9.バレエ《くるみ割り人形》の作曲指示書とスコア

バレエ《くるみ割り人形》の原作や翻案については、まず【10.バレエ《くるみ割り人形》の原作とその変遷】をお読みください。

1.作曲指示書から台本へ
2.チャイコフスキーから見た作曲指示書と原作
3.作曲指示書とスコアの対照
《CASSE-NOISETTE=小さな木の実割り人形》・序曲
第1幕、第1場(No.1〜No.7)
第1幕、第2場(No.8〜No.9)
第2幕(No.10〜No.15、アポテオーズ)


【1.作曲指示書から台本へ

まず、バレエ上演までの原作・翻案と指示書・スコア・台本等の関係を簡単な概念図として示しておこう:

ホフマン → デュマ → フセヴォロジュスキー
原作      翻案     構想  
   ↓              ↓        
              プティパ第1次
ホフマン原作        作曲指示書
(ロシア語訳)          ↓  
                フセヴォロジュスキー          
   ↓      /      修正
                  ↓
チャイコフスキー  ←   プティパ第2次  →  長い台本 → 短い台本 → 初演振付 →  現代の演出
のスコア           作曲指示書 
      
【註】上の表は、右に行くにしたがって原作のテイストから離れ、舞台制作上の制約やダンス技法の展開の方に傾いていく状況を示している。




これは原作からバレエの上演までの流れを簡単に図示したものであるが、ホフマンの原作の趣旨は先に行くにしたがってどんどん薄められ遠のいていくのではなく、逆にプティパの指示書すら、部分的にはデュマの翻案よりも原作に戻っている点も見られるし、さらにチャイコフスキーの音楽は、作曲指示書に忠実であるとは言え、深い思索のもと作曲指示書と原作の融合が図られている。したがって、現代のバレエ演出において採用されている原作の意図からは程遠いさまざまなヴァリアントに比して、チャイコフスキーの音楽からはホフマンの原作の意図が十分汲み取れるのである。この音楽の、表面的な悲しさではない、心の奥深くに染み入るような哀しさと、舞台上で演じられる楽しさと幸福に満ちた情景の対比こそが、ホフマンがこの物語で描きたかったものである。プティパやチャイコフスキーはそれを、活字の上だけではなく、目で見、耳で聞くというバレエという表現形態によって何層倍にも膨らませて提示したからこそ、大きく人の心を打つのであろう


ところが、昨今制作されたバレエ、アニメ、実写版映画などは、バレエの初演版を発想の原点としているのだが、原作のテイストを保持していると言えるものは殆ど皆無なのだ。それだけ、初演版はバレエ自体が包有する制約があるにも拘らず、原作を上手く舞台作品に移し替えている。具体的に言えば、バレエは「言葉が無い」、「舞台装置によって場面が限定される」、「物語よりもダンスが優先する」といったことから原作が持つファンタジーに富んだ意味深い物語構造を的確にバレエの中で再現するという大変難しい課題を見事にクリアしているのである。ここでは作品の原点に立ち返り、ホフマンの原作を初演当時のバレエ制作者たちがいかに苦労をしてバレエとしての成功に結び付けたかを検討していくことによって、将来この作品をアニメや実写版映画として制作しようとする人たちには、今までに再構成されてきた《くるみ割り人形》の様々な作品から受けるイメージとは異なった、原作の意図に配意したうえでの《くるみ割り人形》像を構築していただきたいと願っている。

バレエ上演にあたって、制作者サイドでは作曲指示書と2つの台本の3種が作られた。バレエを2幕3場に脚色したのはマリウス・プティパであって、詳細な作曲指示書が彼からチャイコフスキーに送られた。その和訳は平林氏の【参考(C)】p104〜110(覚書と標記されている)、および小倉氏の【参考(A)】p211〜221(作曲注文書と標記されている)で読むことが出来る。一方、2種の台本のうち【註】、長い方は、第1幕第1場を8つの場面に、第2幕を4つの場面に分けて記述されている。この和訳は、小倉氏の【参考(A)】p203〜211、および森田氏の【参考(B)】p322〜329で読める。短い方には場面分けは無く、その和訳は、平林氏の【参考(C)】p110〜112で読める。これら三者は、ほぼ同じ筋書きであるが、細かい点ではいろいろと異なっており、違いは平林氏の上記関連注釈に詳述されている。一例を挙げると、作曲指示書では、主人公のマリーはクレールと名前が変えられ、年齢の指定もなくなった。さらにロシア語の台本では、このクレールがクララとなったのである。現代、このバレエの主役はクララであるとほぼ定着しているが、それは台本のロシア語訳に由来するというわけだ。もう一点、原作に登場するマリーの姉のルイーゼは、デュマの翻案では『家庭教師のトルーシェン』として役割が引き継がれたのだが、作曲指示書や短い方の台本ではこのトルーシェン役は存在しない。ただ、長い方の台本には、家庭教師ではなくて『姪のマリアンヌ』という登場人物を創出して、トルーシェンの役割を復活させている。自由の女神としても知られるフランス共和国の象徴であるマリアンヌの名の採用からは、プティパの一種の意地のようなものが感じられるということだ。

その他の目だった相違点としては、原作も翻案も、マリーがクリスマスツリーの飾り付けの中から『自分で』[クルミ割り]を発見するのに対して、指示書や台本では、くるみ割り人形はドロッセルマイアー老人の第三の(最後の)贈り物として彼のポケットから取り出される(Pour le consoler le vieux conceiller retire de sa poche un troisième cadeau: un casse-noisette.)。このバレエの演出の印象が強いせいか、くるみ割り人形はドロッセルマイアーのプレゼントのようなイメージがあるが、原作や翻案では[クルミ割り]は与えられたものではなく、たった7歳のマリー自身が見つけ出した[恋人]なのである。

また、作曲指示書には、2か所にクレールとクルミ割り王子のことを『フィアンセ』とする記述が見られる。特に2回目は《No.13:花のワルツ》の場面で「36人の女性舞踊手と36人の男性舞踊手が登場し、アンゼリカの大きな花束を持ってきて、フィアンセである2人に贈呈する。」と記されている。チャイコフスキーは、この場面のためにハープの大きなカデンツァを作曲したのだろう(ト書きは省略されているが)。前作《眠れる森の美女》の《薔薇のアダージョ》にも、踊りに入る前に大きなハープのカデンツァが書かれていて、そこでは王がオーロラに4人の候補者から結婚相手を選び王国を安泰にするように諭すマイムが演じられる。これと同様に《花のワルツ》でもハープの華麗なカデンツァには、クレールと王子の結婚を花で祝うマイムが想定されていることは明らかである。一方、初演の2つの台本では、どちらも『フィアンセ』とは明記されていない。クララとクルミ割り王子の役は第2幕でも子役が演じるので、結婚は不適切と判断され削除されたのだろう。そこでは、二人はお客様としてコンフィチュランブール(お菓子の町)の城で歓待されるだけである。

台本は2つ作られた。「長い台本」と「短い台本」である。「長い台本」は(B)《永遠の「白鳥の湖」》森田稔著、新書館、1999年(pp.322−329)に、「短い台本」は(C)《『胡桃割り人形』論ー至上のバレエー》平林正司著、三嶺書房、1999年(pp.110-112)に全文和訳が掲載されている。「長い台本」は1892年初演時に出版されたが、「短い台本」については平林氏によれば、1892−1893年に出版された練習用のピアノ楽譜に付けられた「台本」だということである。ただ、「長い台本」の方が先に書かれたことは、「台本」中に述べられた叙述の微妙な違いから推論がつく。例えば第2幕冒頭:長い台本<ドラジェの精とコクリューシ王子が、イルカたちで装飾された砂糖のあずまやのなかに立っている。>、短い台本<コクルーシュ(オルジャ)王子を伴ったドラジェの精が砂糖の四阿(パヴィオン)の中に立っている。>を比べて見ると明らかである。プティパは最初ドラジェの精だけしか念頭になかった(指示書ではコクリューシ王子の記載はない)。ところがパドドゥをドラジェの精が踊るように変更したため「台本」ではコクリューシ王子が必要となったのである。だから最初はドラジェの精→コクリューシ王子の順に記載した。しかし2回目はコクリューシ王子→ドラジェの精と記載したというわけである。



バレエの脚本に基づく演出上の最大の問題点は、最後の《アポテオーズ》の場面だろう。指示書と台本では次に示すように全く異なっている。

作曲指示書:
「アポテオーズ」。色とりどりの噴水、照明噴水などなど。16〜24小節の壮大なアンダンテ。
2つの台本:
「アポテオーズ」は、自分たちの富である蜂蜜を厳重に守る蜂たちが飛び交う、大きな蜂の巣を描き出している。

本来、原作や翻案に描かれている結末を意識すれば、ガラスのように透き通ったマジパン城やクリスマスの森、結婚したマリーとクルミ割り王子の人形の王国での即位の様子、あるいは抽象的な表現方法では、最近わが国でも多く見られる冬のイルミネーションのようなもの、神戸のルミナリエのようなものを描けば良いはずだが、指示書や台本はそういった情景を避けている。その最大の原因はマリーが子役だからだろう。

指示書の結末は、第2幕最初の無人の舞台装置だけが述べられていて、コンフィチュランブールの城をイメージしているのだろう。ただただ抽象的で、一種の逃げを打ったとの臭いがする。一方、台本の方では物語とは直接結びつかないような情景が描かれている。ここで突然現れる『蜂の巣』は原作にも翻案にも無いので、いささか不可解である。はたして何を意味するのだろうか?
平林氏は【参考(C)】p47で、<因みに、第二帝制期のフランスの、チュイルリー宮殿における夜会の舞踏会に、この場面と類似したものがあった。・・・蜜蜂と巣箱は、帝制の繁栄を象徴しているのであろう。>と述べ、豊穣性の1つの現れであるとしている。

そうであるにしても、これはマリアンヌの場合と同様、原作とも翻案とも関係なく、さらにはチャイコフスキーもあずかり知らぬものである。彼が《アポテオーズ》を作曲した時、『噴水』は考慮の範囲内にあったかもしれないが、『蜂の巣』など想像だにしなかっただろう。とにかく、この一種のフランスびいきは、恣意的に後付けられたものであり、ホフマンの原作の豊穣性とは無縁のものであると言えよう。
ところで、この蜂のイメージは、2001年、マリインスキー劇場で、シェミャーキンのダリ風の装置・衣装で制作されたシモノフ版に影響しているように思われる。

現代、数多く採用されている演出では、この《アポテオーズ》でクララが目覚める場面が描かれる。これは、爽やかな朝と楽しかった夢の反芻といったイメージだが、音楽が描いている情景には全くそぐわないものである。

【註】2つの台本の違いを一部分の抜粋によって具体的に比較してみよう:
(長い方)
<場面2>扉が開き、マリアンヌが子供たちを2人一組に並べて連れて来る。クリスマスツリーを見つけるや、子供たちは駈け寄り、その枝に吊るされた金銀のリンゴやクルミ、キャンディーなどの甘いお菓子といった、輝かしい光景に大喜びで見とれている。ジルバーハウスの子供たちは、両親に礼を言う。客たちは準備されたお祝いの催しに満足して、微笑みながら子供たちの歓ぶさまを見ている。ジルバーハウスが子供たちにプレゼントを分け与えると、彼らは有頂天になる。この家の主人の親戚の一人がピアノを弾き始め、子供たちは踊り始める。
(短い方)
部屋に入ることを許されたジルバーハウスの子供たちークララとフリッツ、そして他の小さなお客たちは、光り輝く光景に見惚れ、彼らのために準備された贈り物を受け取り、贈られたおもちゃを持って飛び跳ね、廻って踊る。


2.チャイコフスキーから見た作曲指示書と原作


チャイコフスキーは、プティパの作成した作曲指示書の通りにバレエ音楽《くるみ割り人形》を構成し作曲した。それは、スコアに書き込まれた数多くのト書きが指示書をそのまま引き写したものとなっていることからも否定し得ない事実である(【3.作曲指示書とスコアの対照】を参照)。しかし、音楽が完全に指示書の範囲内にとどまっているわけでは決してない。というのは、チャイコフスキーが《くるみ割り人形》の作曲依頼を受けるずいぶん以前から、彼はホフマンの小説《くるみ割り人形とねずみの王様》のロシア語訳を読んでいたと推測されるからである。このことは平林氏も認めており、【参考(C)】p16に、1882年に書かれたフォン・メック夫人への手紙の中に《くるみ割り人形とねずみの王様》を読んだことを匂わせる箇所があることを指摘している。より、具体的には、小倉氏が【参考(A)】p202に<彼はホフマンのこの童話を、1882年2月に知人の批評家セルゲイ・フロレスがロシア語に翻訳したもので読んでおり>と報告している。作曲依頼を受ける以前から、チャイコフスキーはこの物語に対する彼自身のイメージが固まっていたと推測されるのである。すなわち、彼自身のこと(母や妹や姪(妹の子)たちが彼に先立って死んでいったこと)とホフマンの物語が意味するものとの共通性を認識していたので、作曲依頼を受けた時、彼の音楽の中でそれらを結びつけようとしたということである。《くるみ割り人形》の音楽が死の影を宿しながら、ひたすら美しく楽しいものとなったのは、ホフマンの世界とチャイコフスキーの世界との見事な融合の結果であったと言えるのではなかろうか。指示書通りに作りながら、このことを成し遂げるには計り知れない苦労があったことは想像に難くない。

ではチャイコフスキーは作曲指示書に従いながら、どうやって独自の音楽を書き得たのか? 指示書には、物語の内容、ダンスの種類、長さ(小節数)、拍子、テンポ等がこと細かく指定されている。チャイコフスキーは、幾分多めの小節数で作曲したとは言え(もしダンスに不具合が生じるのなら該当部分をカットすればよいだけ)、決して指示書の枠組みから外れることは無かった。チャイコフスキーは指示書では簡単に触れられている部分に独自の楽想や音楽構成を駆使して深い意味を込めていったのだ。したがって、作曲された個別のナンバーにはチャイコフスキーがホフマンの原作から直接得た物語像が強く反映した部分があることは全く疑いがないところである。

チャイコフスキーの音楽の本来の個性は、《白鳥の湖》や《悲愴交響曲》に見られるような、深い慟哭やあけっぴろげの喜びを表現した感情の起伏の激しいものであると思えるのだが、《くるみ割り人形》では彼の音楽の別の面が現れているように思える。たとえて言えば『親友が出世をして外国へ赴任するときの別れ』のような、寂しさと喜ばしさがないまぜになったような感情である。それは音楽の随所に感じられるが、文章として抽出することは不可能であり、音楽を聴いて感受するしかないだろう。しかし、チャイコフスキーがプティパの作曲指示書には指定されていない特別のオーケストレイション上の工夫や自作の引用など目に見えるものは、そういった音楽から受ける感情を補完するという意味で取り上げることは可能である。詳しくは【3.作曲指示書とスコアの対照】の中で述べられるが、ここでは、それらのうち特に原作の意図するものを音として実現したと思える部分として《No.8.:道行の情景》、《No.9.:雪玉のワルツ》、《No.14.:パドドゥ》の3曲を指摘しておこう。これらは、原作への共感なくして作り得なかったナンバーである。声楽やチェレスタの導入は、物語上の必然性がないのなら、わざわざそういった面倒で特殊なパートを挿入するはずはないからである。
また、次項で述べられるが、チャイコフスキーがこの作品に与えた全体の調構造は、指示書からではなく、明らかにホフマンの原作に由来するものであると言えるのである。


《くるみ割り人形》の調構造の大枠

CD解説などの中でしばしば取り上げられる《くるみ割り人形》全曲の素晴らしく巧みな調構想について考えてみよう。第1幕に先立つ変ロ長調の《序曲》に始まり、、第1幕は様々な調を経てホ短調の《No.9.:雪玉のワルツ》に至り、これがホ長調に終わること。第2幕は、そのホ長調の《No.10.:コンフィチュランブールの宮殿の情景》に始まり、変ロ長調の《アポテオーズ》に終わること。すなわち、変ロ長調に始まり、様々な調を巡りながらその対角に当たるホ長調に至り、そこから元の変ロ長調に戻るという調的回帰性のことである。変ロ長調とホ長調、という奇妙な取り合わせは、もちろん偶然ではない。意図されたものなのである。

ピアノで演奏できる12の長調と12の短調からなる24の調は、1つの閉じられた世界として見ることが出来、それを『五度圏』という円形図式で表すことが出来るが、それはちょうど、色についての『色相環』あるいは『色環』にあてはまる。この『色環』の中でのいわゆる「補色関係」にあたるものが『五度圏』についても存在し、一番遠い、ちょうど正反対の調が『五度圏』の円の中心を通る線の反対側に存在するというわけである【註1】。それが変ロ長調の場合ホ長調なのであり、最も遠いところへ行って、そこから元に戻るという感覚を作り出している。普通の解説はここまでであって、それが何を意味するかについては議論されることはなかった。ここではさらに一歩進めて、チャイコフスキーはこういう仕組みを用いて何を表現したかったのかを解明してみよう。

