マーラー《第3交響曲》第1楽章における、特急「白鳥号」逆行事件


序文

10年以上前、畏友ホラぼやさんとのダイアログ(対話)をアップしましたが、それは彼の分析に対しての一方的批判や提案だけで、自分自身の分析がないのはいささか無責任と感じられるとともに、この大交響曲の解釈に基本的変化は無いものの、その後いくつか細かい点について補足の必要を感じるようになりました。そういったことを踏まえて、今回ソナタ形式によるこの巨大な構築物を私なりに分析してみることとします。テーマが『逆行』とあるように、私の分析では一風変わった手法、すなわち普通とは逆に【再現部】から遡る形で分析されます。まずはその理由を説明しておきましょう。

音楽というものは時間芸術である以上、まず主題が提示され、それらがどんどん発展・展開されていくさまが描かれるのであって、その解説も最初から順を追ってなされるのは至極当然のことです。ところが、マーラーがソナタ形式を基にしたこの巨大な楽章でやろうとしたのは、音楽の時系列的特性として当たり前のことに対するチャレンジだと私はこの作品から学び取りました。すなわち、ダイアログでも示したように、このソナタ形式は『調構造が【提示部】と【再現部】で逆転している』という事実と共に『主題素材自体が【再現部】において初めて本来の形で現れる』ことにあります。ここでは【再現部】こそが本当の『提示部』であって、そこに至ってやっと各主題が完全な形で『提示』されるのです。したがって、それ以前の部分は、時間進行に逆らって語られた『主題の発展的変容形』あるいは『素材を示すことによる問題提起』などと理解すべきでしょう。ですから【再現部】から解説した方が理解が容易であるし、その方が本質を掴みやすいというわけです。

こういった発想には前例は無いのだろうか? と調べてみると、その片鱗はシューベルトの《ますの五重奏曲》の第4楽章の変奏曲に見られます。作曲当時、すでによく知られていた「歌曲の《ます》のメロディーを使ってピアノ五重奏曲を作っては?」との支持者の助言で作曲された変奏曲なのですが、変奏の最後に至って歌曲の時そのままの音楽が現れるのです。シューベルトは、単に演奏する人たちへのサービスとして最後に「まんま」を付け加えたのか? 他の変奏の気分を損なわないように、強い印象を持つ楽し気な歌の雰囲気は最後にとっておいたのか? 確かにそうすることによって、歌曲の雰囲気に飲み込まれることなく、自由な発想で表情の異なるそれぞれの変奏に取り組めただろうし、『歌曲のまま』が現れたときには、皆は「それ来た」とたいへん喜んだに違いありません。とにかく外見上は、「第1変奏」から始まり、いくつかの変奏があった後、最後に「主題」が提示されるというスタイルが採られています。
また、ブルックナーの《第九交響曲》では、主題提示に先立って、その主題要素に基づいた「前座」あるいは「露払い」といった意味あいを持つ手法をいくつか見ることが出来ます。【註1】

とはいえ、現実には音楽は時系列に従属していて、作曲された順に演奏されていくわけですから、事前にそのことを知らされない限り、聴衆は混乱した状態のまま聴かされることになるわけで、マーラーはわざとそういうことを狙っていたのかもしれません。これはある意味、スコアを見る人たちの楽しみのために作られた作品ではないかとすら思えてくるのです。スコアでは時系列で見ていく必要などないですから。そして、逆から見ていくと、この長大なソナタ形式は、意外と単純な構造であることが解ります。例えば、「第1主題」は41小節に、トロンボーンその他で最初に演奏されます。「だって、これ全音符1つあるだけじゃあないの?全然主題じゃあないでしょう。」という疑問が起こるのは当然です。しかし、それは従来の「主題が提示されて、そこから音楽が発展・展開する」という思考法の結果もたらされる印象であって、マーラーは、主題が分解された姿を先に出すことによって、捉えどころのない曖昧模糊とした印象を与えることを意図していたのでしょう。あるいは「音楽は時系列に従属したものである」という固定観念を打破したかったのかも知れません。逆に言うと、マーラーはこのトロンボーンの全音符の重要性を、主題とは切り離して最初に聴衆に訴えかけたかったのでしょう。とにかく、もし最初に【再現部】の「第1主題」を聴かされていたとしたら、聴衆は【第1提示部】のトロンボーンの全音符のA音が「第1主題」の一部であると容易に気付くはずです。

古典派において最も重要な「多楽章ソナタ」という様式が確立した時、第1楽章とはソナタ形式による独立した完成体であり、後続楽章群は単なる気分転換あるいは付け足しに過ぎない、という考え方によって構成されていました。しかし、各楽章がありきたりな習慣で並べられた古典的多楽章ソナタの構造から、ベートーヴェンが端緒となり、続くロマン派の交響曲作曲家たちは、全ての楽章が関連性を持ったひとまとまりのものにしようと努力し、交響曲を音で作られた物語と捉え、交響曲全体としての一種のドラマ・ツルギーを求めました。そのドラマ・ツルギーとは、簡単に言ってしまえば、ベートーヴェンでは『苦悩から歓喜へ』あるいは『闘争から勝利へ』、ブルックナーは『苦悩から平安へ』であるとしたら、マーラーの場合は『苦悩から安心へ』ということではないでしょうか。もちろん『安心』の裏には『不安』があるということです。3人の交響曲の基本想念は、このように微妙に違っていますが、結局のところ、『暗闇から光へ』という点では同じであると言えましょう(ラテン語:Per aspera ad astra.ペル・アスペラ、アド・アストラ=困難(闇)を克服して光を!)。

マーラーの《第3交響曲》第1楽章での試行は、そういった交響曲にドラマ・ツルギーを求める努力の1つの究極の姿を示しているように思われます。この巨大な楽章は、問題提示されたものが全く解決せずに終わります。だって、本来あるべき主音の調(ニ短調又はニ長調)での終止ではなく、全く不安定で、先に続く展開が予測される関係調のへ長調、すなわち提示部の終止で第1楽章は終わってしまうのですから。そして究極の解決は終楽章(ニ長調)に持ち越され、そこで見事に解決されるという壮大な音楽ドラマが繰り広げられていくのです(最終的解決は結局《第4交響曲》においてなされることになってしまいますが・・・)。こう考えてみると、ソナタ形式の構造における提示部と再現部の『調の逆転』という奇妙な手法は、単なる思い付きではなく、このことを成就するための最も重要な要素であったとも言えるのです。

私の解説では、各素材について『夜の動機』などという具体的な記述をわざわざ使っていますが、それは単に沢山登場する主題や動機を印象的に覚えていただくためだけのものであって、その言葉が標題的な何かを強要するものでは決してありません。いわば、それらは単なる渾名であると理解してください。この作品は、あくまでも絶対音楽であって、私はその方向で、すなわちソナタ形式としての構造やそこに現われる主題や動機の関係について分析を進めていくつもりです。マーラーは、この作品から標題的記述を取り去って、最終的には絶対音楽とした以上、聴く人個人個人が、それぞれ独自のイメージを持ち、標題的にどんな風に捉えようと(たとえば「この作品はデュオニソス的なものとアポロン的なものの対比を示す」等など)、それは全く自由なことです。絶対音楽とはそういった性質のものです。

一方、ここでは具体的には述べませんが、マーラーは標題的意図を持って、あるいは標題的なものから楽想を得て、この交響曲を作曲したことも紛れもない事実であって、演奏会のプログラムや、解説本による多くの解説はそのことにかなりのページを費やしています。さらには、第4楽章および第5楽章には歌詞が存在し、それらが第1楽章と密接に関連している以上、もともとあった各楽章ごとの標題を作曲家が削除したとしても、この作品における標題志向を完全に消し去ることは出来ません。もし、純粋な絶対音楽であるとしてマーラーがこの曲を考えていたのなら、第4、第5楽章を分離し、オケ伴声楽として独立させるべきだったでしょう。そうすれば何のことはない、器楽だけの普通の4楽章構成(第1、第2、第3、第6楽章)の交響曲なのですから。しかし、マーラーはそうはしなかった。とはいえ、4楽章論者から言えば、マーラーの「標題は削除して、歌詞は残す」というやり方は「頭隠して、尻隠さず」的な不徹底なものに映ってしまいます。もし最終的に、マーラーが4楽章の器楽交響曲として完成していたとしたら、90分程度(第1楽章:40分、第2楽章:10分、第3楽章:20分、第4楽章20分)の変化に富んだ演奏効果抜群の交響曲として、昨今のマーラーブームのもとでは演奏される機会が飛躍的に増えたのではないかと思います。

ところで絶対音楽には、具体的な意味を持たない音符や楽想の積み重ねで作られているものだけではなく、標題的な楽想や標題的な構成法を採っていたとしても、絶対音楽の構築性の下に作曲されたものであればよいという考え方もあります。たとえば、ベルリオーズの《幻想交響曲》は全編にわたって標題的な意味を持つ主題や動機が散りばめられ、全体の流れが物語風に進行していますが、交響曲のスタイルそのままに作られているので、標題的風味が加味された絶対音楽の交響曲とみなしても差し支えないということです。一方、マーラーの《第3交響曲》では、歌詞以外の一切の標題的文言は削除されている(あるいは印刷譜には存在しない)ため、マーラーは自身が着想を得た標題的要素をそのまま受け取ってもらうことを聴衆には求めず、自由なイメージの絶対音楽として聴いてもらいたいと考えていたと思われます。たとえば[6]の83小節にトランペットで現われる印象的な動機は、確かに第4楽章[8]の歌詞「Weh(痛み)」に対応しているので、『痛みの動機』と名付けていますが、聴衆は、その様に理解してもよいし、全く別のものをイメージしてもよいということです。そのためにマーラーは標題的文言を第1楽章に記載することを避けたのでしょう。ですから、ここで名付けた『痛みの動機』も単に動機を識別するための方便であると捉えていただければ嬉しいです。

なお、[25]などと四角カッコで示された数字はスコアに記されている練習番号を示します。また、♪ドレミで示される音列は全て『移動ド唱法』が使われます。基本の音符は4分音符の場合と8分音符の場合があります。ひらがなが混じっている場合は基本の音符の半分の音価を示しています。ここでは『固定ド唱法』的な音列表記はなく、音名が必要な場合は基本ドイツ音名が使われます(日本語の場合はイロハ・・・)。このことは調性音楽を理解するうえで非常に大切なことです。また、和音はドイツ音名が使われます。大文字は長三和音、小文字は短三和音、その他はその都度解説されます。

【註1】強大な第1主題と柔和な第2主題の間の経過部には、切れぎれの管楽器の呼応によって次第に第2主題のメロディーが紡ぎ出されていく様が描かれている。特に、115小節のチェロのメロディーなどは、経過部最後、93小節のところのクラリネットを、そのまま半音上げた形である。
第2主題と第3主題の間の経過部にも別の意味の「先取り」が見られるが、こちらは時系列に拘泥すると奇妙なことになってしまうという間違った分析の実例を紹介しておこう:
名曲解説全集1 交響曲上 P403:ブルックナーの《交響曲第九番》の第1楽章の坂本良隆による解説 昭和34年6月25日 音楽之友社
<第三主題はpのオーボエに現れ、弦のpppのトレモロをしたがえている(153小節 langsamer)。やがてこの主題の転回が、ニ短調で速度を速める。これは第二主題の旋律的表情と、第一主題の厳格さの中間に位するもので、おちついた行進曲風のものである。>
実際は<ニ短調で速度を速める>(167小節 Moderato)ところこそが第3主題であって、<ピアノのオーボエ>は第3主題を転回した一種の変容であって、第2主題と第3主題を結ぶ経過楽節に過ぎない。
スケルツォ冒頭の42小節間にある弦のピチカートの旋律も、それ自体は主題そのものではなく、フォルテになった時に現れる本来の主題の「前座」であると解釈すべきだろう。なぜなら、そこにあるオーボエとトランペットの導音の保続は、「天から下された蜘蛛の糸」のように、ピンと張りつめた特異な緊張を持続させて主題を待ち望んでいるからである。

2014・1・27
2018・7・15 改訂

<分析のはじめに>

序文であらましを述べたが、まずはこのソナタ形式の特徴を以下にまとめて列記しておこう。

(1)「第1主題」の根幹をなす最も主要な動機は41小節に現れるトロンボーンのA音の全音符である。
(2)冒頭のホルン主題『ジョーカー』は旋法的異質さで際立っており、現れるごとに変貌する。
(3)【提示部】も【再現部】も三度転調による『魔法の動機』によって終結する。
(4)相交わらない[第1主題部]と[第2主題部]に対して、『ジョーカー』は楽章全体をまとめる狂言回し的役割を担っている。
(5)
【再現部】が提示部としての機能を有しており、調構造も逆転している。
(6)2つの【提示部】を持つ二重提示構造である。

(7)それに伴って【展開部】も2つある。


全体で875小節を擁し、演奏に30分以上を要する、すなわち古典交響曲まるまる1曲分にも匹敵する規模を持つこの長大な楽章が『明確なソナタ形式に基づく』ものであることを聴衆にはっきりイメージさせることは並大抵なことではない。特に、曲が始まって20分以上も経って、やっと【再現部】が現れるという人間の普通の感覚を完全に無視したような時間的へだたりは、作品の理解に大きな負担となっている。それを、マーラーはいかにして乗り越えようとしたか?

