ブルックナー雑談コーナー



このコーナーは、ブルックナーに関して日頃オーナーが思っていること、最近話題になっていることなどを雑談風に書き込んでいきます。内容についてご感想、ご意見をお寄せください。

目次


20、ニキシュへの2つの手紙
19、《第八交響曲》の標題解説について
18、《第五交響曲》の自筆譜から
17、ブルックナージャーナル掲載のエレクトーン演奏の記事について
16、ブルックナーの『結婚依頼書』
15、《第八交響曲》のyou tubeによる自筆譜対照演奏
14、《第五交響曲》のオリジナル・コンセプツ
14ー2、検証:《第五交響曲》の2つの中間楽章の自筆譜対照演奏
13、《第七交響曲》の打楽器について
12、ブルックナーとマーラーの発想の違いについて
11、《第七交響曲》フィナーレのハースのミスについて
10、《第五交響曲》のオリジナル・コンセプツとは?

9、シューベルトとブルックナー
8、《第九交響曲》は3楽章か4楽章か?
7、《第三交響曲》の自筆稿
6、《第六交響曲》と《第七交響曲》のフィナーレは何故短いのか?
6-2、《第六交響曲》が解りにくい作品である理由
5、ブルックナーの手紙について
4,ブルックナー交響曲の散歩道について
3,ブルックナーの交響曲の番号付けについて
2,《交響曲第3番、NULLTE》のタイトルに関する小考察
1,初期の交響曲の番号付けの変遷について




20、ニキシュへの2つの手紙
ニキシュは、ブルックナーが指揮して《第二交響曲》を1873年にヴィーンで初演した時、第2ヴァイオリンの奏者としてその演奏に参加したことでも知られているが、ブルックナーの弟子たちの運動に乗って《第七交響曲》をライプツィッヒで1884年12月30日に初演した。このニキシュへ宛ててブルックナーが書いた2つの手紙が面白おかしく「魂の山嶺」に書かれている。


【原文:ブルックナー全集版XXIV/1巻p215,書簡集MWV,1998年】
Hochwohlgeborner Herr Kapellmeister!
Edelster, hochberühmter Künstler!

Vor Allem meine allerinnigste Gratulation zur Verlobung! Gott gebe Euer Hochwohlgeboren die glücklichste Zukunft!
Dürfte ich nochmal bitten,: findet das Concert jetzt statt? Am ein u zwanzigsten d M.? Und wenn, wann sind die zwei letzten Proben, wozu ich so gerne kommen möchste? Vielleicht höre ich dieß Werk ohnedieß nur Ein Mal, da ich in Wien nichts erreiche; daher mir so viel daran liegt es zu hören, ausgenommen, Hochderselbe meinen, ich soll nicht kommen.
Im Falle Hochderselbe meine Anwesenheit wünschen, muß ich von meinen verschiedenen Vorgesetzten Urlaub mir erbitten; daher ich inständigst um baldige Antwort bitte!
Meine Freude wäre wohl überaus, von dem 1sten deutschen Dirigenten mein jüngstes Kinde in die Welt eingeführt zu wissen! Ich bin schon sehr aufgeregt. Deutsche Zeitung, deutsche Blätter, bayreuther Blätter schrieben in jüngster Zeit herrlich!
Nochmal innigst bittend u mich u mein Kind Ihrer Gewogeneheit empfelend bin ich
Euer Hochwohlgeboren
dankbarster Sie bewundernder A Bruckner mp
Wien, 11. Juni 1884

【翻訳システムの訳(修正あり)】
名誉カペルマイスター!最も高貴で有名なアーティスト!
何よりも、婚約おめでとうございます! 神は、神の立派な息子であるあなたに最も幸せな未来を与えます! もう一度お尋ねします。コンサートは開催されますか? 今月の21日ですか? もしそうなら、私が参加を希望する最後の2つのリハーサルはいつになりますか? 私はリハーサルを聴きたいのです。 なぜなら、ウィーンでは演奏は見込めないので、リハーサル立ち合いなしでは私は一度だけしか聴けないことになります。 閣下が私が来るべきではないと思われていないなら、リハーサルを聴くことが私にとってとても重要なことであることをご理解いただけるでしょう。

閣下が私に立ち会ってもよいと思われた場合、私はさまざまな上司に休暇を申請しなければなりません。 したがって、できるだけ早くにご回答頂くようお願いします! ドイツで一番の指揮者が私の末っ子(第七交響曲)を世界に紹介しようとしてくれていることを知ってとてもうれしく思います! 私はすでにとても興奮しています。「ドイチェ・ツァイトゥング」、「ゲルマン・ブラッター」、「バイロイター・ブラッター」などの新聞は最近素晴らしい文章を書いています!
もう一度、私と私の子供(交響曲)が閣下のお気に召すよう心からお願い申し上げます、
感謝をもってあなたを称賛するブルックナーmp
ウィーン、1884年6月11日


【「魂の山嶺」2005年、田代櫂著の213〜214ページの訳】
楽長閣下!
高貴にして高名なる芸術家閣下!
なにはさて、閣下のご婚約をお喜び申し上げます。神が閣下に幸多き前途を賜りますよう!
再度お尋ねいたしますが、コンサートは実現しますでしょうか?予定は今月21日ですか?実現しますれば、二度の最終リハーサルはいつ頃になりましょうか?ぜひとも立ち合いたく存じます。ヴィーンでの実現が期待できぬ以上、私がこの曲を聴く機会はこれが最後かも知れず、もし閣下にご異存がなければ、ぜひそうさせて頂きたく存じます。もし閣下が私の立ち会いをお望みなら、上司各位に休暇願を提出せねばならず、折り返しのご指示を、切にお待ち申し上げます。幼き我がみどりごが、ドイツに冠たる指揮者の手で世に送り出されるという、計り知れぬ喜びに、今から胸を躍らせております!昨今はドイツやバイロイトの新聞が、飛び切りの批評を寄せております。再度この私と我がみどりごに、閣下のご好意を賜りますよう。感謝と賛嘆のうちに。
1884年6月11日ヴィーンにて。
アントン・ブルックナー。

【原文:ブルックナー全集版XXIV/1巻p245,書簡集MWV,1998年】
Liebster Freund!
Hochedler Gönner!

So eben komme ich retour von München, wo am 10. die Aufführung meiner 7. Sinfonie auch äußerst glänzend vor sich ging. Das Publikum nahm sie enthusiastisch auf; auch Dirigent u Orchester applaudirten heftig. 2 Lorbeerkränze. Nächste Aufführung im Herbste. Die Kritiken - sehr gut. Besonders herrlich wieder: neueste Nachrichten, süddeutsche Presse u dgl.
In einer großen Künstlerversammlung erklärte H. Levi: "das sei das bedeutendste sinfonische Werk seit Beethovens Tod. Ferner: die Aufführung dieses Werkes sei der Stolz u. Gipfelpunkt seines künstlerischen Wirkens!
Und die Tafeln! Auch wird der könig verständigt werden. Der Intendant ließ mich ebenfalls zu sich bitten. Ich wurde durch Kaulbach gemahlt; u 2 mal fotografirt. Die 4. Sinfonie wird Dir H Levi schicken auf Deinen Wunsch.
Bitte melde viele Empfelungen meinen Gönnern, besonders H Director u H Vogel, u Handküsse den Damen. Dich küsse ich tausendmal als die Urquelle alles Guten für mich! und danke - danke in alle Ewigkeit!
Ich sende hier nur die Kritik aus den neuesten Nachrichten; wenn Du sie gelesen haben wirst, bitte ich Dich, selbe H Vogel gütigst übergeben zu wollen, mit meiner innigsten Bitte, u Veröffentlichung, wenn - möglich. Vielleicht macht dieß auf die Verleger guten Eindruck!
Nach der Walküre ließ mir H Levi noch 3mal durch die Tuben u Hörner die Trauermusik aus dem Adagio meiner sinf. spielen. Du wirst recht lachen. Wie geht es Dir! Schreib mir doch! Ich küsse Deiner lieben Frl Braut die Hände. Voll Dank u Verehrung u Bewunderung für Dich, edelsten Gönner, bin u verbleibe ich
Dein
dankschuldigster A Bruckner

Wien, 15. März 1885.

NB. H v Vogel meinen Respekt u Dank!
Für seine Huld in der Presse.

【翻訳システムの訳(修正あり)】
親愛なる友人!高潔な後援者!
ミュンヘンから帰ってきたばかりです。10日の《第七交響曲》の演奏はとても素晴らしかったです。
聴衆は熱狂的に受け取りました。 指揮者とオーケストラも激しく拍手喝采しました。 月桂樹の花輪2個(を貰いました)。 秋には次の公演(があります)。 批評もとても良く、 特に素晴らしいのは、「最新ニュース」、「南ドイツプレス」等等。

大きな芸術家の集まりで、レヴィ氏は次のように表明しました。「これはベートーベンの死以来最も重要な交響曲です」と。さらに、「この作品の演奏は彼の芸術作品の誇りと集大成です」と! そして会食! (この成功は)王にも報告されます。 監督も私に彼のところに来るようにと言ってくれました。 私はカウルバッハに(肖像画を)描かれました。 そして2回写真撮影されました。 レヴィ氏はあなたの求めに応じて、あなたに《第四交響曲》を送ります。 私の支持者、特にディレクター氏、フォーゲル氏、女性たちへ感謝のキスを送ることを伝えてください。 私にとって良いことすべての源として、私はあなたに千回キスします! そしてありがとうー永遠にありがとう! ここに「最新ニュース」の記事を同封しています。 読み終わったら、それをフォーゲル氏に渡してください。私の心からのお願いとして、できれば高評論してくださいとお願いしてください。 おそらくこれは出版社に良い感触を与えるでしょう!
《ワルキューレ》公演の後、レヴィ氏は私の交響曲のアダージョからの葬送の音楽をテューバとホルンに3回も(私のために)演奏させてくれました。あなたは本当に笑うでしょう。 調子はどうですか! 私に手紙を書いてください! 私はあなたの愛するフィアンセの手にキスをします。 最高の後援者、あなたへの感謝と称賛に満ちて、私はあなたに最も感謝しているブルックナーであり続けます
ウィーン、1885年3月15日。
追伸:
フォーゲル氏に私の尊敬と感謝を伝えてください!新聞紙上での彼の高評価に対して。


【「魂の山嶺」2005年、田代櫂著の218〜219ページの訳】
親愛なる友、
気高い支援者へ!
たった今ミュンヒェンから戻ったところだ。10日の《第七番》初演は、つつがなく成功裡に幕を閉じた。聴衆は大喝采、指揮者とオーケストラも大拍手、月桂冠を2つも貰った。次の公演は秋だ。批評もすこぶるよろしい。今回もとりわけ「最新ニュース」や「南独プレス」などが褒めちぎっている。レヴィ氏は居並ぶ芸術家を前に「ベートーヴェン以後最も有意義な交響曲」とぶち上げてくれた。この作品の演奏に加わったことは彼の誇りであり、彼の芸術活動の頂点である、と。そして会食!国王陛下にも奏上せられ、劇場総監督殿のお招きにもあずかった。カウルバッハが私の肖像を描き、写真を2度も撮られた。レヴィ氏が君の要望通りに、《第四番》のスコアを送る。支援者の方々、特に総監督とフォーゲル氏によろしく。ご婦人方の御手にキスを。私の幸運の源である君には、千回のキスを!感謝、感謝、とこしえに感謝!「最新ニュース」の批評だけを同封するが、読みおわったらフォーゲル氏に回してくれるとありがたい。できることならどうか公表してもらいたい。出版社が私を見直すかも知れん。レヴィ氏は《ヴァルキューレ》の公演後、テューバとホルンの奏者に《第七番》アダージョの葬送の音楽を、私のために三度も演奏させよった。君はきっと噴き出すだろうがね。元気にしとるかね、手紙をくれたまえ。君のフィアンセの御手に接吻を。君には感謝、崇拝、そして賛嘆を。

田代櫂氏は長年ドイツにおられて、ルートヴィッヒ二世の研究をされていたようなので、こういう手紙はお手の物だ。我々日本人や翻訳ソフトではなかなか表出し得ない機微を的確に表現しておられる。

2021・8・24



19、《第八交響曲》の標題解説について

《第八交響曲》には、作曲開始から初演後まで(1884年から1892年以降)多くのひとたちによってブルックナーから聞いたものとして標題的説明の記録が残されている。それらは、ほぼ二次資料的存在なのだが、最も信頼すべき一次資料としては、1891年1月27日付のワインガルトナー宛てのブルックナーの手紙が知られている。これは最後に取り上げよう。

最初に言っておかなければならないのは、この《第八交響曲》には、例えばマーラーのいくつかの交響曲と違って、もともと何等の標題的要素を持つものでは無いということである。ブルックナーの交響曲は単に和声法と対位法の高度な技術を積み重ねたものに過ぎないのであって、彼がワーグナー派に属していたことから、時に応じて作品に対するイメージを述べたものであるということを念頭においていただかねばならない。昔NHKに、クラシック音楽を聴いて出演者が自由にそこから受けるイメージを語るというラジオ番組があった。そこでいろんな人が様々に発言するのは結構興味深く面白いものであった。映像の無いラジオであるからこそイメージが膨らんだのだろう。こういった自由な印象発言と同じようなものとして位置付けられるブルックナーの発言は、しかし「作曲者自身の感想」であるということにおいてのみ意味が存在するのである。したがって、初演のプログラムにヨーゼフ・シャルクが記した標題解説などは全く無意味なものであり、当初から評論家たちによって批判されてきた。【註】(本稿の最後に引用)
《第八交響曲》で、ブルックナーは「主要主題のリズム化」を「死」と意味付けているが、これはベートーヴェンの《第9交響曲》の主要主題♪ラミーーーードラーーミドーーミドラーのリズムだけを抽出してC音だけで♪タターーーータターータターータタターとリズム化しただけなのである。単にそれだけなのである。さらに、そこから生まれた主要動機♪ミファーーーーミドーーシレーー#ドドシーは、単にリズムだけを引用して純粋に楽譜上での音符操作だけで生まれたものであり、そこに標題的要素など入り込む余地など全く無いことは明らかである。

