シューベルト《未完成交響曲》強奪事件


(1)始めに

シューベルトと言えば《未完成》。近代音楽史の最大の謎の一つである【《未完成交響曲》はなぜ未完成のまま放置されたのか?】という大きな問題が存在します。この作品が発見されて以来、多くの学者やシューベルト愛好家がこの問題にチャレンジしてきたにもかかわらず、この問題は今なお謎のまま残されています。そしてもう一つ、これとは逆の現象とでも言えるような、一つの作品として完成されたとみえるにもかかわらず、いくつかのバラバラの作品として現存している不思議な作品群、すなわち1828年彼の最後の年に続けて作曲された3曲の連弾作品があります。こちらの方は、作品のジャンルからして地味で、今まで全く問題とされてきませんでしたが、シューベルトの創作活動の根底に潜む秘密として共通の『何か』を感じさせるものがあります。今回やすのぶ探偵は、この2つの問題にメスを入れてみたいと思います。

シューベルトを語るについては、まず最初に、一般に蔓延している彼についての大きな誤解を解きほぐすことから始めなければなりません。 『彼は、チャランポランな風来坊のように住所を転々と変え、思いつくままに何にでも作曲した』、『彼の歌曲は素晴らしいが、器楽作品は冗長で緊密さを欠いたものでベートヴェンには遠く及ばない』、『彼は、生前は殆ど認められず、死後徐々に歌曲を中心に有名になっていった』等々。しかし、これらは彼のデヴュー以来死後もずっとつきまとっていた風評や根拠のない伝説に尾鰭を付けたものであって、私たちは彼の残した1000曲以上の作品や彼の言葉(手紙などに残されている)を直接検討することによって真実のシューベルト像を構築し直す必要があるのです。

まず最初に、はっきり認識しなければならないことは、シューベルトは非常に真面目で向上心の旺盛な人であったことです。そうでなくては短い31年の生涯に、いくら才能があったとしても1000曲もの作品を残すことは出来ないからです。また、彼は自己批判の非常に厳しい人でもありました。<私は、フルオーケストラのためには、世の中へ出しても良心に恥じないというほどの作品は、何一つ所有しておりませんので>(ボイテルあて、管弦楽曲(序曲)?演奏打診に対する断りの回答、日付不明)と手紙に記しているように、多分《第6交響曲》とそれ以前の交響曲は単なる習作と考えていたように思われます。したがって、現在も「第7」や「第8」や「第9」や「第10」などと番号付けが混乱してしまっている、例の『グレイト』《大きなハ長調》について、シューベルト自身はこれを、まさに世の中に出して恥ずかしくない最初の交響曲、すなわち《第一交響曲》と考えていたはずです。ちなみに、かつて紛失した交響曲と言われていた「グムンデン・ガシュタイン交響曲」も、この《大きなハ長調交響曲》のことであるというのが現在の定説となっています。なお、この《大きなハ長調交響曲》という言い方は、同じ調の交響曲《交響曲第6番小さなハ長調》と区別するために、わざわざ《大きな》とか《小さな》と言い分けているのですが、番号が混乱しているこの曲にあっては、作品を確定する拠り所として使わざるを得ないものであります。

シューベルトは、ハイドンやベートーヴェンと違って、貴族の庇護を受けず、ちょうどブラームスがそうであったように、自分の力で作曲家生活を続けることを本懐としていました。しかし時代が熟しておらず、彼は作曲を続ける環境を求めて転々と住所を変えざるを得なかったのです。また、彼は器楽曲を作曲することにたいへん苦労をしています。それは膨大な量のスケッチや未完成作品の山からも窺い知れることです。ベートーヴェンと比較して、彼の器楽作品が緊密さを欠くということはあたらないことです。ベートーヴェンとは作曲の様式が違うのであって、シューベルト流の形式観をベートーヴェンから類推することは誤りです。シューベルトの後期の器楽作品はどれをとっても緊張感に満ちあふれているとともに厳格な形式観を持つ作品群なのです。シューベルトが類稀な天才であるということは、彼を知ることができた範囲での当時の人々は皆認めていたのです。ただ、出版社の利益優先のやり方が彼の音楽を世の中に広める障害になったことは事実でありましょう。

シューベルトは、ベートーヴェンを非常に尊敬していました。ベートーヴェンのような作曲家になることが彼の夢であり、彼の目標であったのです(蛇足ですが、これはベートーヴェンと同じような作品を書くということではなく、ベートーヴェンが書いたものと同じジャンルで勝負をしたいと言う意味です)。そして彼は着々とそれを実現させていったのです。ベートーヴェンの《第1交響曲ハ長調》に倣って《第1交響曲ハ長調》(上述『グレイト』のこと)を完成し、もうほんの少し長生きしていれば、次は当然《第二交響曲ニ長調》を完成させることになったでしょう。実際これは、ほとんど着手したばかりのピアノスケッチの形(D.936A)として残されています【注1】。そしてさらには、ベートーヴェンの《七重奏曲》に倣って《八重奏曲》を作り、作品番号第1番の3曲の《ピアノトリオ》に倣って2曲の《ピアノトリオ》(変ロ長調、変ホ長調)を作ったのです。他にもベートーヴェンのように「弦楽四重奏曲」や「弦楽五重奏曲」を作曲し、さらには器楽作品の根本たる数多くの「ピアノソナタ」群を作曲していったのです。こういった器楽曲を1つの柱とし、あとオペラとミサ曲をもう1つの柱として、世の中に認められる作曲家となるように苦闘したのがシューベルトの生涯なのです。このことを、彼はショーバーあての手紙の中で<僕は、オペラ以来何一つ作曲していない。ミュラーのリートをいくつか作っただけだ。このミュラーのリート集は、四冊に分けて出版される予定だ。>(1823年11月30日)と端的に述べています。あの歌曲集《美しい水車小屋の娘》でさえ、彼にとっては作曲の範疇に入っていないのです。彼にとって作曲とはベートーヴェンが作ったようなものを作ることなのであって、膨大な量に上る素晴らしい歌曲作品群は彼にとっては第二義的なものに過ぎなかったのです。結局、シューベルトは2つの仕事を分けて考えており、歌曲、合唱曲、小規模器楽曲(舞曲や変奏曲など)を作り(make)、そして大規模器楽曲、オペラ、ミサを作曲(compose)すると言っているのです。このことは、シューベルトの別の2つの手紙の文言からも窺い知ることが出来ます【注2】。このように、ベートーヴェンと同じ土俵、すなわち狭い意味での『作曲』で、実績を積み重ね、成果を世に問うことが、彼の晩年(といっても30歳前後のことですが)の最大の目標であったわけです。
シューベルトの最後の望みは、よく知られているように『ベートーヴェンのそばに葬られること』でありました。彼の家族は、その願いがいかに大きく切実であったかを充分理解していたので、余計な出費を払ってまで、そのことを実現させたのです。