その問いへの答の1つは強固なランドマークの設定である。今現在ソナタ形式のどの部分を演奏しているのだろうか?という聴衆の疑問に対して、現在の位置を判別出来るような至近の目印を要所要所に配置したというわけである。その目印としてマーラーは2つの特別の方法を採った。1つは『別の旋法』の利用である。冒頭、ホルン8本のユニゾンによる強奏で、一風変わった不可思議な音調で吹き始められる特徴的な主題は、聴衆に極めて明瞭に曲の開始を印象付け、【再現部】に入った時に、はるか以前の曲頭を容易く思い出させるのである。(一風変わった音調とは、実は教会旋法であるリディア旋法的節回しのことである)。私はこのホルン主題を『ジョーカー』【註2】と名付けた。

もう1つの方法は目の覚めるような三度転調である。【提示部】および【再現部】末の高揚した頂点で、印象的な三度転調を経て現れる不思議な動機を『魔法の動機』と名付けた。この、全てをご破算にするような強烈で明確な印象付けは充分聴衆に形式の切れ目を意識させ得るものである。

こういった強固な枠構造が長大な作品に明瞭な形式感を与えているのである。多様な動機や主題群が提示され、それらが雑駁なように見えるほど複雑に展開され道に迷いそうになる聴衆にとって、これらの存在は音楽進行の一種の道標としての安心感を与えることに大いに寄与している。したがって、聴衆は4つのランドマーク(@冒頭A【提示部】末B【再現部】頭C【再現部】末)さえきっちりと把握すれば、この巨大な楽章のソナタ構造を、意外と容易に理解できるというわけである。

長さへの対策の2つ目は、全く質感の異なる布地を繋ぎ合わせたパッチワークのように、雰囲気の全く異なる部分が交替して現れるという構成法が採られている点である。コラージュと言い替えることも出来るかもしれない。こうすることによって、長大さから来るマンネリ感を避けようとしたのだろう。布地は3つあり、1つは[第1主題部]に属し、あとの2つは[第2主題部]に属する。

舞曲形式から発展した原初の単純なソナタ形式では、提示部は[主題部分]と[終止部分]の2つの部分に分かれていたのだが、[終止部分]から派生した旋律的で魅力的な挿入部分としての「第2主題」の存在が形式上で大きな位置を占めることになって、[第1主題部分]・[第2主題部分]・[小終止部分]の3部分から成るソナタ形式提示部の標準が確立した。しかし、ここでは[第1主題部]・[第2主題部]と、大まかに2つの部分として分析する。なぜなら、この曲は古いソナタ形式の構造とは全く違うコンセプトで作られているし、[第2主題的部分]と[小終止的部分]と目される部分は、単に布地の質が違うだけで、たくさんの主題材料が入り混じって盛り込まれており、「第2主題」そのものは、いわゆる[小終止的部分]でその本体が現れるのだから形式的に見て、この2つを分離することに意味が無いからである。とはいえ、2つの部分のテイストは全く違い、[第2主題的部分]は静かでフワフワした夢想的な[幻想曲部分]、[小終止的部分]はリズミカルなマーチのような[行進曲部分]と言い替えることが出来、下表では、別々の布地として色分けしておくこととした。したがって荘重・厳粛な[第1主題部]は青、2つの[第2主題部]は[幻想曲部分]は茶色[行進曲部分]は緑である。こういった色分けからこの楽章を見てみると、極端に言えば、3つの別々の曲、あるいは3つの別々の楽章を巧みに組み合わせたものとも見ることが出来よう。

もちろん[第1主題部]と「第1主題」は同一ではない。「第1主題」の中にはいくつかの重要な素材が含まれており[第1主題部]の中で様々に変化して現れる。いわば「第1主題」は[第1主題部]のバックボーンである。と、ともに[第2主題部]も同様であり、いくつか登場する素材の中で、とりわけ重要な主題が「第2主題」なのである。明瞭に両主題が示されるのは【再現部】においてである。時間を逆にしているため、色分けしたようなパッチワーク的手法を是非とも必要としたのである。ちなみに、「第1主題」とは[58]の1小節前から[62]までの54小節であり、「第2主題」とは[64]の10小節である。2つの主題部の対比は、人間と自然、夜と昼、厳粛と歓喜、夢と実現あるいは試練と慰めなど様々に解釈することが可能である。

本来、ソナタ形式における「第1主題」や「第2主題」は、明確な対比を示しながら互いに絡み合って展開していくはずのものだが、この曲ではそうではないため、バラバラ感を緩和する手立てが必要となってくる。そこで活躍するのが『ジョーカー』である。[第1主題部]、[第2主題部]にある3つの異なる布地の間に介在して、仲介者あるいは狂言回しのような役割を果たしている。『ジョーカー』は楽章のいたるところで顔を見せるが、いずれも普通の長調、短調の範囲内の音調なので、楽章頭と【再現部】頭だけが奇妙に屹立していることが特徴的であり、ランドマークとしての役割を旋法によって達成したというわけである。

一方、この『ジョーカー』を「第1主題」そのものだと誤認すると、長大な第1楽章の構造が理解し難いものになってしまう。ヒントはシューベルトにある。彼の《未完成交響曲》では、最初に提示される低弦の「序的主題」は、ソナタ形式上の「第1主題」、「第2主題」とは別の、第1楽章を支配する(あるいは全曲を支配する)「根本主題」であるとの認識に立っている。マーラーは、シューベルトのこの形式観を敷衍し拡大したに過ぎないというわけである。シューベルトの「序的主題」と同様、たびたび登場する『ジョーカー』を形式内に組み込もうとすると、この楽章のソナタ形式が理解不能となってしまうのである。

ソナタ形式における繰り返しは、その起源が舞曲形式であったことの名残である。それは、第1部(提示部)と第2部(経過部+再現部)の2つに分かれており、第2部の繰り返しはベートーヴェンの時代にはすでに捨てられていた。しかし、第1部(提示部)の繰り返しは、ソナタ形式の形式観を保つために温存されたのである(革新的な《第9》では、それすら放棄されている)。交響曲とは別に、協奏曲のソナタ形式では、この提示部繰り返しを、単純な繰り返しではなく、1回目をオーケストラだけの提示部、2回目を独奏楽器が主体の再提示部と分化した。

器楽曲形式の粋である交響曲が形式的にはすでに硬直化してしまっていたマーラーの時代は、そこに何かしらの新しい活力を与えなければならなかったのである。形式的に全く自由な交響詩には、その自由さゆえに疑問を感じていたマーラーは、《交響詩》として作曲した作品を《第1交響曲》と標題を変更した。その交響曲としてのアイデンティティを第1楽章提示部の繰り返しに求めたのである。一旦印刷したスコアに、繰り返しのための指示を追加したことが、現在の印刷譜に残るチェロパートの辻褄合わせから窺える。繰り返しは《第6交響曲》にもみられる。一方、単純な繰り返しではなく、協奏曲ソナタ形式を交響曲に取り入れて二重提示という形式を確立したことは、同じ音楽がそのまま後にも現れることを嫌うマーラーにとっては必然の解決策だったのだろう。

【註2】『ジョーカー』とは突飛な発想だが、トランプのオールマイティーをイメージしていただきたい。ソナタ形式の形式の枠外に位置していて、その姿は千変万化し、刻々と変化していくといった意味である。いくつかを例示しておこう。これらのメロディーを楽器で演奏してみて、微妙な違いを味わっていただきたい:
@冒頭 リディア旋法?♪シー|ミーーーレーミー|ドーーーソ、ドー|ミー#ファソ#ファーミー|レーーーシー (8ホルンユニゾン)
A273小節 ヘ長調 ♪ソー|ミーーーレーミー|ドーーーソ、ドレ|ミーファソファーミー|レーーーソ、(1番ホルンソロ)
B315小節 ヘ長調 ♪ソー|ミーーーレーミー|ドーーーソ、ドシ|ラーソラシーラソ|ファーーーレ、(ホルン4本)
C331小節 ニ長調 ♪ソー|ミーーーレーミー|ソーーーミ、ソー|ミーレドレーミー|ソーーーミ、(トロンボーン)
D506小節変ト長調 ♪ソラ|シーーーラーシー|ソーーーミ、ソー|ラーシドシーラー|ミーーーレー(チェロソロ)
E583小節 ハ長調 ♪ソー|ドーーーシードー|ソーーーミ、ソー|ドーシドレードー|ラーーーファ、(トロンボーン)


区分 細区分 練習番号 小節数
(4)【第1提示部】
[始め]-[12]
163小節
第1主題部]「序奏」 『ジョーカー』    開始   26
[第1主題部]「第1主題」の変容     2  105
[第2主題部]幻想曲    11   18
[第2主題部]行進曲    12   14
(5)【第2提示部】
[13]-[28]
205小節
[第1主題部]「第1主題」の前半    13   61
[第2主題部]幻想曲    18   14
[第2主題部]行進曲    19   34
[第2主題部]『ジョーカー』「第2主題」    23   78
[第2主題部]「終結主題」 
『魔法の動機』
   28   18
(2)【第1展開部】
[29]-[42]
161小節
「第1主題」の変容    29   55
「第1主題」の後半    33   31
幻想曲[第2主題部]の展開    35   37
「終結主題」『ジョーカー』    39    38
(3)【第2展開部】
[43]-[54]
113小節
『冒険の主題』の展開    43   44
『冒険』と『ジョーカー』    48   31
『嵐』    51   38
(1)【再現部】
[55]-[76]
233小節
第1主題部]序奏」 『ジョーカー』    55   28
[第1主題部]「第1主題」    57   66
[第2主題部]『嵐の主題』    62   63
[第2主題部]『ジョーカー』「第2主題」 69の4小節前   46
[第2主題部]終結主題」
 『魔法の動機』
 「結尾」
   73   30
合計  875




(1)【再現部】[55]-[76](643〜875小節)
[55]
『ジョーカー』と名付けた特徴的な最初のホルン主題は、いわゆるソナタ形式の第1主題ではない。この曲の「第1主題」は[57]から始まる。したがって、それに先立つ[55]と[56]は、いわば序奏である。ここで一応「序奏」と名付けたが、それは古典派のソナタ形式に付いている序奏とは全く意味合いの異なるものである。提示部も再現部も同じ序奏で始まるようなソナタ形式は全く珍しいのである。この曲の最大の特徴である『【提示部】と【再現部】の逆転』がもたらした不思議な現象であるし、長大なソナタ形式の【再現部】を聴衆に印象付けるための必然的処置でもある。なにしろ、曲の最初というのは、最も聴衆の記憶に残る部分であるのだから。こういった形は、形式が定まっていない前古典派のソナタ形式では数ある試行の一形態としては存在するのかも知れないが、古典派の有名交響曲では、序奏は主部とは別の存在であると位置づけられているので、序奏を再現のランドマークと位置づけたようなソナタ形式はまず見当たらない。いくつか類似した例をロマン派の作品から見てみよう。シューベルトの《第1交響曲》では、アダージョの序奏が再現部直前にアレグロで(音価を倍にして)展開の1つの手法として現れる。フランクの《ニ短調交響曲》には、レントの序奏が再現部にも現れるが、この序奏自体は第1主題と同じ材料でつくられているので、単にテンポが違うだけの第1主題の一部だと考えるべきものだろう。古典派の序奏とは性格が全く異なる。

このホルン主題をシューベルトの《未完成交響曲》の援用であると捉えると、たしかに『序的主題』と言えるかもしれない。「第1主題」がソナタ形式構成上必須の主題であるのに対して、『序的主題』とは形式上の要件を超えた、楽章全体あるいは作品全体をカヴァーする主題と位置付けられており、このホルン主題もそのように扱われている。《未完成交響曲》冒頭の低弦の『序的主題』とオーボエ+クラリネットの「第1主題」の関係を端的に言えば<「第1主題」は第1主題部分においてのみ発言し、他の部分には登場しないのに対して、展開部やコーダで扱われる『序的主題』こそが楽章全体あるいは全曲を支配している>と言えるのだ。この点が、ベートーヴェンの「第1主題」絶対主義とは異なるところであり、ソナタ形式に『序的主題』を持ちこむことによって構成的脆弱さが批判される要因ともなったのである。とにかくこの方式は、巨大化・複雑化したマーラーの《第3交響曲》第1楽章にも適用されていることは紛れもない事実であり『序的主題』的概念を導入しない限り、この楽章の適切な分析は不可能であると言えよう。さらに、シューベルトの《大ハ長調交響曲》の序奏部主題が、ソナタ形式本体の提示部の小終止部分にトロンボーンによって執拗に扱われるやり方も、この楽章の手法の先駆の1つといえよう。とは言え、『序的主題』という用語は、残念ながらベートーヴェンの《運命》、《田園》や《第9》のように『第1主題』そのものや、その断片を特徴的な形で冒頭で提示する手法にも使われることがあるので、誤解を避けるためここでは用いない。

もう1つ別の言い方の『主要主題』=Haupt Themaという用語を考えてみよう。ブルックナーが《0番交響曲》をお蔵入りにするきっかけを作ったという有名な逸話:
ブルックナーがこの交響曲を演奏してもらおうと指揮者のデッソフにピアノで弾いて聴かせた。それを聴いたデッソフが尋ねた"Ja, wo ist denn da das Hauptthema?"(なるほど、じゃあいったいどこに主要主題があるのでしょうかねえ?)。
ここで言う『主要主題』とは『第1主題』=Erstes Themaそのものを意味している。ソナタ形式の第2主題がまだ未分化の状態であったとき、提示部は『主要主題』と『終止主題』によって構成されていた。『第2主題』という概念が明瞭になって来たからこそ『第1主題』という言い方が重みを持つようになったのである。すなわち『主要主題』イコール『第1主題』であって、ホルン主題のような 『第1主題』を超えた存在を、より適切な用語として『主要主題』と定義するのは誤解を招きかねない恐れがある。

そこで、『序的主題』的性質を持つ、すなわち第1主題ではないのにソナタ形式の枠を超えて楽章を支配する冒頭ホルン主題を、私は序文で『ジョーカー』と名付けた。
この『ジョーカー』は、ブラームスの《第1交響曲》フィナーレの第1主題に似ていると指摘されることがよくある:
62小節 ハ長調 ♪ソー|ドーーーシードー|ラーーーソ、ドー|レーミレミードー|レーーーレ、(ヴァイオリン)。
確かに[49]でトロンボーンが演奏する時などは、まるでそっくりだ【註2】E参照:
583小節 ハ長調 ♪ソー|ドーーーシードー|ソーーーミ、ソー|ドーシドレードー|ラーーーファ、(トロンボーン)。
ここではハ長調で現れるので、調性までも一緒である。この時点に来て『ジョーカー』のぼろが出ると言うか、本性が現れるのである。このブラームスの主題は発表当時からベートーヴェンの《第9交響曲》の剽窃ではないかと問題視されていたという経緯もあるので、ひょっとしたらマーラーは、あえて、この問題にされた主題を引用したのかもしれない。とはいえ、【註2】で数例示したように、この『ジョーカー』は常に一定のメロディーで現われるのではなく、基本のリズム形態は保持しながらも、音程の変化や担当する楽器により微妙に変貌していくように扱われている。ちょうど人間の多様な側面を表しているようだ。この手法も、1つの主題から次々と新しい主題を紡ぎ出していくというシューベルトの主題労作法を真似たものとも言えよう。

