10.《くるみ割り人形と鼠の王様》バレエの原作
目次

はじめに、原作・翻案からバレエへ
1.おはなしの概要

2.デュマの翻案の位置づけ
3.くるみ割り人形とは?
4.マリーの年齢
5.マリーの人形たちと兄妹
6.ピルリパート姫
7.マリーが[クルミ割り]と一緒に行ったところ
8.4人のドロッセルマイアー
9.くるみ割り人形の剣
10.ホフマンの原作の疑問に対する仮説
11.原作と翻案の違いから浮き出てくるもの
12.原作の三角鏡による万華鏡構造
13.鼠の王さまの7つの王冠
14.マリーの死と豊饒:《くるみ割り人形》が楽しいだけの物語である理由

16.むすび


バレエ《くるみ割り人形》こぼれ話

童謡《赤い靴》と《くるみ割り人形とねずみの王様》との同質性考



<はじめに>
【原作・翻案からバレエへ】

バレエの《くるみ割り人形》といえば、その美しくてよく知られた音楽、子供たちも出演出来る構成、単純で分かりやすく楽しい物語、比較的コンパクトな長さ、さらに何よりクリスマスを題材にしていることで、年末になるとあちこちで上演されるという、いわば「季節商品」的な意味合いをも含んでいるため、たくさんのバレエ作品の中で、プロ・アマを含めて最も取り上げられる機会の多い演目であろうことは、統計資料を見るまでもなく疑問の余地のないところでしょう。ところで、この無邪気で、陽気で、楽しさのあふれたバレエ作品をご覧になって、何故か目に涙が溢れてくることを経験された方がおられるのではないでしょうか。あるいは、涙が出るところまでは行かずとも、何かしら淡い哀切の感情を呼び覚まされた経験を持たれた方は多いのではないでしょうか。そして、バレエを観終わった後には、何とも言えない癒された思いに満たされるのです。この独特の感情は、音楽を聴いただけで、あるいはダンスを見ただけで湧きおこるものではなく、美しい音楽と見事なダンス、さらには華やかな衣装や豪華な舞台装置などの相乗効果によって初めて引き起こされるものなのです。それが総合芸術としてのバレエの醍醐味であり、かつまたバレエでしか表現できないものなのです。それでは、なぜこのように楽しく美しいだけに見えるバレエの根底に悲しみの感情が潜んでいるのか? 今回、ホフマンの原作に遡りながら、この『楽しいバレエ物語』に潜む『涙』の秘密についてをやすのぶ探偵に解き明かしてもらうこととしましょう。

ここでの話は、細部にこだわった点描的な分析に終始するので、物語の全体像をつかむため、まずはホフマンの原作を読まれることをお勧めします。また、手短に物語のあらすじを知りたいと思われる方は、下記↓のMIYUさんのHPが大変分かり易く、要点を的確にまとめておられます。バレエでの演出の違いを把握するためにも非常に役立つので、是非ご参照ください。

http://www2.tbb.t-com.ne.jp/meisakudrama/meisakudrama/kurumihofuman.html

http://www2.tbb.t-com.ne.jp/meisakudrama/meisakudrama/index.html

なお、ここでは引用部分を除いて、「くるみ」の表示方法について、「実」そのものは「胡桃」、「人形」は「くるみ割り人形」、主人公マリーが「人間」として見たときは「[クルミ割り]」とカタカナ角カッコ付き、「作品名」としては「《くるみ割り人形》」のように二重山カッコ付き、とそれぞれ表記を変えています。

1.《くるみ割り人形》のおはなしの概要
バレエ《くるみ割り人形》(CASSE-NOISETTE)は、現在では『クリスマスの夜に見たクララの楽しい夢』といった風に演出されることが多い。ところが、このバレエ作品がロシアのサンクト・ペテルブルク市にあるマリインスキー劇場で1892年12月18日に初演されたときは、そうではなかった。主人公の少女が目覚める場面などはなかったのである。では原作ではどうだったのだろうか? このバレエの原作であるドイツ語で書かれた小説《くるみ割り人形と鼠の王様》(Nußknacker und Mausekönig)は、ホフマン(エルンスト・テオドール・(ヴィルヘルム)・アマデウス・ホフマン:Ernst Theodor (Wilhelm) Amadeus Hoffmann、E.T.A. Hoffmann1776-1822)が1815年に着想し、翌年の1816年に完成した作品である。物語は複雑な二重構造、三重構造で構成されているとはいえ、要旨はいたって単純明快である。すなわち『7才の少女マリーは、クリスマスの夜に見つけたくるみ割り人形を助けたことによって、彼から求婚され、人形の国の王妃となる』という、歓びと幸福に満ちた筋書きなのである。物語が進行する中では、少女の目覚めの場面は何度かあらわれるが、最終的には彼女の夢としては描かれていない。このことは、ホフマンの原作においても、バレエ制作の直接の素材としても使われたデュマの翻案においても、また大きく省略されたプティパの作曲指示書によるバレエそのものにおいても、なんら変わることはないのである。この作曲指示書によると、バレエの第2幕において、クレール(クララ)とくるみ割り人形の王子はフィアンセとして描かれているのである。とはいえ、《眠れる森の美女》のような豪華な結婚式の祝宴が明瞭に舞台上で繰り広げられるわけではなく、『人形の国』の『コンフィチュランブール(お菓子の町)の宮殿』での歓待という形でぼかされ暗示的に処理されているだけである【註】。したがって、この物語の骨組みだけしかないようなバレエにおいても、チャイコフスキーの音楽の力を借りながら、ホフマンのもともとの意図から外れたものとはなっていないことは疑いのないところである。ただ、バレエでは舞台上演のための様々な新しい工夫が加えられている。コンフィチュランブールの住人達のディヴェルティスマンなどダンスに関する部分は当然として、その他にもクリスマスツリーが大きくなったり、雪玉がワルツを踊ったり、パドドゥを踊らせるためにドラジェの精(金平糖の精)というキャラクターを創出したりしているのはバレエでの独自のアイデアであり、舞台上で大きな効果を発揮している。

【註】作曲指示書での暗示的に処理されたあやふやさを逆手にとって、現代のバレエでは『クララのクリスマスの楽しい夢』として描かれることが多い。原作には無い「ドラジェの精」というキャラクターを登場させたのは、クララを子役に割り当てたのでパドドゥを踊る登場人物の必要が生じたための措置だったのだろうが、バレエの元々の構想では、『人形の国』の王と王妃になるため、「フィアンセ」として登場したくるみ割り人形とクレールがパドドゥを踊ることは必然であるし、チャイコフスキーのパドドゥの音楽は当然そのことを前提として作曲されたはずである。ところが、ドラジェの精の創出によって、いとも簡単に二人は「単なる訪問者」に変えられてしまったのである。それは指示書に存在する「フィアンセ」という言葉が、2種残っている初演の台本のどちらからも脱落していることからも窺えよう。初演での、物語の内容に対する不評(この話はいったい何が言いたいのか? クララは、一体どうなるのか?)は、このことに起因していると思われる。

ところで、この物語は『少女が最愛の男性を見つけて結婚する』という単純でありふれた少女の夢のようなお伽話なのだろうか? よく読んでいくと、原作のあちこちには、何かしらの不自然さが目に付く。まず、ホフマンは、なぜ随所に読者を巻き込むような書き方をしたのだろうか? マリーの夢や幻想は、現実の場でいちいち完全否定されてしまうのはなぜだろうか? いったい『人形の国の王妃になる』とはどういうことなのか? こういった疑問を重ねていくと、この《くるみ割り人形と鼠の王様》という物語は、単純なお伽話などではないということに気づくことになる。ホフマンは、この物語の結びの言葉として<wenn man nur darnach Augen hat.>(ただ、人がそれに向かう目を持ってさえいれば=それを見ようとしさえすれば、だれでも)と、そのことを読者に投げかけている。ホフマンは、ある特定の人だけがそれを見ることが出来ると言ってるのではなく『誰でもそれを見ようとする意思さえあれば、見ることが出来るのだ』と言っているのである。


2.デュマの翻案の位置づけ
先に少し触れたように、バレエ《くるみ割り人形》制作にあたっての作曲指示書や台本は、ホフマンの原作ではなく、アレクサンドル・デュマ(父)(Alexandre Dumas père1802-1870)によるフランス語で《Histoire d'un casse-noisette》と題された翻案に基づいて作られた。これは、わが国では《くるみ割り人形物語》と呼ばれることが多いが、直訳すれば《小さな木の実割りの物語》とでも訳すべきものだろう。翻案と言われる所以は、原作の単なる直訳ではなく、翻訳の領域をはるかに超えた新たな材料の挿入、言い換え、削除が、原作の全編にわたって施されているからである。バレエ制作にあたって翻案の方が選ばれた理由は、作品のプロデューサーである劇場監督官フセヴォロジュスキーが長くフランス滞在の外交官であったこと、実際に構成にあたったプティパがフランス人であったことも大きな理由であるが、なによりデュマの翻案は、原作の含蓄に富むいささか不可解な物語を、明晰で論理的な『童話』に作り変えていて、バレエの題材として使いやすかったからだろう。

この翻案《Histoire d'un casse-noisette》は1844年に出版されたとある。バレエ制作の半世紀前のことであり、ホフマンの死後20年以上経ってのことでもある。デュマの翻案には、あちこちにちりばめられたホフマンの細やかな配慮を無視し、全く自由に、ひたすら話の前後の辻褄が合うような、様々な改変がほどこされているのである。そのために、説明的な追加がふんだんに盛り込まれるとともに、ホフマン独特の唐突さむき出しの一見奇妙に見える表現が常識的なものに置き換えられたり、不可解に思える表現がバッサリ削除されたりしている。おいおい説明して行くように話の本質が見えなくなってしまうことすらあるのだ。

ということは、それらを逆手にとって、原作と翻案とを比較対照して削除や置き換えを読み解けば、ホフマン本来の意図が浮き彫りにされ、我々に物語の本質を気づかせてくれるのではないだろうか。《『胡桃割り人形』論ー至上のバレエー》の著者平林正司氏は、さまざまな、誤解に基づく解説や論評に対して<こうした「間違った解説」の流布した原因は、たった一つである。つまり、ホフマンの原作とデュマの翻案の双方を、丁寧に読んで比較することなく、あるいは、まったく読むことなく、既成概念に基づいて、安易な文章が書かれてきたのである。>【参考(C)】p30と述べておられる。全くその通り。1つの光源に照らされた床や壁が一見平面に見えていても、もう一つ光源が加えられた時には微妙なデコボコや陰影が浮き立ってくるように、深い含蓄や暗喩に満ちたホフマンのこの作品に対して、原作と翻案を比較検討することによって本質を浮かび上がらせようとする方法は、まさに最適なアプローチの仕方であると言えるのである。

とはいえ、原作と翻案が大筋において同一であることは、平林氏も指摘しておられる通りである。ただ、先に述べたように翻案には様々な削除、追加、そして言い替えがなされているが、中でも追加された部分が、削除や言い替えよりはるかに多い。そのため、翻案はかなり膨らんだものになっている。フランスの子供たちに物語を分かりやすく説明するとともに、より面白くなるよう話を膨らませたかったからだろう。デュマの翻案を採用した小倉重夫訳、東京音楽社版では、本体は186ページを擁しているのに対して、ホフマン原作からの種村季弘訳、河出文庫は106ページ、上田真而子訳、岩波少年文庫は163ページ、前川道介訳、国書刊行会は50ページである。それぞれの本のフォームは全く異なるし、小倉氏の翻案の和訳には多くの挿絵が挿入されており、さらにはフランス語とドイツ語の文体の違いが和訳に反映している可能性もあるので、単にページ数を比較したところで何の意味も持たないが、物語内容の『ある部分』を比較することは原作と翻案の性格の違いを垣間見せることになるのかもしれない。『ある部分』とは物語の中の物語、ドロッセルマイアーが語る『堅い胡桃のメルヘン』(バレエでは完全に削除された部分)である。前川訳では、それは12ページに亘って述べられ、全体の24%に相当し、約4分の1の分量となっているのに対し、小倉訳では69ページも要していて37%、すなわち3分の1強を占めているのである。このアンバランスが意味するものは、他の部分に比べて、特に『堅い胡桃のメルヘン』ではデュマ独自のアイデアがふんだんに盛り込まれているということを示しているのである。デュマの『水増し』の最も甚だしいところは、醜くされたピルリパート姫に元通りの美しさを取り戻すための堅いクラカトゥクの胡桃が見つかったことを受けて、王さまは3回にわたって、それを割ることが出来る若者を募集したというくだりだろう。1回目は3500名、2回目は5000名、そしてドロッセルマイアー青年を含めた3回目は11375名が応募したということになっている。審査には1回目は1週間、2回目は2週間を要し、3回目の19日目になって、やっとドロッセルマイアー青年の出番がまわってくるという、ひと月以上にわたる壮大な話になっているのである。アニメの台本としては結構面白そうだ。ところがホフマンの原作には、挑戦者数などはなく、たった一日の出来事のように、いたって単純に述べられているに過ぎない。そして、実際に胡桃を割る場面は、原作と翻案では次のように異なっている。

ホフマンの原作:
<ピルリパート姫は、その若いドロッセルマイアーに、それまでの男のだれともくらべものにならないほど、心をひかれた。姫はちっぽけな両手を胸にあてて、ふかいため息をついて、つぶやいた。『ああ、クラカトゥクのクルミをほんとうに噛みくだいて、わたしの夫になってくださるのがあの方だったら、どんなにうれしいかしら!』若いドロッセルマイアーは、王さまとお后さま、それからピルリパート姫にうやうやしくおじぎをして、いよいよ儀典長の手からクラカトゥクのクルミをうけとると、なんのためらいもなく歯のあいだにはさんで、三つ編みの髪をぐいとひっぱった。と、カリッカリッ、殻はこなごなにわれた。若いドロッセルマイアーは、なかの実にまだくっついていた渋皮を手ぎわよくとって、さっと左足をうしろにひいておじぎをしながら、その実を姫にさしだした。そして、目を閉じ、うしろむきにさがりはじめた。姫はさっそくその実をたべた。−−−すると、ああ、なんとふしぎ!みにくい姿はたちどころに消えて、そこには天使のような美しい乙女が立っていた。>上田真而子訳P104-105

この部分に対応する
デュマの翻案:
<彼を一目見た王女さまは、自分の気持ちをおさえきれずにこう叫んだ。「あの方がくるみを割ってくださったら、どんなにうれしいかしら」すると王女さまづきの家庭教師が言った。「王女さま、いつも申し上げていることですが、あなたさまのように若くてお美しいお姫さまが、そのようなことについてご自分の意見を大声でお述べになるのは、はしたないことでございます」
実際、ナタニエル(デュマ版における若いドロッセルマイヤーの名)には、世界中の王女さまたちの関心を引きつけるだけの魅力がそなわっていた。彼は金色のボタンがついていて、飾りひもで縁取りされたスミレ色の小さな軍服を着ていた。これは伯父さんがこの晴れの日のために作ってやっておいたものだ。半ズボンも同じ作りだった。長靴はピカピカにみがき上げられていて足にぴったりなので、まるで絵の具で塗られているみたいだった。ただ一つ、彼の容貌を、少しばかりぶちこわすものといえば、首のうしろについている見ばえの悪い木切れだった。でもドロッセルマイヤー伯父さんが工夫に工夫をこらしたから、それはまるでかつらに付属する小袋のように見え、むりをすれば、一風変わった身だしなみの趣味があるのだとか、さもなければ、それはナタニエルの洋服屋が城内で流行させようとした最新のファッションなのだとか言って、通用してしまったかもしれない。
この魅力的な若者が大広間に入場すると、王女さまがはしたないほど大声をあげ、いあわせたほかの婦人たちがひとりごとをもらしたのも、こういうわけだったのだ。そして引き受けた大仕事をナタニエルが首尾よくやりとげるように、と心の底で祈らない者は、だれ一人としていなかった。待ち望んでいた王さま、王妃さまはもちろんのことだった。若いドロッセルマイヤーの方は自信に満ちた態度で前へ進んだ。その様子を見て、みんなのナタニエルにかける期待はいっそう大きくなった。玉座の下の階段のところまで進むと、彼はまず王さまと王妃さまに、それから王女さまに、さらに見守る人々にあいさつをした。そして式典長から堅いくるみを受け取ると、それをそっと人さし指と親指でつまみ、口に入れた。それから首のうしろで木のおもりを強く引っぱった。カリッ!カリッ!音がして、殻はいくつかに割れた。それから芯についている果肉を上手にはがすと、ナタニエルは優雅に、しかもうやうやしく王女さまにおじぎをして、芯を差し出した。そして目を閉じて、うしろへ下がり始めた。同時に王女さまは芯を飲み込んだ。
ああっ!なんとふしぎなことだろう!あのすさまじい醜さが消えて、王女さまは天使のように美しく若い女性に変身した。>小倉重夫訳p134-136

両者を比較すると、デュマの翻案は、3倍近くにも膨らんでいることが解る。ただ、それはほとんどが説明的な水増しに過ぎず、この例における両者の違いからは物語の本質にかかわるようなものを見い出すことは出来ない。なぜデュマは『堅い胡桃のメルヘン』に拘ったのだろうか? ホフマンにおいては、それは本筋に密接につながった重要な挿話として描かれているのだが、デュマはそれを別個の『お伽話』として完結させたかったからではないだろうか。その証拠にホフマンの原作では、物語を語る名付け親のドロッセルマイアーと話の中のドロッセルマイアーは同一人物であるかのように同じ名前が使われ、話の途中にはフリッツやマリーとの対話が置かれていて、『堅い胡桃のメルヘン』と本編とは密接に繋がっていることに充分な配慮がなされている。それに対して、デュマでは、話が中断されることは無く、ドロッセルマイアーの名が同一であることについても全く触れられない。デュマ版には本編と挿話の間に断絶があるからこそ、フセヴォロジュスキーやプティパがバレエ台本を作成する時、『堅い胡桃のメルヘン』を完全に削除することに躊躇が無かったのだろう。一種の怪我の功名と言えるのかも知れない。

このように、原作・翻案の両者の相違について、上述の『堅い胡桃のメルヘン』からの引用部分のような、全くの水増し作りなおしの部分を比較してもあまり意味はない。本編の中で、同じようなことを述べているところの微妙な相違にこそ着目されるべきであろう。ある個所では、デュマが削除してしまったことによって、ホフマンの原作を一通り読んだだけでは気付けなかった重要なポイントの欠落が発見できたり、また別のある個所では、デュマが余計な補筆をしたことによって原作の意図が損なわれ意味不明に陥ったことに気づくことが出来るのである。したがって、削除、追加、そして言い替え(次例の「おはなし」を「歌」に替えるような)を注意深く観察すると、いかにホフマンが示唆に富んだもの言いをしているかが浮き立って来て 『ホフマンはこの物語を通して何を言いたかったのか?』つまり物語の本質が視えてくるというわけである。

たとえば、ホフマン自身がこの物語全体の本質をさりげなく提示する場面、『堅い胡桃のメルヘン』をドロッセルマイアーが語り出す直前の部分で、母親が発する質問:
<dass Ihre Geschichte nicht so graulich sein wird, wie gewöhnlich alles ist, was Sie erzählen? :あなたがなさるおはなしは、たいてい、きみょうな、こわいおはなしですけれど、今日のはそれほどこわくないでしょうね?>上田訳p71-72
ここでは、ドロッセルマイアーとシュタールバウム家の長く続く親密な関係がさりげなく述べられている。ドロッセルマイアーは、母親を含めた子供たちに、しばしば怖い話を聞かせてきたのだ。これは【13.鼠の王様の7つの王冠】の章で説明されるマリーの夢にも関連しているのである。それを母親の言葉に託して、それとなく読者に気づかせようというホフマンが仕組んだ伏線の1つだったのだ。

さらに、ここでは、もう一つ別の重要なことをも述べているのである。それはデュマの翻案での変更から窺い知ることが出来るのである:
<J'espère que votre histoire ne sera pas aussi lugubre que votre chanson? :「そのお話はさっきの歌みたいに憂うつじゃないんでしょうね?」>小倉訳p72-73
を読んだとき、何故デュマは「怖いおはなし」を「憂鬱な歌」にすり替えてしまったのか?という疑問が浮かんでくる。「歌」というのは、その直前にドロッセルマイアーが歌った奇妙な『時計職人の歌』であって、内容は少し異なるが、この歌自体は原作にも翻案にも存在する。「おはなし」を「歌」に替えてしまうのは少々ごり押し気味であるとは言え、「ドロッセルマイアーは子供たちにいつも奇妙で怖い話をしている」という唐突な決めつけを持ち出すことにデュマは大きな違和感を覚えたからこそ、彼は話の流れに応じた論理的でスムースな直前の場面からの「うっとおしい歌」に置き替えたのではないだろうか。そうであるとすると、逆にホフマンは何故そのようなことを母親に言わせたのか?という疑問が浮かんでくる。この疑問こそが別の光源によって浮き出て来た陰影だというわけである。ホフマンは母親の口を借りてこう言いたかったのだろう。「ドロッセルマイアーは子供たちにいつも奇妙で怖い話をしている」→「ホフマンは読者にいつも奇妙で怖い話をしている」が《くるみ割り人形と鼠の王様》の物語は、そういった怪奇小説の類ではなく「むしろ、おもしろい、ゆかいなはなしなんであります」という物語の本質を、ここで明示したかったのではなかろうか。物語の中にはホフマン特有の怪奇的な語り口があちこちでみられるとはいえ、そういった手法の怪奇性を強調しては『はなしの本質』を見失ってしまうのである。