【注1】これはブライアン・ニューボールドによって補筆・再構成・オーケストレイションされ、ネヴィル・マリナー指揮、アカデミー室内管弦楽団の演奏で聴くことが出来ます(1982年11月17日、ロンドン)。<LP:18PC・5111〜17、CD:10036〜41、日本フォノグラム、1984>
この演奏では、この種の編曲ものによくあるメンデルスゾーンかシューマンの亜流のような雰囲気の中で、時々シューベルトのひらめきが感じられる程度のものを聴きとることが出来ます。しかし、こういったありふれた素材からシューベルトならどんなに素晴らしい交響曲を作ったであろうかと思いをはせることは出来るかと思います。この点において、この着手しかけの作品の完成版の存在意義があるのです。
【注2】@<リートの方では、あまり新しいものは作らなかったが、その代わり、器楽の作品をたくさん試作してみたよ。ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロのための《四重奏曲》を2曲(《第13番「ロザムンデ」》と《第14番「死と乙女」》)、《八重奏曲》を1曲、それに《四重奏曲》をもう1曲(《第15番ト長調》)作ろうと思っている。こういう風にして、ともかく僕は、大きな《交響曲》への道を切り拓いていこうと思っている。ーーヴィーンの一番新しいニュースは、ベートーヴェンがコンサートを開いて、彼の新しい《交響曲》、新しい《ミサ曲》から3曲、それに新しい《序曲》を1曲披露するという事実だ。ーーもし神の御心にかなえば、僕も来年には似たようなコンサートを開催しようかと考えている。>(1824年3月31日、クーペルウィザーあて)
これは、大規模な室内楽曲を作って力を蓄えたので、大交響曲を作り、それでベートーヴェンのようにコンサートを開催し、世の中に打って出ようという、シューベルトの構想を述べた一文です。残念ながら交響曲は作曲され、ヴィーンフィルの前身に提出されたけれでも、コンサートは開くことは出来ませんでした。最後の年にやっと室内楽でのコンサート(1828年3月26日)が実現したということで、シューベルトにとって交響曲のコンサートを開くにはまだ数年の時間が必要だったのです。注意すべきことは、ここでは《未完成交響曲》については一言も述べられていないことです。この口振りでは、これまでの交響曲作品は全く意に介していないように思えます。
Aドイツの出版社に、出版に供してもよいと考えた自作(室内楽曲、ピアノ曲、歌曲、合唱曲)の一覧表を書いた後に<これが私の完成した作曲の一覧表ですが、このほかにまだ3曲のオペラ(たくさんあって確定できない)、1曲のミサ曲(《第六番変ホ長調》)、1曲の交響曲(《大ハ長調交響曲》)があります。これらの最後の作曲群に言及したのは、貴殿に私が芸術における最高のジャンルを目指す努力の一端を知っていただきたい、という気持ちだけで、他意はありません。>(1828年2月21日、出版社「B・ショットと息子達」あて)
シューベルトが、他意はないと言いながら一覧表の後にわざわざこれらのジャンルを書き加えたのは、一つには、安っぽく見られたくないという気持ちと、もう一つには、あわよくばこれらの作品にも出版の打診があればと願ってのことでしょう。ここで注意すべきことは、シューベルトがどのジャンルに全精力をつぎ込もうとしたかということです。


(2)《未完成交響曲》の謎

シューベルトには未完成作品が沢山あります。それらは、ベートーヴェンに近づこうとした彼の苦闘の跡を物語っているとともに、彼の自己批判精神の大きさをも示しているのです。したがって現在の私たちが、例えば、《弦楽四重奏曲「ハ短調断章」》や《ピアノソナタ「レリーク」》などについて、なぜこのような素晴らしい作品を中途で放り投げているのか疑問に思うことがありますが、シューベルトにとっては、これらはスケッチ程度のものだったのでしょう。すなわち、完成を目指して作られたものではなく、試作として将来のためのストックとして作曲してみたものかも知れません。多くの未完成作品としてリストアップされているものはこういった類のものでしょう。ただ、《ホ長調交響曲》のように作曲方法を失敗して放置したものもあります。しかし、ここで取り上げる《ロ短調の未完成交響曲》(以後《未完成交響曲》と略します)については、スケッチでも出来損ないで中断したものでもないと私は考えています。何故なら作品があまりに素晴らしすぎるからです。作品の出来についてはもちろん作曲家自身が一番よく知っているはずですから、この《未完成交響曲》を中断したのは他に、何か特別の訳があるのではないかと誰しも考えてみたくなります。他の未完成作品と違うもう1つ重要なことは、原稿が切り取られているという事実(次の項目で説明)です。これが重要な謎を解く鍵になるのではないかと私は推測しています。

《未完成交響曲》が未完成に終わった理由については、1865年12月17日にヴィーンのグローサー・レドゥーテンザールにおいてヴィーン楽友協会演奏会としてヨハン・ヘルベック指揮により初演されて以来、色々と取りざたされてきました。それらは「内的理由」と「外的理由」に大別することが出来ます。
「内的理由」
@2つの楽章でもうすでに完成している。新しく付け加えるものはないと、第3楽章作曲中にシューベルトは気付いた。
Aシューベルトは2つの楽章の高みに釣り合うべきもう2つの楽章の構想を創り出すことが出来なかった。
B三拍子が続いたので、これはまずいとシューベルトは思った。
C第3楽章の主題がベートーヴェンの《第2交響曲》のトリオの主題に酷似しているため、シューベルトは盗作したと思われたくなかった。また、この主題は先の2つの楽章の構想の続きとして作られたものであり、代わりのスケルツォ主題などあり得なかった。
「外的理由」
@作曲中どこかへしまい込んでしまい、シューベルトはその場所を忘れてしまったので、探しても出てこなかった。後日見つけだしたときには続きを書く意欲が失われてしまった。
A作曲中シューベルトは病気になった。回復後は全く音楽が違う風に見えて、続きを書く気が失せてしまった。
B伯爵令嬢カロリーネ・エスターハージーとの恋が破れ、恋が完成しなかったと同様、この曲も完成させなかった。
C《未完成》の2つの楽章が出来あがった頃、《さすらい人幻想曲》の作曲、出版について非常に有利な話が舞い込んで来たのでそちらにかまけているうちに、《未完成》の楽想がしぼんでしまい、続きを書く意欲が失せてしまった。
Dグラーツのシュタイエルマルク音楽協会へ献呈するため最初の2楽章をアンゼルム・ヒュッテンブレンナーに送ったが、その後シューベルトは続きを書くのを忘れてしまった。