ところで、最初に現れる『ジョーカー』を聴くと、ブラームスとは少しテイストが異なるように感じられる:
冒頭 ♪ミー|ラーーーソーラー|ファーーード、ファー|ラーシドシーーラーソーーーミー(ニ短調的)
あるいは【註2】@:
冒頭 ♪シー|ミーーーレーミー|ドーーーソ、ドー|ミー#ファソ#ファーミー|レーーーシー(変ロ長調的)。
短調のようで短調ではない。長調のようで長調でもない。2小節目のB-F-Bの強固な4度進行が、ニ短調(♪ファードファ)ではなく変ロ長調(♪ドーソド)を強くイメージさせるからだろう。でも、ファが#になるのはとっても変、歌いにくい。と、考えてみると、これはわれわれが普段使っている長短旋法とは違うものではないかという思いに至る。そう、これは教会旋法のリディア旋法に近いのではないか! リディア旋法とは♪ファソラシドレミファ、へ長調の調号フラットを外したものに近い。ということは、それをハ長調読みにするとファにシャープを付けた形(♪ドレミ#ファソラシド)となるが、『ジョーカー』のようにドミソの音形にト長調への転調の気配なくファのシャープをつなげるとリディア旋法の雰囲気に近づくというわけである。教会旋法はどれも古風でファンタスティックなテイストを持っているが、その主な3つの旋法、ドリア旋法、フリギア旋法、リディア旋法はニュアンスがそれぞれ異なる。フリギアが幾分「鬱」なのに対してリディアは「躁」と言えるだろう。そのため、冒頭のメロディーは古風で武骨で能天気な感じをわれわれに与えるのである。そして、この特異な形は曲頭と再現部の始まりの時にしか現れない。時間的に離れた両者を結びつけるために、これほど効果的な手法はないとも言えよう。

[56]
練習番号[56]の3小節前(655小節)からは第4楽章11小節からの引用が金管によって挿入される<和音:F→a、fis→a>(【第1提示部】では<F→a、fis→A>)。第4楽章では、アルトソロがA音(4つの和音全てに存在する音)だけの音程のない歌を歌う。その歌詞は 『人よ! 人よ!= O Mensch!』という人間に対する呼びかけである。もちろん第1楽章には声はないが、代わりに第4楽章では使われない大太鼓とティンパニが静けさを強調する。当然のことながら、歌詞がなくても同じことを意味してるのだろう。第1楽章で2回演奏されるように、第4楽章での呼びかけも11小節からと83小節からの2回歌われる。ところが不思議なことに、4つセットの和音の最後の和音が第1楽章では、【第1提示部】長三和音<A>→【再現部】短三和音<a>の順であるのに対して、第4楽章では短三和音<a>(14小節)→長三和音<A>(86小節)と順序が逆転しているのである。これも【再現部】が本来の『提示部』であるとの謎かけの一つなのだろうか?
この歌詞から導き出された印象的な和音的動機は、いわば聴衆への問いかけであって、様々な葛藤を通して探し求められた解答を第6楽章の『愛』とするならば、まず最初の問題提起といった意味を持つのだろう。そして、これが「第1主題」の最も重要な要素ともなるのである。

続く、1,3番ホルンの長2度音程の繰り返しは夜の静けさを表現しているのかも知れない(『夜の動機』)。この2度音程は第4楽章のベースになる重要な動きであり、そこに付けられた和声もそのまま演奏される(第4楽章の15小節と87〜88小節)。第1楽章ではさらにタムタムが加わって(3度響く)、静けさをさらに強調する。続いて667小節からは、大太鼓だけが残り四連符+三連符+トレモロの特徴的なリズムを叩いた後、短い三連符を含む「第1主題」の葬送のリズムを打ち始める。
『夜の動機』の2度音程で上下する繰り返しは、ブルックナーの《第二交響曲》第2楽章の145〜148小節を思い出させ、それはさらに《ミサ曲第3番》のベネディクトゥスに繋がる。ちなみに、1875年にヴィーンの楽友協会音楽院に入学したマーラーは、1878年に卒業する。その間、ヴィーン大学にも登録していて、ブルックナーの和声学の講座も受講したようだ。したがって、ブルックナーの1876年2月20日の《第二交響曲》の演奏時や1877年12月16日の《第三交響曲》の初演時には、マーラーは学生としてヴィーンにいたので、この2つの交響曲に対して強い関心を抱いていたはずである。《第三交響曲》出版時には、その連弾編曲版作成を担当したくらいだから。

[57]
大太鼓のリズムを受けて、「第1主題」が始まる。大太鼓に加えて、トロンボーン、テューバ、ティンパニ、低弦がタタタタンのリズムを確立させ「第1主題」の雰囲気を決定する。これはベートーヴェンの《英雄交響曲》の葬送行進曲のリズムである。しかし、ここには葬送という意味合いはなく、厳粛さや荘重さが演出されているのだろう。このリズムに乗って主題の登場を待ち望む前座として、木管やホルンのオクターヴ跳躍する『歓呼の動機』、ミュートを付けたトランペットの『叫びの動機』(到達音であるD音の半音下(導音)に長く留まるのが特徴)、ファゴットのトリルのあるもごもごした『うごめき動機』、そして低弦の威圧的な『怒りの動機』たちが加わり、ヴィオラのトレモロが雰囲気を作る。そんな中でトロンボーンが長大な「第1主題」を吹奏する。これが『主人公』である。トロンボーンが「第1主題」をソロで吹くというのは極めて稀なケースであって、ブルックナーが彼の《第三交響曲》をトランペット主題で始め、それをヴァーグナーが賞賛したことを意識して「ブルックナーがトランペットなら私はトロンボーンだ」と対抗意識を燃やしたのかも知れない。
この「第1主題」は延々と50小節にも及ぶもので、トロンボーン・ソリストの負担はたいへんなものだ。主題全体は2つの部分に大別され、前半は【第1提示部】や【第2提示部】で、後半は【第1展開部】で示されたものが、この【再現部】で合体し、完成した姿となる。逆に、『逆行ソナタ』として言い換えれば、【再現部】で『提示される』巨大な主題を分解、展開したものが、先の3つの部分での『変貌した「第1主題」』であると言えよう。

ここで、注目されるのは、この長大な「第1主題」で最も重要な動機は最初に提示されるA音の全音符であるということだ。全音符1つだけで動機を形成することが出来るのか?という疑問は付きまとうが、マーラーはそれをあえて無理やりやってのけたのだっだ。もちろん、これは第4楽章の 『人よ! 人よ!』から導き出されたものであることは紛れもないので『人よ!の動機』と名付けた。

さらに、「第1主題」の前半部分を特徴づけているのは、2つの隠された半音進行である。
@692小節:♪FisーAー↓AーF(#ドミ↓ミ本位ドーー)・・・Fis⇒F
A694・5小節:♪AーEーA、AーFーA(ミシミー、ミドみどみどミー)・・・E⇒F
この、F音を軸として、そこへ半音下がって到る形と、半音上がって到る形の2つの和声を伴う動き@、Aは『人よ!の動機』の和声構造から生まれたものであるのことは明らかで、常にA音が基準音となり外側から支えているいることから、『人よ!の動機』の一種の変形と見ることも出来よう。

703小節から始まる後半は、前半部の荒ぶれた表情から一変、マーラー風の巧妙な和声の時間的ずれを伴った基本ニ長調(主調ニ短調の同主調)の柔和なモノローグとなる。これは【第1展開部】[33]の基本変ロ長調のトロンボーンソロを長3度上げた形である。そして、この長大な「第1主題」の最後を飾るのは、優しく変容されたC−B−A(725〜728小節)の動きであり、これは激しい低弦の『怒りの動機』に対する答ともなっており、『愛の動機=ターン』によって前後を支えられている。トロンボーン(724小節:変ロ長調♪ミファミ#レミ)とチェロ(731〜732小節:ニ長調♪レーミレ#ドレ)である。『怒り』を『愛』で包み込むわけだ。

最後はコントラバスの遅れた主音によりニ長調の安息の中に終結する。同時には響かない主和音への繋留による余韻の醸成は、《第5交響曲》のアダージェットにも相通ずるマーラーお得意の手法である。

[62]
[第2主題部]は、まず低弦から始まる。【第2提示部】でも同じような付点リズムの低弦の部分があるが、内容は全く違う。ここでは【第2展開部】の嵐の部分[51]で派手に吹き鳴らされた付点つきのメロディーが、ひそやかに再現するのだ。ここにはオーボエで、3つの前打音を伴うイ短調の和音が警告のように時々現れる(前打音は出来るだけ素早くと指示されている)。これは前打音が特徴の『目覚めの動機』(あるいは『出発の動機』)♪ソーソーソーミドソーの前半部と見做すことが出来よう。この雰囲気の中で750小節に『ジョーカー』が弱音器を付けたホルンによってひそやかに歌われる。これは冒頭のリディア風味ではなく純然たるヘ長調(したがって主和音としてミ・ソ・ドが使われる):♪ソー|ドーーーシードー|ソーーーミ、ソー|ドーシドレードー|ソーーーミ、だが、そこに流れている和音はイ音からの短三和音(ミ・ソ・シ)。この2つ、ドとシが半音でぶつかるので、メロディーにドがある小節では、和音のシは削除されている。
続いて758小節には、ヴァイオリンで出される『さすらいの動機』(♪ミッら↓ドッれ)が加わる。

[64]
ここで、アウフタクトを伴う「第2主題」の主旋律が登場する。762〜771小節の10小節にわたるメロディーで、提示部正規の第2主題の調であるへ長調で始まり変ロ長調に終止する。この主題の中で最も重要な動きは、♪ミソ(ドー)ミソ(シー)ミソ(ラー)・・・のドーシーラーの動きである。それは主題の変奏とも言える[66]の♪ミッそドーーーミッそシ―ーーミッそラーーー(ひらがなは16分音符を意味する)のところでより明瞭に聴き取ることが出来る。このモットーのような動きは[第1主題部]のC−B−A(ソーファーミー)と表裏一体をなすものである。C−B−Aの真ん中の音を半音上げるとC−H−Aとなり、それをへ長調に移調するとF−E−D(ドーシーラー)と「第2主題」の動きになるというわけである。C−B−Aは短調的で懐疑的、F−E−Dは長調的で肯定的な雰囲気を持つと言えよう。なお、ここでは【第2提示部】にはなかったチェロと第2ヴァイオリンによる『ジョーカー』に似た動機がカノン風に付け加えられている。784小節で4本のホルンによって『進軍ラッパ』♪ソ|ドーーソドーーソ|ミッそドそどミッそドそど が短調で吹かれる→♪ミ|ラーーミラーーミ|ドッみラみらドッみラみら。

[68]
行進曲風に進んできた[第2主題部]には、800小節に至ってホルンによって明確に『ジョーカー』が加わる。これは、少しづつ形を変えながら、次第に『終結主題』に近づいていく。

[70]
変ホ調クラリネット(2本!)が『冒険の主題』を吹く(マーラーお得意の朝顔を上げて)。
[73]
『ジョーカー』のメロディーの変貌の頂点で、ほぼユニゾンの『終結主題』♪ドーシらそラーソ・・・がへ長調で重々しく鳴り響く。もちろん、この<♪ドーシらそ>は『第2主題』の要素でもあるので、『終結主題』とは『ジョーカー』と『第2主題』とが合体して生まれた『最終的結論』というわけだ。『終結主題』の下行に対して、唯一2本のトランペットが上行音形で対比する。854小節からは低音の付点の行進曲リズムが戻り最終局面を迎える。

[74]
ここで、【第2提示部】の時と同様、突然の鮮烈な「三度転調」が現れる。「ランドマーク」である。すなわち、へ長調の根音であるF音が3度下の変二長調の第3音に変身するのである。ハープの変二長調音階のグリッサンドが非常に効果的だ。そして、2本のトランペットと2本のトロンボーン(あとで2本のホルンも加わる)によって高らかにファンファーレが吹奏される。ちょうどバレエ《眠れる森の美女》で、オーロラ姫たちを100年の眠りにつかせる時のリラの精の魔法のファンファーレと雰囲気がそっくりなので『魔法の動機』と名付けた。これは減七和音も加わり調的には全く不安定だが、一応変ロ長調として読むと、♪ソーーファ|ミーーー|♭シラソファ|ミー♭ミレ|ドー といった感じになる。
『魔法の動機』は第6楽章220小節で、さらにもう一度現れるが、そこではG音上での減七和音のテイストが強まり、渋く、苦い。この通算3度現れる『魔法の動機』とは一体何を意味したものなのだろうか。そして3度目はなぜ厳し表現の中で現れるのか、非常に興味深い扱い方に見える。『愛』は『魔法』を超えられるのか?