交響曲のような作品の場合、ソナタ形式の調構造が基本となるが、バレエ音楽の場合、物語の中の対立関係を、前述の「調の補色関係」で表すことがある。チャイコフスキーは、この方法を先人のバレエ作曲家たちの作品、たとえばアダンの《ジゼル》などから学んだようだ。《白鳥の湖》では、ジークフリート王子の調であるロ短調・二長調とフクロウ・悪魔・ロートバルトの調であるへ短調・変イ長調はちょうど「調における補色関係」になっているし、第1幕の女王の登場と彼女の願いのハ長調(王子の結婚による王家の存続)と第2幕のグラン・パドドゥ(パダクシオン)の変ト長調(王家の存続を揺るがす愛)も同様の「調の補色関係」なので、この2つの関係(女王の願いと王子の思い)も真っ向から対立しているものとして表現されていることがスコアから読み取ることが出来るのである(実際に観客にそのような論理的な構造が理解できるかどうかは別として)。

ところが《くるみ割り人形》の場合には、物語にそのような対立関係は存在しない。そのため、チャイコフスキーは別の考えに基づき、この「調の補色関係」を利用して、観衆をも巻き込んだ巨大な劇空間を創り出そうとした。すなわち、ホフマンの原作《くるみ割り人形とねずみの王様》の中に厳然と存在する『三角鏡による万華鏡構造』を、調構造を利用することによって音楽で実現したのである。言いかえれば、ホフマンが物語の随所に挿入している読者への呼びかけ、すなわち読者を巻き込むという手法を、チャイコフスキーは調構造によって実現したのである。このバレエは、観衆から始まり、観衆の心の中で終わるということを調構造で示しているというわけである。そのため、このバレエを観た観衆は、観終わったあとも、いつまでも心の中でこのバレエを反芻・共有することが出来ることになる。

オペラやバレエとしては極めて奇妙なことではあるが、《序曲》と《アポテオーズ》における変ロ長調は、物語の中でホフマン自身が語りかける読者全体(バレエにおいては全観衆)を意味するのであって、決して物語の中のクレール(クララ)やジルバーハウス家を表現しているのではないということである。そして、変ロ長調の対極であるホ長調の《雪玉のワルツ》の終結部分や、幕を変えて続く《No.10:情景》=『コンフィチュランブールの宮殿』(お菓子の町の宮殿)は『クレールが行ってしまった世界』を意味するのである。決して、変ロ長調のクレールが、その対極の調であるホ長調へ『逝ってしまう』のではない。舞台上では、物語に隠された現実の死ではなく、真実の世界のみがホ長調で描かれるのであって、決して『逝ってしまった』ではなく『行ってしまった』となるわけである。ジルバーハウス家の情景は二長調に始まり、様々な調が採られるが、巧妙に変ロ長調は避けられている。そして、この物語は《パドドゥ》のコーダのニ長調で終結するのである。その間、《中国の踊り=お茶》だけが変ロ長調を採っているのは、単に変ホ長調の《スペインの踊り=チョコレート》から始まる特徴的なディヴェルティスマンの中での調的推移のための処置に過ぎない。したがって、我々は《No.15:最後のワルツ》が変ロ長調で現れたときに、ふと我に返り、《アポテオーズ》で『コンフィチュランブール宮殿』の主題がホ長調から変ロ長調でテンポも変えて再現されることによって、『クレールが行ってしまった真実の世界』(ホ長調)が観衆である我々(変ロ長調)と共にあることが実感されるというわけである。聴衆もダンサーも含めた劇場全体の人々の心の中に『クレールの思い出』が残されるという仕掛けなのである。

ここで突飛なようにも思えるが、聴衆を音楽の中に巻き込むという手法を取り入れた実例として、ヴァーグナーの《パルジファル》を思い出していただこう。『舞台神聖祝典劇』と題されたこの楽劇は、《くるみ割り人形》と同様、聴衆を巻き込んでの、聴衆とともに舞台で行なわれる一種の宗教的な儀式なのである。その第1幕の末尾では、3段に分かれた高所から『Durch Mitleid wissend, der reine Thor, Selig im Glauben!』(高みから) 『共に苦しみ、悟りを得る、 清らかな愚か者・・・』、(中ぐらいの高み)『信ずる者は幸いなるかな!』、(最も高い所から)『信ずる者は幸いなるかな!』と歌われる。『 der reine Thor』とは、何の偏見も持たない愚か者、pure fool すなわちParsifalのことであって、彼とともにある聴衆自身のことでもある。何か、小難しいことを言っているようにも取れるが、これは要するに舞台の物語と聴衆が一体となって「自分のこととして受け取ることによって幸せは得られる」と述べているのであって、《くるみ割り人形》でクレールを天国へ招く高所からのヴォカリーズも、まさにこのことを観衆に伝えているのである。そして、それは変ロ長調(観衆)とホ長調(幸い)という遠く離れた「調の補色関係」によって具現され、《最後のワルツ》によって両者は一体となるのである。要するに変ロ長調とホ長調という調の補色関係を用いて、聴衆に「惻隠の情」【註2】をもよおさせる様に仕組まれているというわけである。

もし「物語は全てクララの夢でした」というような結末を演出するのなら、《アポテオーズ》には《No.1:情景》あるいは《No.6:情景》のような音楽が使われるべきだっただろうし、そもそも幕が開いてからの第1幕の音楽も変ロ長調で始まるべきだっただろう。そうでないと、五度圏を適切に使ったことにはならない。実際のところ、チャイコフスキーの調構造、音楽構成は変えることが出来ないので、夢落ちと音楽との整合性をはかるには、たとえばヌレエフ版のように、《アポテオーズ》を使わず、パーティーの音楽に戻して終わらせる必要がある。そこでは、楽しいクリスマスの夕べの束の間の不思議な夢として描かれているのである。実際、現在一般に行われている「全てはクララの夢でした。ジャンジャン!」といった風な演出には、あのアポテオーズの音楽は意味深く壮大に過ぎるのである。そこには《白鳥の湖》のハッピーエンドの幕切れが不釣り合いであったと同様、音楽が意味するものとの大きな乖離がみられる。

そこで、疑問に思うのは、『宮殿』で踊った人形たちが全員でクレールと[クルミ割り王子]との結婚を祝う《No.15:フィナーレのワルツ》の調性である。なぜここで、すでに変ロ長調なのか? 先に「聴衆が我に返る」と述べたが、実際には人形たちが踊っているのだから、それは次のように解釈すべきではないだろうか。《No.14:パドドゥ》でのクレールの結婚の成就は、二長調で完結する。それは物語としてクレールがジルバーハウス家の人々の心に戻ることを意味する。その後の《フィナーレ》は、今度は人形たちと共に我々観衆がクレールの結婚を喜び合う場面であると考えれば疑問は霧散する。ここでは二重の終結が存在するのである。すなわち、それまでの『真実の世界の住人たち』の踊りは、ここでは姿かたちは同じでも『現実の世界の人形たち』の踊りとして描かれているのである。その境目は、突然の二長調から変ロ長調という三度転調によって音楽的に実現されているのである。(もちろん、台本通りドラジェの精とコクリューシ王子がパドドゥを踊ってしまったのでは、この仮説は全く通用しないが・・・・)

【註1】更に言えば、色の場合、さまざまな波長の光のうちの人間に見える部分、すなわち可視光線がいろんな色に見えるわけだが、本来、赤の外には赤外線が存在し、紫の外には紫外線が存在しているのである。光は決して「閉じられた環」ではないのだが、人間の目には「閉じられた環」のように感じられるのである。『五度圏』も、五度による転調の連続は、決して「閉じられた環」ではない。本当は、嬰へ長調の先には嬰ハ長調ー嬰ト長調・・・と続き、変ト長調の先も変ハ長調ー変へ長調・・・と続く。光の波長と同様の一本の線なのである。しかし、平均率の考えの中で、嬰へ音と変ト音は同じ音だと見做すことによって、無限の1本の線は1つの「閉じられた環」と感じられるようになるのである。技術的にはエンハーモニック転換という操作を行なうことによって、24の調を平等に行き来することが可能となるのである。

【註2】「惻隠の情」については、童謡《赤い靴》と《くるみ割り人形とねずみの王様》との同質性考 に説明されている。



3.作曲指示書とスコアの対照

ここで取り上げる作曲指示書には、プティパによって(1891年)2月29日と記されており、1891年3月9日に、アメリカへの演奏旅行のためフランスに滞在していたチャイコフスキーに送られた。これを、チャイコフスキーは1891年4月12日に港町ルーアンで受け取った。
もともと、フセヴォロジュスキーからバレエ《くるみ割り人形》作曲の打診を受けたのは、この作曲指示書より約1年前のことである。すなわち前作《眠れる森の美女》の初演1890年1月15日の直後であった。ただ、チャイコフスキーは確定的な作曲指示書に基づいて作曲しようとしていたので、すぐには取り掛からず、直接バレエ制作に携わったプティパの作曲指示書を待っていた。チャイコフスキーは指揮の仕事などで1891年1月末にペテルブルクへ出かけたが、その時第1幕の指示書を貰った。森田氏は<プティパから第1幕の指示書きも貰っていた。そして2月18日にふたたび上京するときには、最初の2曲と民族舞踊の組曲(後に第2幕へ移された)の下書きがほとんど出来上がっていた。>(【参考(B)】p216)と述べている。作曲指示書は2回に分けてチャイコフスキーに渡されたのである。ルーアンで受け取った指示書は2回目のものであり、その間の一部修正によって、後述のイギリス舞曲《ジーグ》がスケッチのまま残されることとなった。

作曲指示書は、第1幕は28と1つの追加、第2幕は18、すなわち全体で47の場面ごとの小さな部分に分けて述べられているが、チャイコフスキーは序曲と第1幕9曲、第2幕6曲の16曲として作曲した。したがって、作曲指示書の【一連番号】はチャイコフスキーの《曲番》とは一致しない。
ここでは、チャイコフスキーの《曲番》ごとに分けて対照する。まず、最初に作曲指示書に振られた【番号】ごとの和訳が示され、そのあとスコアに転記されたト書きが直接フランス語で記され音楽の内容が解説される。作曲指示書は、情景描写と作曲指示がランダムに書かれているので、解りやすくするため、2つを分離した表で示した。指示書の文字の色分け部分は、スコアに引用された仏文ト書きに対応しているので、それらの和訳ともなっている。

全体を通覧して分かるように、第1幕第1場においては、ト書きはほぼ指示書を復唱しているのに対して、第2場や第2幕では、音楽としては指示書の指示に外面上適っているとはいえ、ト書きとしての指示書引用はごく一部となっている。チャイコフスキーは、指示書を転記することがだんだん面倒くさくなって、省略していったのだろうか? 実際のところ、第1幕は物語的であるのに対して、第2幕はディヴェルティスマン主体の場面説明的なものであって引用を要さないという面も確かにあるが、最も重要な点がぼかされているのも事実である。このことを反映してか、音楽は第1幕は標題音楽的であるのに対して、第2場以降はチャイコフスキーの独創に満ちているように感じられる。さらには、原作を知っていたチャイコフスキーにとっては、指示書の第2場以降は、彼が心に描いていた物語とはかけ離れたものとなっており、ホフマンが描いた真の意図を舞台で実現するためには相応しくないと考え、外面上は指示書に従いながらも、物語本来の姿とは異なる指示書の逐語引用を避けたのかもしれない。

なお、作曲指示書やスコアの標題は”Casse-noisette”直訳すると《小さな木の実割り》であるが、ここでは一般に認知された《くるみ割り人形》を使用する。

【登場人物】
第1幕:
クレール(Claire):ジルバーハウス家(Silberhaus)の娘(ロシア語ではクララ)
フリッツ(Fritz):クレールの兄
ジルバーハウス裁判長(Président Silberhaus):兄妹の父
その夫人: 兄妹の母
名付け親ドロッセルマイアー(Parrain Drosselmayer):医事顧問官(conceiller de médecine)、兄妹の名付け親
招待客たち
贈り物の人形たち(大きな人形(女性)、兵隊の人形、男女の悪魔の人形)
小さな木の実割り(Casse-noisette)=くるみ割り人形

人形の兵隊たち(歩哨、兎の鼓手、パンデビスの兵隊たち)
鼠の王様
鼠の兵隊たち
雪ひら(60人のコールドバレエ)

第2幕:
クレール
小さな木の実割り(王子)=くるみ割り王子
ドラジェの精
優しい王子
4人の王女たち(木の実割りの妹たち)
コンフィチュランブールの宮殿の人びと(お菓子たち、銀の兵隊、小人、ムーア人たち、小姓たち、ドラジェの精のお供たち)
ディヴェルティスマンを踊る人たち(チョコレート、コーヒー、お茶、トレパック、芦笛、ジゴーニュおばさんとポリシネル、花々)

【註】これは、チャイコフスキーが作曲の拠り所とした作曲指示書における登場人物であって、すでに初演の台本との間ですらあちこちで齟齬が生じている。現代においては、演出上様々な工夫が凝らされ、新しい登場人物が現れるが、それらは、振付の効果、バレエ団のダンサーの人数、舞台装置等の調達の難易度などによるものと見られる。例えば、「地の精」、「雪の女王」や「花の女王」等は指示書には登場しない。



《CASSE-NOISETTE》(小さな木の実割り=くるみ割り人形)

《OUVERTURE.=序曲》
序曲に対しての作曲指示書上の注文は無い。フセヴォロジュスキーやプティパが口頭でなんらかの示唆をした可能性は否定できないが、もしあったとしても、それは単に序曲全体に対する大まかでイメージ的なものに過ぎなかっただろう。90分にも及ぶ長大なバレエ作品の劈頭を飾る音楽は、ホフマンの原作に基づいて、チャイコフスキーが独自に構想し作曲したと考えて間違いない。バレエ《くるみ割り人形序曲》は、《白鳥の湖》や《眠れる森の美女》にあった、物語の中へ観客を導く雰囲気を醸し出すとか、物語の中で最も重要な対立要素を、ひとまず提示するといった役割を持つ『導入曲』としてではなく、あくまでも作品本体とは切り離された『序曲』として作られている。ここではオペラの『序曲』によくあるような聴かせどころのアリアの旋律の引用に似た劇中の目だった旋律をにおわすような手法も取られていない。物語とは完全に独立しているのである。それでは、この序曲は作品全体の中でどのように位置づけすればよいのか? それは、ホフマンの原作の中で多用されている「作者が話の流れを断ち切って直接読者に話しかける」という手法に相通ずるものを音楽の中に持ち込んだのだという風に理解すると納得できる。すなわち、この《序曲》で聴衆に求めているのは、物語の中へ入り込んで登場人物になり切るのではなく、あくまでも傍観者としての立ち位置を堅持しつつ、物語の主人公に共感を寄せて欲しいとの作曲者の願いが込められているのである。そういった意味で、この曲が変ロ長調を採っていることが重要なのであり、前項の『《くるみ割り人形》の調構造の大枠』で解説した通りである。

§スコア§
変ロ長調、4分の2拍子、Allegro giusto.(アレグロの速さのど真中)、182小節。
展開部も大きなコーダ部分もないシンプルでプリミティヴなソナタ形式。
提示部:主部(第1主題)変ロ長調 1〜 44小節+終止部(第2主題) ヘ長調  45〜 89小節=89小節
再現部:主部(第1主題)変ロ長調90〜133小節+終止部(第2主題)変ロ長調134〜182小節=93小節

序曲の最大の特徴は、その音色にあり、チェロとコントラバスが外され、ホルン以外の金管、トライアングル以外の打楽器も使われない。それに伴って、ファゴットは大部分がテナー記号で書かれ、その最低音はクラリネットでも出せるF音である(ちなみにヴィオラには21小節に、さらにその半音下のE音が使われている)。ということは低い音は全く鳴らないというわけである。こういう特殊な音響からは「おもちゃ箱」といったイメージが浮かび上がるかもしれない。
また、バレエの初演に先立って演奏された組曲版では、単なる《序曲》としてではなく《Ouverture miniature=ウヴェルチュール・ミニアチュール:ミニチュア序曲》と題された。「miniature」とは、ラテン語の「minium」(鉛丹)に由来する言葉で、本来は「細密画」を意味するが、現在一般には「精巧な小さな模型」といった風な意味で使われることが多い。したがって、この序曲は普通《小序曲》と訳されているが、少なくとも、それは単に『小さい序曲』(Petite Ouverture)を意味するものではない。物語とは直接には結びつかない組曲の中の一曲として使われるということから、曲のイメージを明確に伝えるためにチャイコフスキーは曲名に「ミニアチュール」を付け加えたのだろう。したがって、それは単に「小さい」という意味ではなく「名匠が作った精巧なミニチュアの人形」のようなものをイメージしてもらうための変更だと思う。
もちろん、全曲版バレエの始まりとしては、あくまでも《序曲》なのである。ここでは、チャイコフスキーはバレエの観客を意識している。ホフマンの原作にしばしば現れる読者への問いかけ、たとえば第2章『さあみなさん、いまこのおはなしを読んでいる人、・・・きれいな、色とりどりのプレゼントがいっぱい並べられて、みごとに飾りつけのととのったクリスマスのテーブルを、いま目のまえに見ているように、おもいうかべてごらん。』上田訳p16
を音楽で表現したといったところである。