ホフマンとデュマの違いを譬えれば、ホフマンの方は四方八方に張り巡らされた蜘蛛の糸がお互いに影響しあうように作られているのに対して、デュマの方は人形店に様々に陳列されている美しい完成品の人形たちのように作られていると言えるだろう。


3.くるみ割り人形とは?
バレエ《くるみ割り人形》のホフマンによる原題は《Nußknacker und Mausekönig》《ヌスクナッカー・ウント・マウゼケーニッヒ》。これを単純に直訳してしまえば《木の実割り器と鼠の王さま》とでもなるのではなかろうか。では、なぜわが国では「Nußknacker」を《くるみ割り人形》と訳されたのだろう?
「Nuß」とは堅い殻を持った木の実(堅果)全般を表すが、「花」といえば、それを代表して「桜」を意味することがあるように、「Nuß」といえば「胡桃」を指すことが多い。胡桃を正確に言えばウォールナット、ドイツ語ではWalnuß:ヴァルヌスである。「knacken」はパチンと割る、「er」はその行為をする人または道具を意味する言葉である。すなわち「Nußknacker」とは「木の実を割る人」あるいは「木の実割り器」を意味し、道具としてはやっとこ型や万力型のものが存在する。用途別に大小様々な形があるようだ。

これらの純粋な道具とは別に、ドイツには大きな口に木の実を噛ませて、てこの原理で背中のマント状(あるいは長髪状)のものを動かして割ることが出来る人形が存在する。その人形は軍人や役人などを模したものが多く、威張り散らすそれらの人々の口を塞ぐ、あるいは彼等に木の実割り作業をさせることによって、うっぷん晴らしにしたというのが由来だという話がある。現在ではチェコの北隣のザクセン州に位置するエルツ山地のザイフェン村のものが有名であり、優れた木工ろくろ技術によってつくられた木の実を割るという機能から離れてしまった美しい工芸品の人形となっている。正確を期すれば「Nußknacker-Figur」=「木の実を割る機能を持つフィギュア」とでも言うべきものだろうが、普通に「Nußknacker」だけで、その道具だけではなく、その機能を有した人形をも意味している。この物語が題材としたのは、この人形のことである。日本では堅果としては胡桃がよく知られていたので《木の実割り人形》とせずに《くるみ割り人形》と訳されたのだろう。《はなさかじいさん》が咲かせる「花」は「桜」が定番であるのとは逆のケースであるといえよう。

物語の中の<Nußknacker :くるみ割り人形>とは、いったい何者か? 姿かたちは人形であることは確かだ。しかし、マリーにとっては『単なるおもちゃの人形』ではないように描かれている。それは、マリーと[クルミ割り]との最初の出会い(クリスマスのプレゼントの中から見つけた時)にはっきりと規定されている:
<war nämlich ein sehr vortreiflicher kleiner Mann sichtbar geworden,:とてもりっぱな、ちいさな男の人がいたことがわかりました。>上田訳p25 
マリーはここで、可愛い人形<Puppe>を見つけたのではなくて、立派な男<Mann>を見つけたのである。出会いの最初から、マリーにとっては「くるみ割り人形」ではなく[クルミ割りさん]なのである。そして、マリーは[クルミ割り]を救うために、彼女の持っている全ての人形を犠牲にしたのだ。[クルミ割り]は彼女の『最愛の人』なのである。だからマリーは次のように父親に尋ねる:
<"ach lieber Vater, wem gehört denn der allerliebste kleine Mann dort am Baum?" :「ねえ、お父さま、このツリーの下に立っているいちばんすてきなちいさい男の人、だれのもの?」>上田訳p27
それに対して父親は:
<"Der", antwortete der Vater, "der, liebes Kind! soll für euch alle tüchtig arbeiten, er soll euch fein die harten Nüsse aufbeißen, und er gehört Luisen ebensogut, als dir und dem Fritz.":「あれかい、」お父さまがこたえました。「いいかい、あれはね、おまえたちみんなのために、はたらいてくれるものだよ。かたいクルミを、カリッと噛んでわってくれるんだ。だから、ルイーゼのものでもあるし、おまえやフリッツのものでもあるんだよ。」上田訳p27
ここで問題となるのは<Der>という指示代名詞である。もちろんこれはマリーの<der  Mann>を受けているのだから、「あれかい、」では軽すぎる。種村訳では、この言葉の重要性から<あれ>に傍点を付けて強調しているが、それだけでは 日本語ではホフマンの意図が伝わらないのではないだろうか。マリーが<男>と言ったのを父親は常識的な<人形>と言い換えているのである:
<「あの男かい、」お父さまがこたえました。「あの人形はね、マリーや!  おまえたちみんなのために、大いにはたらいてくれるものなんだよ。・・・・>
マリーにとっては[クルミ割りさん]であっても、彼女以外の人たちは「くるみ割り人形」、すなわち人形としてしか捉えていないのだが、これはドイツ語の言語構成を上手く利用しているから判るのであって、日本語に訳した時にはあちこちに齟齬が生じるのである。それは英訳にでも仏訳にでも起こり得ることではないだろうか。実際、デュマ版では、そのような機微は不要のものとされている:
<Oh! s'écria la jeune fille, dis-moi donc, bon père, à qui appartient ce cher petit bonhomme qui est adossé là, contre l'arbre de Noël.:「ねえ!」マリーは尋ねた「お父さま、あそこのクリスマスツリーに寄りかかっている可愛らしい小さな男の人は誰のもの?
A personne en particulier, à vous tous ensembre, répondit le président.:「特に誰のものでもない。お前たち皆のものだ」父は答えた。>
このように、デュマはあっさりと主語を使わずに、ホフマンが仕掛けた怪しさを避けてしまっている。

ドイツ語では、<Nußknacker>を「人形」として、あるいは[人間]として、同じ一語で言い表わされる。しかし、日本語に翻訳するときはどうだろうか。人と物や道具は別である。すなわち「くるみ割り人形」なのか[クルミ割りさん]なのかという問題が生じる。<Nußknacker>は、上田訳では<クルミわり>、種村訳では<くるみ割り人形>、前川訳では<クルミ割り人形>と訳されている。同じ単語を同じ言葉で統一することは翻訳の基本だろう。しかし、この物語ではマリーが語る時と他の人が語る時では全く意味合いが異なっているので、1つの訳語に統一してしまっては日本の読者にその微妙な違いが通じるのかどうか疑わしいところである。例えば、最後の章でのマリーの言葉と父親の言葉:
<nun lachst du gar meinen Nußknacker aus, lieber Vater! und er hat doch von dir sehr gut gesprochen.>
<und wenn du noch einmal sprichst, daß der einfältige mißgestaltete Nußknacker der Neffe des Herrn Obergerichtsrats sei, so welf ich nicht allein den Nußknacker, sondern auch alle deine übrigen Puppen, Mamsell Clärchen nicht ausgenommen, durchs Fenster.>
<お父さままでわたしのクルミわりのことをわらうのね。クルミわりはお父さまのことをとってもよくいっていたのに。>上田訳p162
<あの、まぬけな、ぶかっこうなクルミわりがドロッセルマイアーさんの甥だなんて、もういちどいったら、お父さまはクルミわりだけじゃなくて、おまえの人形をひとつのこらず窓からほっぽりだしてしまうからね。むろんクララちゃんもだ。>上田訳p165

<お父さままでわたしのクルミ割りさんのことをわらうのね。クルミ割りさんはお父さまのことをとってもよくいってらしたのに。>
<あの、まぬけな、ぶかっこうなくるみ割り人形がドロッセルマイアーさんの甥御さんだなんて、もういちどいったら、父さんはくるみ割り人形だけじゃなくて、おまえの人形をひとつのこらず窓からほっぽりだしてしまうからね。むろんクララちゃんもだ。>

<お父さん、わたしのクルミ割り人形のことを笑うのね。でも彼はお父さんのことをとってもほめていたわ。>前川訳p61
<もしまたあのつまらん、不格好なクルミ割り人形が上級裁判所顧問官の甥だなんて言ったら、クルミ割り人形だけじゃなく、ほかの人形もみんな、クレールヒェンもいっしょに窓からほうり出してしまうから>前川訳p61-2

<お父さん、わたしのクルミ割りさんのことを笑うのね。でも彼はお父さんのことをとってもほめてらしたわ。>
<もしまたあのつまらん、不格好なくるみ割り人形が上級裁判所顧問官殿の甥御さんだなんて言ったら、くるみ割り人形だけじゃなく、ほかの人形もみんな、クレールヒェンもいっしょに窓からほうり出してしまうから>
【註】クレールヒェンはクララの愛称。

以上のように二人の訳をすこし直してみたが、登場人物の意を汲んだこのような意訳的書き分けの方が日本語の意味としては妥当と思えても、果たして、物語の全体を通してホフマンの意図に完全に即しているものかどうか、すなわち「くるみ割り人形」と[クルミ割りさん]は同一であるという物語の本質から見ると、実のところいささか疑問であることも否めない。ただ、物語の本質と登場人物の場面場面での心情を的確に日本の読者に伝えるためには、同じドイツ語を同じ日本語に移し替えた場合でも、翻訳者には、状況を的確に伝えるために文章全体からの様々な工夫が必要なのであろう。

[クルミ割り]が最初に登場する第3章のタイトルは、ホフマンでは<Der Schützling:お気に入り>となっているが、デュマはこのことに配慮して、より具体的に<Le petit homme au manteau de bois:木のマントを着た小さな男の人(あるいはちっちゃな子)>と変えている。ところが小倉氏は、デュマの配慮を無視して、これを<木の外套を着た人形>小倉訳p29、と訳してしまった。[クルミ割り]を人間のように記述することによって読者に余計な混乱が起きることを避けようとしたのかも知れないが、それではこの物語の本質が損なわれるように思う。ある意味で、小倉氏はデュマの余計なお世話のとばっちりを受けてしまったのかもしれない。

種村氏の訳では、マリーが[クルミ割り]に対して<Herr Droßelmeier>と呼びかけるのを<ドロッセルマイヤーくん>と訳したり、[クルミ割り]が自分のことを<拙者>と訳しているが、これらもどうもしっくりこない。[クルミ割り]は、マリーが気にいった「おもちゃの人形」などではないからである。<ドロッセルマイヤーくん>では、ただのお友達のように響き、今の日本語では敬意が足りないように思う。[クルミ割り]はマリーの持ち物の人形ではなく、『最愛の人』なのである。また、<拙者>では、時代がかっていていかにも人形劇臭い。

ところで、デュマの翻案では、題名が《Histoire d'un casse-noisette》《イストワールダンカスノワゼット》に変えられた。直訳すると《ヘーゼルナッツ割り物語》となる。バレエでは、これを受けて《CASSE-NOISETTE》と題された。「noisette」とはヘーゼルナッツ(ドイツ語ではHaselnuß:ハーゼルヌス)すなわちハシバミの実のことだからである。したがって《ハシバミ割り物語》とも言えるかも知れない。しかし、私はそうではないと思う。「casse-noisette」と言うのは「Nußknacker」と同様「木の実割り器」のことであり、「noix」すなわち「木の実または胡桃」の派生語「casse-noix」も「木の実割り器」のことである。その違いは「casse-noix」は「大きな木の実を割る道具」であり「casse-noisette」は「小さな木の実を割る道具」であるようだ。むろん、木の実割り人形はドイツの民芸品であるから、フランスには木の実割り人形も、くるみ割り人形も、ハシバミ割り人形も、もともと存在しない。この物語は、木の実を割る道具ではなくて、実際に存在する「木の実を割る機能を兼ね備えた人形」をモチーフにしているのだ。ゆえに「noisette」をハシバミと字義通り短絡的に訳してバレエの題名《casse-noisette》を《ハシバミ割り人形》とするのは、存在しない(あるいはわが国では通用しない)人形名を題名とすることになってしまい、あきらかな誤りといえよう。

では、デュマはなぜ「casse-noix」とせずに、「casse-noisette」としたのか? 「カスノワ」よりも「カスノワゼット」の方が語呂が良いからかも知れない。あるいは、デュマは「小さな道具」から連想して、そこに「小さな人形」「可愛い人形」という意味合いを込めたかったのかもしれない。思うに、マリーが[クルミ割り]に出会った最初の印象<kleiner Mann=Le petit homme:小さな男の人>が「casse-noisette」とした最大の理由なのではなかろうか。したがって、強いて「noisette」に拘るのなら《ハシバミ割り人形物語》ではなく《小さな木の実割り人形物語》とすべきだろう。むろん、それに拘る必要は全くないとは思うが・・・。無理な翻訳で現実に存在しない人形を題名としてはお話にならないということは確かだ。

したがって、原題についても、本来は《木の実割り人形と鼠の王さま》と言うべきところではあるが、わが国では《くるみ割り人形と鼠の王さま》が完全に定着してしまっている現状は変えようがない。日本語での議論や解釈の中で「くるみ割り人形」との表記では微妙なニュアンス上の齟齬が生じた場合、様々な木の実の種類をあげつらうのではなく、原意「木の実割り」に読み替えて解釈されるべきだろう。とにかく、<そのクラカトゥクのクルミというのは、その上を96キロの大砲がとおってもまだわれないほど、とてつもなくかたい殻にくるまれている。>上田訳p91、のであり、翻案でも内容は変わらない。<et pour qu'elle redevînt aussi belle qu'elle l'avait été, elle n'avait qu'une chose à faire: c'était de manger l'amande de la noisette Krakatuk, laquelle avait une enveloppe tellement dure, que la roue d'un canon de quarante-huit pouvait passer sur elle sans la rompre.:元の美しさに戻すためには、王女さまが、48ミリ砲の車輪がその上を通っても割れないほどに堅い殻のついたくるみの実の芯を食べなければならないということを発見した。>小倉訳p105の個所で、小倉氏は「はしばみ」ではなく「クルミ」と訳さざるを得なかったように、 また、『堅い胡桃のメルヘン』あるいは『堅い木の実のメルヘン』を締めくくる言葉として、両者が同じ意味のことわざを挙げている以上、『とても堅い木の実』そのものでないと話にならないのであるから、デュマの翻案について、ことさらハシバミを意識する必要はないように思う。
<ihr wißt nun warum die Leute so oft sagen:"Das war eine harte Nuß!":ほら、よくいうだろ、むずかしくてたいへんだったというときに、『ああ、かたいクルミだった!』って。>上田訳p109
<vous savez pourquoi l'on dit maintenant d'une chose difficile :<C'est une dure noisette à casser.>:世の中の人がなにかむずかしいことに直面すると、「そりゃ割れないくるみさ」とよく使う言葉の意味がこれでよくわかっただろう。>小倉訳p142



4.マリーの年齢
【概要】の項で示したように、ホフマンは物語の冒頭で主人公マリー(Marie)の年齢を述べている。マリーは<やっと7歳になったばかり:eben erst sieben Jahr>の女の子なのである。デュマの翻案を見ると<息子は9歳で名前はフリッツ、娘は7歳半:sept ans et demiでマリーと呼ばれていました。>と述べられている。ホフマンの原作だけでは、別に何の不思議もなくサラッと読み過ごすところだが、デュマの翻案と比較すると、ここでも別の光があたり、ホフマンの真意が視えてくるのである。

デュマは、マリーに年齢があってフリッツにはないのはアンバランスだと感じたのだろう。これは誰しも考えそうなことであって、フリッツの9歳というのも、まあ妥当な線だ。さらにデュマはマリーの年齢について、半歳サバを読んでいる。これから展開するマリーのおませな言動からしても、もう少し大きな年齢にしたかったのだろうが、半歳のサバで我慢したといったところだ。しかし、このデュマの余計なお節介から解るのは、<やっと7歳になったばかり>というマリーの年齢だけが重要であるということだ。逆に言うと、ホフマンは必要なことだけを強調して、余計な記述は避けたということである。

《眠れる森の美女》でのオーロラ姫は16歳あるいは20歳と特定されているが、年齢があやふやな白雪姫やシンデレラも、王子に会うときはその程度の年齢なのであろう。《くるみ割り人形と鼠の王様》においても、ドロッセルマイアーは醜いピルリパート姫を治すためのクラカトゥクの胡桃を探して15年放浪することになる<waren schon fünfzehn Jahre unterwegs>。すなわち姫が美しさを取り戻したのは、ほぼ16歳の頃のこととなる。デュマの翻案では、ホフマンのような偶然の15年ではなく、王さま自身が14年と9カ月<quatorze ans et neuf mois>の猶予を与えたこととしている。この中途半端な年限は、姫の16歳の結婚適齢期を迎えるために「15歳のあいだじゅうまで」としたからである。実際、ドロッセルマイアー青年に堅い胡桃を割る順番が来たのは、先に解説したような壮大な募集事業のあげくの<試験が始まって19日目の午前11時35分、王女さまが満15歳の年をまさに終わろうとしたとき:le dix-neuvième jour de l'épreuve, à onze heures trente-cinq minutes du matin, comme la princesse accomplissait sa quinzième année,>であった。デュマの翻案には、こういった数字に拘る辻褄合わせや連想・類推などが多く、アニメの台本のネタとして好材料を提供しているともいえよう。     

これら童話の主人公たちの年齢に対して、マリーの7歳という年齢は 『クルミ割り王子』と結婚するには異様に若過ぎる。ネットの中で《くるみ割り人形》のあらすじを述べている人の中には、マリーの年齢の不自然さに気付いてか<10年後(あるいは妙齢に達してから)王子はマリーを迎えに来る>と書き変えている人もいるくらいである(デュマの翻案では、なぜかそういう配慮はなされていない)。しかし、それは全く余計なお世話であって、物語の冒頭で、はっきりとマリーは<やっと7歳になったばかり>とし、物語の結末に<その1年後結婚式を挙げる>と述べられていることこそが、矛盾を逆手に取ったホフマンの狙いなのである。その不自然さを調整することは、この物語の根底を覆し『台無し』にするだけであると気付くべきだろう。

マリーの姓も原作と翻案では異なる。原作では<Stahlbaum:鋼(はがね)の木>というクリスマスツリーを意識したような名であったものが、翻案では<Silberhaus>に変えられた。デュマはこのドイツ語名に対して<ce qui veut dire maison d'argent.:つまり銀の家という意味でした。>と説明を加え、その家はニュルンベルクにあることも述べている(原作では地名の設定はない)。



5.マリーの人形たちと兄妹
マリーは両親から貰ったたくさんのおもちゃや人形を持っているが、それらの中で名前の付いた人形としてTrutchen(トルートヒェン、トルーテちゃん)、 Gretchen(グレートヒェン、グレーテちゃん)、 Clärchen(クレールヒェン、クララちゃん)の3人が登場する。何気なく並べられているようにも見えるが、実は、 Gretchen(グレートヒェン)はMargrethe(マルグレーテ=マーガレット)の愛称であって、ゲーテの《ファウスト》(1808)に登場するヒロインである。シューベルトのリート《糸を紡ぐグレートヒェン》はそれを題材としている。Clärchen(クレールヒェン)は同じくゲーテの《エグモント》(1788)のヒロインである。もちろんホフマンは、それらの作品にちなんで名付けたのだろう。Trutchen(トルートヒェン)は、どうもゲーテにはなさそうだ。これはGertrut(ゲルトルート)という女性名の愛称であって、1910年に書かれたヘッセの《春の嵐》は、原題を《Gertrut》(ゲルトルート)と言う。しかし20世紀の作品をホフマンが引用するわけはないので、この名の由来はシェークスピアの戯曲《ハムレット》あたりではないだろうか。ハムレットの母の名前はGertrute(ガートルート)である。とにかくマリーの人形の顔ぶれは超豪華であることは確かだ。

人形は、もちろん現実世界に存在する物である。ところがマリーは友達のように人形たちに接している。彼女には人間と人形の区別はないのだ。そのような環境の中でマリーはくるみ割り人形に出会う。マリーが彼を[若い男:クルミ割りさん]として違和感なく接するのには、それまでのマリーと人形たちとの関係が伏線となっている。要するに、人形たちはマリーの中で現実と幻想を結び付ける役割を果たしているのである。

クララちゃんは、このクリスマスに貰った一番新しい人形である。物語の中には、マリーとクララちゃんとの小さな恋のさや当ても描かれている。
<「ねえ、クララちゃん、おねがい。あなたのベッドを、けがをしてご病気のこのクルミわりさんにかしてあげてね。・・・・」クリスマスのおめかしでピカピカのクララちゃんは、とても上品そうにつんとしていて、うんともすんともいいません。「いいですよーだ。自分でさっさとしちゃうから。」・・・・「あんなききわけのないクララとは、いっしょにいないほうがいいわね。」マリーはぶつぶついいながら、クルミわりちゃんをベッドごと出して、上の棚の、フリッツが軽騎兵たちを駐屯させている美しい村のすぐそばにおきました。>上田訳p39-40
じつは、マリーのこの小さな「女の勘」が鼠との戦争の時、くるみ割り人形に苦難をもたらす。すなわち木の人形が高い棚から降りることが出来ないでいるのをクララちゃんが助けるのである。マリーはクララちゃんに謝る。[クルミ割り]はクララちゃんにお礼を言うが、彼女の愛の告白に対してはきっぱりと断り、マリーとの愛を貫く。