[75]
巨大なソナタ形式本体に比べて、あまりに唐突で短すぎる『コーダ』が最後にやって来る。この短さもやはりマーラーの策なのだろう。音楽は変二長調から、863小節で変ト長調となりホルン5度が鳴り響く中を、半音上のト長調を1小節だけ経由してへ長調へとめまぐるしく変わる。へ長調に落ち着いたところでトランペットが『冒険の主題』を吹奏する。873小節からは【展開部】最後の『嵐の場面』がほんの少し回想され急激なへ長調上行音階で唐突にこの楽章は閉じられる。
ベートーヴェンの全交響曲やブルックナーの《第七交響曲》までの交響曲のような第1楽章としての完全な終結感は、ここでは味わえない。まるで大芝居の大団円で巨大な装置がコケて舞台上がてんやわんやの大混乱の中で幕引きされたといった感じ、第2楽章以降の波乱万丈な展開を期待させる幕切れである。そして、本当の終結は第6楽章に現れるというわけである。



(2)【第1展開部】[29]-[42](369〜529小節)
[29]
【第2提示部】も【再現部】も一聴してすぐ判る特徴的な『魔法の動機』で閉じられることから、展開部が[29]から始まるということは明白だ。
まずは、『ジョーカー』後半の『希求の動機』♪タタターのリズムを少し切迫化させた三連符で8本のホルンが3度吠える。この咆哮から始まるホルンのかなり長いメロディーの371小節からは【第1提示部】の60小節以下にぴったり対応しており、結局のところ、トロンボーンの「第1主題」の一部分を変更・発展させたものと捉えることが出来よう。それは373小節(FisーAー↓AーF音形)にはっきりと刻印されている。

「第1主題」の刻印(嬰へ→ヘ)をさらに拡大して捉えるとミからラに下る下行音階である(ミー♭ミーレー♭レードーシー♭シーラ)。377〜380小節の実際の音の流れは♪E---DIS gis fis D CIS e↓ e C---H c e d B A---(F管)となっており、大文字で示した音を繋げば半音階下行となる。この音の流れで最も重要な動きはCIS-Cだが、B-Aも下行導音的な働きをして特徴的である(フリギア旋法風)。この部分は『第1主題』の691〜4小節に対応しており、ここでは♪A GIS cis h G FIS a ↓a F---cis d EE--とホルンと同音であるが、最後の下行導音は避けられている。


[31]
トランペットで第4楽章由来の『痛みの動機』が再来する。まず、バスのD音上にハ短調(C・Es・Gの和音)で表れる。C,D,Esの不協和はまさに苦痛である。次いで、Ges音上に変ホ短調(Es・Ges・Bの和音)で示される。こちらのバスは和音内だが、短三和音の第3音強調により、今度は悲痛さが強調される。
『叫びの動機』が3度強調された後、テンポが前向きにアッチェレランドする。ここは205小節からのトロンボーン合奏の音形を一瞬思い出させるが、続いて音楽は七連符の導入も含めて混乱と狂騒をイメージさせる。

[33]
やがてそれが静かに収まった後、「第1主題」の後半がトロンボーンソロで初出する。主題の一部が【展開部】になってからやっと現われるのは奇妙だが、《エロイカ》の第2主題が展開部に現われると解釈すると前例がないわけではない。とにかく、【再現部】を聴いて初めてこの部分が『第1主題』の続きであることが理解できるのである。調性は【再現部】ではほぼ二長調であるのに対して、ここでは3度低いほぼ変ロ長調を採っている。 【再現部】では一種の達観や平穏をイメージさせるのに対して、ここではセンチメンタルと指示されているように、かなり感情的であり最後は急激な下行音形から低いF音で怒りが爆発する。この最後の怒りの爆発は、【第1提示部】の95〜98小節のトランペットの怒りをほぼなぞっている。

[34]
続いて、コールアングレが亡霊か幻影のように歌うが、これも【第1提示部】[8]のホルンの強奏をほぼなぞっっている。
続いて弦のひそやかに蠢くトリルの上で、木管楽器がマーラーにはよく出てくるエコーのような和音の連続がピアニシモで現われる。『まどろみの動機』である。さらにヴァイオリンソロが「第2主題」を変化させた歌をまどろみの中で美しく歌う。静かな蠢きが続く中を『進軍ラッパ』や『ジョーカー』がかすかに響く。

[39]
と、突然ソロホルンが『終結主題』を吹き出し、自由にそのメロディーを膨らませていく。そこには「弱く、表情豊かに、目立って」と指示されており、さらに「モルト・ポルタメント」と追記されている。注文の多いことこの上ないが、それだけこのホルンのメロディーが重要であるということだ。「ポルタメント」とは、ここでは、一般的な理解である「次の音へ引きずってつなぐ」ではなく「音を充分に保持して、際立たせて」という意味なのだろう。ブルックナーの《第七交響曲》アダージョのクライマックス、打楽器追加のところでの2番トランペットへの指示と同じ趣旨である。
ホルンにはソロヴァイオリンが美しくからみ、夢の中を彷徨する。 やがて[40]でチェロのソロが『ジョーカー』の変形を出し、木管が絡む。そして3本のホルンが牧歌を奏でる。

[41]
ハープとヴァイオリンの分散和音に乗って、チェロが更に優しく『終結主題』を演奏し、続いて[42]でクラリネットが甘い思い出のようにそれを引き継ぐ。しかし、この平穏な流れの中に、低音金管と低弦に不穏な動きが現われる。


(3)【第2展開部】[43]-[54](530〜642小節)
[43]
【第1展開部】末の夢の中に溶け去るような雰囲気とは全く異なって、ここからはきびきびした行進曲調で音楽が進む。布地が変えられたというわけだ。まず、低弦だけでフーガの主題風に変形された『冒険の主題』が弱音で示される。このあとフーガ風の展開が予測されるのだが、期待は裏切られてフガートにはならない。マーラーは常套的な手段を避けたということだろう。

[44]
『冒険の主題』や『目覚めの動機』から発展したメロディー、『進軍ラッパ』(565小節)などが絡まりながら、行進曲調はどんどん発展していく。さらに568小節から『冒険の主題』は、ほんの一瞬カノン的に扱われ、つかのまの頂点に達する。

[48]
と思った瞬間、音楽は全く静寂化し、『ジョーカー』がトランペットでかすかに現われる(H音上!のハ長調)。遠くにオーボエの『進軍ラッパ』が鳴っている。続いて『冒険の主題』や「第2主題」の断片が現われる。

[49]
今まで断片的だったりフーガ的変化形であった『冒険の主題』の全貌が、ここではじめてハ長調ではっきりと姿を現す:
♪ド|ドッどドドどれみれド、どみ|ソ、どみソ、どみソーらソ、どみ|ソッそソソソドソミ|ミッどドドドー。
これがトロンボーンの『ジョーカー』に支えられているのが、いかにも象徴的である(属音上のハ長調)。低弦の規則正しいリズムにより行進曲調は絶頂に向かう。603小節で『出発の動機』が朝顔を上げたクラリネットとフォルテ3つのトランペットとトライアングルにより変二長調の鬨の声を上げる。ここではfffの全弦が「恐ろしく暴力的に」『嵐』の到来を告げる。

[50]
603小節から630小節に至るまで、全部16分音符で全く臨時記号のない完全に変二長調の音階だけで出来た『うねり』を全弦(コントラバスはときどき参加)が奏し、嵐のすさまじさを描く。最初の版(ヴァインバーガー版)では、この16分音符の連続にうねりのような細かい松葉(クレッシェンドマークやディクレッシェンドマーク)が付けられていたが、のちの版(ユニヴァーサル版)では取り除かれた。これは、強弱を意識するとリズムが不揃いになるので、それを避けたのだろう。しかし、どうせならスラーも取り除いて、弦全員が刻めば凄味は更に増すのではないだろうか。

とにかくテンポはどんどん緊迫化する。この嵐の上では、【再現部】第2主題部分の始まりのところでの低弦によるかすかにうごめくようなメロディーを、ここでは対照的にホルンとトランペットによって大々的に吹き散らされる(嵐の海で必死に闘っているように)。やがて『ジョーカー』が現われ、『冒険の主題』の断片が木管やティンパニに現れる。嵐は鎮静化するが、テンポは速いまま。突然、そこに小太鼓が曲冒頭のテンポで行進のリズムを刻む。
ここで(635小節)マーラーは奇妙な指示を行なっている。小太鼓には「チェロ・バスのテンポなど全く意に介さず、最初の行進曲テンポ(Allegro Moderato)を取れ」、チェロ・バスには「小太鼓はゆったりした行進曲テンポで入ってくるが、それを意識せずこれまで続けて来た(急き込んだ嵐の)テンポを堅持せよ」・・・・ということは、実際の演奏はスコア上の縦線とは全く違う進行となるということである。実際上、指揮者はバスの動きは放置したまま(コントラバス・トップ奏者にお任せ)、小太鼓の入りとテンポを指示することになろう。

私は、こういう二重テンポ書法は、《第1交響曲》の第3楽章(いわゆるカロ風の葬送行進曲)[16]の2小節目の木管楽器にすでに現われていると思う。詳細は↓の<音楽談義[IV]マーラー《第1交響曲》第3楽章での違うテンポの同時進行?>参照。

http://www.cwo.zaq.ne.jp/kawasaki/MusicPot/link.htm


(4)【第1提示部】[冒頭]-[12](1〜163小節)
[冒頭]
これまで何度も指摘してきたように、冒頭、リディア旋法風容貌の『ジョーカー』が8本のホルンのユニゾンで何の予備もなく強烈に現れる。そこには弦や打楽器の合いの手が入る。【再現部】のときと違うのは7小節からで、【第1提示部】では♪れみ|ファー・れみ|ファー・れみ|ファーーと3度同じ音形が吹かれるが、ここではト短調のように♪らし|ドー・らし|ドー・らし|ドーーと聴こえる。『希求の動機』と名付けた。これは第6楽章180小節から大々的に再現される。一方【再現部】では♪れみ|ファー・みふぁ|ソー・ふぁそ|ラーーと階段状に上っていく。
続いて『希求の動機』のト短調の影響から変ロ長調音階で下行し、A音に落ち着く。
その後【再現部】と同様『人よ!の動機』が来るが、【再現部】で説明した通り、ここでは<和音:F→a、fis→A>と長短短長の並びとなっている。

[1]
『夜の動機』は【再現部】と同じだが、オーケストレイションを少し変えている。最後に大太鼓だけが残り、刻みが粗くなって規則的な葬送のリズムを刻み始める。

[2]
葬送のリズムに乗って、『歓呼の動機』と『叫びの動機』がセットで現れる。興味深いのは、両者の間隔がいつも違うことである。あとから出て来る『叫びの動機』の方が、どんどん『歓呼の動機』を追い抜いて、ついには先に出るようになる。
続いて『怒りの動機』が低弦で出る。この低弦の荒々しく駆け上がってC−BーAと下がる動機は【第1提示部では大々的に何度も現われたいへん目立ち、一見主要な動機の1つのような、あるいは主要な主題の一部であるような容貌を示しているが、「第1主題」の一部ではないことは[再現部]を聴くとはっきり理解出来るだろう。とにかく『歓呼の動機』、『叫びの動機』、『怒りの動機』は「第1主題」の前座である。

いよいよ『主人公』である「第1主題」そのものが現れる。長大な「第1主題」の始まりで最も大切な動機は、何度も繰り返し述べているように、実は単純なA音の全音符なのである。ニ短調で言えば♪ミーーーである。もちろんこれは『人よ!の動機』そのものであり、2回響く。主役はトロンボーンソロだが、第4トランペットとティンパニと第2ヴァイオリンの補助が付く。ここでもマーラーは微妙に強弱指示にこだわっている。1回目:Trb.(ff),Tp.(ff),Tm.(ff),2Vl.(fff)、 2回目:Trb.(fff),Tp.(fff),Tm.(fff),2Vl.(fff)。葬送リズムはpp、ヴィオラのトレモロはp、低弦はfffである。注意すべきは、同じA音の低弦の『怒りの動機』とははっきり区別されなければならないということである。すなわち、引き延ばされた『怒りの動機』の2つの全音符のA音に対して、きっちり全音符1つ分だけが響くということだ。


[4]
実は、さらにもう一度A音が強調される(56小節)。しかしこれは『人よ!の動機』ではなくオマケである。ここで不思議なことが起こる。【再現部】では、「第1主題」はトロンボーンソロがずっと続くのだが、ここでは続きは8本のホルンユニゾンが担当する。主題の♪|・シドレドシ|ファーミー は ♪しど|レー・しど|レー・どし|ファーミー と『希求の動機』を意識した形に変えられた。楽器を変え、メロディーに変化を加えたりしているため、「第1主題」としての存在感が著しく損なわれることになってしまった。「第1主題」が続いているにも拘わらず、どんどん藪の中に踏み込んで行く感じである。

83小節でトランペットに『痛みの動機』が現れる。

[8]
『希求の動機』の連呼が続く中で、「第1主題」はホルンによってさらに深い藪に入っていく。それはまさに「第1主題」の展開そのものだ。実際【第1展開部】の[34]では、コーラングレが[8]の音形をそのまま亡霊のように弱弱しく繰り返す。

[11]
ここで布地が変わって、「第二主題部」に突入する。フワフワとした木管の和声による『まどろみの動機』から、オーボエが第2主題の変形を歌い、ソロヴァイオリンが続く。まるで<序文>【註1】で示した、ブルックナーの第3主題前のオーボエソロやフルートソロとやり口がそっくりである。

[12]
『目覚めの動機』元気に飛び出すと、低弦がうごめいて、すぐに「第2主題部」は途切れてしまう。




(5)【第2提示部】[13]-[28](164〜368小節)
[13]
いきなり葬送行進のリズムから始まり、すぐに「第1主題」がトロンボーンソロで登場する。【再現部】では[57]からに相当する。ここには【第1提示部】に登場していた『歓呼の動機』、『叫びの動機』、『怒りの動機』は現れない。また【再現部】では強力なトランペットのサポートがあるのに対して、ほぼトロンボーンのソロのまま進行する。さらには【再現部】での後半は【第1展開部】のトロンボーンソロを引き継いで、それをさらに柔和に変化させて、主題の全体が披歴されるのに対して、ここでは、主題の前半だけが現れ、主題確保のようにこの前半部分をもう一度、少し変化した形で繰り返す。具体的には「第1主題」であることを『刻印』する重要な音形♪fis・a↓a・f-が2回登場し(173小節と196小節)、最後は壮大なトロンボーン4重奏となる。

この『刻印』の前後を見てみると、そこにはニ短調属音ミから主音ラに下る下行半音階が見えて来る(ミー♭ミーレー♭レードーシー♭シーラ)。195〜199小節の実際の音の流れは♪AGisCisHGFisAAFEFAGEsDミ#レ#ソ##ファ#ドミミドミレ♭シ)である。

この【第2提示部】での形から見て、【再現部】に完全な形で登場する「第1主題」とは、【第1提示部】、【第2提示部】それと【第1展開部】の3者を取りまとめて合体させたものと見ることが出来よう。逆に言えば、【再現部】での「第1主題」提示を分解したものが、各部分でバラバラに述べられるということだ。

[18]
ここでは、【第1提示部】と同様に布地を変え、優しく柔和な木管の和音と弦の陽炎のような細かい動きに支えられて、低弦で「第2主題」がひそやかに提示される。すぐにオーボエがその変化形を歌う。さらに気分は一転し、クラリネットとトランペットが『目覚めの動機』(出発の動機)をファンファーレのように元気よく吹く。

[19]
それを合図に弦楽器が16分音符主体でせわしなく動き出す。そうした中でチェロが『冒険の主題』の初めの部分を低く提示して他のパートがそれを繰り返す。この部分は【第1提示部】にも【再現部】にも無く、【第2提示部】独自の部分である。

[23]
行進曲のリズムに乗って正規の「第2主題」が登場する。ヘ長調から変ロ長調へ転調することは、再現部の時と全く同様である。

[26]
ホルンがヘ長調で『ジョーカー』を出す。[27]の6小節前(325小節)から、ホルンが半音階進行をしてニ長調への転調の準備をする(♪ソー#ソーラー♭シー本位シー)。