ACTE I.=第1幕、Tableau I.=第1場 

§作曲指示書§

2幕3場のバレエ CASSE-NOISETTE=小さな木の実割り=くるみ割り人形
【第1幕】
(第1場)
幕が上がると、広い客間にはシャンデリアが1つだけ燈っている。




《No.1.: SCÈNE.=情景》
§作曲指示書§

指示書番号 情景描写 作曲指示
【No.1】 裁判長とその夫人、招待客たちがクリスマスツリーの飾りつけをしている。 穏やかな、静かな音楽(64小節)
時計が9時を打つ。大時計が鳴るたびに、フクロウが翼を羽ばたく。
準備はすべて完了し、子供たちを呼ぶ時が来た。
以上のすべては64小節の間に行なわれる
【No.2】 魔法のようにクリスマスツリーに明かりが燈される。 溌剌とした音楽(8小節)
【No.3】 扉が開かれる。子供たちの登場。 そのための騒がしく陽気な音楽(24小節)
【No.4】 驚きと歓喜に打たれ、子供たちは立ちすくむ。 子供っぽいトレモロ(数小節)


§スコア§
ニ長調、4分の4拍子、Allegro non troppo(あまり速くないアレグロ)、指示書【No.1】【No.2】に基づく82小節(指示書[64+8]より10小節多い)。
2小節の序奏の後、静かに、浮き浮きした期待感を起こさせるような8小節の、属音(A音)が支配的なメロディー(A)が出る。バスクラリネットソロの上昇する音形からなる対旋律が印象的。
11小節目で幕(Rideau)が開くと、この8小節のメロディーがオーケストレイションを増して繰り返される。
【No.1】
15小節のト書き: Le président avec sa femme et ses invités ornent l'arbre de Noël.
裁判長(Le pésident)とは、ジルバーハウス家の当主でフリッツやクレールの父親である。
19小節からは少し展開的になり、どんどん盛り上がって33小節から最初のメロディーがフォルテで戻る。
40小節の後半からテンポがPoco più sostenuto.(すこし以前より引きずって)に変わり、管楽器が交互に演奏する少しおどけた音楽になる中間部(B)。ツリーの飾りつけの作業での、ちょっとした意見の相違のような小芝居を期待した音楽なのだろう。
そして、65小節でテンポが戻り(A)が再現する。すなわち、ここまでで(ABA)の三部形式とみることが出来よう。

72小節後半のト書き: Il sonne neuf heures. A chaque coup de l'horloge la chouette fait un mouvement avec ses ailes. Tout est prèt, il est temps d'appeler les enfants.
チャイコフスキーは、ここで指示書とはすこし異なる音楽を書いた。すなわち、大時計の9時の知らせを、飾りつけ作業の音楽とは切り離し、点灯の瞬間を際立たせたのである。10小節半(指示書より2小節半多い)。
音楽は一転して、Più moderato(さらに中庸のテンポで)、チェロ・バスの不穏な三連符の上で木管が細かい動きをする。ここでもバスクラリネットが独自の活躍をする。
この不気味な音楽は、フクロウ時計を奇怪な姿を表しているのかも知れない。しかし音楽は途切れなく続いているので、ト書きにある9時を打つための空白はない。音楽と同時に打たれるのだろう。細かい音符でアッチェレランドして行き、絶頂(82小節4拍目)でティンパニが鳴る。
この頂点で点灯されるようにも見えるが、実際には子供たちが登場してから点灯される方がより効果的であるとチャイコフスキーは考えたのではないだろうか。【No.2】のト書きの欠落は、プティパとチャイコフスキーの考えの違いを最初に印象付ける個所である。
このように、劇が始まって早々、3度(40小節、72小節、82小節)も小節の途中で音楽が変わるのは、だらだらした流れを作らず、奇妙なところでリズムの流れを変えることによって、物語の最初から観客の注意を惹きつけようとするチャイコフスキーの巧妙な工夫である。

なお、82小節には、ティンパニとコントラバスに印刷譜上のミスが存在する。まず、ティンパニの段が設定されているにも拘わらず、ティンパニの音符がトランペットの段に印刷されていること。そしてさらに、コントラバスの4拍目は8分音符+8分休符と印刷されているが、次の小節(次ページ)には、前から続くタイの指示が記載されているので、音符の流れとして矛盾していること。たぶん、ここはティンパニと連動して4分音符とタイが印刷されるべきだろう。これらのミスが、チャイコフスキーの自筆譜に由来するものなのか、製版時に生じたものなのかは不明である。

【No.3】イ長調、8分の6拍子、Allegro vivace.(溌剌としたアレグロ)、34小節(指示書より10小節多い)。
83小節のト書き: La porte s'ouvre. L'entrée des enfants.
扉が開いて子供たちが飛び出してくる情景。速い動きの3連符と2連符が交錯した形で子供たちの喜びの様子が表現され、高潮していく。この部分は、一貫してコントラバスとティンパニによるホ音の保続音が響いている(点灯への期待の膨らみ)。要するに、イ長調の属音上で音楽が細かく進行するわけであり、イ長調解決への期待が非常に大きくなっていく。

【No.4】8分の6拍子、Meno(以前より遅く)、18小節。
117小節のト書き: Les enfants s'arrètent saisis d'étonnement.
子供たちが驚きで立ちすくむ場面の描写。ところが、長いホ音の保続音に支えられたイ長調主和音での解決の期待は驚きに変わる。すなわち、点灯される瞬間、突然バスが半音下がって変ホ音で途切れてしまう(変ロ長調の属二の和音を構成する)。子供たちの途轍もない驚きを表すかのように神秘的な響きに変貌するのである。指示書の注文では【子供っぽいトレモロ】だが、ここでは大人びた幻想的なトレモロである。低音部は半音階進行で下がっていき、ハ音に至ってトレモロは止む。次いで全く気分を変えたピチカートによって3つの和音が鳴らされる。3つ目の和音は二音上の三和音であって、次の《行進曲》ト長調の属和音を形成する。流れはスムーズだが、先のイ長調への期待がト長調で実現するので《行進曲》はお伽の世界に入ったような感覚が醸し出される。
この間、オーボエのレチタティーヴォが子供たちの驚きのため息を、ハープのアルペジォがツリーのきらめきを表し、幻想性が強調される。
この部分では、点灯されたクリスマスツリーの美しさに子供たちが息を呑む様子と、ツリーの神秘さが表現されている。

スコアでは、最後から8小節前に次の《行進曲》へスムーズに移るためのクレールの父親の指示のト書きが指示書の位置に先行して記されている。
これは音楽を中断しないための配慮である。: Le président ordonne de jouer une marche.




《No.2.: MARCHE=行進曲》
§作曲指示書§

指示書番号 情景描写 作曲指示
【No.5】 裁判長が行進曲を演奏するように命じる。 (行進曲64小節)
子供たちは、それぞれ贈り物を受け取る。
そうした全ては行進曲の間に行なわれる。


§スコア§
【No.5】ト長調、4分の4拍子、Tempo di marcia viva(元気なマーチのテンポで)、88小節(指示書より24小節多い)。
短い中間部を持つ三部形式。音量およびオーケストレイションの厚みがどんどん増すように作られている。

ここにはト書きは無い。その原因は、前半は「父親の指示」が《No.1情景》末に移されたためだが、後半については指示書が当初のものから書き換えられたためだろう。【No.2】の点灯の場合もそうであったように、演出上あやふやなものについては、チャイコフスキーはト書きを省略する傾向がある。実際、<そうした全ては>という言い回しは、この文面では不自然であり、元々もっとたくさんの情景描写がなされていたことを暗示している(《指示書の変更》参照)。




《No.3.: PETIT GALOP DES ENFANTS ET ENTRÉE DES PARENTS.=子供たちの小さなギャロップと両親の入場》【註1】
§作曲指示書§

指示書番号 情景描写 作曲指示
【No.6】 子供たち全員によるギャロップ。 (48小節)
【No.6bis】 アンクォヤブル風の衣装を着た招待客たちの登場【註1】
(16小節)
続いてメヌエットのテンポでロココ風の踊り。 『ボンヴォワイヤージュ、シェール デュモーレ』


§スコア§
【No.6】ト長調、4分の2拍子、Presto.(急速に)、44小節(指示書より4小節少ない)。
はじめのト書き: Galop pour les enfants.
弦楽器だけで軽やかに始まり、楽器が増えてだんだん賑やかになっていく。子供たちの楽しげな様子を描いたギャロップである。

【No.6bis】ハ長調、4分の3拍子、Andante.(落ち着いて)、16小節(指示書通り)。
45小節のト書き:Entrée des parents en "incroyables".『アンクォヤブル風の衣装を着た両親の登場』【註1】
4小節づつ4つの部分に分かれ、いつも同じメロディーから始まる。<A1・A2・A1・A3>という形式。A1では木管による子供たちのギャロップが続いているので、新たな大人の登場と重なって演奏される。突然の古風でゆったりとした3拍子の音楽は当時より約100年前の衣装を着て仮装した大人たちを表しており、その1拍はギャロップの1小節に相当するので、ギャロップは実質12小節長く56小節存在することになる。音価をこれまでのちょうど半分にして、ギャロップの最後の木管の16分音符音形♪ドシドソ・ドシドソ・・・の連続した音形をを32分音符(すなわち同じスピード)でアンダンテの最初の4小節間だけ演奏させることによって、突然のテンポ変更によるギクシャクした流れをスムーズにしている。また、子供たちの踊りがすぐには終わらず、新しい客の登場後もしばらく続きざわざわした雰囲気をも表している。
A2ではギャロップは止み、優雅な音楽が属調であるト長調に転調する。すぐに元のハ長調に戻り低音部に16分音符の細かい対位旋律が現れ、古風な感じを強調した踊りが本格的に繰り広げられる。

なお、ト書きの『アンクォヤブル風の衣装を着た両親の登場』と、指示書の『アンクォヤブル風の衣装を着た招待客たちの登場』では、登場人物が違っている点については《指示書の変更》の【註1】参照。

61小節:ト書きなし。
ヘ長調、8分の6拍子、Allegro.(速く)、58小節(指示書に小節数の指定はない)。
指示書には【《ボンヴォワイヤージュ、シェール デュモーレ》メヌエットのテンポでロココ風の踊り】と記されているが、ここでは全く違う快活なタランテラ風の音楽になっている。
前の部分とは小節間フェルマータによって完全に仕切られた後、突然快活なBon voyage, cher Dumolet=ボンヴォワイヤージュ、シェール デュモーレ(行ってらっしゃいデュモーレさん)が始まる。これはフランスの俗謡で、現在フランスで歌われているものとは少し異なる。チャイコフスキーは、シャルル・ルブー(Charles Lebouc)の『子供のころの気晴らし』(Récréations de l'Enfance}(1885年刊)から引用したと言われている。
8小節ごとに区切られた<A・B・A・B・A・B・A>という形式。同じメロディーを何度も繰り返しているが、その都度オーケストレイションが変えられている。

https://www.youtube.com/watch?v=QjSjN3bQbxo&nohtml5=False

上の動画では題名はBon voyage, Monsieur Dumolletとなっている。


《指示書の変更》

現在の作曲指示書【No.5】、【No.6】、【No.6bis】は上述の通りである。ところが、【3.作曲指示書とスコアの対照】の項で、指示書は2度チャイコフスキーに渡されたと説明したとおり、最初に渡された第1幕分を訂正することになってしまったのは、フセヴォロジュスキーとプティパの間に意見の対立があったからである【註2】、プティパの最初の指示書では【No.5】【No.6】は、ほぼ次のようなものだったようだ。

当初の指
示書番号
情景描写 作曲指示
【No.5】 裁判長が行進曲を演奏するように命じる。 (行進曲64小節)
子供たちは、それぞれ贈り物と子供用の巻髪かつらを受け取る。
これは仮装用の衣装である。子供たちは歩きながら身につける。

そうした全ては行進曲の間に行なわれる。
【No.6】 子供たち全員によるギャロップ (48小節)
アンクォヤブル風の衣装を着た両親の入場。【註1】 (16小節)
仮装した子供たちの踊り @中国の踊り(24小節)
Aスペインの踊り(32小節)
Bイタリアの踊りタランテラ(32小節)
Cイギリスの踊りジーグ、非常に速い2/4拍子で(48小節)
Dロシアのトレパークを踊る道化師(16〜24小節)
Eコーダ、フレンチ・カンカン、カドリーユの最後のフィギュール【註3】


1891年2月29日付の訂正された作曲指示書では、赤字部分の削除とともに【No.6bis】が付け加えられたのである。bisとは後続番号を変えることなく番号を増やすときに使われ、日本語としては「六番乙」の意味となる。これらの変更の中で「子供たちの仮装ダンス」については【註2】で解説される。

【註1】「仮装した両親の入場」について述べておこう。訂正された指示書では「両親」から「招待客」に変えられた。初演の台本でも<一同の賑やかさは、新たな招待客たちの登場によって強まる。彼らは「アンクォヤブル」や「メルヴェユーズ」の仮装をしていて、彼らが表している者たち、すなわち、フランス革命の時期の伊達者たちの特質に対応する踊りを踊る。>となっており、両親は幕開きから登場しているので、行進曲の間に衣装替えをするのは無理と判断されて<新たな招待客>に変更されたのだろう。この曲の標題は《No.3:PETIT GALOP DES ENFANTS ET ENTRÉE DES NOUVEAUX INVITÉS》とでも変更すれば、台本や変更された指示書との整合性が保たれるのだが、なぜかチャイコフスキーは頑固にも、曲名においてもト書きにおいても「両親」を温存している。とにかくこの齟齬は指示書が変更されたことの証拠の1つである。

「アンクォヤブル」と「メルヴェユーズ」:
アンクォヤブルincoyableとはフランス革命後の執政官時代(1795〜1799)、すなわちナポレオンが皇帝になる直前にパリで流行した、王党びいきの若者の、気取った奇異な服装のこと。彼らの口癖からその名がつけられた。その口癖とは、in(否定)+croire(信じる)+able(出来る)から合成されたincroyableアンクロワヤブル(信じることが出来ない=信じられない)であって、彼らはわざとrを省略してC'est incoyable!=セタンクォヤブル!と発音したことによる(現代の日本で言えば「ウッソー」とか「アリエネー」とかの意味)
メルヴェユーズles merveilleusesはアンクォヤブルに対応する女性たちのファッションを言い、しばしばギリシャ・ローマ風の長い薄物を身にまとい、帯を高く締め、顎ひも付きの帽子をかぶっていた。merveilleuxとは形容詞で「驚くべき」とか「不思議なほどの」と言った意味。merveilleuseはその女性形で、女性に対しては「素晴らしく美しい」、「伊達女」といった意味を持つ。まあ、この2つの言葉の場合は、いささか反語的意味合い(奇抜な)を持って使われた。


【註2】「私は、心から、バレエについての私の幾つかの意見を、あなたにお知らせしたいのです。私の意見はプティパの構想と一致していません。彼は、フランス人が呼ぶところの『時代遅れ』です。彼が第1幕のために考案したソロやヴァリアシオンは、観客にとって、興味のないものです。」1991年2月27日付のフセヴォロジュスキーからチャイコフスキーあての手紙。子供たちが学芸会の遊戯のような踊りを見せてもロシアの観客は納得しないだろうとの配慮とみられる。実際、現在第2幕で観られるディヴェルティスマンは、異国風で高度な技術を駆使した大人の踊りが繰り広げられている。ただ、マリインスキーの《葦笛の踊り》では、小さな3人の子供のダンサーが可愛く踊り、いつも大きな喝采を受けているが、それは当初のプティパの構想をこの曲だけで実現したのかもしれない。

【註3】Eコーダについては、以下の説明のとおりステップに関する指示であり、素早いステップを要求するためのダンス用語が並べられている。小節数の指定は無い。
フィギュール(figure):ダンスにおける足の型、各種ステップの総称。フィギュアスケートのフィギュアと同義。
カドリーユ(Quadrille):4つのペア(8人)が四角に位置し互いに相手を交換しながら踊る踊り。いくつかのステップの集合体であって、その最後は4分の2拍子の速いステップによって盛り上げる。
フレンチ・カンカン(French cancan):4分の2拍子の速い踊り。ギャロップよりもさらに快活なステップ。ここでは、有名なオッフェンバックの《地獄のオルフェ》での『地獄のギャロップ』で踊られるようなコーラスライン形式ではなく、もっとオリジナルな踊りを意味する。