こういった理由が今まで考えられてきましたが、私はそれらは全て真実ではないと思っています。次にその理由を述べていきましょう。
「内的理由」
@シューベルトの多楽章器楽作品はどれも完結した1つの世界を持っています。すなわちソナタ形式の第1楽章に始まり、2つの中間楽章を経てフィナーレの大団円に至る大規模な世界のことです。どんなに深刻な内容の作品であっても、最後には『めでたしめでたしチャンチャン』と終わるのです。これは誤解を避けるために付け加えるのですが、何も長調の和音連打で終わるということだけを意味するのではありません。作品が全てを言い尽くして終わったという独特の感覚を言っているのです。このことは、シューベルトの音楽の根源をなすものであるとともに、彼の美学でもあるのです。これには例外はありません。もしあったとしたら、それは何か特別の理由があってのことなのです。このことが、次の事件として取り上げる《ヘ短調幻想曲》に関する『バラバラ事件』の私の推理の1つの大きなよりどころともなっているのです。《未完成交響曲》についても、このような状態で完成しているなどとはシューベルトは決して考えたことはないでしょう。それは、彼の他の多くの完成した器楽作品と照らし合わせて見れば自明なことです。完成していると見ることは、後世の私たちが他の作曲家達が書いた様々な交響曲を知っていて、そこから類推して考えているだけであって、ないものを諦めるための1つの方便にすぎません。
A第3楽章のスケルツォのピアノスケッチを見れば、内容が先に行くに従ってどんどん薄く、陳腐になって行くように感じられますが、それはちょうど花がつぼみの状態であることを示しているのであって、そこからどんな美しい花が咲き出すかは誰にも分からないことなのです。まさに進行中の創作現場の、ある一瞬を垣間見るような感じがします。もっと分かりやすく例えれば、ある家を訪れたとき、たった今まで人が暮らしていたように、コーヒーカップからは湯気が立ち上り、ソファにはまだ人の温もりがあるのに人は誰もいないといったスリラー風の情景がぴったりの、生々しい感じで作曲が中断しているのです。しかし、シューベルトはまだずっと生きていたのです。何らかの原因で作曲を中断しなければ、やがては完成したに違いありません。
B3つの楽章全部が三拍子であることがそんなに良くないことでしょうか?第1楽章を三拍子で書き、アンダンテを三拍子で書き始めた時点で、そんなことはわかりきったことです。作曲をし始めた人ならいざ知らず、すでに何十曲も多楽章ソナタを作曲しているシューベルトにとって全体の構想もなく作曲していくなんて考えられないことです。もし私なら、さらにシューベルト得意のタランテラ風の速い八分の六拍子のフィナーレを書き、全曲を三拍子系で統一したでしょう。メンデルスゾーンも《イタリア交響曲》で八分の十二拍子の立派なサルタレロフィナーレを書いているのですから、《弦楽四重奏曲「死と乙女」》、《弦楽四重奏曲ト長調》、《ピアノソナタハ短調D958》のような素晴らしいタランテラフィナーレを書いたシューベルトにとって、三拍子を続けることはそんなに難しいことではなかったと思います。
C確かに、スケルツォ主題は、ベートーヴェンの《第2交響曲》のトリオとリズムは似ていますが、私たちが知っているのはたった20小節だけであり、それだけで評価をすることは避けるべきでしょう。この後シューベルトは独自の展開を行ない、全くベートーヴェンと異なった世界を見せてくれるはずですから。実際私は、スケルツォを9小節だけのものと20小節のものの両方を聴いたことがありますが、20小節のものほうが11小節増えただけでずいぶんイメージが膨らみ、同じ最初の部分でも全然違った印象を覚えたように記憶しています。シューベルトがスケルツォ全体を完成していたらピアノスケッチから受ける印象とは全く異なったものとなっていたことは明らかです。

「外的理由」
@先に長々と説明してきたように、これは「歌」ではないのです。これはシューベルトにとって大事な「交響曲」なのです。周到にピアノスケッチで準備し、スコア化していった作曲過程から分かるように、そのようなことはあり得ないことです。また万一、何日か何週間か行方不明になったとしても、そのことだけでシューベルトがやる気をなくすはずがありません。
A病気というような、ダメージがあった後はかえって、創作意欲が湧くものです。ベートーヴェンやブルックナーの例もあるように。シューベルトの場合も、病気を持っていたからこそ、作品に独特の深みや翳りが色濃く出ているように思われます。そうであれば、《未完成交響曲》のような、シューベルトの作品のなかでも別格の翳りを持った作品は、かえって回復後創作意欲が昂進するのではないでしょうか。
B映画でも有名になったこのことは、連弾作品との関連において述べられるべきことでしょう。したがって、次の「バラバラ事件」のほうで詳しく取り上げることにしましょう。ここでは、あまりロマンティックな言いようではありませんが、彼の生涯をかけた交響曲の作曲がそういった映画で描かれている様な根拠のない荒唐無稽な理由で中断されるはずがないとだけ言っておきましょう。彼の認識では、カロリーネは単なる普通の恋人ではなく『生きている星』(美しく輝いてはいるけど手の届く存在ではない)だったのです。したがって失恋などはあり得ようがないといえましょう。
C現代人の目でどう贔屓目に見ても、《未完成》は《さすらい人幻想曲》より数等優れている。当然作曲者はそのことを一番良く知っているはずだ。突然舞い込んだ条件の良い依頼作のようなもののために、本来続けている主要作の創作が影響を受けるはずはない。
Dこの作品の由来などについては、自筆稿を持っていたアンゼルム・ヒュッテンブレンナーとその兄弟にその間の事情を訊いてみる必要があります。いわば『第一発見者の証言』ですね。その彼らの言うところを要約すれば、上記「外的理由D」に示したものとなるのです。現在のところ、一般的には、彼らのこの言い分を認めた形で《未完成交響曲》の由来の説明がなされているのが現状です。というのも、この説明(すんなりと納得のいかない矛盾点の多い怪しげな説明ではあるのですが)に対し、これといって決定的な反証が浮かび上がって来ないからです。
したがって、これから少し詳しく、彼ら兄弟のことを述べてみたいのですが、その前に確認の意味で《未完成交響曲》の現在残されている資料状態について概略を述べておきましょう。


(3)《未完成交響曲》の資料状態

難事件の場合『捜査に行き詰まったら、現場へ行け』という鉄則があります。この事件なら差し詰め『資料状態を再検討せよ』ということになるでしょう。《未完成》には現在のところ2つの資料が知られています。
@ピアノスケッチ(第1楽章:再現部第2主題あたりから終わりまで<スコアの249小節から終わりまでに相当する>、第2楽章:全部、第3楽章:トリオの16小節目まで<終わりに行くに従って書き込みが薄くなっている>)ヴィーン楽友協会所蔵
Aスコア:1822年10月30日、ヴィーンと自署されている(第1楽章:全部、第2楽章:全部、第3楽章:20小節まで<第2ページ目にあたる10小節から20小節までは低弦が未処理のままであり、あとに空白のページが4ページ(8ページ?)続く>)ヴィーン楽友協会所蔵(第3楽章の第2ページからはヴィーン男声合唱団所蔵)<注:全データは下記参考資料Bによる>
Bシューベルト自筆の手紙類の中で、直接この曲に触れたものは一切残っていない。

ピアノスケッチとスコアは相当食い違っており、たとえば第1楽章の終止はスケッチでは柔らかいロ長調の響きで終わるのに対して、スコアでは大幅に増補されロ短調の力強い響きで終わるように変えられています。第1楽章のスケッチの大部分が失われているのは、シューベルトが不要と思って捨てたのか、楽友協会に移管されるまでに誤って紛失されたのか不明です。

スコアは2つの部分に分かれて保存されています。第1の部分は第1楽章・第2楽章全部と第2楽章の最後のページの裏に書かれている第3楽章の最初のページ(1〜9小節)を含むもので切り取られた跡があり、当初アンゼルム・ヒュッテンブレンナーが所有していたものです。第2の部分はクリスタ・ランドンがヴィーン男声合唱団で発見した資料を1969年に発表したもので、ヒュッテンブレンナーの資料の切り口と完全に一致する第3楽章の第2ページ目(10〜20小節)を含む数枚の五線紙です。このスケルツォの2ページ目以下についてランドンは次のように説明しています。『それは6葉綴じの第5葉の右半分であり、その切り口は、対応する左半葉の縁とぴったりと合って、1葉を形成する。残りの4半葉(4ページ?)は空白で、6葉綴じの残りを形作っている。』<注:下記参考資料BP144>。ここで疑問に思うことは『残りの4半葉(4ページ)』という記載です。裏に印刷のない五線紙ならこれでよいのですが、第2楽章の最後は裏に五線紙が印刷されているのですから『4半葉(8ページ)』とすべきでしょう(誤訳か?)。これが上記データの欄で?を付けた理由です。