[27]
トロンボーンがニ長調で『ジョーカー』を出す。本来なら楽章終止に向かうところだ。[27]全体は、ベースにニ長調の属音(A音)が保持されていて、このトロンボーンの『ジョーカー』は、基本終止形<T・S・T・D・T=バス:ド・ファ・ソ・ソ・ド>の真ん中の属音上の主和音<T>(四六の和音)にあるということだ。[28]の4小節前(347小節)で、ホルンとトランペットが下属調であるト長調風に『ジョーカー』と『終止主題』との橋渡しをする(♪ドーシド|シーラ、・|ドーしどシーらそ|ラーソラ|)。

[28]
ここで、【再現部】のときと同様に『終結主題』がハッキリと姿を現すが、それは【再現部】のヘ長調ではなく、楽章を終止すべきニ長調(D dur)である。
続いて、ハープのニ長調のグリッサンドから鮮烈な三度転調で、D音上の変ロ長調に転調する。ヘ音(属音)の『歓呼の動機』とハープのヘ長調のグリッサンドがD音上の『魔法の動機』を呼び出す。
結局,、このニ長調による完全な終止は、バスにニ音を保持しながらも、『魔法の動機』によって泡沫のように消え去るのである。





<補遺>

(1)二重提示
【再現部】から2つの【提示部】を見てみると、雑然と提示が繰り返されるのではなく、きっちり役割分担がなされているように見える。まず、「序奏」は【第1提示部】と【再現部】にしか現れないのに対して、「第1主題」は【第2提示部】と【再現部】に正規の形が現れて、【第1提示部】ではほとんど展開部の様相を呈している。「第2主題」についても、【第2提示部】と【再現部】が対応しており、【第1提示部】では変化し形が少し顔を出すだけであり、ほとんど【展開部】の短い予告のようなものである。


(2)「第2主題」の調
本来「第2主題」は<『提示部』関係調→『再現部』原調>という図式であるはずなのだが、この曲の場合『提示部』と『再現部』が逆転している関係上、同じ調を取る結果になったのだとも考えられるが、『提示部』と『再現部』の間が極度に離れているこの楽章では、両者がそっくりそのままであることによって「第2主題」としての存在感を高めようとしたのかもしれない。
第2主題が提示部、再現部で同じ調を採っている例としては、ブルックナー《第八交響曲》のフィナーレにもみられる。こちらは主調ハ短調に対して、変イ長調が繰り返される。その理由は、ハ短調で再現する第3主題の存在感を大きくするためと思われる。

(3)「第1主題」、「第2主題」が内包する音階
「第1主題」には『半音階』、「第2主題」には『全音階』が,それらの中に含まれている。
AGisCisHGFisAAFEFAGEsD =ミ#レ#ソ#ファ#ドミミドミレ♭シ
「第2主題」:ミソ|ーミソーミソ|しらソファミー、ファソ|ラしらソファミーレド↑ミーレドレー・・・
このことは、2つの主題の性格の差の1つを暗示しているように思われる。一方は懐疑的で、もう一方は楽天的である。
そして、分析の中で触れているように、他の主題や動機に影響を与え、この楽章の流れを作り出す中での根底を成しているように思われる。

<主題・動機一覧>
*ここでは、一応「主題」とは和声的終止形を伴ったもの、「動機」とは単なる特徴ある音形を意味するが、厳密なものではない。主題については、・・・を用いて途中までしか記載していない。
[ジョーカー]:シー|ミーーーレーミー|ドーーーソ、ドー|ミー#ファソ#ファーミー|レーーーシー ・・・(8ホルンユニゾン)
『希求の動機』:れみ|ファー・れみ|ファー・れみ|ファーー(第6楽章180小節〜のところで再現)
『夜の動機』:ソーーー|ーラソラ|ソラソラ|ソーーー|ー−ファー|ソーーー|ーーファー|ソーーー(第4楽章由来)
『歓呼の動機』:ミー↑み|ミーーー|−−−ー|ド(オクターヴ跳躍)
『叫びの動機』:らどみ|#ソーーー|ラー
『怒りの動機』:らしどれみふぁ|ソーーー|−−ファーー|ミーーー(CーBーA)
「第1主題」(前半):ミーーー|・・・・|ミーーー|・・・・|・シドレドシ|ファーミー|ーー・・|ミーーー・らそふぁ|ミ#レ#ソ#ファ本位レ|#ドミ↓ミ本位ドーー・・・・・・・・
『人よ!の動機』:ミー、ミー、(A音ー、A音ー、)(第4楽章アルトソロ『人よ!人よ!』に付けられた和音<F→a、fis→A>に由来)
『刻印』:FisーAー↓AーF(#ドミ↓ミ本位ドーー)(第4楽章アルトソロ『人よ!人よ!』に付けられた和音<F→a、fis→A>に由来)
「第1主題」(後半):ミ|シーーー|−ラシド|シーーー|ラー−−(ニ短調⇔ニ長調)ソーみ|ミーーー|−ファソラ|ソーーー|ファーーー・・・・・
『愛の動機』=ターン:レーミレ#ドレ
『痛みの動機』:ラーミー#ファ#ソラシドシーラミーー(第4楽章アルトソロ由来)

『まどろみの動機』:<B−D−|B−D−|h−A−|G−Fisー>
『目覚めの動機』(あるいは『出発の動機』):ソーソー|ソーミド|ソー
『冒険の主題』:ド|ドッどドドどれみれド、どみ|ソ、どみソ、どみソーらソ、どみ|ソッそソソソドソミ|ミッどドドドー(『冒険の動機』としてはこの主題の前半部分が使われる)
『さすらいの動機』:ミッら↓ドッれ
『進軍ラッパ』:ソ|ドーーソドーーソ|ミッそドそどミッそドそど
「第2主題」:ミソ|ーミソーミソ|しらソファミー、ファソ|ラしらソファミーレド↑ミーレドレー・・・
『終結主題』:ーーーーラソ|ーーーソ、ミソ|ラーソファミーレド↑ミーーーソ、・・・
『魔法の動機』:ソーーファ|ミーーー|♭シラソファ|ミー♭ミレ|ドー(三度転調)(第6楽章220小節〜のところで再現)


<日本版スコアでの分析>
マーラーの《第3交響曲》の出版譜については、『こだわり派のための名曲徹底分析 マーラーの交響曲・2』金子建志著 音楽之友社 2001 のP24〜P76に詳しい解説が述べられている。
ここでは、入手の容易い2つの国内版に付された分析について少し触れてみよう。両版のスコア本体の内容は殆ど同じだが、上記の本から推察すると、全音版は、初版であるヴァインバーガー版(1898)を基にオーケストレイションをかなり修正したユニヴァーサル版(1906)のコピーとみられ、音楽之友社版は、それを微修正したユニヴァーサル版(1910)のコピーとみられる。


*音楽之友社版(ユニヴァーサル版解説の和訳)

区分 細区分 練習番号 小節数
【導入部】 開始ー17  224
ソナタ形式
の概念に
基づく
【行進曲】
提示部 18−28  144
展開部 29−54  274
再現部 55−75  224
コーダ 75−76    9



*全音版 園部四郎解説

区分 細区分 練習番号 小節数
【提示部】 主部 開始ー10  131
副次部 11−25  183
【展開部】 26−54  328
【再現部】 55−71  189
【結尾】 72−76   44


国内版両スコアの解説は、楽章の長大さと材料の豊富さに戸惑いながらも、ソナタ形式を基にしているという見解は共通している。多分たくさんのプログラム解説なども同じ見解なのだろう。それは、再現部への入りの明瞭さが、判断を誤らせることを防いでいるからだろう。いわば、マーラーの勝利である。ただ、その他の各部分についての意見はまちまちである。両解説とも第1主題(主要主題)がどれであるかとの明言を避けている。何が第1主題であるかを確定できなかったからだろう。しかし、それでは普通一般に考えられているソナタ形式の概念を満たしているとは言えないので、ソナタ形式に近い独自の形を持った音楽であるとしか結論付けられないのである。音友版では<この形式区分の輪郭は不明瞭で>とし、全音版では<マーラーは、一定の形式に従って曲を組み立てるというやり方ではなくて、頭の中に浮かんだ主題を基にして次から次へと浮かぶ主題や動機を発展させていくのである。>と匙を投げ、分からないのは作曲者のせいであると八つ当たりをしているだけである。

音友版解説では、全体を二分して、二重提示の2回目の「第1主題」までを【導入部】(introduction)、それ以降を【本体:行進曲】(march)として、表のとおりソナタ形式の用語を用いて分析している。ここでは『ジョーカー』を主要な主題の1つ(a main theme)であると指摘しながらも、第1主題とは断言していない。解説には触れられていないが、この分析を額面通りに受け取ると、再現部では【導入部】も再現されることになるし、第1主題がどれなのかもさっぱり分からないといった、はなはだ奇妙な構造であるとしか受け取れない。【導入部】の独立は、私の分析で言うところの『布地の違い』に拘泥し過ぎた結果であるし、二重提示という発想への思いに至らなかった結果でもあるのだろう。

全音版解説には譜例があるので解説の真意を掴みやすい。奇妙なことに、この解説では第2主題は明示されているのに対して、第1主題という用語は一言も出てこない。第1主題あってこそ第2主題という名称が存在し得るのだから、これは一貫性のある分析とはとても言えない。私の示した「第1主題」に対して、全音版は3つもの別々の部分の譜例を掲げている(58〜63小節、168〜176小節、194〜200小節)。ところが、それらこそが「第1主題」であるとの考えは微塵もなさそうだ。最初の提示がトロンボーンとホルンに分割されていること、主題自体があまりに長々しいことから、その存在を見失ったのかもしれない。さらに、譜例では最も重要な最初のA音の全音符が抜けているのも、その重要性が理解されていない証拠である。【再現部】の「第1主題」を譜例として挙げておけば、これら3つの譜例など、「第1主題」の単なる模様替えに過ぎないと解るはずなのだが、この解説では再現部は『ジョーカー』の説明に終始し、その他のことには全く触れようとしていない。また、せっかく第2主題について譜例(136〜139小節)を掲げて指摘しているにも拘わらず、残念ながら、それは序文の【註1】で紹介したブルックナー《第九交響曲》第3主題の解説の誤謬と同じく的が外れている。奇しくも、2つのケースともオーボエがメロディーを吹いている。

さて、2つのスコアの分析を見てみて、何が<形式区分>を困難にしたのか? を考えてみると、マーラー独特の「二重提示」が理解に混乱を引き起こす原因となったことは自明だが、さらに大きな原因は、ランドマーク『魔法の動機』を見落とした点にあるのではないだろうか。この重要な動機について、両者とも全く触れていないのである。もちろん、第6楽章中の最大の転換点で鮮烈に三現するときもまったく無視したままである。こんな明々白々な形式上のキャスティング・ボートを握った材料の存在が、なぜ一般には注目されないのだろうか? ということは、この点ではマーラーの敗北であったと言わざるを得ない。【再現部】に入るときの、突然の小太鼓のリズムのような、何か特に耳目を引く特別な仕掛けが必要だったようだ。例えば、《眠れる森の美女》では、リラの精が魔法をかけて城中を眠らすときと、百年後彼らが王子のキスで目覚めるとき、それぞれ一発づつタムタムの轟音(ffff−fff)が響き渡るのだが、そこでは弦のトレモロ以外は沈黙し、聴衆の耳は自然にタムタムのみに向くように仕組まれている。この曲でも、『魔法の動機』の直後、短いコーダに入るときにタムタムは鳴らされるのだが、いかんせん多くの楽器が鳴り過ぎていて、残念ながらエポックメイキイングな効果には至っていない。


2018・7・29



*****************(ダイアログ:2001.6.11)******************************

はじめに

 妻の実家が新潟県北部であることから、私は大阪から日本海を縦貫し青森に至る電車特急「白鳥」をよく利用しました。8時間余りの電車の旅はなかなか疲れるものですが、途中の景色も美しく、いつも乗るのを楽しみにしていました。この電車には不思議なことが1つあります。というのは、途中、信越・白新線経由ということで新潟駅に立ち寄るのですが、ここでは線路のつながりの関係でいったん新潟駅で止まると、今度はバックするのです。このことを最初に体験したときは非常に不思議な感覚に襲われます。自分は何もしていないのに、後ろへ流れていく景色が、前へ流れていくんですからね。大げさに言うと、一種のカルチャーショックなわけです。(同じ経路を辿るものでも、寝台特急の「日本海」では新潟駅に立ち寄らないのでこういったことは起こりません。)

 鉄道を扱った推理小説でも、このことはトリックの一つに結構用いられているのですが、現在ではこんな長距離の特急は廃止されてしまいました。でも、名古屋から北陸へ行く特急「白鷺」は現在でも米原駅で逆行運転されているようですので、興味ある方は一度体験されてみられてはと思います。

 さて、これと同じように、ソナタ形式を普通とは逆に辿るような不思議な交響曲があります。マーラーの《第3交響曲》の第1楽章です。この楽章は、単に景色を前から後ろへ流れて行くように捉えている間は、さっぱり形が視えてこないのですが、後ろから前へ流れて行くという逆転の発想をすれば、マーラーの意図が火にかざしたあぶり出しのように鮮やかに浮かんでくるのです。

 今回は趣向を変え、熱烈なマーラーファンのホラぼやさんのご協力を得て、ある掲示板での投稿による、ホラぼやさんとやすのぶ探偵の2人の対話形式によって、この作品にメスを入れて行きたいと思います。どのようになりますやら。

 それでは、はじまりはじまり。



###########################################
M3/1第1楽章の3つの発見 投稿者:やすのぶ  投稿日: 5月16日(水)23時40分08秒

シノポリを聴きながら、マーラーの《第3交響曲》の第1楽章の構造について、3つのことを思いついたのですが、マーラー通のホラぼやさんのご意見をお聞かせ下さい。

@重要な主題は最初には完全な形で提示されない。
A[第3主題部]というのはない。
B【提示部】と【再現部】が逆転している。

詳しく説明しないと、なんのことやら意味不明ですが、とりあえず題目だけ。

##########################################
興味津々 投稿者:ホラぼや  投稿日: 5月17日(木)10時07分54秒


やすのぶさんのマーラー3番に関する、取りあえずの題目、興味深いですよ。是非、なあるほどと唸らせる話をお願いします。


###########################################
M3/2 投稿者:やすのぶ  投稿日: 5月17日(木)10時56分32秒

ここで言う重要な主題とは『第1主題』の本体と『第2主題』の本体のことです。まず、それぞれがどの箇所だと思います?

