ブルックナー雑談コーナー



このコーナーは、ブルックナーに関して日頃オーナーが思っていること、最近話題になっていることなどを雑談風に書き込んでいきます。内容についてご感想、ご意見をお寄せください。

目次

12、ブルックナーとマーラーの発想の違いについて
11、《第五交響曲》の中間楽章のテンポについて
10、《第五交響曲》のオリジナル・コンセプツについて

9、シューベルトとブルックナー
8、「第九交響曲」は3楽章か4楽章か?
7、「第三交響曲」の自筆稿
6、「第六交響曲」と「第七交響曲」のフィナーレは何故短いのか?
6-2、「第六交響曲」が解りにくい作品である理由
5、ブルックナーの手紙について
4,ブルックナー交響曲の散歩道について
3,ブルックナーの交響曲の番号付けについて
2,「交響曲第3番、NULLTE」のタイトルに関する小考察
1,初期の交響曲の番号付けの変遷について




12、ブルックナーとマーラーの発想の違いについて

巨大な交響曲を作ったということで、並び称せられることの多いブルックナーとマーラー、この2人の楽想の練り方、作曲の仕方の傾向が対照的であるように見えるという話。
ブルックナーについては、音楽を創り出すことにおいて、ただ単に音符をこねくり回しただけのように見えるのだ。何かに触発されてメロディーや和音の繋がりを発想し、作品を構築していくのではなく、彼の頭の中には、まず最初に作曲法における「絶対的な型」が存在していて、それに合わせて色んな音をはめ込んでいくといった創作スタイルのように見える。それに対してマーラーは、まず何か具体的な事物や事象が存在していて、それらのイメージから触発されたものを紡ぎあげて音楽を創り出していったように見えるのである。

具体的な代表例を挙げれるとすれば、ブルックナーでは《第八交響曲》の主要動機だろう。ベートーヴェンの《第9交響曲》の第1楽章第1主題という『型』が最初に存在し、そのリズムだけをそのまま借用して、単に音の進行、すなわち高低差だけを変えて「捻くり出した」ものが《第八交響曲》の主要動機なのである。その音の動きと言えは、ベートーヴェンの下行分散和音に対して、全音階に存在する短音程(短2度、短3度、短6度)ばかりを羅列して改造したのである。すなわちこれは、頭の中で閃いたメロディーといったものではなく、単に机上で作曲上の規則などを操作し、そこから気に入った音形や和声を抽出したに過ぎないのである。もちろん、そこには標題的要素は皆無である。ブルックナーはこの主要動機に対して『死の告知』なり『死の行進』などと標題的解釈を試みているが、それらはあくまでも作曲後の作曲者自身による解釈であって、そういったものを表現しようとして作曲されたわけでは決してない。《第八交響曲》のような『型』、すなわち引用元が判明しているケースではこのことを断定することが出来るが、その他の曲の場合でも、そういった作曲方式を採っていたのではないかと窺わせられるものは、動機案出的にも、音楽形式的にもたくさん存在する。ただ、《第八交響曲》の主要動機はヴァーグナーの『ジークフリート動機』から導かれたものであると主張する人たちも確かに存在する。この作品を標題的に見ようとする人たちに多いように思われる。しかし、それはたまたま似通っているだけであって、そちらを本筋と解釈するのは本末転倒な論だ。実際のところ、ブルックナー自身も既にそのアイデアは感じていて、アダージョの200、204小節では『ジークフリート動機』をそのまま使っているように聴こえる。しかし、これらはリズムがいびつに引き延ばされた主要動機から生み出された変化形の1つであると考えるべきだろう。

一方マーラーでは、気に入った詩や物語、彼の日常の生活から耳に入った音楽的な事象などが彼の発想の根源として常に存在するように見える。そのことを最も如実に表しているのは《第1交響曲》だろう。この曲は、もともと5楽章の交響詩として作られたことはよく知られている。そこには、一貫した物語が存在していたのだ。しかし、彼はそういった状態に満足せず、推敲を重ねて全く標題の無い交響曲に作り変えていったのだ。《花の章》を削除し全4楽章にしたり、第1楽章の提示部に当たる部分を繰り返したり、第4楽章を大改造したりして、いわゆる『型』にはめ込んでいったのだ。改訂された現在の形の交響曲を聴いたとき、人はこの音楽から何を想像しようが、しまいが全く自由なのだが、基となった歌曲の歌詞やマーラーが元々書いていた標題のままに解釈することも可能である。実際のところマーラーはそういったものから楽想を得ていたのは確かなことであって、プログラムノート等にも大きなスペースがそれに割かれることが多い。

もちろん逆のケースも皆無ではない。ブルックナーの《第四交響曲》の『狩りのスケルツォ』は、明らかに「狩りの情景」が念頭にあって、そこからイメージを膨らませて作られたものであるし、マーラーの《第3交響曲》冒頭のホルン主題は、ブラームスの《第1交響曲》第4楽章の主題(♪ソドーシドラーソ)の引用であって、それを作品内で様々な音程差に変化させて使っているのは、ブルックナーの手法を真似たやり方なのだろう(♪ミラーソラファード)(♪ソミーレミドーソ)(♪ファーミファミーレ)(♪ソドーシ〈ラソ〉ラーソ)(♪ソレー#ドレどーシ)。

交響曲は基本的には絶対音楽である。いろんな情景や事象を思い浮かべるのは聴く人の自由だが、音楽自体はそういうものを強制していないというのが一般的考え方である。もちろん、絶対音楽が標題音楽より優位であるなんてことは全くなく、そういった御託で優劣を画一的に規定するのではなく、どんな由来であれ、人に感動を与える音楽こそが優れた音楽であることは確かである。ただ、発想の根源が作曲家によってまちまちだということが言いたいだけである。




11、《第五交響曲》の中間楽章のテンポについて

《第五交響曲》をアナリーゼし、ひいては特に解釈の難しいテンポの問題を追求するにあったって、欠くことのできないキーワードが二つある。一つは『ベートーヴェンの《第9交響曲》』であり、いま一つは『対称構造』である。

ブルックナーの交響曲において、ベートーヴェンの《第9交響曲》ほど大きく影響を与えられた作品はない。《0番》以降のブルックナーの全ての交響曲の発想の根源には、例外なくベートーヴェンの《第9交響曲》の存在が見え隠れする。このことは、ブルックナーの約10年間のリンツ時代、リンツの郡特別委員であったモーリツ・フォン・マイフェルトの知己を得たことと深く関わっている。それは、マイフェルトの妻(註)との連弾演奏でベートーヴェンの交響曲群を弾いて楽しんだというところから始まる。マイフェルトが「作曲家として身を立てるのならベートーヴェンの《第9交響曲》のような作品を目指すべきだ」とブルックナーに吹き込んだことはほぼ間違いなく、夫妻の影響で《第9交響曲》に心酔したブルックナーは、この作品をピアノではなく本物のオーケストラで聴きたいと熱望するようになり、ヴィーンの友人に演奏会情報の照会をしたりしている。全精力を交響曲作曲に集中するという生涯変わらない創作態度も、この頃から始まったのである。このことは早速《0番》と呼ばれる《ニ短調交響曲》に色濃く表れる結果となり、この作品以降ベートーヴェンの《第9交響曲》は彼の交響曲創作に欠かせない手本となったのである。したがって、ブルックナーの《0番》以降の交響曲について、その構造やテンポなどを考える上で、ベートーヴェンの《第9交響曲》が思考の根底に影のように常に存在することを忘れてはならない。

《第五交響曲》においていつも指摘されるのが、フィナーレの序奏での前楽章主題の回想である。これはベートーヴェンの《第9交響曲》の引き写しそのものであると非難されることすらある。その他にもアダージョやスケルツォの構造は《第9交響曲》を真似たものであるし、全楽章の主題や動機の展開の仕方も《第9交響曲》無くしては考えられない。そういった中で、ここでは特に調性の選択について述べておかなければならない。調性と言えば、《0番》、《第三交響曲》、《第九交響曲》の3曲のニ短調交響曲がベートーヴェンの《第9交響曲》と同じだということで、ベートーヴェンの影響として真っ先に話題にされることが多いが、この交響曲は変ロ長調である。一見《第9交響曲》のニ短調とは関係なさそうな調性だが、ところがどっこい、この変ロ長調というのは《第9交響曲》のアダージョの調性なのである。ブルックナーがこの交響曲の調性に変ロ長調を選んだのは、そもそもベートーヴェンのアダージョが変ロ長調であったから、その調で作曲しようとしたのか、あるいは、たまたま選んだ変ロ長調がそれと一緒であったことをブルックナーが後で気付いのかは定かではないが、ブルックナーはそのことを利用してこの《第五交響曲》の各楽章の調的構成法を確立したことは明らかなのである。すなわち、ブルックナーは両端楽章を変ロ長調にするとともにアダージョとスケルツォをニ短調にしたのである。これはベートーヴェンの《第9交響曲》の調選択(第1楽章・スケルツォ=ニ短調、アダージョ=変ロ長調)とちょうど真逆になる。このことが偶然の産物ではなく、意図されたものであることはブルックナーが《第9交響曲》に傾倒していたことから明らかである。

時間経過の中で表現される音楽芸術における『対称』という概念は、目に見えるものとは違って、抽象的でとらえどころの難しいものであるが、《第五交響曲》はそのとらえどころのない『対称性』の具現化に果敢にチャレンジした作品である。まず思いつくのは、第1楽章とフィナーレが、全く同じアダージョの序奏音楽での開始されることである。これが、聴く者に『この作品は対称構造を持っている』との印象を強く植え付けることに反対する人は少ないだろう。その他にもフィナーレコーダ近くで、第1楽章主要動機が現れるのも対称的イメージを膨らませる要素としては重要である。さらには、第1楽章の主要動機とフィナーレの第1主題は基幹音の上下の半音を使うという素材の共通性からも作品の対称的印象を強固に裏付けしている。第1楽章55〜58小節(b--des-b-as-<ges--f-e--f-c-f>=基幹音であるf音の上下2つの半音差の音を使っての動機構築(ges→f→e))とフィナーレ34〜35小節(42〜43小節も同じ)<f-f-e-f-ges-ges=第1楽章動機を逆進行(e→f→ ges)>を比較されたい。フィナーレ動機は第1楽章動機を後ろからなぞっていることがお分かりいただけるだろう。(なお、ブルックナーの未完の《第九交響曲》のアダージョも同じ素材【基幹音の上下の半音を使う】から出来ていることは注意を要する)

さて、話は変わって、交響曲全体が3つの楽章で出来上がっている場合、すなわち中間楽章が1つだけなら、対称性において問題は生じない。ところが《第五交響曲》では、中間楽章は通例どおり2つ存在する。そして、それらは当たり前のようにアダージョとスケルツォなのである。対称の中心線、すなわち交響曲の折り返し点は2,3楽章の間となるので、アダージョとスケルツォに何らかの対称的要素(すなわち相似性)を持ち込む必要が出てくる。しかし、全く性格の異なる、テンポの遅いアダージョとテンポの速い諧謔的なスケルツォでは、楽章間対比を強調することは出来ても、相似性を求めるということなど不可能なことである。しかしブルックナーは、こんな全く不可能な前提条件を覆して、そこに作品全体の対称性を実現する斬新なアイデアを創出したのである。

彼の意図を明らかに示す証拠の1つが、アダージョとスケルツォを同一の調(ニ短調=これは上記に述べたようにベートーヴェンの《第9交響曲》の主調でもある)にしたことにある。多楽章ソナタにおいて,このアダージョとスケルツォが同じ調を採るなどということは極めて異例のことである。それはある意味で、多楽章ソナタの存在の根幹を揺るがすものになりかねないからである。中間の2つの楽章は、対比にこそ、その存在意義があるのだから、当然別の調で書かれるべきなのは常識である。もちろんブルックナーもアダージョとスケルツォを同じ調で書くなんて破天荒なことをしたのはこの《第五交響曲》だけである。

そしてもう1つの証拠が、2つの楽章が同じ背景で始まることである。実際DACisDAE/FAGEAA/BAGAFE/DABAGAというアダージョとスケルツォの出だしに演奏される音形は小節割りこそ違え全く同一なのである。これはスコアを見ると一目瞭然である。主題自体はアダージョとスケルツォでは別のものが使われていいるのに対して、背景が同一であるというところがミソなのである。ところが実際に音楽を聴いてみると、同じものという印象は全く受けない。テンポが違いすぎて、別の音楽としてしか聴こえてこないのである。したがって、このことはブルックナーの頭の中の妄想なのか、あるいは聴衆には届かない楽譜上だけの遊びとしてしか思えないのである。はたしてそうであろうか?