スコアに記載されている、1822年10月30日という日付は、スコアが書き始められた日付であると推定されています(この作品は完成していないのですから、当然その様な結論となるでしょう)。したがって作曲(スケッチ)の開始はそれより少し前と考えられます。そして、シューベルトは速筆ですから、翌年1823年には作曲を中断したものと推測されます。

スコアが2つに切り取られているということは、非常に重要なことです。献呈するためのスコアを一旦切り取って、あとから残りの分を貼り付けて献呈するなんてことはあり得ないことです。もちろん、自筆譜を献呈してしまえば、あとで自分が演奏できないのですから、写譜を手元に置くか、美しく書かれた筆写譜を献呈するのが常識です。作品の出来をアンゼルムにチェックして貰うために事前に出来上がった分を送ったというのなら、そのことを言ってアンゼルムに渡したはずですから、スコアはシューベルトの手元に戻ったはずですし、戻らなければ請求したでしょう。

(4)ヒュッテンブレンナー兄弟

シューベルトに関わった人たちの中でヒュッテンブレンナーという姓の4兄弟がいます。彼らはオーストリア南部、シュタイエルマルク州の州都グラーツの近郊出身で、それぞれがヴィーンへ上京しシューベルトと交渉を持ちました。長兄がアンゼルム、その弟がヨーゼフ、アンドレアス、そして末弟がハインリッヒと言います。

アンゼルム(1794−1868)は、シューベルトと同じような志を持った作曲家でした。彼とシューベルトの関係は、いわば作曲家仲間であったのです。彼がヴィーンにいた当時は、二人は親密な関係でありました。しかし、《未完成交響曲》作曲の数年前には、彼はグラーツへ帰ってしまいました。シューベルトとの才能の差を身にしみて感じたからでしょう。その間のことは、シューベルトがアンゼルムに宛てた手紙の中で次のように的確に表現しています。<愛する友よ!君は悪い奴だ,これはほんとうのことだ!!!このままでいったら,君がヴィーンを再び見るまでに,四分の一世紀もたってしまう.・・・・もちろん君だってあのシーザーのように,グレッツ(グラーツのこと)でNo.1でいるほうが,ヴィーンでNo.2でいるよりましだということはできる.>(1819年5月19日)このように、ある意味でアンゼルムは失意の中で帰郷したように思われますが、二人の関係は、シューベルトの短い生涯の間中ずっと良好であったように推測されています。アンゼルムは帰郷後、地方作曲家として、当地のシュタイエルマルク音楽協会に関わっていました。

ヨーゼフ(1796−1882)は、下級官吏としてヴィーンにやってきました。シューベルトの才能については、兄から聞かされていたのでしょう。彼はシューベルトに近づき、彼の才能によって一旗あげようと考えたように思われます。一時(《未完成交響曲》作曲の頃を含む)ヨーゼフは、シューベルトと同居し、シューベルトのマネージャー的な役割を勤めたことがあります。しかし、1824年頃からは、シューベルトと全く没交渉になったようです。才能というものが全く金にならないということが身にしみたからでしょうか。二人の関係は同居までしていたにもかかわらず、アンゼルムとシューベルトのような君、僕、といった親密な関係ではなく、貴方、私といった事務的な関係であったと伝えられています。

末弟のハインリッヒ(1799−1830)は詩人志望でした。彼とシューベルトとは直接の交渉はなかったと伝えられています。ただ、シューベルトは、彼の作詞による歌曲を二三作りました。ヨーゼフはこの末弟に対して、シューベルトに作品を提供すれば、彼の才能によって有名になれると助言しています。

さて,ヨーゼフは兄の作品を高く評価していました。しかし,アンゼルムの作品はシューベルトのようには有名にはならなかったのです。そこで,彼はアンゼルムの所にシューベルトの《未完成交響曲》の自筆スコアがあることを思い出し,これを餌に兄の作品を演奏させようと思いつき,ヨハン・ヘルベック(このヘルベックと言う人はブルックナーの協力者としても有名ですね)にそのことを提案したのです。当時(1860年頃)はシューベルトの未発見の作品の捜索熱が高まっており,ヘルベックはその誘いにのって(餌に食いつき),グラーツ近郊に住んでいたアンゼルムを訪れたのです。そして,アンゼルムの作品を演奏するという約束をしたうえで、まんまと《未完成交響曲》のスコアをアンゼルムからせしめ,上記の初演にこぎ着けたというわけです。したがって《未完成交響曲》の初演では,アンゼルムの作品も演奏されています。

ところが、この作品が初演されてみると、非常な評判を呼んだのです。現在でもそうですが、シューベルトの代表作と言ってもおかしくないほどに有名になってしまったのです。そうすると当然、このような重要な自筆稿を40年もの間死蔵していた理由の説明がヒュッテンブレンナー兄弟に求められますね。彼らはこう説明しました。<シュタイエルマルク音楽協会がシューベルトを名誉会員に選んだとき、彼は新しい交響曲の作曲を約束しました。そして、それが第2楽章まで完成したときに、ひとまずヨーゼフを通じて、当時その協会の指導的立場にあったアンゼルムに送られたのです。アンゼルムは続きが到着するのを待っていたのですが、いつまでたっても残りの楽章が来ないので、それは机の引き出しに入れられ、忘れたままになっていたのです。>と。
この話は全く根拠のないものではありません。シューベルトがシュタイエルマルク音楽協会に宛てた1823年7月20日付の同協会の名誉会員推挙に対する礼状には<・・・私の音楽に対する精進努力により、この表彰にいつかは完全に相応しい存在となれることを願っております。また、音によっても私の心からの感謝の気持ちを表したく、称讃すべき貴協会に対し、可及的速やかに私の交響曲の一つを、総譜によってお贈りしようと、不躾ながら思っております。・・・・>と述べています。多分、名誉会員として推薦したいという打診が事前に協会からシューベルトにあって、それを彼が受諾する感触を得たとき、交響曲を一曲書いて欲しいというような話も持ち上がっていたのでしょう。そしてシューベルトは献呈のための交響曲を作曲中に正式の通知があったので上記のような返答になったものと思われます。この<可及的速やかに>(なるべく速く)という表現には二つの解釈が存在します。一つは社交辞令的に<そのうちに>といった空虚な意味合い、もう一つは、そのために交響曲をいま作曲中で、出来上がれば直ぐにでも贈るつもりでいるという真摯な意味合いです。私は前後の文脈から考えて後者の意味合いであると考えます。なぜなら慇懃無礼な断りの意味で書かれたのであれば、まず相手の注文に対する謝礼の辞があるはずですから。たとえば<・・・私の音楽に対する精進努力により、この表彰にいつかは完全に相応しい存在となれることを願っております。また、貴協会が不肖の作曲家に対しご提案頂いた件につきましては深く感謝致しますとともに、可及的速やかに私の交響曲の一つを、総譜によってお贈りしようと、不躾ながら思っております。・・・・>というような文章になったでしょう。ここでは、そのような空疎な文章ではなく、非常な積極性が感じられるからです。
ここで述べられている交響曲が《未完成交響曲》を指すのかどうかは定かではありませんが、可能性は大だと思われます。というのも次の3つの日付がぴったりはまっているように思えるからです。
「未完成」のスコアの制作開始日          1822年10月30日
協会への礼状の日付                 1823年 7月20日
アンゼルムが「未完成」の断片を受け取った日付 1823年 9月20日
したがって、彼らの話の発端は信用するに足るでしょう。ところがその後の経緯はどうも怪しい。
何故シューベルトは作曲の途中で、作りかけのスコアの断片を渡したのか?
何故アンゼルムやヨーゼフはシューベルトに続きを早く書くよう尻を叩かなかったのか?
何故シューベルトは、せっかく公式に約束しておきながら、完成出来なかった交響曲に代わって別の交響曲(例の《大きなハ長調交響曲》)を献呈しなかったのか?あるいは断りの手紙を出さなかったのか?
長く待っても残りが来ないのなら、何故アンゼルムは断片だけでも協会に渡さなかったのか?少なくともシューベルトの死後には、もう続きは来ないのだから。
と、次々と疑問が起こってくるのです。これらに対してヒュッテンブレンナー兄弟は有効な説明をしていません。また、ヨーゼフは最後の疑問に対して、前の説明を補足・修正しました。<シューベルトはアンゼルムとの親密な交際の証として、まず彼をとおして断片の交響曲を送ったのだ>と。これは、個人で長く秘蔵してたという世間の非難に弁明するためでしょう。しかし、それならシュタイエルマルク音楽協会との約束はどうなるのでしょうか?
もし、シュタイエルマルク音楽協会とは関係なく、単にアンゼルムとの友情の証として不要になった自筆譜を贈ったのだというのであれば、最後のページを切り取る必要は全くなく、全てを与えてしまえばよいことだと思われます。すなわち、切り取られたということは、他の未完成作品のようにシューベルトはスケッチ程度のものとして気軽に作曲を中断したのではなく、その時点では彼自身が続きを書くつもりであったが何らかの事情で中断したか、あるいは中断を強要されたかのどちらかでしか、あり得ないと私は推測しています。