《イギリス舞曲ジーグ》
Allegro moltoアレグロ・モルト、ハ長調、2/4拍子、50小節(指示書より2小節多い)。
完成されたバレエ音楽《くるみ割り人形》には含まれていない、スケッチ状態の曲が1曲存在する。それが《イギリス舞曲ジーグ》である。なぜスケッチのまま放置されたのかというと、プティパの構想に基づく当初の作曲指示書では、上述のように、子供たちが仮装をして小さな仮装舞踏会で諸国の踊りを踊るという趣向だった。この当初の指示書から、既にスケッチを作曲しつつあったチャイコフスキーは、フセヴォロジュスキーの横やり【上述註1】によって指示書自体が変更されてしまったため、音楽を修正せざるを得なくなってしまった。削除された曲のうち、中国、スペインおよびロシアは第2幕のディヴェルティスマンに転用されたが、そこにタランテラやコーダはない。パドドゥのヴァリアシオンI(男性ダンサー用)のタランテラやコーダに転用されたのだろう。結果、《ジーグ》だけが浮いてしまい、オーケストレイションされずに残されたというわけである。
《ジーグ》は、後に何人かの作曲家がオーケストレイションを試みているが、ミンクスなどバレエ音楽専門の作曲家が書いた作品のいくつかをオーケストレイション変更していたランチベリーによるものがよく知られている。この曲は、たまにバレエに取り入れられて第2幕のディヴェルティスマンで踊られることがある。




《No.4.: SCÈNE DANSANTE.=踊りの情景》
§作曲指示書§

指示書番号 情景描写 作曲指示
【No.7】 盛り上がった座がドロッセルマイアー顧問官の到着で中断される。
彼が入ってくると、大時計が鳴りフクロウが彼を迎えるように何度か翼を羽ばたく
非常に厳かな、少し恐ろしい、そしてユーモラスな音楽
(16小節〜24小節のゆったりしたテンポ)
子供たちは両親にしがみつくが、ドロッセルマイアーがおもちゃを持っている
のを見て、安心する
ここで、音楽は少しづつ性格を変える。音楽は陰気さを減じ、
より明るくなり、最後は陽気になる(24小節目)
【No.8】 裁判長の2人の子供は、名付け親のドロッセルマイアーの贈り物が配られるのを
待ちきれない。
箱から出てきた人形の踊り:
ドロッセルマイアーは2つの箱を運んでこさせる。
1つの箱から、彼は大きなキャベツを取り出す
が、それはクレールへの贈り物である。
もう1つの箱から、大きなパイを取り出すが、それはフリッツのためのものである。
 このようなつまらない贈り物を見て、みんなはびっくりして失望した様子である。
− 皆は顔を見合わせる。
キャベツを見せるために、かなり重々しい8小節の音楽、そして小休止!

パイのために、同じ8小節が繰り返され、さらにまた小休止。
箱を運ぶ歩調で

この間4小節だけで、驚きを示す和音が用いられる
【No.9】 ドロッセルマイアーは微笑しながら、2つの贈り物を彼の前に運ぶよう命じる。
キャベツからは大きな人形が、パイからは兵隊人形が出て来る。
マズルカのテンポで8小節
彼はそれらのネジを巻く。そのきしむ音が聞こえる。  さらに8小節のマズルカ
子供たちは大喜びする。 この小さな場面のためにさらに16小節のマズルカ
【No.10】 パドドゥ。10時まで起きていてよいという許しが得られる。 スタッカートの付いた、ぎくしゃくした、そしてとてもリズミックなワルツ(48小節)
【No.11】
  【註】
ドロッセルマイアーは、2つの大きな嗅ぎ煙草入れを運び入れさせ、そこから
男女の悪魔(またはアルルカンとコロンビーヌ)が出てくる。
別の踊りに入る時間を与えるために16小節
ゼンマイ仕掛けの人形たちの悪魔的な踊り。 非常に速く、シンコペーションを用いた4分の2拍子(48小節)


§スコア§
【No.7】43小節 4分の4拍子、Andantino.(落ち着いて)。
最初のト書き:Arrivée du conseiller Drosselmayer. La grande horloge sonne, la chouette bat des ailes. Les enfants vont se blottir prés des parents; ils se rassurent en voyant que Drosselmayer porte des joujoux.
まずはドロッセルマイアー登場の音楽(11小節)。小節数は指定(16〜24小節)よりかなり少ないが、プティパが想定したテンポより更に遅いためドロッセルマイアーの登場には十分の時間が保たれている。滑稽な連続ダウン奏法のヴィオラとトロンボーンという楽器の組み合わせや7度の跳躍音程のぎくしゃく感はドロッセルマイアーの異様で滑稽な風貌を的確に再現している。調性はホ短調のようであるが、教会旋法的な音遣いで不思議感を強調している。また、主題の最後の方で、ホルンがゲシュトップのビンビンした音を響かせるのは、ドロッセルマイア―の片目に眼帯を着けた奇怪な風体を表しているのだろう。
ところで、ここでも時計が鳴るためのスペースはないし、フクロウが羽ばたく音も分からない。たぶんチャイコフスキーは演出や効果音だけで処理することを期待していたのだろう(後のシーンでは時計が12時を打つよう楽譜上に指定されている個所がある)。
続いて、子供たちの不安な気持ちを表す音楽(7小節)。
さらにテンポがAllegro vivo.(活気づいて、速く)になって、ドロッセルマイアーが持ってきたおもちゃの発見(5小節、ここでは普通のホ短調)、とフルート3本によるそれへの好奇心(4小節、ト長調)、そして、それらの繰り返し(8小節、ロ短調とト長調)。
【裁判長の2人の子供(フリッツとマリー)は、贈り物が配られるのを待ちきれない】
との指示を強調するため、弦楽器の細かい動き(8小節)で気持ちの高ぶりを表す。[ここまで全部で43小節]

【No.8】23小節:Les deux enfants du Président attendent avec impatience la distribution des cadeaux du parrain Drosselmayer. Celui-ci fait apporter deux caisse de l'une il retire un grand chou de l'autre un grand pâté. Tout le monde est etonné.-
Andantino sostenuto.(最初のドロッセルマイアーの主題より更に遅く)。
まず、キャベツを見せるために、ドロッセルマイアーの主題がバスクラリネットとファゴットに出、チェロとコントラバスが重々しい伴奏をする。終わりに皆は声を合わせる(10小節)。小休止の指定通り、小節間フェルマータ。
次に、パイを見せるために、ドロッセルマイアーの主題がヴィオラに出て、木管が16分音符で伴奏する。驚きを示す和音という指示に対しては、木管の半音階の上下が2回繰り返される。終わりに皆は声を合わせる。(13小節)。小休止の指定通り、小節間フェルマータ。チャイコフスキーは、指示書通り同じドロッセルマイアーの主題を使いながも、キャベツとパイでは全く違う風に描いている。一種の変奏曲と見なすことが出来よう。[ここまで23小節]

【No.9】32小節:Drosselmayer en souriant ordonne qu'on pose devant lui les deux cadeaux. Une grande poupée sort du chou et un soldat du pâ
té.
4分の3拍子、Allegro molto vivce.(速く非常に生き生きと)、指示書通り32小節(8+8+16)のマズルカ。
最初の8小節では第1クラリネットがメロディーを吹く(大きな人形)。次の8小節で、それに加えて第2クラリネットが対旋律を吹く(兵士の人形)。ネジを巻く音はスコアには示されていない。これも演出にお任せということだろう。次に弦楽器にメロディーが移り、今度はクラリネット2本が一緒にメロディーを吹く。最後は大喜びのモルト・ピウ・プレスト(前よりもさらに速く)。

【No.10】56小節:Pas de deux: la permission de dix heures.
Tempo di Valse.(ワルツのテンポ)、指示書より8小節多い56小節のワルツ、イ長調。
パドドゥはキャベツとパイから出てきた人形たちの踊りで、指定通りヘミオラを駆使し、人形の動きに合わせたぎくしゃくした感じのワルツ。音楽には無いが、背後で10時まで遊んでいて良いとのマイムが演じられる。

【No.11】以下、指示書を転記したト書きは無い。たぶん、指示書上でプティパが登場する人形の種類を迷っているため省略したのだろう。しかし、音楽は指定された通りの悪魔の踊りが作られている。
≪別の踊りに入る時間を与えるために16小節≫との指示に対しては、24小節の静かな移行句。
≪ゼンマイ仕掛けの人形たちの悪魔的な踊り≫に対しては、60小節の非常に速いプレストでシンコペーションを伴う4分の2拍子の快活な音楽が書かれている。

以上、《No.4》全体は238小節から成る。

【註】No.11の左の余白に「検討してみること:私はコロンビーヌとアルルカンよりも男女の悪魔の方が好ましい。」と加筆されているとのことだが(平林((C)p105)、一説によると『悪魔と魔女よりアルルカン(道化師)とlコロンビーヌ(小間使い)の方がよい。』(小倉(A)p213)と記述の意味が逆である。【No.11】の記述全体からするとコロンビーヌとアルルカンの方が後のアイデアであるように思われるし、チャイコフスキーは最初の指示の通り作曲したように見える。しかし、2つの台本では、コロンビーヌとアルルカンに統一されていて悪魔は現れない。この齟齬から、現代の演出では踊る人形はさまざまだが、パドドゥではなくてコロンビーヌと悪魔のそれぞれのヴァリアシオンであることが多いのは、台本と音楽の整合性を求めた結果だと思われる。

ドロッセルマイア―の贈り物は、もともと原作や翻案では、精巧にできた建物(城や豪邸)で、その中や周りで人々が巧妙な機械仕掛けで動き回る模型だったが、それはバレエでは適切ではないので、ゼンマイ仕掛けの人形に踊らすよう変更された。2つのペア、4体の人形が登場するが、指示書と台本では人形の設定が異なっている。以下に表で示そう:

指示書 2つの箱 大きなキャベツ 大きな人形 クレールへの贈り物
大きなパイ 兵隊 フリッツへの贈り物
 −− 2つの大きな
嗅ぎ煙草入れ
男の悪魔   −−−
魔女
指示書の
2組目の
代案
 −− 2つの大きな
嗅ぎ煙草入れ
アルルカン   −−−
コロンビーヌ
長い方の台本 2つの大きな紙包み 女酒保商人
フランス軍の新兵
別の紙包み アルルカン
コロンビーヌ
短い方の台本 2段階に分けることや
包装の指定はない
女酒保商人
小さな兵隊
アルルカン
コロンビーヌ
包装 人形
現代一般に
行なわれる
組み合わせ
無し アルルカン
コロンビーヌ
無し 悪魔(1人か2人)


○コロンビーヌとアルルカン:イタリアで生まれヨーロッパで流行していた即興仮面喜劇であるコメディア・デラルテ(Commedia dell'arte)に登場するストック・キャラクターの名前である。それらのキャラクターは有名だったので、たくさんの人形が作られた。原作ではコメディア・デラルテの別のキャラクターであるパンタロンが戦争場面で鼠軍と戦う。翻案では同じ役割はアルルカンに変えられた。
コロンビーヌ(Colombine)(仏)、コロンビーナ(Columbina)(伊): 小間使い。アルルカンの恋人。
アルルカン(Arlequin)(仏)、アルレッキーノ(Arlecchino)(伊)、ハーレキン(Harlequin)(英): 赤・緑・青のまだら模様の衣装を着たペテン師。道化の起源と言われている。
パンタロン(Pantalon)(独)、パンタローネ(Pantalone)(伊): 金持ちで欲張りな老商人。コロンビーナの父親という設定もある。

なお、ストラヴィンスキーのバレエ作品《プルチネルラ》(Pulcinella)もこのコメディア・デラルテに登場するキャラクターの1人である。鷲鼻の黒い仮面を被り白い外套を着た猫背の騙されやすい男として描かれる。《くるみ割り人形》の第2幕での《ジゴーニュおばさんとポリシネル》に登場するポリシネル(polichinell)はプルチネルラのフランス語であり、ヨーロッパの大道芸や人形劇で、道化師の意味で使われるよく知られたキャラクターである。

○女酒保商人(Vivandière)ヴィヴァンディエール(仏):日本語としては全く聞き慣れない言葉だが、軍隊ご用達の女商人という意味。もともと軍人の妻などが一種の利権として、軍隊生活に必要な日用品、嗜好品(酒・たばこ)などを独占的に販売していたのが由来。それが酒食を提供する一種のキャバレーのようなものに進化していったのは当然の成り行きだったのだろう。狭い軍隊の中での唯一の社交場としての役割も果たしていたわけであり、そこでの接待嬢は軍人たちの中では光り輝く存在だった。それが美しい人形たちの姿として残されているのである。なお、《La Vivandière》という名のバレエ作品も存在しており、1844年にプーニによって作曲された。プティパは、それを《くるみ割り人形》初演の10年程前に改訂振り付けして再上演した。





《No.5.: SCÈNE ET DANSE DU GROSS-VATER.=情景とお祖父さんの踊り》
§作曲指示書§

指示書番号 情景描写 作曲指示
【No.12】 クレールとフリッツは今や大喜びで名付け親にお礼を言い、おもちゃを持って行こうとする 嬉しげで優雅なアンダンティーノ(16小節)
両親はこれを許さない。このような素晴らしい人形で遊んではいけないのだ。 アンダンティーノは次第に重々しくなる(8小節)
クレールは泣く。フリッツは駄々をこねる それは続く(8小節)で起こる
子供たちを宥めるために、年取った顧問官は、3番目の贈り物をポケットから取り出す。
くるみ割り人形である
。これでなら遊んで良い。
次第に活気づくアンダンティーノ、さらに(8小節)
【No.13】 瞬く間に、クレールはこの小さな男に心を魅せられる。 ここでポルカのテンポが始まる
クレールは顧問官に、この贈り物は何をするものなのかを尋ねる。
顧問官は小さい木の実を1つ取ってくるみ割り人形に割らせる
ポルカのテンポに乗って絶えずカラック・カラックあるいは
クナック・クナックと音がする音楽が聞こえる
フリッツは、その人形が出すクナック・クナックの音に興味を示す。
今度は自分が人形に木の実を割らせる番だと、フリッツは言い張る。クレールは彼を渡そうとしない。

両親は、小さなクレールにくるみ割り人形は彼女一人のものではないと注意する。
クレールは自分のお気に入りを兄に譲り、フリッツが2個の小さな木の実を割らせるのを恐る恐る見つめている。

次に、彼は1つのとても大きな胡桃の実をくるみ割り人形に押し込んだので、人形の歯は折れてしまう。トラック!・・・・
そうした全ては、ポルカの間に行なわれる(48小節)



(トラックとは歯が壊れた音)訳註
【No.14】 フリッツは笑いながら人形を投げ捨てる 非常に活発な音楽(8小節)
クレールはそれを取り上げ、優しく撫でながら、彼女のお気に入りを慰めようとする 活発な調子から次第におとなしく、より優しく(8小節)
彼女はベッドから人形を取り除け、そこにその男を置く (8小節)
【No.15】 子守歌。 子守歌のために(16小節)
それは、ホルン、トランペット、その他の金管楽器のファンファーレによって遮られる。 ファンファーレ(8小節)
子守歌は、さらに繰り返される。 子守歌(16小節)
諸楽器の同じ喧噪。 ファンファーレ(8小節)
【No.16】 この騒ぎを止めさせるために、裁判長は招待客たちにグロース・ファーターの踊りを踊るように申し出る。 この踊りに入るために(8小節)
【No.17】 グロス・ファーター。 小節指定無し


§スコア§
曲頭に書かれたト書き:
【No.12】Claire et Fritz maintenant sont enchantés et veulent emporter les joujoux. Les parents le leur défendent. Claire pleure. Fritz fait le capricieux. Pour le consoler le vieux conseiller retire de sa poche un troisième cadeau: un casse-noisette.
イ長調
アンダンテ(andante)8分の6拍子だがワルツのテンポを取る。すなわち、8分音符3つでワルツ1小節を構成するので、実は1小節がワルツの2小節分に当たる。指定通り【楽しげで優雅】なこのワルツもヘミオラを駆使している。1小節の出だしを加えた指定通りの17小節だが実質34小節。
テンポを少し速めて(poco animando)。【重々しさ】は、リズムがチェロ・バスに移ることによって示される。8小節。
続くリテヌートの3小節で【駄々をこねる】表現している(指定では8小節)。
テンポが元に戻って10小節。ドロッセルマイアーがくるみ割り人形を出す場面。
都合、この部分全体で38小節。