確かにブルックナーは、現実の演奏の上でも、両端楽章と同様、アダージョとスケルツォが同じものとして始まるよう一種のトリックを使ったのである。それが何かと言うと、アダージョにおけるアラブレヴェの採用である。
ブルックナーの緩徐楽章においては、4分の4拍子のアダージョが採られるのが通例である(まれに4分の4拍子のアンダンテの場合もある)。2拍子はアダージョには適さないと見られるからである。しかし、ブルックナーは《第五交響曲》において、あえて不適切な2拍子のアラブレヴェを選んだ。その理由は2拍子の3連符で音符を6つ刻むことが出来るからである。
アダージョのテンポ指示はSehr langsam <非常に遅く>であり、スケルツォのテンポ指示はMolto vivace(Schnell)<きわめて生き生きと(速く)>である。これをメトロノーム指示で表記すれば、たとえば
アダージョ:2分音符=52
スケルツォ:4分音符=156
あたりとなるだろう。
この結果、テンポとしては極端に違うこの2つの楽章が、完全に同じ速度(両楽章とも4分音符は1分間に156個演奏される)で背景の音楽が演奏されるという、まさにトリックのようなことが起こるのである。こうして単なる机上だけのものではなく、聴衆に実感できるものとして、2つの中間楽章の相似性が実現されたのである。

そしてこのことから、《第五交響曲》の4つの楽章は完全な対称性を獲得することになる。一度こういったテンポの演奏を聴いてみたいものだ。

(註)マイフェルト(Moritz Edler von Mayfeld 1817〜1908)の妻 ベティ(Betty Edle von Mayfeld 1831〜1908)は、かのクララ・シューマンにも称賛されるほどのピアノの名手であった。ブルックナーが精神病で温泉治療をしていた時、見舞いに来たベティの洋服に付いている飾り玉の数を数えたことが伝記で伝えられている。いわゆる数固執症の実例として挙げられることの多い話だが、女性に対して口下手で、なおかつ療養中で手持無沙汰だったのでそういう挙に出たのかもしれない。とにかく、彼は数えることには普通の人以上に執着したことは確かだが、これら伝記に伝えられるいくつかの事例をもって一種の病気であると即断することは誤りであろう。なお、マイフェルトとの交際はブルックナーがヴィーンへ移住して以降も手紙などにより続く。《第五交響曲》アダージョ作曲中に『敵が多くて油断がならず苦労ばかりのヴィーンへは来なかった方が良かった』などと愚痴の手書きをマイフェルトに送ったりしている。ヴィーンでは、マイフェルトのような親身になって自分のことを考えてくれる友人にはめぐり合えなかったからだろう。

2012・11・9記


10、《第五交響曲》のオリジナル・コンセプツ(Original Concepts)について

ブルックナーの《第五交響曲》オリジナル・コンセプツ版(Original Concepts Version)は、私がヴィーンのオーストリア国立図書館から自筆譜のコピーを取り寄せ、約1年かけて制作したものです。これは、2008年に内藤彰指揮東京ニューシティ管弦楽団により初演され、さらに翌年2009年にはデルタ・エンタープライズからCDが発売されており、関係者の方々の献身的なお力で多くの聴衆の皆様にお聴きいただくことができて、編集者としてたいへんありがたく、深く感謝しています。ただ、これにはオリジナル・コンセプツという耳慣れないタイトルが付いているため、それがいったいどのような内容なのか?何を意味するのか?という質問や、そもそも、オリジナル・コンセプツなるものの存在が必要なものなのか?演奏されるべきものなのか?といった疑問が呈されていることも事実であり、編集者としての説明不足の思いを痛感しています。発表して1年を経過した現在、ここでそれらのうちのいくつかについて回答を試みてみましょう。

ブルックナーの交響曲やミサ曲は、それぞれの作品が1つの確定した形態で知られ、演奏されるのではなく、それぞれが等価値な複数の形態で研究され享受されるべきものであるということは、すでにブルックナー学者達の間では常識化された概念であり、全集版においても複数のヴァージョンがなんら優劣の指定なく並列出版されていることからも、それは裏付けられています。その一方で《第五交響曲》については、CD解説者や評論家たちには『唯一の自筆稿』すなわちブルックナーの死の直後に彼の遺言によってオーストリア国立図書館(当時の帝室・王室図書館)へ遺贈された自筆稿群の一環をなす『遺贈稿Mus.Hs.19.477』と、これに基づいて編集・出版された、ほとんど同一のハース版とノーヴァク版しか視野に入ってないのが現状で、異稿の問題は存在しないというのが一般的認識となっています。ところが事実は《第五交響曲》にも他の姉妹作と同様、複雑な創作過程から生じた多様な形態が存在しており、その一端の公表を目指したものがオリジナル・コンセプツなのです。

初演のときに東京ニューシティ管弦楽団のホームページに掲載した解説文がありますので、それを一部改訂増補して、末尾に再掲載しておきますので、まずそれをお読みいただいてから、各質疑応答を読まれることをお勧めします。なお、このヴァージョンの名称についてですが、初演時解説文では『原初稿』という和訳形が使われました。当初はオリジナル・コンセプツではその実態が分かりづらいという配慮から『原初稿』という日本語を用いたのですが、その語感からは第1稿以前のものというニュアンスが強く、誤解される恐れがあるため、今回はできるだけオリジナル・コンセプツを使用させていただきます。


【なぜ第1稿ではなくてオリジナル・コンセプツなのか?】
《第五交響曲》は、第1稿の状態のままの自筆譜も筆写譜も現存していない。
すなわち、第1稿完成時の自筆譜は、後半の2つの楽章は第2稿に転用され、その原稿上に膨大な修正が施されており、前半の2つの楽章は行方不明である。また、第1稿時点での筆写譜は、部分、全体とも発見されていない。したがって、正確な第1稿の再現は不可能である。もし、第1稿時点での完全な筆写譜などが残っていれば、《第三交響曲》第1稿(III/1)のように、とうの昔に第1稿が《第五交響曲》V/1として全集版で出版されてしまっていただろう。
そのため、残されている資料のみから、出来るだけ原初の形を復元しようとの意図によって作成されたスコアがオリジナル・コンセプツなのである。すなわち、一種の次善の策として作成されたものであるから、第1稿という名称ではなく、各交響曲の第1稿群とは一線を画したオリジナル・コンセプツという表記により公表されたのである。
一方、これは《第九交響曲》フィナーレの完成版のような作曲手法の導入が必須なものでも、マルテの《第三交響曲》の合成版のような編集者の私見を一部注入したものでも決してない。全ては現存する自筆譜の読み込みによって作成されたものである。このため将来的には、自筆譜修正時期の確定(第1稿完成以前の修正か完成後の修正かの判定)、誤読の修正あるいは新資料の発見によって、修正・精度アップが図られる可能性は否定できない。


【以前にオリジナル・コンセプツに似た取り組みはあったのか?】
こういった試みは、これまで絶無であったというわけではない。1935年に旧全集で、従来のスコア(シャルク編の初版)とは全く違った形を有するスコアと編集報告がロベルト・ハースによって出版されて以来、その編集報告に印刷され紹介されている断片別稿の存在が知られることとなった。オーストリア国立図書館保存のMus.Hs.3162(3ボーゲン=12ページ)である。これは、現行のフィナーレの502〜570小節の69小節にあたり、73小節を有しており、ブルックナーが改作のため3枚の五線紙を差し替えたもので、いわば「ごみ」なのであるが、それがそのまま捨てられずに残っていたのであった。コアなファンのあいだでは、密かにこれを生の音で聴きたいという思いが高まっていった。そして、ついに堤俊作指揮俊友会管弦楽団が1997年1月19日に東京芸術劇場で本邦初演を行なったのであった(あわせて私家版CDも作成されたので、バーキー氏のディスコグラフィーにも掲載されている)。ところで、このときは全体としてはバス・テューバを含む普通の原典版が使用され、差し替えられた別稿部分だけを現行第2稿に挿入するという、いわば逆差替えとなったので、バス・テューバのないこの旧稿部分においても、他の部分とのバランスを保つため、ウイリアム・キャラガンがバス・テューバを加えて編集した楽譜が使われた。草稿そのままが使われたわけではなかったのだ。もちろん、作品全体からバス・テューバを削除してバランスを取るという別稿優先案も検討されたではあろうが、ブルックナーは改訂の最終段階で、単純にバス・テューバを加えたのではなく、トロンボーンを中心としてさまざまな微調整を行なっている。したがって、単純にバス・テューバを取り除くだけでは元に戻らないためこの案は断念されたのだろう。


【なぜブルックナーでは以前の稿がたくさん残っているのか?】
ブラームスは作品を改訂した場合、以前の原稿は廃棄したと言われている。《第1交響曲》アンダンテ楽章の旧稿が残っているのは、一度演奏してしまったためパート譜がオーケストラに残ってしまい、それをブラームスが回収しきれなかったことが原因である。ブラームスにとっては不本意なことだったろう。ブラームスは、最終的な唯一な形態だけが残ればよく、それ以外は単なる作曲過程に過ぎないので人目にさらすべきではないという考えだったのだろう。おおかたの作曲家も同じ考えだと思う。しかし、ブルックナーはそうではなさそうだ。彼は、几帳面に一度書いたものはたとえ書き換えたとしても以前の形を残しておく主義だったのだ。そういう風にして保管している手持ちの旧稿を他人に与えたりもしている。彼にとってはそれらは単なる作曲過程ではないのだ。書かれた原稿全てが記録されるものとして価値があるものとブルックナーは考えていたようだ。したがってそれらがもし演奏されたとしても恥ずかしいものだなどとは思っていなかったに違いない。


【第1稿と第2稿の間は約1年にすぎず、連続した1つの作曲過程と考えることはできないのか?】
たとえば、《第四交響曲》のフィナーレは1878年の秋に第2稿が完成された(フィナーレ2)。しかし、その後直ちに再改訂され、1880年に単独のフィナーレ3が出来あがった。現在では1878年のフィナーレ以外の3つの楽章と1880年のフィナーレ3が合体した形で演奏されることが殆どである。要するに、2つの別稿として分けなければならないのは、時間の経過の長さではなく、その内容の違いによるのである。《第五交響曲》第1稿の重要な部分を構成するはずの、第1楽章とアダージョの原稿が失われているので、本来の第1稿の全貌は未知のため、一般には《第五交響曲》は1つの形態のみであると理解されているのが現状なのである。そういった状態を打破し、正確な稿の概念を構築するためにもオリジナル・コンセプツの存在は現状の資料状況下では、やむを得ない最善の策であろうと思われる。


【ブルックナーはこの曲について、なぜ演奏のための努力をしなかったのか?】
下記解説にも書いてある通り、第1稿については《第三交響曲》や《第四交響曲》の初演が遅れ、そちらの方の演奏への努力が集中していたためとみられるが、そのほかに考えられることは《第五交響曲》があまりに技巧的で形式が斬新過ぎるため、聴衆にとって難解だろうという意識がブルックナー自身や周りの支持者たちの共通認識として存在していたからかも知れない。実際のところ1878年の第2稿完成後においても、順番的に見て本来初演されてよさそうな機会、すなわち、ブルックナー作品が取り上げられた1883年のヴィーンフィルの定期演奏会では《第五交響曲》を飛ばして《第六交響曲》の2つの中間楽章が演奏されている。《第五交響曲》は、1887年に2台のピアノによる演奏が1回行なわれただけで、オーケストラ演奏は1894年まで行なわれなかった。ここで、シャルクが徹底的改訂を行なったのも、この作品が難解であるという共通認識を踏まえてのものだったことは、容易に推測出来よう。

【なぜそのような中途半端なものを公表する必要があるのか?】
単純に、ブルックナーの別稿を聴いてみたいという欲求が根底にあるのは確かだが、下記解説文の最後【原初稿の意義】にその理由が3点述べられている。ここでさらに補足しておこう。
ブルックナーの交響曲群の中央に聳え立つ巨峰として認められている《第五交響曲》の第1稿と第2稿の間というのは、ブルックナーの創作活動のちょうど折り返し地点にあたり、彼の交響曲創作活動の経過や発展を知る上で、また、彼特有の改訂問題の全貌を正確に把握する上で、この欠落は非常に大きな影響を与えている。いわば『画竜点睛を欠く』といった状況なのである。
《第九交響曲》のフィナーレは、最近でこそ時々演奏されるが、2,30年前までは全く演奏されなかった。その頃世の中では、ほぼ《第九交響曲》にはフィナーレはないものとすら考えられていた(評論家の中にはマーラーのようなアダージョフィナーレと認識していた人もいたようだ)。すでに、戦前にオーレルは詳細なフィナーレの研究を発表し、可能な限りの部分のスコアを公表していたにも拘わらずである。ブルックナーの楽譜の問題への認識、《第五交響曲》の作品の真価に対する認識を変えるためには、やはり、何はともあれ演奏され、誰もがCDで聴くことが出来るようにならなければならないと私は痛切に感じている。それが公表に至った最大の理由であると言えよう。

【そもそも最終的形態以外は単なる作曲過程ではないのか?すなわち、最終意思こそがもっとも重要で、それこそが演奏に値するものではないか?】
一般的にはそうである。ベートーヴェンにしてもマーラーにしても、版の研究と新版の出版は『これこそがベートーヴェン(マーラー)の最終意思を的確に表すものである』との主張を楽譜として具現化しようとすることを目的としていると言って過言ではないだろう。そして、最終意思が学問的にも確定されてしまえば、以前の形態は、たとえそれが作曲者の自筆稿であっても、顧みられることはない。しかし、ブルックナーの場合は違う。常識的に考えてみれば非常に奇妙な話だが、遡れば戦前の原典版論争以来数限りなく連綿と続けられてきた議論の、それは根幹の1つなのである。そしてその結論は、全集版での複数稿並列提示によって示されているとおり、ブルックナーにおいては『最終決定稿を求める(あるいは極端な場合最終決定稿を作りだす)ことは不可能なことであり、無意味なことなのだ』ということである。かつては普通一般に演奏される稿以外の稿を使って演奏した場合、無視されるかトンデモ版としてキワモノ的な目で見られるのがオチであったが、全集版の結論としての複数稿並列出版が定着して以来10年、20年経過した現在では、実践の場面における指揮者の版の選択においても、受容の場面における聴衆の好みにおいても、各稿は並立した平等なものであるとの認識が常識化するに至った。したがって、今ここで一般論を持ち出しても、ブルックナーの特殊性に対する無知としてかたずけられるに過ぎないのである。

