父親の意思に反して、ある高貴な騎士を
心から熱烈に愛して
しまい、彼と結婚しました。
しかし、彼は彼女を破滅させてしまい、彼女は
死にました。私の父は別の女性と結婚し、
私のことを顧みなくなり
ました。私の継母は魔法使いで、私をひどく憎み、
ほとんど殺してしまうところでした。しかし、私の
おじいさんが私を引き取ってくれました。
おじいさんは母をとても愛していて、彼女のために
ひどく涙を流し、その涙でこの湖が出来たのです。
彼は湖の一番深いところに引きこもり、私を世間
から隠しました。最近では、彼は私を甘やかす
ようになって、完全に遊ぶ自由を与えてくれて
います。だから昼間は、私は友達と一緒に白鳥の
姿になって、胸で風を切って、殆ど天に届くまで高く
飛び、夜は、ここ、おじいさんのそばで遊び、
踊るのです。
でも、継母は今でも、私と私の友達までもそっと
してはくれません・・・・」この瞬間にふくろうの
鳴き声が響く。
「聴こえますか?」これが彼女の不吉な声です。
御覧なさい。あそこに彼女の姿が見えます!」と、
オデットは怖ろしげにあたりを見回しながら言う。
<場面3>
<Scène III.>
ジークフリートは彼女の美しさに衝撃を受け、
友人たちに射ないように命ずる。
彼女は彼に感謝し、
自分はオデットと名乗る王女であり、
彼女と彼女に仕える娘たちは、悪い妖精の魔法に
かけられた哀れな犠牲者であって、昼間は白鳥の姿
を強いられ、夜の間だけ、この廃墟のそばだけで、
人間の姿に戻ることが出来るのである、と語る。

Siegfried, frappé de sa beauté,
défend à ses amis de lancer
leurs flêches.

Elle lui exprime ses remerciements
et lui raconte qu'elle est princesse, son nom est
Odette et que les autres jeunes filles qui sont
sous sa dominations,sont comme elle,
les malheureuses victimes d'un méchant génie
qui les a ensorcelées et les a condamnées
pendant
le jour à prendre la forme de cygnes;
ce n'est que la nuit et près de ces ruines
qu'elles ont
le pouvoir de reprendre leurs
formes humaines.
【176小節】
(ふくろうの出現)
(l'apparition de l'hibou)










【223小節】
(オデット「もし私が結婚したら」etc.)
(Odette: Si je me marie etc.)
廃墟の上に、目から光を放つ巨大な
ふくろうが姿を現す
「彼女はもうずっと前に私を破滅させていた
はずですが、おじいさんが注意深く彼女のあと
を追いかけて、私を不幸にさせないのです。








もし私が結婚したら、
魔法使いは私に害を与える
ことが出来なくなりますが、それまでは
彼女の悪意から私を守ってくれるのは、
この冠だけなのです。以上で全てです。私の話は
長くはありません。」と、彼女は続ける。

「おお、美しい方、私を許してください。」
と、王子は跪きながら、あわてて言う。
ふくろうの姿をした悪い妖精は彼女たちを見張っている。
Le méchant génie sous la forme d'un hibout,
les surveille.


この恐ろしい魔法は、誰かが変わらぬ愛で彼女を
生涯愛してくれるときまで続く。
また、他の娘に愛を誓ったことの無い男だけが、
彼女の救済者となって、彼女をもとの姿に戻す
ことができる。
Ces effroyables enchantements doivent continuer
jusqu'a ceque quelqu'un aime Odette sans la trahir
et pour la vie et ce n'est qu'un homme n'ayant
jamais prononcé de serments d'amour à une autre
jeune fille qui peut devenir sonlibérateur
et lui rendre sa forme première.

ジークフリートは魅せられて、オデットの話を聴く。
Siegfried sous le charme, écoute Odette.

このとき、ふくろうが廃墟に飛んできて、そこで悪い
妖精の姿となって現れる。
彼は若い二人の会話をしっかり聴いてから、
引き上げる。
A ce moment le hibou vole vers les ruines,
où il apparait sous la forme du méchant génie.
Il se retire après avoir écouté la conversation
des jeunes gen
s.
12 《No.12.情景》
《No.12. Scène.》
(白鳥の一群の出現etc.)
(Apparait une volée de cygnes etc.)

【58小節】
(オデット「もういいからやめて。
彼は良い人です。」etc.)
(Odette:"Assez cessez, il est bon" etc.)

【64小節】
(王子は銃を投げ捨てる)
(le prince jette son fusil)

【82小節】
(オデット:「騎士さま、気をお楽に。」etc.)
(ODETTE:"Tranquillese toi, chevalier,"etc.)
廃墟の中から、白鳥の若い娘や子供たちが列を
成して走り出てくる。

皆が若い狩人に非難の目を向けながら、
彼が意味の無い遊びのために、自分たちにとって
誰よりも大切な人を殺しかけたと言う。
王子とその友人は絶望的な気持ちになる。



「もういいからやめて。見てご覧。
彼は良い人です。」と、オデットは言う。

王子は自分の銃を取って、
急いでそれを壊して投げ捨て

「誓います。これからは
どんな鳥にも私は手を上げません。」と、言う。
騎士さま、お気をお楽にしてください。
私たちは全てを忘れます。だから、私たちと
一緒に遊びましょう。」





ジークフリートは、オデットが白鳥の姿をしているときに
彼女を殺していたかも知れないとの考えで、
恐怖に捉えられる。
Siegfried est pris d'horreur à la pensée qu'il aurait
pu tuer Odette alors qu'elle avait la forme d'un cygne.


彼は彼の弓を壊し、怒りをもってそれを投げ捨てる。
Il casse son arc et le jutte avec dégout.

オデットは若い王子を慰める。
Odette console le jeune prince.

13 《No.13.白鳥たちの踊り》
《No.13. Danses des cygnes.》

I.
I.




II.(オデット・ソロ)
II. (Odette solo)




III.白鳥たちの踊り
III. Danses des cygnes




IV.
IV.




V.パダクシオン (オデットと王子)
V.Pas d'action (Odette et le prince)




VI.(全員の踊り)
VI. (TOUT LE MONDE DANSE)




VII.コーダ
VII. Coda



踊りが始まり、王子とベンノはそれに加わる。
白鳥たちは、美しい群れを成したり、
ひとり一人で踊ったりする。
王子は、いつもオデットのそばにいる。
踊りの間に、彼は夢中になってオデットに見ほれ、
彼女に自分の愛を断らないように懇願する。
(パダクシオン)




オデットは、笑って彼を信じない。
「冷淡で、残酷なオデット!
あなたは私を信じない。」




「高貴な騎士さま、私は信じるのが怖いのです。
あなたの考えがあなたを裏切ることになるのが
怖いのです。
明日、あなたのおかあさまの祝宴で、あなたは
多くの若く美しい娘に会い、別の娘を好きに
なって、私のことは忘れるでしょう。」




「おお、決してそのようなことはありません!
私の騎士としての名誉にかけて誓います!」




「しかし、聞いて下さい。あなたに隠しませんが、
私はあなたを気に入りました。
私もあなたを愛しています。
でも、怖ろしい予感が私を包んでいます。
悪魔の姦計があなたに何か試練を準備して
いて、私たちの幸福を壊すような気がします。」
「私は全世界に戦いを挑みます!
私は全生涯をかけて、あなたひとりだけを
愛します。
悪魔のどんな魔法も私の幸せを破ることは
ありません。」
「分かりました。明日には私たちの運命が
決まるでしょう。
あなたが二度と私に会うことがなくなるか
でなければ、私があなたの足下に冠を置くか、
どちらかになるでしょう。






<場面4>
<Scène IV.>
オデットは、友人たちをこぞって呼び寄せる。
彼女らは踊りを一所懸命踊ることによって
王子を楽しませようとする。
Odette appelle ses amies et ensemble, elles font
tout leur possible pour distraire le jeune prince
par leurs danses.

ジークフリートはますます王女オデットの美しさに魅惑
されて、彼女の救い手となることを申し出る。

彼はまだ誰とも愛を誓ったことが無いので、
彼女を大ふくろうの魔法から救う資格がある。
彼は大ふくろうを殺して、オデットを救うつもりである。
Siegfried de plus en plus sous le charme de la beauté
de la
princesse, lui offre d'être son sauveur.
Il n'a jamais fait d'amoureux serments à personne
et peut donc la délivrer des enchantements du hibou;
il le tuera, et délivrera Odette!

彼女はそれは不可能であると答える。悪い妖精の死は、
誰か無分別の人が、オデットへの愛のために
自分を犠牲にするときにしか、やってこない。
Celle ci lui répond que cela est impossible; la mort du
méchant génie ne peut arriver qu'au moment
même ou
quelqu'insensé sacrifierait sa vie
par amour pour elle.


ジークフリートにはその覚悟がある。彼は、オデットの
ためなら喜んで彼の命をささげるつもりだ。
Siegfried est prêt à cela; il donnera avec plaisir sa vie
pour Odette!

王女は彼の愛を信じ、彼がまだ他の娘に愛を誓ったこと
が無いことを信じる。しかし、明日には彼の母の宮廷に
大勢の若い娘たちが集まり、彼はその中から一人を妻
に選ばなければならないことを彼女は知っている。
La princesse croit à l'amour de Siegfried, elle croit
aussi qu'il n'a jamais juré sa foi à personne,
mais elle sait que le
lendemain à la cour de sa mère
se présentera toute une foule
de jeunes filles,
parmi lesquelles il doit en choisir une pour épouse.

ジークフリートは、彼女、つまりオデットが舞踏会に
現れたときだけ、婚約者を決めると答える。
不幸な娘は、そのときには白鳥の姿をして、
お城のそばを飛ぶことが出来るだけであるから、
それは不可能であると彼に言う。
王子は決して彼女を裏切らないと誓う。
オデットは、若者の愛に感動して、
彼の誓いを受け入れる。

しかし、悪い妖精が彼の誓いを別の娘に
向けるために、あらゆる手を使うであろうと、
彼に思いを込めて警告する。
Siegfried lui r
épond qu'il ne se déclarera fiancé
que si elle, Odette,
assiste à ce bal. La malheureuse
fille lui dit que cela est impossible, puisqu'à
l'heure du bal, elle aura la forme d'un
cygne et ne pourra que voler autour du château.
Le prince lui jure que jamais il ne la trahira.
Odette touch
ée de l'amour du jeune homme
recoit ses serments,
mais le met en garde,
en le prévenant que le méchant génie
fera tout, pour arriver à lui faire jurer son
amour à une autre jeune fille qu'a elle


ジークフリートは、どのような魔法も彼からオデットを
さらっていくことは出来ないと繰り返し約束する。
Siegfrid lui renouvelle la promesse qu'aucun
enchantement ne pourra l'enlever à elle.

14 《No.14.情景》
《No.14. Scène.》
(オデットと白鳥たちは廃墟の中に消える。
etc.)
(Odette et les cygnes disparaissent dans
les ruines etc.)



では、もう終わりにしましょう。
お別れの時間です。
朝焼けが始まっています。さようなら。
では明日!」



オデットとその友人たちは廃墟の中に身を隠し、
空には朝焼けが輝き、
湖には白鳥の群れが泳ぎだす。
その上を、重そうに翼を羽ばたかせながら、
大きなふくろうが飛んでいる。
<場面5>
<Scène V.>
日の出が始まる。
オデットは愛しい人に別れを告げ、友人たちを従えて、
廃墟に消える。
朝焼けの光がだんだん明るさを増す。
ふたたび、湖面に白鳥の泳ぐ姿が現れる。
白鳥たちの上には、翼を重たげに振っている大きな
ふくろうが見える。

L'aurore paraît.
Odette fait ses adieux à son bienaimé et suivie
de ses amies disparait dans les ruines.
Les clarités de l'aurore augmentent.
De nouveau,, la bande des cygnes aparait
nageant sur le lac.
Au dessus d'elle, un grand hibou, vole,
remuant lourdement les ailes.


[第3幕]


初版スコア1896年へのト書き(仏語・和訳)
赤字は全集版1957年の追加
初演台本1876年10月19日公表 初版(ユルゲンソン版)に掲載の
モデストによる台本(1896年)仏語及びその和訳
15 第3幕:
ACTE III:
《No.15》
《No.15.》
【17小節】幕が上がる。(Le redeau)
(老ヴォルフガングが召使
たちに指示を与えている。
招待者たちの入場)
(Le vieux Wolfgang donne des ordres
aux valets. L'entrée des invités)

【86小節】
(王子、女王、侍従、近習、
こびとの入場。etc.)
L'entrée du prince, de la princesse et
de leur suite, des pages, des nains etc.)
女王の城の豪華な広間。
老ヴォルフガングが召使たちに指示を
与えている。
式典長が客人たちを迎え、
案内している。

伝令官が姿を見せて、女王と若い王子
の到着を知らせ、二人が侍従、近習、
こびとたちを従えて入場する。

二人は、客人たちに愛想よく挨拶し、
自分たちに準備された高座につく。


第3幕:
ACTE III:
豪華に飾られた広間。
すっかり祝宴の準備が整っている。
Salle richement décorée.
Tout est préparé pur une fête.

<場面1>
<Scène I.>
ヴォルフガングが召使たちに最後の指示を
与えている。
式典長は、到着する招待者たちを出迎え、
案内する。
Wolfgang donne les derniers ordres aux
domestiques.
Le maître de cérémonies reçoit et place
les invitésqui arrivent.

侍従たちを先立てて、母である女王と
ジークフリートの入場。
Entrée de la princesse-mère et de Siegfried
précédés de leur suite.
16 《No.16.コールドバレエとこびとの踊り》
《No.16. Danses du corps de balllet et
des nains.》
(式典長は踊りの開始の合図をする。)
(Le maître des cérémonies donne
le signal de commencer les danses.)

【17小節】
バッラビーレ
(Ballabile)

【79小節】
トリオTrio
(こびとたち)が踊る
(Les nains)dansent)

式典長は、女王の合図を受けて
踊りの開始を命ずる。

客人たちは男も女もさまざまな
グループになり踊る。

こびとたちが踊る。
.
17 《No.17.情景》
招待者の登場とワルツ
《No.17. Scène.》
LA SORTIE DES INVITÉS ET LA VALSE.

(ラッパの音が新しい招待者の到着を告げる。
式典長は彼らを出迎え、
伝令官は彼らの名前を王子に知らせる。
老齢の伯爵が妻と娘を連れて入場する。
彼らは高貴な人たちに挨拶し、
娘は騎士の一人とワルツを踊る。)
(Le son du cor annonce l'arrivée de nouveaux
invités. Le maître des cérémonies va à leur
rencontre et le héraut annonce leurs noms
au prince. Entrent un vieux comte avec sa
femme et sa fille. Ils saluent les hôtes, et la
fille commence à valser avec l'un des
cavaliers.)

【69小節】
(再びラッパが鳴り、招待者が入場。
老人は席へ案内され、娘は騎士の一人に
いざなわれてワルツを踊る。)
(De nouveau le son du cor et l'entrée des
invités.On fait asseoir le vieux et la fille valse,
invitée par l'un des cavaliers.)

【120小節】
(もう一度同じ場面の繰り返し)
(De nouveau la méme scène.)


【148小節】
(全員が踊る。)
(Tout le monde danse.)

【184小節】
(コールドバレエがそっくり全員で踊る。)

(Le corps de ballet entier valse.)

ラッパの音が新しい招待者の到着を
告げる。式典長は彼らを出迎え、
伝令官は彼らの名前を女王に知らせる。
老齢の伯爵が妻と娘を連れて入場する。
彼らは高貴な人たちに挨拶し、
娘は女王に招かれて踊りに加わる。








再びラッパが鳴り、招待者が入場。
式典長と伝令官が、
もう一度自分たちの仕事を行なう。
老人たちを、式典長は、席へ案内し、
娘を、女王が踊りに誘う。






そのような入場が幾組か続く。
花嫁候補とその両親たちの行列。
全体の踊り。
花嫁候補たちのワルツ。

Cortège des fiancées et de leurs parents.
Danse générale.
Valse des fiancées.