【No.13】Claire est enchantée du petit bonhomme. Claire demande au conseiller la destination du cadeau; celuici prend une noisette et la fait casser par le casse-noisette.Fritz entendant le knak-knak du casse-noisette s'interesse à lui. Il veut à son tour lui faire casser des noisettes.Claire ne veut pas le lui donner. Les parents font observer à la petite que le casse-noisette ne lui appartient pas à elle seule. Claire cède son favori à son frère et regarde avec effroi comment Fritz lui fait casser deux noisettes, puis il lui fourre dans la bouche une si grand noix que les dents du casse-noisette se cassent.
続く39小節目からは、クレールの喜びのポルカ(ニ長調)。くるみ割り人形にくるみを割らせる情景と、フリッツが人形を壊して投げ捨てるところまでが描かれる。投げ捨てるところは急激な下行音形で表されている。

【No.14】91小節:Fritz jette le jouet en riant. Claire le prend et avec des caresses tâche de consoler son favori. Elle enlève la poupée du lit et y pose le bonhomme.
ポルカの中間部♪ミソファミレソの音形が、ここで少し遅いテンポで繰り返される。くるみ割り人形のみじめな姿(ハ長調)と、それを嘆くクレールの心情を表し(ニ長調)、続いてドロッセルマイア―の応急修繕に繋がる(変ニ長調)。

【No.15】21小節:La berceuse.
子守歌のために指定通りの16小節+予備1小節。

Elle est par deux fois interrompue par Fritz et ses amis avec leur vacarme de tambours, trompettes etc.
続いて、おもちゃのラッパのファンファーレのための8小節。
<フリッツと彼の友達による太鼓やラッパなどでのバカ騒ぎで彼女は2度中断される。>と、ピットでの金管楽器の演奏を想定した指示書【No.15】の指定をそのまま引用せず、舞台上で男の子たちが実際におもちゃのラッパや太鼓を使用するようにト書きでは書き改められた。ただ、同じこと(子守歌とラッパ)が2回繰り返されるのは指示書指定通り。2回目のファンファーレは次に綱くために2小節の後奏が続く。

【No.16】172小節:Pour couper court a ce tumulte, le Président prie ses invités de danser un Gross-Vater.
招待者たちが位置に着くまでの8小節を15小節に拡大。

【No.17】 Tempo di Gross-Vater
グロス・ファーターの踊りとは、ヨーロッパでよく知られた舞踏会の最後を締める踊りである。ゆったりした3拍子33小節と急速の2拍子(4Xn回)小節が何度も繰り返される。

グロス・ファーターの踊りは、シューマンのピアノ曲《パピヨン》(Papillons)Op.2=《蝶々》の終曲にも使われている。

https://www.youtube.com/watch?v=Ghjhk6Es6D8




《No.6.: SCÈNE.=情景》
§作曲指示書§

指示書番号 情景描写 作曲指示
【No.18】 招待客たちは裁判長夫妻にお礼を言い、帰っていく。
子供たちは寝るように言われる。クレールは、怪我をしたくるみ割り人形を持って行く許しを求める
。両親は許さない。
彼女は、自分のお気に入りを丁寧にくるんだ後、とても悲しげな様子で去る
優美な行進曲
それはディミニュエンドで終わる(24〜32小節)
【No.19】 舞台には誰もいなくなる。真夜中になる。月が窓から客間を照らしている 穏やかで神秘的な音楽(8小節)
寝着姿のクレールが用心しながら戻ってくる。
彼女は、寝る前にもう一度、大切な怪我人を見たかったのだ
さらに彼女の登場のために、より神秘的な(8小節
彼女は怖い 戦慄(2小節)
彼女は、クルミ割りの寝台の方に進む。クルミ割りが幻想的な光を放っているように、彼女には見える 幻想的で、さらに神秘的な音楽(8小節)
午前零時が鳴る。午前零時が鳴る間、彼女は大時計を見つめ、フクロウがドロッセルマイアーに変わったのを、
恐る恐る見る。彼は、彼女を見つめ、嘲るような微笑を浮かべる
音楽は休止
彼女は逃げたいけれど、力が抜けている。それは、トレモロの間に起きる。 時計が鳴った後、恐ろしい、短いトレモロ。
【No.20】 夜のしじまの中で、彼女は鼠が引っ掻く音を聞く。彼女は立ち去ろうとするが、鼠が到る所から現れる トレモロの後、続けて鼠の引っ掻く音が聞こえる(4小節)
そして、鼠の鳴き声のために、別の(4小節)
それで、恐怖に囚われて! 哀れなクルミ割りを持って、
彼女は逃げようとするが恐怖があまりに大きかったので、彼女は椅子の上に倒れ込む。すべてが消える
鼠の鳴き声の後、さらに、テンポが加速される(8小節)
彼女が崩れるように倒れるのは1つの和音で終わる!
【No.21】 扉が開き、クリスマスツリーが大きくなる/ように見える。 壮大なクレッシェンドによる、幻想的な音楽(48小節)


§スコア§

【No.18】
Les invités remercient le Président et sa famme et s'en vont. On ordonne aux enfants d'aller se coucher. Claire demande la permission d'emporter avec elle le casse-noisette malade. Ell s'en va toute chagrine après avoir bien enveloppé son favori.
パーティお開きのシーン。ここではテンポを速められた「子守歌」のメロディーが「優美な行進曲」として使われている。このメロディーはヴァイオリン→イングリッシュホルン→クラリネット→チェロ・バスと移り変わっていき、楽しかったパーティの名残り惜しさを表す。また、指示書通り招待客や家族が大広間から三々五々
去っていき、人がいなくなっていく様子を巧みに表している。ハ長調、4/4、48小節。

49小節:La scène est vide. Il se fait nuit. La lune éclaire le salon par la fenêtre. Claire en toilette de nuit revient avec précausion; avant de s'endormir elle a voulu voir son malade chéri. Elle a peur; Elle savance vers le lit de casse-noisette qui lui sembre produire une lumière fantastique.Minuit sonne. Elle regarde l'horloge et voit avec effroi que la chouette s'est transformée en Drosselmayer qui la regarde avec son rire moqueur. Elle veut s'enfuir, mais les forces lui manquent.
気分は一転。静かで何か起こりそうな奇怪な雰囲気に一変。21小節目、金管がフォルテピアノでクレールが突然立ち尽くすように響く。スコアにわざわざ( Elle a peur)(彼女は怖い)と書き足されている。指示書指定の戦慄の2小節である。
続いて、クラリネットがドロッセルマイアーに似た音形を演奏する(8小節)。そして12時を知らせる時計の音のためのフェルマータ。その後、3小節のトレモロを含む移行句。

82小節:Dans le silence de la nuit elle entend les souris qui grattent. Elle fait un effort pour s'en aller mais les souris apparaissent de tous côtés. Alors elle veut s'enfuir mais sa frayeur est trop grande. Elle s'affaisse sur une chaise. Tout disparaît.
バスクラリネットの8分音符の刻みに乗ってファゴットが鼠の主題を演奏する、それは8小節後チェロに変わる。さらにヴァイオリンにまで広がってフォルテシモになる。そしてクレールが椅子に倒れ込む。この間24小節は指示書の16小節より8小節長い。

108小節:L'arbre de Noël grandit et peu à peu devient immense.
そしてテンポは緩みモデラート・アッサイになる。飾りのクリスマスツリーがどんどん大きくなり、巨大なツリーになる。プティパの着想をチャイコフスキーは壮大な音楽に膨らませたのだ。指定の48小節より7小節長い55小節。

この<No.6>は、非常に巧妙・精緻に作られている。というのは、原作の紆余曲折した物語の進展を、バレエでは『現実⇒夢⇒真実』と一直線に進むように構成されたからである。そのため、チャイコフスキーは「現実の世界」から「夢の世界」に進む転換点としてのこの部分を作曲指示書に極めて忠実に(小節数の細かい違いを除いて)作曲したのである。また、プティパは原作の重要部分である『ピルリパート姫の物語』を削除したため、夢の世界への導入には、ことのほか注意深い配慮が必要となったのである。それを舞台表現として実現したのが、パーティのあとの月明かりに照らされた無人になった広間<原作ではマリー(原作でのクレールの名前)だけが広間に残る>と、ドロッセルマイアーのフクロウ時計への出現<原作通り>、そしてクリスマスツリーの拡大<原作にはこの場面は無い>なのである。ドロッセルマイア―は両親に挨拶して既に帰ってしまったことは明瞭に描かれる。にもかかわらず、マリー以外誰もいない広間に何故かドロッセルマイア―がフクロウ時計の上に現れるのである。このドロッセルマイアーは現実のドロッセルマイアーではない。マリーの心(記憶)の中のドロッセルマイア―なのである。そして、これから起こる不思議な物語はマリーの夢などでは決してなく、彼がマリーに語った物語を彼女が幻想の中で反芻して膨らませたに過ぎないのである。この不思議な成り行きを、バレエを観ている観客に疑問を起こさせ、さらにその解答を導き出せるように、演出家は構成に工夫を凝らさなければならない。
ドロッセルマイアーがマリーに奇怪な話をした理由は原作から導きだされる。原作では、ドロッセルマイアーがマリーの誕生日に「7つ繋がった鎖」を贈る。マリーはそれが何なのか不思議がって彼に尋ねる。それは本当はドロッセルマイアーの「懐中時計の鎖」なのだが、中途半端に「7つの頭を持った鼠の王様の7つの王冠」であると説明する。マリーはその「謎の王冠」と「人形たち」から幻想の物語を構築するのである。その後、怪我をして病床にあるマリーにドロッセルマイア―は物語の全貌を語る。そこでは、殺されたマウゼリンクス夫人の7人の子供の生まれ変わりの「7つの頭を持った鼠の王」が登場する。その後、マリーはファンタジーをさらに膨らませて物語が展開することになるのだが、その根底には常に「7つの王冠」の不思議が存在するのである。
ところが、「鼠の王様」が登場するプティパの作曲指示書<No.7>には、ただ「鼠の王様」とだけしか書かれていない。2つある台本においても同様である。したがって舞台では1つの王冠を付けた普通の鼠の被り物を被った人が「鼠の王様」として登場することが多い。しかし、原作を気にする幾人かの演出家は物語上重要なアイテムである「7つの頭を持った鼠の王様」を実現しようとするのだが、それらは滑稽な被り物にしか見えず、どうしても「恐ろしい怪物」には見えないのだ。これは舞台での再現の難しいところである。プティパもそれを見越して普通の鼠の被り物にしたのかもしれない。しかし、何か工夫を凝らして原作の意図が観客に通じるように工夫してもらいたいものである。チャイコフスキーの音楽はこういったことを含めて非常に巧妙に作られているのだから。







《No.7.: SCÈNE.=情景》
§作曲指示書§

指示書番号 情景描写 作曲指示
【No.22】 見張りをしている歩哨が叫ぶ「誰か?」。答えはない。 「誰か」と叫ぶのに(2小節)
そして静寂(2小節)
歩哨が発砲する。 (1または2小節)
人形たちは怯える 恐怖の(2小節)
歩哨は兎の鼓手たちを起こす 目覚めるのに(8小節)
[兎たちは]太鼓を叩いて警戒を告げる (8小節)
次いで、[鼠たちとパン・デピスの兵隊たちは]戦闘隊列を組む。 (4〜8小節)
戦闘 4分の2拍子で(48小節)
鼠が勝利を収めパン・デピスの兵隊を貪り食う それは、戦闘の48小節の後(8小節)
鼠がパン・デピスを食べるのが聞こえるように
【No.23】 鼠の王が出現する。彼の軍隊が喝采して迎える 王の入場のために、鋭い、激昂した音楽(8小節)
その音は聴覚に完全に不快感を与える
万歳! キー・キー。 (4小節)
【No.24】 クルミ割りが彼の古参親衛隊を招集する。「戦闘準備!」と彼は叫ぶ (4小節)
そして、再び戦闘隊列を組む。 (8小節)
【No.25】 二度目の戦闘が始まる。
大砲の一斉射撃と、散弾の一斉射撃、銃の一斉射撃と鋭い悲鳴が聞こえる。
また4分の2拍子(96小節)
【No.26】 クレールはクルミ割りを護るために、片方のスリッパを鼠の王に投げ、それから気を失って倒れる 鋭い悲鳴のために(2小節)
消え失せる鼠の鳴き声のために(6小節)
それらは96小節の終わりで行なわれる


§スコア§

はじめ:La sentinelle crie: "qui vive?" Pas de réponse. Elle tire un coup.
中弦以上の16分音符の刻みの中で、オーボエによる歩哨の声が響く(5小節)。

6小節:Le coup de fusil.(フェルマータの付いたゲネラル・パウゼ(全休止)へのチャイコフスキーの指示)。
ここで、歩哨の発する乾いた鉄砲の音が1発響く。

7小節:Les poupées sont effarouchées. La sentinelle réveille les lapins à tambour.
16分音符の刻みが細かい動きになり不安が増幅する。歩哨の声がファゴットに移り、兎の鼓手たちを目覚めさせる(6小節)

13小節:
Les lapins battent l'alarme.
Les souris et les soldats à pain d'épice se rangent en bataille.
兎の鼓手たちが「おもちゃの兎の太鼓2つ」を打ち鳴らす中を木管楽器がファンファーレを吹き、鼠たちとパン・デピス軍【註】が戦闘隊列を組む(8小節)。

25小節:
.
La bataille.
タムタム(どら)が鳴って1回目の戦闘開始。低音弦の戦闘リズムに乗って、ファゴットとバスクラリネットに鼠の主題が現れ『鼠軍』を表す。オーボエはファンファーレを続け、「子供の太鼓」が気勢を上げるのは『パン・デピス軍』。

戦闘は激しさを増す。指示書では4分の2拍子を指定しているが、チャイコフスキーは引き続き4分の4拍子で記譜しているため、指定の48小節(実質24小節)に対して、27小節をこの戦闘場面に充てている。


52小節:Les souris triomphent et dévorent les soldats à pain d'épice.

『鼠軍』が勝って『パン・デピス』【註】を貪り食う。貪り食うさまは弦楽器の激しいダウンダウンのボウイングで表現される。

56小節:Casse-noisette appelle sa vieille garde. Il crie: "aux armes!"
木管楽器がクルミ割り「戦闘準備」の叫びを表す。指示書の【鼠の王の出現】とは順序が逆になっている。

63小節:Le roi des souris arrive. Son armée l'acclame.
低弦が鼠の王の出現を表す。鼠たちの『万歳!』は、管楽器のfff。

73小節:La seconde bataille.
73小節の1拍前に再びタムタムが鳴って、2回目の戦闘。1回目と同様、4分の2拍子、96小節の指定に対して、チャイコフスキーは4分の4拍子、49小節(指定の2拍子では98小節に相当)を充てている。前半は、1回目の戦闘とほぼ同様に進行するが(音楽形式的には再現部の様)、後半は、より激しさを増し、105小節以降は次の情景描写に充てられる。

105小節:Claire jette son soulier sur le roi des souris et tombe évanouie.
クララが鼠の王にスリッパを投げるというバレエ《くるみ割り人形》の中で、最も有名な劇的な場面である。

【註】pain d'épice=パン・デピス(生姜入り焼き菓子)。これはデュマの仏語翻案からの引用であって、独語の原作ではPfefferkuchen=フェファークーヒェン(胡椒入り焼き菓子)と表現されており、米国ではgingerbread=ジンジャーブレッド(生姜入りクッキー)と呼ばれ、いずれもクリスマスによく食べられる、よい匂いのする香辛料が入った甘いクッキーのことである。胡椒や生姜が入っているとは限らない。ジンジャーブレッドで検索すると、これらの各国語を持つお菓子で作られた、たくさんのクリスマスデコレーションの画像を見ることが出来る。日本のアニメではお目にかからないが、、ディズニーのアニメなどではジンジャーブレッドはちょくちょく登場する。
原作では、人形の国でのPfefferkuchheim(ペッパー焼き菓子村)としても使われ、クッキー状のこのお菓子で家を作ったりもする。また、戦争場面では、シャレとして使われているのかDevisen-Korps=デヴィゼン・コール(傭兵軍)として、人形の形に作られたこのお菓子が想定されている。この人形には願い事を書いた紙きれを焼く前に練り込む風習もあるようで、原作ではそれも食べてしまって喉を詰まらせて死ぬ鼠が描かれている。
<Doch wenig Vorteil hatte der Feind von dieser Untat. Sowie ein Mäusekavallerist mordlustig einen der tapfern Gegner mittendurch zerbiß, bekam er einen kleinen gedruckten Zettel in den Hals, wovon er augenblicklich starb.>
<だが敵軍はこの非道な行為のためにかえって不利を招きました。たとえば1匹のネズミの騎兵は、残酷にも勇敢な敵の1人の胴体を噛み破りましたが、そのため印刷してある小さな紙片を喉にひっかけて、あっという間に死んでしまいました。>前川訳p29
この直訳調の訳文では一体何を言っているのかさっぱり理解できないが、次の意訳調では、七夕の短冊のような風習がフェファークーヒェンにも存在することを前提にした記述であることを示して、このくだりの文意を分かりやすくしている。
<でも、敵のこのむごい攻撃は、成功ではありませんでした。というのは、人形クッキー(フェファークーヒェン)には、みんなそのおなかにことわざを書いた紙が入っているものです。ですからネズミの騎兵は、勇敢にたちむかってくる人形クッキーに、殺気にもえてがぶりとかみついたとたん、印刷した紙きれをのどにつまらせて、あっというまに死んでしまいました。>上田訳p58-59
ところが、デュマの翻案ではパン・デピスは登場するが、鼠が呪文にひっかかる場面は削除されてしまっている。そのため、指示書にもチャイコフスキーのト書きにも、この局面で鼠が死ぬ描写はない。