とはいえ、なぜブルックナーだけが特殊なのか?という疑問に納得できる説明がなされない限り、上記の結論を容認できない人は出てくるだろう。
チャイコフスキーにも、改訂の問題はブルックナーと同じように存在する。それは些細な校訂上の問題だけではない。いくつかの作品では相当内容の違う異稿の存在が知られている。例えば彼の《第2交響曲『ウクライナ』=『小ロシア』》の第1楽章など、ブルックナーも顔負けの徹底的な改作がなされている。主題材料はほぼ同じでも、形式が全く異なるのである。しかし、ブルックナーのようには問題視されない。なぜなら、最終決定稿がすべての面で優れているから、異稿は単なる異稿に過ぎず並立しようがないからである。また、《白鳥の湖》には、チャイコフスキーの死後マリウス・プティパの要請でリカルド・ドリゴによって原作と相当違う「プティパ=イワノフ版」が作られた。この版は、今日のバレエ上演の基礎となっているので、さまざまなその後の舞踊版に合わせて音楽自体も「プテイパ=イワノフ版」からさらに手が加えられて演奏されることが多い。しかし、ここでもブルックナーにおける弟子の介入のような複雑な問題は起こらない。なぜなら、音楽的には《白鳥の湖》は原作のみであって、他人の編作は全く次元の違うものとして捉えられているからである。

では、ブルックナーの音楽が最終意思の決定を許さない理由とは何なのか?
改作や改訂は、チャイコフスキーの例のとおり、作品の出来に不満を感じて、それをより良い状態に変えようという作曲家の欲求から生じるものである。ブルックナーの場合も、彼の改訂の大半はそういった欲求から生まれたものであることには変わらない。ただ彼の場合、そうでない要素もそこに絡んで来るところに問題が生じる余地が存在するのである。ブルックナーの改訂は、当然チャイコフスキーの改訂と同じ意図をもってなされたものが大部分だが、それらには一部疑念も含まれるのである。その疑念とは、一つには彼自身の『表現についての妥協』でなされ、もう一つは『支持者や弟子たちの助言』によってなされたのではないかというものである。この2つの要素は複雑に絡み合っており、真の改善と区別がつかない場合すら存在するし、音楽的には逆の方向へ改訂される場合も生じてくるのである。
そもそも、ブルックナーのオーケストレイションは、ベートーヴェンが確立したと言える標準二管編成をもっとも効率よく響かせられるような非常に熟達したものである。それにも拘わらず、彼の音楽はある種『脳内音楽』的な要素をも併せ持っている。言い換えれば、ブルックナーのスコアは、音楽を媒介する演奏者本意に書かれたものではなく、直接聴衆のために書かれたものと言えるかもしれない。変な話だが、ブルックナーの交響曲とは、作曲者の意向を、演奏を介さず、直接スコアによって聴衆に伝えようという、前代未聞の試みであるとも言えるのである。その結果、演奏者(指揮者)からの介入はほとんど必然であったというわけである。ありていに言えば、彼のスコアではオーケストラのさまざまな楽器たちは万能なのである。いろんな楽器特有の事情などには配慮を示さない厳しさが存在するのである。結果、演奏者側から見た改善策はほとんど有効なのである。完全な楽器などは存在しないのだから・・・また、それらの改善は技術的には改善であっても、本来のブルックナーの音楽を表現するという観点に立てば、作品を損なう結果ともなってしまうのである。両刃の剣と言ったところか。



最後に、とあるところに書かれていた、批判文章に私なりの反論を述べておくことにする。これは、残念なことにと言うか、優しさに溢れてと言うか、オリジナル・コンセプツそのものではなく、異稿全般に対してあるいは《第五交響曲》の第1稿に対しての批判に過ぎないように見えるので、上記の私の解説を読まれると、もっとシヴィアな批判が現れるかも知れないが・・・・・

*これはブルックナー自身が推敲を加えて世に出さなかった稿だよ→世に出た(演奏や出版として)かどうかは、その時の偶然による。協力者がいたとか、とりあえず資金があったとか・・・・。

*つまり作曲者自身が納得できなくて修正する前のプロトタイプなわけで→極端に言えば、ブルックナーの異稿は全てプロトタイプである。

*1876年稿の存在はノーヴァク版の校訂報告で触れられているが→校訂報告による第1稿の紹介は、手紙による資料や、自筆譜に書き込まれた日付くらいで、内容については全く述べられていない。なお、ノーヴァクの校訂報告はハースの校訂報告(遺贈稿の内容分析他、一部の容易に読める削除部分、残された初期のスケッチなどなどを含む)に筆写譜情報やその他の情報を補足したものである。

*この稿ではブルックナーが初演を承諾しておらず不完全なものとみなしていたと判断している→伝記上、演奏を承諾しなかったというケースは、唯一ヴィーンフィルが《第七交響曲》の演奏を提案したときだけである。 たまたま演奏の機会を与えられなかっただけだ。

*そんなものを演奏して録音してもせいぜい資料的価値しかないし→少なくとも、資料的価値はあるということだ。

*少なくとも作曲者の最終意思を反映していないことは確か→一般的な作曲家の最終意思なるものが、はたしてブルックナーに存在するものなのか?彼の場合は、彼自身の内なる改善の欲求や、他人からの改善の要請が 果てしなく続き、最終稿なる完全なものが存在し得ること自体が疑問である。それは彼の在世時出版された初版群への評価と疑問にも及ぶ問題である。

*ブルックナーだって出来が悪いと思って書き直したラブレターの原型を 勝手に公表されたようなもので激しく恥ずかしいだけだと思うのだが→ブルックナーの資質から見て、残された異稿を演奏されたとして、それを恥ずかしいことだとは決して思わなかっただろう。この曲に限らず、ブルックナーは多くの初期稿を破棄せず残していることからも、それらが演奏されることに苦痛を感じることはなかったと思う。

以上の異論については全て一般的なブルックナーの異稿に対する一つの見解としか思えず、オリジナル・コンセプツそのものの内容に対するものは一つもない。演奏を聴いたこともない指揮者について、その演奏を批判するのと全く同じような種類のものとも思えるのだが、いかがなものか?


Original Concepts(原初稿)とは?

ブルックナーの創作力が最も旺盛であった1871年から1876年までの6年間には、《第二交響曲》から《第五交響曲》までの巨大な四姉妹交響曲群が相次いで完成された。それらはいずれも完成後、徹底的な修正が加えられたことでもよく知られており、全集版ではそれらのうちのいくつかの異稿が漸次出版されてきた。われわれは、それらの目新しいスコアを見る度に、斬新で壮大な作品の当初の容貌に圧倒され続けたのである。ところが、このことは《第四交響曲》までの3曲に当てはまる話であって、《第五交響曲》については、ブルックナーの死の年(1896年)に出版されたフランツ・シャルクによる、いささか性格の異なる『初版』以外には、1つの形態しか出版されていない。これまで何人もの原典版編集者(ハース、ノーヴァク、シェーンツェラー、コールズ等)がこの曲を出版してきたが、それらは一様にヴィーンのオーストリア国立図書館に完全な姿で現存する唯一の自筆譜(遺贈稿)<Mus.Hs.19.477>に基づいており、各出版譜間の微細な相違は、単純なる誤植の修正以外では、この自筆譜の解釈の仕方と自筆譜完成後に書き写された筆写譜へのブルックナーの書き込みの採否によるものに過ぎない。《第五交響曲》には、他の3人の姉妹達と同じような初期の創作過程を示す異稿の出版は不可能なのであろうか?

【第1稿の存在とその再現の不可能な理由】
《第五交響曲》の作曲経緯として、しばしば次のような説明がなされる。ブルックナーは、《第四交響曲》を1874年11月に書き上げた後、しばらくして、1875年2月14日に《第五交響曲》の作曲を開始し、1876年5月16日にそれを一旦完成させた(第1稿)。

続いて、彼は《第三交響曲》の大改訂に転じ、それが一段落した後、もう一度《第五交響曲》に戻り、作品を徹底的に見直した。それは1878年1月4日に、完全に完成された(第2稿)。

ということは、他の3曲と同様に、一旦完成された1876年時点での形態(第1稿)が出版されてしかるべきである。ところが、それは現在残されている資料だけでは不可能なのである。なぜなら、《第三交響曲》の全集版III/1は、第1稿を完成した時点でブルックナーがヴァーグナーに贈った、清書された筆写譜すなわち『バイロイト贈呈譜』の存在によって初めて実現したのであり、《第四交響曲》の場合のIV/1は、ブルックナーが全く新たに第2稿を作ったことにより、第1稿の原稿がそのまま残されたため実現したのである。全曲を全く書き改めるというような行為は、いかに改訂好きのブルックナーといえども、この《ロマンティック交響曲》のみの異例なことなのである(《第一交響曲》も原稿そのものは全く新たに書かれたが、楽想自体はほとんど変わっていない)。改訂は大概の場合、直接自筆譜になされる。それは、ちょうど子供が刻一刻と成長していく姿と似ている。絶えず変化しているのである。そのため、例えば小学校入学時の記念撮影といった、ある時点での全身の姿を写真として固定する必要があり、その写真にあたるものが、その時点での筆写譜の存在である。これがないと、異稿の確定はあり得ないということになる。

残念ながら、《第五交響曲》には、そういった便利な筆写譜は発見されていない。だいたい、筆写譜を作るという行為は演奏への努力の一つと考えられるのだが、《第五交響曲》に関しては、ブルックナーが何らかの演奏実現のためのアクションを起こしたのかについて、伝記を読んでもさっぱり記述が現れてこない。脂ぎったところが全くないのだ。あまりに作品が技巧的なため、門外不出の秘仏のように、『秘蔵曲』として温存されていたとも取れなくもないが、番外の2曲ですら、《ヘ短調交響曲》では筆写譜を作りミュンヘンのラハナーに打診してみたり、《0番交響曲》ではスコア筆写譜のみならず、パート譜まで作成してヴィーンフィルと指揮者デッソフに働きかけをしたりと、演奏に向けての努力を惜しまなかったブルックナーにしては不思議な現象である。

ブルックナー自身がFantastic Symphony(途方もなく上出来な交響曲)と自画自賛した《第五交響曲》が、なぜこのような憂き目に会ったのだろうか。《第三交響曲》や《第四交響曲》の初演がなかなか思うようには実現せず、《第四交響曲》が初演された頃には、演奏への意欲は新作の《第六交響曲》や《第七交響曲》に移ってしまったというタイムラグにより、ブルックナーが《第五交響曲》を売り出す暇がなかったというのが、実際の事情として妥当なところだろう。そして、このことが《第五交響曲》の初期資料が少ないということの大きな原因となったことは疑いのないところである。とにかく、1878年の第2稿完成後には、文部大臣シュトレマイヤーへの献呈譜ほか、いくつかの筆写譜が作られたが、それらは全て第2稿の筆写譜であるから今回の役には立たない。

【原初稿の存在】
第1稿の確定が無理であるならば、直接自筆譜に当たってみるしかない。自筆譜(Mus.Hs.19.477)には、おびただしい数の修正の痕跡が見られる。それらを辿れば初期形態をある程度再現することが出来るのではないか。というのは、ブルックナーの修正は、不要小節にバツを記入している場合(削除される前の姿をそのまま読み取れる)や、取り消す音符や記号をナイフなどで削り取ってその上から新しく修正の音符や記号を記入している場合(削り取る前の形をうっすらと読めたりする)がたいへん多いからである。それらを出来るだけ読み取り、さらには、ブルックナーが自筆稿から差し替えて放棄したフィナーレの21〜23ボーゲン(12ページ分、73小節)が幸いなことにMus.Hs.3162としてオーストリア国立図書館に保存されており、これも使用することによって、できる限りこの交響曲の原初の形を再現しようというのが、今回の【原初稿】=Original Conceptsとしての試みなのである。すなわち、《第五交響曲》の原初稿とは、現時点では資料不足のため再現不可能な第1稿に代わって、ブルックナーの改訂前の足跡を自筆原稿のみから抽出したものであり、《第九交響曲》のフィナーレのように、その完成には他人の作曲の力を借りざるを得ないケースとは、根本的に性質の異なった取り組みであることを強調しておきたい。

【問題点】
実際に自筆稿をチェックすると、あまりの修正箇所の多さに、編集の方向性を見失ってしまうほどであった。もともとの形を判読することの難しさに加え、それらは、単なる書き間違い、最初の書き込みの時点での修正、あるいはその後一定の時間が経過した後の改訂が混在しており、さらには1箇所が二度三度と書き換えられている場合も多々存在する。こういったさまざまな修正跡を、どのように編集に取り入れるかは、たいへん難しい判断となっている。ただ、これらのおびただしい修正の跡を見ると、それらはもちろん改善を意味するものであるには違いないが、もともとあった形も非常に興味深いものであることが分かる。修正前の整然とした姿はある種の純粋さを保持しており、よりブルックナーの生の声を聞く想いがするのは、他の交響曲の初稿を聴く場合と同じである。さらに、自筆譜には根本的な問題点が存在することがわかった。どうも、前半2楽章と後半2楽章が書かれた時期が違うようなのだ。どの楽章にも修正の跡が存在するとはいえ、よく検証してみるとその修正の度合いが全く違うのである。各楽章の終わりにはブルックナーの常として地名、日付およびサインが書かれている(地名はほぼWienであるので省略)。

後半の2つの楽章には:
スケルツォ=1875年4月17日、
トリオ=1875年6月22日、
フィナーレ=1876年5月16日

と書かれているのに対して、前半2楽章では:
第1楽章=1877年7月13日(スケッチ)、1877年8月5日(完成)、1877年8月9日(全く完成) 
アダージョ=1877年8月11日(スケッチ・改良)および1878年1月4日(完成)

と第2稿に属する日付しか書かれていない。ということは、第1楽章とアダージョは、第1稿の原稿(そこには1875,6年の日付が書かれているはず)を捨て、新たに書き換えられたのではないだろうか。