##########################################
マーラーの3番 投稿者:ホラぼや  投稿日: 5月17日(木)17時16分44秒

僕は3番の第1楽章の大切な主題は、『冒頭主題』と僕が『第1主題』と呼んだ部分の主題だと思っています。
そして〈第3主題部分〉は経過句と考えて、そんな部分はないとも言えるでしょう。
『第2主題』も『冒頭主題』から派生していると感じますが・・・。

ところで、シノポリのマーラーの「第3」の演奏の凄いのは第4楽章以降だと思いますが、他もまずまずの演奏でしょう



##########################################
M3/3 投稿者:やすのぶ  投稿日: 5月18日(金)14時14分18秒

長くて複雑でいろんな動機が徹底的に展開されるので解りにくいのですが、ソナタ形式を規定する主な主題は4つあると思います。
『序的主題』(冒頭主題、夏の主題)、『第1主題』、『第2主題』、『終止主題』。
ホラぼやさんの『第1主題』は確かに重要ですが、何か(本当の『第1主題』)を受けた応答のような気がしませんか?『序的主題』の一部でもあることですし、独立性が薄いと思います。

この曲の構造のルーツの一つはシューベルトの《未完成》です。この短い断片の交響曲が『序的主題』の意味を最初に確立したのです。

シノポリは初めの方がよかったように思いました。特にフィナーレはもう一つでしたね。まあ、僕は3つしか聴いたことがないので、何十も聴いているホラぼやさんの方が正確な評価でしょうがね。

##########################################
やすのぶ先生、あまりドキドキさせないで! 投稿者:ホラぼや  投稿日: 5月18日(金)20時43分40秒

3番の第1楽章・『第1主題』は、それ自体がスケールの大きな牧神と見ることも出来ます。とすると当然冒頭のテーマに対する応答と考えられるでしょう。

シノポリやサロネンは、ねちっこいのが好きな人には好まれないかもしれません。しかし、3番はブルックナーのような浄化した音楽として完成しているので、他の曲のようにやるのは間違っていると思います。
具体的に言えばバーンスタインは間違っていると思うのです。しかし、曲に対しての愛情の深さがあまりに伝わる演奏なので、認めざるを得ないというわけです。



##########################################
M3/4 投稿者:やすのぶ  投稿日: 5月18日(金)22時11分20秒

『大自然のテーマ』は『第1主題』の応答なのです。そもそもあの音形は『夏のテーマ』の中の応答句ですからね。

バーンステインは聴かなくても、推測は出来ますね。フィナーレの中には、あのようなねちっこさも必要なのでしょう。それでシノポリはものたりないのかも。

<続き>
ブルックナーの《第九》の第1楽章『第3主題』について、ある解説ではオーボエのパッセージが『第3主題』であるとしています。そして私たちが『第3主題』と思っているあのダブルユニゾンのテーマは、何と『第3主題』の転回形(上下逆の音程)であると説明しています。(ホラぼやさんなら読んだことがあるでしょう。昔からブルックナーに馴染んでいるのだから。)行きがかり上とはいえ、そんなバカな。“そしたら【再現部】では転回形しか再現されないんですか?”と訊いてやりたくなりますね。まあ、最初に現れたのが主題の原形であるという固定観念にとらわれたバカな解説者としか言いようがありません。

《第八》の最初に現れる主要動機も冒頭のピアノの形が原形ではありませんね。フォルテシモの確保の時の方が原形なのです。こういった最初に主題の原形を提示しないやりかたで成功した作品は、シューベルトの《ます五重奏曲》の第1楽章あたりが始まりかな。ここでは序奏的に『第1主題』の変形が現れ、やがてヴィオラとチェロの川の流れに乗って本当の『第1主題』が奏されるのです。くだんの解説者なら,これを『第1主題』の確保とでも言うんでしょう。そして、自分のバカさ加減を棚に上げて、シューベルトは確保からしか再現させない形式観の乏しい作曲家であると言おうとするんでしょうね。

そこで、マーラー、彼自身が何が重要なのかをスコアで語っています。すなわち重要なものは【再現部】で、もう一度繰り返しているのです。

まず、この巨大な「音楽の城」の攻城には、外堀を埋めることから始めましょう。外堀とは『第2主題』のことです。
もちろん『花と小動物のテーマ』がそれなのですがオーボエで最初に現れるものも、ヴァイオリンソロもその変形です。本来の形は、♪ミソドー・ミソシー・ミソラー・・・という形です。この<ドシラ>の下降音形がこの主題の「みそ」!!なのです。そして主題全体は23の6小節目から提示され64から再現される木管の一連のメロディーです。そのあとのトランペットのファンファーレ付でヴァイオリンに出る威勢の良いメロディーも21の2小節前のクラも<ドシラ>を使った『第2主題』の変形です。スコアのその部分を確認してください。<ドシラ>が視えてくるでしょう。

##########################################
チラリズム? 投稿者:ホラぼや  投稿日: 5月19日(土)12時04分46秒

ちらちらと予測させておいて、いよいよしっかりと登場させるわけですね。なるほどそういう手法だったわけですか。
まあ、僕なんかスコアをながめているだけで読んでないですからね。

シューベルトの「ます」の第1楽章は聞き流したことしかなかったのですが、今度しっかり聴いてみます。
それは、ベートーヴェンの「第九」の冒頭の手法を発展させたという事とは違うのですか?

ちゃんと読むと面白いんですねエ。
やすのぶ先生、次は?




##########################################
M3/5 投稿者:やすのぶ  投稿日: 5月20日(日)01時03分58秒

<ちらちらと予測させておいて、いよいよしっかりと登場させるわけですね。>
それは、ベートーヴェンの《第9》の冒頭の手法の方です。

シューベルトやマーラーは聴き手を騙すのです。そうやって音楽に複雑な意味を付加しようとしているのです。音楽は時間芸術ですから、最初に聴いたものがまず頭の中にインプットされ、その上に新しいものが次から次へと積み重なっていきますね。ですから、最初に来たものから次のものを類推するという思考構造になるのです。変奏曲形式のように最初に主題があってそれからどんどん主題が変わっていくのは分かりやすいですね。しかし最初に変形されたものが出ると、なにがなんだか解らなくなるのです。そして、イメージが固定されず膨らんでいくのです。そこが狙いです。

「みそ」のシャレを言うためにこの話を持ち出したようなものなのに、ちっとも受けなかったですね。オヤジギャグだからか?

まあいずれにしても、この<ドシラ>のようなものをモットーと言いますね。ブラームスが好んだ手法です。21の2小節前のクラリネットの歯切れの良いメロディーなんか全く別の主題のように思いますね。しかしちゃんと柱になる音は<ドシラ>になっているのです。

僕もクーベリックを聴いていた頃はこれが『第3主題』だと思っていました。しかしそうすると『第3主題』の中に『第2主題』がいっぱい出てきて、ホラぼやさんや一般の解説のように<【展開部】のような【再提示部】>という結論に達せざるを得ないということになります。しかし、僕の説に従えば全ては『第2主題』の変形や『第2主題』に従属する動機の集まりであって、[第3主題部]という独立した部分は存在しないということになり、形式の不明瞭さは雲散霧消します。これが[第3主題部]がないという理由です。

[第2主題部]ではその他に重要な動機がいくつか現れますね。木管の和音、弦のトリル、クラリネットの装飾音付の♪ソーソーソーミドソという音形。16分音符の細かい動き、そして最も重要な『牧神の動機』これらは動機であって、主題を飾る部品にすぎません。

『第2主題』が最初に現れる時、主題のメロディーラインはすこし変形されています。オーボエはリズムだけは一緒で、ちょっといびつなメロディーになっています。ソロヴァイオリンは1カ所だけ(2回目だけ)メロディーのラインを変えているのですが、それで全く違う印象を与えます。それにこれはニ長調。この曲の結論の調なのですが、なぜこんなところでニ長調が選ばれたのか、不思議ですね。

[第2提示部]でのバスが初めて正しいメロディーを弾きますが、いかんせん音が低すぎて何か異様です。ブルックナーが短パンをはいて虫取り網をもって蝶々を追いかけているような・・・


##########################################
疑心暗鬼 投稿者:ホラぼや  投稿日: 5月20日(日)08時45分25秒

やすのぶさんの話の場合、やたらなところで笑うと、叱られそうな気がして・・・。
え?「ミソ」の話ですぅ。笑っていいところには「(笑)」マークを入れて下さい。
すると、何か、笑えないか!

マーラーの場合形式の不明瞭さ自体を愉しむのもいいんじゃないかと思っていたんですが、やすのぶさんの説ならすっきりしますね。しかし、ながーい《提示部》になるからわかりにくさも残ってイイ!

『ブルックナーが』と言うより、『ブルックナーも』虫取り網をもって蝶々を追いかけるんですよ!

自分のスコアの練習番号「23」の所に以前、僕は「提示部のまとめ」と書いたのですが、その7小節目のアウフタクトからが正式な『第2主題』の提示ということなんですね。流石、やすのぶさんです!

シューベルトもこの手を使っているんですか!?「未完成」も? 「鱒」も?

フィナーレは、誰だってねちっこくやりたいに決まってます。でも、それをストレートに表現すると浄化されません。音符1個1個の表情を聴くとサロネンやシノポリが、如何に感じきって演奏しているかがわかります。



###########################################
M3/6 投稿者:やすのぶ  投稿日: 5月20日(日)10時12分24秒

@なかなか笑うことは難しいことですがねえ。

@聴くためには複雑怪奇で自由にイメージを膨らませられるのが面白いけれど、分析は単純明白であるべきです。

@短パンと言うところが異様なのです。

@種があったのなら是非、ホラぼやさんの解説に入れてくださいよ。
タダ、以前の考え方ならここは[第3主題部]のまっただ中であることが引っかかるんですよね。だから“[第3主題部]はない”という結論になるのですよ。

@《未完成》のほうは『序的主題』の意味(全曲を支配するという)を最初に明らかにしたということで、この作品との関連があるのです。後出し主題(なんかずるいジャンケンみたい〜(笑))のほうは《ます》。まあ、聴いてみてください。本当の提示の時には、ますが水の中で飛び跳ねるように主題が変化・発展したように聞こえてしまいます。ところが、実は曲頭のメロディーの方が、この飛び跳ねるような本当の『第1主題』を柔らかく変形させたものなのですよ。それと、第4楽章《ます》の歌の方の変奏では、最後になって歌の時そのままの形が現れるんですよ。これなんかも、第1楽章を受けた逆転の発想で面白いですね。

マーラーは、スコアに綿密に各楽器の強さの違いを指定していますが、それらに強さではなく、音量差を付け過ぎることに問題があるようです。特に《アダージョ》では。したがって豊かな響きにならない。ねちっこさよりそちらのことを言っているのです。

<続き>
さて、[第2主題部]しかないとすると、次に[終止部]が来るわけですね。28と73です。この主題は『夏の主題』と『花と小動物の主題』から紡がれたように思えますが非常に重要な主題です。4つ目の主題で『終止主題』としましょう。ホラぼやさんのメモにはどうなっていますか?なにかよい標題的名前をこれに与えてやって下さい。

ここで、ホラぼやさんの解説に、提案。

“『夏のテーマ』と『花と小動物のテーマ』の二つから派生したようなメロディーを歌うソロ・ホルンにソロ・ヴァイオリンが絡み、チェロからクラリネットに受け継がれていく部分は最も美しく、そして優しい。安住したい誘惑に駆られる。《第7交響曲》第4楽章の中間部につながる部分と言えるだろう。ここを『安住部分』と呼びたい。”

ここで『終止主題』の由来を正確に言い当てていますね。従って次のようなのはどうでしょう。

“底抜けに明るく力強い『終止主題』をまるで手品のように変身させ、儚い夢のように弱く、また恋人のような心のこもった暖かさを持つメロディーを歌うソロ・ホルンにソロ・ヴァイオリンが絡み、チェロからクラリネットに受け継がれていく部分は最も美しく、そして優しい。安住したい誘惑に駆られる。《第7交響曲》第4楽章の中間部につながる部分と言えるだろう。ここを『安住部分』と呼びたい。”

いかがですか?
 
###########################################
いただきます。 投稿者:ホラぼや  投稿日: 5月21日(月)09時56分33秒

やすのぶさんのように言ったほうが解りよいですね。
『終止主題』は何と名付けましょうか。迷いも皮肉もない、大自然を謳歌する素直なマーラーが、そこにいると思いますが・・・。

「未完成」も構成を意識して聴き直してみるという愉しみが増えました。有難う、やすのぶ先生!
後出しジャンケンの「ます」は第1楽章ですか?



##########################################
M3/7 投稿者:やすのぶ  投稿日: 5月21日(月)21時55分28秒

その通りですね。その線で良い名を考えてください。でないと他の主題と統一がとれないですからね。例えば『自然賛歌の主題』というのはどうですか?柔らかい音でも賛歌には違いないとごり押しして。

僕のHPには《未完成》については《アンダンテ》の分析しかしていません。これはスコアの解説が嘘だらけだからです。(僕の持っているM3の全音のスコアも正解率はホラぼやさんの三分の一くらいかな)《未完成》第1楽章の構造は間違いようがないですが、そこには面白い工夫がいっぱいあります。たとえば歌のない第2主題だとかゲネラル・パウゼだとか。

《ます》は第1楽章のソナタ構造のことを言っているのです。

<続き>
『序的主題』について:
『序的主題』は『第1主題』と異なり全曲を支配する主題であり『第1主題』の前に提示されます。ちょうどトランプのオールマイティであるジョーカーのようにどこでも現れることが出来ますし、他の楽章の主題にも影響を及ぼします。『第2主題』の中に『第1主題』が出てくると形式的な混乱が生じますが、『序的主題』ではそれもOKです。全曲を有機的に統一する切り札とでも言うべきものです。

全曲を有機的に統一するもう一つの考えは、『序的主題』によらず『第1主題』そのものに切り札の性格を与えるというものです。この場合は『第1主題』がまさに『主要主題』(Haupt Thema=ハウプト・テーマ)でもあるわけですが、この場合は部分動機を使うなど形式的な配慮が必要となってきます。ブルックナーの《第八》などはその典型です。『第1主題』の重要な構成要素である『主要動機』が全曲にわたって活躍します。

通俗名曲のなかでこの2つの差の実例を挙げるとすると、チャイコフスキーの《第5》とドヴォルザークの《新世界から》が解りやすいでしょう。チャイコフスキーの『運命の主題』は一種の『序的主題』です。 《新世界から》の『第1主題』は『主要主題』であり、のちの楽章全てに現れますね。まあしかし《新世界から》の場合は他の主題も後の楽章で何度も現れるので『主要主題』の絶対的優位性は失われてしまっていますがね。とにかく、『序的主題』とはその優位性にかかわらず,形式的な意味を持たないところが「みそ」なのです。


##########################################
スコアの解説はウソ?! 投稿者:ホラぼや  投稿日: 5月22日(火)10時33分28秒

そ、そうなんですか。スコアの解説はウソだらけだったんだ!
僕も3番は全音のスコアなんですが、「ありゃりゃ、違ったかな!」と悩んだものです。
でも、科学と違ってたかが音楽、考え方の相違などつきものだろうと勝手に判断したということです。

『自然賛歌の主題』は悪くないので、取りあえずそれで行きましょう。僕としてはホルンの部分に思い入れがあるのでもう一ひねり欲しい気もしますが、こう言うのは詩人の仕事かな?