ACTE I.=第1幕、Tableau II.=第2場 

【第1幕】 舞台装置が変わる。
(第2場) 冬の樅の森



《No.8.: SCÈNE.=情景》
§作曲指示書§

指示書番号 情景描写 作曲指示
【No.27】 クルミ割りは王子に変わるー感謝しているー。 1つか2つの和音
彼はクレールを介抱しに行き、
彼女は意識を取り戻す。

ここで、感動的な音楽が始まり、
それが詩的なアンダンテに繋がり、
そして壮大に終わる。
(64小節)

はじめの2つの段落は、《No.7》の最後、鼠軍が敗走した直後に描かれる。低弦と低音金管が激しい戦いの後の心臓の鼓動のように響く中を、ヴァイオリンが美しく舞い上がる。王子への変身とクレールの目覚めを表現しているようだが、この部分にト書きはない。続く64小節の音楽の指定は、場面転換のためを想定しているようだ。

§スコア§

はじめ:Une forêt de sapins en hiver. Les gnomes avec des flambeaux se placent prés de l'arbre de Noël pour faire honneur au prince, à Claire et aux joujoux qui vont se placer sur l'arbre. <冬の樅の森。松明を持った地の精(グノム)がクリスマスツリーのそばに現れる。王子、クレール、そしてツリーに飾られたおもちゃを祝福するためである。>
場面転換は、背景を動かすことによって行われるので、幕を閉じる必要はない。したがって、この音楽ではクルミ割り王子とクララのパドドゥが踊られることが多い。チャイコフスキーは既にそれを察知してか、《間奏曲》ではなく、《情景》としてこれを作曲している。
ト書きには、【冬の樅の森。】以外は引用されない。その代り、スコアには何故か原作、翻案、指示書や台本にはまったく記載のない「地の精」が登場する。これは、きわめて不思議な現象である。指示書の必要事項のみを転記するというト書きの性格上、余計なものの追加など存在するはずはないからである。後から口頭で伝えられたというのも、後に書かれた2つの台本にすら「地の精」などは登場しないので、有り得ないだろう。とすると、後の演出家がクリスマスツリーなどと関連して民間伝承的な要素を付け加えたいと考えてスコアのト書きに追加したとも疑ってみる必要があるのではなかろうか。この点については、自筆譜資料を検証する必要があるだろう。そもそも、ホフマンの原作やデュマの翻案には、人形やおもちゃは登場しても、妖精などは全く登場しない。この物語における「現実」と「幻想」は、明瞭に「事実」と「真実」だけが述べられているのであって、それ以外には「読者」(聴き手)がいるだけである。存在のあやふやな「妖精」などは登場しないのである。そういった意味では、プティパが創り出した「ドラジェの精」などは全くバレエ的発想であって、この物語ではありえない代物なのである。
この曲の主題は、チャイコフスキーの《子どものアルバム(24の易しい小品)》作品39 (1878)の第21曲《甘い夢》↓との関連がよく取りざたされる。特に19〜20小節は《甘い夢》の冒頭と全く同じである。それと同様、クリスマスツリーが巨大化するシーンの主題との親近性も重要である。

https://www.youtube.com/watch?v=JRHL65Om8tY&nohtml5=False+e

この《No.8:情景》は、全15曲のちょうど真ん中、8曲目に位置する。《白鳥の湖》のときもそうであったように、チャイコフスキーは、数の区切りを大切にする人なので、このナンバーには『真ん中の曲である』ということで、特別に重要な意味を与えている。すなわちこの曲は、クレールとクルミ割り王子の愛の成就と人形の国への『道行』を表現しているのである。それを見事にバレエとして表現しているのが↓。これは、一連の初演公演の中で残された写真のうちで特に目を惹く1枚、ドラジェの精を踊ったバーバラ・ニキチナが、床に敷かれた白い大きな布の上にポワントで立ち、王子役のゲールトに引かれている写真にヒントを得たものだろう。まさしく『道行』の具象化そのものだ。

https://www.youtube.com/watch?v=19Pn1keCMgg&nohtml5=False+e

このイリーナ・コレスニコワの映像は、しかし、《No.8:情景》の音楽を使っていない。これは、チャイコフスキーの《第3組曲》の第1曲《エレジー》である。背景が『樅の森』であること、雪の精が白布を運んでくることから《雪玉のワルツ》の直前で踊られると推測されるが、《No.8:情景》があまりに重々しく意味ありげに過ぎるため避けられたのかもしれない。とにかく、バレエ的には成功で、幻想的で優雅な踊りは人を魅了させるに十分である。




《No.9.: VALSE DES FLOCONS DE NEIGE.=雪玉のワルツ》
§作曲指示書§

指示書番号 情景描写 作曲指示
【No.28】 雪が降り始める。突如、白い、軽やかな、夥しい雪ひらが現れる。
60人の女性舞踊手。彼女たちは果てしなく旋回する。
ワルツが4分の3経過したところで、彼女たちは丸い雪玉を作る。
次いで、一陣の強風が雪玉を散らせ、女性舞踊手たちを旋回させる。 
最後に、降りしきるぼたん雪が電気照明で照らされる。
旋回するワルツ


§スコア§

257小節:Une forte rafale fait tourbillonner les flocons de neige.

チャイコフスキーは指示書に指定されている情景に相応しいワルツを作曲した。ただ、ト書きは全体の4分の3が経過して、ワルツから4分の2拍子に変わる直前のハープのグリッサンドのところに上記のように記しているのみである。
「フロコン=flocon」とは「羊毛・羽毛・絹・木綿などの衣類を着続けると出来て来る細い繊維が集まった小さな玉、カタマリ、房」を意味するものである。これは、雪や雲などに対しても比喩的に使われる。雪が強風にあおられて小さな玉になって吹き飛ばされる姿が雪玉が踊っているように見えるのである。このワルツは《雪片のワルツ》と訳されることがよくあるが、ニュアンスを正確に表現しているとは思えない。それはスパッと切り取った雪の断片といったようなものではなく、小さなふわっとしたカタマリを意味するからである。バレエの衣装でダンサーたちが白い玉を身につけているを目にすることがあるが、まさにそれがフロコンであって、「雪片」という言葉はイメージに合わないように思う。

音楽は、前の《樅の森》の音楽から間断無く続いて演奏され、ひらひら舞う雪のような音形が続くのだが、主要主題自体がチャイコフスキー得意のいわゆるヘミオラ、2小節3拍が連続する。これが主題としての強い印象を与えることが出来ない要因なのか、コーラスが入るためなのか、バレエ以外で演奏されることは極めてまれだ。とにかく作品自体の内容の素晴らしさに対して《花のワルツ》との演奏頻度の差は月とスッポン状態だ。

チャイコフスキーは、このワルツの中で指示書には指定がないのに、バレエでは異例の、たぶん当時は掟破りと言ってもよいくらいのヴォカリーズ(歌詞のない人声の歌)を導入した【註】。クレール(マリー)を天国に導く情景を描くためには無理をしてでも声楽が必要だったのだ。スコアには<(CHOEUR invisible de 24 voix de femmes ou d'enfants sur la scène>(合唱:24人の女声または子供の声で、舞台の上の方の観客から見えないところ)と指示されている。歌われる場所としては、<derrière la scène>(舞台裏)ではなくて、<sur la scène>となっているので、もちろんオケ・ピットの中などではないとしても、舞台上の見えないところ、クリスマスツリーの後ろなども考えられ無くもないが、舞台の構造上の制約があるとはいえ、できるだけ高所からの、天国から響くような声が望ましい。これは明らかに原作におけるマリーの死のほのめかしに触発されたオーケストレイションだからである。なお、スコアにはロシア語による註もあって、そこには『24人の女性か子供の合唱。註:この合唱は12人のソプラノと12人のアルトによらねばならない。教会の少年合唱の方が望ましいが、オペラの合唱団から選ばれた、訓練された24人の女声でも構わない。』とも記されている。

【註】ヴォカリーズは、管弦楽曲ではドビュッシーの《夜想曲》の『シレーヌ』やホルストの《惑星》の『海王星』が有名で、バレエでは《ダフニスとクロエ》や《海賊》にも現れる。ラベルの《ダフニスとクロエ》は、《くるみ割り人形》の約20年後、ロシアバレエのディアギレフのために作曲されたものだが、そこには女声だけではなく、歌詞の無い本格的な混声合唱が加えられている。ところが、ディアギレフは経費が掛かるし無駄だと反対したので、合唱の無い編曲がスコアに付録として添えられている。《海賊》のヴォカリーズは終末直前の航海の場面に使われているが、音楽には作曲者アダンの他に幾人もの手が加えられおり、ヴォカリーズの無い版もある。このようにヴォカリーズは、女声による海や海の精に関係した曲で使われることが多いが、『死』に関連した『天国の声』的使われ方をしているのは、ヴォ―ン・ウイリアムズの《田園交響曲》が挙げられよう。




ACTE II.=第2幕

作曲指示書のプティパの下書きには「1891年3月9日、パリのチャイコフスキーのもとに送付」とあり、原稿自体には、チャイコフスキーの手で「1891年4月12日、ルーアン」と記載されている。
§作曲指示書§

【第2幕】 コンフィチュランブールの魔法で出来たような見事な宮殿。この上ない幻想的な舞台装置。

Le palais enchanté de Confiturembourg.


《No.10.: SCÈNE.=情景》
§作曲指示書§

指示書番号 情景描写 作曲指示
【No.1】 背景と舞台の袖には棕櫚の木が描かれ、
棕櫚の木はチュールに金箔・銀箔が施されている。
舞台奥には、レモネード、オレンジエード、オルジャ、グズベリーのシロップの
それぞれの噴水(が湧き出ている)。
幕が上がる前に、この幕が始まるための導入曲。
導入曲の途中で幕が上がり、曲はより壮大になる。
【No.2】 これらの噴水の間に、バラのエッセンスの河(良い香りがする)に面して、
透かし彫りの柱を持つ大麦糖の四阿(あずまや)が見え、
そこに、お供を連れたドラジェの精が見える。
開幕の時、舞台の上にいる人々は、キャラメル、マジパン、パン・デビス、
シナモン、ヌガー、ドラジェ、大麦糖、ハッカ・ドロップ、氷砂糖、プラリーヌ、
コリント干しブドウ、ピスタチオ、マカロン、そして宮殿の警備をしている
小さな銀の兵隊である。
舞台の中央に、金襴を着た小人(こびと)がじっと立っている。

【No.2】のために、ほとんどアレグレットに近いアンダンテ(16小節)。
これもまた、【No.3】に続く。
【No.3】 お供を連れたドラジェの精現れる。
(続いて上記のお菓子たちの)「一団」。
彼女たちは舞台の前面に出てくる。
全員がお辞儀をし、小さな銀の兵隊が捧げ銃をする。
四阿は消える。
続く音楽は穏やかな妙なるものになる。
(16小節)

注意すべきは、この作曲指示書では<お供を連れたドラジェの精が現れる。>とドラジェの精だけが登場する点である。当初ドラジェの精は《眠れる森の美女》の王や王妃のような踊らないキャラクターとして設定されたのだろう。ところが、2つの台本とも<コクルーシュ王子(オルジャ王子)を伴ったドラジェの精が砂糖の四阿の中に立っている>と王子が追加された。これは、この先のドラジェの精とコクルーシュ王子とのパドドゥを配慮しての処置と思われるが、パドドゥはもともとはクレールとくるみ割り王子が踊る設定だったのではないかとの疑念を抱かせる根拠の一つでもある。なぜなら、指示書に存在するクレールとくるみ割り王子が「婚約者」であるという原作や翻案通りの設定を覆して、2つの台本では、二人は「婚約者」ではなく、クララはコンフィチュランブールの「お客さん」に変えられたことと軌を一にした変更だからである。とにかくドラジェの精とコクルーシュ王子という原作・翻案には全く存在しないキャラクターを登場させたのは、ひとえにバレエ演出上の配慮であったことは間違いない。それは後の演出で《雪玉のワルツ》に雪の女王や雪の王、《花のワルツ》にデュードロップなどという新しいキャラクターを創出したことがバレエ振付上の必要性に迫られてのことであったことと軌を一にした変更であろう。


§スコア§

Rideau.

Le palais enchanté de Confiturembourg.

La Fée Dragée apparait avec sa suite.



《No.11.: SCÈNE.=情景》
§作曲指示書§

指示書番号 情景描写 作曲指示
【No.4】 バラのエッセンスの(バラの良い香りがする)河が盛り上がり、そして、その波立つ流れから、金のイルカが曳いた、
太陽にきらめく宝石で覆われた貝殻の二輪車に乗って、クレールと王子が登場する
金のイルカは頭を上げ、バラ色の水晶のような眩い水しぶきを空中に吹き上げて、その眩い水しぶきは虹色の色とりどりの雨のように降り注ぐ。
鈴の付いたパラソルを持ち、鯛の鱗でできた縁なし帽を被り、ハチドリの羽でできた服を着た6人の魅力的なムーア人が、地面に飛び降り、
ハッカ・ドロップを一面に撒き散らしたアンゼリカの絨毯を敷く。
その絨毯の上を通って婚約者たち(クレールとくるみ割り王子)が入場する。ドラジェの精が二人を迎えに行く。
二人に、銀の兵隊が捧げ銃をし、幻想的な一同は最敬礼をする。
金襴を着た小人が、クルミ割りの前で恭しくお辞儀をし、彼に言う。
「おお!王子様、とうとうお越しになりましたね!コンフィチュランブールにようこそいらっしゃいました。」
ここで、アルペジォか、私は検討している。
音楽は拡大し、波立つ流れのように膨らむ。
この曲の終わりまで加速していくアンダンテ。
(24〜32小節)
【No.5】 松明の代わりに灯をともされた香草の茎を手に持って、12人の小さな小姓がやってくる。
彼らの頭は真珠で出来ている。彼らのうちの6人の胴はルビーで、他の6人の胴はエメラルドで作られていて、
それに、彼らは、このうえなく細心に彫琢された、小さな金の両足で、とても可愛らしく小刻みに動く。
彼らに続くのは4人の貴婦人で、彼女たちは、背丈は人形くらいであるけれど、非常にきらびやかな衣装を着て、
非常に華やかに着飾っているので、彼女たちが、コンフィチュランブールの王女たちであることを、クレールは見誤らない。
4人とも、くるみ割りが目に入ると、このうえなく優しい感情をあらわにして、彼を抱擁し、同時に、声を揃えて叫ぶ。
「おお、私の王子さま! 私の素晴らしい王子様!・・・おお、私のお兄さま! 私の素晴らしいお兄さま!」
この場面のために、かなり激しい4分の3拍子の音楽。
(24〜32小節)
【No.6】 クルミ割りはとても心を打たれ、クレールの手を取り、4人の王女に向かって、悲壮感を込めて言う。
「愛しい妹たち、クレール・ジルバーハウス嬢をご紹介します。私の命を救ってくださったのは彼女です。
なぜなら、私が戦に負けようとしていた時、彼女が鼠の王にスリッパを投げてくださらなかったら、
私は今頃、墓の中で横たわっているか、もっとひどければ、鼠の王に貪り食われていたでしょうから。」
穏やかで非常に悲壮な4分の2拍子。
(8小節)
次いで、かなり好戦的で白熱する。
(16小節)
【No.7】 「ああ!愛しいジルバーハウス様、おお、私たちの愛しい、大好きなお兄様の王子を助けてくださった、気高いお方。」 ここで、穏やかな4分の2拍子がクルミ割りの幸運な解放ゆえに、
急速な、激したものになる。
(16小節)

【No.8】
ドラジェの精が合図をすると、魔法のように、舞台にジャム・・・などの、輝くばかりの食卓が現れる
小人がチョコレートを供するように命じる。
同じ4分の2拍子の続き。
小さな銀の兵隊のトランペットが聞こえる(8小節)。
そして、チョコレートを供するための(8小節)。
続く踊りの短い導入部として。



§スコア§
Le fleuve d'essence de rose se gonfle. Claire et le prince paraissent.

Douze petits pages arrivent portant des flambeaux.