18 《No.18情景》
《No.18. Scène.》
(女王は息子を脇によびよせ、
どの娘が彼に気に入ったかをたずねる。etc.)
(La princesse prend son fils àpart et demande
laquelle des jeunes filles lui a plu etc.)





【31小節】
(ロートバルト男爵とオディールの登場。)
(Sortie du baron Rotbart avec Odilie.)










【39小節】
(王子は、オディールがオデットに似ている
のに驚き、そのことをベンノに尋ねる。)
(Le prince, frappé par la ressemblance d'Odilie
avec Odette questionne ladessus Benno.)
女王は息子を脇によびよせ、
どの娘が彼に気に入ったかを
たずねる。

王子は悲しげに答える。
「おかあさま、今のところ、どの方も
私の気には入りません。」
女王は、いまいましげに肩をそびやかし
ヴォルフガングをそばに呼び寄せて、
怒りを込めて、息子の言葉を伝える。
家庭教師は、なんとか教え子を説得
しようとする。

ラッパが鳴って

フォン・ロートバルトが娘のオディール
を連れて広間に登場する。

王子はオディールを見て、
その美しさに打たれる。彼女の顔が、
彼に白鳥のオデットを思い起こさせる。


彼は、友人のベンノを呼び寄せて、
尋ねる。
「彼女はオデットにとてもよく似ている
と思わないか?」
「私の目にはあまり・・・・あなたは
ずっとオデットを見ていたでしょう。」
と、ベンノは答える。
<場面2>
<Scène II.>
母の女王は息子を脇によびよせ、
どの娘を彼がより気に入ったか、をたずねる。
ジークフリートは、全員が魅力的だが、彼が永遠の愛
を誓うことの出来る者は一人もいない、と答える。

La princesse-mère demande à son fils laquelles
des jeunes filles lui plait le mieux.

Siegfried répond qu'il les trouve toutes charmantes
mais que parmi elles il n'en voit aucune à laquelle
il pourrait jurer un éternel amour. 


<場面3>
<Scène III.>
ラッパが新しい招待者の到着を知らせる。
フォン・ロートバルトとその娘オディールが入場する。
ジークフリートはこの最後の候補者が
オデットに似ているのに驚き、喜んで彼女を歓迎する。

Les trompettes annoncent l'arrivée  
de nouveaux invités.
Von Rothbart entre avec sa fille Odile.
Siegfried est frappé de la ressemblance, de cette
dernière avec Odette.
il la complimente avec enthousiasme.

デットが白鳥の姿で窓辺に現れ、愛する人に
悪い妖精の魔術について警告したいと願う。

しかし、彼は新しい客の美しさに夢中になっていて、
彼女のほかには何も聞こえず、何も見えない。

Odette sous la forme d'un cygne apparait
à la fenêtre et veut mettre son bienaimé en garde
contre les enchantements du méchant génie;
mais lui, émerveillé de la beauté de la nouvelle
arrivée, n'entend rien et ne voit qu'elle.

再び踊りが始まる。
Les danses recommencent.
19 《No.19.パドシス
《No.19. Pas de six.)
(註)【ユルゲンソン版にはかっこはないが
【全集版】にはカッコが付けられている。
. .
20 《No.20.ハンガリーの踊りチャルダッシュ》
《No.20. Danse Hongroise. Czardas.》
. .
21 《No.21.スペインの踊り》(ボレロのテンポ)
《No.21. Danse Éspagnole.》(Tempo di bolero.)
. .
22 《No.22.ナポリの踊り》
《No.22. Danse Napolitaine.》
. .
23 《No.23.マズルカ》(ソリストとコールドバレエ)
《No.23. Mazurka.》(Solistes et corps de ballet.)
. .
24 《No.24.情景》
《No.14. Scène.》
(女王は、オディールが息子の気に入ったのに
喜んで、そのことについてヴォルフガング
に尋ねる。)
(La princesse se réjouit qu'Odilie a plu à son
fils et questionne la-dessus Wolfgang.)


【25小節】
(王子はオディールに、いっしょにワルツを
踊ってくれるよう誘う)
(Le prince invite Odilie à valser avec lui.)


【64小節】
(王子はオディールの手にキスをする。)
(Le prince baise la main à Odilie.)


【68小節】
(女王とロートバルトは、舞台の中央に出る。)
(Le princesse et Rotbart s'avancent vers
le milieu de la scène.)

【75小節】
(女王は言う。「オディールは王子の婚約者
にならなければならない。」)
(La princesse dit qu'Odilie doit devenir
la fiancée du prince.)

【80小節】
(ロートバルトは、厳粛に娘の手を取り、
王子に引き渡す。)
(Rotbart prend solennellement la main de
sa fille et la passe au prince.)


【101小節】
(舞台は突然暗くなる。etc.)
(La scène devient momentalement
sombre etc.)
王子はしばらくオディールの踊りに
見惚れたあと、自分も踊りに加わる。

女王はとても喜んで、ヴォルフガングを
呼び寄せ、「このお客が息子の気に
入った様だが?」と伝える。

「そのようです。少しお待ちください。
王子さまは石ではありません。
彼はすぐに
身も心もなく惚れ込んでしまいますよ。」
と、ヴォルフガングは答える。

その間も踊りは続いている。その中で、
王子はオディールがとても気に入った
素振りを見せ、オディールは魅力的に
彼の気を引く様子をする。


王子は夢中になって、
オディールの手にキスする。

女王とロートバルトは、
自分の席を立って踊っている人々
の中央に出る。

「息子よ。手にキスするのは婚約者に
対してだけです。」
と、女王は言う。
「お母さま、わたしはそのつもりです!」
「彼女のお父さまが何と言われるか?」
と、女王は言う。


ロートバルトは、厳粛に娘の手を取り、
王子に引き渡す。

舞台は突然暗くなる。
ふくろうの叫び声が聞こえて、
ロートバルトの体から
衣服が落ち、悪魔の姿に変わる。
オディールは大声で笑う。

窓が音を立てて開き、そこに頭に冠
を頂いた白鳥の姿が見える。
王子は驚いて、自分の新しい婚約者
の手を振り捨て、胸をかきむしり
ながら、城から走り出ていく。
<場面4>
<Scène IV.>
ジークフリートの選択が行なわれる。
オディールとオデットが同一人物であると確信して、
彼は彼女を自分の婚約者に選ぶ。
Le choix de Siegfried est fait;
persuadé qu'Odile et Odette sont une seule et
même personne, il la choisit comme fiancée.

フォン・ロートバルトは勝ち誇って、
自分の娘の手をとり、それを若い王子に手渡す。
彼は、会衆全員の前で、永遠の愛の誓いを口にする。
Von Rothbart prend d'un air triomphant la main
de safille, et la donne au jeune prince
qui devant toute l'assembl
ée lui prête un serment
d'amour éternel.


その瞬間に真っ暗になり、野卑な笑い声が聞こえる。
オディールはふくろうに姿を変えて、
叫び声をあげて窓の方へ飛んでいく。

A ce moment tout est plongé dans l'obscurité.
Un sauvage éclat de rire résonne.
Odile se transforme en hibou qui jetant un cri
s'envle par la fenêtre.

その窓に、絶望して両手をよじり上げる
オデットの姿が見える。皆が驚愕している。

Odette y apparait se tordant les mains
d
e désespoir.
Tout le monde est terrifié.

狂乱した王子は、オデットを見ながら、
彼が策略の犠牲者であることを理解する。
絶望的衝撃を受けた王子は走り去る。

Le prince affolé, voyant Odette, comprend
qu'il a é
la victime d'une supercherie
et dans un
élan de désespoir, il s'enfuit.

大混乱。
Consternation Générale.


[第4幕]


初版スコア1896年へのト書き(仏語・和訳)
赤字は全集版1957年の追加
初演台本1876年10月19日公表 初版(ユルゲンソン版)に掲載の
モデストによる台本(1896年)仏語及びその和訳
25 第4幕:
ACTE IV:
《No.25.間奏曲》
《No.25. Entr'Acte.》
. .第4幕:
ACTE IV:
26 《No.26.情景》
《No.26. Scùne.》

【13小節】
(幕が上がる)
(Le rideau)
(オデットの友人たちは、オデットがどこへ
行ってしまったのか分からない。)
(Les amies d'Odette ne peuvent pas
comprendre où elle a disparu.)
第2幕と同じ装置。
夜。

オデットの友人たちが彼女の帰りを待っている。

彼女らの幾人かは、オデットがどこへ
行ってしまったのか、不審に思っている。
彼女がいないので、みんなが悲しい。
白鳥の湖のそばの、人気の無い場所。
奥に、魔法にかけられた聖堂の廃墟。
湖の岸は崖になっている。
夜。

Endroit désert près du lac des cygnes.
Au fond les ruines de la chapelle enchantée
Rochers au bord du Lac.
La nuit.


<場面1>
<Scène I.>
娘の姿をした白鳥たちが、愛する女王
オデットの帰りをどきどきしながら待っている。
Les cygnes sous la forme de jeunes filles
attendent avec agitation le retour de leur

bienaimée souveraine Odette.

27 《No.27.小さな白鳥たちの踊り》
《No.27. Danses des petits cygnes.》
(白鳥の娘たちが、子供たちに踊りを
教えている)
(Les cygnes-jeunes-filles enseignent
la danse aux petits cygnes.)
彼女らは、自ら気を紛らわせようとして、
自分たちでも踊り、
若い白鳥たちにも踊らせている。
不安を鎮め、寂しさを紛らわせるため、
彼女らは踊って気晴らししようとしている。
Pour diminuer la longueur du temps et calmer
leur inquiètude, elles essayent de se distraire
par des danses.
28 《No.28.情景》
《No.28. Scène.》
(オデットが走ってきて、友人たちに悲しい
結果を知らせる。)
(Odette entre en courant et fait part
à ses amies de son chagrin.)




【33小節】
(「ほら、ご覧。彼がやって来る。」
友人たちがオデットに言う。etc.)
(Le voila qui vient, disent à Odette
ses amies etc.)




【52小節】
(場面は暗くなり、嵐が始まり、
雷鳴がとどろく。)
(La scène devient sombre, une tempête
commence, le tonnère se fait entendre.)
しかしそのとき、オデットが舞台に走りこんで来る。
彼女の髪の毛は冠の下から肩へ乱れて広がり、
彼女は泣いて絶望している。友人たちが彼女を
取り囲み、何があったのか尋ねている。

「彼は誓いを守りませんでした。彼は試練を
乗り越えることが出来なかったのです!」
と、オデットは言う。
友人たちは怒って、彼女にもうこれ以上
裏切り者のことは考えないようにとなだめている。
「でも、私は彼を愛しています!」と、
オデットは悲しげに言う。
「可哀想な人、可哀想な人!
早く飛んでいきましょう。
ほら、彼が来ます。」
「彼が?!」と、オデットは驚いて言い、廃墟に
向かって走る。しかし立ち止まって
「私は最後にもう一度彼に会いたい。」と言う。
「でも、それでは自分を破滅させてしまいます!」
「おお、いいえ!私は用心します。姉妹たちよ、
あちらへ行って、私を待ってください。」

みんなが廃墟に消える。
雷が聞こえる・・・・
最初は途切れ途切れの雷鳴であるが、まもなく
どんどん近づいてくる。
舞台は押し寄せてきた黒雲で暗くなり、
そこに稲光がきらめく。湖が波立ち始める。
<場面2>
<Scène II.>
オデットが走りこんでくる。白鳥たちは喜んで彼女を
迎えるが、ジークフリートの不本意な裏切りを知って、
絶望にとらわれる。

Odette accourt, les cygnes vont joyeusememt
à sa rencontre, mais le déséspoir s'empare d'eux
en apprenant l'involontaire trahison de Siegfried.


全ては終わった。
悪い妖精は勝利し、哀れなオデットに救いは無い。
彼女は、悪い妖精の邪悪な束縛に常に
耐え忍ばなければならないという行く末を自覚した。
Tout est fini;
le méchant génie a triomphé et pour la pauvre
Odette il n'y a plus de salut.
Elle se voit condamnée à toujours subir
l'odieux esclavagedu méchant génie.

ジークフリートなしに生きるよりも、まだ娘の姿を
しているうちに、湖の波の中で死んだ方が
ましである。彼女は皆に別れを告げる。
Pendant qu'elle est encore sous sa forme
de jeune fille,il vaut mieux mourir dans
les eaux du lac que de vivresans Siegfried.
Elle fait ses adieux à ses amies.

嵐が始まり、

彼女らの支配者が近づいていることを知らせる。

Un commencement de tempête
annonce l'approche de leur maître.
29 《No.29.最後の情景》
《No.29. Scène finale.》
(王子が走って入ってくる。)
(Le prince entre en courant.)

【27小節】
(「おお、私を許して。」王子は言う。etc.
最後の場面。)
(Oh, pardonne moi, dit le prince etc.
La dernière scène.)




【89小節】
(オデットは王子の腕に倒れる)
(Odette tombe les bras du prince)




【191小節】
(湖面に白鳥たちが現れる。)
(Apparition des cygnes au dessus du lac.)

<もし機械仕掛けの白鳥の操作に時間が
不足する場合はセーニョとセーニョの間
【189〜212小節】を繰り返しても良い。>
(Si le machiniste n'aura pas assez de temps,
on peut répéter 24 mesures du
§ jusqu'au §).
舞台に、王子が走って入ってくる。

「オデット・・・ ここにいたのか!」と、
彼は言って、彼女のそばに走り寄る。

愛しいオデットよ、どうか私を許してください!」
「私の力ではあなたを許すことは出来ません。
全てが終わりました。お会いするのは
これが最後です!」

王子は激しく彼女に懇願するが、オデットは
毅然としている。
彼女はこわごわと波立つ湖を見渡し、
王子の腕を振り解いて、廃墟へと走る。
王子は彼女に追いついて、その手をつかんで、
絶望して言う。「そんなことはない、いやだ!
おまえが望もうと望むまいと、
おまえは永遠に私と一緒だ!」

彼は急いで彼女の頭から冠をとり、もう岸から
溢れ出ようとして荒れ狂う湖へ、
それを投げ捨てる。
頭上のふくろうが、王子の投げ捨てた
オデットの冠を爪で掴んで、
叫び声をあげて飛びすぎる。
「なんということを、なさるのですか!
あなたはご自分も、私も破滅させてしまいました。
私は死んでいきます。」
と言って、
オデットは王子の腕の中に倒れる。

雷鳴のとどろきと波の騒音を通して、
白鳥の悲しい最後の歌が聞こえる。
波が次々と王子とオデットに押し寄せて
やがて彼らは水の中に隠れる。
雷雨が静まり、遠くにだんだんと弱まる雷鳴の
とどろきが聞こえる。

月が散り行く雲間からその青白い光をし込み、
静まっていく


湖に白鳥たちの群れが姿を現す。
<場面3>
<Scène III.>
オデットは崖の上から湖へ身を投げようとしている。
そのとき、ジークフリートが現れる。彼は許しを乞う。
オデットは彼に最後の別れを告げずには、
命を捨てることが出来ない。彼女は彼を許す。
Odette est prête à se jeter du haut d'un rocher
dans le lac,
quand Siegfried apparait;
il implore son pardon.
Odette ne se sent pas
la force de mourir sans lui dire un dernier adieu;
elle le pardonne, mais que peut faire ce pardon:

しかし、悪い妖精は彼女に一人で生きるよう
宣告して勝ち誇り、彼女は死を選ぼうとしている
のであるから、この許しは無意味である。
ジークフリートは別れに耐えることが出来ない。
彼もまた、オデットへの愛のために死に、
悪い妖精に復讐して、彼を破滅させようとしている。
オデットは、最後にジークフリートを抱きしめ、
湖に身を投げる。
le triomphe du méchant génie la condamnant
à vivre sans lui,elle préfère mourir.
Siegfried ne supportera pas cette affreuse
séparation et lui aussi mourrera et comme
il mourrera par amour pour Odette,
il se vengera du méchant génie en devenant
par la, la cause de sa mort.
Odette embarasse Siegfried une dernière fois
et se précipite dans le lac.