実際、スケルツォとフィナーレにはあちこちで、小節数の異同を含め膨大な修正の跡が見られるのに対して、第1楽章とアダージョには、修正も比較的少なく、小節の加除も全くない。たとえば、第1楽章の第2主題の中間部131〜144小節などは、小節が異様に立て込んでいるにもかかわらず修正の跡はない。これは新たな五線紙に書き換えたとき、この部分の小節数を倍くらいに増やしたのにもかかわらず、それから先のページでの転記を容易にするため、わざと詰めて書いてページ合わせをしたのだと解釈するほかないのである。したがって、前半2楽章と後半2楽章では対応の仕方が異なってしまい、前半で修正の元を辿ったとしても、それは結局第2稿の当初の形に過ぎないと見られるのである。こういった落差は、第1楽章とアダージョの最初の自筆稿が発見されない限り解決しようのない問題となっている。

また、フィナーレのボーゲン19(454〜479小節)は、小節割りや修正の度合い、あるいはブルックナーの筆致から見て、明らかに第1稿完成後に差し替えられたものと見られるが、元の原稿はボーゲン21〜23のようには現存しない。このように、自筆稿自体が時期の違う原稿の寄せ集めである以上、原初稿の編集には、限界のあることは明らかである。

【編集の実際】
編集にあたっては、ブルックナーが、バツを書き入れ削除した小節(スケルツォとフィナーレに存在する)は全て復元するとともに、あとから追加した小節はカットした。小節を復元した箇所は、フィナーレについてはMus.Hs.3162を除いても7箇所(合計10小節)に及ぶ。そして、今回カットした小節の中で特に注目されるのは、最後の最後にティンパニを除く全オーケストラがユニゾンでソーミッレドと演奏する《第八交響曲》の終結と全く同工の1小節である。この圧倒的なユニゾンによる 下行が、両曲ともそろって後から考え出されたアイデアであることは興味深い一致といえよう。《第八交響曲》の場合のリズム的不確かさと同様、《第五交響曲》の場合もこの小節のないものに慣れると、この1小節はいかにも取って付けたような異質な効果(後付けあるいは字余り的感覚)であることが理解されるであろう。

元の書き込みを削り取ってその上から修正を加えたものの中で、ハース版とノーヴァク版の相違にまで影響を及ぼしている最も興味を惹く足跡は、スケルツォの14〜16小節とそれに対応する再現部の258〜260小節であろう。ここでブルックナーは、最初各楽器群が小節をずらしながら演奏する楽しさをスコアに書き留めたのだが、改訂で全オーケストラが2小節ごとの整然とした動きになるよう変えてしまった。ところが、そのときブルックナーが唯一訂正し忘れたのが、258〜260小節のヴァイオリンとヴィオラである。ハースは、当初彼の版で自筆譜どおり提示部と再現部で違う形態を印刷したが、後に、これが明らかなブルックナーのミスであることを発見し、手書きで再現部を提示部のとおりに修正し、ずれの小節をなくした。現行のハース版はこの修正された形となっている。ところが、ノーヴァクは、ミスはミスとして、あくまでも自筆譜どおりにすべきであると考えて、それをハースの元の版に戻した(したがって印刷譜では修正の跡がみられない)。どちらを演奏するかは指揮者の判断するところによるが、そのためには何故そうなったのか由来をはっきり理解してから決定がなされるべきだろう。オリジナル・コンセプツでは、もちろんヴァイオリンとヴィオラの個所だけでなく、全ての楽器がずれた当初の形となっている。さらにはXで消されたトロンボーンのための1小節が復元され3小節演奏されるとともに、チェロ・バスだけが1小節残ってずれのだめ押しを行なう。これらはすべて、自筆稿にもともと書かれていた姿である。この部分全体を最初の形に復元すると、現行ノーヴァク版序文に解説されている、このヴァイオリンとヴィオラの不可思議な不一致の本当の原因が理解されるだろう。

ブルックナーは改訂の最終段階(おそらく1877年末)で、当時ヴィーンフィルに初めて導入されたバス・テューバをバス・トロンボーンのパートに書き足した。これは、ブラームスの《第2交響曲》(1877年)と軌を一にした行動である。ブラームスは、以後交響曲にテューバを使うことは二度となかったが、ブルックナーは使用を続け、バス・テューバからコントラ・バステューバへと効果を拡大させた。バス・テューバの導入によりオーケストラの響きは一変する。後期ロマン派風の重厚な味わいが加わり、特にコラール風パッセージでは圧倒的効果が発揮される。当然のことながら、原初稿ではバス・テューバは削除され、この楽器の追加に当たって他の金管楽器に加えられた微調整も出来る限り復元に努めた。

【オリジナル・コンセプツの意義】
まず第一に、《第五交響曲》においても、現在一般に演奏されている第2稿の形態は、姉妹作と同様に作曲者自身による入念な改訂を経たものであり、改訂前の初期稿が存在したことを明らかにしたことである。それを出来る限り音として確認できるようにした。

第二には、先にスケルツォの例をあげたが、トリオなどにも見られる、改訂前の音楽の論理的仕組みが明らかにされることによって、現行の第2稿のスコアに対する見方にも、その精度が増すという効果が挙げられよう。今後の第2稿の演奏においても、この原初稿が参考資料として、より精確な解釈をするための情報源としてさまざまな点で役立つことが期待される。

そして、第三には、最終段階で加えられたバス・テューバは、圧倒的な効果をもたらすとはいえ、もともとバロック風に厳格に構築された《第五交響曲》の音響空間においては、幾分過大な、あるいはバランスを欠いたものに陥る恐れがあるのではないかという問題提起をしたことにある。それは、《第七交響曲》のアダージョでの打楽器追加に似た効果ではないだろうか。特に今回目指しているピリオド奏法によるブルックナー演奏には、改訂以前のバス・テューバがない形の方が相応しいように思える。いわば響きの洗濯といった意味合いをこの原初稿に求めることができよう。

ところで、このヴァージョンの名をオリジナル・コンセプトと単数形にしないで、あえてオリジナル・コンセプツと複数形にしたのは、第1稿を確定できないという意味とともに、自筆稿での、以前の形の追求(それは第1稿以前の作曲段階をも含まざるを得ない)とともに、次項で言及するアダージョとスケルツォのテンポの関係などのように、もともとブルックナーがもともと構想していたものを多角的に追及しようと意図して作られたものだからである。

とにかく、このオリジナル・コンセプツを知ることによって、厳格で壮大な《第五交響曲》の世界がさらに大きく拡がるであろうことは論を俟たない。


2010.4.4
2017・6・28 加筆

9、シューベルトとブルックナー

 オーストリアが生んだ2人の天才作曲家、シューベルトとブルックナーには共通の音楽的土壌とそれに対して対照的な個人的性格を指摘されることが多いですね。今回はそのことについてちょっと触れてみましょう。
 
 ブルックナーの解説書を読むと、ブルックナーに最も近い作曲家としてシューベルトの名が挙げられることが多いですね。実際この2人は特に転調の天才的なうまさにみられるように和声を重要視して作曲したこと、そして音楽の有機的緊密さよりも形式的整合性を優先させた(冗長と非難される最大の原因)ことでも共通しています。たとえばシューベルトの《弦楽四重奏曲第15番ト長調》とか《弦楽五重奏曲ハ長調》にはこれらの特徴が最大限発揮されており、ブルックナーのような作品として解説されることも多いし、シューベルトがもっと長生きしていたらブルックナーのような交響曲を書いたに違いないと推測する評論家もいます。このような類似性はどこから来たのでしょうか?

 シューベルト(1797〜1828)とブルックナー(1824〜1896)は、ちょうど一世代の違いがあります。実際、ブルックナーの父アントン(1791〜1837)はシューベルトとほとんど同世代だというわけです。しかし2人の育った環境、すなわち、ヴィーン近郊とリンツの片田舎ということを勘案すれば、逆にブルックナーの方がより古風であったといえるかも知れません。この2人の作曲家の家業が、くしくも共通した教師の家柄であったことがここでのポイントになります。

 バッハやモーツァルトやベートーヴェンは音楽を家業としていた家に生まれました。彼等の家族は基本的には貴族や教会に寄生することが生業であったわけで、モーツァルトやベートーヴェンはそこから脱却し、芸術家として自立することを志し成果を上げたわけですが、そういう努力をせざるを得なかったというところに、彼等は基本的には旧体制に属していたと言えるのでしょう。一方、シューベルトやブルックナーの生まれは、いわば一般市民の中の指導的な階層とでも規定できる、教師の家庭でした。当時の学校というのは、日本で言えば寺子屋か田舎の分教場のようなもので、いくつものクラスや運動場のある日本の小学校のような官設の大規模なものではなかったようです。しかし、こういう出自が彼等をして、新しく台頭してきた一般市民達のオピニオンリーダー的な立場での、新しい人による、新しい人のための、新しい音楽を書かせたのだと私は思います。

 シューベルトは彼の《ピアノ三重奏曲変ホ長調Op.100》の出版をプロープストという出版社に請け負わせました。このことについてのプロープストとの手紙のやりとりのいくつかが残っているのですが、それらの中で、献呈先の照会に対する回答として、シューベルトは次のように語っています。
『この作品は誰に献呈したものでもなく、この曲を気に入ってくれる人なら誰にでも捧げます。それが真の献呈ではないでしょうか。・・・・』(1828年8月1日)
 結局シューベルトはこの印刷譜を見ることが出来なかった(印刷の完成より彼の死の方が早かった)ことと相まって、この美しい言葉を読むと私は常に涙を禁じ得ないのです。プロープストは、はたしてこの言葉を印刷したでしょうか?私は、初版を写真ですら見たことがないので確定的なことは言えませんが、多分献呈のページは印刷されなかったでしょう。残念ながら、この美しい、また非常に重要な作曲家自身のメッセージは、1975年に出版された、フィナーレの復元を含む画期的な楽譜であるベーレンライター版にも含まれていません。『画竜点睛を欠く』とはまさにこのことでしょう。<この作品は、貴族や特定の人に書かれたものではなく、今この曲を弾く人、聴く人にシューベルトが作ったのだ>と彼自身が明言している以上、これはどんな楽譜上の細部の重要な発掘物より優先して、曲頭に1ページを使って印刷されるべき文言ではないでしょうか。

 一方、ブルックナーには、このような気の利いた言葉は残されていません(というか、彼自身の残した膨大な手紙類は、ほとんど和訳されていないので未知のママの状態ではあるのですが)。しかし、彼が教会のためではなく、また貴族や皇帝のためではなく、彼の交響曲を演奏し、聴いてくれる人たちのために作ったのだということは、彼の出自からして常に念頭に置いておかなければならないことでしょう。彼が《ミサ曲第三番ヘ短調》を書いて以後死ぬまでの30年近くの最も脂ののりきった時期に全くミサ曲を書かなかったのは、もう『ミサ曲』では語ることがなくなったのではなく、全ての人のための作品として『交響曲』という形態を選んだからでしょう。ブルックナーの交響曲は、ほとんどが献呈者を持っていますが、それらはあくまでも、世話になった人達へのお礼の気持ちであり、また出版のための方便でもあるのです。

 いままで、2人の作曲家の出自や文化環境の共通していることを述べてきましたが、この2人の家庭環境は全く対照的です。そのことが彼等の伝記に綴られている様々な逸話の根元的要因をなしているのではないかと考えられます。

 すなわち、ブルックナーは12歳の時、父を亡くしたのです。彼の父アントン(彼と同名)は過労のため酒に安らぎを求め、身体が弱って慢性の神経熱に侵され、肺炎を併発して1837年6月7日に5人の子供を残して亡くなりました。その時ブルックナーは看護の疲れと父の死のショックから気を失ってしまったと伝えられています。このときから彼は保護者を失い、自らの道を自らの手で切り開かなければならない運命とともに、逆に母や幼い兄弟達の養育すら心配しなければならない立場に立ったのです。こういった場合、ブルックナーのような真面目なタイプの人間は、より一層勤勉になり、またより一層自分の人生に対して慎重にならざるを得なかったことは想像に難くないでしょう。彼が証明書をしつこく求めたことも、転職しても以前の職への復帰を常に求めたことも、また、いつまでも音楽以外の堅気の職に色気を示したことも、根底には彼の父の早世が深く影響を及ぼしているのです。彼が結婚出来なかったのも、若いうちは、それどころではなく、ようやく地位を得たころには年を取りすぎていたことも一因ではないでしょうか?

 《第七交響曲》のドイツでの成功に功績のあった年下の指揮者ヘルマン・レヴィに対してブルックナーが与えた、いささか誇大で滑稽な『我が芸術上の父』という尊称も、彼の父親不在という家庭環境に起因する父親願望の現れだ、と理解すると納得のいくものとなるでしょう。まあしかし、言われたレヴィの方はケツの穴がこそばかったでしょうが・・・・

 さて、シューベルトはというと、彼は父の死に目にあえなかったのです。何故って?シューベルトの方が早く死んだからですね。
父フランツ・テオドール:1763〜1830
本人フランツ・ペーター:1797〜1828
ブルックナーと違ってシューベルトは父の監督の下に一生を過ごしたので自由気ままに暮らせたとも言えるのですが、逆に、父親との衝突を何度も行なっています。親としては息子が風来坊のような音楽家でいるより、定収入のある安定した職業に就くことを願うのは当然でしょう。そこにシューベルトの悩みもあったのかも知れません。人生うまくいかないものですね。まあそういった隘路があったからこそ、2人の偉大な作曲家から数々の偉大な作品が生まれ得たとも言えるのです。ブルックナーの父がずっと長生きしていたら、一介の田舎の校長先生で終わったかも知れません。
 
 父親についての2人の作曲家の違いは更に兄弟にも及びます。ブルックナーは11人兄弟の長男でした。といっても成人したのは5人だけで、上からアントン(作曲家本人)、ロザリア、ヨゼーファ、イグナーツ、マリア・アンナです。一方シューベルトは12番目の子として生まれました。彼の母親(エリザベート)はシューベルトが15歳の時に亡くなったので、父フランツ・テオドールは後添え(アンナ)を貰い更に幾人かの子供をもうけています。少なくともシューベルトには3人の成人した兄がおり(イグナーツ、フェルディナント、カール)、彼等の影響もブルックナーの場合とは非常に異なっていたでしょう。もし、ブルックナーにこれらの兄がいたとしたら、父親が死んだとしても、その精神的、経済的負担は全く違ったものになっていたでしょう。運命とは不思議なものです。

2010・1・26修正
2002.6.13記






8、《第九交響曲》は3楽章か4楽章か?