まずは二次資料の中で、ミュンヘンのバイエルン公女アマーリエの回想から取り上げよう。これは「魂の山嶺」田代櫂著の238ページに引用されている。残念ながら原文は参照できなかった。アマーリエは《第七交響曲》を大成功に導いたレヴィの教え子で、レヴィはアマーリエを通して、彼女のいとこであるオーストリア皇女マリー・ヴァレリーと大の仲良しだったので叙勲を働きかけたのであった。そのお陰でブルックナーは「フランツ・ヨーゼフ騎士十字勲章」が授けられたのである。そういう経緯もあったので、アマーリエが1886年12月にヴィーンの王宮を訪れた際ブルックナーも呼ばれて面会した。その時の情景をアマーリエは回想して書いたというわけである。その中で《第八交響曲》に関する部分を抜き書きしてみよう:

<ブルックナーはちょうど《第八番》の終楽章と取り組んでいたが、それについてはこう語った。スケルツォは「ドイツの野人ミッヒェル」を表現している。終楽章は葬送行進曲であり、死者の枕辺に友人たちが集まるように、すべての主題が帰って来る。ドイツのミッヒェルも悲しげな表情でその場にいる、と。彼はその交響曲を、自分に冷淡なヴィーンではなく、ミュンヒェンで初演したいと言っていた。当時彼はこの交響曲について、宮廷楽長レヴィと意見が合わないようだった。後日聞いた話では、この芸術的対立ではブルックナーの方が譲歩したという。>

この回想にある情報群をアマーリエはいつ取得したのだろうか?レヴィとの関係を考えると、1886年12月以降、レヴィとアマーリエの侍女とのスキャンダルの終末すなわち1889年の間と思われる。その間ならブルックナーとレヴィのやり取りを直接聞くことが出来ただろうから。ブルックナーの《第八》の基本想念の変更を知らせる手紙は1888年2月27日付けでレヴィに出されたので、アマーリエが<ブルックナーの方が譲歩した>という事実を知り得たのは、スキャンダルによってレヴィとの師弟関係が絶たれる以前であったろうことは疑いない。
とにかく、ここでの《第八》の標題に関する記述は、2年以上経過しての記憶であるので、完全だとは言い難いが、他の事実と照合してもかなりの信頼度で述べられていることは確かだ。それらの中で注目すべき記述は<死者の枕辺に友人たちが集まるように、すべての主題が帰って来る。ドイツのミッヒェルも悲しげな表情でその場にいる>であろう。これから察すると、ブルックナーは1886年当時には、第1楽章の英雄的終結に対応して、フィナーレでは悲劇的終結をもくろんでいたのかもしれない。その残骸として、第1稿終結間際(751〜758小節)の不自然なピアニシモをあげることが出来よう。また、<「ドイツの野人ミッヒェル」>は、原文では<「ドイツのミッヒェル」(deutscher Michel)>となっていたに違いない。<野人>という言葉自体がドイツ語でどう表記されていたのか分からないし、この語を挿入したのは、この「魂の山嶺」と題された伝記の著者の全体構想との整合性を保つための配慮による加筆ではないかと思われるからである。

アマーリエの回想以外に、いろいろな時期にたくさんのことが伝えられているようで、注目される記述をいくつかピックアップしてみよう。スケルツォに関しては、最初のスケッチには例の主題に<アルメロート>と書かれているらしい。この人はブルックナーの友人の一人で、馬車でブルックナーをあちこち案内したので、「馬車君」とブルックナーからあだ名をつけられていた。いわば、アッシー君である。同じ音形が延々と続くのを、馬車に揺られる情景にもじったものと勘ぐってしまう。しかしこの音形は、スケルツォがオーケストレイションされるときにはアマーリエに語ったように「ドイツのミッヒェル」に変えられてしまったようだ。これは<中世には、ノルマンディ海岸のモンサンミッシェル修道院へドイツ人の巡礼が引きも切らなかった。フランス人は彼らを「ドイツのミシェル」と呼んだ>(「魂の山嶺」p274)と言う話からきているのかも知れない。ブルックナーは<「ドイツのミッヒェル」はどこかへの旅から帰ってくる>と述べているのだから。

また、ブルックナーは第1楽章の終結を<死の時計>と比喩したらしい。<言うならば、死の床に横たわる者の正面に時計が掛かっている。彼が臨終を迎える時も、時計は正確に時を刻むわけだ、チク・タク・チク・タク・・・と>(「魂の山嶺」p273)。またこのことについては別の解説も存在する<臨終を知らせる時計。それは何もかもおしまいになるまで、休むことなく・・・無情にも打ち続ける。>(「聖なる野人」p251)。《Die Totenuhr, die schlägt unerbittlich......ohne Nachlassen, bis alles aus ist.》
このことは壮大な終結をもたらす第1稿ではなく、不気味に同じ音形が繰り返される第2稿にしか当たらない。

1891年1月27日付のワインガルトナー宛てのブルックナーの手紙から
【まずは原文:ブルックナー全集版XXIV/2巻p114,MWV,2003年】
Nochmal bitte ich, wie klingt die achte?
Im 1. Satze ist der Tromp[eten-] u[nd] Corni satz aus dem Rhythmus des Thema: die Todesverkündigung, die immer sporadisch stärker endlich sehr stark auftritt, am Schlu: die Ergebung.
Scherzo: H[au]p[t]th[ema]: deutcher Michel gennant; in der 2.Abtheilung will der Kerl schlafen, u träumerisch findet er sein Liedchen nicht; endlich klagend kehrt es selbes um.
Finale: Unser Kaiser bekam damals den Besuch des Czaren in Olmütz; daher Streicher: Ritt der Kosaken; Blech: Militärmusik; Trompeten: Fanfaren, wie sich die Majestäten begegnen. Schließlich alle Themen; (komisch), wie bei Tannhäuser im 2.Akt der könig kommt, so als der deutsche Michel von seiner Reise kommt, ist Alles schon in Glanz.
Im Finale ist auch der Todtenmarsch u dann (Blech) Verklärung.

【「ブルックナー・マーラー事典」1993年、281ページ根岸一美訳】
<もう一度お尋ねします。《第八》はどんな響きがしますか。
第1楽章で、主題のリズムからなるトランペットとホルンの楽節は「死の告知」[Todesverkündigung]です。これは徐々に散発的に強くなってゆき、ついに非常に強い音で現れます。最後の部分は「あきらめ」[Ergebung]です。
スケルツォ。主要主題は、ドイツのミヒェルと名付けました。第2の部分で、この男は眠ろうとします。そして夢の中で彼は自分の歌を見付けることができません。ついにこの歌は、嘆きつつ自らを転回させます。
フィナーレ。私たちの皇帝は、当時オルミュッツでツァールの訪問を受けました。それゆえ弦はコサック兵の騎行を、金管は軍楽を、トランペットは皇帝とツァールが会見するときのファンファーレを[描いています]。最後にすべての主題、(滑稽ですが)、タンホイザーの第二幕で王が登場するときのように、ドイツのミヒェルが彼の旅から帰ってくるとき、一切のものが既に輝きのうちにあります。
フィナーレでは、死の行進もあり、それから(金管の)変容があります。>

この記述は、1891年だから、ほぼ現在の姿と同じ音楽からの印象である。したがってアマーリエの回想とは一部違うものになっているのは先に述べた。第1楽章の最後の「死の時計」というのも、第1稿には当てはまらない。もっと言うと、フィナーレでの最初の三段譜のスケッチでは、トランペットのファンファーレは存在しない。もしこの交響曲が、この手紙に記されているような標題を持って書かれたのなら、このような矛盾はあり得ないことだ。これらのことからも、この記述は純然たる絶対音楽の交響曲に対する時に応じた作曲家の印象に過ぎないことを証明している。

【続いて、「魂の山嶺」2005年、田代櫂著の272ページの訳】
<・・・・第1楽章には主題にリズムに基づく、トランペットとホルンの楽節がありますが、それは「死の告知」です。それは途切れがちながらしだいに強く、しまいには非常に強くなって姿を現します。終結部は「降伏」です。
スケルツォ。主要主題は「ドイツの野人ミッヒェル」と名付けられています。第二部で野人は眠ります。彼は夢の中で自分の歌を見付けられず、嘆きながら寝返りを打ちます。
終楽章。我が皇帝がその頃オルミュッツで、ロシアのツァーリの訪問を受けた時の模様です。弦はコサックの騎行。金管は軍楽隊。トランペットのファンファーレは、皇帝たちが出会う場面。最後にすべての主題(おもしろく)、タンホイザー第二幕で王が登場する場面のように、ドイツのミッヒェルが旅から帰ると、すべてが光輝に包まれます。フィナーレでは葬送行進曲と変容が(金管で)奏されます。>

<Ergebung>には、もちろん<降伏>や<あきらめ>という意味もあるが、それらではブルックナーの意図は正しくは伝わらない。ここでは「どうしようもないものに従う」すなわち「死とは人間全員に課せられた宿命であって、だれも避けて通ることは出来ない」ということを訳の中で示す必要がある。
<kehrt es selbes um.>は<寝返りを打つ>と訳することもできるが、ここではスケルツォの中間部(展開部)の説明をしているのだから、根岸訳のように音楽用語で<主題を転回させる>と訳すべきだ。
<Todtenmarsch >は単なる「葬送行進曲」ではなく(実際そのような場面はフィナーレには存在しない)、「死そのものが迫ってくる」といった切迫した場面をイメージしているように思われる。そこには当然「主要主題のリズム化」が現れる。

【「聖なる野人」1989年、p124、125のヴォルフによるこの手紙の一部についての記述の和訳】
<彼はこれを「ドイツの野人」と名付けた。>ヴォルフの原文<Er nannte es den "Deutschen Michel">
<わがオーストリア皇帝がオルミュッツでロシア皇帝と会見した時の様子を描いたものです。で、弦はコサック兵の騎行、金管は軍隊行進曲、トランペットは両皇帝が出会う儀式のファンファーレというわけです。最後は《タンホイザー》の第二幕で国王があらわれたときに、すべての主題が鳴りひびくのと同じように、ドイツの野人が旅から帰ると、すべての主題は斉奏し、光りかがやきます。
フィナーレでは葬送行進曲もひびき出て、そのあと(金管で)変容があらわれます。>ヴォルフの原文<Unser Kaiser bekam damals den Besuch des Zaren in Olmütz; daher Streicher: Ritt der Kosaken; Blech: Militärmusik; Trompeten: Fanfare, wie sich die Majestäten begegnen. Schließlich alle Themen wie Tannhäuser im 2.Akt der könig kommend, so als der deutsche Michel von seiner Reise kommt, ist Alles schon in Glanze.
Im Finale ist auch der Totenmarsch und dann (Blech) Verklärung.>

ヴォルフの原文は手紙とは微妙に違っているが、本質的には忠実である。ところが、和訳の方はいくつか問題を孕んでいる。「ドイツのミヒェル」と訳すべきところを<ドイツの野人>と変えているのは田代訳と同様である。「ミカエル」という名がわが国ではなじみが少ないからだろうか?あるいは、その名から来る右翼的性向を忌避したかったからなのだろうか?
<すべての主題は斉奏し>の斉奏は言葉として矛盾している。すべての楽器が同じ主題を弾くのではなく、すべての主題が同時に鳴り響くのであるから、先の2訳のように<一切は>とすべき。
<葬送行進曲>は、田代訳と同様、実態に合わない。逆に言うと、田代訳は、この「聖なる野人」の訳から大きく影響を受けていたと言えよう。


【英国のブルックナー研究家ダーモット・ゴールト氏(Dermot Gault)の著作「新しいブルックナー」(The New Bruckner)[Ashgate, 2011],の180ページに、この手紙の英訳が載っている】
<In the first movement the trumpet and horn parts are derived from the rhythm of the main theme: the Death Announcement, which from time to time appears, louder each time, and at the end is very loud. Finally, - the surrender [or resignation].
Scherzo: Main theme - called "German Michael". In the second part the fellow wants to sleep, and in his dreams he cannot find beloved; finally he turns back to the start.
Finale. Our Emperor at that time received a visit from the Tsar at Olmütz. Thus the strings - ride of the Cossacks. Brass:Military music. Trumpets: Fanfare, as the two Majesties meet. Finally all the themes, (comically) as in the 2nd Act of Tannhäuser, when the King arrives, so when German Michael returns from his journey, he finds everything made splendid.
In the Finale there is also a funeral march and then (brass) transfiguration.>
和訳すると:
<第1楽章では、トランペットとホルンのパートは、メインテーマのリズムから派生している。死の告知は時々表れ、毎回大きくなり、最後には非常に大きくなる。 最後に、- 降参[または、自分の定めの甘受]。スケルツォ:メインテーマは「ドイツのマイケル」と呼ばれる。 第二部では、この人は眠りたいと思う。そして彼の夢の中で彼は最愛の人を見つけることができない。 挙句の果てに彼は出発地に戻る。 フィナーレ: 当時私たちの皇帝は、オルミュッツでツァールの訪問を受けた。 したがって、弦楽器:コサックの騎行。 金管楽器:軍楽。 トランペット:2人の陛下が出会うファンファーレ。 最後に、すべてのテーマ。(コミカルに)タンホイザーの第2幕で王が到着したときのように、ドイツのマイケルが旅から戻ったとき、すべてが素晴らしいものになっていることに、彼は気づく。 また、フィナーレでは、葬送行進曲やその後の(金管楽器の)変容もある。
上記のように、ところどころで少し意味合いの違う解釈が示されている。