<場面4>
<Scène IV.>
大ふくろうの姿をした悪い妖精が飛んでくる。
ジークフリートは自らを刺し、大ふくろうは死んで
落下する。
湖が消えてなくなる。
Le hibou arrive en volant.
Siegfried se poignarde et le hibou tombe
mort à terre.
Le lac disparait.


<アポテオーズ>
<Apothéose.>
水底の世界である。
ニンフや水の精たちがオデットと
その愛する人を出迎え、
彼らを永遠の幸福と法悦の聖堂へと導く。
Le royaume de la mer...
Des nymphes, des naïades accueillent Odette
et son bienaimé et les enlèvent au temple
du boneur éternel!
【註】<場面3>
ジークフリートが走り込んでくる。
彼はオデットの足下にひれ伏して、不本意にも
彼女を裏切ってしまった許しを乞おうとして、
彼女を探している。彼は彼女一人を愛していて、
オディールに誓いを立てたのは、
彼女をオデットだと思ったからである。
オデットは愛する人の姿を見て自分の苦しみ
を忘れ、会えた喜びに浸る。

<場面4>
悪魔が現れ、束の間の喜びを遮る。
ジークフリートは誓いを守り、
オディールと結婚しなくてはならないし、
オデットは夜明けとともに、永遠に白鳥に姿を
変えなくてはならない。
時間があるうちに、死んだ方がましである。
ジークフリートは彼女とともに死ぬことを誓う。
悪魔はおそれて姿を消す。
オデットへの愛のために死なれると、
彼は破滅してしまうのである。不幸な娘は
ジークフリートを最後に抱きしめてから、
崖の高みから身を投げようと、
崖へ向かって走る。悪魔は彼女の上で、
大フクロウの姿で羽を広げて
飛びながら、彼女を白鳥に戻そうとしている。
ジークフリートは急いで彼女を助けに走り、
彼女とともに湖に身を投げる。
大フクロウは死んで落下する。

<アポテオーズ>
・・・・・・

【註】森田p270〜271に述べられているモデスト作の台本の改訂版の最終部分。蘇演の時にプログラムとして出版されたものと言われている。アポテオーズには題だけあって本文は無い。茶色で表示。




【@スコアのト書きの問題点】
自筆譜へのト書きなどの書き込みがチャイコフスキーの意図した物語に最も近いのは疑いの無いところだ。2つの出版譜、【初版=ユルゲンソン版】(1896年)および【全集版】(1957年)は、ほぼ忠実に自筆譜を反映しているので2つの版には本質的な違いは無い。存在するのは僅かな誤植と死後の追加と見られる加筆だけである。それらは個別のナンバーの中で解説される。
ここでは、手短に4つの問題点を指摘しておこう。

第一に、【ユルゲンソン版】と【全集版】では一部内容が違うこと。すなわち、【ユルゲンソン版】にない書き込みが【全集版】には少なからず存在することである(表では、それらを赤字で示した)。これらは全て 【ユルゲンソン版】の不注意による欠落だろうか?もちろん、一部はユルゲンソン版の見落としと見なせるが、全てがそうであるとは全く思えない。たとえば《No.13 白鳥たちの踊り》の各曲に付けられた踊り手の指定(II.(オデット・ソロ)、III.白鳥たちの踊り、V.パダクシオン (オデットと王子)、VI.(全員の踊り))は【ユルゲンソン版】には全て欠落している。こんな重大で連発するミスは普通常識では有り得ないことから考えて、これらの 【全集版】での表記は、チャイコフスキーが書いたものではなく(すなわち【ユルゲンソン版】出版の時点では存在せず)、彼の死後誰かが追加書き込みしたものが 【全集版】に反映していると考える方が自然ではないだろうか。とにかく、チャイコフスキーが作曲途上で書きこんだものと、その後のチャイコフスキー自身または他人が書き込んだものとは厳密に区別されなければならないが、現行の2つの版だけでは判断できないのである。もちろんそういったことを解説したものは皆無であり、【全集版】の注解はロシア語でありかつまた不十分であるので、さらなる精密な自筆譜の研究が待たれるところである。

第二に、2つの台本に比べて極端に情報量が少ないということ。ト書きの大部分は、長い文章の初めの部分だけが書かれていて、肝心なところがetc.と記され省略されてしまっていることである。etc.以下を安易に初演時の台本やモデストの台本で補填してよいものかどうかということは熟考を要する。というのは、面倒くさいから、あるいはスペースがないからという単純な理由ではなく、初演の台本と趣旨が違うのでチャイコフスキーは争いを避けるため、あえて書かなかったのでは?という可能性を完全には否定することは出来ないからである。

第三に、《No.4 パドトロワ》《No.5. パドドゥ》《No.19 パドシス》のようなチクルスのダンスには全くト書きが書かれていないことである。《No.13 白鳥たちの踊り》にも殆ど無い。もちろん、諸国の踊りやワルツのようなディヴェルティスマンやコールドバレエのような純粋な踊りに対しては筋書きは不要だが、これらのチクルスのパは音楽を聴くに付け、何らかの物語がその音楽の中で表現されていると思わざるを得ない。いわばパダクシオン的要素が強いのだ。それらの中に物語的説明が欠落してることがこのバレエのドラマを分かりにくくしてる最大の原因だろう。表面上のディヴェルティスマンの体裁にかこつけて、チャイコフスキーはト書きを省略してしまったのは、どちらの場合も彼が頭の中で描いた物語と台本の物語が一致しないことによる混乱を避けたからではないだろうか。第二、第三の仮説は非常に奇妙なもののように思えるが、チャイコフスキーは、何らかの理由で、自筆稿上での物語に関する自己主張を避ける必要を感じたのかもしれない。これは音楽を聴くにつけ痛切に感じることである。

第四に、各ナンバーのうち、題名を変更したものが存在するらしいこと。《No.10情景》は当初《 Entr'Acte=間奏曲》と名づけられていたが《情景》に変えられたらしい。スコア上での痕跡はないが全集版の脚注に記されている。《No.10》と《No.14》は全く同じ音楽で、第2幕を包む枠構造を示しているが、幕の前後で白鳥の模型を見せるシーンが必要となったので、変更されたものと見られる。また《No.19(パドシス)》はユルゲンソン版では何の注記もなく《パドシス》となっているのだが、全集版では《(パドシス)》とカッコつきで表示されている。こちらは何か、いわくがありそうだが詳細は不明。もともとは別の標題があったのか、あるいは《No.15》のように標題が欠落していたかとも推定される。いずれも自筆譜を確認して、確かなところが示される必要があるように思われる。 

【A初演台本の問題点】

初演時に公開された台本(1876年10月19日付の「演劇新聞」で発表、1877年2月20日のモスクワ初演時に使用)
この台本を誰が書いたかのについては、はっきりしたことは分からないが、バレエの作曲をチャイコフスキーに依頼したモスクワの劇場管理部長であったウラディーミル・ベギチェフ(1828〜91)が、作曲者と意見を交換しながら作成したものであると推測されている。もちろん彼一人で作り上げたのではなく、当初振り付けを担当したヴァシリー・ゲルツァーも、振り付け者としての立場から制作に関与したと言われている。また、1877年2月20日の初演以降の公演のために新聞発表と同じものが1200部発行された。ただ、大きな問題はこの台本の原作が何であるかという点であろう。《眠れる森の美女》や《くるみ割り人形》では、はっきりした原作が存在し、それに基づいて原台本が構想され、そこからプティパが詳細な作曲指示書を書き留めた。チャイコフスキーはこの指示書に忠実に作曲したわけだが、それでもスコア、台本、実際の初演の状態はそれぞれ微妙に食い違っている。振付段階でいろいろと問題が生じたからだろう。《白鳥の湖》では原作そのものが知られていない、あるいは存在しない。民話を基にした子供のための絵本などからチャイコフスキー自身が着想を得たという説が有力ではあるが、それは推測の域を出ない。そのような状態で始まった制作の過程では、スコア、台本、実際の初演の状態がバラバラなのは当然の結果である。

ここでは直接初演台本の原本にあたることは出来なかったので、3種の和訳を参考として作成した。
(A)《白鳥の湖の美学》小倉重夫著、春秋社、1968年、P24〜33
(B)《チャイコフスキーのバレエ音楽》小倉重夫著、共同通信社、1989年、P24〜39
(C)《永遠の「白鳥の湖」》森田稔著、新書館、1999年、P289〜300

この3種の訳は、もちろん同じ原文からの翻訳であることは明らかだが、細部では様々な違いが生じている。特に小倉氏の2つの訳は(A)を土台にして(B)を補正して作成したものではなく、全く新しく訳し直した観がある。一例を見てみよう。
オディールがオデットに似ていることに驚いたジークフリートが訊ねたベンノの答え:
(A):「さて、私はオデットを知りません。貴方はオデットにどこでお会いになったのですか」とベンノは答える。
(B):「私の見るところでは全然・・・。貴方は誰を見てもオデッタを思い出してしまうのですよ!」。
(C):「私の目には、あまり・・・ あなたはずっとオデットをみていたでしょう」とベンノは答える。
この3つの文の違いは、同じ原本からの訳し方の相違に起因するなどとは到底思えない。特に小倉氏の2つの訳:(A)では、この台本の筋書きでは第2幕でベンノはずっと王子と一緒にいるので、見当違いな回答になっているし、(B)では、他の候補者も皆オディールに見えるように解釈できるのでベンノの回答としては不適当だ。なぜこのような大きな違いが生じてしまったのだろうか? 私の推測では、小倉氏の訳は、彼が持っている《白鳥の湖》の物語に対する私的なイメージの方に引っ張られて直訳しなかったのか、あるいは両訳とも執筆当時の、とあるバレエ制作現場での演出を優先して直訳しなかったのかのどちらかでは無かっただろうか。したがって、表内の記述はほぼ森田氏の訳に従っている。



【Bモデストの台本の問題点】

プティパは、チャイコフスキーの生前から、《白鳥の湖》を改訂してサンクト・ペテルブルクで再演することを目指していた。そのための台本の改訂はチャイコフスキーの弟モデスト・チャイコフスキーに依頼された。モデストは脚本作成の実績もあるし、以前に《白鳥の湖》にかかわったことがあるからであろう。この改訂台本の着手が、チャイコフスキーの生前なのか死後の事であるのかは不明だが、2種の形態で現在に伝わっているようだ。1つは1894年9月26日付で劇場管理委員会に提出された手書きの台本で、1895年1月15日にサンクト・ペテルブルクで行なわれた改訂初演のときに出版されたものであり、もう1つは1895年10月4日付検閲通過、翌1896年に出版された【ユルゲンソン版】に露仏対訳で掲載されたものである(上表の拙訳)。両者の物語はほぼ同一であり(違いは訳し方の相違による)、わずかに第3幕の最後と第4幕に省略と変更がみられるだけだが、枠組みとして大きく相違するのは、改訂初演時に出版されたものは3幕4場(第1幕と第2幕を合わせて、それぞれ第1幕第1場、第1幕第2場としたため)に変えられているのに対して、【ユルゲンソン版】では4幕のままであるということである。スコアの出版時、すでに変更されていた台本をなぜ元に戻したのだろうか?もっともはっきりした理由は、チャイコフスキー自身のスコアが4幕であったからそれに合わそうとしたからであろうが、モデストやユルゲンソンがプティパの行きすぎた改訂を快く思っていなかったという推測も成り立つのではないだろうか。さらには、スコア自体が1876年のままであることから、本来は初演の台本が用いられてしかるべきなのに、あえてモデストの台本を採用したのは、初演の台本にはベギチェフやゲルツァーのアイデアが多く紛れ込んだものであって、すでにチャイコフスキーの音楽とはかけ離れたものになってしまっていたからと考えることも出来るのではないだろうか。

モデストの台本では、各幕がいくつかの<場面>(Scène)で分けられているが、これはチャイコフスキーがかなりのナンバーに表題として用いた《情景》(Scène)と同じ言葉である。それを私があえて訳語を変えて表示したのは、その付け方の方法と意図が全く異なるからである。小倉氏の訳はかなり自由な意訳が含まれるが、森田氏の訳はスコアのロシア語編に忠実である。私の訳は、出来るだけスコアのフランス語編に忠実になるよう心がけて訳出した。なぜならフランス語の方がロシア語より、より正しい意図で書かれているように思えるからである。四者の違いを一例としてあげておこう。
(第4幕の<場面1>から)
<フランス語>Les cygnes sous la forme de jeunes filles attendent avec agitation le retour de leur bienaimée souveraine Odette. Pour diminuer la longueur du temps et calmer leur inquiètude, elles essayent de se distraire par des danses.
拙訳:娘の姿をした白鳥たちが、愛する女王オデットの帰りをいらいらしながら待っている。不安を鎮め、寂しさを紛らわせるため、彼女らは踊って気晴らししようとしている。
<ロシア語>森田氏訳:娘の姿をした白鳥たちがオデットの帰りを待っている。不安と寂しさを紛らわせるために、彼女らは踊って気晴らしをしようとしている。
小倉氏訳:白鳥の娘たちがオデットの帰りを不安げに待ち、やがて、彼らは踊りの中に気晴らしを求める。

《白鳥の湖》を有名にしたのはプティパ・イワノフ版である。プティパは、この作品を高く評価しており、モスクワで上演が中断してしまった《白鳥の湖》の再演を目指した。そのため、自分のバレエの構想に合うようにチャイコフスキーに改作を促したのである。チャイコフスキーは表向き改作に同意したものの改作は行なわれなかった。自分の作品に自信があったからではなかろうか。プティパがどんなものをチャイコフスキーに要求したかは、実際にプティパ・イワノフ版の舞台を観てみれば解る。ここでは、チャイコフスキーが直接関与せず(あるいは内心拒否したとみられる)、プティパと音楽を担当したドリゴによって作られたプティパ・イワノフ版については詮索せず、チャイコフスキーが直接たずさわったと見られる1877年モスクワの初演版の方に焦点を絞って検討してみよう。





4.初演と追加曲

初演版は、当初ワシリー・ゲルツェルが制作(台本作成や振付)を手掛けたが、彼は振付途上で病に倒れ、オーストリア人のユリウス(ヴェンツェル)・ライジンガー(1827〜92)が引き継いだといわれている。初演版興行は1877年2月20日から2回の振り付け変更やバレエマスターの変更をしながら1883年1月2日の最後の上演まで、約6年間で41回(数え方により32回、39回という説もある)も上演されているのである。そして上演が打ち切られた理由は、度重なる上演により装置や衣装が摩耗してしまったということと、当時の監督官フセヴォロジュスキーのサンクト・ペテルブルク重視の政策により経費が削減されダンサーが半減したため上演不能になったことによる(【森田】p131&p138)とある。初演がどのような形で上演されたかについての詳細の振り付け資料等は全く残されていないので、いくつかの周辺資料から推測するほかはない。その資料は5つ残されている。

(1)チャイコフスキーのスコア(序奏と29曲の音楽)
(2)初演にあたっての追加曲《ロシアの踊り》と《パドドゥ》?
(3)初演の台本
(4)初演の舞台の版画
(5)初演のポスター