 ここを訪れる読者の皆さんには分かりきったことことでしょうが、《第九交響曲》は未完成の作品ですね。コールズやヘレヴェッヘが来日し、この作品の『完成版』を聴かせてくれた機会に、もう一度この作品のありかた、すなわち3楽章の作品なのか4楽章の作品なのかを考えてみたいと思います。

 私が若いころは、《第九交響曲》は3楽章の作品であり、フィナーレについては膨大なスケッチが残されていることは知られていましたが、それは全く等閑に伏せられ無視され続けていました。既に戦前にオーレルによってフィナーレの実態の詳細な報告が出版されていたにも拘わらずです。ですから、この作品は3つの楽章だけで完結した一つの世界のように捉えられ、評論され、また演奏されてきました。中には『アダージョフィナーレ』という言い方で、まるでマーラーの《第9交響曲》やチャイコフスキーの《悲愴》と同一視するような評論家まででる始末でした。

 しかし、ブルックナーの交響曲に3楽章や5楽章のものがあるなんてことは、彼の交響曲のいくつかに聴き馴染んだ人なら到底思い浮かばないことでしょう。なぜなら、彼の交響曲はどの作品でも各楽章が或る1つの理想の構造を追求したような類型的な形態を持っていると直感出来るからです。その理想の形態とは、ベートーヴェンの《第9交響曲》の第3楽章までとか、シューベルトの《大きなハ長調交響曲》のようなものだったのでしょう。実際、ブルックナー自身も『緩徐楽章とスケルツォを中間楽章に配し、ソナタ構造による巨大な両端楽章を構えた4楽章構造』を交響曲の理想の姿とし、この構成法をかたくなに守り通したのです。ですから、彼にはそれ以外の構成を試してみようなどという気は更々なかったのではないでしょうか。この点ではブルックナーは、同じく4楽章の交響曲しか作らなかったブラームスよりもさらに保守的であり形式主義者であったといえましょう。このようなブルックナーですから、晩年《第九交響曲》のフィナーレが完成していないことを非常に苦にしていたことが伝記でも伝えられています。たとえば『フィナーレを完成せずに死んだときは《テデウム》を代わりに演奏して欲しい』とか言ったようですが、《テデウム》は調的に一致しないだけではなく、その音楽の世界は《第七交響曲》のフィナーレの代わりに演奏するのならいざ知らず、《第九》とは全く相容れないことは明白であり代替楽章としての役割を到底果たすことが出来ないことは彼自身も充分認識していたのです。そのため病身をおして最後の2年間をフィナーレの完成に向けて苦闘を続けたのです。

 それでは、フィナーレはどこまで作曲が進んでいたのでしょうか?全集版では、大部で詳細な「フィナーレの自筆草稿の写真版」が出版されています。それを見た大雑把な印象では、三分の一はブルックナーの音楽が聴け、三分の一は相当手が加えられたブルックナーの音楽が聴け、残りの三分の一はほとんど編作者の音楽になってしまわざるを得ない、という風に思えます。実際に完成されたいくつかの版を聴いても、どの版もこれと似たり寄ったりの感じがします。これらの「完成版」は、編作者達の努力は買うものの、ブルックナー自身の完成作とは一線を画するべきものであると考えざるを得ないことは致し方のないところでしょうか。

 何故《第九交響曲》は、3つの楽章が完成しているのに、フィナーレだけが断片の状態なのでしょうか?この落差に疑問を覚えますね。実際、1884年に着手した「第八交響曲」では、既に1885年8月16日付で、あの有名な4つの楽章すべての主題を同時に鳴らして華麗に終結する部分のスケッチを完成させ『ハレルヤ』と記したパーティセル草稿が現存しているように、作曲を始めて1年ほどで全曲の構想の大まかな点は出来上がっていたのです。そして、その後推敲を重ねオーケストレイションを何度もやり直して1887年に第1稿が完成したのです。ですから、この《第八交響曲》と同じような方法で《第九交響曲》も作曲していたとしたら、1887年に着手したのですから、1888、89、90、91の4年間は《第三》、《第八》および《第一》の改作に没頭していたとしても、1892年には全曲の構想が出来上がっていたはずです。しかし、実際にはブルックナーはそういう風には作曲しなかったようです。彼は、フィナーレの構想がないまま3つの楽章の完成を図り、1894年にこれらが完成した後でさえ、全体的な構造を確定出来ないまま見切り発車でフィナーレの作曲に突入して行ったように思われるのです。

 全集版ではスケルツォの「トリオの採用されなかった2つの草稿」も別冊で出版されています。それによると、1つ目のトリオ<トリオ1>(オーケストレイションされていないスケッチのみ)はすでに1889年には存在しており、それはやがて没になり、1893年には2つ目のトリオ<トリオ2>(オーケストレイションされているが完成していない)が出現します。しかし、これにもブルックナーは満足できず、急遽1894年初頭に現在聴かれる3つ目のトリオ<トリオ3>を完成させるのです。この3つのトリオを比較して聴いてみると、<トリオ1>や<トリオ2>は、ブルックナー晩年の作風を示した得難い作品であることは間違いないですが、《第九交響曲》のトリオとしては、ちょっと首を傾げたくなるのは私だけではないでしょう。少なくともあの天上の世界を疾走するような鮮烈な現行の<トリオ3>が至当の『第九のトリオ』であることは万人の認めるところでしょう。ブルックナーはこの天才的な<トリオ3>の楽想を思い浮かべるまで、不本意な草稿をこねくり回しながら、じっと待っていたように思われます。そして突然、究極の構想を思いつくやいなや1894年に一気に完成させたのでしょう。

 このような作曲経過を、フィナーレにも援用できないでしょうか?すなわち、先に述べた『三分の一は相当手が加えられたブルックナーの音楽が聴け』というのが<トリオ1>にあたり、『三分の一はブルックナーの音楽が聴け』という部分ですらまだ<トリオ2>の状態に過ぎないのではないかと・・・・・ブルックナーは<トリオ3>にあたるフィナーレの究極の構想の霊感を得ることを10年間待ち続けたけれども、結局それは果たせずに終わったのだと・・・・・ですから、現在のフィナーレの完成へ向けての多くの人たちの努力は、結局<トリオ1>や<トリオ2>を完成させようとしていることと似ているのではないかと。ブルックナーがもっと長生きしていてフィナーレを完成したとしたら<トリオ3>のように、残された草稿群とは全く違う形態のものになったのではないかと私は推測しているのです。もちろん、現在のフィナーレ完成への努力は高く評価されねばならないことは言うまでもないことですが・・・。

 結論として私はこう思います。
《第九交響曲》はあくまでも4楽章の交響曲である。しかしフィナーレは完成しておらず、その残された草稿も先行する3つの楽章に相応しいものではない。現存資料によるフィナーレの完成ということも非常に興味ある有意義な事業であるが、それは《第九交響曲》創作の1つの過程の完成という意味で捉えるべきである。


 話はそれますが、 コールズによって演奏用に編まれた版では<トリオ2>は60小節足らずの非常に短い作品です。そしてこの曲は三部形式で出来ており、中間部の主題は現行<トリオ3>のB主題と同じものが使われています(ということは、逆に言うと<トリオ3>のB主題は<トリオ2>の中間部の素材を流用したということになります)。
<トリオ3>は
[ABA]B[ABA]
という形式ですので、もし<トリオ2>によってスケルツォを演奏する場合
<トリオ2><トリオ3の113〜152小節><トリオ2>
という風に演奏すると、内容的にはともかく、量的にはバランスの取れたものになると思われるので、この形での演奏を私は推奨したいと思います。
是非、どこかのオーケストラで実現していただきたいですね。

2010・1・26修正
2002.5.28記


7、《第三交響曲》の自筆稿

 交響曲の遺贈稿の中で、ブルックナーが死んだ時点で唯一自筆稿が揃っていなかった作品が《第三交響曲》です。今回は、それにまつわる話をしましょう。
 1877年の初演の有名な大失敗のあと、テオドール・レーティヒという出版者が《第三交響曲》の出版を申し出たのですが(スコアは1879年出版)、そのとき連弾用の編曲譜もあわせて出版されることになりました。この連弾用の編曲を担当したのが、かのグスタフ・マーラーとルドルフ・クルツィツァノフスキーでした。マーラーは第1楽章からスケルツォまでの3つの楽章を、クルツィツァノフスキーはフィナーレを受け持ち、これは1880年に出版されました。この時、編曲に使われたスコアがブルックナーの自筆稿だったのです。そして、マーラーの使用した3つの楽章はそのままブルックナーの手元には戻らず、ブルックナーの死に際して、遺贈稿として宮廷図書館に移管されたのはフィナーレだけでした。このフィナーレは他の交響曲と並んで、資料番号Mus.Hs.19.475が与えられましたが、実体は不完全なものだったのです。3つの楽章の自筆稿はマーラーから弟のオットーの手に渡り、それからマーラーの未亡人であるアルマ・マーラーがずっと所有していましたが、第二次大戦後ヴィーンのオーストリア国立図書館の所有するところとなり、現在に至っています。したがって、現在は、Mus.Hs.19.475は4つの楽章全てを含む完全なものであり、このことによってノーヴァクは自筆稿に基づく完全なIII/2巻を出版することが出来たのです。また、ハースが「第三交響曲」を出版しなかったのは、この遺贈稿の状態が不完全なものであったことが最大の原因であっただろうと考えられます。

 マーラーは、なぜ自筆稿を返さなかったのか?この疑問についてアルマは、マーラーがブルックナーから貰ったものであると述べています。実際、出版からブルックナーの死まで15年以上あったのですが、マーラーが自筆稿を返そうとしなかったのは、少なくとも彼自身は編曲の『ご褒美』としてブルックナーから贈られたものだと考えていたに違いありません。編曲があまりにすばらしかったので、うっかりブルックナーがそう言ってしまったのでしょうが、マーラーがそれを真に受けてしまったことが不運の始まりだということです。まあしかし、紛失されずに、現在はもとの鞘に収まっているのですから良しととすべきでしょうか。

 孫引きになりますが、日本ブルックナー協会会報、Nr.28(1985.11.30)には、B.W.ヴェスリング著「グスタフ・マーラー<新しい音楽の予言者>」(ヴィルヘルム・ハイネ社 1980)からブルックナー関連の部分を会員の石橋邦俊さんが訳出されたものが掲載されていますので、「第三交響曲」の自筆稿関連部分を、ここに引用させていただきます。

《ヴェスリング:マーラーが最も好んでいたブルックナーの作品は?
アルマ:「第三」です。ルドルフ・クルジザノフスキーとピアノ用に編曲したほどです。これは1878年に出版されましたが(1880年の誤り、筆者註)、もともとはブルックナーの弟子のシャルク兄弟が作製することになっていたものです。ある日、マーラーが完成した第1楽章の楽譜を持って師を訪れると、ブルックナーはひどく喜んで叫んだのです、「これでシャルクはお払い箱だ!」冒頭の力強い意思、高揚とその頂点の情熱、そして静かな、すべてを神に委ねきった諦念、「第三」はブルックナーの本質を最も明瞭に伝えている・・・・マーラーはこう考えていました。

<中略>

ヴェスリング:ブルックナーの「第三」のスコアはあなたがお持ち・・・・・
アルマ:マーラーはそれを聖なる書のように大事にしていました。自分のコデクス・アルゲントイス(銀文字写本)と呼んでいました。マーラーがこのスコアをもらいうけた時には、この「1か2分の1バカの」ブルックナー(ヴィーン人の眼にはヴァーグナーが2分の2のバカだったのです)が、交響曲の分野でベートーヴェン、シューベルトと現代をつなぐ最も重要な鎖の環であるなどとは、誰1人、マーラーですらも、知りませんでした。ナチスから逃げる時も、私はこのすばらしいスコアを持ってゆくことができました。フランツ・ヴェルフェルとスペインに逃げようとした時は、この大切な財産を自分の腕にかかえて行きました。もっと役立つにちがいないものもあったのですが、みんなうっちゃっておきました。ブルックナーの「第三」は決して失われてはならなかったのです。》

 このヴェスリングの著作については、金子建志さんが「ブルックナーの交響曲」、音楽之友社(1994)の中でも取り上げられています。それによると、この本はヴェスリングがアルマに1958〜62年にかけて直接インタヴューしたものをまとめたもので、金子さんはアルマの証言の一部には彼女とマーラーの過去を美化し粉飾しているものがあるということを例をあげて説明されておられます。実際、この短い引用でも、自分のこと以外は、マーラーから聞かされたことを美化して誇大に述べているのです。「聖なる書のように大事にしていた」などと、さも肌身離さず持ち歩いていたかのように言っていますが、実際には弟に渡してしまっていたのですから割り引いて考えなくてはならないかも知れません。(まあ旅の多いマーラーより弟のほうがしっかり保管できるという意味があるのかも知れませんが。)

2001.5.31記





6、《第六交響曲》と《第七交響曲》のフィナーレは何故短いのか?