【米国のブルックナー研究家ベンジャミン・コースヴェット氏(Benjamin M. Korstvedt)の著作「ブルックナーの第八交響曲」(Bruckner Symphony No.8)[Cambridge University Press, 2000],の51ページにも、この手紙の英訳が載っている】
<In the first movement, the trumpet and horn passage based on the rhythm of the [main] theme[
mm.369-89] is the Todesverkündigung[the annunciation of death], which gradually grows stronger, and finally emerges very strongly. At the end: the surrender.
Scherzo: Main theme - named deutcher Michel"German Michael". In the second part, the fellow wants to sleep, and in his dreamy state cannot find his tune; finally, he plaintively turns back.
Finale. At that time our Emperor received the visit of the Czars at Olmütz, thus,  strings -  the Cossacks; brass:military music; trumpets:fanfares, as the Majesties meet. In closing, all the themes; (odd), as in   Tannhäuser in Act 2 when the King[sic,pesumably the Landgraf] arrives; thus as deutcher Michel arrives  from his journey, everything is already gloriously brilliant.
In the Finale there is also the death march and then (brass) transfiguration.>
<第1楽章では、[メイン]テーマ[<mm.369-89]のリズムに基づいたトランペットとホルンのパッセージは[死の告知]であり、徐々に強くなり、ついには非常に強く現れる。 最後に降伏。 スケルツォ:メインテーマ-名前はdeutcher Michel(ドイツのマイケル); 第二部では、この男は眠りたいと思う、そして彼は夢のような状態で彼の曲を見つけることができない。 最後に、彼はひそかに引き返す。 フィナーレ。 その時、私たちの皇帝はオルミュッツでツァーの訪問を受けた。 弦楽:コサック、金管楽器:軍楽; トランペット:皇帝たちが出会うときのファンファーレ。 最後に、すべてのテーマ。 (奇妙にも)、タンホイザーの第2幕で王[原文のまま、おそらく方伯(公爵と伯爵の間の爵位)]が到着したときのように、またはdeutcher Michelが彼の旅から到着したときのように、すべてがすでに見事に輝いている。 フィナーレでは、死の行進とその後の(金管の)変容もある。>


【手紙の記述のスコア上での確定と私の訳】
ブルックナーの解説は、いちいち第2稿のスコアに対応している。該当の小節を掲げるので、スコアと対照していただきたい。なお、Verklärung<変容>については、キリスト教的な言葉で、単にあるものが別のものに変わるだけではなく、精神的美化や浄化といった意味が含まれる。昇天といったイメージか?日本人にはピンと来ない面があるが、仏教での往生や成仏といった意味に近いのではないだろうか?したがって具体的な場所を確定し難く、諸説存在する。ここでは、昇っていく情景を、527小節からのフルオーケストラの上行音形、そこでの魂の咆哮を、ホルンがフォルテで屹立する場面と推定した。しかし、イメージ的には、239小節からのフルートが最適だと思う。ここで、長く続いた「死の行進」の変ロ音(属音)が変ホ長調で最終的に解決し提示部を終えるからである。とはいえ、何故か、ブルックナーのソナタ形式では定番の提示部終結の二重線がここには欠落している(253小節)。また残念なことに、これはブルックナー指定の金管では無い。

<第1楽章で、主題のリズムからなるトランペットとホルンの楽節は「死の告知」[Todesverkündigung]です。これは徐々に散発的に強くなってゆき(255小節から、271小節から)、ついに非常に強い音で現れます(369小節から)。最後の部分は「あきらめ」[Ergebung]です(405小節から)。
スケルツォ。主要主題は、ドイツのミヒェルと名付けました。第2の部分で、この男は眠ろうとします(65小節から)。そして夢の中で彼は自分の歌を見付けることができません(85小節から)。ついにこの歌は、嘆きつつ自らを転回させます(95小節から)。
フィナーレ。私たちの皇帝は、当時オルミュッツでツァールの訪問を受けました。それゆえ弦はコサック兵の騎行を(はじめ)、金管は軍楽を(3小節から)、トランペットは皇帝とツァールが会見するときのファンファーレを[描いています](11小節から)。最後にすべての主題(697小節から)、(滑稽ですが)、タンホイザーの第二幕で王が登場するときのように、ドイツのミヒェルが彼の旅から帰ってくるとき(679小節から)、一切のものが既に輝きのうちにあります。
フィナーレでは、死の行進もあり(183小節から)、それから(金管の)変容(527小節から)もあります。>


本来、ブルックナーは1つのまとまった概念、すなわち<死>についてのイメージを書き連ねているはずなのだが、この文章全体を和訳すると、ちょうど翻訳ソフトで訳した文章のように切れ切れで点描的になってしまい、意味不明の戯言にしか思えないものが出来上がる。したがって、今の日本人に理解できるようにかみ砕いて訳す必要があるように思う。そうでないと、ブルックナーはわけのわからないことを言っているという印象しか持てない。結局、反対派が言う「ブルックナーはバカだ」という結論にしか達し得ないのである。最後に私の訳を掲げておこう:
【拙訳】
<もう一度お尋ねします。《第八》はどのように響きますか?
第1楽章で、主題のリズムからなるトランペットとホルンの楽節は、「死の告知」[死を悟る時]です。これは徐々に散発的に強くなってゆき、ついに非常に強い音で現れます。最後の部分は「あきらめ」[死に行く時]です。
スケルツォ:主要主題は、ドイツのミヒェルと名付けました。第2の部分[展開部]で、この男は眠ろうとします。そして夢の中で彼は自分のメロディーを見付けることができません。ついにこのメロディーは、嘆きつつ自らの音形を転回させます。
フィナーレ:私たちの皇帝は、当時オルミュッツでツァールの訪問を受けました。それゆえ、弦はコサック兵の騎行、金管は軍楽、トランペットは皇帝とツァールが会見するときのファンファーレ[です]。最後にすべての主題[が同時に鳴らされます]。(漫画チックですが)、タンホイザーの第二幕で王が登場するときのように、あるいはドイツのミヒェルがモンサンミッシェルへの巡礼から帰ってきたときのように、一切のものが既に輝きのうちにあるのです。
フィナーレでは、死の行進もあり、それから(金管の)変容[成仏]もあります。>



【註】「音楽の手帳」123ページに掲載のハンスリックの初演評から:海老沢敏訳(青土社、1981)
<<ブルックナーのハ短調交響曲の非常な<深さ>について、前もってたいへん刺戟的な風評が流れたので、私も総譜の研究や総練習を見に行くことによって、しかるべき準備をおさおさ怠りはしなかった。しかしながら白状しなければならないのは、この世界を包括するような作品の秘儀は、理解力が一篇の解説的なプログラムのかたちで、私の手に与えられてはじめて私に明かされたことである。このプログラムの作者は明記されていなかったが、私たちはたやすく<シャルク>(兄のヨーゼフ・シャルク)だと推測するのである。彼はすくなくとも作曲家には憎まれているのだ。
ところで、彼を通して、私たちは第1楽章の煩わしく唸る主要動機が<アイスキュロスのプロメテウスの形姿だ>と知るのである! この楽章のことさらに退屈な部分は<ぞっとするような孤独と静寂さ>という美化した名を得る。<アイスキュロスのプロメテウス>に直接隣りあわしているのはー<ドイツの野人>(以下野人はミヒェルと訂正する)である。もし批評家がこんな悪態口を喋りでもしたら、彼はたぶんブルックナー門下によって石で打ち殺されてしまうだろう。しかし作曲家自身スケルツォに<ドイツのミヒェル>という名をつけたのであり、プログラムに印刷してあって読めるのだ。ところで解説者はこうして作者自身の言葉があっても、いっこうに狼狽せず、<ミヒェルのスケルツォ>に<プロメテウスの行ないと苦悩>をパロディー風にもっと程度が低く制限されたかたちで発見するのである。
あとに続くすべては、それだけにいっそう崇高である。アダージョでは、まさに<万物をいつくしむ人類の御父が測りがたいまでにゆたかな恩寵のうちにいます>のを観るのだ!アダージョはまさに28分間も、つまりほぼベートーベンの交響曲1曲ほどの長さつづくので、私たちはこうした類い稀な光景にふさわしい時間辛抱するのである。
さて、フィナーレは、そのバロックな諸主題や混乱した作り方、それに非人間的な絶え間ない轟音によって、まさに没趣味の典型にほかならぬものと私たちには思えるのだが、プログラムによれば<神的なるものに仕える英雄主義>なのだ! 中でたからかにひびくトランペットの合図は<永遠なる神の真理の告げ手、神の意志の使者>である。こうしたプログラムの子供っぽい讃歌の調子は、われらがブルックナー組合の性格を示すものであるが、この組合は周知のごとく、ワーグナー党やワーグナーがもうあまりに単純すぎ自明すぎるというなん人かの参加者からなっている。ワーグナー主義が音楽の面ばかりでなく、文学の面でも党派を形づくっていることがわかる。>>

これを読むと、初演の熱狂に対する当時の知識人の嫌味がことさらに強調されているように見える。そのやり玉にあげられてるのがシャルクの奇妙な標題解説である。また、和訳としては「野人」という表現は既に1980年代には定着していたようだ。『聖なる野人』などと言う的外れな標題を案出したのは、40年前にはそういったイメージがすでに一般化していたからだろう。


2021・8・17増補
2021・8・11


18、《第五交響曲》の自筆譜から

私の『オリジナル・コンセプツ』は、《第五交響曲》の1878年完成の第2稿の自筆譜(Mus.Hs.19.477)から窺える『もともとの構想』のいくつかを提示したものである。したがって、それは1876年完成の第1稿と位置付けられるようなものではない。ここでは、この『もともとの構想』のうちで注目すべき2点を紹介しよう。

(1)ブルックナーが完成した10曲の交響曲のフィナーレのコーダ(《第九》は未完のため結末不明)の中で、もっとも長大で壮大で聴きごたえのあるコーダは《第五交響曲》のそれだろう。フランツ・シャルクが別動隊のバンダを使って、いやがうえにも巨大に終わらせて以来、何人かの指揮者は楽器を増やして、さらにダイナミックに終わらせるよう工夫を凝らしている。ところが、私の『オリジナル・コンセプツ』では、逆に1877年に追加されたテューバを削除している。テューバは改訂の最終段階で追加されたので元々は無かったからである。この削除によって確かに金管楽器群の厚みは大幅に減じられるが、相対的に弦楽器が大きくモノを言うことになり、最強音の中で不動で静謐なブルックナー音響がより強調されることとなる。
『オリジナル・コンセプツ』では、その代わりと言ってはなんだが、621小節から終わりまでに、2本のバロック・トランペットあるいは2本のピッコロ・トランペットを追加している。フランツ・シャルクが、彼の版で622〜625の4小節を一種の空白感がそこに存在すると見てカットしたように、あるいは朝比奈隆がこの箇所の聴こえないフルート音形を「隠れ対位」と評したように、土壇場での4小節の問題個所に対応するための、2本の金管楽器の追加は一つの解決策である。自筆譜を見ると一見根拠のない処置のように見えるが、じっくりとチェックすると、ブルックナーは元々そのような音響を想定してスコアを書き進めていったことをひしひしと窺わせるのである。この高音金管を追加するというアイデアをもたらしたのは、622小節の高いフルートのF音は、自筆譜では、もともとはB音であり前後3小節で「コラール主題」の前半部分を形成していたことが判明したからである。フルートはもともと♪ソーードーーソーーラシドシドレミファソーーと吹くことになっていたのである。何故、「コラール主題」を捨て、B音から平坦なF音へブルックナーが変更したのかの理由はよくわからないが、最後にユニゾンの♪ソーミッレドを追加することによって、フルートの貧弱な高揚である「コラール主題」の必要性が減じたからではないだろうか。実際、自筆譜を見るとこのユニゾンは元々は無かったアイデアであることが解る。多分《第三》の第2稿改訂中に浮かび上がったアイデアを《第五》にも流用したのだろう。《第三》第1稿では主和音の音響の中で終結するのだが、第2稿では主要動機♪ドーーソーソドがユニゾンで鳴らされて終わる。このユニゾン終結は、《第八》にも適用されていて、第1稿では主和音の音響の中で終結していたものが第2稿ではユニゾンに収束して♪ソーーミレドで終わる。すなわち、《第三》、《第五》、《第八》は3曲ともユニゾン終結するように、それぞれの改訂の中で生み出されたアイデアなのである。

《第五》に戻って、印刷されたハース版なりノーヴァク版の180,181ページを見ると、フルートのパートの不自然さが目につく。なぜ、コーダの『コラール主題』の間ずっと続けてきたリズム音形を捨てて614小節で沈黙するのだろうか?そして、なぜ621小節で突然別の音形を吹くのだろうか?朝比奈がこれを「隠れ対位」と述べたように、ここでは耳には聴こえずとも聴衆の心の中で『コラール主題』が響くように(一種のサブリミナル効果を狙ったものとして)意図されているのだろうか。しかし、『オリジナル・コンセプツ』では、当初の意図通り、それを現実の音として聴けるように楽器を追加したというわけである。とある演奏では、この間の弱いフルートのメロディーを強調しようとしているが、大音量の中ではあまり効果的とは言えない。オーケストラの下手な音量操作や録音技術による増幅再生で聴けるようにするという愚行を避けるという意味でも、この追加はぜひ実現していただきたいものである。とにかく、ハイトーンでの最後の昇天を望んだブルックナーには、効果的でないフルートしか楽器を選択できなかったことは残念だったのだろう。そのため高音金管楽器をそこに導入することによってブルックナーの元々の望みは達せられるのではなかろうか。なお、これらの追加金管は舞台の上段の方で吹奏されることが望ましい。