一方、兄のフリッツも人形遊びをしている。彼もたくさんの人形を持っていて、物語に登場するのは皆軍人である。マリーと違って、彼はあくまでも現実の人間の代替物として人形と遊んでいる。今風に言えば、マリーは「文系」的性格であり、フリッツは「理系」的性格なのである。兄妹の人形に対する態度の違いを明瞭に表している場面としては、フリッツが歯のこぼれたくるみ割り人形にさらに胡桃を割らせようとしたとき、マリーは可哀そうな 「クルミ割り]のことを嘆くだけだったが、父親は次のように諭す。
<フリッツ、任務中にけがをしたものをまだはたらかせようとするのは、おかしいことじゃないか?負傷兵はけっして隊列に入れないというのは、りっぱな軍人なら知ってるはずだがね。>上田訳p31
こういう風に実務に即して理路整然と言われるとフリッツは恥じ入ってしまうのである。フリッツの理知的性向は、次の話からも明らかである。すなわち彼は、彼の軽騎兵軍団が鼠軍団に歯が立たず不甲斐なかったことをマリーから聞かされて、彼らを強く罰する。しかし、結局フリッツはマリーの幻想を否定し、そのような根拠の薄弱な嫌疑をかけたことについて、後に彼らに謝罪するのである。

デュマはフリッツを違った風に描いている。翻案でも同様に「負傷兵は軍務に加えるべきではない」とたしなめられるのだが:
<Fritz voulut insister; mais le président leva son index à la hauteur de l'oeil droit, et laissa échapper ces deux mots: -Monsieur Fritz! :フリッツは口答えしようとしましたが、お父さんは人差し指を右目の高さに上げると「フリッツ君!」とお定まりの2語で叱った。>拙訳
と、恥じ入るどころか無理を通そうとする「腕白小僧」として描かれているのである。これは後々のマリーとフリッツのやり取りについて読者に悪い先入観を持たせてしまうことにつながり、良い変更であるとは到底言えない。デュマの翻案から作られたバレエでは、フリッツは「腕白小僧」として描かれることが多い。いたずらをして、耳を引っ張られつまみ出されるというような場面が出てきたりする。そのためか、バレエではマリーを姉に、フリッツを弟にしている演出すらある。

ホフマンの原作では、フリッツとマリーにはルイーゼという姉がいる。3人兄弟というわけだ(Luise, Fritz, Marie)。ところがデュマの翻案では、姉のルイーゼは削除され、彼女の代わりに原作には無い女性家庭教師が登場する。ジルバーハウス家のような裕福な家庭には家庭教師が必要だということだろう。彼女は「家庭教師のトルーシェンさん」(Mademoiselle Trudchen, la gouvernante)と名付けられた。人形名トルーテちゃん(Trutchen)からの転用である。そのあおりを食って人形のトルーテちゃんはローズシェン、ローズちゃん(Roschen)と名前が変えられた。そして、グレーテちゃん(Gretchen)はあっさり削除されてしまった。ClärchenはそのままClarchen(クラルシェン)とウムラウトなしで引き続き使われている。そのあたりをデュマは:
<Marie venait de baptiser sa nouvelle poupée du nom de mademoiselle Clarchen, qui correspond en français au nom de Claire, comme celui de Roschen correspond en allemand à celui de Rose.>
(マリーは新しい人形をクララちゃん(マドモアゼル・クラルシェン)と名付けたところだ。それは、フランス語の名前のクレールのことである。同様に、ドイツ語のローズシェンはフランス語のローズである。)
と説明しているが、デュマが物語の中で実際に使ったのは、mademoiselle Claire と mademoiselle Rose の方である。ところで翻案で注目したい変更点は、マリーが人形の名前を自分で付けていることである。もともと原作では、これらの由来付きの豪華な名前は親から教えられたことになっている:
<die neue Puppe, welche, wie Marie noch denselben Abend erfuhr, Mamsell Clärchen hieß>(新しい人形がクララちゃんという名前であることを、すでにその晩マリーは教わっていた)
子供の気ままな名付けではないということは、ゲーテやシェークスピアからの引用であることを暗に示唆したかったからだろう。そこには、名作のヒロインたちの名を借りることによって、人形により多くの「人格」を与えたいというホフマンの意図が浮き出てくるのである。デュマにはそのような意図はなく、ゲーテの引用など無視して、マリーが意味もなく勝手に名付けたことにしてしまい、また、人形の名前も自由に変更したのだと思われる。



6.ピルリパート姫
バレエでは完全に削除された『堅い胡桃のメルヘン』に登場するピルリパート姫とは、王と王妃の一粒種、ただ一人王国を継承できる人なのである。ちょうど《眠れる森の美女》のオーロラ姫と同じ境遇であると言えよう。違うところといえば、オーロラはリラの精から知恵を授けられ損ない『馬鹿なまま』結婚適齢期に到達するが、ピルリパートはマウゼリンクス夫人の呪いによって『醜いまま』結婚適齢期の16歳を迎えようとしているところだろう。

ピルリパート姫は本当のところは人形である。そのことを明瞭に示す個所:
<ドロッセルマイアーは、おどろいてものもいえなかった。けれども、やがて気をとりなおして、自分の技にたのみをかけ、ただちにもっとも有効だとおもわれることにとりかかった。それは、ピルリパート姫を分解してみることだった。ドロッセルマイアーはたいそう器用な手つきで、ちいさなピルリパート姫の手足をねじをゆるめてからだからはずし、いそいでなかの仕組みをしらべてみた。すると、残念なことに、姫は大きくなるにしたがって、もっとみにくくなるということがわかった。ドロッセルマイアーはどうすることもできず、姫をまたそっともとどおりに組み立てて、重いきもちでゆりかごのそばにうずくまった。そこから一歩もはなれてはいけないことになっていたのだ。>上田訳p88-89
<ドロッセルマイヤーはすくなからず、恐れましたが、やがて自分の技術と運を信じて、すぐ有効と思われる手術にとりかかりました。彼はピルリパート姫を巧みに分解して、手足を取りはずすと、すぐに内部の構造を調べてみましたが、残念なことに、姫が大きくなるに従って、ますます不器量になるだろうということが分かり、どうしたらよいか途方に暮れました。彼は、再びお姫さまを注意深く組み立てると、揺り籠の側で悲しみに沈みました。その側を離れることを許されていなかったのです。>前川訳p38
<Droßelmeier erschrak nichit wenig, indessen vertraute er balt seiner Kunst und seinem Glück und schritt sogleich zu der ersten Operation, die ihm nützlich schien. Er nahm Prinzeßchen Pirlipat sehr geschickt auseinander,
schrob ihr Händchen und Füßchen ab, und besah sogleich die innere Struktur, aber da fand er leider, daß die Prinzessin, je größer, desto unförmlicher werden würde, und wußte sich nicht zu raten nicht zu helfen. Er setze die Prinzessin befutsam wieder zusammen, und versank an ihrer Wiege, die er nie verlassen durfte, in Schwermut.>

人間のように語られてきた物語が、ここで突然<手術:Operation>から<手足をねじをゆるめてからだからはずし:schrob ihr Händchen und Füßchen ab>に変わるのは、典型的なホフマンの手法である。ただ、現代の高度な外科手術は、奇妙にもここで述べられているような人形に対する処置と似てきているような気はする。

同様に、人間と人形を混同させるような表現は、次の個所にも見られる:
<いとこの息子というのは、たしかにすくすくと育ったいい若もので、まだいちどもひげをそったことがなく、長靴をはいたこともなかった。子どものころ、クリスマスに二、三年つづけてあやつり人形になったことがあるけれども、お父さんがいっしょうけんめいに育てたおかげで、そんなことがあったとは、だれにも気づかれないようになっていた。>上田訳p100-101

結局のところ、ドロッセルマイアーが語ったピルリパート姫が主人公の挿話『堅い胡桃のメルヘン』というのは『人形たちの物語』であることが分かるのである。そして【デュマの翻案の位置づけ】の項で引用したように、堅いクラカトゥクの胡桃を食べて、ピルリパートは美しい『姫の人形』に戻るわけである。ところで、この人形の変身をリアルに実現しているのが、わが大阪の文楽人形のかしらの1種、ガブというものである↓。

https://www.youtube.com/watch?v=j3dDrO8v1OU

ホフマンは、次のように描写している:
<白くて、赤くて、そして金髪の、天使のようにあどけなかったあの顔は消えうせ、かわりに、ぶかっこうな、異様に大きな頭が、ちっぽけにちぢんだからだの上についていたのだ。青空のようだったつぶらな瞳は、みどり色のとびでたぎょろ目に変わり、ちいさかった口は、ゆがんで、片方の耳からもう片方の耳まで大きくさけていた。>上田訳p87
まるで、文楽や淡路の人形浄瑠璃を観て来たような口ぶりだ。ヨーロッパにも、あのようなものがあるのだろうか? プティパが創造しただろう「ドラジェの精」も、人形の国についての<すきとおって、キラキラ輝いている>とのホフマンの表現に従えば、わが国の「金平糖の精」の方がよほど似つかわしいように、人形浄瑠璃の洗練された動作と、技巧の粋が尽くされた人形たち、巧妙な舞台の仕掛けなど、長年にわたって積み上げられた特異なこの伝統芸は、『堅い胡桃のメルヘン』のために蓄えられたものだと思えてしかたがない。日本の伝統芸術の1つである人形浄瑠璃を世界に発信するにあたって、単に伝統をそのまま伝えるだけではなく、その技法の粋を世界に通用する素材(物語)を使って、すなわち「新しい血を導入して」提供することは、理解を容易にするためには非常に効果的であると思うのである。そういった意味では、バレエ《くるみ割り人形》が初演された時、歌劇《イオランタ》との二本立てだった関係上、上演時間が1時間30分程度しかないバレエ《くるみ割り人形》の第1幕の中で、ドロッセルマイアーの物語として『堅い胡桃のメルヘン』をそのまま人形浄瑠璃というバレエとは全くかけ離れた空間で30分ほど挿入するという演出法もアリではないかと思う。全く文化の違う日本の人形浄瑠璃は、現実とかけ離れたホフマンの意図とぴったりと整合するのではないだろうか。また、これによって戦争場面がより説得力を持ち物語らしさが増すように思う。

なお、ピルリパートの綴りは、原作では<Pirlipat>、翻案では<Pirlipate>である。ところが小倉氏は、フランス語風のピルリパートではなく、ピルリパータとしている。それは、クレールがクララになるような、オデットがオデッタになるような、また《バヤデール》が《バヤデルカ》になるようなロシア語的発想に由来するものではないかと思われる。



7.マリーが[クルミ割り]と一緒に行ったところ
一般の解説や台本では、曖昧であったり混同していることがよくある。『お菓子の国』であったり『おもちゃの国』であったり、はたまた『おとぎの国』と称されていたりするものにしばしばお目にかかるのだ。ところが原作や翻案では、はっきりと3つの別々の名前が付けられている。すなわち@人形の国のA都のコンフェクトブルクのBマジパン城であって、日本でたとえれば、ちょうど@播磨の国のA姫路の町のB白鷺城といったイメージと捉えていただければよいと思う。

@人形の国:das Puppenreich(独:プッペンライヒ)、 le Royaume des Poupées(仏:ロワイヨームデプペ=人形の王国)
A都のコンフェクトブルク(お菓子の町):die Hauptstadt Konfektburg(独:コンフェクトブルク)、la capitale Confiturembourg(仏:コンフィチュランブール)
Bマジパン城:das Marzipanschloß(独:マルチパンシュロス)、 le Palais des Masspains(仏:パレデマスパン=マジパン宮殿)

これらは、いくら子供のための簡略化された物語であったとしても、決して省略されたり誤った表記がなされてはならない。なぜなら、ホフマンは、ドロッセルマイアーが語る『堅い胡桃のメルヘン』に現れるピルリパート姫の王国とマリーと[クルミ割り]が行く国を意図的に区別しているからである。前者は全く『架空の国』で、国名や地名は一切付けられていないのに対して、後者には上述のようにはっきりと名前が付けられているのである。ホフマンの意図とは、名前のあるなしという差別化によって、マリーが行った国が『架空のお伽話の国』ではなく、心に描けばいつでも行ける『真実の国』であることを強調しているのだ。この物語で対比的に描かれている2つの国の名前のあるなしには、こういった意味が存在することを認識するためにも省略や誤称は許されないというわけである。そういったことから、<Österreich>を語意の「東の国」と言わずに「エステルライヒ」(オーストリアのこと)というように、「人形の国」とは言わずに「プッペンライヒ」と訳すべきなのかもしれない。

一方で、『堅い胡桃のメルヘン』では敵に当たる鼠の方には名前が付けられている。ピルリパート姫の王国に名が無いことをことさら強調するためだろう:
@鼠の女王:Frau Mauserinks(独:マウゼリンクス夫人)、dame Souriçonne(仏:スリソンヌ夫人)
A鼠の王国:Reiche Mausolien(独:マウゾーリア王国)、royaume souriquois(仏:ロワイヨームスリクォア)
B鼠の王様:Mausekönig mit sieben Köpfen(独:七つ頭の鼠の王様)、roi des souris avec sept têtes(仏:七つ頭の鼠の王様)
いずれも『鼠』(独:Maus)(仏:souris)からの派生語とみられるが、普通は『マウゼリンクス夫人』や『スリソンヌ夫人』と訳される。上田訳の『ネズミリンクス夫人』はどうも中途半端でいただけない。意訳するのなら、諏訪御寮人などにちなんで『ネズミ御寮』、あるいは静御前などにちなんで『ネズミ御前』とでも訳した方が良かったように思う。

ところで、バレエの台本ではピルリパート姫の物語は全く欠落しているので、こういった区別は意味のないものと化しているが、それゆえにか台本ではこれらの名前がぞんざいに扱われてしまい、その結果現在のバレエ台本では名前自体殆ど無意味で勝手気ままに付けられることとなってしまったのである。この混乱は作曲指示書にすでに現われており、それに従ったチャイコフスキーのスコアのト書きではAとBを合体させたような<Le palais enchanté de Confiturembourg:コンフィチュランブールのとても素晴らしい宮殿>となっている。<Palais des Masspainsマジパン宮殿>より語感が良かったから変えられたのかもしれない。とはいえ、コンフィチュランブールとは、語尾にbourgとある以上、あくまでも『お菓子の町』という風にしか訳せない。決して『国』でもないし『宮殿』でもないのである。「人形の王国」や「マジパン宮殿」が省略された結果 『お菓子の国』という誤った呼称が生じてしまったのだろう。また、<Le palais enchanté>は<魔法の宮殿>と訳されることが多いが、この物語の趣旨からして、『魔法ででっち上げた』ような架空の宮殿ではなく、『実際に存在する』豪華絢爛な宮殿なのである。もし、魔法という言葉を使いたいのなら<魔法で作られたかのような特別美しい宮殿>とでも訳すべきだろう。


8.4人のドロッセルマイアー
非常に奇妙なことに、『堅い胡桃のメルヘン』の中にはドロッセルマイアーと称する人物が3人も登場する。もちろんマリーの名づけ親もドロッセルマイアーであるから、全部でドロッセルマイアーは4人いることになる。
ホフマンの原作では:
@マリーの名づけ親のドロッセルマイアー:Pate Droßelmeier(上級裁判所顧問官=Obergerichtsrat)
Aクリスチアン・エーリアス・ドロッセルマイアー:Christian Elias Droßelmeier(宮廷時計師兼薬剤師=Hofuhrmacher und Arkanisten)
Bクリスチアンのいとこクリストフ・ツァハリアス・ドロッセルマイアー:Christoph Zacharias Droßelmeier(塗装と金メッキが出来るろくろ細工人形師=Puppendrechsler, Lackierer und Vergolder)
Cクリストフの息子ドロッセルマイアー Droßelmeier(他のドロッセルマイアーと区別するとき:若いドロッセルマイアー=junge Droßelmeier)

デュマの翻案では:
@マリーの名づけ親のドロッセルマイアー:Parrain Drosselmayer(医事参事官=conseiller de médecine)
Aクリスチアン・エーリアス・ドロッセルマイアー:Christian-Élias Drosselmayer(ニュルンベルクのとても腕の良い技術者=trés habile mécanicien)
Bクリスチアンの弟クリストフ・ザカリアス・ドロッセルマイアー:Christophe-Zacharias Drosselmayer(ニュルンベルクで一流のおもちゃ屋を経営=un des premiers marchands de jouets d'enfants de Nuremberg)
Cクリストフの息子ナタニエル・ドロッセルマイアーNathaniel Drosselmayer(他のドロッセルマイアーと区別するとき:若いドロッセルマイアー=jeune Drosselmayer)

原作と翻案では、例によっていろいろ細かく異なっている。ドロッセルマイアーの名前についても、フランス語にエスツェットがないことを含めて、綴りが< Droßelmeier>から翻案では<Drosselmayer>に変えられている。また、マリーの名づけ親のドロッセルマイアーの職業は、マリーの父親の職業とそっくり入れ替わっている。なぜ、わざわざそうしたのかは分からないが、ドロッセルマイアーがくるみ割り人形を直したり(治したり)、ピルリパート姫を分解(解体)したりすることから、医者の方が良いと思ったからかも知れない。クリスチアンとクリストフは、原作では「いとこ」であるが翻案では「兄弟」である。原作では、クリストフの息子には名前はないが、翻案ではナタニエルと名付けられた。これは、たぶん、宮廷で胡桃を割る挑戦者として登録するときに、名前がないと具合が悪いので付けられたのだろう。その場面に来た時、突然ナタニエルの名前が現われる。しかし、この名前の創出はデュマの大失策だと言わざるを得ない。なぜならホフマンは、わざとこの青年に名前を付けていないからである。マリーが<どうしておじさまは助けてあげないの?>と訊ねると、くるみ割り人形を修繕した(助けた)ドロッセルマイアーは<クルミわりを助けることが出来るのは、おじさんじゃない、きみだよ、きみだけだ。>上田真而子訳p115-116と答えている。「くるみ割り人形」そのものは助けられ(修繕出来)ても[クルミ割り]は助けることが出来ない、すなわち『形』は助けても『心』は助けることが出来ない、ということかもしれないが、そのときドロッセルマイアーすなわちホフマン自身の心情をここで吐露しているわけだから、2人は別人であると確定してしまっては、話が台無しになってしまうのである。名前が一緒であることによって、読者に『名づけ親ドロッセルマイアー』と『若いドロッセルマイアー』が同一人物ではないかという『ぼんやりとした疑念』を抱かせようとしているわけである。

原作では、脂身を食べてしまった鼠たちをやっつけるために呼び出された『宮廷時計師』ドロッセルマイアーの最初の登場の個所で<Dieser Mann, der ebenso hieß, als ich, nämlich Christian Elias Droßelmeier:その男のなまえは、クリスチアン・エーリアス・ドロッセルマイアー。うん、そうだよ、おじさんとおなじなまえなんだ。>上田訳p82、と『名づけ親ドロッセルマイアー』は語っている。単なる同姓同名なのか? ドロッセルマイアー自身が『堅い胡桃のメルヘン』の主人公なのか? はっきりさせないまま話は進められるのである。ところがデュマは、このような曖昧さを助長する発言は削除した。
<王さまは急使を先頭に立てて、一番上等な馬車をニュルンベルクに住むクリスチャン・エリアス・ドロッセルマイヤーという、とても腕のよい職人のところに差し向け、急用のため即刻お城に出頭するように、と命じた。クリスチャン・エリアス・ドロッセルマイヤーはすぐに命令に従った。>小倉訳p89
と、新しい登場人物が物語を語るドロッセルマイアーと同姓であることについて何ら説明をしていない。ここでは4人は姓は同じでも全く別人として描かれているのである。デュマにとっては『堅い胡桃のメルヘン』と本編のドロッセルマイアーとは全く別であるとしたかったのだろう。翻案とは言え、作品の本質にかかわる個所にまで踏み込んでしまうのは如何なものか?