(1)「チャイコフスキーのスコア」は、どの程度初演に生かされたかは全く分からない。一説によると、3分の1程度は削除や他の作品と置き換えられたようだ。
(2)《ロシアの踊り》は確かに初演に使われたが、全集版付録の《パドドゥ》の音楽の方は、ソベシチャンスカヤの4回目の上演の時のパドドゥの音楽がこの《パドドゥ》と同一なのかどうかは定かではない。
(3)「初演台本」は1876年10月19日付の「演劇新聞」に発表されたものなので、1877年2月20日のモスクワ初演までに4カ月ほどの期間が存在している。監督官から振付家、ダンサーに至るまで統制のとれたマリインスキーでさえ、《眠れる森の美女》の台本と実際の初演では相当の食い違いが生じているくらいであるから、この《白鳥の湖》の場合も初演までに実際の練習のなかで相当の変更・修正がなされたことは想像に難くない。
(4)数枚残されている「初演の舞台の版画」は現代の舞台の写真のようなものではない。舞台の印象を描いたものか、舞台制作のためのイメージスケッチのようなものを版画化したものだ。したがって、これを厳密に複写する必要はないと思う。少なくともここには踊れるような床はない。
(5)「初演ポスター」には、上演の日時場所、主演カルパコワIの慈善公演であること、デコールの担当者すなわち裏方名、ヴァイオリンのソリスト名などとともに、特に重要なのは、出演者名と舞踊単位ごとのダンサー名が一覧として記載されていることである。現代のバレエ公演でもプログラムとは別に、当日実際に出演するダンサー名簿が配布されるが、ポスターのダンサー名の表示はこれに近い性格のものではないだろうか。そうであるとすれば、ここに記載されている舞踊単位、ダンサー数、ダンサー名は相当信頼のおける情報が網羅されていると考えて差し支えないと思われる。なぜなら、ファンが花束などの贈り物する時の拠り所として杜撰なものならきついクレームが来るだろうからである。であるとしたら、もし初演台本と、このポスターとの間で不整合が生じた場合は、台本の方を優先すべきではなく、ポスターに従うべきであろう。したがって、『初演版復元』を標榜するプロダクションが存在するとしたら、それは少なくとも「初演ポスター」との齟齬のないものであるべきだ。それゆえ、ここではほぼ確定している「初演ポスター」を中心に話を進めて行くことになる。しかし、当時のバレエはダンスとマイムが完全に分離しており、ポスターではマイム部分が全く分からないのは致し方ないことである。

【《ロシアの踊り》】
物語が公表された当初から、話がロシアを舞台にしているのではなく、ドイツの民話風になっていたので、あまり風評が芳しくなかったのだが、特に諸国の踊りの中にスペインやイタリア、ポーランド、ハンガリーの踊りがあるのに、ロシアの踊りが無いということが槍玉に挙げられ、愛国心というようなからめ手からチャイコフスキーにせまり、《ロシアの踊り》という番外曲を作らせてしまった。これはヴァイオリン独奏主体のたいへん素晴らしい曲で、ヴァイオリン協奏曲の中間楽章にしてもおかしくないくらいの出来栄えである。そのスコアには『ロシアの民族衣装を着た女性第一舞踊手が踊る』と明記されており、初演ではオデット・オディールを踊ったカルパコヴァIがこれを踊ったことが上記の初演ポスターにも明記されている。
曲は、イ短調2/4で、ゆっくりした踊りと動きの激しい踊りの2つの部分に分かれる舞踊曲にはよくあるスタイルを採っている。総奏の一撃の後、独奏ヴァイオリンが華やかなパッセージをモデラートで演奏し、それがトリルに変わったところでリズミックな弦楽の伴奏が付く。すぐに独奏ヴァイオリンのカデンツァが続く。このカデンツァの終わりの方で、『ロシアの衣装を着た女性第1舞踊手(La première danseuse)』が登場する。これがプリマ(女性主役)のことを限定的に意味するのかどうかは私は知らないが、多分オディール役のことを指しているのであろう。テンポはアンダンテ・シンプリーチェに変わり独奏ヴァイオリンがチャイコフスキーらしい憂いに満ちた主題を演奏し、この女性が踊り始める。主題はソロ以外にも現れ、独奏ヴァイオリンは技巧的に変奏する。突然テンポがアレグロ・ヴィヴォになり、オーケストラが荒々しく咆哮する。最後にテンポは更に速くプレストになり、主題が極端な速いテンポで奏され熱狂的に終わる。

この曲のヴァイオリンのカデンツァに続くゆったりした主要主題は、ユルゲンソン版では「アンダンテ・シンプリーチェ」(Andante simplice)とテンポ指定されており、全集版はそれを踏襲しているが、もともと自筆譜では「アレグレット・シンプリーチェ」(Allegretto simplice)であったと欄外に注記されたている。振付の段階でアレグレットでは速すぎるとのクレームが出て変更されたのだろう。したがって、演奏のみの場合はアレグレットの方が望ましいように思われる。


なお、参考資料(C)の森田本巻末xiiページに次のような記載がある。
【バレエ・マスター、レイジンゲルの要請に応じてチャイコーフスキイが作曲して、初演時に踊られた。しかし、作曲した時には、すでにピアノ・スコアは出版されていたので、そこには入らなかった。オーケストラ・スコアは残っていないので、全集出版時にシェバリーンが管弦楽配置した。】
この補足の前段は良いとして、後段のオーケストラ・スコアの記述は誤りである。《ロシアの踊り》は、すでに1896年に出版されたユルゲンソン版に巻末の付録として含まれており、それを復刻したブロード版にも印刷されている。したがって、1957年の全集版は自筆譜とユルゲンソン版を参照して作られている。

【<ソベシチャンスカヤのパドドゥ>】
由来の怪しいソベシチャンスカヤ伝説に基づくと見られる1つの完全な形態を持つパドドゥが全集版には付録として掲載されており(《全集版付録パドドゥ》)、第3幕で王子がオディールを花嫁とすることを宣言する直前に、この2人の踊りのために挿入されるよう指定されているが、ここでは純粋な《白鳥の湖》のための音楽、全30曲のみを対象としているので検討されない。ただ、このパドドゥにまつわる物語はたいへん興味深いものであるし、現代の《白鳥の湖》上演にも大きな影響を与えているので、詳しくは別項の<ソベシチャンスカヤ伝説>を参照願いたい。ここで述べておきたいのは、《ロシアの踊り》が追加曲とはいえチャイコフスキーの作品であることは明白だが、この《全集版付録パドドゥ》は作品としては面白いものだが、チャイコフスキーの作品とはどうも思えない。《白鳥の湖》の青白い情念の世界とは異質の音楽であることを付け加えておく。


5.初演ポスター
以下、ワイリーの研究書の「付録B」に掲載されている『Affiche of the First Performance of Swan Lake, in English Translation』(《白鳥の湖》初演のポスターの英訳)のうち、配役と20の舞踊単位ごとのダンサー名の部分の引用である。基本的にワイリーの英訳のままであるが、読みやすいように一部順序を変えたり補足したり(かっこ表記)している。また、オデット・オディールについては、原文がロシア語であるのでここではロシア語名のオデッタ・オディーリアに戻した。また、英訳にはいくつか疑問点が存在するが、注記がないためロシア語のポスター原文に由来するものなのか英訳時のミスなのかは不明である。このポスター自体はモスクワのボリショイ劇場のアルヒーフに保管されている<初演=1回目(カルパコワI主演)の分>。ここでの配役は1回目のものである。なお、4回目(ソベシチャンスカヤ主演)の分のポスターもそこで見ることが出来る。共に解説書に写真が掲載されることが多く、以前You Tubeで見ることが出来た。初日と違う踊りの個所は緑色で再掲した。
なお、これをご紹介いただいた「チャイコフスキーー三大バレエー」(新国立劇場運営財団情報センター刊行2014)の著者である渡辺真弓様に深くお礼申しあげます。同書には《眠れる森の美女》の初演時の豪華な配役一覧表も掲載されており、たいへん興味深い内容となっている。

≪初演ポスターの登場人物と出演者名≫

役名 ダンサー名
オデッタ<良い妖精> カルパコワI
領主権を保持する女公(女王) ニコラエワI
ジークフリート公子(王子)<彼女の息子> ギレルトII
ヴォルフガング<彼の家庭教師> ヴァンネル
ベンノ・フォン・ゾメルシュテルン<王子の友人> ニキチン
フォン・ロートバルト<客を装った悪魔> ソコロフ
オディーリア<オデッタに似た彼の娘>(註4) ***
式典長 クズネツォフ
フォン・シュタイン男爵 レインシャウゼン
男爵夫人<彼の妻> ポリヤコワ
フレイゲル・フォン・シュヴァルツフェルス ティトフ
彼の妻 ゴロホワI
宮廷人<王子の友人>(3名) リタフキン、グリヤエフ、エルショフ
伝令官 ザイツェフ
使者 アレキセイエフ
農民の娘(4名) スタニスラフスカヤ、カルパコワII、
ニコラエワII、ペトロワIII
(その他演者名が記載されない登場人物たち):
男女の貴人たち、伝令官たち、客たち、小姓たち、
農民たち、召使たち、白鳥たち、白鳥の雛たち
.


≪初演ポスターの舞踊単位とダンサー名≫
(『コール・ド・バレエ』と『16人の学生たち』の名は記載されていない。また『コリフェ』のダンサーの再掲も省略されている。)

 幕 舞踊単位 ダンサー区分 ダンサー名
第1幕 <1.ワルツ>
《No.2 ワルツ》
(『ソリスト』) スタニスラフスカヤ、カルパコワII、ペトロワIII、
ニコラエワII(農民の娘たち4名)
『コリフェ』 ウラディミロワ、グレワ、エサウロワI、ガヴリロワ、
アンドレアノワIII、イワノワIII、セメノワII、レイ、
N.レヴェデワ、ドミトリエワ、コンドラテワ、
ブランデュコワII(12名)
『コール・ド・バレエ』 .
<2.踊りのある情景> . スタニスラフスカヤ、カルパコワII、ペトロワIII、
ニコラエワII(以上農民の娘)、
ギレルトII(王子)、ニキチン(ベンノ)、
リタフキン(王子の友人)、エルショフ(王子の友人)
(計女性4名、男性4名)
<3.パドドゥ> . スタニスラフスカヤ、ギレルトII(農民の娘と王子)
<4.ポルカ> . カルパコワII、ニコラエワII、ペトロワIII
(農民の娘たち3名)
<5.ギャロップ> . スタニスラフスカヤ、ギレルトII(農民の娘と王子)
『コリフェ』 .
『コール・ド・バレエ』 .
<6.パドトロワ> . カルパコワII、ニコラエワII、ペトロワIII
(農民の娘たち3名)
<7.フィナーレ> . スタニスラフスカヤ、ギレルトII(農民の娘と王子)
『コリフェ』 .
『コール・ド・バレエ』 .
第2幕 <8.白鳥たちの入場>
《No.12 情景》
. ミハイロワ、ヴォルコワ<学生>
『コリフェ』 スミルノワ、ルヴォワ、アンドレアノワI、セメノワII、
ドミトリエワ、レイ、グレワ、アンドレアノワIII、
ブランデュコワI、レオンテワII、エツォーワ、
オシポワI、イワノワIII、ブランデュコワII、
クヴァルタレフスカヤ、ガヴリロワ(16名)
『コール・ド・バレエ』 .
<9.パドトロワ> . ミハイロワ、ヴォルコワ<学生>、ニキチン(ベンノ)
<10.パドドゥ> . カルパコワI(オデット)、ギレルトII(王子)
<11.フィナーレ> . ミハイロワ、ヴォルコワ<学生>、
カルパコワI(オデット)、ギレルトII(王子)、
ニキチン(ベンノ)
『コリフェ』 .
『コール・ド・バレエ』 .
第3幕 <12.貴人たち、
道化たちの踊り>
《No.16 コールドバレエと
こびとの踊り》
. .
<13.パドシス> . カルパコワI、<学生たち>(註3)サヴィツカヤ、ミハイロワ、
ドミトリエワ、ヴィノグラドワ、ギレルトII(王子)
<14.パドサンク>
4回目の上演では
<14.パドドゥ>
. カルパコワI、マノヒナ、カルパコワII、
アンドレアノワIV、ギレルトII(王子)
4回目の上演ではソベシチャンスカヤ・ギレルトII
<15.ハンガリーの踊り>
《No.20 ハンガリーの踊り》
. ニコラエワII、ベケフィ
<16.ナポリの踊り>
《No.22 ナポリの踊り》
. スタニスラフスカヤ、エルモロフ
<17.ロシアの踊り>
《追加: ロシアの踊り》
. カルパコワI
<18.スペインの踊り>
《No.21 スペインの踊り》
. アレキサンドロワ、マノヒナ
<19.マズルカ>
《No.23 マズルカ》
. ヴォルコワI、レオンチェワII、エゴロワ、ペトロワIII、
ギレルトI、グリヤエフ、リタフキン、コンドラチェフ
(女性4名、男性4名)
第4幕 <20.パ・ダンサンブル>
《No.27 小さな白鳥の踊り》
. ミハイロワ、ヴォルコワ<学生>
『コリフェ』 .
『16人の学生たち』 .


(註1)ダンサーの名前の後にローマ数字 I、II、III、IV とあるのは同名のダンサーを区別するための当時のロシアの習慣である。たとえば、カルパコワI は姉のポリーナ・カルパコワを、カルパコワII は妹のエカテリーナ・カルパコワを意味する。
(註2)バレエ団の組織は、相撲の組織と似ていて厳格な階級が存在する。大関・関脇・小結・前頭・十両・幕下といったそれぞれの階級の名前が存在するのである。主役を踊るプルミエ・ダンスール(ダンスーズ)が一番上位で、次に役名を貰うソリスト、コリフェ、コール・ド・バレエの順である。その他に役名があっても踊らないマイムだけをするダンサーがいて、子役としてはバレエ学校の生徒が舞台に立つ。
(註3)<パドシス>(6人の踊り)の中に<学生たち>と複数で表記されているのは変なので、ワイリーの誤訳ではないだろうか?サヴィツカヤ<学生>が正しいように思われる。
(註4)オディーリアのダンサー名が***と伏字になっている理由としては『当時のロシアの習慣では二役を踊るダンサーについては一方を伏字にする』という説が有力である。そうであるとすると、オデッタとオディーリアはカルパコワIが踊ったことになる。一方小倉氏の説では、オディーリアはマリア・ミハイロワが踊ったとしている(参考文献(B)のP74)。何の根拠もなくそのように述べれるわけはなく、何か当時の文献からの引用なのだろうが、引用元は示されていない。この点については、 後にさらに検討してみたい。

【初演ポスターの配役と舞踊単位の齟齬と初演台本やチャイコフスキーのスコアとの関係
当時の全幕物バレエは、マイムの部分とダンスの部分が分離していた。特別にダンスの中で物語が表現される(振付の中に物語上で意味のある動作が含まれる)場合、パダクシオン(pas d'action)と呼ばれる。歌劇に例えれば、初期の段階、ちょうど《魔笛》のように芝居の中で歌が歌われるようなものだ。歌が踊りに変わったものが当時のバレエだと考えればよい。ということでポスターに挙げられた舞踊単位は、使われた音楽の中で、踊りの部分だけをリストアップしたものと見ることが出来る。女王=ニコラエワIやヴォルフガング=ヴァンネルが舞踊単位の中に名が無いのは、彼らがその場にいないのではなくて踊らない役だからである。したがって、第1幕最初の《No.1.情景》は、音楽は演奏されていても、舞台はマイムだけで踊られなかったと解釈される。現代の、初めからダンスをする演出とは違うということだ。第1幕の舞踊単位<1.ワルツ>は、たぶんスコアの《No,2.ワルツ》を縮小して使われただろうと推測できるが、それ以降の舞踊単位については、たとえスコアと同じ名前が使われていたとしてもチャイコフスキーの音楽がそのまま使われたと断定することは出来ない。表中で、音楽と舞踊単位が対応すると考えてほぼ間違いないものはスコアのナンバーを《赤字》で併記した。
ところで、この舞踊単位は2月20日(ロシア暦)のカルパコワIによる初演のものである。上述のように、ソベシチャンスカヤが初お目見えした4月26日(ロシア暦)の4回目の上演のポスターも残っていて、そこには出演者の異同はあるものの、20の舞踊単位は1か所を除いて全く同じである。同じ演出で上演されたのである。その1か所というのが初演の<14.パドサンク>であり、4回目の上演では王子とソベシチャンスカヤが踊る<14.パドドゥ>に変えられた。確かに<ソベシチャンスカヤのパドドゥ>は存在したのだ。そして、この<14.パドドゥ>はチャイコフスキーが書いた30曲のどの曲でもないだろう。ちなみに<17.ロシアの踊り>は初日のカルパコワIも4日目のソベシチャンスカヤも踊ったことになっている。

それでは、このポスターから窺える疑問点や矛盾点をいくつか挙げてみよう:
@配役の中で「フォン・シュタイン男爵」、「男爵夫人<彼の妻>」、「フレイゲル・フォン・シュヴァルツフェルス」、「彼の妻」の4人は、ポスターには名前が存在するのに、他の資料(スコアト書き、初演台本、プティパ・イワノフ版台本)では全く触れられていない。しがって、初演の間際になって設定されたのだろう。彼らの役どころはいったい何だったのだろう? 招待客の中で特別の役割をする人たち? 又は、花嫁候補たちの両親?それならなぜ肝心の花嫁候補の名が無いのだろう? それとも、彼らが登場すると思える第3幕には、台本には無い何か特別の筋書きが加えられたのだろうか?