(2)ハース版とノーヴァク版の間には奇妙な相違があるので、自筆譜を参照しながら検討してみよう。その場所とは@14〜16小節とA258〜260小節における第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリンとヴィオラの相違である。この2ヵ所は、スケルツォのソナタ形式の提示部と再現部の第1主題にあたり、ほぼ同じ音楽である。@については両版は同じで問題はないが、Aは微妙に違っている。それも、手書きで修正しているのはハース版の方で、元々の印刷譜通りのまま修正していない方がノーヴァク版のように見える。だからこれは《第四》のトリオと同様のケース(ノーヴァクはハースの旧版を採用)であると思える。ハースは、いったん正規に出版した後、ブルックナーの誤りに気付いて修正したということだろうが、ノーヴァクはその修正に反対し、あくまでも自筆譜に書かれたまま、すなわち元々のハース版に戻したということを示しているのだろう。なぜそういったことが起こったのかを解明するためには自筆譜を検証してみなければならない。自筆譜を参照せずに両版の相違の原因を云々したところで無意味だからである
問題個所は自筆譜では@は♪ミ↓シ↑ファ|ミーレードレ|ミーレードレ|トリル・・・Aは♪ミーレードレ|ミーレードレ|ミ↓ミ↑ファ|トリル・・・となっている。
自筆譜と合致するのはノーヴァク版の方である。ハースは、この個所の不具合を出版後気付いて、自筆譜とは違うが提示部と一致させるように手書き修正したのだ。ブルックナーの訂正ミスと判断したのだろう。ノーヴァクは、いくら自筆譜が変でも自筆譜通り印刷すべきと、元に戻したものと思われる。

だが、これには前段が存在する。この自筆譜の2つの
ページからミスの原因が浮かび上がってくるのである。この2か所にはブルックナーが大きく書き直した形跡があり、譜面がかなり汚くなっていている。ただ元々の形は自筆譜からほぼ辿ることが出来る。消しが薄いからである。最初ブルックナーは、6小節の木管のメロディー(3〜8小節)の応答として6小節の対句を書いた(11〜16小節)。♪ファーー|ドーシラ#ソ|ラーシ|ドーレ−ドレ|ミーレードレ|ミ。そして、その最後の♪ミーレードレの小節をホルン・トランペットは2回、さらにトロンボーンは3回と、やまびこがこだまして響き合うように繰り返した。こういったことは、木管のメロディーのスラーの消しが薄いことや4分休符がうっすらと見えることから辿ることが出来るのである。ところがブルックナーは後に改訂して、木管、ホルン・トランペット、トロンボーンのそれぞれが2回づつ機械的に反復するように修正した。それに伴った調整で被害を受けたのが弦楽器である。Aのヴァイオリンをよく見ると修正痕がない。こちらの方が元々の形なのである。ところが@の方は管楽器の変更で元々の形Aから現在の形に書き換えているのがうっすらと読み取れる。ブルックナーは、@は木管に合わせて書き換えたのに、うっかりしてAの方の修正を忘れたのである。そのため現状のような食い違いが生じることとなってしまった。ブルックナーが変更し忘れたのだから、ハースはあるべき通りに変更してやろうという考えであり、ノーヴァクは残された形を変えるべきではないと考えたのだ。この、どちらが正しい編集方針なのかを断定することは出来ないだろうが、ただ言えるのは、改訂前の元の形は、提示部も再現部も同じ形だったということだ。オリジナル・コンセプツは、その元の形を再現している。元の形では問題は生じないのだ。


2021・8・2




17、ブルックナージャーナル掲載のエレクトーン演奏の記事について

2021年3月号p31掲載:

Symphony No.8 in C minor (arranged for Electone organs by Takeo Noguchi), Noguchi, Japan Electone O, 22/7/20

This performance utilizes sophisticated electronic keyboard synthesizers (four or five - the documentation is unclear) that are capable of rendering mostly very good facsimiles of the sounds of individual instruments.
The first movement opens in a nicely paced, sensitive manner, and one is impressed by how "orchestral" the sound is. A mainstream tempo marks the scherzo, and the trio is played with great sensitivity.
A bit of a surprise is in store with the adagio, because the 1888 "intermediate" version of the movement is played, just as was the case for the Schaller recording auditioned in the West and discussed above. Here the capability of the Electone instruments truly shines in their ability to reproduce the sounds of the brass and winds, and, perhaps surprisingly, also the cymbals. The interpretation again has a nice flow, with very sensitive nuance.
The one notable weakness of these instruments stands out in the finale: their inability to produce anything other than a rather anemic replica of the sound of drums. Otherwise, this movement, as is the case for the symphony as a whole, shows a knowledgeable interpretive hand on the podium(tiller? keyboard?), with quite free tempo manipulation that is still well within normal bounds. The interplay of the orchestral lines in the coda is crystal-clear and the ending suitably effective.
Besides the 1888 slow movement, the rest is Haas, adding to the general, never-ending free-for-all of editions used for this symphony over the years.

この演奏は、極めて優れた技術で個々の楽器の音色を似せることが出来る電子キーボードシンセサイザー、エレクトーン(4人または5人ー資料では不明)を使用しています。
第1楽章は、快適に始まり、音がいかに「オーケストラ的」であるかに感銘を受けます。 スケルツォは中庸のテンポで進み、トリオは非常に情緒的に演奏されます。
少し驚いたことには、アダージョでは1888年の「中間」稿が演奏されます。西側世界で話題となったシャラーの録音と同じ稿です(The Bruckner journalブルックナージャーナル, 17(2)巻, 41-45ページ(July 2013)参照)。 ここでのエレクトーンは、金管と木管、そしておそらく驚くべきことにシンバルを再現する能力に本当に輝いています。表現はまた、非常に繊細なニュアンスで、素晴らしい流動性を持っています。
ここで使われた楽器群の1つの顕著な弱点は、フィナーレで際立っています。ドラムの音は、かなり貧弱なティンパニしか再現できていないのです。 それ以外では、交響曲全体の場合と同様に、この楽章も、指揮台(耕うん機の鍬のようなもの?キーボード?)からは知的な解釈が指示され、通常の範囲内で十分に自由なテンポ操作を行なっています。 コーダの各楽器間のバランスは非常に明確で、エンディングは十分効果的です。
なお、1888年の緩徐楽章以外はハース版を使用しています。このアダージョについては、この交響曲では長年にわたって、終わりのない、数々の版の出現をもたらして来たが、ここでまた一つ新しい版が追加されることになりました。


*TBJブルックナージャーナル(BRUCKNER JOURNAL)に上記の記事が掲載されていた。欧米ではこの演奏が行なわれた状況がよく解らないようなので補足説明しよう。(CDは音と言葉社Oto To Kotoba Sha: DDD MT2018(2CDR)

@演奏された日は、22/7/20ではなくて2000年7月22日である。これは<アダージョ2>がオーケストラ以外の形で演奏された世界初演である。
A演奏に参加したのは、指揮者、4人のエレクトーン奏者、1人のシンセパーカッション奏者(ティンパニ担当)の6人である。
Bパート譜は存在しない。ティンパニ以外の全パートについては、4人のエレクトーン奏者はスコアを直接読み込み、各人の担当を配分した。例えばテュッティの場合、木管担当・金管担当・弦上声担当・弦バス担当に配分するなど。これはブルックナーの特徴あるオーケストレイションには適したやり方である。
C指揮者は作品をアレンジしたわけでは無く、練習時、基本テンポと音量、楽器間バランスを指示し、本番では普通のオーケストラを指揮するように、自由に感興に乗って指揮した。
D記事では、この新発見の筆写譜Mus.Hs.34.614を1888年の中間稿としているが、私見では、筆写自筆混成譜Mus.Hs.40.999の一旦完成した時点での稿であると考えている。Mus.Hs.34.614は完成時の単なる筆写譜に過ぎない。それゆえ、私は《第四交響曲》フィナーレの慣例に倣って、これを<アダージョ2>と名付けた。すなわち、第1稿を<アダージョ1>、完成後のさらなる改訂(現行の形)を<アダージョ3>としたのである。そして、<アダージョ2>の完成時点をMus.Hs.40.999の表紙記載の1889年5月8日と推定した。したがって、<アダージョ3>は、その後の改訂ということになる。改訂の詳細は別図を参照されたい。
E演奏には、206〜208小節(16分37秒)と245〜246小節(19分19秒)の2箇所に欠落箇所が存在するが、これらはスコア編集時の私のミスで生じたものである。正規の<アダージョ2>は2004年9月4日に世界初演された。内藤彰指揮東京ニューシティ管弦楽団の演奏である(Delta Classics: DCCA-0003)。
Fこの演奏を企画・実行された人々の考えをまとめると:エレクトーンは様々な音を再生することが可能である。しかしここでは、オルガンの名手でもあった作曲家ブルックナーはオルガンとオーケストラの融合体を目指して交響曲を作ったのだと想定して、あえてエレクトーンの機能を限定し、ブルックナーが思い描いていたものを再現しようとした試みである。したがって、そこではオルガンのような一定の音響空間とオーケストラのような多彩な音色が実現される。

(1)The date of performance is July 22, 2000, not 22/7/20. This is the world premiere of <Adagio 2> performed in a form other than an orchestra.
(2)Six people, four Electone players, one synthesizer-percussion player (in charge of timpani) and the conductor participated in the performance.
(3)There is no Stimmen(parts). For all parts except the timpani, the four Electone players read the score directly and assigned their responsibilities. For example, in the case of Tutti, it is distributed to woodwinds, brass, upper half strings, and lower half strings. This is a good practice for Bruckner's characteristic orchestration.
(4)The conductor did not arrange the work, but when practicing, he instructed the basic tempo and volume, and the balance between the instruments, and in the actual performance, he conducted with excitement as if he were conducting an ordinary orchestra.
(5)In the article, this newly discovered handwritten copy Mus.Hs.34.614 is the 1888 "intermediate" version. Where is the Autograph? In my opinion, That is the appearance When Mus.Hs.40.999 is completed once. It is the hybrid(autograph score + copy score) <NB2:Diagram>. Mus.Hs.34.614 is only copy at the time of completion. Therefore, I named it <Adagio 2>, following the convention of the "Fourth Symphony" finale. That is, the first version was designated as <Adagio 1>, and the further revision (current form) after completion was designated as <Adagio 3>. The journey to the climax shows three completely different music. Then, the time of completion of <Adagio 2> was estimated to be May 8, 1889 described on the cover of Mus.Hs.40.999. Therefore, <Adagio 3> is a subsequent revision. Severe damage to the cover suggests a major revision after completion<NB3:Bruckner’s cover of 2nd version Mus.Hs.40.999>.
(6)There are two missing parts in the performance, bars 206-208 (16 minutes 37 seconds) and bars 245-246 (19 minutes 19 seconds), but these were caused by my mistake when editing the score. This was corrected by Dr. Dermot Gault. I would like to thank him a lot. The official <Adagio 2> was premiered in the world on September 4, 2004. Performed by the Tokyo New City Orchestra conducted by Akira Naito (Delta Classics: DCCA-0003).
(7)To summarize the thoughts of the people who planned and executed this performance: Electone can reproduce various sounds. However, here, assuming that the composer Bruckner, who was also a master of the organ, created the symphony aiming at the fusion of the organ and the orchestra, he dared to limit the function of the Electone and reproduce what Bruckner envisioned. This is an attempt. Therefore, a certain acoustic space like an organ and a variety of tones like an orchestra are realized there.



2021・7・28


16、ブルックナーの『結婚依頼書』

1866年8月16日付ヨゼフィーネ・ラングあてブルックナーの手紙

Sehr verehrtes, liebeswürdiges
Fräulein!

Nicht als ob ich mich mit einer Ihnen befremdenden Angelegenheit an Sie, verehrtes Fräulein wenden würde; nein in der Überzeugung, dß Ihnen längst mein zwar stilles, aber beständiges Harren auf Sie bekannt ist, ergreife ich die Feder um Sie zu belästigen. Meine größte und innigste Bitte, die ich hiemit an Sie, Frl. Josefine zu richten wage, ist, Fräulein Josefine wollen mir gütigst offen und aufrichtig Ihre letzte und endgiltige, aber auch ganz entscheidende Antwort schriftlich zu meiner künftigen Beruhigung mittheilen und zwar über die Frage.
Darf ich auf Sie hoffen und bei Ihren lieben Eltern um Ihre Hand werben? oder ist es Ihnen nicht möglich aus Mangel an persönlicher Zuneigung mit mir den ehelichen Schritt zu thun?
Fräulein sehen, dß die Frage ganz entscheidend ist. Das eine oder andere bitte ich innständigst mir so bald als
möglich eben so entschieden, aber gewiß, eben so entschieden zu schreiben.
Bitte, sagen Fräulein Josefine dieß Ihren lieben Ältern aber sonst niemanden (bitte das streng'ste Geheimniß bewahren zu wollen) und wählen Sie einen aus den vorgelegten zwei Punkten der Frage im Einverständnisse mit Ihren lieben Ältern. Mein treuer Freund, Ihr Herr Bruder hat bereits mich auf Alles vorbereitet und wird auch
Sie schon seinem Versprechen gemäß verständigt haben. Nochmal meine Bitte: wollen Fräulein ganz offen u aufrichtig und ganz entschieden schreiben entweder: ich darf um Sie werben, oder gänzliche ewige Absage; (kein Mittelding etwa vertrösten oder umschreiben, da bei mir die höchste Zeit bereits vorhanden ist,) ((zudem wird sich Ihr Gefühl nicht leicht verändern, weil Fräulein sehr vernünftig sind.))
Fräulein dürfen die reine Wahrheit mir unbesorgt sagen, weil selbe in jedem Falle mir Beruhigung gewähren wird. Mit Handkuß einer möglichst baldigen entschiedenen Antwort entgegen harrend

Linz den 16. August
1866

Anton Bruckner mp.