ヌレエフが彼の《くるみ割り人形》を振り付けた時、ドロッセルマイアーとクルミ割り王子の両方を彼が踊ったのは、この原作の雰囲気に基づいてのことだろう。マリーが見つけた「くるみ割り人形」は姿かたちは人形であっても、マリーにとって本当は[ドロッセルマイアーの甥]であり[クルミ割りさん]であり[クルミ割り王子]であるし、さらに[名づけ親ドロッセルマイアー]でもあり、[ホフマン]その人自身かもしれないということをぼんやりと匂わせているのだ。ただ、ドロッセルマイアーが「くるみ割り人形」をマリーに与えるというプティパの台本通りの演出は、ドロッセルマイアーとクルミ割り王子が同一人物であることを匂わせる設定としてはいささか疑問である。原作通り、マリーがくるみ割り人形を見付け、それが何なのかを父親に訊ねるべきだろう。ドロッセルマイアーと[クルミ割り]が同一人であるという含みを持たせるためには、マリーの人形の発見がドロッセルマイアーによってもたらされたものとすべきではない。

デュマは、原作には一切出て来ない若いドロッセルマイアーの名、ナタニエルをどこから思いついたのだろうか? と思って、ホフマンの小説をいくつか見てみると・・・ 《Der Sandmann:砂男》(バレエ《コッペリア》の原作)の主人公がナタナエル(Nathanael)なのである。《砂男》からの引用だったのだ。この陰惨な「目玉をえぐられるという妄想に取りつかれた男ナタナエル」を主人公とした物語からの引用というのもいささか奇妙なことだが、奇妙と言えば、《砂男》のナタナエルの婚約者の名前はクララであることも偶然の一致なのだろうか? バレエ《くるみ割り人形》では、原作としてデュマの翻案を使っているにもかかわらず、クレール(クララ)を主人公としながらもくるみ割り王子の名であるべきナタニエルの名が作曲指示書にも台本にも一切出て来ないのは、そういった意味あいから来ているのかもしれない。

9.くるみ割り人形の剣
マリーを悪夢から救う『剣』とはいったい何を意味するのだろうか? くるみ割り人形の剣についての記述を、順を追ってまとめてみよう。
@元々、くるみ割り人形は小さな剣を持っていた。最初に鼠の軍団と戦う時:<そして腰にさしたちいさな剣をさっとぬき、たかだかとふりまわしながら・・・>上田訳p47
Aフリッツが修繕されたくるみ割り人形を見て:<「ねえドロッセルマイアーおじさま、おじさまはクルミわりの歯はきちんと入れてくださったし、あごももうぐらぐらしないようになおしてくださったけれども、どうして剣をもたせてあげないの?>上田訳p71
Bマリーが鼠の王様に脅されているとき[クルミ割り]は:<ただ、わたくしに剣をおあたえください。>上田訳p130
Cマリーがフリッツに相談すると、退役軍人の人形の要らなくなった剣を:<見事な銀の剣で、それがこんどはクルミわりの腰につるされました。>上田訳p131
D鼠の王様をやっつけた[クルミ割り]が:<右手に血のついた剣を、左手にろうそくをもって、立っていました。>上田訳p132
Eドロッセルマイアーの甥が現れた時:<腰にさしているちいさな剣は、宝石ばかりでできているのか、キラキラかがやいています。・・・・フリッツには、みごとな剣をもってきてくれました。>上田訳p168〜169

通覧すると、剣はだんだん立派なものに変化していってることが分る。子供たちの願いの象徴のようなものかもしれない。そして、それは与えられるものではなくて、自分たちで見つけ出すものだということなのだろう。
Aのフリッツの疑問に対して、ドロッセルマイア―は<剣がいるのなら、自分でさがしてくればいいだろ。>上田訳p71と答えている。



10.ホフマンの原作の疑問に対する仮説
【《くるみ割り人形》のおはなしの概要】の項で示した疑問をもう一度繰り返してみよう。

『7才の少女マリーは、クリスマスの夜に見つけたくるみ割り人形を助けたことによって、彼から求婚され、人形の国の王妃となる』

この物語は、本当に『少女が最愛の男性を見つけて結婚する』という単純でありふれた少女の夢のようなお伽話なのだろうか?
原作のあちこちには、何かしらの不自然さが目に付く。
ホフマンは、なぜ随所に読者を巻き込むような書き方をしたのだろうか? 
マリーの夢や幻想は、現実の場でいちいち完全否定されてしまうのはなぜだろうか?
いったい『人形の国の王妃になる』とはどういうことなのか?
これらの疑問に対して1つの仮説を立ててみよう。
その仮説とは、『マリーは人形の国の王妃になる』とは『マリーは人形になる』ことであり、それはすなわち『マリーは現実の世界での死』を意味するということである。
ここで重要なことは、『マリーは現実の生』から直接『生きた人形になる』という点である。すなわち『現実の世界』から『ほんとうの世界=真実の世界』へ直接行ってしまうということである。その間に介在する『現実の死』は触れられてはならないのである。それを臭わすことすら忌避されるべきことなのである。ホフマンは、この「死を一切語らずにそれを読者に伝える」という難題を、優れた文章構成力と類まれな才能によって成し遂げたのである。読者を巻き込むこともその手法の1つであると言えよう。また、マリーの夢や幻想をいちいち打ち砕くのも、この話が『現実の世界』で進行していることを読者にはっきりと植え付ける必要があるからに他ならない。そして、それを読み解くには、ここでいくつか例示しているような、ほんのちょっとした一言一句にも着目し、拘って、その機微を味わうべきなのである。まるで推理小説を丹念に読むときのように。
それを分かりやすく示してくれているのがデュマの翻案なのである。デュマは、ホフマンのこの一見不可解な『物語の仕組み』を、ある個所では削除して無視し、またある個所では言い換えたり補足したりして、話の辻褄が合うように修正・解体し、骨抜きにして、解りやすい童話に変質させていったのである。ということは、【デュマの翻案の位置づけ】の項で指摘したように、逆に、原作と翻案を比較することによって、ホフマンの 『物語の仕組み』が視えてくることにもなる。以下、それらを検証してみよう。


11.原作と翻案の違いから浮き出てくるもの
(1)デュマが加筆したケース
1つの例として、物語の一番最後の場面、ドロッセルマイアー青年が求婚した時のマリーの反応の個所を見てみよう。
ホフマンの原作:
<マリーは若者を助け起し、小さい声で、「いとしいドロッセルマイヤーさん!あなたはやさしいいい方で、その上、とてもかわいい、陽気な人々の住んでいる美しい国を治めておられますから、あなたをおむこさんにします!」と言いました。これでマリーはすぐドロッセルマイヤーの花嫁になりました。>前川訳p63
<マリーは若ものをひきおこして、しずかにいいました。「ドロッセルマイアーさん、あなたはほんとうにおやさしい、いい方ね。そのうえ、あのかわいい、たのしい人たちが住んでいるいい国をお治めになるのだったら、わたし、あなたのお后になるわ!」そういって、マリーはすぐにドロッセルマイアーの許嫁になりました。>上田訳p170
デュマの翻案:
<マリーは彼を優しく立ちあがらせると、言いました。「ドロッセルマイヤーさん、あなたは心の優しいりっぱな王さまだわ。その上、とてもかわいらしいほがらかな人たちが住んでいる、気持ちのよいお国を治めておられるのですもの。わたしのお父さまやお母さまが許してくださったら、わたしはあなたのお嫁さんになります。」するとすぐに部屋のドアがとても静かに開きました。でも二人は感情が高ぶっていましたので、それには気がつきませんでした。お父さんとお母さん、そして名づけ親のドロッセルマイヤー伯父さんがそろって二人のそばに寄り、いっせいに叫びました。「ブラヴォー、おめでとう!」マリーはさくらんぼのように顔を赤らめましたが、少年は全然とまどいませんでした。そればかりか彼は、裁判官夫妻の方に進み出たかと思うと、とてもていねいに頭を下げ、りっぱなあいさつをし、マリー嬢との結婚をお許し願いたいと申し出ました。この少年の願いはもちろん、すぐにかなえられました。そしてその日のうちにマリーはナタニエル・ドロッセルマイヤーと婚約し、結婚式は一年後と決まりました。>小倉訳p188-189

前川訳はほぼ直訳調で、それはそれなりに立派なのだが、日本語としては少々誤解を招きそうだ。この場面の状況に違和感のないのは上田訳の方である。<so nehme ich Sie zum Bräutigam an!>は直訳調の「あなたをおむこさんにします!」より「あなたのお后になるわ!」の方がよほど日本的表現であるし、<Hierauf wurde Marie sogleich Droßelmeiers Braut.>は<花嫁になりました。>より<許嫁になりました。>の方が日本の習慣と照らし合わせると適切な意訳であるといえよう。というのは、Braut、Bräutigamというのは普通、花嫁、花婿と訳されるが、日本語での花嫁、花婿は、すでに正式に結婚しているというニュアンスが強いのに対して、ドイツ語のBraut、Bräutigamは、これから正式に結婚する、すなわちフィアンセという意味合いもあるという、微妙な語意のずれから生ずる違和感が無視できないからある。こういった配慮の積み重ねが、たとえ原文と一字一句符合していないとはいえ、物語の趣旨をスムーズに理解させるという点においては上田訳の方が優れていると言えるのである。

一方、デュマの翻案の方はどうか。初めの方はほぼ原作通りに進むが、マリーが両親の許可が必要と言いだすあたりから、デュマは原作にない『話』を追加挿入している。これが翻案たる所以であろう。『話』は、両親の歓迎と若者の儀式的なプロポーズに進み、婚約が成立する。ごく自然な流れであり、フランスの、というより世界の良家の常識をここで再現させているように見える。さらに言えば、この物語を読む子供たちを教育しようとしているのかもしれない。デュマを読んだ後、ホフマンを読み返すと、いかにも唐突で舌足らずな印象を受ける。もし、この物語が《楽しいマリーの夢の冒険》といった趣旨のものであったとしたら、デュマは全く適切な追加を行なったと言ってよいだろう。しかし、もし、この物語の隠されたテーマが別のもの、すなわち『マリーの死』であって、マリーの結婚とはマリーの死を意味するとの立場に立ってみたとしたら、デュマの追加は、全く余計なお世話というか、テーマを視えなくするための策略のようにすら思えてしまうのだ。何故って、7歳や8歳の幼い子供がそんなことを言い出したら、現実の両親は賛成するはずもなく、デュマはこの場面で、マリーが7歳であるということを全く無視して、10年後くらいの話にすり替えてしまっているからだ(もちろんそういう時間の隔たりは原作にも翻案にも述べられていない)。要するに、矛盾は矛盾のまま放置されなければならないのである。

(2)デュマが削除したケース
逆のケースを挙げてみよう。マリーと[クルミ割り]の人形の国への旅行中の『バラの香りの湖』での出来ごと。こちらはデュマの方が削除している。
デュマの翻案:
<そこで日がさを差しかけられていたマリーが水面に体をかがめると、一つ一つの波に彼女のほほえみが映りました。こうしてマリーはバラのエキスの川を渡っていき、向こう岸の土手に着きました。>小倉訳p169

ホフマンの原作:
<しかしマリーは平気でいい匂いのするバラ色の波を見ていました。その波のひとつひとつにやさしく優美な少女の顔が微笑みかけているのです。「まあ」と彼女は両手を打ちあわせながら歓んで叫びました。「ドロッセルマイヤーさん、ごらんなさいよ! あの下のほうにピルリパート姫がいて、とってもやさしくわたしに微笑みかけているわードロッセルマイヤーさん、見てごらんなさい!」−クルミ割り人形はほとんど悲しそうに溜息をついて、「おおシュタールバウムのお嬢さん、それはピルリパート姫ではなくて、あなたなんです。かわいらしくバラ色の波から愛らしく微笑んでいるのは、あなた自身のやさしいお顔にすぎないんです」と言いました。これを聞いたマリーはさっと頭をそらせて、目をかたくつぶり、ひどく恥かしそうにしました。そのとき二人は十二人の黒人によって貝殻形の車からかつぎ出されて、陸地へ運ばれました。>前川訳p56-57

<けれども、マリーはそれには気をとめず、かぐわしいバラの波に見入っていました。というのは、波のひとつひとつから、あいらしくて気品のある女の子の顔がのぞいて、マリーににっこりとほほえみかけていたからです。「まあ!」マリーはうれしくなって、ちいさな手をたたきながら声をあげました。「ほら、見てごらん、ドロッセルマイアーさん! あそこ、あの下にピルリパート姫がいるわ。ほら、あんなにかわいいお顔で、わたしににっこりとわらってくれているのよ。−ほら、見てちょうだい、ドロッセルマイアーさん!」ところが、クルミわりは、なげかわしいといわんばかりのため息をついて、いいました。「シュタールバウム家のおじょうさま、あれはピルリパート姫ではありません。おじょうさまご自身ですよ。バラの波のひとつひとつからにっこりほほえみかけているのは、どれもこれも、おじょうさまご自身のかわいいお顔ではありませんか。」それを聞くと、マリーは大いそぎで顔をそむけ、目をぎゅっとつむりました。はずかしくてたまらなかったのです。ちょうどそのとき、マリーは十二人のムーア人たちにだきかかえられて、貝の乗りものから岸におろされました。>上田訳p147-148

<マリーはそれには気をとめずに、におい立つ薔薇の波に目をやった。その波という波のなかから一人づつ、かわいらしい優美な女の子が、彼女に向かってにこにこ微笑みかけているのである。「あら」、マリーは小さな手をパチパチ打ち合わせて、うれしそうにいった、「あら、見てよ、ドロッセルマイヤーくん! あそこにピルリパート姫がいるわ。こっちに向かって愛らしく微笑みかけている。ほら、ご覧なさいってば、ドロッセルマイヤーくん!」くるみ割り人形はしかしほとんど嘆かんばかりのため息をついていった。「おお、シュタールバウムのお嬢さま、あれはピルリパート姫ではございません。あれはあなたさま、ひたすらあなたさまご自身なのでございます。薔薇の波の一つひとつからあんなに愛らしく微笑みかけているのは、ひたすらあなたさまご自身のかわいらしいお顔なのでございます。」そこでマリーはつと頭を引っ込め、眼をしっかりつむった。とても恥ずかしかったのである。と、この瞬間だった。マリーは十二人のモール人に貝の車から抱き上げられて陸地に運ばれた。>種村訳p97-98

ここでのデュマの大きな省略はいったい何を意図しているのだろう? 自分とピルリパート姫を取り違えるというマリーのばかばかしい挿話など、全く下らぬものとデュマは考えたのだろうか? それとも・・・・

本当の姿など見たことはないとはいえ、マリーの心の中で『姫』という概念を最も具体化できる存在としてのピルリパート姫の名を思わず叫んでしまったこの情景。もちろん、マリーが自分の顔を見間違えるはずはないので、自分がすでに『姫に変身している』のが理解出来ずに、あるいは信じられずに、波に映った姫の姿を見て、ピルリパート姫だと勘違いしたというこの挿話によって、ホフマンはマリーの『変身』を巧みに表現しているのだ。だから真実を告げられた時、マリーは恥ずかしくなったのである。ここでの3つの訳のうち、最も直訳調の種村氏の訳が一番原作の雰囲気を捉えインパクトが強いように思える。<あれはあなたさま、ひたすらあなたさまご自身なのでございます。薔薇の波の一つひとつからあんなに愛らしく微笑みかけているのは、ひたすらあなたさまご自身のかわいらしいお顔なのでございます。」>と稚拙にも思える<ひたすらあなたさま>の重複が原文<das sind Sie und immer nur Sie selpst, immer nur Ihr eignes holdes Antlitz,>の immer重複による強調のニュアンスを的確に再現していて、他の2者の和らげた表現より勝っている。この原文の強調を訳の中で緩和してしまうことは、この物語の本質を見失わせる危険性をはらむ重大な問題なのである。

ではなぜ、デュマはこのように重要な物語の本質にかかわる一節を削除してしまったのだろう? 表面的に見れば immer重複という一見稚拙な語り口に不満を覚えたのかもしれない。あるいは、夢の中とはいえ、『変身』などという『死』を連想させる恐れのあるものは避けたかったのだろうか?

ところで平林氏は、この部分のホフマンとデュマの相違を【参考C】p26に原作と翻案の両者を完全に引用していて、その違いを<まさに、ホフマンの独壇場である。>と述べている。しかし彼は、原作における『変身』描写の意図や、デュマがそれをなぜ省略したのかについての見解を述べることは控えている。それは私見を述べることによって学者的厳格さを損なうことを恐れたのかとも取れるが、根底にデュマ版を本意とする気持ちはなかっただろうか? 少なくとも、直前の<マリーが薔薇のエッセンスの河(le fleuve d'essence de rose)を渡る箇所は>という両者比較の問題提起の表現は、作曲指示書や台本との関係を重視したためと考えられなくもないが、デュマ版を優先していると見られても仕方がない。なぜなら、原作では『薔薇の湖』(der Rosensee)となっており、デュマが『河』へ変更したのである(なぜ変更したのか? 既出のオレンジ川やレモネード河との釣り合いを保つため?)。そもそも原作あっての翻案なのだから、もし両者を比較するのなら、当然のことながら原作からの視点に立って<マリーが薔薇の湖を渡る箇所は>と表現するのが自然だと思えるのである。

原作や翻案では、マリーは帰還し(夢から覚めて)、その後も平常の生活が続くわけだが、この「人形の国」訪問は、結局のところ物語末尾のマリーと[クルミ割り]との結婚を先取りしたものと見ることが出来るだろう。ただ、マリーはすでに姫になっているのに対して、王子である[クルミ割り]はまだ美しい姿を取り戻していないことも事実であり、帰還後のマリーの告白によって、やっと[クルミ割り]は美しい王子の姿に戻るのである。『堅い胡桃のメルヘン』の最後に予言されていたことは、物語末尾の場面でやっと完全に実現するのである。バレエ台本では、マリーの旅とマリーの結婚の2つを合体させることによって、この矛盾を回避している。

デュマは、あるいは、マリーは「人形の国」から帰った後、また少女に戻るのだから、たとえ夢の中であったとしても姫になるのは不自然だ、と考えたのかもしれない。




12.原作の三角鏡による万華鏡構造

万華鏡には様々な構造のものが存在するが、ここではごく一般的で基本的な、3枚の長方形の鏡を正三角柱に組み立てた形を思い浮かべていただきたい。この3枚の鏡のように、《くるみ割り人形とねずみの王様》では、次のような3つの異なる領域が存在する:

(1)この話を読んでいる読者あるいは、話を聴いている子供たち(物語の外の領域)
(2)シュタールバウム家の生活(物語の中の現実の領域)
(3)マリーの幻想や『堅い胡桃のメルヘン』(物語の中の架空の領域)

なぜ突然ここで万華鏡の3枚の鏡のたとえを持ち出したのかというと、《くるみ割り人形とねずみの王様》の『物語の仕組み』を理解するには、万華鏡の構造と機能がそれにぴったり当てはまるように思えるからである。この物語には『隠された前提』すなわち『裏』が存在する。その『裏』を理解するためには、現実と幻想とははっきりと区別されているという認識が必要なのである。
さらに、ホフマンは、『物語の現実』の領域と『夢やおとぎ話』の領域を明瞭に区別するだけでは、物語の趣旨を完全に読者に伝えるには不十分だと考えたようだ。彼は、三番目の領域として作家が直接読者に語りかけるという手法を採り入れた。『読者』を物語の中に巻き込むことによって、『現実』と『幻想』の2つの領域が別のものであることを立体的に読者にアピールしようとしたのである。

<さあみなさん、いまこのおはなしを読んでいる人、それとも聞いている人、フリッツかな? テオドールかな? エルンストかな? なんてなまえでもいいけれど、去年のクリスマスのことをおもいだしてごん。>上田訳p16
<読者のみなさん、おはなしを聞いてくださっているみなさん、もうお気づきでしょう? クルミわりは、こうしてほんとうに生き生きと動き出すずっとまえから、マリーの愛情も好意もちゃんと感じとっていたのですね。>上田訳p51

万華鏡の中に置かれた1つのピースが3つの鏡に映されることによって無限に広がっているように見えるのと同様、この物語の3つの領域を並置して読むことによって、その真ん中にある『真実という1つのピース』が、3つの異なる領域という3つの鏡の中で反射・増幅しあって、物語の最後の場面に来たとき、まさに万華鏡を覗いたような『どこまでも続く煌びやかな世界』として感じ取ることが可能となるのである。言いかえると、物語の読者(聴き手)の存在を物語の中に組み込むことによって、この物語を今読んでいる本当の読者に『真実の世界』を実感させようという仕掛けなのである。そのために、作者が直接読者に語りかける『第一の鏡』、物語の主たるシュタールバウム家の日常という『第二の鏡』、そしてマリーの夢やドロッセルマイアーのメルヘンの『第三の鏡』という『別個の3つの領域』という認識が必要だったのである。

この《くるみ割り人形とねずみの王様》という物語は、ホフマン一流の『現実と幻想が入り混じった怪奇的な物語』であると評されることが多いし、一般にもそのように理解されている。しかし、この作品に限って言えば、実は全くその逆なのである。現実のシュタールバウム家の日常生活部分とマリーの夢やドロッセルマイアーが語るメルヘンとは厳然と区別されていることがこの作品の最大の特徴なのである。それゆえ、もし、彼の作品によくある夢なのか現実なのか分からないといった混沌とした流れの中で、この物語全体を捉えてしまうと、物語本来の趣旨が全く視えてこなくなってしまうのである。すなわち。概要の項で記した『7才の少女マリーは、クリスマスの夜に見つけたくるみ割り人形を助けたことによって、彼から求婚され、人形の国の王妃となる』というあらすじを現実と幻想の混沌とした世界の中で受け取って単なる絵空事のお伽話であると理解してはならないということである。子供のための絵本のような簡略化された形の場合では、そういうお伽話的理解もあり得るが、これは子供のためのお伽話であるだけではなく、ホフマンによって綿密に構想された大人のための物語でもあるのだ。もちろんそして、これを大人のための作品と見た場合、『現実と幻想が入り混じった怪奇的な物語』として、あやふやに捉えてしまっては、ホフマンの本来の意図を理解することは困難になってくるのである。

ホフマンはそのことを危惧してか、本文の中でわざわざ次の一文を加えていることは【デュマの翻案の位置づけ】の項の最後に述べた通りであり、それを再掲しよう。
<あなたがなさるおはなしは、たいてい、きみょうな、こわいおはなしですけれど、今日のはそれほどこわくないでしょうね?ーーーむしろ、おもしろい、ゆかいなはなしなんであります>上田訳p71-72
もちろん直接には、これは『堅いクルミのメルヘン』を指しているのだが、じつは《くるみ割り人形とねずみの王様》の物語は最終章の後半、すなわち上田訳で168ページ以降の記述<気がつくと、お母さまが介抱してくれていました。・・・・>に至って突然変転する。すなわち、ドロッセルマイアーの甥が『本当』に登場し、クルミ割り王子として『本当』にマリーを迎えに来るのである。この部分を正確に理解するためには、それまで延々と述べられて来た『現実』と『幻想』の交錯する物語を、はっきりと『現実』と『幻想』に区別して理解する必要があり、そうすることによって初めて、最後の部分の次元の異なる『本当の世界』、すなわち『真実の世界』が視えてくるのである。言い換えれば『幻想の領域』に存在する『真実の世界』は、領域の異なる『シュタールバウム家の日常の領域』にも、『読者の領域』にも存在するということが実感できるのである。

もし、この物語を『現実と幻想が混沌とした世界である』との理解で読んでしまうと、ホフマンの意図、すなわち『真実の世界に昇華する』という物語本来の趣旨を、感じ、理解することが出来なくなってしまう。ありていに言えば、『本当のところ、マリーは一体どうなってしまったのか?』という読者の疑問が解けないまま終わってしまうのである。