『序的主題』と言う言葉は勉強不足のため、なじみが無かったのですが、フランクを思い浮かべます。でも、良く考えてみればフランクの循環形式こそ、それ程新しい手法ではないということですね。「形式」と言ったところが新しい。

中学の音楽の授業で、こういったことを教えてくれれば面白いのに。

う〜ん、勉強になるなあ!
ミミタコの有名名曲も、理性で聴いてみるという愉しみが増えたってことです。

ここ2〜3年、5・6・7・3番を聴いているんですが、3番と7番は本当に飽きないですねえ。



##########################################
M3/8 投稿者:やすのぶ  投稿日: 5月22日(火)13時45分23秒

もちろん、ベートーヴェンやモーツアルトには嘘はないですよ。偉い先生が書いているのですから。でもロマン派以降は時々嘘がありますね。特にブルックナーがひどい。昔はスッペやヨハン・シュトラウスばかり聴いていて、大曲にはなじみが薄かったのでしょうかねえ?

それはそうとスッペなのかズッペなのかヴィーンではどう発音するのでしょうね。ジモン・ゼヒターについて、今日僕のHPを見直していたら、ふっとシモン・セヒターではないかと思ったもので。

音楽は、科学の部分と芸術の部分に分かれるのです。ブルックナーがヴィーン大学の名誉博士に選ばれたとき、学長が”科学を越えたときに芸術が始まる”と言っていましたが、”科学をふまえた上に芸術がある”のです。どのように音楽を楽しもうと、また解釈しようとそれは自由ですが、ドと書かれているものをレと読むのは間違いのように、作曲家が考えた構造を勝手に曲げて分析するのは、解釈にまで影響するので正さなければなりません。もちろんマーラーに直接聞いたわけではないので僕の分析が正しいとは限りませんがね。ただ正しい分析とはスコアの隅々から作曲家の出しているサインを的確に察知してそれを平明に表現することですし、答は1つしかありません。

<『自然賛歌の主題』は悪くないので、取りあえずそれで行きましょう。僕としてはホルンの部分に思い入れがあるのでもう一ひねり欲しい気もしますが、こう言うのは詩人の仕事かな?>

ホラぼやさん、もう一ひねりしてください。こういうことに制約や正誤は何もないのですから。ホラぼやさんの感性の出しどころです。

循環形式もリストの形式もシューベルトの《さすらい人幻想曲》を起源としているのです。シューベルトは偉大な作曲家ですね。

分析とは、腕の良い写真家が脱がない美人の女優をヌードにするのと似ています。裸で見たところでその女優の本質が変わるわけではないのですが、見てみたい。見るとかえって神秘性が損なわれるかも知れないのに。それに、ヌードで見たって女優の性格までは解らないように、分析したって作品の本質までは解りません。

<ここ2〜3年、5・6・7・3番を聴いているんですが、3番と7番は本当に飽きないですねえ。>
そうですね。それに《第8》や 《第9》は疲れますからね。

<続き>
それでは、最後に残った『第1主題』について、もうホラぼやさんもうすうす感じておられるでしょうが、【再現部】に出てくるのが『第1主題』の本体です。ここでは残念ながらホルンの『大地のテーマ』は全く姿を現しませんね。『大地のテーマ』は『夏のテーマ』に属するからです。

#########################################
夏のテーマ=序的主題です。 投稿者:ホラぼや  投稿日: 5月23日(水)09時41分40秒

「さすらい人幻想曲」ですか?!
やすのぶさんの話を聞いていると、僕は全然シューベルトを聴いていなかったということが良く分ります。偉大な作曲家シューベルトを。


RE<続き>
僕はトロンボーンのテーマ(13の3小節目〜)をホルンによる『第1主題』(4の9小節目〜)の派生として、一緒に合わせて『大地のテーマ』としていたのですが、トロンボーンのテーマこそ『主要テーマ』だということなんですね?

3連符の重いリズムの部分は、言ってみればまだ舞台設定だけで主役が出てきていないということでしょうか?

そしてホルンも、まだ舞台設定であって『大自然(大地)のテーマ』でなく『夏のテーマ』に属する『大自然の動機』とでも言った方がいいってこと。ということは、トロンボーンによる『主要主題』こそ『大地のテーマ』と呼ぶべきか?

ホルンはトロンボーンのチラリズム?

《提示部》では『花と小動物のテーマ』が先に出てきて、《再現部》では『大地のテーマ』が先に出ますねえ。こういうときはどちらを『第1主題』というんですか?

僕が〈第3主題部〉と呼んでいた軽い行進調の部分は『夏のテーマ』と『花と小動物のテーマ』を融合して『自然賛歌のテーマ』を生みだすためのものだったのですね。

目立ちませんが「73」で力強く歌うの前に、「72」からヴァイオリンが『自然賛歌のテーマ』を弾くんですよね。



##########################################

M3/9 投稿者:やすのぶ  投稿日: 5月23日(水)12時28分04秒

《さすらい人幻想曲》はシューベルトにしては駄作です。・・・と僕は思う。発想はすばらしく、主題も美しいのですが、1つの主題で全曲を統一するということは、多楽章作品にあっては無理なことなんでしょう。まあ聴いてみてください。この作品の構成上の素晴らしい発明と音楽的つまらなさを。頭で考えたものがいくら素晴らしくても、芸術としての広がりがあるのかというとハテナと言わざるを得ません。したがってこの作品の後継者たるリストやフランクにも同じ負い目をおわされているのです。

ブルックナーの《第七》のフィナーレがもう一つなのも、時間的な短さより、主題材料を統一しすぎた点にあるように思います。ソナタはある面ゴッタ煮でなければならないのです。

ホラぼやさんも漫才で言う『つっこみ』が上手くなってきましたね。それでこそ話が、次々と発展するというものですよ。このつっこみがあるのを待っていたのです。

『主要主題』とは全曲を支配する主題にだけに使って下さい。この曲の場合は『夏のテーマ』が『主要主題』なのです。トロンボーン主題は『第1主題』であるけれども『主要主題』ではありません。ライオンの王様は威厳があってちょこちょこあちこちに顔を出さないのです。

もう一つ、72のヴァイオリンはご指摘のように『終結主題』ですね。しかし本体はユニゾンなので、これはあくまで、ブルックナーの《第九》の第3主題と同じく『先出しジャンケン』なのです。
そうすると、<ここは【再現部】でしょう>というつっこみが来そうですが、それはあとのお楽しみ・・・・・

<続き>
『第1主題』が何かが解って、また疑問が出てきましたね。
僕は[第1主題部]は深い森の自然と動物たちを表現しているように思います。ここでは熊やオオカミや猿やリスや蛇やその他その他の動物たちが現れます。そんな中に現われる王者ライオンが『第1主題』なのです。そして[第2主題部]は明るい野原の自然を表しているように思います。花や蝶や多くの小動物達。そしてパン。[第1主題部]にも[第2主題部]にもたくさん現れてくる『動機達』はそれらを表しているように思います。そして両主題部に君臨するのが『夏の主題』。そういう構図でこの楽章が作られているように思います。

『第1主題』をどのように名付けるかは、それぞれの聴く人の感性だと思いますが、ホルンの『大自然の動機』というのはあたっているように思います。

マーラーの【提示部】は複提示であることが多いですね。この曲の場合『第1主題』本体は【第2提示部】に現れるのは一目瞭然ですが、 【第1提示部】においてすでに、顔を出しているのですよ。これが今回僕の気付いたことなのです。
『第1主題』はA音の延ばしで始まりますね。「王様、王様、早くお出ましを」という家来の動物たちの声に「ウォー・ウォー」と叫んでいるのがこのA音なのです。
【第1提示部】をよく見てください。3の4小節目、4の1小節前そして4の8小節目にトロンボーン他のA音があるでしょう。特別大きな音で吹かれるこれが『第1主題』なのです。
だからホルンの『大自然の動機』はその応答なのです。

ちょうどブルックナーの《第八》フィナーレ【再現部】でファンファーレが頭だけ出てあとのないのと同じ手法です。ですから、『第2主題』が『第1主題』より先に出るという不都合もないわけです。両主題とも[第1提示部]ではその本体を表さないというのがこの曲のやり方です。

##########################################
神様、仏様、やすのぶ様ぁ! 投稿者:ホラぼや  投稿日: 5月23日(水)19時20分22秒

トロンボーンによる主要(重要)な主題が『大地のテーマ』とも呼ぶべき『第1主題』と言えばよいのですね?

《第1提示部》のA音!?!?!?!?!?!?!
これが『第1主題』かあぁ!!! チ、チラリズムの極致!!
や、や、やすのぶさん、僕は今、感動に打ち震えていますうぅ。大阪方面を向いて深々とお辞儀をしましたぁ!
すっきりますねーー!

僕は2年前に3番のあの解説を書き上げたとき、それまでより自分なりにかなりすっきりしたのですが、少しひっかるものがありました。それが〈第3主題部〉と《展開部のような再提示部》だったわけです。
それも解決かあぁー!
すっごーーい! 凄すぎ。神様、仏様、やすのぶ様ぁ!
こんなのまーーーったく気が付きませんでした。教えてもらわなければ、気が付く気もしません。

それにしても、レークナーの『安住部分』のなんて美しいことか。



##########################################
M3/10 投稿者:やすのぶ  投稿日: 5月23日(水)20時31分46秒

そこまで言っていただくと、赤面します。3年間たまった便秘が、くそして一気にすっきりしましたか。
『第1主題』もまさに、チラリズムですね。
ただ、『大地のテーマ』はやっぱりホルンでしょう。僕はそう思います。
王様は孤独なのです。屹立しているのです。
この『第1主題』はもっぱらトロンボーン専門で提示・再現されますね。都合4回出てきますが威厳に満ちた2回に対して、夕立のあとの3回目のモノローグは孤独な心情が切々と語られます(33)。しかし特に注意したいのは4回目の最後(61の7小節目)、最後の言葉が[CBA]であることです。Aの意味は属音として始めに戻ることですが、CBはこのAを引き出すためにお付きの侍従長(バス)が最初にお伺いを立てている言葉です[第1提示部]。すなわちこの『第1主題』は最後の最後で最初に戻るのです。怒りが慰めに変わって。そしてそれを優しく包みこむようにチェロが《第9交響曲》のフレーズを奏でるのです。こういった連関が私の『第1主題』チラリズム説を、より強固にしていると思います。

そして[CBAド♭シラ]が『第2主題』の[ドシラ]と似ていることです。2つ目の音が半音高いか低いかだけの違いですね。それが[第1主題部]と[第2主題部]の性格を分けているのかも知れません。『第2主題』の時に言ったモットーは、実は『第1主題』をも支配していたのです。ますますブラームス的ですね。



これで外堀(『第2主題』)、内堀(『第1主題』)が埋められましたね。それでは、最後に本丸突撃。
大坂夏の陣!!

##########################################
究極のチラリズムぅ! 投稿者:ホラぼや  投稿日: 5月24日(木)10時24分05秒

やすのぶさん!
「・・便秘が、くそして・・」はないでしょう。本当に感動したんですから!
くどいでしょうが、もう一度言わして下さい。
『第1主題』は《第1提示部》(この言い方も良い)の『A』の音なんだー! 究極のチラリズムぅ!
あ〜、すっきりした。
これ、知ったかぶってみんなに言ってもいいですか?・・・と、インターネットの掲示板はみんなが見ているんでしたっけネ。

61から62は実に感動的です。2番の第4楽章『Urlicht』の3の前にそっと現れるオーボエもそうですが、あの回転音型はマーラーにとって、とても大切なものなんでしょうね。
「テーマ=主題」としなければいかんかなと思ったまでで、テーマもそういう日本語とすればいいことに気が付きました。けっこうどうでも良いことなんですが『動機』『テーマ』『主題』を使い分けるということです。



##########################################
M3/11 投稿者:やすのぶ  投稿日: 5月24日(木)12時19分05秒

どうぞ、ご自由に。これは僕が言っているのではなく、マーラーが言っていることですからね。しかし、注意!あの若くて博識の壁男さんですら反応しないのだから、相手を見て言うように。バカにされるのが落ちですからね。

レークナーの『安住部分』はそんなに良いのですか?シノポリでもレヴァインでも十分楽しめますが、どこが違うのですか?