*ブルックナー全集第XXIV巻の1「書簡集1」 p58,59

【翻訳ソフトによる和訳(微修正付き)】

拝啓、愛情に値する
お嬢様!

親愛なるお嬢様、私があなたに不思議なことで話していたわけではありません。 いいえ、あなたが私の静かなことを長い間知っていたと確信して、しかししっかりと、あなたを待って、私はあなたに負担をかけるためにペンを取り上げます。 私が今あなたに向けることを敢えてする私の最大かつ最も心からのお願いは、ヨゼフィーネお嬢様があなたの最後のそして最後の、しかしまた非常に決定的な、私の将来の安心のために、特に質問について書面で答えるということです
私はあなたを望み、あなたの親愛なるご両親にあなたの手を求めてもいいですか?それとも、個人的な愛情がないために、私と結婚の一歩を踏み出すことはできませんか?
お嬢様は、質問が非常に重要であることを理解しています。 私は心からどちらか一方に、できるだけ早く、断固として、しかし確実にできるだけ早く自分自身に手紙を書くようにお願いします。
ヨゼフィーネ様、これをあなたの親愛なるご両親に伝えてください、しかし他の誰にも言わないでください(最も厳格な秘密を守ってください)そしてあなたの親愛なるご両親の同意を得て、質問で提示された2つのポイントの1つを選んでください。 私の忠実な友人、あなたのお兄さんはすでに私にすべての準備をしていて、彼の約束に従ってあなたをすでに理解しているでしょう。 もう一度私の要求:公然と誠実にそして非常に断固として書きたい:
私はあなたに求婚してもよいでしょうか、又は永遠の拒絶を完全にすることができます。 (私はすでに最高の時期に達しているので、中途半端なことを擁護したり書き直したりしないでください)((さらに、お嬢様は非常に賢明なので、あなたのお気持ちは簡単には変わらないでしょう。))

お嬢様はご心配することなく純粋な真実を教えてください。なぜなら、同じことがどんな場合でも私に安心感を与えるからです。
御手にキスをして; できるだけ早くの決定的なお答えをお待ちしています

リンツ 8月16日 1866 年
アントン・ブルックナーmp.


これは、機械変換ですので稚拙な訳ですが、原文の匂いを少々でも嗅ぐため、あえて掲載します。まともな和訳は「アントンブルックナー・魂の山嶺」田代櫂著の66、67ページに載っています。対照されるとよいと思います。


2021・7・21

15、《第八交響曲》のyou tubeによる自筆譜対照演奏

ユーチューブでは、最近いろんなものを見ることが出来る。中でも興味深い映像として、演奏とそれに対応した自筆譜を見せているものがあって、これはたいへん便利だ。ただ、ブルックナーの場合問題も生じる。映像と演奏が合わないということが時々起こるのだ。クイズのような感覚で謎解きをするのが本稿の趣旨である。では早速《第八交響曲》に付けられた映像を見てみよう。Royal Concertgebouw Orchestra conducted by Bernard Haitinkハース版の演奏である。

https://www.youtube.com/watch?v=OJSJeieA7B0&t=3594s

【スケルツォ】
まず、最も問題の少ないのがスケルツォ。改訂にあたって、ブルックナーは最初から楽章全体を2管から3管に、ホルン4本を8本に増備する構想を持っていたので、完全な別稿を書いた。すなわち、完全な自筆譜が2つ存在するので紛れることはない<Mus.Hs.6084(第1稿)、 Mus.Hs.19.480/2(第2稿)>Mus.Hs.19.480は4巻に分かれていて遺贈稿としてブルックナーが封印したものである。したがって、これについては以後遺贈稿とも標記することとする。ハースは遺贈稿(第2稿)をそのまま印刷したので、映像の楽譜と演奏は一致する。

【第1楽章】
次に第1楽章。この楽章には完全な自筆譜は1つしかない<Mus.Hs.6083(第1稿)>。それに対して<Mus.Hs.19.480/1(第2稿=遺贈稿)>は、写譜師が書いた第1稿の筆写譜を使って、そこに第2稿のための修正を行ない、必要な部分を新たに書かれた自筆譜と差し替えて作られている。この第2稿の不思議な2種類の原稿状態についてはすぐに見分けがつく。楽器指定の欄で、弦楽上3声を「Viol.I., 〃II., Violen.」と標記しているのが筆写譜(第1稿)部分であり、単に「I.II.III」と標記している方がブルックナーの自筆(第2稿)部分である。また、4種の木管を4段で書いているのが筆写譜(第1稿)、8段で書いているのが自筆譜(第2稿)である。第1楽章では、映像の楽譜はこの遺贈稿(筆写自筆混成譜)がそのままが使われている。そのためハースが第1稿に復した個所は映像と演奏は一致しない。

まず、自筆譜と演奏のギャップを示す例として、チェリビダッケの演奏↓と、映像第1ページ(第1稿の筆写譜)を比較してみよう。面白い他人の解釈である。右上クラリネットにブルックナーが貼り紙をしている(もともとは全休符)。第1稿と第2稿の違いが最初に分る個所である。
チェリビダッケはこれを貼り間違いと見なして、ファゴットに吹かせている。また、それが上手いこと合うのである。クラでは♪ソーソレレ(刻みのソと次のメロディーのレ)、ファゴットでは♪ドードソソ(主題の最後のドと刻みのソ)。

https://www.youtube.com/watch?v=elVHvTrEM34

第1ページの楽器指定欄に目を移すと、そこにも筆写譜(第1稿)からのブルックナーの修正が見られる。木管を2管から3管に増やしたため、それぞれの楽器略名の下に1,2,3、が追加された。単独使用のワグナーテューバをホルンと持ち替え使用としたため楽器名をホルンに変えた。映像では欠落しているが、C管トランペットをF管トランペットに変えたための処理もなされている。筆写譜は4ページ続いて(ボーゲン1)、48秒のところで自筆譜(第2稿)に変わり、それがまた4ページ続く(ボーゲン2)。同じような音楽が続いているが、筆写譜と自筆譜ではオーケストレイションがまるで違う。2管の筆写譜では木管は4段に書かれているが、自筆譜では3管になり倍の8段が使われる。第1稿での合いの手のワグチューが、第2稿ではトロンボーンに変えられた。
1分30秒の所、同じ音楽が続くのに4小節ペケでカットされている。これはボーゲン3で筆写譜に戻ったからである。実は、筆写譜は1ページに5小節を割り当てているが、自筆譜は1ページに6小節を割り当てた。そのため4小節浮いてしまった結果を表している。67小節からのffで木管が2管なのは、この部分筆写譜を用いたためと考えられる。

3分44秒の所で、ハース版とノーヴァクVIII/2の違いが明瞭に出る。映像と音楽が違うのだ。ハース版の演奏は16分音符を含む尖った音形がホルンで吹かれる。ところが映像では滑らかな三連符が書かれていてVIII/2のチェリはそのように演奏している。これはハースが第1稿を引用したからである。何故ハースがそうしたのかはよく分からない。たぶんハースはこの個所は第1稿の方が好きだったとしか言いようがない。しかし、ハースは丸ごとこの箇所を第1稿に変えたのではない。第1稿では2本のホルンと4本のワグチューがこの音形を吹くが、ハース版では4本のホルンだけが吹く。映像の削り痕がそれを示している。再現部の同じ個所ではもっと小細工をしている。要するに資料には存在しない形である。しかし、ハース版に慣れ親しんだ人たちにとっては、これが無いと聴いた気がしないと思う。
次のカットは4分58秒の所(ボーゲン8)に現れる。これは前回よりちょっと複雑だ。ボーゲン7は半分に切られ、後半のフォリオ(2ページ)が新しく書き換えられた。それはffの部分を弱音に変えたためである。そして4小節短縮された。ただ、この部分だけは、他の第2稿の挿入譜と違って木管が4段に書かれている。たぶん改訂の時期が他とは異なっていたのだろう。
第1楽章全体を見てみると、前半の10ボーゲンは筆写譜主体、後半の10ボーゲンは自筆譜主体となっている。その境目は196小節のところ(6分50秒)である。後半は再現部第2主題の部分だけに筆写譜が使われている。
あと、170小節近辺(6分02秒)のところでブルックナーは木管にヴァイオリンを重ねるよう変えているが、ハースは第1稿に復している。音色の混合はブルックナー的でないということだろうが、確かにハース版の方がブルックナー的に響く。映像(第2稿)と演奏(第1稿=ハース版)は一致しない。

【アダージョ】
先行する2つの楽章は、いずれも遺贈稿と第2稿が一致するから映像の選択のうえで問題は生じないが、アダージョは改訂の経緯が更に複雑で更に大きな問題をはらんでいる。遺贈稿(Mus.Hs.19.480/3)は後の修正の無い純粋な第1稿<アダージョ1>である。第2稿の筆写自筆混成譜(Mus.Hs.40.999)<アダージョ3>は、封印時<アダージョ2>の筆写譜(Mus.Hs.34614/1)などと同様に、ブルックナーの手許には無く、ブルックナーの死後もフランツ・シャルクがずっと預かっていたのでハースは参照できなかったのではないかと推測される。このためアダージョは複雑な合成版となったのである。ノーヴァクは「フランツの相続人である妻のリリー・シャルクに見せてもらった」とわざわざVIII/2の序文に書き加えている。現在は両方ともオーストリア国立図書館所に存在するので、簡単に第2稿を一連の映像として再現できるのだが、演奏としてハース版が選ばれてしまっているので、簡単ではない。

まずは3つの形態を資料の小節数によって概観してみよう:

*Bはボーゲンナンバー
*<アダージョ1>は完全自筆の第1稿(遺贈稿)Mus.Hs.19.480/3を示し、各ボーゲンのページごと小節数、合計小節数、通算小節数を示す。
*<アダージョ2>は第2稿完成時の筆写譜Mus.Hs.34.614/1を示し、各ボーゲンのページごと小節数、合計小節数、通算小節数を示す。
*<アダージョ3>は完成後のさらなる大改訂を示し、筆写自筆混成譜Mus.Hs.40.999の現状を示す。
赤字は映像使用のページを意味する。

 B 19.480
Adagio1
19.480
Adagio1
34.614
Adagio2
34.614
Adagio2
40.999
Adagio3
筆写部分
40.999
Adagio2-3
自筆部分
40.999
Adagio3
動画の
タイム
 1 4/4/4/4 16 001-016 4/4/4/4
16 001-016 4/4/4/4 16 001-016 27分45秒
 2 8/2/2/4 16 017-032 8/2/2/4 16 017-032 8/2/2/4 16 017-032 29分28秒
 3 4/6/2/2 14 033-046 4/6/2/2 14 033-046 4/6/2/2 14 033-046 31分15秒
 4 4/4/4/4 16 047-062 4/4/4/4 16 047-062 4/4/4/4 16 047-062 32分44秒
 5 4/4/4/4 16 063-078 4/4/4/4 16 063-078 4/4/4/4 16 063-078 33分52秒
 6 6/6/6/4 22 079-100 6/6/6/4 22 079-100 6/6/6/4 22 079-100 35分03秒
 7 4/4/4/4 16 101-116 4/4/4/4 16 101-116 4/4/4/4 16 101-116 36分43秒
 8 6/6/6/6 24 117-140 6/4/5/5
<6/6/6/2(4)>
20 117-136 GM:6/6/
4(-2)/4(-2)
GM:20 6/6/6/(-2)(4) 18 117-134 38分02秒
 9 6/2/2/4 14 141-154 6/2/2/4 14 137-150 X X 6/3/1(4)/(6) 10 135-144 39分19秒
10 6/6/6/6 24 155-178 4/5/5/6 20 151-170 6/6/6/2(-4) 20 145-164 39分55秒
11 6/6/

10/2
24 179-202 6/6/8 20 171-190 GM:4(-2)/6 GM10 6/6/6/2(4) 20 165-184 41分18秒
/2 2 191-192 (-10)/2 2 185-186 42分42秒
12 2/2/2/2 8 203-210 2/2/2/2 8 193-200 2/2/2/2 8 187-194 42分54秒
13 2/2/2/2 8 211-218 2/2/2/2 8 201-208 2/2/2/2 8 195-202 43分35秒
14 3/3/3/3 12 219-320 3/3/3/3 12 209-220 3/3/
(-3)/(-3)
6 203-208 44分12秒
15 3/3/3/3 12 231-242 2/2/2/2 8 221-228 (-3)/(-1)2/
3/3
8 209-216 45分07秒
16 3/3/3/3 12 243-254 3/3/2/2 10 229-238 GM:3/3/
3/3
GM12 2/2/2/2 8 217-224 46分04秒
17 4/6/5/3 18 255-272 2/2/2/2 8 239-246 GM:4/6/
5/3
GM18 2/2/2/2 8 225-232 46分43秒
18 4/5/2/5 16 273-288 2/2/3/2/2 11 247-257 X X 2/2/2/2 8 233-240 47分14秒
19 2/2/6/6 16 289-304 2/2/7/2/4 17 258-274 X X 2/4/5/3 14 241-254 47分50秒
4/4/5/5 18 275-292 6/6 12 255-266 49分18秒
20 6/6/8/5 25 305-329 6/6/8/5 25 293-317 6/6/8/5 25 267-291 50分30秒