最終章は、前半と後半に完全に分断されている。前半はマリーにとっての最大のピンチの場面である。母親からは
<「このニュルンベルクの木の人形が、生きて動くなんて、どうしてできるとおもうの?」>上田訳p161 
と言われ、父親からは
<「空想したりふざけたりするのは、いいかげんにしなきゃあだめだ。あの、まぬけな、ぶかっこうなクルミわりがドロッセルマイアーさんの甥だなんて、もういちどいったら、お父さまはクルミわりだけじゃなくて、おまえの人形をひとつのこらず窓からほっぽりだしてしまうからね。むろんクララちゃんもだ。」>上田訳p165
と言われる。これは、行き詰ってしまった『現実の世界』である。
しかし、後半は全く違う。母親は手のひらを返したように、ぬけぬけと言う:
<「さあ、ドロッセルマイアーさんの甥御さんがニュルンベルクからお出でになったのよ。おぎょうぎよくなさいね!」>上田訳p168
これは明らかに『現実の領域』ではない。マリーの夢の続きなのか? 夢であるとしたら『目覚めることのない夢』なのだがそうでもない。これは『真実の世界』なのである。そしてそれは『堅い胡桃のメルヘン』の最後で予言された2つのこと(鼠の王さまをやっつけることと醜いにもかかわらず愛をささげる婦人があらわれること)の実現でもあるのだ。
その『真実の世界』への入り口が次のマリーの愛の告白である。
ホフマン:
<「ああ、ドロッセルマイアーさん、もしあなたがほんとに生きているんだったら、わたしはピルリパート姫みたいにあなたをさげすんだりしないわ。あなたが美しい若ものでなくなったのは、わたしのためだもの!」>上田訳p167
<「ああ、ドロッセルマイヤーさん、あなたが本当に生きていたら、わたしはピルリパート姫のようにあなたを嫌ったりしないわ。でも美しかったあなたはわたしのために醜くなったんですものね」>前川訳p62
<「ああ、ドロッセルマイヤーくん、もしもあなたがほんとうに生きているのだったら、わたしはピルリパート姫みたいな態度であなたにすげなくしたりはしないわ。だって、あなたはわたしのために美しい若者であることをやめたのですもの。」>種村訳p111
<"Ach, lieber Herr Droßelmeier, wenn Sie doch nur wirklich lebten, ich würd's nicht so machen, wie Prinzessin Pirlipat, und Sie verschmähen, weil Sie, um meinetwillen, aufgehört haben, ein hübscher junger Mann zu sein!">
デュマ:
<「ねえ、ドロッセルマイヤーさん。あなたがわたしのお父さまが言うような木でできた人形じゃなくて、本当に生きていてくれたらね。わたし、ピルリパータ王女みたいに、あなたが美しい若者でなくなったからって、あなたを見捨てるようなことはしないわ。わたし、あなたを心から愛しているもの」>小倉訳p185
<Ah! cher monsieur Drosselmayer! si vous n'étiez pas un bonhomme de bois, comme le soutient mon père, et si vous existiez véritablement, que je ne ferais pas comme la princesse Pirlipate, et que je ne vous délaisserais pas parce que, pour m'obliger, vous auriez cessé d'étre un charmant jeune homme; car je vous aime véritablement, moi, ah!・・・>
ここでもデュマの方が常識的で、論理的である。[クルミ割り]が木の人形ではなく本当に生きていたら→ピルリパート姫のようにはしない→私のために醜くなったのだから[クルミ割り]を見捨てない→なぜなら[クルミ割り]を愛しているから」と述べている。ここでは<um meinetwillen=pour m'obliger:私のために>という言葉がとても意味深長だ。「マリーのために醜いままでいるのだから[クルミ割り]を見捨てない」と読めるが、実際はマリーのせいで醜くなったわけではないので、全く奇妙である。ここでは、マリーはピルリパートと同化してしまっているとも取れる。ピルリパートは『堅い胡桃のメルヘン』の中で述べられているように、その本質は人形である。ということは、マリーが人形になってしまったことを、ここで暗示しているのではないだろうか。そうであるとすれば、デュマが『父さんが言うような木で出来た男、ではないとしたら』とか『あなたを心から愛している』などと付け加えたのは、話の流れとしては論理的であっても、マリーの本質から考えると、いささか「やぶへび」気味ではないだろうか?人形が人形のことを人形とは言わないから・・・・

注意すべきは、これはホフマンのたくらみでもあるのだが、このマリーの決定的な宣告の場には、現実の人形そのものの「くるみ割り人形」(マリーにとっては[ドロッセルマイアー青年]=[クルミ割りさん])がマリーの目の前にあると共に、名づけ親のドロッセルマイアーが立ち会うところに意味があるようだ。ドロッセルマイアーはこの言葉を聞いて<"Hei, hei toller Schnack.":「ハイ、ハイ、凄いジョークだ」>と叫ぶ。これは反語的な悲痛な叫びなのだ。まあ、「エエー!ほんまかいな!」(若者語では「ウッソー」)といったところか。ところがデュマは、このドロッセルマイアーの叫びをカットしてしまった。ドロッセルマイアーの立ち会いの意味を半分に薄めてしまっているのだ。


13.鼠の王さまの7つの王冠


それでは、マリーの『現実の領域』と『幻想の領域』を繋ぐものはいったい何なのか? これをハッキリさせずうやむやなままにしておけば、単なる現実と幻想が入り混じった怪奇物語になってしまうのである。その答えは、ドロッセルマイア―と彼が語る『ネズミの王さまの7つの王冠』の話である。すなわち彼自身が2つの領域を明瞭に区別するために介在して『真実の世界』へ至るための『鍵』として橋渡しの役割を担っているのである。

最終章の前半の部分では、マリーと両親は真っ向から対立する。そして、その妥協点がドロッセルマイアーがもたらした、有りそうで無さそうな、あやふやな解決なのである。この場面、怪しく胡散臭く表現しているところがホフマン話法の面目躍如といったところではあるが、注意深く綿密に読み解かれなければならない。

@マリー:[クルミ割り]は、マリーから剣を貰って鼠の王さまを退治出来た証拠に『鼠の王さまの7つの王冠』を彼女に贈った。そしてマリーはお礼に美しい「人形の国」へ招待されたことを話す。
A母:それは楽しい夢であったと主張する。
Bマリー:夢ではなく本当のことであった証拠として[クルミ割り]が昨夜くれた『7つの王冠』を取り出す。
C両親:どこで盗んできたかを詰問する(夢の話の証拠品と言われても信用できない)。
Dマリー:途方に暮れ泣き出す。
Eドロッセルマイアー:マリーの2歳の誕生日(すなわち5年前)のプレゼントであると謎解き。
F両親:訝しく思いながらも一応納得する。
このドロッセルマイアーの『現実の領域』での決着は、しかし、完全なものとも思えない。両親には全くあずかり知らぬことだからである。はたして、その様な高価なプレゼントが、それを貰っても喜びそうにも思えないたった2歳の子供に対して本当になされたのか? なぜ両親は娘に対する高価なプレゼントについてなにも知らされていないのか? なぜ5年もの間マリーの宝石箱(小物入れ)にあったはずものをそれまで誰も気付かなかったのか?

では、この『鼠の王さまの7つの王冠』が物語の中で最初に登場するのはどの場面か? それはマリーの最初の幻想の場面(鼠たちと人形たちの戦争)である。
<マリーの足もとのすぐそばに、砂や、漆喰や、崩れたれんがのかけらなどが、地下のおそろしい魔力に押しあげられたようにわきだし、そして、ネズミの頭が七つ、七つのキラキラかがやく冠をかぶって、おぞましい声でシューシュー、チューチュー鳴きながら、床下からぐいとせりあがってきているのです。つづいて、ネズミのからだも出てきました。その首から七つの頭がニョキニョキと生えているからだが、いまや、全身があらわれ出ました。>上田訳p44
これが夢であるとしたら、マリーはこの奇怪な怪物の鼠をどこから発想したのであろうか? むろん7歳の少女が創り出したものではないだろう。彼女がどこかで読んだり、誰かからその話を聞かされたから、夢となってマリーの前に現れたに違いない。
<夕方になると、お母さまがベッドのそばにすわって、たのしい本を読んだり、おはなしをしたりしてくださるのでした。>上田訳p66
とあるように、母親はたくさんの物語を読んで聞かせることを習慣としていたのだから、もし母親が七つの頭の怪物鼠の話をしていたのなら「お話が夢の中で出て来たんですよ」とマリーを諭すことが出来たはずである。ところが、彼女はマリーの話にはチンプンカンプン、全く受け付けないのであるから、七つの頭の怪物鼠など初耳だったようだ。とすると、ドロッセルマイアー?
ドロッセルマイアーはマリーが怪我をした数日後見舞いに現れる。そこでマリーは、けがをしたのはドロッセルマイアーおじさんのせいだと言うが、そのときのマリーの
<ich habe es wohl gehört, wie du dem Mausekönig riefest! :おじさんがネズミの王様に呼びかけるのをはっきりと聞いたわよ!>前川訳p32
という言葉に対してドロッセルマイアーは
<Sei nur nicht böse, daß ich nicht gleich dem Mausekönig alle vierzehn Augen ausgehackt, aber es konnte nicht sein, いいかい、マリーちゃん、おじさんがすぐに駆けつけて、ネズミの王さまの十四の目をえぐりだしてやらなかったからって【註】、おこっちゃだめだ。できなかったんだよ。>上田訳p69
と弁解する。これは奇妙な話である。マリーは 『ネズミの王さま』としか言っていないのに、マリーの幻想の全貌をまだ聞いていないドロッセルマイアーが全てを知っていたかのように『ネズミの王さまの十四の目(すなわち七つの頭)』と応じているからである。もちろん、マリーが戦争の幻想を見たとき、現実のドロッセルマイアーは帰ってしまったあとで、すでにその場にはいない。であるのに、マリーの幻想の中では、フクロウ時計のフクロウの代わりとして、ドロッセルマイアーがそこにいたのだ(彼はたびたびシュタールバウム家の時計を修理していたから)。

<Es war später Abend geworden, ja Mitternacht im Anzuge, und Pate Droßelmeier längst fortgegangen,>
<いつのまにか、夜がふけていました。真夜中になるのも、そう遠くはないようです。ドロッセルマイアーおじさまはとっくにかえっていました。>上田訳p36
<la soirée s'était fort avancée; il allait être minuit, et le parrain Drosselmayer était déjà parti depuis longtemps, >

デュマは、このマリーとドロッセルマイアーのやり取りの矛盾に気づいて、次のように書き換えた:
<Je t'ai bien entendu appeler le roi aux sept têtes. わたし、ちゃんと聞いていたわよ。伯父さまが七つの頭のネズミの王さまを呼び出したのを。>小倉訳p69
<Ne sois pas en colère, chère enfant, de ce que je n'ai pas arraché de mes propres mains les quatorze yeux du roi des souris;  伯父さんがネズミの王さまの十四の目玉を、この手でそっくりえぐり取らなかったからって、怒っちゃいけないよ。そうはできなかったんだからね。>小倉訳p72
マリー自身が『七つの頭のネズミの王さま』の話を持ち出すことによって、この箇所は上手く辻褄が合うようになったわけだが、そうすると『堅い胡桃のメルヘン』は、このマリーの幻想に合わせてドロッセルマイアーがその時とっさに創り出したものということになってしまう。

【註】この「目をえぐる」という表現からは、同じ時期1815年にホフマンが書いた《砂男》の影響がみられる。《砂男》の物語とは、主人公ナタナエルは幼い頃寝つきが悪かったようで母や子守から「眠らないと砂男が目をえぐりに来る」と常々言われていて、それがトラウマになってしまったことから起こる悲劇である。先に述べたように、デュマがくるみ割り人形に与えた名前ナタニエルも《砂男》の主人公ナタナエルの引用であるから、このくだりはしっかりと仏訳されているのだろう。

マリーの幻想やドロッセルマイアーとのやり取りから見て、どうやら、かつてドロッセルマイアーは、家族には全く知らせず二人だけの秘密として、『7つの王冠』をマリーに与え、そのとき部分的になにがしかを物語っていたのではないだろうか。そのため、マリーは奇妙な『幻想』を見ることになってしまったというわけである。ただその段階について、ホフマンは全く触れていない。鍵となるのは『7つの王冠』だけであって、矛盾に気づいた読者がなぞ解きをしてくれるだろうことを期待しているのである。そのためには、矛盾は矛盾として、そのまま翻訳され、理解されなければならない。原作の物語を現実と幻想がごちゃ混ぜになったものとして捉えてしまえば、まずはこういった矛盾についての疑問は生じないだろう。また、デュマのように辻褄合わせをしてしまえば話は上手くつながるが無意味なものになってしまう。そうであってはならないのだ。現実と幻想は全く別物であると捉え、矛盾は矛盾として受け入れ、その背後に目を向けなければならないというわけである。それがこの作品が『万華鏡構造である』とする所以でもある。

読者や怪我をしたマリーは、ドロッセルマイア―から『7つの王冠』の由来について物語の全貌すなわち『堅い胡桃のメルヘン』を聞くこととなる。

マリーは病床で『堅い胡桃のメルヘン』を聞いた後、さらに幻想を膨らませたのだろう。そういった中で、『7つの王冠』は[クルミ割り]のプレゼントとして彼女の中に蘇ったのだろう。とすると最終章の両親の叱責が思い出される。それはマリーとドロッセルマイアーの二人だけの共有物を両親も受け入れるということを意味するのではないだろうか。すなわち、『7つの王冠』とは家族や読者が『真実の世界』を認めるための『確かな鍵』なのである。それは、将来万一両親が不条理(マリーの死)に直面してしまったとき、『受け入れざるを得ない』あるいは『喜んで受け入れるべき』≪真実の世界への鍵≫なのである。

話をまとめると、マリーが一人でいるときに鼠の軍団や7つ頭の鼠の王様が現れるが、それはマリー自身が想像した、あるいは創造した幻想などではなく、ドロッセルマイア―が過去に話した話をマリーが膨らましたものなのだ。たとえば、,最後の章でドロッセルマイアーが両親に説明したことがもし本当なら、彼がマリーに7つの王冠を与えるときに思いついた小話をマリーにしたのかもしれない。マリーはその話を覚えていて、恐怖で膨らませた幻想の中で実際にはすでに帰ってしまっているドロッセルマイアーがフクロウ時計のところに突然現れたのかもしれない。怪我をしたマリーを見舞いに来たドロッセルマイアーを、マリーがなじったのは、その幻想をドロッセルマイアーの話に由来するからと考えれば納得できるのである。こういったことをホフマンは全く語っていない。物語を読む我々にとっては、僅かに垣間見える矛盾だけが手掛かりなのだ。

マリーとドロッセルマイアーの関係を窺うことが出来る僅かな状況証拠はもう1つ存在する。『白鳥の湖』のエピソードである。物語の冒頭、クリスマスパーティーの日、マリーとフリッツが、ドロッセルマイアーおじさんはどんな手の込んだ贈り物を持ってきてくれるだろうかを語り合う場面、フリッツが何の根拠もなく自分の好みで、兵隊たちが行き来する『機械仕掛けの要塞』を思い浮かべたのに対して、マリーは『白鳥の湖』だと次のように反論する(実際には機械仕掛けの『からくり城』がプレゼントされるわけだが):
<"Nein, nein", unterbrach Marie den Fritz: "Pate Droßelmeier hat mir von einem schönen Garten erzählt, darin ist ein großer See, auf dem schwimmen sehr herrliche Schwäne mit goldnen Halsbändern herum und singen die hübschesten Lieder. Dann kommt ein kleines Mädchen aus dem Garten an den See und lockt die Schwäne heran, und füttert sie mit süßem Marzipan." :「ちがうわ、ちがうわ。」マリーはフリッツをさえぎっていいました。「ドロッセルマイアーおじさまは、わたしに、すてきなお庭のはなしをしてくださったのよ。そのお庭には大きな湖があって、金の首輪をしたすばらしい白鳥たちが泳いでるの。その白鳥たち、とても心地よい歌を歌うんですって。そうしたら、お庭にいた小さな女の子が湖のほとりにやってきて、白鳥たちを呼び寄せ、甘いマジパンをやるの。」>

マリーはドロッセルマイアーから『聞いた』話として、自分の方が正しいと主張している。しかし、それを『作ってくれる』と約束されたわけではない。とはいえ、ドロッセルマイアーは折に触れ、いろんなことをマリーに語って聞かせていたことを想像させるに足る挿話ではある。
この話には続きがあって、マリーと[クルミ割り]が「人形の国」を旅しているとき、彼女は『白鳥の湖』を目の当たりにすることとなる:
<Marie bemerkte, daß dies der Widerschein eines rosenrot glänzenden Wassers war, das in kleinen rosasilbernen Wellen vor ihnen her wie in wunderlieblichen Tönen und Melodien plätscherte und rauschte. Auf diesem anmutigen Gewässer, das sich immer mehr und mehr wie ein großer See ausbreitete, schwammen sehr herrliche silberweiße Schwäne mit golden Halsbändern, und sangen miteinander um die Wette die hübschesten Lieder, wozu diamantne Fischlein aus den Rosenfluten auf- und niedertauchten wie im lustigen Tanze. "Ach", rief Marie ganz begeistert aus, "ach das ist der See, wie ihn Pate Droßelmeier mir einst machen wollte, wirklich, und ich selbst bin das Mädchen, das mit den lieben Schwänchen kosen wird." Nußknackerlein lächelte so spöttisch, wie es Marie noch niemals an ihm bemerkt hatte, und sprach dann: "So etwas kann denn doch wohl der Onkel niemals zustande bringen; Sie selbst viel eher, liebe Demoiselle Stahlbaum, :マリーは、それがバラ色に輝いている水の照り返しであることに気づきました。目の前にバラ色がかった銀色のさざ波が、愛らしいメロディーを奏でるように、うっとりとさせる音をさせながら打ち寄せていたのです。その素晴らしい水面はどこまでも広がっていて、大きな湖のようになっていました。その湖面を金の首輪をした美しい銀白色の白鳥が泳いでいました。泳ぎながら誰が一番きれいな声で愛らしい歌を歌えるか競いあっていました。そして、その歌に合わせるかのように、小さなダイアモンドの魚が、バラ色の波間から顔を出したりもぐったりして、愉快なダンスを踊っていました。「まあ!」マリーは夢中になって叫びました。「まあ、この湖よ。いつかドロッセルマイアーおじさまがわたしにつくってあげるっておっしゃったのは。本当だったんだわ。そして、このすてきな白鳥たちを可愛がってあげる女の子はわたしだったのよ。」ちいさなクルミわりは、マリーがこれまで見たこともない、あざけるような笑顔をみせながら、いいました。「あのおじさんにはむりですよ。こんなものはつくれっこありません。あなたご自身のほうが、ずっとよくおできになるのではないでしょうかね、シュータールバウム家のお嬢様。・・・>
ここでは、ドロッセルマイアーが『白鳥の湖』の『話をした』を『作る約束をした』と、マリーはすり替え膨らませてしまっている。それを[クルミ割り]に揶揄されているのだ。[クルミ割り]は、夢の中で素晴らしいものを作り上げることが出来るマリーの方がドロッセルマイアーよりよほど優れている、と言いたかったのだろう。そして、この挿話は『鼠の王さまの7つの王冠』の話を見事に敷衍しているというわけである。

一方、デュマは原作にあった重要な2つの点を削除してしまった。
<Ju suis sûre, moi, que ce sera quelque beau jardin tout planté d'arbres, avec une belle rivière qui coulera sur un gazon brodé de fleurs. Sur cette rivière, il y aura des cygnes d'argent avec des colliers d'or, et une jeune fille qui leur apportera des massepains qu'ils viendront manger jusque dans son tablier. (ドロッセルマイアーおじさんの贈り物は)わたしは、きっと、木がいっぱい植えてあるきれいな庭だと思うの。そこには刺繍のように花でいっぱいの芝生の間をきれいな小川が流れていて、この小川にはね、金の首飾りをした銀の白鳥がいるの。そして女の子がマジパンをもって来ると、白鳥たちは女の子のエプロンからマジパンを食べるんだわ。>

<Marie remarqua que c'était l'odeur et le reflet d'un fleuve d'essence de rose qui roulait ses petits flots avec une charmante mélodie. Sur les eaux parfumées, des cygnes d'argent, ayant au cou des colliers d'or, glissaient lentement en chantant entre eux les plus délicieuses chansons, à ce point que cette harmonie, qui les réjouissait fort, à ce qu' il paraît, faisait sautiller autour d'eux des poissons de diamant. -Ah! s'écria Marie, voilà le joli freuve que parrain Drosselmayer voulait me faire à Noël, et moi, je suis la petite fille qui caressait les cygnes. マリーは匂いに気づきました。それはバラのエッセンスの川から立ちのぼっていました。この川は魅力的なメロディーのように波打っていました。いい香りのする水面を金の首飾りを付けた銀の白鳥がゆっくりと泳いでいて、とても上品な歌を歌っていました。白鳥たちはそのハーモニーがとても気に入っているようでした。またダイアモンドの魚たちが周りに寄ってきて飛び跳ね始めました。「まあ!」マリーは叫びました「これはドロッセルマイアーおじさんがクリスマスに作ってくださるって言っていたあのきれいな小川だわ。白鳥を可愛がっていた女の子はわたしだったんだわ。」>