A第1幕では、配役と舞踊単位ごとのダンサー名が完全に一致するのに、第3幕では、ダンサーがどんな役を演じているのかさっぱり分からないのは何故だろう? 第3幕では、カルパコワIやソベシチャスカヤはオデッタなのか? オディーリアなのか? はたまた全く別の役なのか? 更には、王子役とベンノ役のダンサー以外は、どんな役を演じているのか上下両表からは全く分からないし、初演台本からも推測がつかない。

Bなぜ花嫁候補たちが役名から外されているのだろう? 花嫁候補は何人だったのだろう? あるいは、花嫁候補が出ない演出だったのか? それなら初演台本と矛盾するが・・・

C第1幕の4人の村娘たち(たぶんこの団の中堅ダンサーたちなのだろう)は、それぞれ『諸国の踊り』や<14.パドサンク>で別役として踊っているので、主役女性が別役で登場することも有り得ないことではないだろうが、<17.ロシアの踊り>のロシアの民族衣装を着て踊ると指定されたソロを踊りながら<13.パドシス>や<14.パドサンク>(<14.パドドゥ>)を踊るということは、彼女らだけが浮いた感じになるし、逆に花嫁候補の衣装で<17.ロシアの踊り>を踊るのも『諸国の踊り』の中では浮いてしまい、そういったことは衣装の早変わり以外有り得ないとしか思えない。
初演の日の舞踊単位には、<13.パドシス>では王子と女性主役以外に4人、サヴィツカヤ、ミハイロワ、ドミトリエワ、ヴィノグラドワ、<14.パドサンク>では主役2人以外に3人、マノヒナ、カルパコワII、アンドレアノワIVの7人ものダンサーが挙がっているのに、彼女たちがどんな役回りなのか誰一人登場人物の中に上がってこないのは全く不思議である。さらに、2つの踊りのダンサーが主役たちを除いて、同じ人が全くいないことも謎を大きくしている。<13.パドシス>を踊った人は、主役たちを除いて<14.パドサンク>を踊らないのである。どのような物語設定でこのようなことが起こるのだろうか?(逆に第1幕で4人の農民の娘たちが各舞踊単位で何度も踊るのと対照的)。片方を<花嫁候補たちの踊り>と仮定したら、もう一方はどういう位置づけの人たちが踊るのだろうか? 

Dそして表中で最も奇妙で不可解な役のダンサーが「ミハイロワ」である。名前からして女性だろう。彼女は、第2幕<8><9><11>、第3幕<13>、第4幕<20>と5つもの舞踊単位で踊り、大活躍だ。ところが彼女には役名がポスターには記載されていない。さらに不思議なことに彼女の前後には常に学生(子役)が続いているのだ。なにか二人で一個のキャラクター(人物又は鳥)を表現しているのかも知れない。初演台本の中で、女性で第2,3,4幕と通じて言及されているのは、オデッタの他では「フクロウ=継母」だけだ。とすると、継母がオディーリアに化けて第3幕に登場するのだろうか(幕の最後に正体を現す)? そうであるとすると、現代の演出とは相当違った、ロートバルトよりもフクロウの方が活躍する演出になっていたのかも知れないし、初演の台本の弱点(ロートバルトと継母の関係がいまいち不明瞭)がカバーされることになる。こういったことから小倉氏が言及してる「オディーリアはミハイロワが踊った」という説も単純に切って捨てるわけにはいかないだろう。当時のバレエ愛好家や批評家の観劇記録などを丹念に調査すれば解明出来るかもしれない。今後の研究が期待されるところである。ともかく、今度はソベシチャスカヤが新たに第3幕で踊る王子とのパドドゥは一体何なのかという第3幕最大の矛盾に突き当たってしまうのだが・・・。





6.《白鳥の湖》の調的構造
《白鳥の湖》の調的構造を分析する上で、基本的に押さえておかなければならないのは『五度圏』の概念から来た対極関係(色で言うところの補色関係)である(当ホームページのアラカルトの五度圏の項参照)。
交響曲のような多楽章器楽作品は、古典派やロマン派の作品では調的構造が1つの原則によって規定されているが、バレエ音楽にそれを当てはめることは出来ない。バレエ音楽は1つの物語を音楽で語らせる必要があるので(ダンサーは言葉を発しない)、作曲家たちはそれを調性に求めた。いろんな調を組み合わせて、あるいは対立させて意図的に使用することによって、登場人物の多彩な性格を描き分けたり物語の本質を規定したのである。バレエ音楽作曲家たちの伝統として、様々な工夫が凝らされ、試行錯誤が重ねられて構築されてきたこの『調性による描き分け』という方法を、チャイコフスキーも踏襲している。彼は《白鳥の湖》作曲にあたって、バレエ音楽の先輩にあたるアダンの《ジゼル》などを綿密に調査研究したのであった。

ただ、《白鳥の湖》の物語を調的に分析するにあたって注意しなければならないのは、チャイコフスキーの死後、弟のモデストが書いた【プティパ=イワノフ版】の物語そのままに従うと一部に辻褄が合わない点が生じることである。たとえばオデットの調はイ短調であるが、それはモデストの物語ではどうも符合しているようには思えない。逆に言うと、調的構造の分析は、チャイコフスキーの元々の意図を探る上で、非常に重要なツールの1つと言えるのである。

《白鳥の湖》は、ロ短調に始まり、ロ長調に終わる。特に最後の5小節はロ音のユニゾンであって、全オーケストラは長調や短調としては響かず、大自然のような圧倒的厳粛さをもってフォルテシモでロ音のみを演奏するのである。したがって、ロ音およびこの音から導かれるロ短調(#2つ)はこの物語の基調となるものである。同時にその平行調であるニ長調(#2つ)を含めて、主人公ジークフリートの調と規定することが出来よう。ジークフリート自身であるとともに、彼の意志、彼の願望をも意味するのである。これに対応するものが、五度圏の対極にあるヘ短調(♭4つ)及び変イ長調(♭4つ)である。これらはジークフリートに敵対するものであって、彼の意志や願望を阻もうとする存在である。すなわち、それらはフクロウであり、ロートバルト男爵であり、オディールであり、ジークフリートの結婚へのプレッシャーでもあるのだ。

この対極構造から、付随的なその他の人物や状況が導き出される。ハ長調は女王であり、また王宮である。すなわち王子の結婚を待ち望む現実の世界である。ハ長調の対極である変ト長調(嬰へ長調)は王子の夢の世界である。ところが、オデットはイ短調で示される。これはモデストの物語から考えると一見奇妙である。なぜなら、ハ長調とイ短調とは調号のない同じレヴェルの調だからである。オデットはジークフリートの夢の中の創造物としては描かれていないということだ。夢の中に現れるとはいえ、オデットは女王やみんなの期待の別の面からの現れであると言えるのではないだろうか?これを図にすると、この対極関係が一目瞭然となる。

                    ハ長調0<宮廷・母親>
                    イ短調0<オデット>
                          ↑ 
                     王家の継嗣問題
                                      変イ長調♭4
ロ短調#2 ・・・  ニ長調#2:  ← ジークフリート →    ヘ短調♭4 ・・・  ロ長調#5 ・・・  ロ音ユニゾン
湖・白鳥(自然)  愉快な生活                    障害・敵     湖・白鳥(自然)    不動の大自然              
                      自由な恋愛
                          ↓
                   変ト長調(嬰へ長調)♭6(#6)
                   変ホ短調(嬰ニ短調)♭6(#6)

さて、《白鳥の湖》の中で特異な記譜法をしている箇所がいくつかあるが、そのうちの2点を指摘しておこう。

まず第1は、《No.3情景》である。この場面は若者たちの祭典の最中にジークフリートの母親が登場する場面である。明瞭に#3つの「イ長調」で始まるのに、チャイコフスキーは#♭無しの「ハ長調」で記譜した。そのため臨時記号がいっぱい出て来る。たとえば、弦楽だけの最初の8小節では、臨時記号の#が73個も出て来る。何故こんな奇妙な、そして面倒くさい記譜をしたのだろう? 実際の調性推移を見てみよう。
【ハ長調記譜】:43小節までイ長調(突然の女王の御出座によるドタバタ)→77小節までハ長調(女王の説諭)→83小節まで転調楽節(女王退出)→107まで変イ長調(王子の憂鬱)
【ニ長調記譜】:125小節(終わり)まで:ニ長調(宴会再開)
最後までハ長調記譜を通すのならいざ知らず、108小節からはニ長調に転調記載するのだから、イ長調→ハ長調→変イ長調→ニ長調と音楽の調に合った調号を使えば、よほど楽に記譜できるのにと思ってしまう。何故ハ長調記譜にチャイコフスキーは固執したのだろうか。それは上記の図に示したような、物語の調構造が彼の頭の中に強く存在したからだろう。現実の調がイ長調であっても変イ長調であっても、その根底に流れているのはハ長調(すなわち王子の正統な継嗣)なのである。

もう一つの例は、第2幕の王子とオデットの《パダクシオン》である。最初のハープのカテンツァを含む序奏は【ハ長調記譜】だが、変ト長調への導入部分である。9小節から主部となり【変ト長調記譜】に変わる。ここにヴァイオリンソロが入って主題が変ト長調(♭6)で提示され変ホ短調(♭6)に向かう。そして変ホ短調の白鳥たちの挿入楽節になる。続いて再びヴァイオリンソロになるのだが、ここからが奇妙なのである。このソロはホ長調(#4)である。ところが記譜上は変ト長調のまま。同じことがもう一度繰り返されて、今度はヴァイオリンソロはロ長調(#5)になる。この2つのヴァイオリンソロ部分は【変ト長調記譜】なので臨時記号の嵐である。たとえば、43,44の2小節をとっても臨時記号(#やナチュラル)は15か所もある。ここでも、現実の調がホ長調であってもロ長調であっても、その根底に流れているのは変ト長調(すなわち王子の夢の愛)なのである。一説によると、ホ長調(#4つ)は変ヘ長調(♭8つ)、ロ長調(#5つ)は変ハ長調(♭7つ)の読み替えであるとの考え方もあるようだが、もしそうならば臨時記号がよほど少なくて済むのだから、チャイコフスキーは#系の調に拘っていたと推測するほかは無いだろう。であるとしたら、嬰へ長調(#6つ)ではなく、変ト長調(♭6つ)で書かれたのは何故だろう。これならば臨時記号も、そんなに書かなくて済むだろうに。とにかく五度圏的考え方からすれば、嬰へ長調も変ト長調も同じものであって、シャープやフラットの数の多寡でシャープ色やフラット色の濃淡が決まるものではないことが分る。いわばハ長調と同様ニュートラルな調なのである。それでは何故チャイコフスキーは変ト長調の方を選んだのだろうか。ここで使われているハープという特殊楽器の特性に応じた調の選択をしたとしか考えられない。例えば、ハープが活躍するバレエの最後《No.29最後の情景》のモデラートの部分、ここはロ長調(#5つ)で書かれているのだが、ハープだけは変ハ長調(♭7つ)で記譜されている。というのは、ハープという楽器は変ハ長調に調弦されていて、それぞれの弦をペダルで半音ずつ2段階上げることが出来るような仕掛けで全ての調の音階の演奏が可能なのである。すなわち「変ハ」の弦は、1段階上げると「ハ」、もう1段階上げると「嬰ハ」と、3つの音が出せるわけである。したがって、「変ハ長調」というのは全ての音を開放弦で演奏できる調だということである。《パダクシオン》の変ト長調は1つの音だけを半音上げれば済むというハープにとっては非常に有利な調だということである。いわば、ソロヴァイオリンはハープの犠牲者ということなのだろう。
75小節からソロチェロが出て来て変ト長調で主題の再現となる。このアダージョの核心の二重奏である。それが終わると101小節から【変ホ長調記譜】で白鳥たちのコールドバレエになる(146小節まで)。こちらはフラット色の濃い調というわけである。

この2つの例(特定の調への固執と、それに反するような最終段階での他調への推移)を見てみれば、上の表のような構図にチャイコフスキーが如何に固執していたかが分るだろう。






7.《白鳥の湖》の登場人物 Personnages

(1)女王・La Princesse regnante
「プランセス・レニャント」というのは直訳すれば「領主権を保持する女公」ということになる。ドイツが舞台ということで神聖ローマ帝国のフィルストの存在を意識して設定されたのだろう。我が国で言えば将軍家ではなく大名家が、この設定のイメージに近いのではないだろうか。彼女は夫に先立たれ、一人領邦(王国)を守っている。ジークフリートの成人を唯一の希望としているのだ。わが国では、藩主が突然死んだ場合、幼い子供を藩主にしてしまい家来たちが補佐をするという形を取るところだろうが、ヨーロッパでは女性の領主権が認められることもあるので「プランセス・レニャント」という存在が可能なのだろう。しかし「領主権を保持する女公」と言われても日本の一般人にはチンプンカンプンだ。ジークフリートの呼称、prince を「公子」ではなく「王子」としてしまった以上、やはりここは「女王」とするしかないように思える。ただ、オデットのreine(女王)と同じ訳語になってしまうことに対しては別の方法で差別化が必要であろう。台本ではっきり区別されているのは第1,3幕は現実の世界、第2,4幕は幻想の世界であることの違いをこういう役名で示唆しているからであり、両方を「女王」と訳してしまった以上、そのための翻訳上の配慮は機会あることになされねばならない。

queen という英語は「女王」とも「王妃」とも訳せる。両者を区別するためには、queen consort(王妃) 、queen regnant(女王)が使われる。したがって「王妃」は訳として不適当だろう。なぜなら、日本語での「王妃」は、王が生存している「王の妃」というニュアンスが強いからである。la princesse regnante 「領主権を保持する女公」を「王妃」と訳してしまうと「王」が生きているように誤解されてしまう恐れが生ずる。それではこの物語の中で『なぜ女王が息子の早期の結婚に執着するのか?』ということの意味を理解できなくしてしまうだろう。むろん、レニャントを意識したと思える「領主の王妃」とか「領主の妃」というような訳も舌足らずで不適当だろう。領主が存在しいて、その妃と読まれる恐れがあるからだ。だから、正確には「領主として統治しているプリンセス(女公)」と訳さざるを得ない。

また、女王という訳からは、イギリスやフランスのような中央集権国家の女王と理解してしまう恐れがあるが、上記の説明のようにそれは誤解である。その誤解から、諸国の踊りでスペインやポーランドの踊りが出て来るので花嫁候補はそれらの国の王女だとの理解がなされることがあるが、この物語の中ではそうではない。これらの諸国の踊りは余興で踊られるだけであって、候補者がその国の王女ではないということだ。まあ、別の理解で、候補者がそれらの国の踊りを踊るとしても、それは仮装で踊っているに過ぎないということだ。そうでないと「プランセス・レニャント」との釣り合いが取れない。