*<アダージョ3>40.999の筆写譜の小節割は完全に自筆譜<アダージョ1>と一致する。欠落部分は2度の差替えによって取り除かれた個所である。
*差替え1回目、<アダージョ2>のために差し替えられたボーゲン(B8、B11の前半、B16,B17)。取り除かれた方の筆写譜(A 178)は現在ヴィーンの楽友協会Gesellschaft der Musikfreunde に保存されている。<GM>で示す
*差替え2回目、<アダージョ3>のための差し替え(B9とB18、B19の前半)によって取り除かれた部分は現在行方不明であるが、小節割は自筆譜と全く同様であるとみられる。<X>で示す。
*2回目には<アダージョ2>で差し替えられたB16〜B17に相当する自筆譜も行方不明である。
*全集版VIII/1とVIII/2の違いは資料19.480と40.999を反映しているわけだが、その複雑な改作の過程を解明するためには<アダージョ2>は必要欠くべからざる材料である。不可解な2つの資料の間の食い違いが<アダージョ2>によって見事につながる。ちょうど2枚のパンにはさまれた卵焼きのように美味しいサンドイッチとして食べれるのである。また、それはドラスティックな変貌を遂げた《第四交響曲》フィナーレの1878年稿と同じ位置づけで捉えられるべきものでもある。
*<アダージョ2>は英国の音楽学者ダーモット・ゴールトと私によって2004年にスコアとパート譜が作られ2004年9月4日に内藤彰指揮東京ニューシティ管によって初演された。全集版でも出版の予定である。ユーチューブではシャラー指揮フィルハーモニー・フェスティヴァ(2012)の演奏で聴くことが出来る。

Bruckner - Symphony No.8, Part 3 (Gerd Schaller) - YouTube

(註)この動画は最初の方に何故か音声が乱れるので、10分あたり以降から聴かれることをお勧めします。

ハースは<アダージョ1>と<アダージョ3>の良いとこ取りを行なって彼の版を作った。基本<アダージョ3>に寄りながら多くの点で<アダージョ1>に立ち返っている。そのため、遺贈稿(第1稿)の方を優先しがちに映像は作られている。結果ハース版の演奏とは齟齬をきたしている場合が多い。したがって、数多くの点で映像は演奏通りではない。ハースは果たしてMus.Hs.40.999を使用することが出来たのだろうか。それとも第2稿として初版や別の筆写譜を使ったのだろうか。2つの基本資料の間にはたくさん相違はあるが、ボーゲン7まで(116小節まで)は自筆と筆写の違いはあるものの3つの<アダージョ>は同じ音楽である。ハースは<アダージョ1>の方を採ることが多い。ハースは筆写譜での改訂を余計と見なしたのか、初版との対比から来る独自の結論を持ったのかもしれない。

ただ、32分38秒の所でホルンの主部と副次部を繋くパッセージは3種の資料とも違うのでよく目立つ。ここでは、ハースは<アダージョ3>のブルックナーの修正の方を採っているのだ。それは<アダージョ1><アダージョ2>の演奏と比較すれば明瞭だ。<アダージョ1>はホルンが先に出てしまった感じだが、<アダージョ2>はスムーズに下る。そして<アダージョ3>は回音的な独自の小宇宙を築く。


さて、表で示されているように最初の問題個所はボーゲン8である。38分02秒のところ。40.999では、<アダージョ2>のために差し替えられた自筆譜が来る。ところが、映像編集者は遺贈稿<アダージョ1>を継続したまま。特に目立つ違いは、ヴァイオリンのメロディーが8分音符に分割されていることと、強音部のトロンボーンなど全く違うことである。そしてアッチェレランドの所は4小節短縮されている。スコアと演奏がまったく一致しないのだ。

そして遂に40.999が映像に登場する(39分19秒のところ)。左側のページはボーゲン8<アダージョ2>の最後のページ、右側のページはボーゲン9<アダージョ3>の最初のページだ。何れもブルックナー自筆。着目していただきたいのは左のページにはペケが2つあること。そしてこの2つのペケは時期が違うということだ。最初は、4小節の方だけにペケが付され2小節は生きていたということだ(この2小節は<アダージョ2>のためだけに書かれたものの中で現存するほとんど唯一の自筆箇所である=<アダージョ2>自筆の証明個所)。そして、これは<アダージョ1>のボーゲン9へ移るように指定されている(自筆譜には何個所も9 Bogenと書かれている)。すなわち、金管のコラールや木管とハープのパッセージだ。シャラーの演奏で確認していただきたい。さらに、フルート他にはうっすらと右のページの新しいボーゲン9<アダージョ3>のためのスケッチが書かれている。


39分16秒の所では、右のページに演奏されない19.480の金管のコラールのスコアが見える。この後ハープが続くのだ(6/2/2/4)。

39分19秒のところ、左側のボーゲン8/4は<アダージョ2>に属し、右側のボーゲン9/1<アダージョ3>(第2稿)に属するということだ。ここでハースは奇妙なことをやっている。第2稿のフォルテのフルートに対して第1稿の弦の刻みを充てているのである。実際の自筆稿では映像の通り弦はタイで繋がっている。ハースはどこからこのネタを仕入れたのだろうか。ノーヴァクはdim.semp.をしっかりと書き加えているにも拘らず、ハースの刻みを消し忘れてタイにしていない。これは単純ミスだろう。初版はどうかというと、弦はタイだが、フルートはピアノである。強弱のバランスを取ったというわけだ。このアッチェレランドの個所、<アダージョ1>や<アダージョ2>ではフォルテシモまでクレッシェンドし、金管のピアニシモのコラールと対比させているのだが、<アダージョ3>では全くクレッシェンドせず、ピアノのまま木管へ繋げているのである。ハースやノーヴァクは間違いだということだ。とはいえ、私はハース版の処理が一番ブルックナー的だとの印象を持っている。

39分53秒、ここで初めて40.999の筆写譜部分の映像が出て来る。写譜した人は第1楽章の場合とは違うようだ。木管は4段、弦のI,II,IIIはViol.1,Viol.2,Violaと書かれている。これはボーゲン10である。


さて、2番目の問題個所は41分18秒に現れるボーゲン11。これも<アダージョ2>のための自筆差し替え譜である。41分37秒からはヴァイオリンとチェロのデュエットに軽やかなピチカートのリズム伴奏が付く。第1稿の方は同じ楽想ながらリズムはアルコのスラー。改訂のオーケストレイションの絶妙さが光る所だ。ところがここでもハースは自筆譜をいじっている。第1稿に合わせてテンポをbewegter(より動いて)に変え、クラリネットを削除した。軽やかさを強調するためだろう。

しかしハースは42分40秒の所で大失敗をやらかしている
。映像にたくさん書かれているフェルマータを無視してしまったのだ。そしてさらに、ノーヴァクはそのミスを元に戻さず、フェルマータを付け忘れてしまった。そもそもブルックナーは、第1稿でさえティンパニだけの1小節を書いている。第2稿では空白を指揮者に任せたということなのだ。印刷譜の通り、チェロの最後の音が三現のアウフタクトのように演奏する指揮者がいる。それは指揮者のせいではないが間違いである。自筆譜通りチェロは虚空に消え去るべきであって、改めて三現が現れるという風に演奏されるべきだろう。初版は、チェロがソロに変えられた後、フェルマータはちゃんと付いていて、この版を演奏したフルトヴェングラーは、緊張に満ちた空白をしっかり演奏している。ホークショウ版では、このミスは改善されるものと思われる。
ボーゲン8の時は映像編集者は遺贈稿を使ったため音楽とずれてしまったが、今回ボーゲン11の場合は40.999を使ったためハースとのずれが目立ったというわけだ。

映像は、ボーゲン12、ボーゲン13と40.999の筆写譜が続くが、ボーゲン14の後半で遺贈稿<アダージョ1>に戻ってしまう。そこにはいわゆる「谷間の百合」があるためだ。40.999にも、この「谷間の百合」自体はペケが付けられているとはいえ存在するのだが、それは前半6小節が<アダージョ2>に改訂されているため使えないのである。


次いで映像と演奏の齟齬で一番の問題のあるポイントが来る。本来「谷間の百合」の10小節が終われば、すぐに40.999に戻ればよかったのだが、映像は遺贈稿をかなり引っ張ってしまう。そして46分48秒からやっと40.999になるのだ。だから48分30秒あたりからは楽譜と演奏は全くかけ離れている。40.999ではボーゲン16からボーゲン19まで、一番新しい自筆譜に差し替えられているのだからこれを使わない訳はないのだが、何故映像作成者はそこに入るとすぐに40.999を使わなかったのだろうか?どうも対応が遅れている感じがする。

ボーゲン16〜19(46分03秒右ページ〜49分20秒左ページ)は、実際のところブルックナーが最も苦労をし、考えをさ迷えたところであって、4つの資料として残された。
@<アダージョ1>:第1稿自筆譜(遺贈稿):オーストリア国立図書館蔵Mus.Hs.19.480/3。
A<アダージョ1’>:改訂用筆写譜(Mus.Hs.40.999)のうち<アダージョ2>に改訂の際に取り除かれた部分(ヴィーン楽友協会蔵)。
B<アダージョ2>:筆写譜のみ現存(オーストリア国立図書館蔵Mus.Hs.34.614
/1)。なお、<アダージョ2>のための自筆挿入譜自体は、<アダージョ3>に差し替えられて現在行方不明。
C<アダージョ3>:オーストリア国立図書館蔵Mus.Hs.40.999のうち<アダージョ3>のために差し替えられた4つのボーゲンからなる自筆挿入譜。
Aには改訂のためのかなりの加筆が存在する。たとえば、3連発のシンバルは、既にここで1発に減らされている。Bでクライマックスがハ長調から変ホ長調に変えられた。C初版と寸法は同じだが、初版では強弱・テンポに更に手が加えられている。映像は、最初@だが、46分48秒からCを使っている(ボーゲン17の2ページ目から)。


このアダージョの改訂の中で最も驚くべき瞬間が、2回目のシンバルが鳴って、直ちに弦楽合奏に変わる所であろう。この場面、最初に現れるのは15小節の所である。バスが3度音(六の和音)をずっと保続し徐々に弱まっていくフレーズ。ところが、このクライマックスでは、バスが5度音(四六の和音)を保続した後、半音上がって3度転調するのだ(ソ→♭ラ)。すなわち、<アダージョ1>ではハ長調:G→Asであり、ヴァイオリンは主音Cから弦楽合奏に入る。これに対して、<アダージョ2>と<アダージョ3>では変ホ長調:B→Cesとなり、ヴァイオリンはCesから弦楽合奏に入ることとなる。両稿の弦楽合奏自体は全く同じ音なので、この半音差の入りはまことに重大。そしてダウン奏法主体で全く漸減しない。

このクライマックスの部分でハースは3つの変更を行なっている。
@ハースはメロディーの最後のヴァイオリンを他の楽器と同様8分音符で音をやめさせ、8分休符を2つ置いている。次の弦楽合奏部分との断絶を図っているわけだ。ところが、自筆譜では第1稿も第2稿もヴァイオリンには空白が無い。付点4分音符で切れ目なく弦楽合奏に移っている。すなわち、これは自筆資料にはないハース独自の考えである。まあ、こうすると残響とハープの音だけが残り印象的ではある。なお、初版ではヴァイオリンはハース版のように止むが、代わりに木管が音を引き延ばしている。
結局ハースの変更は、初版の変更にかこつけたブルックナーオリジナルではないアイデアであると結論付けられる。ハース版がブルックナーよりブルックナー的であると感じられる代表的な事例だ。
Aハースは自筆譜にあるEtwas bewegter(幾分速めに)のテンポ指示を削除した(第1稿ではa tempoの指示がある)。これは15小節の時の音価を倍にしたための措置と思われるが、それならブルックナーは前と同じ音価で書かれた弦楽合奏の方にa tempoと指示を書き加えるべきであった。要するに指揮者にテンポ上の無用の解釈をさせる根源となってしまうのだ。ハースはそれを避けている。
Bハースは弦楽の32分音符の刻みに書かれたtrem.(トレモロ)を無視した。(ブルックナーは47分40秒のところの弦楽五部に5つtrem.を記載している)ノーヴァクもそれに習って、もう1か所のトレモロ指示(125小節)は表示したが、ここではトレモロ指示を無視した。テンポとの絡みもあったのだろう。また、当時の楽譜編集者は32分音符=トレモロとの意識があったので、あまり拘りがなかったのだろう。ティンパニに書かれているトレモロ指示も全て無視している。しかし、ブルックナーははたして32分音符=トレモロと考えていたのだろうか?《第九》のアダージョでその問題にぶち当たる。ブルックナーの記譜に対する理解を正当に判断するためにも、しっかりとtrem.指示は印刷されるべきであって、それは編集者の責務だ。演奏上の問題は、指揮者の解釈の自由に任せればよい。

トレモロなのか、32分音符の刻みなのか、が重要な問題となるのは、リズムが音楽の流れを支配するのか、リズムに束縛されず自由に音楽が流れるのか、という根本的な疑問を含むからである。「主部」はテンポを揺らすことは自由だが、32分音符に支配された「副次部」では、32分音符を正確に刻めばテンポを揺らすことが出来ないと『解釈』できるからである。もちろんこれを《第九》のアダージョで、すべての指揮者が理解しているように、トレモロと『解釈』してしまえば、テンポを揺らすことは可能だ。ブルックナーはどう考えていたのだろうか?