Casse-noisette raconte son histoire et comment Claire l'a sauvé.
<クルミ割りは、どうやってクレールが彼を救ったかを物語る。>直接【No.6】を引用せず、要約している。

La cour célèbre le service rendu par Claire au prince.
<宮廷の一同は、クレールが王子に尽くしたことを賞賛する。>直接【No.7】を引用せず、要約している。


Sur un signe de la Fée Dragée une table resplendissante parait.

【ディヴェルティスマン】 (9つの舞踊単位)



《No.12.: DIVERTISSEMENT.=ディヴェルティスマン》
a) Le chocolat.(ショコラ=チョコレート)
§作曲指示書§

指示書番号 情景描写 作曲指示
【No.9】
第1の踊り
ショコラ。
スペインの踊り。
4分の3拍子。
(64〜80小節)


§スコア§


b) Le café.(コーヒー)
§作曲指示書§

指示書番号 情景描写 作曲指示
【No.10】
第2の踊り
コーヒー。アラビア、イエメン王国。
モカ・コーヒー、東洋の踊り。
官能的で魅惑的な音楽。
(24〜32小節)



§スコア§

c) Le Thé.(茶)
§作曲指示書§

指示書番号 情景描写 作曲指示
【No.11】
第3の踊り
お茶。 中国風ー鈴など。4分の3拍子のアレグレット。
(48小節)



§スコア§

d) Trépak.(トレパーク)
§作曲指示書§

指示書番号 情景描写 作曲指示
【No.12】
第4の踊り

踊りの終わりに、猛禽の羽毛を付けたトレパックの踊り。

加速度的に速くなる4分の2拍子。
(64小節)



§スコア§


e) Les Mirlitons.(芦笛の踊り)
§作曲指示書§

指示書番号 情景描写 作曲指示
【No.13】
第5の踊り
葦笛の踊り。
薄膜で両端が塞がれた、葦で作られた笛を吹きながら、彼らは踊る。
ポルカのテンポ。
(64〜96小節)




§スコア§

f) La mère Gigogne et les polichinelles(ジゴーニュおばさんとポリシネル).
§作曲指示書§

指示書番号 情景描写 作曲指示
【No.14】
第6の踊り
32人のポリシネルとジゴーニュおばさんの踊り。
ジゴーニュおばさんは彼女のスカートから跳び出してくる子供たちを伴う。
強いアクセントの効いた速くない4分の2拍子。
(64小節)
切れ目なしで。
ジゴーニュおばさんと、彼女のスカートから跳び出してくる子供たちの登場。

4分の3拍子。
(48小節)

次いで、僅かに速くなって再現される
最後は、一団となってポリシネルたちの真ん中にジゴーニュおばさんがいる。
(32〜48小節)




§スコア§

《No.13.: VALSE DES FLEURS.=花のワルツ》
§作曲指示書§

指示書番号 情景描写 作曲指示
【No.15】
第7の踊り
グラン・バッラービレ。大きな花輪を用いた花々のワルツ
小さな男が手を叩くと、花々の衣装をまとった36人の女性舞踊手が、36人の男性舞踊手とともに登場し、
アンゼリカの大きな花束を持ってきて、それを婚約者である二人に贈呈する。
それを渡すとすぐに、オペラで行なわれるように、女性舞踊手たちと男性舞踊手たちは、
ポジションを取り、踊り始める。
ワルツに入るために8小節。
それから《眠れる森の美女》(第2場)における《村人のワルツ》と同じ長さの小節数のワルツ。


§スコア§
ニ長調、4分の3拍子、テンポ・ディ・ヴァルス。
ここには、ト書きはない。しかし、プティパの指示通りの音楽が、より増幅された形で現れる。グラン・バッラービレ(grand ballabile)とは、舞踏会のような大人数で踊る華やかな踊りのことである。
序奏は、プティパの指示の8小節に対して、33小節を有する大規模なものとなっている。最初、管楽器がメロディーの断片を歌い、ハープがアルペジオで応答する。それらが2度繰り返されてだんだん盛り上がる。ここでの管楽器の動きはワルツの各主題の要素を提供しているのである。つづいて、ハープのみのカデンツァとなる。<アンゼリカの大きな花束を持ってきて、それを婚約者であるクレールとくるみ割り王子に贈呈する>場面のマイム(無言劇)を想定しているのだろう。《眠れる森の美女》(第2場)の《薔薇のアダージョ》での長大なハープ・カデンツァによるマイムと同じ手法である。序奏部分を通して、主調ニ長調の属音であるイ音が支配している。すなわち、この序奏部分全体は主部に対して大きな属和音を形成しているということである。

主部は、三部形式(A・B・A)で、Aの部分は2つの主題から成る。第1の主題(a)はホルン、次いでクラリネット、第2の主題(b)は弦楽器によって演奏され(a・b・a・b)という形式になっている。
Bの部分も2つの主題から成り、第3の主題(c)は木管楽器、第4の主題(d)は中弦楽器が演奏し(c・d・c)という形式になっている。
ヘミオラによる移行句があったのち、Aに戻る(a・b・a)。オーケストレイションが増強され、そのまま華やかに終結に向かう。
ここで現れる4つの主題(a、b、c、d)は、いずれも序奏のメロディーから派生したものである。(a)主題は、もちろん冒頭を引き写したものであるが、他の3つの主題も序奏の第三楽節から採られていることは明らかである。そのため、非常に有機的で緊密な構成となっており、全主題にチャイコフスキー得意のヘミオラ的リズム要素が含まれない原因となっている(ヘミオラはつなぎの部分に時々現れるが)。こういう、リズム的単純さが《花のワルツ》が特に親しまれている原因なのかもしれない。

なお、プティパが指摘した<《眠れる森の美女》(第2場)における《村人のワルツ》>は《ガーランドワルツ(花輪のワルツ)》とも言われ、297小節から成る。この《花のワルツ》は389小節を擁しているので、指示よりもさらに巨大化している。



《No.14.: PAS DE DEUX.=パドドゥ》
§作曲指示書§

指示書番号 情景描写 作曲指示

:【No.16】
第8の踊り
パドドゥ
ドラジェの精と(優しい)王子【註1】。
効果的で大規模なアダージュ【註2】。
(48小節)
男性舞踊手のためのヴァリアシオン。 8分の6拍子。
(48小節)
女性舞踊手のためのヴァリアシオン
そこではまた、噴水からほとばしる水のしずくが聞こえる。
スタッカートで奏される4分の2拍子。
(32小節)
次いで非常に加速されて終わる。
(24小節)
コーダ 活発なテンポの4分の2拍子。
(88小節)

【註1】(優しい)王子は、オルジャ王子=Prince Orgeatとも言われる。オルジャとは、アーモンドペーストと砂糖や香料を混ぜた飲み物である。英語ではAlmond syrupアーモンド・シロップ)。すなわち、アーモンドつながりでドラジェとペアになっているというわけである。ただ、指示書の原文がどうなっているか、私は知らない。というのは、チャイコフスキーの仏語による指示書引用ト書きには王子は出てこないし、指示書の平林・小倉両氏の訳が違っているからである。平林氏は「優しい王子」と訳し、小倉氏は単に「王子」と訳している。なお、ロシア語台本ではコクリューシ王子(これは小倉訳で、平林訳ではコクルーシュ王子=Prince Coqueluche)となっている。その意味は人気者といったところか。
【註2】アダージュ(adage)はアダージョ(adagio)のフランス語形であるが、ここでは本来のテンポ指示用語として用いられているのではなく、バレエ用語(男女が優雅に踊る舞踊形式)として用いられている。わが国では、バレエ用語としても、アダージョが使われることの方が多い。


§スコア§

(1)Andante maestoso.=アンダンテ マエストーゾ
スコアには【ドラジェの精と(優しい)王子】の記述は無い。単に《パドドゥ》と記載されているだけである。
2台のハープとピチカートの伴奏によるチェロのメロディーから始まる壮大なアダージョ、4分の4拍子(74小節)、ト長調。
曲は三部形式で、チェロが奏する♪ドシラソファミレドとの単純に音階的に下降する主題から始まる。中間部は少しテンポを速めて(Poco più mosso)、オーボエの哀切極まりないメロディにつながり大きく盛り上がって最初のメロディーに戻る。そしてパドドゥにはふさわしくないほどの雄大な終止に向かう。
高名なチャイコフスキーのバレエ音楽の研究家ワイリー(R.J.Wiley)はこのチェロのメロディーをロシア正教の葬儀で用いられる神への祈りの旋律と類似していると指摘している。

(2)Var. I.(Pour le danseur)=ヴァリアシオンI.(男性舞踊手用)
テンポ・ディ・タランテラ、木管楽器による細かい動きの8分の6拍子(51小節)、ロ短調。小さな三部形式。

(3)
Var.II.(Pour la danseuse)ヴァリアシオンII.(女性舞踊手用)(Danse de la Fée-Dragée.=ドラジェの精の踊り)
アンダンテ・ノン・トロッポ、チェレスタのソロが活躍する4分の2拍子(52小節)+プレスト(32小節)、ホ短調。三部形式に急速のコーダが付いている。このコーダは組曲版では欠落しているので、バレエでもコーダの無い振付も存在する。

ここで特筆すべきは、Var.II.(Pour la danseuse)では、ソロ楽器にチェレスタ(Celesta)を導入したことである。Celestaの楽器名の由来は”celeste"(天上の声)であるから、まさにこの作品にうってつけであって、たぶんチャイコフスキーはこの楽器をパリで見付けたことを非常な僥倖と感じたことだろう。早速これを友人で出版者のユルゲンソンに買い付けるように指示し、絶対他の作曲家には出し抜かれないように隠しておけと命じたくらいである。チェレスタは第2幕においてのみ使われ、最初に現れるのは《No.10:情景》でドラジェの精が登場する場面であり、《No.11:情景》でも引き続き使用される。そしてもう1曲《No.15:最後のワルツとアポテオーズ》に使用されている。ということは、チェレスタは直接ドラジェの精を意味すると考えることもできよう。ただ、このパドドゥの中でドラジェの精が踊るアダージョやコーダにはチェレスタは使われていない。したがって「ドラジェの精=チェレスタ」と決めつけるには無理があるようにも思う。そもそもホフマンの原作にもデュマの翻案にも妖精などという存在は登場しない。物語は現実と人形の世界の混交であって、《眠れる森の美女》や《真夏の世の夢》のような話とは全く性格が異なるのだ。ドラジェの精は、いわばバレエの勝手な都合で加えられたキャラクターであると言えるのである。ただ、プティパが案出した『ドラジェの精』とは「チャイコフスキーが子供の時に亡くなった母の象徴」あるいは「マリーの天上での結婚の象徴」であると読み替えるとすると、一応の辻褄が合うような気もする。そうであるとすると、パドドゥをマリー(クレール)が踊っても何の不思議もないわけである。

(4)Coda
ヴィヴァーチェ・アッサイ 4分の2拍子(102小節)、ニ長調。
三部形式で、中間部は細かい16分音符の連続である。主題が再現した時、この16分音符も加わって華やかに終わる。

このように、指示書に忠実でありながら、さらに素晴らしい音楽に仕上げているが、小節数だけは指定通りではなく、全て余分に作られている。もし必要なら適宜カットをしても良いといったところだろう。




《パドドゥは誰が踊るのか?》
現在のバレエの演出では、このパドドゥは、ドラジェの精とコクリューシ王子が踊ったり、ドラジェの精とくるみ割り王子が踊ったり、クララとくるみ割り王子が踊ったり、と一定していないが、さて本当のところは誰が踊るべきなのか? スコア、作曲指示書および原台本をもとに検討してみたい。

不思議なことに、スコアを見ると《パドドゥ》の題名表示の所には誰が踊るかの指定が無いのに「ヴァリアシオンII」だけに《Danse de la Fée-Dragée.》【註3】とダンサーの役名が付けられている。この不自然さについて探るために、まずは作曲指示書とスコアを対照してみよう。第一に、指示書の最初には「ドラジェの精と(優しい)王子」の名があるのに対して、チャイコフスキーはあえて曲頭で《パドドゥ》とだけ表示して「役名」を無視した。そして第二に、男女のヴァリアシオンについて、指示書に指定されたとおり「男性用ヴァリアシオン」という言葉だけがスコアに記載されているのに対して、「女性用ヴァリアシオン」にだけには《ドラジェの精の踊り》と指示書には無い役名が付け加えられている。この不自然さには何か理由がある筈だ。「女性用ヴァリアシオン」に《ドラジェの精の踊り》が追加された理由として考えられるのは、バレエ初演に先だって音楽だけの組曲版が作られたことに由来するのではないだろうか。というのは、組曲に選ばれた曲目はすべて自筆譜から抜き取られて別途編集されたのだが、そのとき各曲に題名が必要となったため、「女性用ヴァリアシオン」だけでは意味不明なので、指示書の配役を引用して《ドラジェの精の踊り》と名付けられたものと推測出来るのである【註4】。そのためか、男性用ヴァリアシオンには役名が欠落したままで、著しくアンバランスで奇妙な状態を晒すこととなってしまった。

指示書では、ちゃんと最初に【ドラジェの精と(優しい)王子】が踊ると指定されているにも拘わらず、何故チャイコフスキーはそれを書かなかったのだろうか? さらには、2つのヴァリアシオンに対して、プティパは男女別のダンサーの指定だけで誰が踊るのかは指定していないのはなぜだろうか? (スコアに加筆された《ドラジェの精の踊り》については上述のとおり)。

そこで、前作《眠れる森の美女》第3幕の《No.28:パドドゥ》では、どうだったのかを見てみよう。印刷版では、冒頭にはっきりと仏語:「オロールとデジレ」(Aurore et Désiré)、露語:「オーロラとプリンス・デジレ」と主役たちの名前が併記され、各ヴァリアシオンにもデジレとオーロラの名が両語で併記されている。それらはプティパの作曲指示書の指定通りになされたものである。そして、パドドゥの音楽全体も指示書の細かい指示に、指定の小節数より幾分余分に作られていることを除いて、忠実に従っている。このことから類推すると、チャイコフスキーの目には、《くるみ割り人形》でのプティパの指示は不徹底で奇妙なものに映ったのだろう。また、指示書の他の部分でのクレールとくるみ割り王子は婚約者であるとの記述から見ても、当然この2人がパドドゥを踊るのではないかとの疑念をチャイコフスキーが抱いたとしても不思議ではない。

次に、初演時の2つの「台本」ではどうなのかを見てみよう。2つとも、第2幕の短い記述の中で何度かドラジェの精は登場するが、いつもコクリューシ王子とペアとして述べられている。また、二人は、ディヴェルティスマンが始まるとパドドゥに備えてか、退場すると書かれている【註5】。更にクララとくるみ割り王子は、婚約者としては描かれていない。すなわち、原作には影も形もないドラジェの精とコクリューシ王子が第2幕の主役としてパドドゥを踊ることに何の矛盾も不都合もなく描かれているのである。この点について、最初に書かれた「作曲指示書」ではどうかというと、上述の一連の表の中に全文を引用しているように、第2幕ではドラジェの精は王子を伴って登場しない。また、ドラジェの精はディヴェルティスマンが始まる前に退場するという記述も無い。ちょうど《眠れる森の美女》の王様やお后のような踊らないキャラクターとして、ドラジェの精はずっと第2幕に君臨するように描かれているのである。また、プティパはネズミとの戦争のあとにクレールが大人に変身するというような発想を思いつかなかったためか、子供のままのクレールではパドドゥは踊れないことにも悩んでいたはずである。実際、初演のクララ役ベリンスカヤは当時12歳だったということだ。そのため、当初はディヴェルティスマンのダンスの1つとして、他の踊りの場合と同様、物語に無関係のダンサーが踊ることが想定されていたように思われる。それは、パドドゥもディヴェルティスマンの1つとして番号が付けられているし、パドドゥの2つのヴァリアシオンのダンサーの役名が「男性舞踊手用」「女性舞踊手用」としか書かれていないことからも窺えよう。

この不思議は、プティパが指示書執筆中に考えを改め、他のディヴェルティスマンと同様の役名の無いダンサーではなく、ドラジェの精がパドドゥを踊るように変更したと考えると辻褄が合うのである。プティパはパドドゥの題名として【ドラジェの精と(優しい)王子】を後から挿入したが、指示書上では他の部分を変えなかったため食い違いが生じてしまったに違いない。そしてこの齟齬は、その後書かれた台本ではドラジェの精はコクリューシ王子と常にペアで語られ、踊れる衣装に着替えるための時間確保として<ドラジェの精は・・・コクリューシ王子やお供と共に退出する。>と付け加えられて整合性が保たれるようになったというわけである。指示書第2幕執筆中に劇場監督官フセヴォロジュスキーとの意見の衝突があって、プティパはやる気を損なったのではないかと勘繰っている評論家もいるくらいだ。結局のところプティパは振付を途中で放棄し、このドラジェの精とコクリューシ王子が踊る初演のパドドゥはイワノフが振り付けたのである。