(2)ジークフリート・Siegfried, Le prince
この物語の主人公「ジークフリート」は普通「ジークフリート王子」と訳されるが、母親の地位との関係から本来は「ジークフリート公子」と呼ばれるべきかもしれない。しかし、ここでは一般の訳に従い「ジークフリート王子」と呼ぶ。

歌劇《カルメン》の主役がドン・ホセであり、タイトルロールのカルメンが主役でないのと同様、《白鳥の湖》の主役は王子ジークフリートである。バレエという上演形態からして舞踊がメインになることからオデットが圧倒的に優位に立ち主役然として活躍するのだが、物語的にはあくまでもジークフリートが主役であり、オデットは彼の対象人物に過ぎない。バレエにおいてもそのことははっきりと認識されたうえで構成されなければならない。ジークフリートは家庭教師ヴォルフガングの直接の指導のもと、母親の女王に大切に教育されてきた、いわば箱入り息子であって、肉体的には立派に成長したが、成人にあたって花嫁を迎え国を立派に切り盛りするためには大きな不安を抱いている。


(3)オデット・Odette, reine des cygnes
白鳥の女王オデットは、はたして物語上の実在の人物なのだろうか? スコアのト書きからは、王子が作りだした理想の女性の幻影のように見える。しかし、2つの台本では現実の世界である第3幕にオデットが登場する。王子の幻影と説明することも出来ようが、観客にはそうは見えないだろう。


(4)オディール・Odile
オデットとオディールが白鳥と黒鳥として、明確な対比とともに一人二役を確立させたのはプティパ=イワノフ版であるが、初演のときからも一人二役であったのかも知れない。というのは、初演のポスターには、オデット役はカルパコワIと明示されているが、オディール役には***となっていて名前が記載されていない。当時の習慣で***は二役を意味するとの説があるからである。ただ、***となっている以上、オディールはフクロウが化けたものであるとの解釈も可能である。台本の第3幕末や初演ポスターの配役を見れば、その方が筋が通っているようにも思える。ただ、スコアのト書きには何も書かれていない。

オデットとオディールはロシア語ではオデッタとオディーリアという。
オデッタとオディーリアのロシア語表記は↓
Одетта и Одиллия (英語:Odetta & Odillia)
オデットとオディールの名前の由来、すなわち誰がこの名を作り出したのか?という疑問について、チャイコフスキーの妹アレクサンドラの嫁ぎ先ダヴィドフ家にあった絵本にその名があった、あるいは台本作者や監督官が作り出したとの見かたも考えられるが、私は少なくともチャイコフスキー自身が『決定』したものであると思う。すなわち、「オンディーヌ」と「オフェーリア」の合体である。由来はどうあれ、オディールのロシア名オディーリアがシェークスピアの《ハムレット》におけるオフェーリアに非常に似ている点にチャイコフスキーは魅かれたのだと思う。第3幕で、ジークフリートがオディーリアを一目見た時「オディーリアはオデッタに似ていないかい?」との疑問の言葉を発するのだが、その裏には「オディーリアはオフェーリアに似ていないかい?」という暗示が隠されているのではないだろうか。そうであるとすると、《白鳥の湖》の物語には《ハムレット》と同じ筋書きが隠されているのではないか憶測することは可能であろう。少なくともハムレットに父はいないように、ジークフリートにも父はいない。チャイコフスキーはこのことを暗に示すためにスコアのト書きが極端に少なくしたのではなかろうか?
ちなみに《ハムレット》におけるオフェーリアのロシア語と英語の綴りは↓である。
Офелия (англ. Ophelia)


(5)ベンノ・Benno von Sommerstern
ベンノ・フォン・ゾメルシュテルンは小さいときから王子の話し相手として仕え、やがては王子の腹心として王国を切り盛りするよう教育されてきた。王子の忠実な部下であり、最大の理解者でもある。


(6)ヴォルフガング・Wolfgang
ジークフリートの家庭教師であるヴォルフガングは、酒飲みで好色な爺さんとして描かれることが多いが、それでは彼の存在理由が薄められてしまう。スコアのト書きや音楽自体からみてみると少しニュアンスが違うように思われる。もし大酒呑みなら《第6曲パダクシオン》において、酒を飲んで少し踊っただけで目を回して気を失うことはないだろう。下手な踊りで失笑を買うというのは、真面目一方で踊りに不慣れなことを意味し、王子の成人を祝おうとする彼の精いっぱいの努力を示していると解するべきである。彼は普通に演出されているよりもう少し若く、女王の信頼のもと実直で厳格な王子の教育者であるように描かれなければならない。ジークフリートは彼に父の面影を見出しているのかも知れない。彼の献身的な教育により立派に成人した王子を前にして、安堵のために酒の度を過ごしてしまった。その結果、彼の立派な王子教育の最後において画竜点睛を欠くこととなり、この物語が悲劇に終わる素因の一つとなったのである。


(7)ロートバルト・Von Rothbart
直訳すると「赤ひげ男爵」ということになる。彼は娘オディールを連れて、遅れて花嫁選びの舞踏会場に到着する。


(8)4人の村娘・4 Peasant Girls
初演版では、第1幕全体でダンスの中核をなす役割を演じている。プティパ・イワノフ版以降ではパドトロワやパダクションの娘たちに引き継がれた。


(9)小姓たち・Pages
1幕、3幕に登場。立ち役。

(10)白鳥たち・Cygnes、子供の白鳥たち・Cygnets
鳥としての白鳥と娘に戻った時の白鳥を描き分けることは難しい。舞台で踊られる白鳥たちは娘に戻った状態にあるわけだが、イワノフが振り付けたように娘の状態でも鳥のしぐさを踊りに取り入れることは非常に効果的だと思われる。


(11)ふくろう・Hibou
白鳥が善とすれば、彼女らと対応するふくろうは悪の象徴である。音楽的には同音の3連符と長音からなる音形(いわゆる『運命動機』)が主体となっている。したがって、これは死をも暗示している。スコアのト書きでは、ふくろうはオデットの物語の中でだけ登場するが、『運命動機』自体は《第19曲パドシス》のヴァリアシオンIII、《第24曲情景》(練習番号75のところ)および《第29曲最後の情景》(練習番号26のところ)にも使われている。《パドシス》についてはどの台本にも記載がないが、他の2か所にについては、初演の台本にもモデストの台本にもふくろうが登場する。この『運命動機』は、チャイコフスキーの音楽からは死を象徴するものともとれるし、ふくろうの描写ともとれる。とにかくふくろうを登場させることは視覚的には非常にわかりやすい効果をもたらす。


(12)湖・Lake
湖は人物ではないが重要な設定要件である。初演の台本では、《白鳥の湖》は《オンディーヌ》の続編のような形で物語が構成されているため、湖はオデットのおじいさんの悲しみの涙で出来たものだと説明されている。プティパは、その前編の物語を排除したため、オデットの有名なマイム「湖は母の涙で出来た」が生まれた。


(13)その他
その他の人物の中で、名前があるのはバロン・フォン・シュタイン(Baron von Stein)とフレイゲル・フォン・シュヴァルツフェルス(Freiger von Schwartzfels)である。いずれも妻および娘(婚約候補者)を伴う。彼らは初演台本にしか現れない名前である。彼らは花嫁候補の両親であると推定されるが、花嫁候補自体の名前は無い。

式典長(Master of Ceremonies)、式典の布告官(Herald)、使者(Messenger)、喇叭手(Buglers)などは古い様式の舞台設定の時に登場する。

立ち役として、第1幕では王子の友人たち(Friends of Prince)、召使たち(Servants)、村人たち(Peasants)、第3幕では貴人たち(Gentry)が登場する場合が多い。



8.各曲分析と物語上の意味の推移
《白鳥の湖》の主調はロ短調である。ロ短調で始まりロ長調で終わる。序文で私がこの作品を『交響的バレエ音楽』と位置付けた、この『交響的』という意味の中には調性の選択が大きな位置を占めるのである。というのは、本家の『交響曲』というものは、本来調性に深く根ざしたものであり、調の変化と統一こそが交響曲の目指すものだからである。複数の楽章が単一の調で羅列されるのではなく(例えばバッハの『組曲』などでは、本来踊りを目的としているので、調的な多様性を求められない)、調的変化をもって構成されなければならない。もっとも一般的な調配分は、両端楽章と舞曲楽章は主調で、緩徐楽章は属調や下属調が採られることが多い。《白鳥の湖》における個々のナンバーの調選択には、そういった観点が根底に存在する。

[導入]
このIntroduction(アントロデュクシオン=イントロダクション=導入曲)と題された物語の導入部分は、使用される音楽素材としては物語本体で用いられるものとどれも全く別個であるにも拘わらず、最初のオーボエの音が響くとたちどころに《白鳥の湖》の世界へ吸い込まれるような音楽である。これは《くるみ割り人形》のような、物語とは全く関係ない主題を用いた単独のOverture(序曲)ではない。また、《眠れる森の美女》のような物語の本体と密接に絡むカラボスとリラの精の2つの主題を並立させた劇的なIntroduction(導入曲)でもない。《白鳥の湖》の導入曲は両者の中間に位置づけられよう。三大バレエの導入部分は音楽的には三者三様であっても、しっかりと観衆を物語に引き付ける力はどの作品にも十分備わっている。
導入曲にバレエ本体の音楽が使われていないことは特に注意されなければならない。そして、それにもかかわらず、音楽の色合いが物語の部分と全く同じなのだ。このことは、序奏の天才チャイコフスキーの魔術といったところであろう。ここでは、観衆は日常生活から離れて、美しくも悲しい情念の世界に浸るための心の準備をする時間である。観客の心を物語の中へ引き込むためにはどうすればよいか? じっと音だけに神経を集中するように仕向けることも一つの方法だろう。また、物語の前段階をアントロデュクシオンの音楽を通して説明することも一つの方法だろう。
いろんな演出の中には、このイントロダクションでもバレエが演じられ、プロローグとして娘たちが白鳥に変えられたいきさつなどが説明されたりすることがある。白鳥が登場することはおとぎ話的で分かり易いことは確かだが、第2幕で白鳥の女王が初めて登場する鮮烈さを阻害することは確かである。しかし、さらに最悪なのはボリショイのグリゴロヴィッチ版であろう。あの崇高な《白鳥の湖》の最後の音楽を削除して、この版では最後にイントロダクションの主題を演奏させている。王子は決して生き返らないように、時は決して戻らないのだ。物語は何度でも繰り返されるとでも考えているのだろうか?唯一無二の音楽自体がそういったアイデアを拒否していることを、演出家は理解せねばならない。




[第1幕]城内の庭園


(1)情景




(2)ワルツ




(3)情景



(4)パドトロワ



(5)パドドゥ



(6)パ・ダクシオン




(7)シュジェ



(8)杯の踊り



(9)フィナーレ
第1幕のフィナーレは、第2幕の枠構造の音楽、始まりと終わりが全く同一曲である《No.10:情景》と《No.14:情景》と同じように白鳥の主題で始まる。すなわち「白鳥の主題」は3度響くことになる。しかし、こちらは細部に若干の相違が見られるし、後半は全く違う音楽だ。前半、テンポはアンダンテであり第2幕のモデラートより少し遅い。そして、第2幕はスフォルツァンドの付いた強いトレモロで始まるのに対して、ここでは弱いトレモロままで始まる。主題や使用楽器は同じなのに微妙に違うわけである。後半は全く異なる音楽が続く。白鳥の主題は中断し、夢想あるいは何者かを希求するかのようなメロディーが2度現れ、最後は力強いフォルテの和音連打で幕が下りる。

しかし、最近のバレエの演出では、この《No.9:フィナーレ》は削除されるのがほとんどである。なぜなら、白鳥の主題の新鮮さを保つすなわち重複感を避けるためと、プティパが1幕と2幕を繋げて1場、2場としたため完全な休止はスムーズな流れを損なうと見られたからだろう。




[第2幕]湖のほとり
この幻想的な第2幕では、登場人物が問題となる。幻想の産物、すなわち白鳥たちとフクロウは確定しているが、現実の人たちについては、表に見るように、「ト書き」「初演台本」「モデスト台本」の間に齟齬が見られる。
「ト書き」では王子のみが登場し、「初演台本」では王子とベンノが登場するのに対して、「モデスト台本」では王子、ベンノおよび狩人たち(王子の友人)が登場するのである。
この違いは、第2幕をどのように捉えるのか、ひいては《白鳥の湖》の物語をどのように捉えるのか、という点で非常に重要なキーポイントになっている。
「ト書き」では、全く王子一人の夢想として描かれているのに対して、「初演台本」や「モデスト台本」では、第1幕からの流れを継続して《白鳥の湖》全体を一貫した『おとぎ話』として捉えているのである。

(10)情景(14)情景
第2幕の最初と終わり、これは3分程度の曲なのだが、全く同じ同じ音楽であることに驚かされる。このような同じ音楽を繰り返すような作例が他のバレエやオペラのような劇音楽にも存在するのだろうか?もちろん、チャイコフスキーはこの第2幕を劇の中の劇として二重構造にするための「枠組み」として意識的に作ったものであることは確かだ。





(11)情景



(12)情景




(13)白鳥たちの踊り
第1幕の《No.5:パドドゥ》が現実世界の愛の形であるとすると、ちょうどそれと対比するのが夢の中での愛の世界であるのが、この《No.13:白鳥たちの踊り》である。
この踊りは、しかし2人だけで踊られるのではない。多くの白鳥たちに見守られての愛なのである。
全体は7つの部分に分けられており、ロンド的な構造となっている。すなわち≪繰り返し部(ルフラン)=ワルツ(ヴァルス)=コールドバレエ≫と≪対比部(クープレ)=ソロダンサーたち≫の対比的表現である。

《No.13:白鳥たちの踊り》
I.テンポ・ディ・ヴァルス イ長調 ルフラン
II.モデラート・アッサイ ホ長調 クープレ 
III.テンポ・ディ・ヴァルス イ長調 ルフラン
IV.アレグロ・モデラート 嬰へ短調 クープレ
V.アンダンテ・ノン・トロッポーアレグロ 変ト長調ー変ホ長調 デプロワマン(発展)
VI.テンポ・ディ・ヴァルス 変イ長調  ルフラン
VII.コーダ アレグロ・ヴィヴォ ホ長調 コーダ

青字部分はルフランを示している。《白鳥たちの踊り》は上述のようにワルツルフラン(リフレイン)にした一種のロンド形式のような構造を有している。白鳥たちに見守られながら二人の愛が育まれていく様子、あるいは白鳥たちの心配や反対に背いて二人が愛を育む様子(こちらの方が音楽のありようから見て妥当な解釈だろう)を、ロンド形式(ルフランとクープレの対比)を採用することによって、ソロと群舞の交錯という、非常に分かりやすい表現を可能としている。暖かく見守っているのか、不安と心配で見守っているのか、いずれにしても白鳥たちは常にオデットの行く末を案じているいることだけは確かである。

さて、プティパはこれをどのように改変したのだろうか?