『湖』が『川』に変っているのは、先に【Aデュマが削除したケース】で取り上げた『変身の場面』と同様だが、問題は、『白鳥の川(白鳥の湖)』をマリー自身の発想にしてしまい、ドロッセルマイアーからの話であることを切り捨てたことにある(Pate Droßelmeier hat mir von einem schönen Garten erzählt,)。それによって2つの場面のつながりが失われ、この挿話が意味をなさなくなってしまった。これでは単にマリーがドロッセルマイアーに「おねだり」したものが夢の中で実現したに過ぎない。ドロッセルマイア―の話を大きく膨らませる能力をマリーが持っていたという説明になっていないのである。さらにここでは、それをあとづける[クルミ割り] の言葉( der Onkel niemals zustande bringen)を全く削除してしまったので、単なるここだけの美しい挿話としての役割しか果たしていない。重要なことは、「七つの頭のネズミの王さま」も「白鳥の湖」もドロッセルマイアーの話をマリーが聞いてさらに大きく膨らませたものであると読者が理解することなのである。


14.マリーの死と豊饒:《くるみ割り人形》が楽しいだけの物語である理由
さて、ホフマンが作った《くるみ割り人形と鼠の王様》という物語のテーマとはいったい何だろうか? 
そのこたえは『死と豊饒』である。それは、チャイコフスキーが作曲した他の2つのバレエ作品、《白鳥の湖》や《眠れる森の美女》とも相通ずる、チャイコフスキーの音楽の根幹をなす思想でもある。ホフマンのこの物語にも、その共通のテーマが内包されていることを見抜いたからこそ、チャイコフスキーは作曲依頼に応じ、この名作バレエ《くるみ割り人形》を完成させたのである。このバレエ作品が醸し出す淡く深い悲しみと、そこから湧き出ずる涙は、チャイコフスキーの音楽そのものからもたらされたものだけではなく、その根源はホフマンの原作の中にすでに存在していたのである。

@マリーの死
『死』などという不穏当で場違いな言葉を持ち出したとはいえ、一般に評されているホフマンの作風、すなわち怪奇性や幻想性を強調しようとするつもりは全くない。むしろそれとは完全に逆であり、この作品はホフマンの他の作品とは正反対に『喜びと平安に満ちている』のである。ホフマン自身も、他の彼の作品のような怪奇的なものと取られることを危惧していたようで、上記の【デュマの翻案の位置づけ】の項の最後に分析したように<「わたくしめがおはなしもうしあげる光栄に浴すのはですな、むしろ、おもしろい、ゆかいなはなしなんであります。」>上田訳p72、と一本釘をさしてすらいるのである。この物語の中には一切の翳りはあってはならないのである。

それはそうとして、原作、翻案、あるいは様々なバレエの演出のどれを観ても、マリー(クララ)が死ぬなどということはどこにも出てこない。果たして本当にマリーは死ぬと考えてよいのだろうか? そのような考えはいささか牽強付会に過ぎるのではないだろうか? という疑問を消すことは出来ない。

はたして、その答えとは『マリーは死なないから』なのである。子供だましのような逆説的言い草だが、マリーは『現実の生』から『死』を飛び超えて『真実の世界で生き続ける』のである。したがって、どこにも『死を臭わす描写』などないし、あってはならないというわけである。だから、この物語のどこを探しても、マリーがどのようにして死に至ったなどということには全く触れられていないのである。いわば、この物語《くるみ割り人形と鼠の王様》では、『現実』と『その深層としての幻想』が物語の中で並立して語られるのではなくて、『真実の深層として現実や幻想』が描かれているのである。ということは、バレエではこの『真実』に必要な部分だけが描かれれば事足りるというわけである。

もちろん、このような含蓄に富んだ作品では、様々な解釈が可能であろう。あくまでも、現実と幻想が並立し、交錯した奇怪な物語であると解釈することも否定することは出来ない。ただ、そのような理解でこの物語を読み進むと、どうしても不可解な記述に何度も突き当たる。それらの多くはデュマの翻案では物語が論理的に進展するように削除や改変がなされオブラートに包まれたように変えられているので、これまでも本稿でいくつかの点を検討してきたように、逆にそれらを抽出して原作と翻案を比較してみると、ホフマンの真意に触れることが出来るのである。そして、これらの不可解な個所の多くはマリーの『現実の死』を前提として考えれば、なんら不可解では無くなるというわけである。あやふやな表現がホフマンの個性であり、あやふやなものをそのまま受け入れるのがホフマン解釈の本筋であると考えるか、《くるみ割り人形とねずみの王様》に関しては、ホフマン流に少し味付けされているとはいえ、その本質はいたって明快であると考えるかの違いであろう。

とはいえ、例えば前項で示したように作曲指示書上でさえ存在する矛盾『7歳の少女がなぜフィアンセたり得るのか?』(これはデュマの翻案においても合理化されなかったためにバレエに引きずってしまったものなのだが)という疑問は、台本上ではうやむやにされてしまったように、翻訳、翻案、台本、上演演出など様々な受容段階で無用な配慮が重ねられてきた結果、我々には視えないものと化していることに留意すべきである。

バレエ音楽の視点からこの作品を見た場合、別の光が当たってくる。死など全く関係なさそうな、少女の夢物語のように明快に書かれた作曲指示書に忠実に作曲されたはずのチャイコフスキーの音楽の中に紛れもなく『死の影』が漂っていることである。特に明白なのは上述の《No.9:雪玉のワルツ》と《No.14:パドドゥ》であろう。音楽に現れる死の影は、これまでチャイコフスキー個人の問題(彼の個人的資質と家族の死)としてのみ議論されてきたのだが、はたしてそうだろうか? 死を題材とした作品などいくらでもあるのに、わざわざこの《くるみ割り人形》の中に死の影を持ち込んだのは、チャイコフスキーがこの作品の中にそれをかぎ取ったからに他ならない。そして、表面上は死の影など微塵もないのに、根底にそれを宿しているというような文学作品は、チャイコフスキーにとってうってつけだったのだろう。というのは、劇作品における音楽の役割とは結局のところ、そういった『言葉や目に付くものだけでは表わすことが出来ないものを表現するためのもの』だからである。作曲家は、音形や音色の特性、調性、楽曲構造などについての持てる技術を駆使して、そういったものを表現するのである。

A豊穣
『豊饒』とは、『豊かな稔り』のことであり、『子孫繁栄』に通ずる。これは、『真実の世界で生き続ける』マリーを想うためには、ぜひとも必要な前提なのである。
原作《くるみ割り人形と鼠の王様》の物語の中、あるいはバレエ《くるみ割り人形》の舞台上では、前述したように『死』は決して表面には現われない。マリーの死を癒す手立ては『豊饒』しかないからである。したがってそれは、原作においては、『人形の国』への旅や結末において語られ、バレエにおいては、『クリスマスツリー』やその他の様々な舞台装置の工夫によって、あるいはピットで演奏される音楽によって感じ取られるべきものなのである。われわれが、この楽しいバレエを観て、密かに涙するのは、その背後に隠されたマリーの死を感じ取り、現実にはかなわなかった『豊穣』すなわち彼女の子孫繁栄へ想いをはせることから誘発されたものなのである。

B死と豊穣
『死と豊饒』については、平林氏が彼の著書【註C】の中で一章を割き、13ページ(44〜56ページ)にわたって詳しく述べらている。
平林氏は、例をたくさん引用していて具体性に富む議論を展開しており、非常に説得力があり、教えられることが多く、またそれらのほとんどが反論の余地のないものである。そこに述べられている論旨について、私の理解の範囲内で要約すると
≪『豊饒』とは、物語と台本に係わるものであって、「クリスマスツリー=樅の木」をはじめ、話の端々に様々な形で表現されている物語の根本的な想念である。
『死』とは、音楽に係わるものであって、作曲者チャイコフスキー自身の個人的資質や彼の母や妹の死によってもたらされた深い悲しみの感情などがこの作品に強く反映していることを意味する。
これらの物語と音楽に由来する、相容れない『死と豊饒』という2つの概念は、他の対立するいくつかの要素と共に、《くるみ割り人形》の物語の多様性として認識され、それらは結論として、作品終結時の「印象の統一性、効果の総体性」の中に解消されるのである。≫

もちろん、音楽の中にも『豊饒性』も込められているのは、原作、台本、作曲指示書に述べられている様々な要素を基にチャイコフスキーが作曲したことからして当然であるが、一方で原作や翻案の中に『死』を見ることについては、【参考C】p46で≪近年、米・露などの一部では、《くるみ割り人形》に死の影を見出す論説が出されている。・・・ただ、冬も人形も死の象徴とするような・・・議論は、結果として、死という観念を一元的に強調し過ぎている。≫などと、平林氏はいささか批判的で、物語の中から『死』を見出すことには慎重な態度をとっておられるように見える。単に冬や人形そのものから直接『死』を導き出すことに対しては、もちろん私も反対である。それらは、尖ったものなら何でも『性器』の象徴と結論付けるようなやり方と同様、非常に我田引水的で早計な議論だと思える。冬でも人形でも、そこに何か別の要素が加味されたときに、やっとそれらが『死』という意味あいを含むようになるのだと思う。たとえば、『冬』と言っても、暖かい暖炉のそばでの家族の団欒に『死』の影はないのに対して、木枯らしが吹きすさぶ冬の原野の中を一人歩いている旅人には『死』の影を見ることが出来るかもしれない。『人形』とて同じことである。幸せそうな人形もあるし、死の影を宿しているように見える人形も存在する。要するに、この作品で『死』を象徴するということは、そんなに単純ではないということである。

平林氏の膨大で詳細な分析を読んでみると、『死』に関する言及はチャイコフスキーの音楽自体やプティパが作曲指示書および台本の中へ追加した一部の内容に限定されているように見える。逆に言うと、ホフマンの原作やデュマの翻案には『豊饒性』は多分に込められているのに対して『死の影』は全くないという見解になる。したがって、私のホフマンの物語におけるテーマ解釈、すなわち『マリーの死と豊饒』を大上段に構えたような説に対しては、全く論議の対象から外れた、あるいは全く議論のかみ合わない単なる妄想としか映らないように見えるのかもしれない。なぜこのような本質的な解釈上のギャップが生じるのか? その原因は、作品に対する視点の相違ではないかと思われる。私はホフマンの原作を基にデュマの翻案の変更点を参照しながら上記のテーマを『原作そのもの』から導き出したのだが、平林氏の場合『翻案から見た原作』といったコンセプトに従っているのではないかと推測され、そこから生じる瑣末な解釈の違いの積み重ねが異なる結論を生じせしめているのではないだろうかと感じている。


15.物語の根底に流れているもの
《くるみ割り人形と鼠の王様》の物語は、複雑な構造と意味深長な表現によって、読む人に様々な解釈を可能としている。ここで、これまで私がいくつかの細部の検証で示してきた物語の根底に潜むものに対する私見をまとめて披歴しよう。まず、この物語は『マリーの死』を題材としていることは明らかである。それは、【17.補足】で取り上げているように、ホフマンの友人、ヒツィヒの娘のマリーがこの物語のモデルであり、彼女の死に際してのヒツィヒへのお悔やみの手紙にこのことが如実に語られている。作家の鋭い眼で将来を予見してこの物語は書かれたのは明らかである。とはいえ、バレエの《くるみ割り人形》の演出の多くが『クララの夢』のように描かれているのを私は否定しようとは思わない。

ただ、マリーの死だけではなく、いろんなことを読者自身が発見するように、この物語は仕組まれているのも事実である。
バレエを観ていて不思議に思うのは、お客様がみんな帰ってしまってマリーだけが部屋に残った時に(バレエではくるみ割り人形を見にマリーが無人の部屋に戻って来た時に)、ドロッセルマイアーがフクロウ時計の上にいることである。ドロッセルマイアーは神出鬼没の魔術師のようだと解釈すると何の不思議もない場面なのだが、現実と幻想や夢想とをはっきりと区別して読むと、居ないはずのドロッセルマイアーがそこにいることは全く不思議なのである。ホフマンは端々で、物語の進行を中断さえして読者を巻き込み、現実と非現実を完全に区別して読むことを読者に求めている。それでは、なぜドロッセルマイアーがそこにいるのだろうか? 幼いマリーが「7つ頭のネズミ」などという奇怪な生き物を創造できるとは到底思えない。そこで、物語全体を読み返してみよう。ドロッセルマイアーはマリーの誕生日に懐中時計の鎖を贈った。この奇妙な贈り物に対してマリーが「鎖が7つあるのは何故なの?」とたずねた。ドロッセルマイアーは「それは7つ頭のネズミの王冠である。」と答えたとしよう。そして、これがマリーが「人形とネズミの大戦争」という妄想を抱いたことの伏線である。ゆえにこの大戦争にはドロッセルマイアーが立ち会っていることが必要だというわけであると。

16.むすび

《くるみ割り人形》における『死と豊饒』の一体性についての理解を深めるためには、物語のマリーとは全く関係はないが、とある1つの突出した状況(事件)を想起してみて、それに同情の念を抱くことが一番の近道であると思われる。

説明の前に、以前は何も気に留めずに読み流していた個所、最近年のせいか涙なしには読み続けられなくなってしまった箇所のことを告白しておこう。「日傘」という言葉が、ある事件のことを思い出させるのである:
<「それからね、グレーテちゃんの小さな日傘をもらってわたしがおおよろこびしたとき、お母さま、なんだかにっこりなさったのよ。」>上田訳p13
この上田訳は直接話法で記されているが、原文は間接話法である。この直接話法が涙を誘うわけである。
<Auch habe Mama gelächelt, als sie sich über Gretchens kleinen Sonnenschirm so gefeut.>
<またマリーがお人形のグレーチェンの小さな日傘を非常に歓んだとき、お母さんがにこにこ笑っていらっしゃたことなどを話しました。>前川訳p15
このように、直接マリーが語らないのではあまりピンとこない。話法に関して、ホフマンはこの冒頭のマリーとフリッツが今年のクリスマスの贈り物を思案する部分で奇妙なことを行なっている。子供たちが自由に遊べるわけでもないドロッセルマイアーの精巧な贈り物については直接話法、両親からの普通に遊べる贈り物については間接話法が使われていることである。逆のような気もするが、『白鳥の湖』のことをぜひともマリーに語らせる必要があったため、こうしたのかもしれない。とすると、上田訳は行き過ぎなのか?
グレーテちゃん(グレーチェン)とは【マリーの人形たちと兄妹】の項で説明したように、マリーが持っている人形のうちの1つの名前である。ここでさらに付け加えたいのは、『真実の世界の豊穣』を『現実の世界』で具体化したものが人形であるとも言えることである。

さて突出した状況とは何かといえば、ときどきニュースで報じられる、幼女誘拐殺人事件のようなケースのことである。もちろん、事件の関係者や世間の一般人が、犯人が逮捕され相応の処罰を受けることと遺族に対して心からの謝罪することを要求するのは当然だが、犯人に対する刑や謝罪によって遺族が癒されるということなど到底ありえない。遺族の唯一の願いは殺された娘が無事に帰ってくることにあるのだから。しかし、それはかなうことのない、どうすることも出来ないことでもある。彼等を癒すことが出来るのは、《くるみ割り人形》の主題でもあるところの『真実の世界』への想いだけではないだろうか。それは代替手段ではない。真実なのである。こういった状況の場合、事件のいきさつや描写など、当然ながらあってはならないことなのである。ただひたすら、楽しかった『現実の思い出』と『真実の世界』だけが描写されなければならないのである。それが、ホフマンの《くるみ割り人形とねずみの王様》であり、バレエ《くるみ割り人形》の世界なのである。そして、その世界へ至る『鍵』が、ドロッセルマイアーが諭した『鼠の王様の7つの王冠』なのであろう。
もちろん、このような特殊な事件だけではなく、幼いわが子を病気や事故で亡くした他のたくさんの親たちも同じく『真実の世界』を想っていることだろう。

マリーは<人形の国:das Puppenreich= le Royaume des Poupées>へ行くのであって、そこの住人は:
原作<Auf der Hochzeit tanzten zweiundzwanzigtausend der glänzendsten mit Perlen und Diamanten geschmückten Figuren, 結婚式では二万二千人の照り輝く真珠やダイヤを飾った人形が踊り>前川訳p63
翻案<vingt-deux mille petites figures, toutes couvertes de perles, de diamants et de pierreries éblouissantes, dansèrent à leur noce. マリーとクルミ割りの結婚式では、真珠やダイヤモンド、そして輝く宝石で飾られた二万二千人の小さな人形たちが踊りました。>拙訳
と述べられているように22.000人は全て人形なのである。この『人形の国』ではマリーだけが人間であるわけがない。ホフマンの原作を字義通り忠実に読むことによってのみ、ホフマンの意図が正しく伝わるということである。
上田訳は、いつも適切で分かりやすいのだが、ここではデュマですらやらなかったとんでもないミスを犯してしまっている。まさに画竜点睛を欠くと言ったところだ。
<結婚式には、真珠やダイヤモンドでかざりたてた、このうえもなく光りかがやく人たちが二万二千人、ダンスをしました。>上田訳p171
たしかに、人形としてはずっと<Puppe>が使われていたのに、ここにきて<Figur>に変えられたのは奇妙であるし、この言葉には「登場人物」といった人間の意味も存在するが、<Figur>はこの最後の章で、すでに1か所に現れている。『クルミ割り』が美しく変身したドロッセルマイアー青年は、マリーとフリッツに数々の贈り物をするが、それらの中でマリーを特に喜ばせたのが、マリーが『クルミ割り』を助けるために犠牲にした<鼠の王様が噛み砕いてしまったもののうちのいくつかと同じ人形たち:dieselben Figuren, welche der Mausekönig zerbissen,>であった。ここでは明らかに人形の意味で使われているのである。最後の場面で<Puppe>を<Figur>に変えたのもホフマンの深い思慮の現れなのだろう(人形の中で、より現実味を帯びたもの?)。したがって、ここでは「人たち」ではなくて、あくまでも「人形たち」なのである。訳者は人形と訳することにある種の危険を感じて、マリーが人形になってしまったこと(=マリーの死)を印象付けるような表現を避けたかったのかもしれないが、ホフマンの意図を簡明忠実に伝えるべきであった。

ホフマンの原作では、この『真実の世界』について、物語の最後で次のように述べられている:
< マリーは、いつまでも、キラキラかがやいているクリスマスの森や、すきとおったマジパン城など、つまり、世にもすばらしいふしぎなものが、それを見る目がありさえすれば、いたるところに見られる国のお后さまだということです。>上田訳p171
<マリーはいまもなお、いたるところに輝くクリスマスの森、透きとおったマジパン城など、要するにもしこれを見る目がありさえすれば、この上なくすばらしいもの、不思議なものを観ることが出来る国の王妃さまだということです。>前川訳p63
<マリーは目下のところなお、あのいたるところきらめくクリスマスの森やすき透ったマルチパンのお城を、要するにそれを見る目さえあれば世にもすばらしくふしぎな事物を見ることができる、一国の王妃であるという。>種村訳p113-4
<Marie soll noch zur Stunde Königin eines Landes sein, in dem man überall funkelnde Weihnachtswälder, durchsichtige Marzipanschlösser, kurz, die allerherrlichsten wunderbarsten Dinge erblicken kann, wenn man nur darnach Augen hat.>
<マリーは、今も、とある一つの国の女王様であるとのことだ。その国全体は、キラキラしたクリスマスの森や透き通って輝くマジパン城のような、とてつもなく素晴らしくて不思議なもので出来ている。そして、その国を見ようと思えば、何時でも誰でも見ることが出来るのである。>拙訳

ホフマンが読者に語っているという形で書かれているこの文章を素直に読めば、この物語全体は単にマリーの夢や彼女の夢の実現を述べたものではないことが即座に読み取れるだろう。ホフマンの思いは、こういった主題には最適な芸術表現手段であるバレエが用いられて、彼の意図があますことなく、というか視覚・聴覚を加えて、より増幅された形で提示されるのである。だからこそ、この明るく楽しいバレエが涙を誘うのである。そして、マリーの死は物語の背後にあるものであって、決して表面的には描かれてはならないのである。

といっても、われわれ観衆がそのような重いことを詮索することは、作品を鑑賞する上では、かえって不適切であろう。われわれは作者の意を汲んで、バレエの美しさ、陽気さだけを楽しめばよい。特に鑑賞者が子供である場合はそういうことが言える。それを意識しなければならないのは、バレエの演出家や評論家たちの方である。演出は、常に悲しい思い出を根底に意識しつつ舞台をひたすら楽しく美しいものに仕立てあげなければならないし、評論家たちは、支離滅裂なとても奇妙な話である、とか、ただ楽しく美しいだけで中身の薄いものであるといった巷間に満ちている表面的な評論に終始すべきではなく、この物語の本質に沿って、ただ、それを<見ようとさえすれば:wenn man nur darnach Augen hat.>おのずと見えてくるものに従って適切な評論がなされるべきであろう。