原作の筋からすると「クレールとクルミ割り王子がパドドゥを踊るべき」とするのは当然であり、原作を熟知していたチャイコフスキーが中途半端な状態の作曲指示書に疑念を抱いていただろうことは疑いのないところである。そのためスコア上で【ドラジェの精と(優しい)王子】が踊るとの指示書の指定を無視したのだろう。一方、現在も上演されている1934年のワイノーネンの演出では、すでにドラジェの精やコクリューシ王子は登場せず、マーシャ(クララ)とクルミ割り王子がパドドゥを踊るという設定に変えられている。主役の子供たちがパドドゥを踊れないための代替措置との感があるプティパの台本指定を退け、原作をそのまま解釈すれば当然そうなるということだ。そしてそれは、チャイコフスキーのスコアそのものが、すでにこの解釈を要求していたというわけである。


【註3】《Danse de la Fée-Dragée.》<ドラジェの精の踊り>:ドラジェとはアーモンドを砂糖でコーティングしたお菓子(アーモンドチョコレートのチョコレートの部分が砂糖に変わっているといった感じ。まあ、アーモンドチョコレートの方がはるかに美味しいだろう)。このお菓子は結婚式で供される習慣がある。この曲は、日本では《金平糖の精の踊り》という名で知られている。金平糖というきらびやかな砂糖菓子が、とても美しくそしてまた奇妙な形状であるため(人為的ではなく製造過程で自然にあのようなツブツブの飛び出た形になる)、この音楽のイメージにぴったりだからだろう。逆に、ドラジェの外見はチャイコフスキーが描いた美しくキラキラした音楽にはあまり相応しいとはいえない。また金平糖はポルトガル語のconfeitariaコンフェイタリア(菓子)あたりが語源であり、マリーが行くKonfektburg(独)コンフェクトブルク=Confiturembourg(仏)コンフィチュランブール<お菓子の町>に相通ずるものがあるので、翻訳者は金平糖(コンペートー)という言葉の響きの、それとの関連性に着目したからかもしれない。もちろん金平糖は日本のお菓子であり、プティパもチャイコフスキーも知らなかったはずで、その様な題名が異国で付けらるとは想像もしなかっただろうが、もし金平糖がどんなお菓子であるかを知っていたとしたら、きっと彼等もこの曲名変更に賛成したに違いない。
【註4】小倉氏の解説によると【註A】p329:チャイコフスキー自筆の楽譜は、グリンカ記念中央音楽博物館に所蔵されている。整理番号は: fond 88-51 で24段譜169枚のフォリオ版。そのうち123枚がチャイコフスキーの自筆で、残りの46枚は《くるみ割り人形ー組曲》から写譜された手書きコピーである(組曲用に抜き取られたためあとから筆写コピーで補填された)。この組曲版はクリンのチャイコフスキー博物館に保存されているので、両者を合わせれば自筆譜は完全に残っていることになる。
【註5】
長い方の台本:<[場面1]ドラジェの精とコクリューシ王子が、イルカたちで装飾された砂糖のあずまやの中に立っている。・・・ドラジェの精と王子があずまやから出る。><[場面2]ドラジェの精とコクリューシ王子はクララとくるみ割り人形を優しく迎え、・・・ドラジェの精とコクリューシ王子は、新来者たちが打ち解けて楽しむのを邪魔しないように、おつきの者たちを連れて立ち去る。>(B)森田p327-329
短い方の台本:<コクルーシュ(オルジャ)王子を伴ったドラジェの精が、砂糖の四阿(パヴィオン)の中に立っている。・・・ドラジェの精とコクリューシュ王子は四阿を離れる。・・・コクルーシュ王子と、胡桃割りの妹たちである王女たちを伴ったドラジェの精は、新しく到着した人たちを出迎える。・・・ドラジェの精は祝典を始めるように家令に命じ、彼女自身は、皆が陽気に楽しむことができるように、コクルーシュ王子やお供と一緒に退出する。>(C)平林p111-112

*「あずまや(四阿)」:公園などによくある壁やドアなどが無い4つの柱だけで支えられた建物のこと。
*「パヴィオン(pavillon)」:テント。ベッドの上の小屋根のような所からから垂れ下がった帳(とばり)。天蓋。



《No.15.: VALSE FINALE ET APOTHEOSE.=最後のワルツとアポテオーズ》
§作曲指示書§

指示書番号 情景描写 作曲指示
【No.17】
第9の踊り
舞台上のすべての人々と、すでに踊り終えた人たちによる全員の大終曲。 非常に魅力的で精力的な3/4拍子。
(128小節)


§スコア§
変ロ長調、4分の3拍子、Tempo di Valse.(ワルツのテンポで)、239小節 。フィナーレに相応しく、ヘミオラのリズム【註】から始まる極めて躍動的なワルツで、大三部形式(A−B−A'ーCoda)を採り、繰り返しのA'は最初のAの中間部分以下を省略し、直接コーダに向かう。そして、B部分自体も小さな三部形式(b−c−b)で、cでは特徴的な音色のチェレスタとハープが活躍する。A部分やコーダは、もちろん主調である変ロ長調が主体だが、B部分では調的変化がもたらされる。bは、Aの主音変ロ音がバス音の属音保続音とした使われ変ホ長調に転調する。bは、チェレスタとハープによって全く別のきらびやかなニ長調の別世界が繰り広げられるのである。それは《No.10》や《No.11》でのドラジェの精やクレールとくるみ割り王子の登場のシーンやアポテオーズにも通ずる響きである。そして、bに戻った時はこの別世界のニ音をバス音の属音保続音としたト長調に変えられているのである。変ホ長調の時はオーボエが主旋律を吹くが、ト長調の時はもっと華やかなトランペットが主旋律を吹く。なお、この際メロディーラインが若干変えられている。
オーボエ  :ソソファー/ミ#レミー/ソソファー/ミ#レラーソー
トランペット :ソソファー/ミレミー/ソソファー/ミレラーソー

バレエでは、ディヴェルティスマンで踊ったすべてのダンサーが再登場する。普通、A部分では《花のワルツ》のダンサーが踊るが、B部分では諸国の人形のダンサーが次々と繰り出してきて踊る。中でも音色的に特に斬新なcでは、その煌びやかな音色を中国の人形のダンサーに充てることが多い。

【註】ヘミオラとは、3拍子の音楽を2小節を1つの単位として、2拍づつに分け、大きな3拍子の1小節に見立てるリズム。このワルツの最初のメロディーはヘミオラである:

●○○ / ●○○
(ドーシ)(ラ#ファソ)・・・普通の3拍子

●○ ●/○ ●○
(ドー)(シラ)(#ファソ)・・・ヘミオラ



L'Apotheose.=アポテオ−ズ
§作曲指示書§

指示書番号 情景描写 作曲指示
【No.18】
アポテオーズ
様々な色彩の噴水、照明噴水、などなど。 壮麗なアンダンテ。
(16〜24小節)
ー幕ー


アポテオーズでは、目覚めたマーシャ(クララ)が人形の[クルミ割り]を抱きしめ、楽しかった夢を思いだすような演出が多い。しかし、これは1934年のワイノーネン版から始まった演出で、指示書にも台本にもそのような記述はない。

指示書に表現されているアポテオーズは、第2幕、幕開きに立ち返って終わることを示唆している:
<No.1:舞台奥に、レモネード、オレンジエード、オルジャ、グズベリー・シロップのそれぞれの噴水。>→<No.18:アポテオーズ。様々な色彩の噴水、照明噴水、などなど。>
指示書の、この冒頭と結末に同じものを描くという枠構造的手法は、第2幕全体がコンフェクトブルク(コンフィチュランブール)での出来事であることを表し、それが1つの完結した世界であるという考え方を採ったためだろう。
そしてそれは、原作にも翻案にも、この町の象徴として広場の噴水が描写されていることに由来している:
原作<ein hoher üherzuckerter(たぶん überzuckerterの誤植) Baumkuchen als Obelisk, und um ihn her sprützten vier sehr künstliche Fontänen, Orsade, Limonade, und andere herrliche süße Getränke in die Lüfte:さとうをまぶしたバウムクーヘンがオベリスクとしてそびえ立っていて、そのまわりから、上手につくられた噴水が4つ、ジンジャーエールや、レモネードなど、それぞれにあまくておいしいジュースを空高くふきあげていました。>上田訳p150
翻案<une gigantesque brioche, du milieu de laquelle s'élançaient quatre fontaines de limonade, d'orangeade, d'orgeat, et de sirop de groseillle. 巨大なケーキの内側からは、レモネード、オレンジエード、オルジャそれにグズベリー・シロップの4つの噴水が吹き上がっていました。>小倉訳p172

ところが、2つの台本は全く違うことを描いている:<このアポテオーズは、大きな蜜蜂の巣と、その富である蜜を厳重に守りながら飛んでいる蜜蜂と、を表象している。>
突然の蜜蜂の出現は、原作にも翻案にもなく全く奇異な感じを覚えるのだが、平林氏は次のように解説している。<第二帝政期のフランスの、チュイルリー宮殿における夜会の舞踏会に、この場面と類似したものがあった。>【参考(C)】p47
すなわち、フランス帝政の繁栄を象徴する情景を再現することによって、ロシア帝政の繁栄を示したかったということであろう。してみると、この変更は作曲指示書作成後の、フセヴォロジュスキーのフランスでの外交官時代の思い出による発案なのかも知れない。


§スコア§
変ロ長調、4分の3拍子、Molto meno(速度を大きく落として)、繰り返しを含めて71小節(繰り返しを省略すると55小節)。
指示された小節数よりはるかに多いが、プティパが指示したテンポ(壮麗なアンダンテ)とはまるで違うテンポ。三拍子、4分音符=144、すなわちヴィヴァーチェだ。というのは、アポテオーズは、プティパの指示通り幕はじめと同じコンフィチュランブールのメロディーが使われているにも拘らず、急速なテンポで小節が2倍に細分化されているため、実際のところは半分の35小節(繰り返しを省略すると27小節)程度となり、時間的にはプティパの指示とはそんなに異ならないのである。プティパは華やかな中にもゆったりと落ち着いた音楽を想定していたのに対して、チャイコフスキーは急速のキラキラした音楽の中に壮大さを表現して、プティパには考え及ばないようなことを音楽の中に忍ばせたからある。具体的には、チャイコフスキーは第2幕の最初《No.10:情景》と《アポテオーズ》に同じメロディーを使いプティパの要望に応えるとともに、リズムと調性を全く変えてしまった。それらを比較してみるとよく理解できるだろう。
まず、調性はホ長調からその対極である変ロ長調に変えられた。このことは【バレエ《くるみ割り人形》の調構造の大枠】の項で説明されている。要するに第2幕としての枠構造の中に、《序曲》とつながるもう一つ大きな枠構造を構築したのである。それによって、第2幕の『真実の世界』は聴衆とも共有することが出来るのである。
さらに、拍子が8分の6拍子から4分の3拍子に変えられた。それに伴ってテンポも、付点4分音符1拍=60から4分音符1拍=144に極端に速くなっている。ところが、よく見るとメロディーの音価は8分音符から4分音符に変えられているため、音価を揃えると実際のところは1拍=180から1拍=144へと目に見えて遅くなっているのである。この『リズムは細かくなってもメロディーは遅くなる』というからくりによってチャイコフスキーは、『壮大さの創出』という彼の目的を達成したというわけである
オーケストレイションはといえば、《No.10:情景》ではメロディーをヴァイオリン、チェロ、フルート及びイングリッシュホルンが担当していたのに対して、《アポテオーズ》ではピッコロを含めた高音の木管楽器群だけで演奏されるようになった。《序曲》に立ち返り、おもちゃや人形のイメージに近づけているというわけである。音色上で最も印象的な差異は、《No.10:情景》での中音域の波のような柔らかいハープの伴奏が、《アポテオーズ》ではチェレスタを伴ってフォルテシモで高音域の非常にキラキラしたものに変えられたことであろう。これに高弦のトレモロが加わってキラキラ感をさらに増幅させている。こういった変更によって、幕始まりで奏でられる手の届かないような高貴で幻想的な音楽が、最後にはクリスマスツリーの電飾や飾り物のような手に取ることが出来るものに変えられたのである。言いかえれば、美しいホ長調の『真実の世界』が、変ロ長調の《アポテオーズ》ではクリスマスツリーのイメージの中に観客と共にあることを実感させてくれるというわけである。この仕掛けこそが、このバレエ作品の「涙」の源泉となっているのであろう。

コンフィチュランブールのメロディーが終わると、壮大な終結の変ロ長調の和音となる。この印象的な終わり方は、しかし、クララの夢落ちに使われる音楽としては《白鳥の湖》のハッピーエンドと同じくらい場違いな感じがする。何かもっと奥深い壮大なものを意味しているように聴こえるからだろう。夢落ちを演出したワイノーネンはその情景における音楽と舞台の乖離を危惧して、マーシャが目覚める場面では、この《アポテオーズ》の音楽を使わず《No.10:情景》に変えた、と小倉氏はワイノーネン版台本のなかで報告している。また、ヌレエフはコンフィチュランブールでの出来事が第1幕のクリスマスパーティの中での一瞬のクララの夢であったように演出し、《アポテオーズ》を使わずに、《No.6:情景》の一部を使って終わらせている。チャイコフスキーが音楽で意図したような演出にはお目にかかったことはない。




4.まとめ

チャイコフスキーのバレエ音楽《くるみ割り人形》とはどういう意味を持つ音楽なのか? という質問に対して一言で答えれば、それは『同情』である。すなわち、聴衆が主人公クレール(クララ)の家族と同じ気持ちになる(同情する)ということである。チャイコフスキーは、プティパの詳細な指示に応えながらも、苦心を重ねて原作の持つ『同情』という思想を聴衆に伝えることが出来る音楽を書いた。そのため、さまざまな奇妙な演出によって繰り広げられる頓珍漢なバレエを観てさえも、舞台の情景自体は華やかに流れて行けば良いわけで、物語の本質は音楽によって語られるので支障はない。逆に、そのギャップから聴衆の目に自然と涙が溢れて来るということになるのだ。ホフマンの原作の素晴らしさはバレエにするとより価値が高められるだろうことを見抜いたプティパやイワノフとチャイコフスキー達の合作がたぐいまれなる名作を誕生させたのである。これを僥倖と言わずしてなんと言おうか。

この『同情』という考え方は,ホフマンの原作だけでなく、例えばヴァーグナーの《パルシファル》においても重要な主題となっている。そこでは「Durch Mitleid wissend, der reine Thor.」<同情という知恵を持った、全くの愚か者(を待て)。>と歌われる。『Mitleid』とは『同情』である。『愚か者』とは聴衆自身であり、さまざまな邪念に満たされた(マインドコントロールされた)心である。それらの邪念を取り払うことが一番肝要だというわけである。そして、これは洋の東西を問わず重要なテーマであり、童謡《赤い靴》と《くるみ割り人形とねずみの王様》との同質性考 で説明されているように、東洋では孟子の性善説の根幹「四端」すなわち『仁・義・礼・智』の最上位『仁』がこれに当たり、『同情』言い換えると『慈しみ憐れむ心情』を意味する。



【参考資料】
原作・翻訳:
(1)《くるみ割り人形とねずみの王様》E.T.A.ホフマン作、種村季弘訳、河出文庫、河出書房新社、1995年
(2)《クルミ割り人形とネズミの王様》E.T.A.ホフマン作、前川道介訳、国書刊行会、1997年(《書物の王国7『人形』》内の1編)
(3)《クルミわりとネズミの王さま》E.T.A.ホフマン作、上田真而子訳、岩波書店、2000年
(4)《くるみ割り人形とねずみの王さま》E.T.A.ホフマン作、大島かおり訳、光文社、古典新訳文庫、2015年
(5)《Nußknacker und Mausekönig》E.T.A. Hoffmann(Ernst Theodor Wilhelm Amadeus Hoffmann)1816

翻案・翻訳:
(6)《くるみ割り人形》アレクサンドル・デュマ翻案、小倉重夫訳、東京音楽社、1991年
(7)《Histoire d'un casse-noisette》Alexandre Dumas, 1844

スコア:
(8)《The Nutcracker》Op.71 Act I & 2, Peter Ilich Tchaikovsky, Masters Music Publications, Inc.
(9)舞踊組曲《胡桃割人形》Op.71、チャイコフスキー作曲、音楽之友社、1953年


解説書:
(A)《チャイコフスキーのバレエ音楽》小倉重夫著、共同通信社、1989年
(B)《永遠の「白鳥の湖」》森田稔著、新書館、1999年
(C)《『胡桃割り人形』論ー至上のバレエー》平林正司著、三嶺書房、1999年
(D)《チャイコフスキー三大バレエ》渡辺真弓著、新国立劇場運営財団情報センター、2014年