49分20秒から40.999自体は自筆譜挿入部分が終わって、この箇所から最後まで元々の筆写譜が使われる。修正がいちいちこの筆写譜になされているわけで、4つの形が1つに収束されることとなる。各段階での微細な修正が同居しているわけである。まず、この右ページには、<アダージョ1><アダージョ2>の痕跡が残っている。フルート、クラリネット、ホルンや弦楽の消された痕は<アダージョ1>のものである。そして、オーボエは<アダージョ1>では使われていないので、その消された痕は<アダージョ2>のものなのである。うっすらと見える2本の縦棒は♭とDesの4分音符であって<アダージョ2>と一致する。ホルン以外の削除は<アダージョ3>の改訂でなされた。すなわち第1ヴァイオリンが単独で演奏するのは<アダージョ3>のみの絶妙の効果なのだ。この先ハースは1,2稿の良いとこ取りをするのだが、それにも拘わらず、このユーチューブ編集者は遺贈稿<アダージョ1>を採らず、筆写譜40.999<アダージョ3>の方を使っている。最初と方針が違うのは不思議だが、修正の痕を見るためには分かり易い。ハースの勝手気ままな選択はいろいろあるのでVIII/1,VIII/2とハース版を比較されたい。ここでは51分47秒の例を見てみよう。ハースはホルンのタイで繋げた2つの4分音符を第1稿に戻してホルンの動機全体のメロディーの流れを回復させた。ただハースのこの修正では、第2ホルンの16分音符の動きは<アダージョ3>に属しているので、2つの稿が混在してしまうことになる。結局のところホルンを取るかヴァイオリンを取るかのということになるのだろうが意見の分かれるところだ。ノーヴァクは、この箇所の弦について映像通りのチェロpizz.にはせず、ハースの<アダージョ1>をそのまま温存している。こちらも結局のところは2稿の混在だ。面白いのは<アダージョ2>である。タイがかけられた4分音符のタイをやめて4分音符1つだけ吹かせ、ホルンのメロディーとヴァイオリンの両立を図っている(51分46秒)。


【フィナーレ】
この楽章は1、3楽章のような筆写譜を土台に改訂がなされたのではなく、第1稿自筆譜そのものを使って第2稿への改訂がなされたので、その足取りは複雑で難解である。遺贈稿Mus.Hs.19.480/4は、修正された第1稿の自筆譜と差し替えられた第2稿の自筆譜が混在する形となっており、全集版VIII/1では、フィナーレについては遺贈稿だけではなく第1稿の筆写譜や現存する取り除かれた自筆譜を使わざるを得なかったのである。ところが、第1稿+第2稿の混在譜である遺贈稿だけによるこの映像は、1,2稿混在のハース版の演奏のためにはかえって好都合だったとも言えるのである。



https://www.youtube.com/watch?v=OJSJeieA7B0&t=3594s



まずは遺贈稿の内容を表によって概観してみよう:
*ボーゲン(Bogen)とは、二つ折りの紙(4ページ)からなる資料の単位。ブルックナーの自筆譜には各ボーゲンの第1ページ右上にボーゲンナンバーが記されている。
*使用五線紙は二社、左下端の社印<B&H Nr.14A(BH14)>と<JE&Co.No.8(JE8)>で解る。BH14はボーゲンの最初のページに、JE8は2ページごとに付され、両方とも五線は24段である。購入後、あらかじめ6小節に定規で線が書かれている。ブルックナーは最初BH14を使い、後にJE8を使用した。
*改訂は長期にわたっており、便宜的に、木管4段使用、弦l,ll,,lll,C,Bと記載のページを「第1稿」(1)、木管8段使用、弦I,II,III,C,Bと記載のページを「第2稿」(2)とした。
*2つの短縮(「展開部第3部」と「再現部第3主題」)のための挿入ページを(短)とした。これはワインガルトナーへの手紙にて推奨されたカット指示と見られるが、初版ではこれらのカットは採用されなかった。
*小節数については、基本1ページ6小節なので、各ボーゲンは6X4=24小節となる。ただ、異例の個所については、遺贈稿上でペケで削除された小節数は(
#小節数)で示した。音符の無い空白の小節は(カッコ)のみ。なお、1小節を2小節に分割した場合(2X2)や別途貼付している箇所も存在する。
*一連の小節数については「第2稿」による。「通算」として表示した。
*挿入フォリオがあるボーゲンについては、本体をP1〜P4(1ページ〜4ページ)で示した。
*ブルックナーのソナタ形式区分は厳密で重要である。展開部は4つの部分に明瞭に分かれているのでそれらを第1部〜第4部と表示した。

Bogen 五線紙 稿 小節数 通算 形式 動画のタイム
01 01-05
(5Bogen)
BH14 24X5
=120
1-
120
提示部
第1、第2主題
53分08秒から
02 06 JE8 14(10) 121-
134
提示部第3主題 56分20秒から
03 07-09
(3Bogen)
BH14 (2)22
+24
+24=70
135-
204
提示部第3主題
提示部小終止
56分45秒から
04 10 BH14 6(#18) 205-
210
提示部小終止 58分55秒から
05 11 BH14 2X2/4
+18=26
211-
236
提示部小終止 59分34秒から
06 12 BH14 (#4)20 237-
256
提示部小終止
展開部第1部
60分20秒から
07 13 BH14 16(#8) 257-
284
展開部第1部 61分3秒から
JE8@ +12=28 61分31秒から
08 14-15
(2Bogen)
BH14 24
+24=48
285-
332
展開部第2部 61分52秒から
10 16 BH14P1-3 18 333-
356
展開部第2部 63分8秒から
JE8 4(2) 第3部削除用 63分24秒から
BH14P4 +6=24 展開部第3部 63分33秒から
JE8 -6- 4ページ目清書 63分41秒から       
11 17 JE8 -6- 357-
380
1ページ目清書
BH14P1 6 展開部第3部
BH14P2-4 +18=24 63分46秒から
12 18-21
(4Bogen)
BH14 24+24
+26*
+24=98
381-
478
展開部第4部
再現部第1主題
64分12秒から
13 22-24
(3Bogen)
BH14 24+24
+20/2x2
=70
479-
552
再現部第1主題
再現部第2主題
66分23秒から
14 25 BH14 12(#12)
+4=16
553-
566
再現部第2主題 67分59秒から
15 26 BH14P1 (#2)4 567-
586
再現部第2主題 68分45秒から
BH14P2 +6
BH14P3 (#6)
JE8 +4(2) 第3主題削除用 69分18秒から
BH14P4 +6:=20 再現部第3主題 69分18秒から
16 27 BH14 24 587-
610
再現部第3主題
再現部小終止
69分43秒から
17 28 JE8 24 611-
634
再現部小終止 70分26秒から
18 29 BH14 2(#4),6
4(#2)=12
635-
652
再現部小終止 71分11秒から
6 コーダ 71分46秒から
19 30-32
(3Bogen)
JE8 24+24
+9(3)=57
653-
709
コーダ 72分1秒から
73分51秒まで


上の表のとおり、遺贈稿は全部で32ボーゲンなのでページ数にすると32X4=128ページありそうだが実際はそれより少し多い。大雑把に言って、ほぼ3/4は第1稿に属し、1/4が第2稿に属している。その内訳は、ボーゲンをBと略して下記のとおりである:
〇第1稿=B1〜B5, B7〜B21, B25〜B27, B29=24ボーゲン
〇第2稿=B6, B22, B23, B24, B28, B30, B31, B32=8ボーゲン
映像は、楽譜を見やすくするため、周辺部が欠落している。そのため、ボーゲンナンバーや社印はほぼ見えない。また、中央の音の無い金管部分を省略している映像ではペケが変な風に写っている。


53分08秒:1,3楽章の木管2管と違ってフィナーレは元々3管で書かれているので楽器指定の欄はFlauti I.II.III.・・・と書かれているが、五線は1段だけの使用となっている(木管全部で4段)。1段で3本使用なので窮屈な場面が出てくる。
53分42秒:このページだけは木管が8段で書かれている。トランペットのファンファーレを木管がなぞっているため細かい音符が続くための措置と思われる。
56分20秒:ここで第2稿の新しい五線紙が挿入される(ボーゲン6)。左下隅にJE8の社印の上半分が映り込んでいるのが見える。左のページ(ボーゲン5の4ページ)の木管やヴァイオリンの白い部分は上から紙を貼って修正さたことを示している。この辺から第3主題までの音楽は全く新しく書き換えられたのである。
56分45秒:ボーゲン6の差し替えによって12小節短縮されJE8の五線紙の空白が見える。
映像ではボーゲン6は3ページしか現れないが、実際はもちろん4ページ目があって、そこではページ全体6小節にペケが付され音符はない。
映像のボーゲン7、1ページ目「(#2)+4」の2小節の削除と合わせて「4+6+2=12小節」短くなっているということである。ハースは、ここでは長い第1稿(筆写譜には存在するするが遺贈稿には無い))を採らずに短い第2稿(映像通り)を使っている。とにかく映像の3ページは、木管8段記載とも相まって前後とは異質に見える。




次に問題となるのは、
59分03秒:『死の行進』とブルックナーが命名した第1楽章の『死のリズム』がホルンに出る厳粛な行進のあとブルックナーが施した20小節の削除。ブルックナーは巧妙な4小節の新稿を最後の2小節を分割して書き加えたが(59分35秒)、ハースはそれを使わず旧稿を使った。そのために、59分04秒の『死の行進』の最後の小節をdim.して第1稿に戻したのだが、ハースは何故かティンパニの最後の3つの音を欠落させている(VIII/1とハース版を対照)

60分21秒:ペケがつけられた4小節があるが、ハースは削除しない。
61分32秒:ペケ2小節があるが、このボーゲン13には映像には現れない4ページ目の6小節があってそれもペケで消されている。そして6+6=12小節のフォリオが挿入されている。すなわちボーゲン13は6ページあって、第1稿のペケで消された8小節が第2稿では12小節に替わっている。ハースはここでは第2稿の方を採用している。


63分20秒:右側に演奏されない不思議なページが映し出されている。ティンパニのロールだけの4小節が記されていて、Aa(64分21秒)に飛ぶように指示されている(展開部第3部省略)。映像では切れてしまっているが、上端に(Z bleibt weg)(省略)、dafur hier die Kurzung(そのための短縮譜)zur Aa(Aaへ)と書かれている。この短縮譜はフィナーレの挿入譜の中で最も新しい時点での挿入と考えられ、初演を依頼されていたワインガルトナーへのブルックナーの手紙(1891年1月27日付け)に述べられている"Bitte sehr, das Finale so wie es angezeigt ist, fest zu kurzen;〜"(どうぞお願いします、フィナーレを断固短縮することは、たいへん得策なことです;・・・)に該当するものと考えられている。
楽友協会に保存されている「初版のための印刷用筆写譜(版下)」にも、この挿入譜が筆写されていて、そこにはnicht zu drucken(印刷しない)と注記されているので、このページは初版には存在しない。私は東京ニューシティの演奏会でこの短縮譜を採用してみたが、第3部省略によって巨大な展開部の風通しが良くなり、少し身軽になるといったところか。



63分41秒:ここでまた、奇妙なことが起こる。音楽と映像が合わないのだ。映像作成者のミスだが、その原因は遺贈稿の方にある。ブルックナーは、ボーゲン16の4ページ目とボーゲン17の1ページ目が修正で汚くなったので、この2つのページを清書して挿入したのだが、元の第1稿の方にペケを入れなかった。それで2ページがダブる状態になってしまったのだ。映像作成者はそれに気づかず「B16/4→B16/4の清書」と映してしまい、誤りに気付いて、慌てて「B17/2」へ移って時間調整をしたということだ。そのため「B17/1もB17/1の清書」も映像に現れないという結果となったのである。映像を順番に辿るとこういうことになる:B16/1→B16/2→短縮稿→B16/3→B16/4→16/4清書→B17/2→B17/3


65分19秒:ボーゲン20の1ページ目は何故か定規で8小節に区分されている。このページだけが8小節に分割されているのは不思議だが、他の曲に使用した五線紙を流用したのだろうか?