(5)グラーツ

結論を先延ばしにして、ちょっと脇道にそれることになりますが、シューベルトは死の前年、1827年の9月に2週間ほどグラーツ(シュタイエルマルク音楽協会の本拠地であり、アンゼルムが住んでいた町)を訪れていたことお話しましょう。シュタイエルマルク音楽協会の幹部のイェンガーという人の手引きにより、グラーツの音楽愛好家でシューベルトファンの弁護士カール・パハラー夫妻の招きで、シューベルトは生涯で初めてで最後のグラーツ訪問を行なっています。この時シューベルトは、パハラー家を中心に音楽を楽しんだり、当地の人たちと社交をしたり、劇場でオペラを観たりしています。しかし、4年前の約束については、この訪問によっても何ら変化した形跡が見られません。シュタイエルマルク音楽協会の人たちは、交響曲献呈の約束を単なる社交辞令と受け取っていたのでしょうか?または、それに触れたくない事情があったのでしょうか?少なくともアンゼルムにとっては、この曲のその後の進展が知りたかったはずです。しかし、交響曲については何事もなかったように、この訪問後も沈黙が保たれています。

それとは対照的に、楽しかったグラーツ訪問のお礼として(多分滞在中に約束したのでしょう)、シューベルトはパハラーの息子のために一つの簡単な短い連弾曲を作曲し、パハラー夫人に贈っています。(「子供のマーチ」ト長調、D928)。この曲は、夫カールの「命名式」の日の祝いに、パハラー夫人と息子のファウスト君(すごい名前、当時9歳くらい)が連弾で初演したと伝えられています。このような、義理堅いシューベルトが、シュタイエルマルク音楽協会という公的機関に対して、それも自ら申し出た約束を、何ら理由なく果たさなかったはずがありません。それは、少なくとも作曲に行き詰まったというような個人的な理由では全く納得できないということです。

不思議なことに、この訪問の4ヶ月後(1828年1月18日付)にシューベルトはアンゼルムに1通の手紙を送っています。この手紙の本旨は、ヴィーンでシューベルトが見たグラーツでの教師の募集広告について、彼の兄の一人カールのための就職斡旋の依頼状です。しかしそこからは、シューベルトはめったにアンゼルムには手紙を書かないこと(すなわち、少なくともこのグラーツ訪問後初めての手紙であることは確か)、それにも拘わらずシューベルトのグラーツ訪問のことに一切触れていないこと(彼はグラーツでアンゼルムに会わなかったのか?)、シューベルトはアンゼルムに対して変わらぬ友情を持っていること、そしてもちろん《未完成交響曲》についてもなんら言及がないこと、一方、当時グラーツで出版予定であった二,三の歌曲がなかなか出版されないことに対する苛立ちが書かれていること、などがみてとれます。この手紙の内容からは、協会に対する交響曲の贈呈の件など、シューベルトの頭の中には全くないことが窺えます。彼にとっては、この件はすでに遠い過去に終わったことのように思えます。不思議ですね。

(6)結論

それでは《未完成交響曲》は何故未完成に終わったのか?そこには、私たちが知ることの出来ない何か別の原因があったように思えてなりません。そしてそれは、新しい決定的資料が出現する以外には、もう推測するしかないのです。それを推測するにあたって、まずその条件を列挙しておきましょう。
@残された人たち(特にヨーゼフ・ヒュッテンブレンナー)にとって、あまり触れて貰いたくない事件、あるいは不名誉な出来事であったこと。
Aシューベルトが献呈の約束を反故にしてしまうほどの、気分を害する出来事であったこと。
Bアンゼルムには直接関係のない出来事であったこと。
C作品の出来不出来に関することではないこと。
D自筆稿を切り取るという異常な行為を上手く説明するものであること。

これらの条件をクリアーするとともに、当時シューベルトは、彼の作品の出版社を変更するという行為に出ていることが重要な鍵になると思われます。彼は1823年2月28日付のカッピ・アンド・ディアベリ社に対する手紙で不当に安い値段で版権を取り上げ、おまけに負債まであるとしたことに対して、怒りとともに出版社を変更することを通告しているのです。そして出版社に預けてあった自筆草稿の返還を求めているのです。その受け取りメモがヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーの名で残されています。

ヨーゼフは、当時シューベルトの秘書あるいはマネージャー的な役割をしていました。もちろん彼に野心があったからシューベルトに献身的に尽くしたわけで、今日でもタレントと事務所のトラブルはよく芸能関係の話題に上りワイドショーネタになることが多いのですが、それと同じようなことがシューベルトとヨーゼフの間に起こったのではないでしょうか?そして、そのとばっちりで《未完成交響曲》が未完成に終わったのではないでしょうか?

ここで、私は、全く根拠のない、それでいて伝えられている事実関係とは抵触しない、一つの短い架空の物語を創作しました。これは1823年9月のある日のシューベルト(S)とヨーゼフ・ヒュッテンブレンナー(H)との間の会話から構成されています。皆さんはこの話をどう思われますか?