 《第六交響曲》と《第七交響曲》は、《第二交響曲》から《第五交響曲》までの『四姉妹』と同様、姉妹作です。ところが、その”受け”は作曲当初から、今日に至るまで天と地のような差があります。《第七交響曲》が作品完成後すぐに有名になり、出版もすぐ行なわれ、ブルックナーの”代表作”として位置づけられ、数多く演奏されるのに対して、《第六交響曲》は初演もおざなりであり(2つの中間楽章しか演奏されなかった)、その後もめったに演奏されず、彼の交響曲の中では最も”影の薄い存在”であり続けています。それは何故でしょう?このことの理由については後述6−2に述べられますが、少なくとも”作品の出来”の違いが原因だというわけではないことは確かです。それは、少数ではあるけれども、ブルックナーファンの中で極端に《第六交響曲》を愛好する人たちが存在する事実を挙げておけば十分でしょう。すなわち、ハマれば、この曲の美しさ、素晴らしさを十分堪能出来るのです。端的に言えば《第六交響曲》は一般受けしにくい、サラッと聴いただけでは何のことやらさっぱり解らないということなのでしょう。

 さて、この2曲は、その”受け”の差にかかわらず、数々の共通点が見られます。その内の一つとして、フィナーレが短く全体の構造が竜頭蛇尾である、という捉え方がしばしば共通の弱点として指摘されていることです。それは本当か?
《第二交響曲》から《第八交響曲》までのフィナーレの小節数とこの2曲を比較してみましょう。なお複数稿ある場合は初稿の小節数です。

《第二交響曲》 806小節 Mehr schnell
《第三交響曲》 764小節 Allegro
《第四交響曲》 616小節 (Allegro moderato)
《第五交響曲》 642小節 Allegro moderato
《第八交響曲》 771小節 Feierlich, nichit schnell

《第六交響曲》 415小節 Bewegt, doch nicht zu schnell
《第七交響曲》 339小節 Bewegt, doch nicht schnell

上に記した5曲の平均は720小節であり、《第六交響曲》と《《第七交響曲》の平均は377小節ですので、後者は前者の約52%にあたります。これら全てのフィナーレは拍子はアラ・ブレーヴェ(2分の2拍子)ですので、もし同じテンポで演奏すれば、約半分の演奏時間ということで、確かに短いですね。しかし、問題はテンポ設定にあるのです。

《第六交響曲》  Bewegt, doch nicht zu schnell=アレグロ、しかしあまり速くなく
《第七交響曲》 Bewegt, doch nicht schnell=アレグロ、しかし速くなく
と理解すると、確かにアラブレヴェのアレグロで演奏すべきでしょう。しかし『速く。しかし速くなく』なんて矛盾するテンポ指示なんて有り得るでしょうか?

 私は、そういった印象を抱かせるのは、ブルックナーの作曲の仕方が悪いのではなく、指揮者のテンポ設定がブルックナーの意図したものを無視した、異常に速すぎるテンポによって再現されることに起因するのではないかと考えています。マーラーが《第3交響曲》や《第9交響曲》でアダージョのフィナーレを書いたように、これらとはちょっと違ったニュアンスの『速くないフィナーレ』をブルックナーはこの2曲で試みたのではないでしょうか?すなわち、Bewegtという指定は単なるAllegro(速く)の言い換えではなく、本来の字義通り”躍動的に”という意味だと考えるべきではないでしょうか?それを裏付けるものとして、これら2つのフィナーレでの32分音符の多用をあげることが出来るでしょう。ブルックナーは他の交響曲でも、よく32分音符を使っています。しかし、それらはもとの動機を2分の1や4分の1に縮小したときに用いられる場合がほとんどで、《第六交響曲》や《第七交響曲》のフィナーレのように、もともとの動機自体の中に32分音符が存在することは少ないのです。これらの32分音符は現在普通に行なわれているアレグロのテンポではほとんど効果のないものに過ぎません。16分音符で十分こと足れるものです。というのは、プレイヤーが必死に32分音符を正確に演奏しても、演奏者の人数やホールの残響によって聴衆に届かず、その努力はほとんど無に等しくなってしまっているからです。ブルックナーがわざわざ面倒くさい32分音符を書き連ねたのは、そんな効果の期待できないようなテンポではなく、確実に聴衆が32分音符を聴きとることが出来、Bewegtとは、32分音符がはっきりとした存在感を示し、その存在感から醸し出される躍動感を意味するのではないでしょうか?
 Bewegtをテンポ指示ではなく発想指示であると捉え、doch nicht zu schnell(速すぎない)やdoch nicht schnell(速くなく)こそをテンポ指示と考えれば、普通に行なわれている演奏が異常に速すぎることが理解出来るでしょう。実際、ドイツ語のdoch の意味は、「しかし」で前後をつなぐという前の語を否定または和らげるものではなく、後ろのものを強調する意味なのですから、くだけて言えば「速すぎないんだよ!」とか「速くないんだよ!」といった意味になるのでしょう。

《第六交響曲》  Bewegt, doch nicht zu schnell=あまり速くなく、躍動的に
《第七交響曲》 Bewegt, doch nicht schnell=速くなく、躍動的に
と理解すると、すなわち Bewegtを発想指示(躍動的に)、doch 以下ををテンポ指示と捉えると、現在普通に行なわれている演奏がずいぶん速すぎるように見えてきます。このような奇妙なテンポ指示は、たとえばブラームスの《第1交響曲》の冒頭Un poco sostenutoのように例がないわけではありません。いずれも指揮者を悩ますものです。

この32分音符を、32分音符として聴衆に知覚し得る(8分音符を1つに指揮棒を振る)テンポで演奏すれば、これら2曲のフィナーレは他の交響曲のフィナーレと遜色ない重厚なフィナーレになると私は考えています。それとともに、私は常々念願しているのですが、どなたかMIDIで32分音符の正確な譜割りの音楽はどんなものかを、実際の音として再現していただける方はおられないでしょうか?この願いを実現していただける方がいらっしゃれば非常に嬉しいのですが。

2001.3.14記
2012.11.9補足


6-2、《第六交響曲》が解りにくい作品である理由

《第六交響曲》の不人気の理由を考えるということは、ある意味でこの作品の本質を掴むことにも繋がることと思い、今回2つの点についてスポットライトを当て、追求してみましょう。それは、『2連、3連のリズムの交錯』と『中世的な古風なメロディー感覚』という2つのポイントです。聴衆は、ブルックナーを聴くことに対して期待している『一種の心地よさ』を阻害する『なにものかの存在』を無意識に感じています。そして、ブルックナーがあえて『心地よさ』を犠牲にしてまで求めた『なにものか』を理解したときに、他の曲にも増して、この曲が『お気に入り』になるのだと思います。


@2連、3連のリズムの交錯

具体的にいえば、1つの拍を2で割る部分と3で割る部分が《第六交響曲》では、かなり錯綜した形で使われているということです。錯綜しているというのは、時間の流れにしたがった音楽の横の線における2連、3連の並立と、同時進行する複数の声部の縦の線での並立という、音楽の縦横双方でこれが現れるからです。どちらか片一方だけの並立使用というのは、古今の音楽作品にしばしば見られ、リズムのスパイス的効果として、非常に面白いものであります。しかし《第六交響曲》のように両方が煩雑に絡み合うと、いかにも複雑に聴こえ、ギクシャクしたリズム進行がある種の苦痛を伴うことになってしまいます。まあ、この作品はそれを狙っていて、過度のスパイスを楽しむという、激辛カレーを食べるような楽しみになっているとも言えるでしょうが・・・・。

 ではまず、横の線を見てみましょう。曲が始まると最初に聴こえるのが、ヴァイオリンの高音部で繰り返し奏されるリズム音形[ターッタタ・タ・タ]ですね。ブルックナーには珍しく、はっきりと刻まれる独特のリズムです。これを分解すると、1拍目は4分音符を4つに割った(すなわち、2で割ってさらにもう一度2で割る)うちの1つ目と4つ目に音が鳴り、2拍目は4分音符を3等分しています。この、1拍目の4つ目の音と2拍目の3つの音の長さがほんの少し違いますね(正確には12分の1後者が長い)。この違いが聴く人に非常な負担を与えるのです。この引っかかる感じは、ちょうど『喉に小骨が刺さったような』もので、『くつろぎの世界へいざなう音楽』とは到底言えません。そして、この4連と3連が交替する音形は第1楽章を通して、延々と演奏されるのです。

同じようなリズムでも、音符の長さの違わない曲と比較していただければ、この窮屈さが一層ご理解いただけるでしょう。メンデルスゾーンの《交響曲第4番イタリア》の第4楽章、『サルタレロ』と題された曲です。このリズムの躍動感はブルックナーの世界といかにかけ離れていることか!もう一つ例を挙げておきましょう。リムスキー=コルサコフの交響組曲《シェヘラザード》の第4楽章です。2つの例は非常に速いテンポで軽快に演奏されます。もし、それに倣ってブルックナーの《第六交響曲》も『サルタレロ』風に演奏したら、軽快な映画音楽のようになるのではないかな?錯綜が少しは解消されるのではないかな?などと思ってしまいます。そうすると、この曲にも新しい面が開かれてくるのかもしれません。だれかやらないかなあ・・・・。でも、これを実現するにはちょっとした楽譜の操作が必要になってきます。4分割は全て無視して3分割に読み替えてしまうのです(8分音符と16分休符+16分音符を8分音符+8分休符+8分音符に読み替える)。この読み替えは、全く根拠のないものでもありません。バロック時代には、こういったことは常識であって、バッハやシューベルトには、この手の記譜法が結構出て来るので、ブルックナーもこの読み替えのことは知っていたはずだというゴリ押しでやってしまうわけです。もちろんこの場合、メンデルスゾーンの『サルタレロ』のような速いテンポでさっそうと演奏するわけですが。

しかし、テンポの点ではブルックナーは、冒頭に『マエストーゾ』=『荘重に』と指示しています。ですから、指揮者たちは『サルタレロ』のような思いっきり速いテンポは取れないわけです。それならこの4分割+3分割の音形をおもいっきり遅く荘重にやればと思うんですが、それも出来ない。音楽がだれてしまうんでしょうね。それで多くの指揮者は、4分割+3分割の効果を最大限発揮させることの出来るテンポを見つけることが出来ず、どっちつかずの中途半端なテンポになってしまうというわけです。

次に、縦の線を見てみましょう。前述のリズム音形が続く中で、低音弦に主題が提示されます。この主題の2小節目は3連符で出来ています。高弦のリズムは、4分音符の4分割+3分割の連続です。ところが、主題の方は2分音符の3分割の小節の後に2分割(付点2分音符+4分音符)が続きます。ここでもまた、錯綜が生じることになります。ですからこの主題部分では二重にギクシャクした状態になっているのです(織り目の立ても横も)。2連符系と3連符系の交代くらいならいくらでも作品例があり、たいしたことではありません。先に例を挙げたメンデルスゾーンもリムスキー=コルサコフも3連符の連続する中で、突然2連符にすることによって、音楽にスパイスを効かせています。しかし、それらは音楽の流れの中で明瞭に区別されているのです。ところが、ブルックナーのように縦の線、横の線の両方で錯綜するともうお手上げです。リズムがどんな風になっているか聴き手には解らなくなってしまうんでしょうね。

この2連、3連の並立は第1主題部だけに限ったことではなく、第2主題部や第3主題部においても、これでもか、これでもか、という風に次々と襲いかかってきます。第2主題部分は特に複雑で、テンポをかなり落とす指示があるために、3連符の方が主導権を持つようなテンポ設定になるので、これまでの1小節=4分割の4分音符と第2主題の1小節=6分割の4分音符が同じ長さくらいになってしまうため、第2主題内の4分割4分音符のメロディーラインがとても不安定に聴こえてしまうのです。そして、音楽が進んで80小節あたりからは(練習記号Dのところ)、4分割の4分音符の3連符と6分割の4分音符の3連符が併置されたりして、とても複雑になってきます。もうこうなるとお手上げですね。

2連、3連の交錯は、アダージョでは再現部第1主題のみに限られますが、スケルツォにおいて、また大々的に展開されます。ただ、この2つの楽章では、第1楽章のような複合的なものはないので、違和感としてはずいぶん緩和されています。その聴き易さが、初演の時、この2つの中間楽章が選ばれた理由なのでしょう。フィナーレでは主題的に3連の要素が全く排除されているので、違和感は32分音符の多用の方に生じています。ただ、最後の方では第1楽章のリズムが再現し、主要主題の変形が大きく取り上げられるため、最初の混沌が蘇って終わるということになってしまっています。これが圧倒的な終結にもかかわらず、聴後感に悪影響を及ぼしている可能性はあります。
 
 フィナーレのリズム的問題は、16分音符と32分音符の使い分けに生じています。この32分音符を有効に演奏するためには、相当遅いテンポが必要ですが、そうすると、第1楽章にも生じたような、テンポ的ダレが生じ、指揮者を困らすことになってしまっています。


A中世騎士的容貌

 最初に低弦で提示される第1主題。この主題を聴くと、なにか古風な感じがします。それはどこから来るのか?楽譜をパッと見て感じるのは、そこに臨時記号がいくつか書かれてあるところに問題あり、ということは容易に推測出来ます。そうです。この臨時記号によって普段聴く音楽とは違った風に聴こえてくるのです。普段聴く音楽とは、長音階(ドが主音)か短音階(ラが主音)で出来ています。その両方ともが、主音の1つ上の音は長2度で1つ下の音は短2度の音程になっています(この曲はイ長調と見られるので前者はH音、後者はGis音)。楽理的に言えば下の音は主音に対して上行導音を形成しているということになります。ところがこの第1主題は臨時記号により主音と見られるA音の1つ上の音は短2度(B音)で1つ下の音は長2度(G音)と逆の音程関係になっています。これも楽理的に言えば上の音は主音に対して下降導音を形成していると言えるのです。ですからこれは長音階でも短音階でもなく別のなにものかで出来ている音楽だと言えるのです。それでは、それは何なのでしょうか?それは《教会旋法》で出来ているのではないか?という考えです。ここで突然、音階から旋法に名前が変わったことを不思議に思われるかもしれません。それは音階が一緒でも主音が違うものを旋法として区別しているからです。《教会旋法》とはなんでしょうか?《教会旋法》については、ネットで検索すると詳しい解説を読むことが出来ます。ここでは、それは中世的な古風な響きがするとだけ言っておきましょう。