《No.13:白鳥たちの踊り》
I.テンポ・ディ・ヴァルス イ長調
II.モデラート・アッサイ ホ長調 (オデットソロ)コーダ直前へ移動
III.テンポ・ディ・ヴァルス イ長調 (白鳥たちの踊り)重複感を避けるため削除
IV.アレグロ・モデラート 嬰へ短調 気分転換の意味で4羽の白鳥の踊りとしてパダクシオンの直後に踊られる
V.アンダンテ・ノン・トロッポーアレグロ 変ト長調ー変ホ長調 パダクシオン(オデットと王子)グランパドドゥ:アレグロ部分をカットし、静かな終結部分に変更(ドリゴ終止)
VI.テンポ・ディ・ヴァルス 変イ長調 (全員の踊り)4羽の白鳥の踊りと対をなす大きな白鳥の踊りとする
VII.コーダ アレグロ・ヴィヴォ ホ長調 オデットのソロを加えるためスコアにない繰り返しを挿入
(註3)緑字部分は、プティパ改変の概要

(註)赤字部分は、ユルゲンソン版にはなく、全集版にだけに存在する。全集版には後からの加筆とあるので、チャイコフスキーの死後にだれかによって書き加えられたものと思える。もし、それらがユルゲンソン版出版以前に書かれていたとすると、ユルゲンソンがこんなに集中して削除するとは考えられず、また、見落とすこともあり得ないので、彼が出版したときには、これらの表題はまだ自筆譜に書き込まれていなかったと見るのが自然だ。もっとも、これらの表題加筆は誰が考えても同じような結果になりそうなものであり、内容的には問題なしと考えて差し支えない。(チャイコフスキーが踊りのナンバーでは、劇の内容の表現を極端に避けていたことの証拠の1つとしては、貴重なものではあるが)
とにかく、チャイコフスキーの元々の音楽では、この7曲全体を《白鳥たちの踊り》と標記しているに過ぎない。

結果、こういう曲順構成となった。

I.テンポ・ディ・ヴァルス イ長調 白鳥たちの踊り
II.アンダンテ・ノン・トロッポ 変ト長調 パダクシオン(オデットと王子)グランパドドゥ
III.アレグロ・モデラート 嬰へ短調 4羽の小さな白鳥の踊り
IV.テンポ・ディ・ヴァルス イ長調 大きな白鳥の踊り
V.モデラート・アッサイ ホ長調 (オデットソロ)
VI.コーダ アレグロ・ヴィヴォ ホ長調 

この構造を一覧すると、もともとのロンド構造から、プティパがいかに見事に彼が完成したクラシック・パドドゥの様式に適合させていったかが分かる。クラシック・パドドゥとは<導入・アダージョ・男性ヴァリアシオン・女性ヴァリアシオン・コーダ>という構造なのだが、<導入>は《白鳥たちの踊り》、<アダージョ>は《王子とオデットのパダクシオン》、そして、<男性ヴァリアシオン>の代わりの白鳥たちによる2つの《ディヴェルティスマン》、<女性のヴァリアシオン>は《オデットソロ》、そして<コーダ>に符合するというわけである。

チャイコフスキーの原曲では、調性的にみると、全体としてはイ長調(#3つ)で始まりホ長調(#4つ)で終わるという、いわゆる「善」あるいは「幸福」の#(シャープ)の調域が支配しているのだが、V.、VI.で一転して「悪」あるいは「不幸」の♭(フラット)系調域へ移ることが特徴的である。いわば「不幸」に対する「不安」をこれらの調域で暗示しているわけである。《No.13−II》のオデットのヴァリアシオンで、けがれのない純粋無垢の姿で踊るオデットは、《No.13−IV》『4羽の踊り』嬰へ短調(基本調イ長調の平行短調すなわち#3つ)を介して、2人の愛の場面《No.13−V》パダクシオンに至る。これは、直前の嬰へ短調の同主長調たる嬰へ長調(#6つ)で提示されるべきものだが、ここで記譜上はエンハーモニック変換をして、嬰へ長調(#6つ)=変ト長調(♭6つ)で記譜されている。一つ一つは近親調への転調であるにも拘らず、結果的にとんでもない調へ転調したことになるのである。この到達点が変ト長調であるということは、この長大な作品全体の基本構造に関わる、すこぶる意味深長で、かつまた極めて重要なことなのである。

まず、母である女王がジークフリートに結婚を説得する場面(第1幕の《No.3:情景》)はハ長調(#♭なし)であった。変ト長調は五度圏上ハ長調から一番遠い対角に位置し、母の目指したもの、すなわち息子の幸せな結婚と王国の永続的繁栄(ハ長調)からは最も遠いところに2人の愛(変ト長調)が存在することを意味しているのである。
そして《No.5:パドドゥのII》のヴァイオリン・ソロは調号はロ短調(#2つ)であるが、バス声部の半音上行により調的にはいささか不安定で、長短いろんな調をさまよったあげく嬰ハ短調(#4つ)に解決するように見える。最終的には異様にも11小節にわたって嬰ハ音が鳴らされる場面となる(II.の80〜90小節)。この途方もなく長い嬰ハ音は、実は嬰へ長調=変ト長調の属音であって、遠く第2幕《白鳥たちの踊り》の中のオデットのパダクシオンを見据えていたのであり、和声的にはパダクシオンの変ト長調に解決するのである。遠く離れたパドドゥのアダージョとパダクシオン、両者を結び付けるためにチャイコフスキーが仕組んだ巧妙なトリックとしてしか、異様に長い嬰ハ音を説明できないのである。この王子(#2つの調によって示される)の強い憧れがパダクシオンにおいて実現するという和声的構図は天才チャイコフスキーにしか成し得ない壮大なドラマなのである。

このパダクシオンの中には、我々をさらに驚かせる奇妙で巧妙なことが隠されている。もちろんここでのヴァイオリンソロはオデットを表していることは言うまでもないが、チャイコフスキーはこのソロにもう一つの仕掛けを施しているのだ。それは音楽を聴くだけでは理解しにくいが、楽譜を見ると、何か「怪しい」ということが誰の目にもたちどころに解るものである。パダクシオンの根幹は、ヴァイオリンによって変ト長調のメロディーが演奏され、のちにそれが王子を表すチェロによって同じ調で繰り返される憂愁に満ちた愛の陶酔なのであるが、問題は2度にわたって演奏される、その間に挟まれた上昇音階をたくさん含む技巧的で軽やかな中間部分に起こる。この部分の「調号」は一貫して変ト長調(♭6つ)のままであるにも拘わらずヴァイオリンのソロは1回目は実質ホ長調(#4つ)、2回目は実質ロ長調(#5つ)なのである。その結果、譜面上では膨大な量の臨時記号(ナチュラルやシャープ)の嵐と化してしまっている。演奏の上では同じことなのだから、その都度調号変えてしまえば、ほとんどの臨時記号の必要はなくなり譜読みが簡単になり演奏も楽だろう。あるいは調号を変えるのが嫌ならば、記譜自体をエンハーモニック転換せず、変ト長調(♭6つ)のまま、臨時記号を加えるだけで変へ長調(♭+2)、変ハ長調(♭+1)のように書いてしまえば、結果的には同じホ長調とロ長調が響くうえ、臨時記号は現行の記譜より余程少なくて済む。なぜ、チャイコフスキーはわざわざこんなエンハーモニック的転調を臨時記号だけで済ますという面倒くさい処理に拘ったのか?当然、そこには、行きがかり上そうなったのではなく、はっきりとしたしかるべき意図があったと考えるべきである。思うにチャイコフスキーはオデットが王子との愛に溺れそうになりながらも、自分を取り戻そうとしている姿を、音符の上で表現しようとしたのではないだろうか。その意図というのは、ここで使われているホ長調やロ長調は、もちろん「幸福」を象徴しているわけだが、それはホ長調で書かれたオデットのヴァリアシオンの時のような単純な「幸福」ではない。「結婚」=ハ長調とは対極にある「結ばれざる予感」としての変ト長調の枠組みの中での「うたかたのような幸福」なのである。そして、それは同じ音であるとしても変へ長調や変ハ長調で表記されるべき「確定した不幸」でもないのである。チャイコフスキーはこういったねじれた感情を、わざわざ有り得ないような臨時記号の多用によって楽譜上で表現したのだろう。もちろんこのことについては、ダンサーたちは楽譜上のトリックをはっきり認識したうえで、踊りを通して観客に伝えるべきことなのである。



このパダクシオンの原曲は、1869年作曲途上で破棄されたオペラ《ウンディーナ》の二重唱である↓。チェロソロの部分はほぼ原曲通り。
初演の台本での、オデットが登場した時に語る身の上話は《ウンディーナ》に由来する。
V. Act III : Duet of Undina and Huldbrandt.

https://www.youtube.com/watch?v=HfKl-BdbJQw

さて、この《No.13:白鳥たちの踊り》には、ユルゲンソン版と全集版の間に奇妙な相違が存在する。それは《No.13−VI》、いわゆる『大きな白鳥の踊り』のところである。もちろん両版は全く同じ音楽なのだが、不思議とユルゲンソン版では「イ長調」、全集版では「変イ長調」で印刷されている。すなわち、まるごと半音違うのだ。結論を先に言ってしまえば、チャイコフスキーは変イ長調で作曲したにも拘わらずユルゲンソン版はイ長調に変えてしまったというわけだ。同じ主題を使った他の『白鳥たちのワルツ』《No.13−I》と《No.13−III》がイ長調であるので「突然変イ長調に変えるのは不自然だからイ長調に戻し」といった単純な理由ではないことは確かである。その根拠は、ユルゲンソン版の移調楽器の用法にある。もともとチャイコフスキーは変ト長調や変二長調の曲を含むに拘わらず、《No.13:白鳥た地の踊り》全体を一貫してA管クラリネット、A管ピストン(コルネット・ア・ピストンのこと。現代ではトランペットで代用することもある。)を使用したのだが、ユルゲンソン版では、この《No.13−VI》だけにB管クラリネット、B管ピストンが指定されている。これはきわめて奇妙なことで、ただ戻すだけなら他のワルツと同様A管を使うはずである。もともとの変イ長調の時ですら一貫してA管が使われていたのに、イ長調に調を変える際、A管ではハ長調で吹けるのにも拘らず、それをわざわざ#5つのロ長調にしなければならないB管を使用するという理由が全くないからである。もちろんチャイコフスキー自身もそんな馬鹿なことは絶対しないだろう。唯一考えられる推測として、ユルゲンソン版も当初は変イ長調の原版を作成していたのだが、プティパの曲順変更に合わせて、急遽イ長調に変更したのではないか?という推論である。その際、新たに版を作り直すことはせず、調号や臨時記号だけを変えてイ長調にしてしまった。そして、A管についてはB管に変えるだけで、ロ長調の楽譜はそのまま変更なしで使えたというわけである。製版の都合のみでなされた修正とは、なんという杜撰さ!それ以外にこんな馬鹿げた楽器用法は有り得ない。ユルゲンソン版を用いて実際演奏する奏者も決してこの曲だけB管楽器に持ちかえて演奏したりしないだろう。

プティパの曲順変更にあわせて、《No.13−VI》の変イ長調をイ長調に変更せざるを得なくなった理由は、下記の曲ごとの調の推移をご覧いただければ一目瞭然だろう。

原曲:イ長調→(属調)ホ長調→(下属調)イ長調→(平行調)嬰へ短調→(同主調)嬰へ長調=変ト長調→(三度転調)変ホ長調→(下属調)変イ長調→(三度転調)ホ長調

全集版を用いた場合のプティパによる曲順変更:イ長調→(遠隔調)変ト長調→(同主調)嬰ヘ短調→(遠隔調)変イ長調→(三度転調)ホ長調

ユルゲンソン版を用いた場合のプティパによる曲順変更:イ長調→(遠隔調)変ト長調→(同主調)嬰ヘ短調→(平行調)イ長調→(属調)ホ長調

《白鳥たちのワルツ》イ長調から《パダクシオン》変ト長調へは、ハープの和声的推移楽句によるカデンツァによって無理なく移ることが出来るが、《四羽の白鳥》嬰へ短調から《大きな白鳥》変イ長調へ移るのは、全くの遠隔調であるから無理があるというわけである。









[第3幕]宮廷の大広間


(15)




(16)コールドバレエとこびとの踊り




(17)情景
ここで問題となるのは、ファンファーレの意味と、『花嫁候補はいったい何人居るのか?』という点。
音楽の中で、ファンファーレは標題的要素の最も強い表現の一つである。したがって、バレエの演出ではファンファーレを無視することは出来ない。 
スコアを見るとファンファーレは都合3回鳴るので、候補は3人とするのが音楽に合致するところだが、振付者たちはスコア通りにやらないケースが多い。
そもそもプティパ=イワノフ版のドリゴ編曲では、ファンファーレは1回しか鳴らない。3回も鳴らすのは重複だと考えられたからだろう。観客は早くオディールの登場を見たいのだから当然の処置だ。その考えに準じたモデストの台本では花嫁候補の人数など書かれていない:<花嫁候補とその両親たちの行列。全体の踊り。花嫁候補たちのワルツ。>とあっさりとしたものだ。どっちみち名前すらない候補者の人数など、どうでもよいと考えられたのだろう。実際、チャイコフスキーのスコアでは453小節(繰り返し込み)もある長大なこのナンバーが、ドリゴの改編では半分以下の215小節と238小節もカットされている。普通8分以上かかるところを4分程度で演奏されてしまうのだ。

それではスコアのト書きや初演の台本ではどうなっているのか。
ト書きでは:
<ラッパの音が新しい招待者の到着を告げる。式典長は彼らを出迎え、伝令官は彼らの名前を王子に知らせる。老齢の伯爵が妻と娘を連れて入場する。彼らは高貴な人たちに挨拶し、娘は騎士の一人とワルツを踊る。>
<再びラッパが鳴り、招待者が入場。老人は席へ案内され、娘は騎士の一人にいざなわれてワルツを踊る。>
もう一度同じ場面の繰り返し。
全員が踊る。
コールドバレエがそっくり全員で踊る。
と、候補者3人が順番に登場し、次いでその3人が一緒に踊り、最後に参会者全員が踊ると、厳格に指示されている。

これに対して初演台本では:
<ラッパの音が新しい招待者の到着を告げる。式典長は彼らを出迎え、伝令官は彼らの名前を女王に知らせる。老齢の伯爵が妻と娘を連れて入場する。彼らは高貴な人たちに挨拶し、娘は女王に招かれて踊りに加わる。>
<再びラッパが鳴り、招待者が入場。式典長と伝令官が、もう一度自分たちの仕事を行なう。式典長は老人たちを席へ案内し、娘を、女王が踊りに誘う。
そのような入場が幾組か続く。
と、ト書きと同じように進むのだが、最後ははっきりしない。ひょっとしたら、初演で既にファンファーレは1回しか鳴らず、6人の候補者が登場したのではないかと疑われる。現代でも、ファンファーレが3回鳴る自筆譜に忠実な演出では、候補者がファンファーレ1回について2人ずつ、計6人登場したりする。

ちなみに現代のバレエ公演では、この6人というのが定番だが、5人や4人という場合もある。というのは、プティパ=イワノフ版の影響でファンファーレを1回で済ます演出が多いため、ひどいのになると「ファンファーレで王子が登場」なんて頓珍漢な演出も存在する。演出家たちはこの問題にあまり拘っていないからだろう。6人というのも《No.19パドシス》が花嫁候補たちの踊りだというトンチンカンな伝承から来ているのだからいい加減なものである。

また、台本の方は第3幕を通して女王自身が部外者に対して直接話しかけることが多い。これは第1幕で王子自身が村人に直接行動をとるのとも対応しており、貴人が一般人に直接話すことが多い点、台本とト書きの「しきたり」に対する見解の相違が見られる。『貴人は一般人に対して直接意思を示さない』という古風な風習を、台本では破っているのである。バレエは小説や脚本と違うため、動作を大きくしないと観客が理解できないからであろう。


(18)情景
ワルツが終わって、女王が王子に「どの娘が気に入ったか」尋ねる場面。王子が全員を拒否するので女王は白ける。ここは、王子がまだ夢を信じているので「変ニ長調」。
そこへファンファーレが鳴ってロートバルトとオディールが登場。音楽は異常に熱く「白鳥のテーマ」の断片が鳴りひびく。そこでいつも不思議に思うのは、他の花嫁候補たちと同じようにファンファーレが鳴るのにオディールだけは、なぜ別扱いに演出されるのだろうか?という点である。確かに登場後は全く違う音楽が鳴り響く。しかし、それは彼らが遅刻をしたことや、王子のオドロキを音楽で表したものであって、外面上は他の花嫁候補と同じ行動がとられて当然だろう。ここではオディールは単に候補の一人として登場するのであって、花嫁を誰にするかは幕の最後に王子が決めるのだから・・・