この<一国の王妃:Königin eines Landes>というのは、『子供たちに囲まれて幸せに豊かに楽しく暮らしている姿』の象徴であり、すなわち『豊饒の姿』なのである。この『死・人形・豊饒』という繋がりは、我が国においても、それに近い行ないが見られるので、最後にそれらのうち2点を紹介して本稿を結ぼう。
まず1点、今次大戦で若くして戦場で失われた命に対して遺族が花嫁人形を神社に奉納する姿である。それは我が子や兄弟が、美しい花嫁とともに『真実の世界で子供たちに囲まれて幸せに豊かに楽しく暮らしている姿』を現すものであり、『真実』とは何かをより直截に感じさせるものである。
更に1点、《赤い靴》。これはバレエの演目の《赤い靴》(魔力を持った赤い靴が、それを履いた者を踊らせる)の話ではない。わが国の童謡の《赤い靴》↓のことである。この歌の歌詞は、《くるみ割り人形》に非常に近い思いで作られたと見ることもできる。この歌での「異人さん」は「クルミ割り人形」に、「異人さんのお国」は「人形の国」に当てはめれば、童謡《赤い靴》と《くるみ割り人形》とは、同じ考えのもとに作られたと見なせる。この歌にはモデルがあって、この女の子は東京の孤児院で結核のため9歳で亡くなった。麻布十番には像が立っている。そして、事実の検証がなされ、それに対して対立した意見もあった。また、この歌の解釈にもいろんな説が存在するのも確かだ。しかし、そういった事実とは別に、この歌にあらわれた、厳しい現実を生き抜いた一人の母の心の真実を想う時、われわれは感動を得ることが出来るのである。(末尾に詳述している)

https://www.youtube.com/watch?v=FNwtRJ9dtW4&nohtml5=False

ここに、バレエ《くるみ割り人形》は『明るく楽しい』だけの物語に終始するべき理由があり、また、そうあるべきなのである。

17.補足

最近入手した大島かおり訳の光文社文庫版は、新しい翻訳(2015年)だけあって、私が読んだどの翻訳より説得力の強いものであった。特に識名章喜氏の解説には貴重な情報が含まれている。
主人公マリーのモデルとなったのは、ホフマンの友人ユリウス・エドワルト・ヒツィヒ(1780〜1849)の娘マリーであるが、実在のマリーと物語の関係を時系列で追ってみよう。
1809年 マリー誕生
1816年 マリー7歳
1816年 《くるみ割り人形と鼠の王様》出版
1822年 1月にマリー病没(13歳)、6月にホフマン没(46歳)
マリーの死に接した時、ホフマンはヒツィヒにお悔やみの手紙を書いている。識名氏の訳を引用させていただこう。
<奇妙としか言いようがないー今だから言えるのだけれどーあの娘にはどこか独特のところがあったような気がします。彼女が真剣な思いにひたっているように見えるときに、彼女の表情(とりわけじっと凝視するような瞳)に、早世の相を垣間見たことがたびたびありました。−貴君も知ってのとおり、あの子が幼いころから病気がちで、とくに生まれて間もない頃は病弱だったことを私はまったく知らなかったのですが。−>ヒツィヒあて1822年1月18日付手紙 【資料】(4)の446ページ
この文章を読むと、単なる娘を亡くした父親への慰めの言葉だけとは思えない。とくに、マリーが幼い頃病弱だったことを知らなかったと弁解している部分は、まさに「言い訳」に聞こえる(病弱であったことを知っていたら、あのような早世をにおわす物語のモデルにはしなかっただろうという風にも読めてしまうからである)。
実在のマリーと《くるみ割り人形と鼠の王様》の関係の時系列を見て思い出すのが、マーラーの《亡き子を偲ぶ歌》である。マーラーがこの曲を作曲した時も、自分の娘が死んだわけではなかった。後に、本当に娘が死んだとき、夫人のアルマが「そんな曲を書くから娘が本当に死んでしまうのだ」と詰問したとか・・・マーラーがそれに対してどう答えたのかは知らないが、ホフマンの手紙は、ヒツィヒがアルマと同じような思いに捉われているのではないかとの危惧からの、言い訳のように読めてしまうのである。逆に言うと、ホフマンは、マリーの死をうすうす感じて、あのような物語を書いたのだということになる。《くるみ割り人形と鼠の王様》をどのように解釈しようと読者の自由だが、作者ホフマン自身は、マリーの死とそれに直面した家族のあるべき姿について書いたに違いない。

大島かおり氏の訳は、これまでのどれよりも素晴らしいものだったが、私が主張してきたように、翻訳には「隠されたマリーの死」に配慮すべきであるという観点から、2点苦言を呈したい。

(1)<すかさず上級裁判所顧問官が声をかけた。「おやまあ − ばかげた冗談を」>大島訳p134
最後の章で、<Schnack:たわごと>という言葉をドロッセルマイアーは3度発言する。
@『鼠の王さまの7つの王冠』は[クルミ割り]から貰ったと主張するマリーに対して、ドロッセルマイアーはマリーの2歳の誕生日にプレゼントしたものであると謎解きしたとき:
<"Toller Schnack, toller Schnack, ><なんだ、ばかばかしい。>上田訳、<冗談ですよ、冗談。>種村訳、<ばかな冗談ですよ、つまらん話、>大島訳
Aマリーが、[クルミ割り]はドロッセルマイアーの甥であると主張したとき:
<"Dummer einfältiger Schnack."><ふん。なんて、ばかな。>上田訳、<何をばかな冗談を。>種村訳、<ばかげたつまらん冗談だな>大島訳
Bマリーが[クルミ割り]に愛を告白したとき:
<"Hei, hei toller Schnack."><ほい、ほい、− ばかな、たわごとだわい。>上田訳、<ヘッ、ヘッ ー ご冗談を>種村訳、<おやまあ − ばかげた冗談を>大島訳

さて、デュマはどう処理したか? この最後の章の前段(シュタールバウム家の現実)については、ほぼホフマンの原作通りに話が進む。
@については、ドロッセルマイアーはマリーの<plaisanterie:たわごと>と言って、誕生日のプレゼントであると説明するが、Aでは、言葉を発せず顔に皺を寄せるだけである<son front se plissa,>。Bにいたっては、彼は単に時計の修理をしているだけで、マリーにはかかわらず、全く言葉を発しない。原作で、ドロッセルマイア―が3度も同じ「たわごと」と発するのを重複と判断したのだろう。重複が深い意味を持つということをデュマはここでも無視して【註】原作の意図を消し去った。一方、デュマは原作にはいない母親までも、抜け目なく同席させている<non seulement le parrain Drosselmayer, mais encore sa mère,>。これは、椅子から滑り落ちたマリーの世話をするためである。要するに、最後の章の前段と後段の断絶をなくし、話をスムーズに流れるように配慮しているのである。しかし、それでは子供のための単純な童話となってしまう。もちろん子供のための「お話」にしようとしたのがデュマの目的なのだからそうなって当然なのだが。

断絶は、映画でたとえて言えば、白黒映像が突然カラー映像に変わるようなものであろう。話は間断なくスムーズに流れるように見えて、本質は全く変わってしまったように描かれるべきものなのである。それはドロッセルマイアーの服装に端的に表れている。彼が時計の修理をしていたときは、ここでは書かれていないが、おなかに青いエプロンを着けた作業姿だったのだろう。しかし、マリーが目覚めたときは、白いガラスのカツラを被り黄色い上着を着ていたのだ。そして、着目すべきは、ドロッセルマイア―がどういう風にこの同じ言葉を発言したかの方である。@では<als er lachte, und rief:=笑いながら呼びかけた(両親の記憶を呼び覚まそうとした)。>、Aでは<murmelte:=ブツブツつぶやいた。>、Bでは<schrie=大声で叫んだ>と3つとも同じ<Schnack:たわごと>と発しているのだが、意味はそれぞれ全く違う。Bでは断絶を意味する言葉を訳の中に込めるべきだったのだ。3人の訳者は次のように訳している:
<ドロッセルマイアーがさけびました。>上田訳、
<上級裁判所顧問官が大声で叫んだ。>種村訳、
<上級裁判所顧問官が声をかけた。>大島訳
上田訳や種村訳では、字義通り叫んだと訳しているが、その割には、訳された叫びが日本語としては全く緊迫感が無い。大島訳では、その矛盾を和らげるために<声をかけた>としたのだろうが、その配慮は全く逆である。叫びに合致した日本語が必要だったのである。上田訳や種村訳では、その矛盾が断絶を推測させるのでまだ許せるが、大島訳では結局デュマと同じになってしまっている。「ほいほい」「ヘッヘッ」「おやまあ」なんで間抜けた言葉ではなく、「大変だ」「どえらいこっちゃ」「こらあかん」といった風に訳すべきであって、たわごと(冗談)が本当になってしまったドロッセルマイア―の「うろたえ」を的確に日本語にすべきであったのだ。

【註】デュマの重複を嫌う傾向は以前にも指摘した。【11、原作と翻案の違いから浮き出て来るもの】での、マリーが湖面にピルリパート姫を見つける場面における[クルミ割り]の immer重複発言である。

(2)<要するに、見る目のある人にだけ見える世にもすばらしい不思議なものが、眺められるという。>大島訳p137
この訳を読めば、「ある特定の能力のある人」だけが見ることが出来るように読めてしまう。もし、そう読めるのなら、それはこの物語の本質をもぶち壊す大きな誤訳と言えるだろう。少数の「目利き」だけがそれを見れるのではなく、他の訳者たちが訳しているように、「その気になれば誰でも」といった風な訳にするべきだ。直訳すると、多分次のようなものだろう:<ただ、人がそれを求める目を持ってさえいれば:wenn man nur darnach Augen hat.>
最後の文章は最も大切なものであるから、ホフマンの意図を忠実に読者に伝えなければならない。1つの修正案を提示しておこう:
<マリーはいまなお一国の王妃で、その国ではいたるところに、きらきらきらめくクリスマスの森や、透きとおったマルチパン城、要するに、見る目のある人だけに見える世にもすばらしい不思議なものが、眺められるという。>大島訳

<マリーはいまや、いたるところにキラキラきらめくクリスマスの森や、水晶で出来たような透きとおったマルチパン城などのある世にも素晴らしい不思議な国の王妃となった。この国を見ようとすれば、誰でも何時でも眺められるのである。>修正案

(2017.12.3)

【参考資料】
原作・翻訳:
(1)《くるみ割り人形とねずみの王様》E.T.A.ホフマン作、種村季弘訳、河出文庫、河出書房新社、1995年
(2)《クルミ割り人形とネズミの王様》E.T.A.ホフマン作、前川道介訳、国書刊行会、1997年(《書物の王国7『人形』》内の1編)
(3)《クルミわりとネズミの王さま》E.T.A.ホフマン作、上田真而子訳、岩波書店、2000年
(4)《くるみ割り人形とねずみの王さま》E.T.A.ホフマン作、大島かおり訳、光文社、古典新訳文庫、2015年
(5)《Nußknacker und Mausekönig》E.T.A. Hoffmann(Ernst Theodor Wilhelm Amadeus Hoffmann)1816

翻案・翻訳:
(6)《くるみ割り人形》アレクサンドル・デュマ翻案、小倉重夫訳、東京音楽社、1991年
(7)《Histoire d'un casse-noisette》Alexandre Dumas, 1844

スコア:
(8)《The Nutcracker》Op.71 Act I & 2, Peter Ilich Tchaikovsky, Masters Music Publications, Inc.
(9)舞踊組曲《胡桃割人形》Op.71、チャイコフスキー作曲、音楽之友社、1953年


解説書:
(A)《チャイコフスキーのバレエ音楽》小倉重夫著、共同通信社、1989年
(B)《永遠の「白鳥の湖」》森田稔著、新書館、1999年
(C)《『胡桃割り人形』論ー至上のバレエー》平林正司著、三嶺書房、1999年
(D)《チャイコフスキー三大バレエ》渡辺真弓著、新国立劇場運営財団情報センター、2014年





バレエ《くるみ割り人形》こぼれ話

【バレエと人形】
バレエという不思議な芸術とはいったい何なんだろうか? 単なる踊りでも無言劇でもない。それは独特の様式美を持った唯一無二の存在である。私見を述べると、『人形劇では、人形が人形遣いによって魂を入れられ人間のように踊ったり演じたりするように、バレエとは生身の人間が魂を入れられた人形のように踊ったり演じたりする芸術である』と思う。バレエダンサーとは、極端に言えば人形遣いに操られた(独特の様式美を獲得した)人形のように踊るためにさまざまな技術の修練を積んだ人たちであると言うことが出来るのではないだろうか。《くるみ割り人形》を見るとそれを痛感する。舞台に上がれば登場人物は全て人形なのだと。アルルカンやコロンビーヌは舞台の上で、まさに人形であることを強調するかようなしぐさを見せるが、もちろん[クルミ割り]も人形であるし、クララも人形になるのだ。そういった観点に立てば、第1幕に登場する子役たちも招待された大人たちも、原作のドロッセルマイアーの贈り物であるリンクシュテッテン城の仕掛け人形のように、みんな人形の要素を忘れないように、ダンスはもとより、演技する必要があるのではないだろうかと思う。
全幕バレエでは演劇性を欠くことは出来ない。しかし、人間が人間を演じるのであれば、言葉のある普通の芝居をすればよいだけである。人間が人形を介して人間を演じるという点がバレエの真骨頂なのだと思う。言葉を発しないという制約を利点に変えたものがバレエなのである。それは古典の《ジゼル》に言えることであり、演劇性を強調したクランコの《オネーギン》にも言えることである。バレエダンサーたちが自分たちの技術を磨くにあたって、そのことを常に根底に持っておく必要があるように思う。それはさらに、物語性から解放されたコンテンポラリーダンスの中にこそ、より強く感じることである。人間が人形を演じるということを離れてしまうとバレエではなくなって、普通のダンスになってしまうような気がするのである。


【プティパとイワノフ】
《白鳥の湖》では、初演の『プティパ・イワノフ版』が有名である。二人の才能がしっかりとタッグマッチして素晴らしい幻想物語を構築した。一方《くるみ割り人形》では、舞台上演の構想や音楽の配置はプティパが行なった。チャイコフスキーはプティパの指示に従って忠実に音楽を作り上げたのである。それと同様、バレエの振り付けは、ほぼ全てイワノフが行なったと言われている。プティパは病気を理由に細かい振付作業を放棄してしまい、イワノフにまかせてしまったらしい。現代の上演プログラムを見ると振付者にはイワノフの名だけが上がっている。イワノフの振り付けに味付けをした現代の振付家の名前が併記されるだけであって、プティパは振付者名からは除外されている。何故だろうか?


【バレエでマリーがクララに変わった理由】
主人公の名マリーは、どこでクララに変わってしまったのか?
原作でも翻案でも主人公の名はマリーである。ただ、マリーが新しくクリスマス・プレゼントとして貰った人形の名は、原作ではClärchen(クレールヒェン)、翻案ではClaire(クレール)である。両方とも、いわばClara(クラーラ)の変化形といったところだ。ところがバレエ制作の段階で、人形たちの名前などは無くなってしまった。そして主人公マリーの名がクレールに変えられたのである。何故変えられたのか? それは《眠れる森の美女》のオーロラ姫:Aurore(オロール=オローラ)が『日の出の太陽の光』を意味しているのに対応させるためというのが有力な説である。というのはClaire(クレール)は『月の光』(le clair de lune)をイメージさせるからである。日月を対に見たてた趣向というわけである。バレエの演出で、クリスマスパーティーが終わって無人になった舞台奥、窓を通して月が見える場面はプティパの下記の作曲指示書上の創作を生かしたものであり、舞台演出上、この無人という瞬間は、劇進行のメリハリをつけるうえで非常に有効である。一方、原作や翻案では、マリーは母の許しを得て、そのままサロンにとどまり、ランプの明かりの下で[クルミ割り]の世話をするのである。

<La scène est vide. Il se fait nuit. La lune éclaire le salon par la fenêtre. Claire en toilette de nuit revient avec précaution; avant de s'endormir elle a voulu voir son malade chéri.>
(舞台は無人になる。真夜中である。月明かりが窓を通してサロンに射す。夜着を着たクレールがあたりを窺いながら戻ってくる。寝る前に怪我をした最愛の人に会いたかったからである。)
ここで<éclaire>と<Claire>(エクレールとクレール)が結びつけられている。

さらに、クレール:Claireがクラーラ(クララ):Claraになったのは、ロシア語の台本からである。ロシア語では女性名として最後の母音を『ア』で終わらせる傾向がある。オロール:Auroreがオローラ:Auroraに、オデット:Odetteがオデッタ:Odettaに変わるのと同様である。ロシア人がこのバレエを西欧に持ち出したとき、当然彼らはクララやマーシャ(マリーのロシア風愛称)と名付けていた。特にクララは西欧でも一般的な名として使われているので、欧米ではそれが違和感なく定着したのだろう。ちなみにバレエでの元々の名Claireは、英語読みではクレア、省略されてClairとも Cleaとも綴られることがある。

余談になるが、マリーとクレールというと、フランスの著名なオルガニスト、マリー=クレール・アラン Marie-Claire Alain(1926−2013)を忘れることは出来ない。もちろん《くるみ割り人形》と何らかの関係があるとは思えないのだが。

【夢オチについて】
1892年にマリインスキー劇場で初演された《くるみ割り人形》は、バレエに描かれている物語としては観衆に理解されなかった。音楽ではなく、演出に対して不評だったのである。なぜなら、【付録】で詳述した作曲指示書や、それを少し変更して提出された台本によって劇が進行したため、「はたしてクララは家に帰ってくるのか? 彼女はくるみ割り人形と結婚するのか? 両親は彼女のことを心配していないのか?」などなど・・・観衆には一切が曖昧なままに終わってしまうからである。素直に原作や翻案を読めば『クララとくるみ割り人形は姫と王子になり二人は結婚して大団円』という形で観客は納得するはずであった。実際、[クルミ割り]は、原作で<teilen Sie mit mir Reich und Crone, herrschen Sie mit mir auf Marzipanschloß,(国と王冠を共にして、マジパン城において私と一緒に治めてください、)>、翻案ではさらに簡明に<et régnez avec moi sur le royaume des poupées.(そして、私と共に人形の王国を治めてください。)>と語り、マリーはそれに同意している。
ところが、プティパはそういう演出法を採らなかった。それはフセヴォロジュスキーの意向に沿ったものだったのかも知れないが、作曲指示書では「噴水」、初演台本では「蜂の巣」という、いわばコンフィチュランブールの情景そのものが最後の場面となるように演出され、二人がどうなったかについてはぼかされているのだ。そのうえ、原作・翻案にはないドラジェの精(金平糖の精)というキャラクターをコンフィチュランブールの主として創出し、まるでクララと[クルミ割り]はその国のお客様のような扱いにされてしまった。さらに、作曲指示書では二人はフィアンセであることが明示されていたのに、初演時の台本ではそれすら削除され、二人の結婚は伏せられてしまった。
なぜプティパは、そのように変えてしまったのか? 思うに、バレエでは、原作や翻案で語られているような微妙なニュアンスを観客に伝えることは不可能で危険だとの結論に達したからではなかろうか。確かに、原作や翻案でさえこの物語の本質は正しく理解されているとは言いがたいのだから、伏せなければならないにも拘らず厳然と存在する「マリーの死」という特殊な状況をダンスやマイムだけで表現することなど至難の業であるし、そもそも祝祭的な物語の中に死が潜んでいるという構想自体がバレエには不適当だと考えられたのだろう。

しかし、初演台本のこのようなどっちつかずの態度は、後の演出で否定されることとなった。1919年のゴルスキー版では、くるみ割り王子とクララは、はっきりと王位に就くように変えられ、1934年のワイノーネン版では鼠との戦争以降を夢とし、アポテオーズでマーシャ(マリー)は夢から覚めるように演出された。とはいえ、ワイノーネンは原作を歪めたわけでもなく、原作の「マリーが与えた剣によって鼠の王さまを退治した[クルミ割り]が、そのお礼にマリーを連れて人形の国へ旅行した」というマリーの夢と目覚めの段階で終わらせてしまって、本来の結末までには至らないと考えればよいだけである。「夢オチ」はメルヘンらしくないという批判が時々なされるが、それは一般論であって、このバレエ《くるみ割り人形》の場合は「夢オチ」も一応原作には忠実であり、決して悪いものではない。ただ単に、ピルリパート姫の物語が省略されたのと同様、話の結末も省略され「マリーの死」が覆い隠されたと理解すればよいだけである。子供にとってはそれで充分であるし、大人にとっては自分の心の中で結末を反芻すればよいのである。この心の反芻のために必要なものは、美しいダンスとチャイコフスキーの音楽によって充分満たされている。ゴルスキーのように結末を明瞭にしてしまうのは、説明不足からかえって単なるお伽話に堕してしまうであろう。したがって、ワイノーネンのような話のすり替え(すなわち最も重要な結論部分の放棄)は、物語に妥当性を与え説得力を持たせるためには是非とも必要なことであったのだとも言えよう。『死と豊饒』という概念をバレエで再現出来ない限りゴルスキー版の飛躍した結末は無理というものだったのだろう。ただ、夢オチはチャイコフスキーの音楽とは全く符合しないので、人形を抱える可愛い少女と壮大な音楽の終結とは全くのミスマッチのように感じられてしまうことは如何ともし難い。ヌレエフのように終末の音楽を変えるのも、物語と音楽の妥協としての一つの解決法であるのかもしれない。

【アポテオーズの演出について】
チャイコフスキーの意を汲んだ《No.15:フィナーレ》の演出として、従来のようにディヴェルティスマンで踊ったダンサーたちが、今度は衣装はそのまま人形(ディヴェルティスマンのときより、さらに人形的演出が必要)として次々と踊るのは当然として、最後はパドドゥを踊った花嫁花婿(クレールとクルミ割り王子)が人形たちにリフトされ両手を高く上げている姿でいったん暗転(ボリショイのパドドゥでの同様の情景をイメージしていただきたい)。続くアポテオーズでは、次のような演出はどうだろうか。原作の意味を簡潔に、明確に、象徴的に表しているように思える。ただ、原作の意味は理解できても、このような、ある種生々しい現実回帰的演出が、バレエ《くるみ割り人形》の最後として、はたして本当に相応しいものかどうかは熟慮を要するかも知れないが・・・・。