まず、第1主題の最初の動機だけを、普通の固定ド唱法で記してみましょう:
ミミーーラーーソラ♭シラソラーーーファーミーー
これだと、どんなイメージのメロディーかさっぱり分かりませんので、この曲の主調のイ長調による移動ド唱法で読んでみましょう:
ソソーードーー♭シド♭レド♭シドーーー♭ラーソーー
さらに臨時記号が増えて、これもイメージが掴めません。
臨時記号をなしに出来たらイメージが掴めるかも?
そんな魔法のようなことが出来るのかというと、それが出来るのです!
へ長調の移動ド唱法で読んでみましょう:
シシーーミーーレミファミレミーーードーシーー
という変な音列が出来ますが、たしかにこれでイメージが湧きます。
実はこれは、《教会旋法
》3番目の《ミ旋法》=《フリギア旋法》と同じ構造なのです。
だからこの動機は、なにかゴツゴツした古風なメロディーに聴こえるわけです。

言い換えると、このメロディーは、普段聴きなれたイ長調の《ド旋法》に臨時記号の付いたものではなく
へ長調の《フリギア旋法》であると考えるべきなのです。
すなわち、主音を《ド》から《ミ》に変えるという発想の変換が必要となってくるのです。

現代の西洋音楽は、《教会旋法》の各旋法が《イオニア旋法》=《ド旋法》=《長旋法》と《エオリア旋法》=《ラ旋法》=《短旋法》に収束して、それらが調的変化を受けることによって多彩な表現が可能になって発展した音楽だといえるでしょう。ですから、一旦《ド》とか《ラ》を主音とするように凝り固まってしまった現代のわれわれの耳には《ミ》を主音とすることなど受け入れにくいことなのです。それで、このメロディーは『居心地が悪く』また『古臭い響き』として聞こえるのです。また《ファ》から《ミ》へ行く下降導音も耳に馴染みにくいものですね。

逆に言うと、わざわざ古臭い響きを求めるときは《教会旋法》を使えばよいわけで、この《第六交響曲》にはこういった、旋法の変更や他の色々な手法が随所に採られているので、一風変わった響きが常について回るということなのです。

《教会旋法》というのは、その名の通り教会での音楽に使われて確立したものですが、もちろん当時の人たちは教会だけで使っていたのではなく、一般的な概念として全ての音楽がそういう発想で行なわれていたのです。日本人にとっては馴染みのないものですが、それでも100年以上も西洋音楽の教育を受けて来たわれわれ日本人は《教会旋法》風味の音楽を、それと意識することなしに自然と『古風な音楽』として耳に刷り込まれて来たのでしょう。われわれも西洋人と同じように中世的であると感じることが出来るようです。

また、《ミ旋法》と《ド旋法》との行き来をする上で非常に好都合な和音変換があるのです。それを『ナポリの6度』といいます。これは古典派時代からロマン派にかけて広く愛好された和音変換ですが、ブルックナーもたくさん使用しています。この『ナポリの6度』がらみでこの主題を説明する人もいます。『ナポリの6度』には、その構成音の中に主音の半音上が含まれているので《フリギア旋法》風味のメロディーに和声を付けるときに利用しやすいというわけです。

                                                 


2001.3.14記
2012.11.9改稿


5、ブルックナーの手紙について

ブルックナーの伝記を読むと、彼の人となり、彼の性格などが一風変わった人として描かれています。また『彼は飲んだくれのように作曲する』とか『彼は半分神様で半分阿呆だ』とかいったような風評が面白おかしく書かれています。これらの所見には、ある面の真理が存在することは確かですが、伝記というものの性格上作曲家の事跡のある一面を強調し、ディフォルメしたものであることは否めません。私たちは、まず作曲家の『普段の姿』を理解した上で、これら『伝記に記すべき特別な出来事』を理解すべきでしょう。それが、作曲家の真実の姿にせまる最善の方法であると私は思います。そして、『作曲家の普段の姿』や『作曲家自身が意図していること』を一番上手く表しているのが、作曲家の手紙なのです。

ブルックナーと同様、その人柄が誤解されているシューベルトについては、書簡集の和訳が懇切な解説とともに出版されています。私の事件簿でも大いに参考とさせていただいている『シューベルトの手紙』(国際フランツ・シューベルト協会刊行シリーズ2「ドキュメント・シューベルトの生涯より) オットー・エーリヒ・ドイチュ著、實吉晴夫編訳 メタモル出版、です。シューベルトについては中学生の音楽の時間で『歌曲の王』として習い、数多くの素晴らしい歌曲(ドイツ・リート)の作曲家として認識されています。それはそれでよいのですが、裏を返して、彼の器楽曲は歌曲の合間に作られた副次的な産物であり、歌曲の延長線上にある、あまり構成的でない、またあまり重要でない作品群であるという誤った認識をも植え付けられているのです。これは彼の在世中も、死後も、そして現代に至るまで変わらず連綿と続いています。しかし、『シューベルトの手紙』を読むと、彼の目指したものは器楽曲やオペラの作曲であって、歌曲はその合間に作られたものであるということがはっきりと理解できるようになるでしょう。そして、数多くの立派な器楽作品群がそれを証明しているのです。例えば、1828年5月10付の出版社プロープストあての手紙の中で「ピアノトリオ変ホ長調op.100」を出版するために売却するにあたって、シューベルトは次のように述べています。<拝啓、貴殿より請求のあったトリオをお送り申し上げます。本当は、硬貨60フロリンという金額は、リート集かピアノ集にふさわしいもので、六倍もの努力を必要とするトリオにふさわしいとは思えないのですが。・・・・>ここで、シューベルトは売値をふっかけたり、安く売って恩にきせようとしているのではありません。正しく、自作の作曲に要した時間を比較しているのです。このトリオがどんな作品より6倍の時間を要したのか、私は、リート集とは「美しき水車小屋の娘」のような連作歌曲集の1つの巻を意味し、ピアノ集とは「即興曲集」とか「楽興の時」のようなものを意味するのだと思います。トリオの労力に見合った売値とは360フロリンであると、またそれだけの努力をしたと彼は言いたいのでしょう。このような誤解は、ブルックナーに関してもいくつもあると思います。

さらに、伝記は時々手紙の重要な箇所を引用して解説していることがありますが、そういった引用だけでは十分とは言えません。今、シューベルトのトリオについて引用しましたが、この場合でも問題のポイント箇所だけを取り出していますが、それでは不十分なのです。彼のいくつかの出版社との一連の交渉の過程全体の手紙を通覧することによって、さらには手紙全部を読むことによって初めて、シューベルトが自作に対してどのような価値判断をしているのか、本当の理解が得られるのだと思います。

さて、ブルックナーの全集版では、そのXXIV巻で2冊の分冊として「書簡集」が出版されています。それらはアンドレア・ハラント(Andrea Harrandt)とオットー・シュナイダー(Otto Schneider)が編纂したもので第1巻は476の手紙(317ページ)、第2巻は554の手紙(361ページ)が含まれ、さらに序文と索引などが付いていいます。そして、それぞれの手紙には関係する手紙の索引や、手紙文の中の発言対象の解説が懇切丁寧になされています。第1巻は1998年に出版され、1852年から1886年までの35年間のブルックナーの書いた手紙、ブルックナーに宛てられた手紙そして第三者間の手紙で関連性のある重要な手紙が収録されており、第2巻は2003年に出版され、1887年から死の1896年までの10年間の手紙が収録されています。

私は、この「書簡集」が和訳されて初めて、日本における真のブルックナー理解の始まりがあると思います。しかし、この膨大な量と日本のブルックナー受容の規模からみて、これが営業的に成り立つものでは絶対あり得ないことは確かです。日本の出版界の現状から見て、それを期待するのはほとんど絶望的ですらあります。この「書簡集」については、ある英国人が英訳に取り組んでいるという情報もあります。我が国においても、どなたかドイツ語の出来る、ブルックナーに精通した人が現れ、彼個人の献身的努力に期待するほかないでしょう。しかし、この取り組みは、成果としては計り知れないものがあるでしょう。日本でブルックナーが聴かれる間はずっと読み継がれて行くべき基礎文献となることは確かなことです。我々ブルックナーファンはどなたかが現れることを期待して待つことにしましょう。

2001.2.28記
2004.12.17追補



4,ブルックナー交響曲の散歩道について

今回は,私がリンツを訪れたときのことを,お話ししましょう.
リンツといえば,サンクト・フロリアン修道院とブルックナーの生地アンスフェルデンですね.一日をこの2カ所の見学に当てていた私は,同行のK氏と朝,バスに乗りサンクト・フロリアンへ向かいました.修道院ではおきまりの解説ツアーにより中を見学し,近くの食堂で昼食を取った後,時間があるのでアンスフェルデンまでは,地図を頼りに10km足らずの行程を歩いていこうということになりました.修道院裏の林の中をどんどん進んでいくと,なにか立て看板のようなものがあって休息出来るような長椅子が置いてありました.その看板にはブルックナーの「第八交響曲」の由来のようなものがドイツ語で書かれていました.どんどん歩いて林を抜け,畑を通り過ぎて,森の中へ入っていくと,また同じ看板と休憩用の椅子に出会いました.ここでは,「第六交響曲」の解説が書かれており,しばらく行くと,「第五交響曲」の看板がありました.『ハハーこれは交響曲全部の看板が順番にあるのだなあ.私たちは逆のコースを歩いているのだなあ.』ということが分かりました.しかしこれ以降看板に出会うことなく,アンスフェルデンに着いてしまいました.あとで分かったのですが,私たちは地図を頼りに歩いたので,自動車が通れる表道を歩いてようで,コースは自動車の通りにくい裏道になっていたようです.

生家に到着したのは,もう夕方であり,例によってそこは閉まっていましたが,2階(3階?)の人に(そこは一般の住宅)管理人のおばさんを呼んでもらい,中を見学させて貰いました.中は昔の伝記の写真にあるようなものではなく,小さな博物館のように改造されていてちょっとがっかりしましたが,2階にはブルックナーの作品を鑑賞するスペースまであってビックリしました.

そこには,いくつかのパンフレットも置いてあり,この「ブルックナー交響曲の散歩道」のパンフレットも頂いて帰りました.このパンフレットによると,「散歩道」はブルックナー没後100年の記念の年にオープンしたもので,生家の近くのAnton Bruckner Centre(ABC)から始まり,ブルックナーの墓のあるサンクト・フロリアン修道院に至る小道で,10のステーションがあり,それによってブルックナーの生涯をたどることが出来るようになっているとのことです.また,ABCではウォークマンを借りることが出来,ブルックナーの交響曲を聴きながら歩くことが出来るようにもなっているようで,ヘッドフォンをつけたブルックナーの写真が掲載されています.今度訪れることがあったら試してみたいと思っています.

このパンフレットの10のステーションの選択には興味がわきます.まず,「ヘ短調交響曲」が除外されていること,そして何故か「第二交響曲」の後に「0番」が来ることです.この変な順序に対して何のコメントも書いていないということは,生地においてもブルックナーはあまり理解されていないのだなあと思わせるものがあります.

最後に歩いてみた感想ですが,自然の中を歩くのは気持ちの良いものですが,景色は単なる田舎の畑であり,小さな森や林であるとといったところで,アルプスの遠景など見えるはずもなく,延々と丘陵地帯が続いているだけでした.ただ日本と違うのは,田圃が水を張る関係上一枚一枚が全て水平に出来ているのに対して,こちらは土地の高低のカーヴにしたがって延々と区切りもなく畑が広がっている点でした.歩いている間にブルックナーの音楽を思い浮かべることもなく,単に田舎道を歩いているだけという感じがしました.しかし,ブルックナーが百数十年前これらの道を歩いていたんだなあという頭の中だけでの感慨に浸ることは出来,当地を訪れるブルックナーファンは車で素通りするのではなく,一度は歩いて体験して
みるべきだと私は感じました.