さて、プティパ=イワノフ版では最後の4小節が移調され、全体が半音上がっている。これは、この版では曲順変更がなされていて、《N0.19パドシス》(ヘ長調)へ行かず、《No.21スペインの踊り》(嬰ヘ短調)に向かうためである。ベースラインがFからEs、Dと下がっていき、5小節前の
D音上の減七の和音を経由して、自筆の全音下Cへは下がらず、ドリゴは半音下のCisへ下がるように変えたのである。この劇的効果は絶大。圧倒的な興奮状態のままスペインの踊りに入るのである。これに対して、自筆譜では興奮状態が中断し、全く場違いな田園的音調に変わるのである。

(19)(パドシス)
この曲は《白鳥の湖》全30曲の中でも最も謎に包まれており、そのせいか初演以来殆どの演出で、削除されるか、あるいは見当違いの場面で部分的に使われるのみである。実際スコアを見ても、そこには一切ト書きはなく、導入部(イントラーダ)とコーダに囲まれた4つのヴァリアシオン(舞曲)と抒情的な1曲によって構成されている。こういう楽曲構造は、プティパによって完成された、いわゆるクラシック・パドドゥ様式からはかけ離れたものであるので、彼は無視したのであろう。さらには、この曲名が全集版ではPas de Sixではなく (Pas de Six)とカッコ書きされていることは当初にはこの題名がなかったことを意味する。一方ユルゲンソン版にはカッコなどはなく単にPas de Six.とされているので、この加筆はモスクワ初演版振付時になされたものかも知れない。プティパはこの曲を採用しなかったのだから、彼がそこへ加筆する必要など全くないからである。

自筆譜および
ユルゲンソン版
全集版 ユルゲンソン版
のピアノ編曲譜
本稿での用法
(1) Intrada Intrada Intrada Intrada
(2) Var.I Var.I --- Var.I
(3) --- [Var.II] Var.I Andante con moto
(4) Var.II Var.[3] Var.II Var.II
(5) Var.III Var.[IV] Var.III Var.III
(6) Var.IV Var.[V] Var.IV Var.IV
(7) Coda Coda Coda Coda




(20)ハンガリーの踊り・チャルダッシュ


(21)スペインの踊り



(22)ナポリの踊り



(23)マズルカ



(24)情景




[第4幕]湖のほとり

(25)間奏曲



(26)情景




(27)小さな白鳥たちの踊り
スコアのト書きには<娘の白鳥が子供の白鳥に踊りを教える>と指示されている。実際、初演では16人の子役たちが白鳥たちに混じって《パ・ダンサンブル》を踊ったことがポスターに記されている。緊迫した場面に全く不釣り合いなこの情景に対して、チャイコフスキーは何らかの意図を込めて作曲したことは明らかだが、そのことは全く考慮されず【プティパ=イワノフ版】では台本の修正(ヒナ鳥に踊りを教える→気晴らしに踊る)とともにこの美しい音楽は削除され、別の曲に差し替えられてしまった。そこでの振り付けには、8人の黒鳥が登場する。そしてこれは白鳥のひな鳥を省略した補償を意味するらしい。

(28)情景



(29)最後の情景




*コラム《白鳥の湖》こぼれ話
(1)《白鳥の湖》の初演は大失敗だったと言われているが?
<答>本当に大失敗なら、一回こっきりか、あるいは当初予定されていた回数の上演だけで繰り返し上演などあるはずはないのだが、実際は1877年2月20日の初演から1883年1月2日の最後の上演まで、約6年間で41回(数え方により32回、39回という説もある)も上演されているのである。そして上演が打ち切られた理由は、度重なる上演により装置や衣装が摩耗してしまったということと、当時の政策により経費が削減されダンサーが半減したため上演不能になったことによる(【森田】p131&p138)。ということは大失敗などではなく、大成功とは言わないまでも、そこそこの評判でレパートリーとして定着していたというのが実態だろう。

(2)プティパ=イワノフ版の改訂初演は大成功だったと言われているが?
<答>この上演が大きな評判を取ったことは間違いない確かなことだが、しかしそれは《眠りの森の美女》のときの大成功ほどではなかった。1895年1月15日の初舞台から1896年の11月14日までの約1年半で16回繰り返され、その後数年は上演回数がごく少なくなったようだ(【森田】p283)。物語の内容が暗く、一般観衆に理解されるまでにはかなりの時間を要したからだろう。では、なぜ現在、初演は大失敗で改訂上演は大成功であったと認識されているのか?それは、初演の舞踊譜が現存せず、内容のほとんどが忘れ去られてしまっていることとともに、当然のことながら、改訂上演の関係者たちは、彼らの業績をより大きく印象付けるために、初演は失敗であったことを折に触れ述べてきたし、後世の人たちは、話を面白くするために、並みの評判を大失敗に、そこそこの成功を大成功にと、より大げさに表現してきたことの積み重ねが現在の一般的評価につながっているものと思われる。したがって本稿では、プティパの「改訂上演」のことを、一般に述べられている「蘇演」とは表現しない。とはいえ《白鳥の湖》が一般に名作として受け入れられるためには、膨大な時間の経過と関係者の努力があったことを見逃してはならない。

(3)三大バレエのうちで最高傑作は?
<答>チャイコフスキーの三大バレエは、《白鳥の湖》が《第4交響曲》、《眠れる森の美女》が《第5交響曲》、《くるみ割り人形》が《第6交響曲》にそれぞれ対応しているとよく言われるが、交響曲においては明らかに《第六交響曲》が最高傑作であることは疑いのないことなので、それから類推すると姉妹作の《くるみ割り人形》が最高傑作と考えてもよさそうだ。実際のところ、作曲技術的には《くるみ割り人形》が一番熟達しているのはあきらかである。また、作品の規模と内容の壮大さにおいては《眠りの森の美女》が最高である。洗練された作曲技法でも、巨大な充実性でも劣る《白鳥の湖》であるが、それでもなお私は《白鳥の湖》がチャイコフスキーのバレエの最高傑作であると思う。なぜなら、そこには『青白く燃え上がる情念の炎』がもっとも強く感じられるからである。《白鳥の湖》のどの一片を取り出しても、チャイコフスキーの天才が紡ぎだした『青白い情念』が感じられるのである。これは作品の規模や作曲技術の巧拙を超えた何物にも代えがたいものであって、《白鳥の湖》を最高傑作とする所以である。そして、これこそが<どこも切り取らずに、何も追加せずに上演すべきである>という、私の主張の根源をなすものである。さらに付け加えるならば、《眠りの森の美女》と《くるみ割り人形》には、プティパによる詳細な「作曲指示書」にほぼ忠実に作曲されたものであり、もちろんそれだからこそ成功を勝ち得たのであるが、やはり内容的な面では制約があったことを感じざるを得ないのである。これらに対して、《白鳥の湖》では、チャイコフスキーの才能が、自由に思うがまま作品の世界を創造しているのである。

(4)三大バレエ以外にチャイコフスキーのバレエ関連作品はあるのか
<答>完成された純粋なバレエ音楽は《白鳥の湖》《眠りの森の美女》《くるみ割り人形》の3曲だけだが、次の3つの作品は《白鳥の湖》創作以前の状況を知る上で忘れてはならない。三大バレエだけが屹立して存在しているのではなく、バレエ音楽に対する多くの試行や努力がなされた上での偉業であることが理解できるからである。Cは歌劇の中に存在するバレエシーン。
@バレエ音楽《シンデレラ(ゾルーシュカ)》:これがチャイコフスキーが最初に手掛けたバレエ音楽だが、1870年に手紙など伝記的事実から着手されたことは確かなのだが、なぜか途中で放棄され、作品の痕跡は全く残っていない。
A劇付随音楽《雪娘》Op.12:1873年に作られた作品でその中には合唱曲やバレエ音楽も入ってる。
B歌劇《オンディーヌ》(水の精):1869年に着手し未完に終わった作品だが、その中の二重唱がNo.13白鳥たちの踊りの中の有名なヴァイオリンとチェロのソロの付いた《パダクシオン》(王子とオデットのグランパドドゥ)が転用されていることは記憶しておかなければならないだろう。さらにこの《オンディーヌ》という素材は、もう一度チャイコフスキーによって手がけられることになる。今度はバレエ作品として、弟のモデストが台本を書いた。1887年のことである。チャイコフスキーはそれにバレエの音楽を付けるはずであったが、なぜかそれは立ち消えになってしまった。
C歌劇《スペードの女王》の中にバレエ音楽が存在する。これは《魔笛》をリスペクトした作品であって、オペラ内で《忠実な女羊飼い》と名付けられている。米国の北西バレエ(シアトル)では《くるみ割り人形》にこの音楽を取り入れている。

(5)《白鳥の湖》か《白鳥湖》か
<答>このバレエの標題は《白鳥の湖》なのか、《白鳥湖》なのかという問題は、たった1字の相違ではあるけれども、違いに深い意味合いが含まれているのある。
これは英語とフランス語の差にも対応している。すなわち、英語では 《The swan lake=白鳥湖》、フランス語では《Le lac des cygnes=白鳥たちの湖》である。もし、フランス語を直訳して英語にすると《The lake of swans》となる。フランス語から訳された日本語では(註)、本来《白鳥たちの湖》と訳すべきところだが、日本語では複数表現はあいまいなので《白鳥の湖》とされてきたに過ぎない(《白鳥たちの湖》ではどうも語呂が悪い)。したがって、《白鳥の湖》と《白鳥湖》の差は、結局のところ『白鳥』が単数であるか複数であるかの問題に収束するだろう。

単数の場合は『湖』が主体となる。「白鳥が飛来することがあるので名付けられた『湖』」といった感じである。複数の場合は『白鳥たち』が主体となる。「湖で飛んだり泳いだりして生活している『白鳥たち』」といった感じになるだろう。

当初チャイコフスキーが付けた名前は《Ozero lebedei=白鳥たちの湖》の方だったらしい。ロシア語でもそのように表現されていたようだ。ところが、初演のポスターにはすでにロシア語で 《Лебединое озеро》(Lebedinoe ozero=白鳥湖)となっている。さらに、スコアでは、ユルゲンソン版も全集版も《Лебединое озеро》と《Le lac des cygnes》が併記されている。とても奇妙なことだ。

(註)《眠れる森の美女》もフランス語(La belle au bois dormant)からの訳である。英語(Sleeping beauty)では《眠れる美女》となるところである。《白鳥の湖》と同様、森を持ってくることによって、より自然の中の物語であることを強調しているのだろう。

(6)パドドゥとは?
<答>パドドゥ(pas de deux)とは音楽におけるソナタ形式のような、クラシック・バレエの中核をなす一種の舞踊形式である。バレエがロマンティック時代からクラシック時代に移っていく(バレエは音楽とは逆にロマンティックバレエの後にクラシックバレエがやって来る)過程で形成され発展してきたものである。パドドゥはバレエの華。観客はそれをお目当てにバレエを見に来るし、ダンサーたちはこれを最も大切に考えていた。そのため、パドドゥはバレエのしかるべき場所(山場)におかれている。《眠りの森の美女》や《くるみ割り人形》も、老練なプティパが入念に構想したものであるので、抜かりなくそれが嵌められており、クラシック・バレエの華と称えられている。

パドドゥという言葉はもちろんフランス語で、 pasは歩み、ステップという意味から<踊り>、deは<の>、deuxは<2>ということであり、直訳すると<2人の踊り>となる。同類の用語に:
パドトロア(pas de trois)は<3人の踊り>
パドカトル(pas de quatre)は<4人の踊り>
パドサンク(pas de cinq)は<5人の踊り>
パドシス(pas de six)は<6人の踊り>
パ・ダクシオン(pas d'action)は<演技のついた踊り>(たとえば、《白鳥の湖》で、酔ったヴォルフガングが村娘を誘って古風な踊りを踊るといったもの)
パ・ダンサンブル(pas d'ensambre)は<ソリストたちが入り混じって踊る踊り>(たとえば、《眠れる森の美女》のプロローグで妖精たちが踊る踊りなど)
などがある。内容はパドドゥに準じて組曲形式になっていることが多い。

パドドゥの形式はそんなに複雑なものではなく、次のような部分に分かれる。
1、イントラーダ(導入):アダージョの準備をする部分。独立して1曲を成す場合と、単にアダージョの前に付けられた短い導入部分の場合がある。
2、アダージョ :、女性舞踊手が男性の補助を受け、ゆったりとした流れとポーズの美しさ、時に大胆な動きを表現するパドドゥの見せ場の部分である。
3、ヴァリアシオン:登場者それぞれが単独に踊る曲で、普通は登場者の人数分の曲に分けられる。すなわち、パドドゥの場合は、ヴァリアシオン1、ヴァリアシオン2、と男女に各1曲づつ充てられ、パドトロアでは3つ、パドカトルでは4つヴァリアシオンがあるのが普通であが、1曲で2、3人が踊ることによって曲数を減らすこともある。
パドドゥでは、アダージョで女性が中心になるので、続くヴァリアシオン1では男性がソロを踊ることになる。そしてヴァリアシオン2では女性が踊る。
4、コーダ: 速い動きの音楽の中で、ある時は一人づつ交互に、ある時はペアで踊る。華やかに盛り上げられる終曲を意味する。ヴァリアシオン2を受ける関係上、最初は男性だけが速い踊りを踊る。やがて女性が登場し32回のフェッテなど華やかな技を披露する。その後2人が一緒に踊り最高潮となって終わる。
このように、パドドゥはダンサーの能力を最大限発揮できるように仕組まれているというわけである。

これらの用語は、音楽で使われるものと同じ語が使われているが、バレエの場合は微妙に音楽の用法とは異なる。
<アダージョ>(adagio)は音楽のアダージョとは違って、テンポを指示する用語ではない。男性舞踊手の支えによってプリマがゆったりとした音楽の中で、ポーズの美しさと滑らかで艶やかな姿勢の移り変わりを見せるもので、テンポはアンダンテあたりが採られることが多い。フランス語では、バレエ用語としてアダージュ(adage)というアダージョ由来の言葉が存在するが、わが国ではあまり使われない。
<ヴァリアシオン>(variation)は、ソロで踊るナンバーで、各登場人物が単独で個性的な技を見せる踊りである。これも決して音楽の変奏曲(ヴァリエーション)を意味しない。速いテンポの曲が多く、男性舞踊手に対しては、そのダイナミックな踊りに合わせて躍動的なものが多く、女性舞踊手に対しては、細やかな技術を見せるコケティッシュなもが多い。バレエ用語はフランス語が多いにもかかわらず、バレエ界の用語としては英語風のヴァリエーションが使われる。音楽界では変奏曲との混乱を避けるためか、バレエ用語としてはヴァリアシオンが使われることが多い。
<コーダ>(coda)は、音楽の終結部ではなく、終曲を意味し、速いテンポで華やかに踊りを盛り上げる。つまり一種のフィナーレである。


【参考資料】
スコア:
(1)《Le lac des cygnes》Op.20 Grand Ballet en 4 Actes,  Peter Ilich Tchaikovsky, Broude Brothers New York 1951
(2)《Le lac des cygnes》Op.20 Ballet en 4 Actes,, Peter Ilich Tchaikovsky, Kalmus Warner Bros. Publications Miami
(3)《Schwanensee》Op.20 Ballett in vier Akten, Peter Iljitsch Tschaikowsky, Musikproduktion Jürgen Höflich München 2006
(4)舞踊組曲《白鳥の湖》Op.20a、チャイコフスキー作曲、音楽之友社、1953年


解説書:
(A)《白鳥の湖の美学》小倉重夫著、春秋社、1968年
(B)《チャイコフスキーのバレエ音楽》小倉重夫著、共同通信社、1989年
(C)《永遠の「白鳥の湖」》森田稔著、新書館、1999年
(D)《『胡桃割り人形』論ー至上のバレエー》平林正司著、三嶺書房、1999年
(E)《チャイコフスキー三大バレエ》渡辺真弓著、新国立劇場運営財団情報センター、2014年

2019・10・23