(S)今日、例の精算、100フロリン合わないようだったのでデイアベリに確かめたら、ヒュッテンブレンナーさんに渡したということなんだけど、あなた貰ってますよねえ?
(H)ばれたらしょうがない。ああ貰いましたよ。
(S)そのお金どうしたんですか?
(H)もう使ってしまいましたよ。
(S)勝手に使っちゃダメじゃないですか。あのお金は借金の返済に予定していたのに。
(H)そんなこと言ったって、こっちだっていっぱい借金しているんだから。先生の仕事を手伝ってもう3年になるけど、一回だって給料貰ったことないし、あちこちの歌手や演奏家に先生の作品を演奏して貰うために身銭を切って接待やらなにやら切り回してきたんですよ。
(S)そんな勝手なことをしちゃダメじゃないですか、そのために何人の友達に頭を下げて回ったことか。それに、先日のあの歌手はなんですか。あんなひどい歌手に私の歌を歌わせるなんて、私の評判が落ちるばかりじゃないか。もうあなたとは一緒にやれない。出ていってくれ。
(H)それは、こっちからも願いたいところですよ。いくら苦労してもちっとも金にならない。こっちからやめさせて貰いますよ。ところで僕の使ったお金半分でも退職金代わりに下さいよ。
200フロリンと言いたいところだが、100フロリンでよいから。
(S)そんな金あるわけないでしょう。
(H)それじゃ、この作りかけの交響曲預かっておきましょう。
ーーヨーゼフはハサミで出来上がった部分を切り取る。
(H)完成したら100フロリン持っていらっしゃい。そしたら返してあげるから。じゃ、もう2度と来ないからね。
ーーヨーゼフは出ていく。
(S)チクショー、せっかく上手く書けている交響曲なのに。でも、あんなやつに100フロリンもやれるものか。もうこの曲の作曲はやめた。
ーー帰り道でヨーゼフの独り言
(H)せっかく取り上げた担保だけど、当分完成しないだろうなあ。ひとまず兄貴の所へ預けておくか。それにしてもこの3年間は何だったのだろう。胸くそ悪い思いをしただけだったなあ。彼は才能があるのにちっともそれを生かそうとしない。あれでは大成しないよ。


(7)作品の分析

第1楽章は、一見均整のとれたソナタ形式に見えますが、その実この後のロマン派大作曲家のソナタ形式構築に対して非常に大きな影響を与えるものをはらんでいます。それは、冒頭低弦に出る主題の役割から発生しています。第1楽章の分析は、別の場所で取り上げたいと思います。

第2楽章は展開部のないソナタ形式と見られることが多いのですが、これも問題です。というのは不完全なソナタ形式であると見ることが誤りであるだけではなく、そのことを基にしてシューベルトのソナタ形式はちっとも展開されず、また有機的でもないといった批判の材料に使われていることに、より大きな問題が潜んでいるのです。シューベルトがソナタ形式として作曲していないものを勝手にソナタ形式と解釈して、その欠陥をあげつらうなど、まったくもって片腹痛いものであると言えましょう。

それでは、この楽章はどんな形式を持っているのか?それはブルックナーの五部形式<ABABA>の源となった四部形式<ABAB>によるのです。この四部形式というのは、対立する2つの部分の交替によって成り立ち、そこに形式上の均整と変化を見いだすものなのです。

最初コントラバスの音階下降に乗ってホルンとファゴットが上昇音階形(ドレミ)を奏します。この形はこの楽章の狂言回し的な役割を果たすモットーですが、第1楽章の冒頭の低弦主題の始まり(ラシド)との関連が見られることは、ほとんど全ての解説書に書かれていることですね。これによって、この低弦主題は全曲の基本楽想としての役割を担っていると説明されています。ホ長調の主部<A>は3つの部分(aa’a)から出来ています。最初の(a)の部分はホ長調でメロディーが2回歌われたあと、シューベルト風に突然3度上のト長調へ転調し、最後はホ長調へ戻るようになっています。この単純で天才的な2回の転調だけで、もうすでにシューベルトの世界にどっぷりと浸かることが出来ます。(a’)の部分は、メロディー自体は(a)の変形のようなものですが、弦全体の楔形付き8分音符による力強い歩みが全く違う雰囲気を醸し出しています。そして何事もなかったかのようにフルートで最初のメロディーが帰ってきます。最後はモットーが2回続けて奏されヴァイオリンだけの絶妙なモノローグが<B>を導きます。

シンコペーションのリズムに乗った<B>主題は、どんな楽器の教則本にもある単純な分散三度の音階練習用の音形(ラドシレドミレファ)から出来ています。そしてこの主題が楽器を変えて5回繰り返されるだけで出来ています。しかしそれが出る度の色合いの変化というのはまるで魔法のようですらあります。最後のカノン風の変奏など第1楽章の提示部最後の第2主題のカノン風処理と似て、懐かしさに満ちあふれた感じがしますよね。そして低弦のハ音から嬰ハ音を経ての3度転調によって<A>に戻るのですが、この間の幻想的な響きの陶酔はホルンのロマンティックな呼びかけが加わり全く素晴らしいものがあります。

これまでの全部がほぼ同じくもう一度繰り返されます<AB・AB>。ただ2回目は<B>は1回目の嬰ハ短調主体からその3度下のイ短調主体に変えられています。そして大きく盛り上がり<A>の結尾句がちらっと現れて、コーダに入ります。

コーダではモットーが(ドレミファソミド=ドレミファソーファレミーレシド)と完全なメロディーとなって現れます。その後彷徨うような転調を経て何事もなかったようにホ長調に沈みこんでいきます。

この楽章は、非常にコンパクトにまとめられた絶妙の楽章であると私は感じています。最後に一覧表を示しておきましょう。

《未完成交響曲》の第2楽章の分析表

大区分 小節数 細区分 小節数 内容 小節
63小節 17 モットーと弦によるA主題の提示、ホ長調   1
15 ト長調によるモットーとA主題、ホ長調の結尾句  18
a’ 12 A主題の変形と弦楽ユニゾン、ホ長調  33
19 木管によるA主題、結尾句とモットーによる終止、ホ長調
ヴァイオリンの転調句
 45
78小節 b1 20 クラリネットによるB主題のモノローグ、嬰ハ短調  64
b2 12 オーボエによるB主題、嬰ハ長調(変ニ長調)  84
b3 低音楽器によるB主題、嬰ハ短調  96
b4 低音楽器によるB主題と中音の細かい動き、嬰ハ短調 103
b5 19 ヴァイオリンとバスのB主題の変形によるカノン、
(ニ長調からト長調そしてハ長調へ)
111
推移 12 ハ長調からホ長調への推移(モットーの結尾句) 130
63小節 17 モットーと弦によるA主題の提示、ホ長調 142
15 ト長調によるモットーとA主題、ホ長調の結尾句 159
a’ 12 A主題の変形と弦楽ユニゾンホ長調 174
19 木管によるA主題、結尾句とモットーによる終止、イ長調
ヴァイオリンの転調句
186
63小節 b1 20 オーボエによるB主題のモノローグ、イ短調 205
b2 12 クラリネットによるB主題、イ長調 225
b3 高音楽器によるB主題、イ短調 237
b4 13 高音楽器によるB主題と中音の細かい動き、イ短調 244
推移 11 A主題の結尾句による終止、ホ長調 257
Cada 45小節 12 モットー主題の完成、ホ長調 268
16 ヴァイオリンの転調句とA主題、変イ長調 280
17 A主題と楽章結尾、ホ長調 296