テーマというのは日本語としては非常に自由に使えるのではないでしょうか?たとえば「タイタニックのテーマ」とか。したがってテーマと言えば何でも有りであり、音楽用語ではないのだと開き直れるわけです。

しかし、主題と動機ははっきり区別される必要があります。音楽用語としてはっきり認識されるべきですので。初歩的楽典の本には分かりやすくしようとしてか、主題は8小節、動機は2小節などと解説されていますが、そう規定すると例外だらけになってしまいます。
主題とは、起承転結のある(カデンツァと言い換えても良い)ひとかたまりの楽段であると規定出来ます。もちろん和声が付いていなくてもかまいません。
動機とは、それ自体で独立し得ない特徴的なフレーズを言います。また、部分動機というさらに細分化された用語もあります。

ブルックナーの《第八》で具体的に例をあげれば、最初にみんなが主題と言っている低音で提示されるひとかたまりは実は動機なのです。『第1主題』はこの動機がいくつか続いてフォルテッシモで最初の形が繰り返されるところの直前、Cの音で解決するまでの全体を言います。そしてタタンとかタタタンというリズムは部分動機になります。

M3でいえば『夏のテーマ』は主題です。2の2小節前まであります。ここには8つの動機があります。『大地のテーマ』は4番目の動機です。そしてタタタン1つだけを取ると部分動機ということになります。[第2提示部]のトロンボーン主題を『大地のテーマ』と捉えるのなら当然それは主題ですね。しかしぼくはこの主題は非常に人間的なまたは個人的なもののように感じるのですが。

本丸攻撃、これが、ミソやクソのことでなく本当に僕が言いたいところのものです。
答は一番最初に言ってありますが、ホラぼやさん一度どういうことか考えてみてください。3日の猶予を与えましょう。

攻撃に先立って、おさらいとして簡単に第1楽章を分析しておきましょう。

区分 細区分 練習番号
【第1提示部】 『夏のテーマ』 .
[第1主題部]     2
[第2主題部]    11
【第2提示部】 [第1主題部]    13
[第2主題部]    18
[小終止部]    27
[終結部]    28
【第1展開部】 夕立    29
モノローグ    33
『第2主題』の展開    35
『終結主題』の展開    39 
【第2展開部】 『パンの動機』の主題化    43
『パンの動機』繰り返し    46
『夏のテーマ』と『パン』    49
【再現部】 『夏のテーマ』    55
[第1主題部]    57
[第2主題部]    62
[小終止部]    69
[終結部]    73


 

##########################################
バカにされるぅ!? 投稿者:ホラぼや  投稿日: 5月25日(金)10時10分25秒

>レークナーの『安住部分』はそんなに良いのですか? シノポリでもレヴァインでも十分楽しめますが、どこが違うのですか?
@単に好みの問題です。
響きが美しいのはシノポリやサロネンもそうなんですが、40の「Sehr zart」でテンポを絶妙に落とし、4小節目のヴァイオリンのグリッサンドを怪しく生かすのです!

やすのぶさんの本当に言いたい本丸攻撃って、《提示部》と《再現部》が逆転しているというやつですか?

《再現部》のような始まりをしていたら、序的主題・第1主題・第2主題をハッキリ認識できますね。《提示部》のようにチラリズムの手法で《再現部》をやったら、分りやすいかもしれません。しかしそうすると既にチラリズムの意味がなくなっていて、平凡になってしまうってこと?
う〜ん、良く分りません。
もっと全然深い意味があるのでしょうか?

『第1主題』は最重要なもので、やすのぶさんの言うように人間的な主人公という感じがしますね。それが最後に(《再現部》の前の方)出てきたとき、例の回転音型で終わるというのは意味深いです。

『夏のテーマ』は8つの動機から作られている主題だ、という意味ですか?

僕が最初に『第1主題』と呼んでいたホルンによる部分は、「テーマ」というより「動機」 としたほうがいいのでしょうか?
「テーマ」と言うには不安定で「動機」と言うには長いような気がしたもので…。



##########################################
M3/12 投稿者:やすのぶ  投稿日: 5月26日(土)09時34分19秒

<40の「Sehr zart」でテンポを絶妙に落とし、4小節目のヴァイオリンのグリッサンドを怪しく生かすのです!>
分かるような気がします。アラビア風の衣装をまとった美しい女占い師がにこっと微笑みながらウインクしているのに、ぞっこん参るという風な感じでしょうか。他の演奏は気の抜けたビールか、なにかひと味足らない明太子みたいなものですね。

<やすのぶさんの本当に言いたい本丸攻撃って、[提示部]と[再現部]が逆転しているというやつですか?>
その通りです。もちろん、平凡という意味もあります。くだんの解説者も、ひっくり返っていればちゃんと分析出来たかも知れませんのでね。まあもう少し考えてみてください。ヒントは調性です。

<『第1主題』は最重要なもので、やすのぶさんの言うように人間的な主人公という感じがしますね。それが最後に(再現部の前の方)出てきたとき、例の回転音型で終わるというのは意味深いです。>
主題的に重要なのは、前にも言ったように、トロンボーンが最後に語る[CBA]の下降音形です。回転音形はおまけみたいなものですよ。

<『夏のテーマ』は8つの動機から作られている主題だ、という意味ですか?>
そうです。ちなみに8つめは大太鼓の変なリズムです。最も重要な動機は最初の学生歌みたいな動機ですが、その他のものも適宜活用されています。たとえば、第6動機が『第1主題』の中で出てくる場面なども印象的で象徴的ですね(14の8小節目)。

<僕が最初に『第1主題』と呼んでいたホルンによる部分は、「テーマ」というより「動機」 としたほうがいいのでしょうか?
「テーマ」と言うには不安定で「動機」と言うには長いような気がしたもので…。>トロンボーンを『第1主題』とすると、〈第1主題部〉に含まれるこのホルンや、重要な4度下降で始まるトランペットは何なんだということになりますね。

これは、『主題』と『動機』の概念を明確に区別して認識することによって、理解が可能となります。そのためにはブルックナーの「第七」と「第八」の冒頭主題を見てみるとよいでしょう。両方とも最初の形がオーケストレイションを増強してもう一度現れるところまで全体が第1主題です。「第八」では最初の動機が何回か繰り返され3連符の結尾になっていますね。「第七」ではチェロとホルンの動機のあとすぐに別の動機が出てきますが、それらは第1主題を構成する補助的な動機であると言えます。

両曲の最初の動機はあくまでも動機であって、それ自体が第1主題ではないのです。従って、動機が原調で再度現れてもそれは再現部ではないのです。主題全体がもう一度現れる時が再現部であるということになります。


さて、マーラーのこの曲の場合、ブルックナーの「第七」の第1主題と同じようなものだと考えてください。数多くの動機を含み17でニ短調に完全終止します。16で現れる4度下降が、トランペットの動機の基です。ホルンの5からの4小節は16からの4小節から来ているのです。『夏の主題』からのパパパンは、もちろんそこから導かれたものですが、第1主題としてみれば、前打音であると、考えてみてはどうでしょう。

トロンボーン主題の最初のAの前にもこの2つの前打音があれば同じように響くことになります。Trb.(〜)ミー(〜)ミー@ファーミー、Hr.〜レー〜レー〜ファーミー。ということで、トランペットやホルンは第1主題を小規模変形・再確認する、ソナタ形式で言うところの『第1主題の確保』という部分にあたります。

全体に、主題提示が逆になっているので、全てが解りにくくなっているのです。

<続き>
それはそうと、《第2提示部》と《再現部》の最後に、3度転調する場面がありますが(28の12小節目と74)ホラぼやさんは、これをどう思いますか?ぼくはデュカの「魔法使いの弟子」で魔法使いが魔法をかける場面の音楽を連想してしまいます。


##########################################
本丸が見えない。 投稿者:ホラぼや  投稿日: 5月28日(月)10時12分59秒

確かにあの場面は魔法をかけるような感じがします。

やすのぶさんの説明で、構造上はトロンボーンの[CBA]の下降音形が重要なのは分りましたが、感覚的にあの回転音型が印象に残ります。

本丸攻撃、良く分りません。ヒントは調性ねえ。それが一番難しい。どうぞ、教えて下さい。『第1主題』の「A」みたいに感動的なことかなあ。






##########################################
M3/13 投稿者:やすのぶ  投稿日: 5月28日(月)13時21分08秒

多楽章の器楽曲のもともとの起源は、大きな1つの楽章のあとにいくつかの小曲をつなぎ合わせたものだと思います。すなわち、最初の楽章を「シンフォニア」または「オーヴァーチェア」(序曲)と言い、これは最も重要な楽章です。あとに続く楽章は舞曲のような軽いもので、最初の楽章に対するアンコール・ピースのようなものと考えてください。そういった姿を現在でも聴ける具体的な作品で例示するとすれば、有名なバッハの「組曲第2番」や「組曲第3番」などがぴったりでしょう。

ハイドンによって確立された「交響曲」においても同じ精神が引き継がれました。ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトの交響曲はすべて第1楽章で最も重要なことを語っているのです。そして、4つの性格の異なる楽章は古典の様式の中で均衡を保っているのです。

ロマン派も中期以降になると、この多楽章の交響曲にも全体のいわゆる有機的統一が求められるようになってきました。そのとき障害になったのが、この第1楽章の性質です。第1楽章で全てを語って完全終結してしまえば、あとに何が続くのか?また第1楽章と、残りの3つの楽章との断裂をいかにカヴァーするのか?この問題は、交響曲の作曲家達に大きな試練を与え、この問題を解決した作曲家が名曲を残すことに成功したのです。

ブラームスの交響曲はいずれも第1楽章が最も重要ですね。しかし彼はこれらの第1楽章に完全な終結を与えず、弱く終わらせることによって断列を避けることに成功したのです。唯一、強く終わる《第4交響曲》は、曲本来がバロック志向であるための措置であり、ホ短調で終わることも幸いして、様式的均衡を保っているのです。

ブルックナーは、フィナーレを、より高い段階に持っていくことで、この問題を解決しようとしました。《第四交響曲》や《第五交響曲》の成功はその典型ですね。しかし、《第六交響曲》や《第七交響曲》では彼の意図は正確には指揮者や聴衆に伝わっていません。そして、さらに巨大で複雑になった《第八交響曲》では、改訂によってブラームス風に第1楽章を弱く終わらせることでこの問題に対する明確な線を出しました。《第九交響曲》では離れ業として、壮麗な内にも第3音を欠くという空虚5度の手法で見事にこの問題をクリアーしています。

さて、マーラーの場合はどうでしょうか。《第1交響曲》はその由来において標題音楽的でありますが、リヒャルト・シュトラウスの行き方とは反対に、彼はどんどん多楽章の交響曲形式の方に魅力を感じ、また、彼の表現の方法がこの形式に合うことを悟ったのです。彼は、後の作品でその様式を極めることになるのですが、《第1交響曲》では、まだ過渡的な様相を呈しています。私はこの曲を聴くと第1楽章ですでにフィナーレの中にいるような不思議な感覚によくなります。

《第2交響曲》はフィナーレに合唱を用い、ブルックナー的な、フィナーレを第1楽章より高い段階に持っていくことによって、この問題をクリアーしています。

それでは、《第3交響曲》はどうでしょうか?《第2交響曲》と同様、作品を第1楽章の《第1部》と残りの楽章の《第2部》に分けることによって断列の危機は、より強められているのです。マーラーはどうのようにこの問題を解決したか?それはある意味で”コロンブスの卵”なのです。すなわち、【提示部】と【再現部】を逆転させることによって、この第1楽章を、完全には終結させないことに成功したのです。

すなわち、第1楽章の終わりは、まだ【提示部】の終わりに過ぎないのです。曲の精神は続く楽章に引き継がれ、フィナーレにおいて完結するのです。したがって楽章自体は完全に見えるソナタ形式を採りながら、完全に終結しないというパラドックスを、このことによって見事にクリアしたのです。具体的に言えば、普通、ニ短調のソナタ形式の調性は次のようになりますね。

【提示部】 [第1主題部] ニ短調
[終結部] ヘ長調
【再現部】 [第1主題部] ニ短調
[終結部] ニ長調


ここで、注意したいのは、シューベルト以降のソナタ形式においては『第2主題』はどんな調を採っても良いということです(3度転調が多いのですが)。そして【提示部】の終わり、【再現部】の終わりにソナタ形式で規定された調へ向かえば良いのです。このことによって、彼らのソナタ形式の活性化と巨大化が図られたのです。

マーラーは《第3交響曲》でこのように作曲しています。

【提示部】 [第1主題部] ニ短調
[終結部] ニ長調
【再現部】 [第1主題部] ニ短調
[終結部] ヘ長調


ここで注目したいのは、27からバスに固執低音(Aの音)が20小節続くことです。Aとはニ長調の属音ですね。属音は待つ音なのです。ブルックナーならいざ知らずマーラーが20小節もバスを動かさないということは28からのニ長調をいかに大切に思っていたかを証明するものでしょう。
そして【再現部】で72から前座に『終結主題』が現れることも本来の【提示部】であるからこその措置なのです。

もし、ホラぼやさんにひまがあれば、この第1楽章を細工して、本来のソナタ形式に変えて聴いてみられるのも一興かと思います。
そのためには、23の7小節目のアウフタクトで64のアウフタクトに移し、75で29の1小節前に戻し、64のアウフタクトで23の7小節目のアウフタクトに移し、29の1小節前で75に戻すのです。最後は回転数を短3度分低いピッチに変えるとニ長調になります。本当はホルンの『大地のテーマ』の小節で変えたいのですが、この場合1小節分短3度高くしないと上手く繋がりません。


##########################################
感謝と感動 投稿者:ホラぼや  投稿日: 5月29日(火)10時12分56秒

 昨夜やすのぶさんの投稿を読んで、すぐに返事を書こうと思いましたが、こんな丁寧な解説はかみしめて読むべきだと思い直し、プリントアウトしてじっくり読みました。

 「第1楽章の問題を解決した作曲家が名曲を残した」というのは蓋し名言。

 ハイドンによる「交響曲」の起源から、ブラームス、ブルックナーの具体例を持ち出しての説明は、分かり易いだけでなく実に説得力があります。
 前にも言ったことがありますが、今まで何気なく雰囲気でぼんやり感じていたこと(即ち理解はしていなかったということ!)を、しっかり言葉にしてもらった気持ち良さがジワジワと感動を誘います。

 第3番の第1楽章にそんな仕掛けがあったとは・・・。第1主題の「A」よりも、ぐさーーっと来る感動ですぅ。流石やすのぶさん、ポイントでの理解をしっかり体系
づけられておられるということ。自分が如何に何も考えていなかったかを痛感します。

 だからごめんなさい。全く反論などできないし、感動するばかりです。だって、こじつけの感じが全くしないんですから・・・。

 そしてこの丁寧な解説に感謝します。有難うございます




##########################################
M3/14 投稿者:やすのぶ  投稿日: 5月29日(火)13時25分04秒

どういたしまして。
僕も20数年前クーベリックで聴いていたときは、『第3主題』があって、どうのこうのと解説書の通り理解していました。LPが聴けなくなってこの作品にはずっと遠ざかっていたのですが、ホラぼやさんに触発されてレヴァインやシノポリを聴いて、解説書はおかしいとつい最近思うようになったのですよ。その点ではホラぼやさんに感謝・感謝です。

この作品の大枠は大体このようなものでしょうが、細部にはいろいろ仕掛けがあるようで、楽しみは尽きませんね。



2001.6.11
文責:川崎高伸
ホラぼやさん、ご協力どうも有り難うございました。


トップページへ