2001.2.23記



3,ブルックナーの交響曲の番号付けについて

ブルックナーファンなら誰でも知っているように、ブルックナーの交響曲は全部で11曲あります。ところが、これも周知のように番号の付いている曲は9曲だけであり残りの2曲には番号がありません。そのため現行の番号は実際の作曲順の番号ではないのです。しかし、これはブルックナー自身が決めたことであり、自筆稿や生前の出版譜(「第三交響曲」を除く<注1>)に番号がはっきりと記載されており、現行の番号はそのブルックナー自身による番号付けに従っているのです。番号無しの2曲はブルックナー自身が番号付の作品として残すにふさわしくないと考えて番号から外したのですから、現行の番号付定は一見合理的なように思えます。しかし、そこには大きな弊害が存在するのです。すなわち『ブルックナーの交響曲は全部で9曲であって、その他に交響曲が作曲されていたとしても、それらは単なる試作品に過ぎず考慮するに値しないものである。』というのが一般的な考え方であって、それが定着してしまっているのです。相当ブルックナーを聴き込んだファンでさえ、それを鵜呑みにしている人たちがたくさんいます。それに、交響曲全集を作る場合でも9曲やれば事足れりとする人がいたり、番号無しの1曲あるいは2曲を付録として付ければよいと考えている人がいるのには、私は我慢がなりません。

実際、ノーヴァクが「ヘ短調交響曲」を全集版の1つの巻として出版するまでは、ある高名な批評家が『この作品は単なる習作であって、アンダンテのみがオーケストレイションされており、他の楽章はピアノスケッチの状態の未完成作品である<注2>』といった意味のことを述べ、まるでシューベルトの未完成作品のように誤解して解説していたほどですし、現在でも、『この作品は、シューマンかメンデルスゾーンの亜流であって、まだブルックナーの個性は開花しておらず、後年の名作が生まれていなければ歴史のはざまに忘れ去られてしまったであろう』というのが一般的な認識なのです。また「ゼロ番交響曲」については、ブルックナー自身が晩年にスコアに書いた『全く通用しない単なる試作』(下述の筆写譜に書かれたブルックナーの書き込みの意訳)という文言をそのまま鵜呑みにして、それなりの作品でしかないと理解されているのです。

しかし「ヘ短調交響曲」については自費で筆写スコアを作らせ、それによって演奏の可能性を模索していたことは事実であるし、「ゼロ番交響曲」では筆写スコアだけでなく、パート譜までも作って、ウィーンフィルでの演奏を期待していたのです。またこの作品は「第2交響曲」として作曲されたことも、自筆譜上から明白です<注3>。少なくともブルックナーは、これらの2作品を作曲途上や完成後しばらくの間は、習作や試作品と考えていたのではなく、立派な自作品であると考えていたことは、このような残されている資料から明らかです。これらの作品を番号から外したのは、ブルックナーの不必要なほどの人並みはずれた自己批判精神の強さによるものであると私は確信しています。

また、「ヘ短調交響曲」について、「習作交響曲」というあだ名は確かにブルックナー自身に由来するものではあるにしても、私はその名の使用を極力避けています。不要な先入観を与える恐れがあるからです。「00番」という呼び方も、簡単で使いやすいような感じがしますが、根拠がないと言うことで、私はそう呼ぶことは嫌いです。一方「0番」というのは一般の解釈の『無効の作品』という意味でなく、番号を取り消したという後悔から、せめて「0番」という変則的な方法ではあるけれども、番号を与えたいというブルックナーの意思がそこに存在するという意味で、私は肯定的に考えています。

もちろん、私はこれらの番外の2曲に後期の作品群と同等の成熟度を認めているのではありません。単に、まだこれらを聴いていない人たちに、マイナスイメージになる先入観を植え付けるようなタイトルを、わざわざ使う必要はないと言いたいだけです。聴いてみて『やっぱりつまらない交響曲だった。』とか『まあそれなりの作品でしかない。』といった印象を持つのは個人の自由です。しかし、ブルックナー愛好家としては、これから聴こうと思っている人たちに、真っ白な気持ちでこれらの作品に接して貰いたいと願うのが本音ではないでしょうか。要するに、こういったことについて、ブルックナーの性格から鑑みて、彼の言葉を真に受けないことが、賢明であろうと思うのです。

そこで私は、ドヴォルザークの場合のように、11曲を作曲順に番号付けすることを考えました。しかしブルックナーの番号付けを全く無視することは出来ません。そのために英語表記やドイツ語表記では、ドイツ語の序数をタイトルとしました。日本語表記では、愛好家向けには、ドイツ語序数のカタカナ表記によるタイトルを掲げましたが、一般には、それでは何のことか解からないので漢数字とアラビア数字を使い分けることによって表現しました。漢数字はブルックナーの番号付け、すなわち現在一般に通用している番号付け、アラビア数字は作曲順による番号付けを示しています。そして、この表記法はグリーゲルの「交響曲の諸形態」に付けた「資料」と「出版譜」の表に採用しています。したがって、漢数字による表記は、ブルックナーが付定した一種の『標題』であるとご理解頂ければよいかと思います。ブルックナーの交響曲には作曲順の番号と標題としての番号の2種類あるというわけです。

私は、この番号付けが、オーストリア国立図書館の音楽部門に保存されているブルックナーの『遺贈稿』の資料番号の下一桁と「第一交響曲」以外は一致していることに、ブルックナーの引き合わせとして密かに満足感を味わっています。またドイツ語の序数表記では実際の番号と2つのずれを生じますが、これは9月以降の月の呼び方、September 9月(Septemは7を意味する)、October 10月(Octoは8を意味する)、以下同様、と奇妙に符合することも面白いと思っています(Sy.No.12はないけれども)。

英語表記 ドイツ語表記 日本語表記 『遺贈稿』資料番号
Sy.No.1
f minor
Sy.Nr.1
f moll
No.1
交響曲第1番 
ヘ短調交響曲
.
Sy.No.2
ERSTE
Sy.Nr.2
ERSTE
No.2
交響曲第2番  
第一交響曲
エルステ交響曲
 Mus.Hs.19.473
Sy.No.3
NULLTE
Sy.Nr.3
NULLTE
No.3
交響曲第3番 
第〇交響曲
ヌルテ交響曲
.
Sy.No.4
ZWEITE
Sy.Nr.4
ZWEITE
No.4
交響曲第4番  
第二交響曲
ツヴァイテ交響曲
 Mus.Hs.19.474
Sy.No.5
DRITTE
Sy.Nr.5
DRITTE
No.5
交響曲第5番  
第三交響曲
ドリッテ交響曲
ヴァーグナー交響曲
 Mus.Hs.19.475
Sy.No.6
VIERTE
Sy.Nr.6
VIERTE
No.6
交響曲第6番  
第四交響曲
フィールテ交響曲
ロマンティッシェ交響曲
 Mus.Hs.19.476
Sy.No.7
FUENFTE
Sy.Nr.7
FUENFTE
No.7
交響曲第7番  
第五交響曲
フュンフテ交響曲
 Mus.Hs.19.477
Sy.No.8
SECHSTE
Sy.Nr.8
SECHSTE
No.8
交響曲第8番  
第六交響曲
ゼクステ交響曲
 Mus.Hs.19.478
Sy.No.9
SIEBENTE
Sy.Nr.9
SIEBENTE
No.9
交響曲第9番  
第七交響曲
ジーベンテ交響曲
 Mus.Hs.19.479
Sy.No.10
ACHTE
Sy.Nr.10
ACHTE
No.10
交響曲第10番 
第八交響曲
アハテ交響曲
 Mus.Hs.19.480
Sy.No.11
NEUNTE
Sy.Nr.11
NEUNTE
No.11
交響曲第11番 
第九交響曲
ノインテ交響曲
 Mus.Hs.19.481


<注1>最初に出版された交響曲であるので番号が記載されなかったものと思われる。
<注2>1973年のノーヴァク版の出版までは、ヒナイスのアンダンテのみのスコアと、ゲレリッヒ・アウアーの「ブルックナー伝」に掲載されているピアノ編曲譜だけしか知られていなかったため。
<注3>この交響曲についての「ヘ短調交響曲」の直後1864年頃に第1稿が書かれたというノーヴァクの説は資料的根拠が全くなく、現在ではこの説を信じる人はほとんどいません。私も、1869年に全てが作曲されたと思っています。

2000.11.15記



2,「交響曲第3番、NULLTE」のタイトルに関する小考察

ノーヴァクの「NULLTE交響曲」(「第0番交響曲」)の「編集報告」によると、この作品には、自筆譜、筆写譜、パート譜およびトリオの現行とは別の採用されなかったイ長調の草案(ピアノ譜スケッチの形態)の4つの資料の存在が報告されています。ここでは、この「編集報告」に述べられている前3者のタイトルに関する資料状態について述べてみたいと思います。

(1)自筆草稿(上部オーストリア州立博物館、リンツ、所蔵、資料番号<V17>)
@第1楽章、表紙
a)最初の記載<交響曲・第1楽章・(ニ短調)><Sinf./1.Satz/(D moll)>
b)あとから付け加えられた記載<第2番としての番号付けをやめにした交響曲のための第1楽章・無効の作品><1.Satz:zur 2.verworfenen/Sinfonie/ungiltig.>
c)最初の<交響曲>の記載の左横に、大きくアラビア数字の<0>が追加記載されている。
A第1楽章、スコア第1ページのタイトル
a)最初の記載<交響曲第2番ニ短調><Symphonie Nr.2 in D moll.>
b)あとから鉛筆で<第2番><Nr.2>が斜線2条で消され、その下に<取り消し><annulirt>が下線付きで書き加えられている。
【注】上記2ページについては、英語版のシェーンツェラーの「ブルックナー」の148,149ページに現物の写真が掲載されています。("Bruckner" Hans-Hubert Schoenzeler,Marion Boyars Ltd. ロンドン)なお、同書日本語版にはこの写真はありません。
B第2楽章、表紙
a)最初の記載<第2楽章><2. Satz>
b)あとからの追加記載<0番交響曲ニ短調のための第2楽章・無効・全く無価値><Zur 0. Sinfonie/D moll/2.Satz/ungiltig/ganz nichtig>
c)上記<ニ短調><D-moll>の左横に<第2番としての番号付けを取り消した交響曲><anulirte 2. Sinf.>の追加記載。

(2)筆写譜(オーストリア国立図書館音楽部門、ヴィーン、所蔵、資料番号<Mus.Hs.3189>にあるブルックナーの書き込み
@第1楽章:<この交響曲は全く無効である。(試作に過ぎない。)><Diese Sinfonie ist ganz ungiltig.(Nur ein Versuch.)>
A第2楽章:書き込み無し。
B第3楽章:<無効の第2交響曲のための[スケルツォ]><zur 2 ungiltigen Sinf.>
C第4楽章:<第2番としての番号付けを取り消した交響曲のための第4楽章(全く無価値)><zur anulirten 2. Sinf. D moll. 4. Satz(ganz nichtig.)>

(3)パート譜(楽友協会図書館、ヴィーン、所蔵、資料番号<XIII 45468>
各パート譜には<遺作><Nachgelassene>と付け加えられ、<No.2>は線を引いて消されている。

これらが、ノーヴァクの「編集報告」に報告されている、タイトルに関する記述ですが、かなりの数にのぼる否定的表現も大体4種類の言葉を使っているように見えるので、それに応じて、私が別々の日本語を適宜当てはめました。不適切な表現やもっと良い訳があれば、ご教授いただければ幸いです。
これらの中で、<annulirt>については、使用場所や他の部分からの関係から、どうも作品自体を言っているのではなく、「第二」という番号付けを対象にしているように思われるので、その様に訳してみました。すなわち、この語では、曲自体を否定するのではなく、単に『2番にするのをやめた。』と言っているに過ぎない様に思われます。とは言っても、ブルックナーは他にいっぱい全面否定しているので、そんな些細な違いは全体的には全く影響のないものですが。なお、この語はドイツ語の辞書では<annullieren>と言う動詞で載っていますが、ブルックナーはこの通り綴っていないので、ここではそのままの形で記載されています。

これだけたくさんの、記入を見ていると、浅岡さんが述べられた意味、すなわち『否定の多さが、かえって、愛着の大きさを示している』に実感がわいてきます。売り言葉に買い言葉、私に言わせれば『そんなにまずいのなら焼いてしまえば良かったんだ。』と言いたいところです。どうもブルックナーは自虐的な性格であったのか、こういう風に書くたびに、この曲に対する愛情を深めていったのではないかとすら思えてきます。

したがって、現在の私たちは、ブルックナーの手の入っていない、上記(3)のパート譜の状態のように接することが一番のように思えます。まあ、愛すべきニックネーム「第0番」は作品を貶めないという意味で、また全く根拠のないものでもないという意味で、使われても良いと私は考えています。

2001.2.2記



1,初期の交響曲の番号付けの変遷について

「第三ヴァーグナー交響曲」以後は、ブルックナー自身による交響曲の番号付けの変更はありませんが、それ以前の作品については、彼の過度の自己批判により、しばしば番号付けの繰り上げが行われています。ここでは、それを年代順の一覧表にすることによって、どのように変遷していったかと、ある時点でブルックナーはどのように考えていたかを分かりやすく示したいと思います。なお、「第1番」というのは「第2番」が出来て初めて番号が具体化し確定するものであることに留意願います。

年代 交響曲第1番
ヘ短調交響曲
交響曲第2番
第一交響曲
交響曲第3番
第〇交響曲
交響曲第4番
第二交響曲
1863 「第1番」 . . .
1864 「第1番」 . . .
1865 「第1番」 「第2番」 . .
1866 (番 外) 「第一番」 . .
1867 (番 外) 「第一番」 . .
1868 (番 外) 「第一番」 . .
1869 (番 外) 「第一番」 「第2番」 .
1870 (番 外) 「第一番」 「第2番」 .
1871 (番 外) 「第一番」 「第2番」 「第3番」
1872 (番 外) 「第一番」 (番 外) 「第二番」

<根拠資料>
@1865年1月29日、ルドルフ・ヴァインヴルムあて手紙『私は今、「ハ短調交響曲(No.2)」を作曲しています。』(「第一交響曲」作曲中であるむねのブルックナーの友人への報告の手紙、ここでブルックナーは、はっきりこの交響曲を(No.2)と書いている。なお、ここにあるかっこはもともとの手紙に書かれているものである。)
A「ニ短調交響曲」(1869)の自筆譜の第1ページにはもともと“Symphonie Nr.2 in D moll”と記載されている。そして後に“Nr.2”は線を引いて消された。
B「第二交響曲」の、ブルックナーが“Alte Bearbeitung”(旧作)と呼んでいた、また彼が「遺贈稿」(Mus.Hs.19.484)として選んだ唯一の完全自筆稿にはもともと、上記の「〇番」のように「第3交響曲」と記載されていた。

2001.2.2記

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