(8)余録

私が、クラシックのまだなじみの薄かった中学時代に、この《未完成交響曲》を聴いてクラシック音楽に対して不審をを持ったものです。というのは当時、交響曲というものが普通4楽章あって華やかに終わるものだなどという知識はなかったので、この曲を聴いて「どこが未完成なのか?全くそれらしい徴候もないではないか?」と思ったからです。
コンサートで、ある一つの音楽が完全に終わる必要があるのか。中途半端なままで終わって何故悪いのか。それ以来私はずっとこの疑問を持ち続けています。ブルックナーやマーラーの未完成交響曲は、完成した暁には現存する形とは相当違ったものになったであろうことは想像に難くなく、完成楽章だけを演奏する意義は分かるのですが、シューベルトの《未完成交響曲》のスケルツォは、多分完成しても現在存在する20小節はそのまま使われたと思われ、それを演奏しないということは、この作品の一部を欠落したまま聴衆に供していると考えることも出来るのではないでしょうか。
私は、このスケルツォ付きの演奏が、最後のページのバスパートの問題はあるにしても、特別のイヴェントの時だけでなく、一般のコンサートでも普通に行なわれることを期待して、本稿を置きたいと思います。

参考文献

本稿作成にあたっては、下記の著作を参考とさせていただきました。特に實吉晴夫氏の『シューベルトの手紙』には負うところが非常に大です。作曲家の生の声を直接知ることがいかに大切なことであるかを痛感しております。
#@『シューベルトの手紙』(国際フランツ・シューベルト協会刊行シリーズ2「ドキュメント・シューベルトの生涯より) オットー・エーリヒ・ドイチェ著、實吉晴夫編訳 メタモル出版
#A『シューベルトー音楽的肖像ー』 アルフレート・アインシュタイン著、浅井真男訳 白水社 
#B『シューベルトの交響曲ロ短調、未完成』ノートン・クリティカル・スコア・シリーズ、 マーティン・チューシッド編、谷村晃訳  東海大学出版会


(完)

補遺

最近、《未完成》に関する1冊の本を入手した:
中川右介著、《未完成 大作曲家たちの「謎」を読み解く》(帯に『音楽史ミステリー 芸術作品における完成とは何か』と書かれている)角川SSC新書、角川マガジンズ刊、 ¥840
この本では、6人の作曲家の6つの未完成作品が取り上げられているが、その最初に来るのが、シューベルトの《未完成交響曲》である。
著者の職業は、音楽雑誌の編集局長であり、編集者の立場から《未完成》の『謎』に興味深く切り込んでいる。
私が、シューベルトの《未完成交響曲》について書いてから、もう15年になる。そこで、中川氏の著作をきっかけに、これに突っ込みを入れながら、もう一度《未完成交響曲》の『謎』ついて考えてみたい。

中川氏は、《未完成交響曲》の『謎』について、15ページに<おそらく永遠に答えは出ない。>と述べている。もちろんこれは、将来決定的な証拠が発見されない限り正しいだろう。しかし、続いて<未完の理由はシューベルトだけしか知らない。>というのは、たぶん正しいとは言えない。もう一方の当事者であるヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーも、その理由を知っていたはずだからである。兄のアンゼルム・ヒュッテンブレンナーも真相を聞かされていたかもしれない。

研究者の書物は、当然のことながら次の2点の傾向が強い。まず第一に、厳格な証拠主義であること。すなわち文書的な記録の無いもの、たとえば状況証拠などは往々にして切り捨てられがちである。そして第二に、全ては善意に基づいて理解、解釈されること。《未完成》問題のように一種の悪意が介在する可能性を否定出来ないケースでは、切り込みが鈍る傾向がある。そのため、外的要因や内的要因と称して、あること、ないことが議論されたあげく、結局のところ堂々巡りを繰り返すことになってしまうのである。私の文章でも、慣例に従って一応この外的要因や内的要因についてひとくさり述べているが、中川氏も同様の思考経路を辿っている。作品の周辺状況を知る上では、これらを考察することはまんざら無益なことでも無いが、問題を「未完成になった真相を探る」という一点にしぼれば、これらはあまり意味のある考察であるとは言い難い。答えは、ヒュッテンブレンナー兄弟の動向を分析することでしか得られないだろう。

まあ、いずれの方向から探るにしても、事件における「現場の正確な把握」と同様、『謎』を解決するためのマットウな思考の第一歩として「正確な資料状態の把握」は必須のことである。
中川氏は、このことにおいて2点、正確さを欠いた表現をしている。

@スケルツォのスケッチについての認識:34ページ7行目<第3楽章は16小節目まで>、35ページ9行目<ピアノ・スケッチも16小節目までしかない>
と、同じことを2回も繰り返している割には、それが実は『トリオの16小節目』であり『スケルツォ本体』は全部書き上がっていることを述べていない。これでは、読者に「スコアは20小節まであるのにスケッチはなぜ16小節までしかないのか?」という単純な疑問を抱かせてしまうのではないだろうか。

Aウィーン男声合唱団の資料に対する認識:同じ35ページ<その切り取られた第3楽章の10小節以降だが、これはさらに百年後の1969年に確認された。ウィーン男声合唱団が保管していた資料の中の数枚が、1865年に発見された総譜の切り口と一致したのである。そのことから、第3楽章の第2ページ以降と推定されている。しかし、それでも20小節までなので、とても全貌は分からない。>
これを読むと、重大な認識が欠落していることが分る。すなわち、20小節以降も五線紙があって、それらは「空白」であるということだ。
この認識のズレからは次のような誤解が生じている:
21ページ<ここでひとつの疑問が生じる。なるほど発見されたのは、第1楽章と第2楽章だけだったかもしれないが、実際には第4楽章まで書いていて、後半の2つの楽章の楽譜が見つからないだけなのではないか。その可能性もゼロではないが、発見されてからさらに150年近くの歳月が流れ、後半の2つの楽章も書かれていたという証拠はついに見つかっていないので、定説通り、第2楽章までしか書かれなかったとするのが妥当のようだ。だが、後に述べるが、第3楽章もまったく手付かずだったわけではない。>
先に引用したように、著者は1969年のクリスタ・ランドンの発見について、一応知っていたにもかかわらず、なぜこのような生ぬるい古い認識による書き方をしたのだろうか?
現代ならば、<その可能性・・・>以下は、次のように述べられるべきだろう:
しかし、その可能性はゼロである。最初に公表されてからさらに100年以上の歳月が流れた1969年、クリスタ・ランドンが続きを発見したからである。それには、スケルツォの続きが1ページだけ書かれ、その先には空白の五線紙が続いており、そこで作曲は完全にストップしていることが判明したのである。>
なぜ、このような誤認識が生じたのか。念のため著者が記している参考文献の一覧を見てみると、<
ノートン・クリティカル・スコア・シリーズ、マーティン・チューシッド編、谷村晃訳、東海大学出版会>が欠落しているではないか。著者は、ランドンの発見について、別の不十分な解説をした本から知ったのであろう。そのために、このような中途半端な理解に至ったのだろう。