≪物語のちょうど25年後のジルバーハウス家。当主の高名な建築家のフリッツ・ジルバーハウスは家族や来客とともに、今年も25年前と同じようにクリスマスを祝おうとしている。書き割りや大道具など装置は第1幕と同じもの。大きなクリスマスツリーの傍らに、かつてドロッセルマイアー老人が作ってくれたリンクシュテッテン城の立派な模型が置かれている。その頂上には、クレールとクルミ割り王子が、ついさっき見たフィナーレの最後の場面でのリフトされて2人とも両手を挙げた姿そのまま、マジパンで作られた人形になって加えられている。クレールの胸には7つの王冠でできたネックレスが輝いている。舞台には、フリッツと彼の妻、2人の子供達(男女)、老いた両親がいる。そこへ、外国へ嫁いだフリッツの姉ルイーゼ(第1幕にはルイーゼの名は現われないが、当然子供たちの1人として登場していた) が3人の子供達(男2人、女1人)を連れて、10年ぶりに実家へ帰ってくる。4人は家族に挨拶をする。ルイーゼは久々に会う両親に贈り物を渡す。3人の子供たちはフリッツの子供たちとすぐに仲良くなり、不思議そうにあたりを見わたし触れて回る。ルイーゼの娘が模型の頂上におかれた人形について尋ねる。ルイーゼは「あれは、お前たちのおばさんにあたる人で、プッペンライヒの王妃様になったのよ」と答える。フリッツは古いくるみ割り人形を取りだして、昔と違って胡桃を上手に割りみんなに振るまう・・・・・(幕)≫

【二人一役】
バレエの演出で、まったく物語を変えてしまうものは別として、おおむねプティパの台本に従っているものでも、主役クララ(マリー)の扱いは多彩である。クララを最後まで子役が踊る(演じる)場合、第2幕のパドドゥは大人のドラジェの精が踊ることとなる。初演ではその様に演出された。原作で、主役が7歳の女の子であると設定された物語の性質上、主役がパドドゥを踊れないための代替処置だが、主役がパドドゥを踊らないのはバレエとして著しく感興を殺ぐ結果となるのは致し方ない。

これに対して、主役がパドドゥを踊るために、初めから大人のダンサーがクララを踊る(演じる)場合は、第1幕では周りの子役たちの間でクララだけが浮いてしまう結果となる。そして、兄のフリッツを弟に設定変えされたりもする。それを避けるためか、全体の年齢を上げてティーンエイジャーのクリスマスパーティーのようなものに変えられることもある。とにかく、こういう無理をするとだんだん演出が破綻をきたしメチャメチャになってくる。大人の女性がくるみ割り人形を子守唄であやすなんて、どうしても見栄えのするものではないし、戦争の場面ではなおさら滑稽だ。

それらとは別に、途中で子役から大人のダンサーにすりかわる方法を採る演出ももちろんたくさん存在する。いわゆる二人一役である。こちらは、たぶん原作の薔薇の湖での変身シーンを根拠としているのだろうが(もちろん(2)【デュマが削除したケース】で説明した通りデュマの翻案にも台本にも『変身』は存在しない)、舞台ではもっとも妥当なやり方だろう。ただ、そこではスムースな振り替わり、すなわち自然な継続性が要求される。もちろん、交替時点での衣装や髪形、髪飾りなどの同質性は必須である。マリインスキーでは、子役が特徴あるポーズで暗転し、明るくなった時、大人のダンサーが同じ場所で子役と同じポーズを取ることによって継続性を実現させているが、これは成功した例であろう。もっと原作の雰囲気に近いものは、シアトルのパシフィックノースウエストバレエのモーションピクチャーだろう。ここでは「やっつけた鼠の王さまの衣装の残骸が岩山状となり、そこに開いた洞窟へクララが入っていくと(原作では父親の外套の袖の中へ入っていくことになっているが)、彼女は大人に変身し、水晶のような鏡に映った自分の姿を見て、彼女は驚く」といった演出になっている(原作では、既述のように『薔薇の波』に映った姿をみて気付くことになる)。ただ、この場合、『死』をイメージさせない演出が必須となってくるが、なぜ『変身』したのか?の理由づけが難しいところではある。

【映画化】
《くるみ割り人形》と題された映画は結構あるようだが、私が知っている限り、それらすべてにはガッカリさせられる。「くるみ割り人形」という存在の知名度だけをパクッただけの、ホフマンの作品とは内容が全く異なるものや登場人物や設定はほぼ原作通りであっても子供たちのためという大義名分をかざしてかどうか、内容が大きくゆがめられてしまった作品など私の経験が少ないせいか、原作に忠実な映画化作品など観たことがない。とにかく、現代の映画技術を駆使すればホフマンの原作の豊かな多重世界を忠実に映像化することはそんなに難しいとは思えないのだが。
最近の情報では(2016年3月)、ディズニーが実写版でThe Nutcracker and the Four Realms(くるみ割り人形と4つの領域)と題する映画を企画しているようだ。『4つの領域』とは、たぶん「シュタールバウム家の日常生活」、「マリーの夢」、「ピルリパート姫の物語」および「人形の国」を指すものと推測されるが、原作への忠実さを期待させるような名付けであり、完成が待たれる。

そこで、私のイメージする《くるみ割り人形とねずみの王様》の映画化アイデアをここで披露しておこう。
ホフマンが読者に語りかけているように、まず、『第1の鏡』としてのナレーターの存在が重要である。ナレーターはホフマンの読者への呼びかけには忠実であるべきで、聴き手の日本の子供たちもリアルに描写されるべきだ。それらだけではなく、現代の日本の鑑賞者が理解できるような解説も適宜加える必要があるだろう。
『第2の鏡』としての「シュタールバウム家の現実」は、モノクロ実写で19世紀のドイツを忠実に再現するように、ドイツにロケし、役者は全てドイツ人でリアルに演出される(声の吹き替えは自由)。
『第3の鏡』としての「マリーの幻覚と夢」・「ドロッセルマイアーが語る堅い胡桃の物語」・「マリーが行った真実の世界」の非現実の世界対して、視覚的に差別化できるように、実写にからめてアニメ・人形劇・CG加工などの別媒体を駆使するとともにモノクロとカラーを使い分ける。マリーの夢の世界はリアルタッチのカラーアニメ、現実世界での彼女の幻覚の対象物にはCG技術を駆使し、特に厳格にモノクロとカラーを区別して使用する。音楽は、チャイコフスキーの全曲版から適宜抜粋して使用。
@シュタールバウム家の現実世界:モノクロ実写版、19世紀初頭の北ドイツの裕福な家庭。くるみ割り人形はモノクロで現実に存在する人形を使用するが、マリーの心が[クルミ割り]に動いたときだけ部分カラー、CGで細かな動作をさせる。本当の動物の鼠の出現(モノクロ)に驚いたマリーが飾棚のガラスに肘を打ちつけて気を失うまでモノクロ。
Aクリスマスツリーが大きくなる音楽に合わせて、徐々にアニメに移行。戦争場面からマリーがスリッパを投げ気を失うところまではカラーアニメ。
B母親が傷ついたマリーを見付け介抱する場面から現実世界:モノクロ実写版。
C『堅い胡桃のメルヘン』は、完全に切り離された別個の物語として、マリオネット(糸吊り人形)によるカラー実写。あるいは、文楽の手法を取り入れた高級な人形芝居のカラー実写で描かれる。ただし、途中挿入されるドロッセルマイアーが子供たちに語る部分はモノクロ実写。
Dシュタールバウム家の現実世界:モノクロ実写版、マリーが鼠の王さま(ぬいぐるみ実写)出現の夢を見る場面は鼠の王さまのみ部分CG、くるみ割り人形が登場する部分も[クルミ割り]が語る時だけ部分カラーCG。
Eマリーがフリッツから剣を貰いくるみ割り人形に与える場面はモノクロ実写。
F[クルミ割り]が鼠の王様をやっつけ、7つの王冠をマリーに捧げるところからカラーアニメ。以降、アニメの中で、マントの袖から抜けたところからの人形の国の旅でマリーは徐々に大人になる。
G子供のマリーが戻ってからのシュタールバウム家の現実はモノクロ実写。マリーが告白をする場面は、モノクロから徐々にカラー化する技術を使用。そのとき、くるみ割り人形は徐々に生身の王子に変身。
G母親がマリーを起こし、ドロッセルマイアーの甥登場からカラー実写。甥は王子と同一人物。これまでのシュタールバウム家のモノクロの映像そのままをカラーに変える。現実そのものをカラー化することによってホフマンの意図を明瞭化する。
H1年後の、出迎えや結婚式は全面カラー実写(城など構築物は模型。人形たちはCG駆使)。マリーと王子だけはCG使用不可。

なお、登場人物を日本人とする翻案の場合でも、この物語で特に必要な『現実性』を担保するために、時代や場所設定を充分吟味する必要がある。具体的には、明治中期の裕福で洋風に感化された家庭を想定して、セリフ、衣服、調度品等に細心の注意を払い、現代の観客がその時代のイメージを損なわないように配意すべきである。


【童謡《赤い靴》と《くるみ割り人形とねずみの王様》との同質性考
ー「青い目」と「異人さんの国」−

《赤い靴》
野口雨情 作詞:大正10年(1921年)
本居長世 作曲:大正11年(1922年)

1:赤い靴 はいてた 女の子
  異人さんに つれられて 行っちゃった

2:横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って
  異人さんに つれられて 行っちゃった

3:今では 青い目に なっちゃって
  異人さんの お国に いるんだろ

4:赤い靴 見るたび 考える
  異人さんに 逢うたび 考える


https://www.youtube.com/watch?v=2tS5GcKifBA&nohtml5=False+e


この歌詞の中で、私が奇妙に思ったのは『青い目になっちゃって』という一節である。異人さんの国(たぶんアメリカのことだろうが、歌ではわざと断定していない)へ行ったとしても、黒い目の日本人が青い目に変わることなんて有り得ないのではなかろうか?
なぜこんな歌詞がこの歌の中に紛れ込んでいるのだろう・・・と思って、野口雨情の他の童謡を見てみると、ちょうど同じ年に《青い目の人形》が作られている。

《青い目の人形》
野口雨情 作詞
本居長世 作曲
大正10年(1921年)『金の船』

青い目をしたお人形は
アメリカ生まれのセルロイド

日本の港へついたとき
いっぱいなみだをうかべてた
わたしは言葉がわからない
迷子になったらなんとしょう

やさしい日本の嬢(じょう)ちゃんよ
なかよくあそんでやっとくれ
なかよくあそんでやっとくれ


https://www.youtube.com/watch?v=pzgWLPvFQ9w&nohtml5=False+e

上に挙げた2つの作品はほぼ同時期に作られていることから、両者が共通して持つ「青い目」という言葉には関連があると考えるのは、そんなに不自然なことではないだろう。
これらの歌は、大正時代当時の、日本の国際化、西欧化の風潮にうまく合致していたので、広く国民に受け入れられたのであろう。
《青い目の人形》については、雨情の2才になる娘が、当時流行っていた米国製のセルロイドのキューピー人形で遊んでいるのを見て発想したのだと言われている。
《赤い靴》については、雨情は著書『童謡と童心藝術』の自作解説で次のように述べている。
「この童謡は表面から見ただけでは単に異人さんにつれられていつた子供といふにすぎませんが、赤い靴とか、青い目になつてしまつただろうとかいふことばのかげにはその女の児に対する惻隠の情がふくまれてゐることを見遁さぬようにしていただきたいのであります。」
「惻隠の情」とは、何を意味するのかというと、孟子の「性善説」に由来する言葉で「仁」にあたり、すなわち「いたましく同情する心」であり、ひらたく言えば「あわれみの心」、「愛の心」でもある。
この歌にどんな「いたましさ」が存在するのだろう? 
1人で異国へ行かされた少女が寂しくて「可哀そう」だということなのだろうか? 確かに、親から離れて「可哀そう」であるには違いない。しかし、少女は異国で、より幸せに暮らしているかもしれない。であるとすると、そんな意味からでは多くの人に「いたましさ」を感じさせることは難しいのではなかろうか? 別の理由があるに違いない。 雨情は、まさにそのこと、すなわち「異人さんにつれられていつた」ことが本当は何を意味するか考えてほしいと、この自作解説で訴えているのである。

さて、雨情の死(1945年)後、作詞者不在のまま大きな論争が持ち上がった。岡そのという北海道に住む女性が、とある新聞社に「母かよから、自分には未知の姉がいて《赤い靴》で歌われている少女こそがその人であると聞かされている。今彼女がどのように暮らしているか調べてほしい。」との依頼の投書をしたことが発端となった。そこで、いろいろ調査をしてみると、この投書が嘘ではないことが分って、詳細な調査結果がテレビで公表され、大きな話題となった。ただ、テレビ番組ではよくあるように、想像や粉飾が紛れ込み虚実がごちゃごちゃに放送されたので、その後大論争となってしまったのである。ただ、この論争は歌詞を吟味せず、母かよの身辺に集中しており、ある意味で全く的外れのように思える。なぜなら、歌を作ったのは、あくまでも雨情であって、かよの話が本当だとしても、単に歌の素材を提供したに過ぎないからである。とはいえ、まずはかよにまつわる話の事実の部分の骨子だけをかいつまんで述べておこう。

現在の静岡市に住んでいた母岩崎かよは、18歳で1902年(明治35年)7月15日にきみという私生児を生んだ。このきみが《赤い靴》の女の子である。かよの義父(かよの母の再婚者)佐野安吉は、戸籍上私生児であった岩崎きみと養子縁組をしたうえで、すなわち佐野きみとして、2歳のきみを東京・麻布の鳥居坂教会の孤児院へ預けた。そこできみは、1911年(明治44年)9月15日に結核性腹膜炎によって9歳で死亡した。一方、きみと別れた岩崎かよは北海道へ移住し、後に新聞記者となる鈴木志郎と結婚して、岡そのや他の子を生んだ。雨情と鈴木は北海道のある新聞社で一時同僚だったことがある。
かよは昭和23年(1948年)心臓弁膜症で66歳で亡くなった。岡そのは、その時のことを次のように回想している:
『母は亡くなる前に、2,3日前でしたけれど、私が枕元に付いておりましたら、ぽっかりと覚めまして「いま国(静岡)に行ってきたんだよ」って、「山を登ったり、谷を渡ったり、とっても怖かったの」と言って頭が汗でぐっしょりでした。そして「国の人に会ってきたよ。きみちゃんにも会ってきたよ」って、私をびっくりさせています。それから二日後でしたか、夕方亡くなりました。』
涙を誘う話ではなかろうか。このことから、かよはきみのことを常に心にかけていたことと、かよときみの接点は、東京にはなく、もちろん北海道にもなく、静岡にしかなかったことが分る。

先に述べたように雨情は、この歌には「惻隠の情」が隠れていると説明している。それは何を意味するのか? キーワードは2つ、「青い目」と「異人さん」である。 
まず、冒頭で示した近接して作られた2つの歌に着目してみよう。これらに共通する『青い目[A]をしたお人形[B]』([A]+[B])と『青い目[A]になっちゃった[C]』([A]+[C])という2つの段落を、因数分解のときのように共通因数でくくって整理すると[A]([B]+[C])、すなわち『([A]青い目)([B] お人形に+[C] なっちゃった)』となる。すなわち、『青い目』という共通項を使って、『女の子』は『人形になった』ということを雨情は言いたかったのだ。そして、それは『人形になった』=『少女の死』を意味するのである。雨情は1907年に自身の女児みどりをなくしている。死んだ女の子に対して強く共感を覚える素地はあったのだ。

次に、雨情はどうやって「異人さんにつれられていつた」という一節を発想したのだろうか? この歌の骨子である「少女の死」と「異人さん」を結びつけるという突飛な発想については、雨情の独創であるとの考えを否定することは出来ないとはいえ、なにか彼の詩作の心を触発する触媒があったと考える方が自然だろう。それが、岩崎かよの「あやふやな身の上話」であったとすると、2つは見事につながるのである。その「あやふやさ」とは、かよ自身が孤児院へ託した当事者でも、養女縁組の当事者でもなく、義父から聞かされたことしか知らないという点から生じたものである。

この『死んだ女の子が人形になって遠くの国で幸せに暮らしている』という発想は、《くるみ割り人形とねずみの王様》とまさに同じものであるといえよう。『異人さんの国』=『プッペンライヒ(人形の国)』であり、『異人さん』=『くるみ割り人形(ドロッセルマイアー)』なのである。ホフマンが才能の趣くまま長々と書きつらねた物語を、たった一言<青い目に なっちゃって>と言い切ったあたり、雨情は凄い詩人であると思う。

《赤い靴》作詞より、さらに一世紀前に書かれたこのホフマンの名作は、すでにフランス語訳もロシア語訳も存在していたので日本語訳もあっただろう。はたして雨情は、この物語を知っていたのだろうか? 
ちなみに、1922年(大正11年)9月14日〜17日に、世界的舞姫アンナ・パヴロワとその一行が来日し、チャイコフスキー作曲、イワン・フルースティン振付の舞踊劇《六つの花》として、バレエ《くるみ割り人形》の一部を帝劇(帝国劇場)で上演している。これが日本初演である。


さて、ここで、やすのぶ探偵の説を聞かねばなるまい。
【岩崎かよにとって一番の気がかりは、きみのことであったに違いない。かよはきみが東京のどの孤児院に預けられたかを知らないからである。そのことをしつこく義父に問い詰めた結果、彼は面倒くさくなって「異人さんの養女にした」というような嘘をついたと想定してみよう。かよはそのことの真偽の確認を、直接夫の鈴木志郎に頼むことは憚られるので(私生児の存在を知られたくはない)、夫の同僚の新聞記者であった雨情に、それとなくアメリカで養子になっているという話を含めて捜索を頼んだのではなかろうか。雨情はこのことに興味を抱いて、帰京後いろいろ調べた結果、きみが既に死んでしまっていることを突き止めたのだろう。「いたましさ」を感じた彼は、『事実』をうやむやにして、《赤い靴》という歌に託し『真実』としてかよに答えた。ところが、義父のあやふやな証言や《赤い靴》の歌詞のようなあやふやなものではなく、かよは『事実』としてのきみのいくすえを知りたかったのだろう。親として当然である。したがって、この気がかりを娘のそのに託したのではないだろうか。そうでなければ、ラジオで聴いた歌詞に共感したくらいでは、かよは確信をもって娘のそのに《赤い靴》の少女がきみであるとは言えなかっただろう。かよにとって最も大切なことなのだから。

テレビ番組で繰り広げられた具体的な養女話は、逆に童謡《赤い靴》を基にして妄想を膨らませたものに過ぎない。うがった見方からは、せっかく取材したものを真相解明の過程として番組にできるだけ使いたいという制作サイドのバイアスがかかっていたと思われても仕方がない。歌の本質からすれば、それはどうでもよいことなのだ。番組としては、情報量が圧倒的に少ないとはいえ、作詞者サイドからこの問題を解きほぐしていくのが本筋だったのだろう。すなわち、調査者たちは、歌詞の『異人さん』の方にばかり目を向けたあげく、当時函館に在住していた宣教師を『異人さん』にでっち上げてアメリカにまで調査の手を広げたりといった見当違いのことはせず、歌詞の『青い目』の方にこそ目を向けるべきであったのだ。ただ、『青い目になっちゃって』という歌詞について、当時巷間に流布していた『外国へ行ったり、キリスト教に改宗したら青い目になってしまう』という俗説を雨情が取り入れたという説を唱える人がいるが、これは全く逆である。《赤い靴》が流行った結果、そのような俗説が生じたのである。さらに、『青い目』との色彩的対照としての『赤い靴』にすぎないものに対して、研究者たちの中には社会主義運動の挫折という風な見当はずれの見解に至る人たちもいたりした。】


実は、発表された4番は、もともとは<考える>ではなく<思い出す>となっており、また、削除された5番が存在した。

4:赤い靴 見るたび 思い出す
  異人さんに逢うたび 思い出す

5:生まれた 日本が 恋しくば
  青い海眺めて ゐるんだらう
  異人さんに たのんで 帰って来(こ)

5番は、「オチ」のような意味合いがあるのかも知れないが、重複感による一種のダルさを感じさせる。とにかく、3番の<異人さんの お国に いるんだろ>と<青い海眺めて ゐるんだらう>は、同じ『いるんだろう』の綴りが違っているので推敲する前の早い段階に放棄されたものと思われる。
4番については、<思い出す>の方が余韻があって良いように思うのだが、何故書き変えたのだろう。<考える>に変えた結果、思想的な解釈を許すようなことになってしまったようにも思える。
これらの変更は、私見だが、雨情のかよに対する配慮からなされたものではないだろうか。
5番については、<帰って来>というような『未練』を思わせる歌詞は、『死』を前提としたこの歌全体の内容から見て不適切であり、かえって、かよを苦しめることになると思えるし、<思い出す>では、かよと雨情(当事者と作者)が同じ目線で語っているように見えてしまうので、はっきりと作者目線で作られた歌であることを<考える>で示したのだろう。少なくとも当事者であるかよは『考えたりはしない』からである。これは、ホフマンが採った読者を巻き込む話法と軌を一にする手法であると思われる。言いかえると<思い出す>とは『事実』が前提であり、<考える>は事実とは異なる『真実』を意味しているとも言えるのではないだろうか。

《赤い靴》や《くるみ割り人形と鼠の王様》のテーマ、すなわち、『現実の死』を『真実の幸福』にシフトするという話の主題の性格からして、直接語りかけられる話の中では『現実』そのものは極力描かれない。このことが、話の本質を理解することを難しくしているのは否めないだろう。読者や歌の聴き手は、物語や歌詞から僅かにほのめかされたことを敏感に嗅ぎ取ることによってこそ、これらの作品の価値を正当に評価することが出来るのである。この『現実』と『真実』のすり替えという人間の精神作用は非常に重要で有効なものではあるが、使い方を誤るととんでもないことにもなってしまう。たとえば、『真実』をもって政治論争や裁判闘争をしたりすると、結局『事実』を掘り返すこととなり、かえって『真実』そのものを損なってしまいかねないのである。


2014・12・5
2014・12・25 修正
2016・3・24 改稿(付録追加)
2016・10・16 《赤い靴》について加筆
2017・6・23 【補足】を追加