私は、このノートン版を、古い英語版と改訂版である東海大学出版会版(和訳)でしか持っていない。英語版の方は、ランドンの論文の引用とスケルツォの10〜20小節のスコアが欠落した旧版である。改訂の目的は、ランドンの報告を含め、その他の楽譜資料研究の成果をスコアに取り入れたものとなっており、たくさんの論評自体はランドン以前の考察がそのまま残されているということだ。スコアの増補でお茶を濁すだけではなく、少なくとも編者のチューシッドは《未完成》の『謎』について、この新しい資料に基づいて再考察すべきであった。たとえば、切り取られたのはどの時点だったのか? ヨーゼフの手に渡る以前なのか以後なのか? 誰が切り取ったのか? 切り取った後、シューベルトは作曲を続ける意思があったのかなかったのか? 発見された場所が交響曲とはあまり関係がなさそうなヴィーン男声合唱団のアルヒーフであったのはなぜなのか? ヘルベックがヴィーン男声合唱団の合唱長をしていたことと関係があるのかないのか? などなど・・・
それほど、ランドン以前と以後の論評には様々な点で落差が生じなければならないということである。極言すれば、それ以前の様々な考察は一度ご破算にしてもよいくらいであると私は考えている。

そこで、本文で<?>を書いた個所についてもう一度取り上げてみよう。まず、【(3)《未完成交響曲》の資料状態】のうちのランドンの報告の部分の再掲から始めよう。残念ながら古い英語版では、この部分は欠けているので和訳との対照は出来なかった。

【『それは6葉綴じの第5葉の右半分であり、その切り口は、対応する左半葉の縁とぴったりと合って、1葉を形成する。残りの4半葉(4ページ?)は空白で、6葉綴じの残りを形作っている。』<注:下記参考資料BP144>。ここで疑問に思うことは『残りの4半葉(4ページ)』という記載です。裏に印刷のない五線紙ならこれでよいのですが、第2楽章の最後は裏に五線紙が印刷されているのですから『4半葉(8ページ)』とすべきでしょう(誤訳か?)。これが上記データの欄で?を付けた理由です。】

「葉」と訳されているのは、ドイツ語で「ボーゲン」(bogen)=4ページのことである。「半葉」というのは
、「フォリオ」(folio)=2ページのことである。第5葉については、和訳から、左半葉は第2楽章の最後のページとその裏の第3楽章の最初のページ(1〜9小節)であり、右半葉は第3楽章の2ページ目(10〜20小節)とその裏の何も記入の無い五線紙であることが分る。であるとすると、第1〜第4葉(16ページ)と第6葉(4ページ)とは一体何だろう? 二つ折りの紙は、新聞の様に全部を重ねてから半分に折る綴じ方と、1枚ごとに折って折られたものを重ねて綴じる方法の2種類がある。第5葉の右半分と左半分は、もともとは繋がっていたということから、このケースの綴じ方は後者なのだろう。とすると、第1〜第4葉は第2楽章の自筆譜であり、第6葉は空白の五線紙であるとすると辻褄が合う。そうであるとすると、ランドンが発見したのは、第5葉の右半葉と第6葉(2半葉)、すなわち6ページ分ということになる。本文で『4半葉(8ページ)』と想定したのは私の誤りであるとともに、訳文自体も『残りの4半葉(4ページ)は空白で』ではなく『残りの2半葉(4ページ)は空白で』と訂正すべきだろう。

そのほかに、中川氏の主張の中で《未完成》の『謎』に関係した部分について、いくつか突っ込みを入れてみよう。

29ページ12行目<交響曲という大曲を、どこからの依頼もなしに、つまりは発表のあてもなく書くとは思えないのだ。>
交響曲だからこそ、依頼などで書いたのではなく、書きたいから書いたのではなかろうか。その証拠に、次作《大きなハ長調交響曲》も依頼で書かれたものではない。それゆえ、演奏してもらうために苦労することとなるである。そのことは、51ページに<実際、45分前後となる《ザ・グレイト》ですら、ウィーン楽友協会からは断られているのだ。>と著者自身が述べている。それでは、なぜシューベルトは交響曲を書いたのか? それは金銭のためではない。それはひとえに『ベートーヴェンのような交響曲作曲家になりたい』、そして有名になりたい、という名誉欲以外の何物でもないのである。このことは、シューベルト以降の独墺の交響曲作曲家すべてに共通する思いである。
シューベルトからシュタイエルマルク音楽協会へ宛てた1823年7月20日付の現存する手紙の存在は【註:本文「(4)ヒュッテンブレンナー兄弟」に一部引用 】、作曲中の《ロ短調交響曲》について、ヨーゼフがグラーツでの演奏の可能性をシューベルトに吹き込んだ結果書かれたというのが、そもそもの真相ではなかろうか? 著者の作曲の動機に関する疑問:33ページ<いずれにしろ、《未完成交響曲》が、どのような理由と経緯で書き始められたかは、まったくわからないのである。>というのも、発想の根底に『交響曲作曲の依頼がないと作曲を始めない』という思い込みから生じたものであって、作曲を始める動機や経緯を詮索する必要など全くなく、必要なのは『作曲を中断した経緯』の方なのである。

34ページ1行目<この話が真実だとしても、ヒュッテンブレンナー兄弟はシューベルトから《未完成交響曲》を奪い取ったり騙し取ったのではないという、所有の正当性の主張でしかない。>
まったくその通りである。であるからして、それについての著者の見解を示してほしかった。というのは、ヨーゼフは何故正当性を主張しなければならなかったのかについての考察があってしかるべきだからである。<この話>とは、当初ヨーゼフは「《未完成交響曲》はシュタイエルマルク音楽協会に献呈されたものである」と説明していたのに、後になって「シュタイエルマルク音楽協会『とアンゼルム』に献呈されたものである」と言を翻したことである。それは「30年以上も何故死蔵していたのか?」という世間一般の疑問や非難に対する弁解以上の何物でもない。そして、この言い換えは『ヨーゼフは真実を隠している』と疑わせるに十分な発言なのである。ヨーゼフの弁明は限りなく真っ黒なのである。

34ページ最終行<切り取った人物としては、シューベルト、アンゼルム、あるいはヨーゼフの3人が考えられる。>
可能性だけで言えば、ヘルベックもそこに含まれるべきだろう。自筆譜を入手したヘルベックは、演奏や出版に邪魔になると考えて不要な部分を切り取ってしまった可能性を否定することは出来ないのである。それを確定するためには、同時に発見された他のシューベルトの草稿を含めて、どのような経緯でヴィーン男声合唱団に保管されるに至ったかを調査するしかない。ランドン自身は、報告の中で<ここに見られる未知のスコアの数ページは―今や本当の最後のページにあたるのだが―シューベルトが所有していて、彼の死後家族の手によって残されて来たものと思われる。>と、出所の確定は避けている。

《未完成》の『謎』に関しては、いくつかのツッコミからも分かるように、残念ながらこの本からは新しい情報や面白い見解は発見出来なかった。そういった点については、資料発掘の可能性を秘めた現地の学者たちの、過去の言説にとらわれない鋭い目による再調査に期待するほかはないだろう。一方、帯にも書かれてあるように「未完成作品が現在も演奏されるはなぜか?」ということについての本書の考察には教えられることが多い。著者が雑誌編集者であり、直接作品の受容に関して深く携わってきた経験が生かされているためだろう。未完のゆえに短く、LPレコードの片面収録に都合が良かった。未完という『謎』、すなわち、そのことが持つロマン性と神秘性によって聴衆の「聴いてみたい」という意欲がくすぐられること。そして、何より「未完成」であるにもかかわらず聴いてみて充分充足感があること。こういった受容に関する考察には教えられることが多かった。


2001.4.3
2010.1.23(改稿)
2016・5・16(加筆)

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