66分22秒:ボーゲン22〜24の第2稿部分に入る。この差し替え部分では、音楽自体は第1稿とほぼ同じながら内容はより深いものに改訂されている。ただ、不思議なことにこの3ボーゲンはJE8によらずBH14の五線紙が使われている。一番早い時期の改訂なのかもしれない。


67分59秒:ボーゲン25の第1稿部分に入り、映像と演奏は、またもや混乱する。ハースは、ここでも第1稿の方のペケを付された改訂前の方を採る。そのため、68分20秒でブルックナーが第2稿のための2小節の貼り紙をしているところで、その分の第1稿の2小節の映像は見えない。ハースは、この前後ずっと第1稿を採用しているので、演奏と画面が一致しない。
そのため、慌てた映像作成者は第1稿ボーゲン26の2ページ目にあたる左ページの次のペケが付けられた3ページ目(木管4段)に映像を変更する。もちろんこれも合わないが、それを放置したまま第3主題に突入する。この3ページ目の自筆譜は、印刷譜としてはVIII/1で見ることが出来る。長い間この箇所はハースの捏造と噂されてきたが、2014年のホークショウの編集報告によって自筆譜が見つかり謎が解明された。クレムスミュンスターの修道院のアルヒーフにアダージョの断片として自筆譜が保管されていて、それがII巻の113,4ページに写真で掲載されている。その写真の上端には、3 Seite・・・Zum 26. Bogen d. Adagio der 8. Sinf. (3ページ・・・第8交響曲アダージョの26ボーゲンへ)と誰かが書いているが、アダージョは20ボーゲンしかないし、楽譜上の練習記号Ppもアダージョには存在しない。何たる勘違い!とにかく、楽譜はハース版と同じであって、表6小節、裏2(4)小節、計8小節、木管8段で書かれ、JE8の五線紙が使われているので第2稿に属する。なお、ホルンとワグチューの最後の和音が存在する点で短縮譜と相違する。ノーヴァクは最後の短縮譜を採用しているので、ホルンとワグチューは自筆譜通り削除すべきであろう。この発見によって、再現部第2主題、第3主題間の移行部には3種類のスコアが存在することが確定した。@第1稿:8小節、Aハース版:8小節、B第2稿:6小節。


70分27秒:第1稿から第2稿(ボーゲン28)へ移る。ここでは第1楽章の主要主題が圧倒的に再現するのだが、同じ楽想でもブルックナーはオーケストレイションを全く書き替えたかったのだろう。


71分09秒:第1稿に戻る(ボーゲン29)。そこにはペケで削除された『郭公の4小節』があるが、ハースはそれを採用している。ところが71分40秒の所のティンパニの『ギャロップの2小節』をハースは採用しなかった。



72分01秒:(ボーゲン30)から最後までは第2稿の挿入譜である。この第1稿部分から第2稿部分へ移る境目で、校訂上の問題が生じる。ワーグナーテューバやバステューバのスラー問題である。映像で、左のページ(第1稿)の2番テナーテューバにはスラーがあるのに右のページ(第2稿)には、それに対応するスラーが無い。ハースやノーヴァク(勿論初版の校訂者も)は、第1稿の状態(同種の音形にスラーが皆ついている)を参照し、ブルックナーがスラーを付け忘れたものとして、この音形にはスラーを追加した(コントラバステューバも!)。しかし、改訂された自筆譜にはスラーが無いのに、何故安易にスラーを書き加えたのだろう?ブルックナーが書き忘れたというのなら、差し替えられた数ページに存在するたくさんのスラーやタイの中に書き忘れがあるのだろうか?自筆譜をどう見ても金管群以外に書き落しなど見られないのではないか?それなら、何故ブルックナーが考えを変更したとは考えなかったのだろうか?
そこで、着目したいのは、左ページの終わりの2小節に付けられた2番テナー・テューバのスラー。これは当然右ページに繋がっていて、対応するスラーがあるべきだ。しかし、そこにはタイはあってもスラーは無い。ブルックナーはスラーを付け忘れたのか?付けるのをやめたのか?とにかく自筆譜上でのこの矛盾はブルックナーのミスと断定せざるを得ない状態なのだ。どちらが正しいか?時系列で考えると、当然第2稿の右ページを優先しないといけないということになる。したがって、ブルックナーが消し忘れた左ページのスラーも削除するのが正しい対応だろう。

ブルックナーは、第1稿にはスラーを付けていたのに、何故第2稿でスラーを付けなかったのか?単なるミスで片付けるのではなく、そのことを問題視すべきだろう。ブルックナーはこのコーダを、より高次元なものとしたかったのではないだろうか?ちょうどマーラーが《第3》フィナーレで弦主題を金管で吹かせたように・・・スラーのある抑揚の付いた歌ではなく、一つ一つが単独の静謐な響きの連続にしたかったのではないだろうか。まあ敢えてそういった意味付けなどをしなくとも、校訂者は「ありのまま」を再現すべきだ。なぜハースやノーヴァクは素直にブルックナーが書いた通りではなく、安易に第1稿や初版の方向(世間の習慣に妥協)へ流れてしまったのだろう?
同様の意味で、56小節のテナー・テューバの2つの4分音符に加えられたカッコつきのスラーは問題である。映像をご覧になればわかるように(54分20秒)ブルックナーはスラーを書いていない。ノーヴァクはVIII/1では自筆譜通りスラーを印刷していない。ところがVIII/2ではハースの解釈をそのまま踏襲してカッコつきのスラーを印刷してしまった。ハースは常識的な初版の対応を良しとしたのだろう。しかし、ノーヴァクの対応は間違いである。VIII/1とVIII/2は同じでなければならないのは明白である。ブルックナーはそこでは何も変えていないのだから。


初版群が当時の演奏習慣や常識に迎合する、あるいは妥協するのは編集方針として当然のことだったろうが、全集版校訂者としは異端的なブルックナーの記譜法をそのまま再現すべきではないだろうか。このスラーのあるなしや、trem.の指示無視などは改善すべきだろう。『32分音符の刻みなど単にトレモロの記譜法の1つである』というのは当時の常識(現代も?)であっても、当時のブルックナーの常識では無かったとの認識を持つべきだ。膨大な自筆資料に星の数ほどもあるtrem.指示、作曲家は必要のないものは書かないものだ。もちろん、それを知ったうえで「trem.指示の無い32分音符」を「トレモロ」として演奏し、それを支持するかどうかは全く別問題である。あくまでも全集版編集者はブルックナーの声をそのまま伝えるだけでよいわけで、どのように演奏するかは演奏現場に任せればよい。スラーの追加やボウイング指示などの変更なども楽譜上でやってしまうのはもってのほかである。それでは初版と同じスタンスに立ってしまうからである。
ノーヴァク以降の校訂者では、コールズの《第九》の印刷譜スコアにメトリーク数を加えたことは賞賛されるべきだろう。メトリーク数とはブルックナーの自筆譜の下端によく表れる小節に付された番号のことである。これはブルックナーでは、小節の縛りを超えた1つの大きな小節的意味合いを持ったカタマリを意味し、要するに小節線と同じようなものと理解されるべきものである。ところが、従来は編集報告などの引用譜に付されるだけで、一般のスコアには表示されなかった。コールズの英断は快挙である。まあ、彼は他に色々と新しいことをやっているが、それらは「どうだかなあ?」という印象を持つものも多
いのだが。

2020・3・01
2021・1・08 フィナーレ補筆
2021・1・15 アダージョ補筆







14、《第五交響曲》のオリジナル・コンセプツ(Original Concepts)

【オリジナル・コンセプツ(Original Concepts)とは?
ブルックナーの創作力が最も旺盛であった1871年から1876年までの6年間には、《第二交響曲》から《第五交響曲》までの巨大な四姉妹交響曲群が相次いで完成された。それらはいずれも完成後、徹底的な修正が加えられたことでもよく知られており、全集版ではそれらのうちのいくつかの異稿が漸次出版されてきた。われわれは、それらの目新しいスコアを見る度に、斬新で壮大な作品の当初の容貌に圧倒され続けたのである。ところが、このことは《第四交響曲》までの3曲に当てはまる話であって、《第五交響曲》については、ブルックナーの死の年(1896年)に出版されたフランツ・シャルクによる、いささか性格の異なる『初版』以外には、1つの形態しか出版されていない。これまで何人もの原典版編集者(ハース、ノーヴァク、シェーンツェラー、コールズ等)がこの曲を出版してきたが、それらは一様にヴィーンのオーストリア国立図書館に完全な姿で現存する唯一の自筆譜(遺贈稿)<Mus.Hs.19.477>に基づいており、各出版譜間の微細な相違は、単純な誤植の修正以外では、この自筆譜の解釈の仕方と自筆譜完成後に書き写された筆写譜へのブルックナーのさらなる書き込みの採否によるものに過ぎない。《第五交響曲》には、他の3人の姉妹達と同じような初期の創作過程を示す異稿の出版は不可能なのであろうか?


【第1稿の存在とその再現の不可能な理由
《第五交響曲》の作曲経緯として、しばしば次のような説明がなされる。ブルックナーは、《第四交響曲》を1874年11月に書き上げた後、しばらくして、1875年2月14日に《第五交響曲》の作曲を開始し、1876年5月16日にそれを一旦完成させた(第1稿)。

続いて、彼は《第三交響曲》の大改訂に転じ、それが一段落した後、もう一度《第五交響曲》に戻り、作品を徹底的に見直した。それは1878年1月4日に、完全に完成された(第2稿)。

ということは、他の3曲と同様に、一旦完成された1876年時点での形態(第1稿)が出版されてしかるべきである。ところが、それは現在残されている資料だけでは不可能なのである。なぜなら、《第三交響曲》の全集版III/1は、第1稿を完成した時点でブルックナーがヴァーグナーに贈った清書された筆写譜、すなわち『バイロイト贈呈譜』の存在によって初めて実現したのであり、《第四交響曲》の場合のIV/1は、ブルックナーが全く新たに第2稿を作ったことにより、第1稿の原稿がそのまま残されたため実現したのである。全曲を全く書き改めるというような行為は、いかに改訂好きのブルックナーといえども、この《ロマンティック交響曲》のみの異例なことなのである(《第一交響曲》も原稿そのものは全く新たに書かれたが、楽想自体はほとんど変わっていない)。改訂は大概の場合、直接自筆譜になされる。それは、ちょうど子供が刻一刻と成長していく姿と似ている。絶えず変化しているのである。そのため、例えば小学校入学時の記念撮影といった、ある時点での全身の姿を写真として固定する必要があり、その写真にあたるものが、その時点での筆写譜の存在である。これがないと、異稿の確定はあり得ないということになる。

残念ながら、《第五交響曲》には、そういった便利な筆写譜は発見されていない。だいたい、筆写譜を作るという行為は演奏のための努力の一つと考えられるのだが、《第五交響曲》に関しては、ブルックナーが何らかの演奏実現へのアクションを起こしたのかについて、伝記を読んでもさっぱり記述が現れてこない。脂ぎったところが全くないのだ。あまりに作品が技巧的なため、門外不出の秘仏のように、『秘蔵曲』として温存されていたとも取れなくもないが、番外の2曲ですら、《ヘ短調交響曲》では筆写譜を作りミュンヘンのラハナーに打診してみたり、《0番交響曲》ではスコア筆写譜のみならず、パート譜まで作成してヴィーンフィルと指揮者デッソフに働きかけをしたりと、演奏に向けての努力を惜しまなかったブルックナーにしては不思議な現象である。

ブルックナー自身がFantastic Symphony(途方もなく上出来な交響曲)と自画自賛した《第五交響曲》が、なぜこのような憂き目に会ったのだろうか。《第三交響曲》や《第四交響曲》の初演がなかなか思うようには実現せず、《第四交響曲》が初演された頃には、演奏への意欲は新作の《第六交響曲》や《第七交響曲》に移ってしまったというタイムラグにより、ブルックナーが《第五交響曲》を売り出す暇がなかったというのが、実際の事情として妥当なところだろう。そして、このことが《第五交響曲》の初期資料が少ないということの大きな原因となったことは疑いのないところである。とにかく、1878年の第2稿完成後には、文部大臣シュトレマイヤーへの献呈譜ほか、いくつかの筆写譜が作られたが、それらは全て第2稿の筆写譜であるから今回の役には立たない。

オリジナル・コンセプツでの代用
第1稿の確定が無理であるならば、直接自筆譜に当たってみるしかない。自筆譜(Mus.Hs.19.477)には、おびただしい数の修正の痕跡が見られる。それらを辿れば初期形態をある程度再現することが出来るのではないか? というのは、ブルックナーの修正は、不要小節にバツを記入している場合(削除される前の姿をそのまま読み取れる)や、取り消す音符や記号をナイフなどで削り取ってその上から新しく修正の音符や記号を記入している場合(削り取る前の形をうっすらと読めたりする)がたいへん多いからである。それらを出来るだけ読み取り、さらには、ブルックナーが自筆稿から差し替えて放棄したフィナーレの21〜23ボーゲン(12ページ分、75小節)が幸いなことにMus.Hs.3162としてオーストリア国立図書館に保存されており、これも使用することによって、できる限りこの交響曲の原初の形を再現しようというのが、今回のオリジナル・コンセプツ(Original Concepts)としての試みなのである。すなわち、《第五交響曲》の「オリジナル・コンセプツ」とは、現時点では資料不足のため再現不可能な第1稿に代わって、ブルックナーの改訂前の足跡を自筆原稿のみから抽出した、いわば「第1稿の代用品」であり、《第九交響曲》のフィナーレのように、その完成には他人の作曲の力を借りざるを得ないケースとは、根本的に性質の異なった取り組みであることを強調しておきたい。


【調性のトリック】
《第五交響曲》の2つの中間楽章には、上述の自筆譜(遺贈稿)の映像がらみで説明したように、テンポに関する奇妙な指示が存在し、いったいそれらが何を意味するのか、理解を困難にしている。ブルックナー自身は何も語っていないし、映像を見ても分からない部分について、私見を交えて彼の周辺状況から探ってみよう。

ブルックナーの《第五交響曲》は変ロ長調である。これまで、ヘ短調、ハ短調、ニ短調そして変ホ長調で交響曲を作曲した彼にとって、変ロ長調は初めての調である。なぜ変ロ長調が選ばれたのか?モーツァルトの《交響曲第5番》は変ロ長調であるし、シューベルトの《交響曲第5番》も変ロ長調であるから、ブルックナーもそれを選んだのか?そうではないと思う。ブルックナーは、ある時期からベートーヴェンの《第9交響曲》を非常に敬愛し、彼の交響曲作曲の手本とした。それは1869年の《ニ短調交響曲》(いわゆる0番)に始まる。これ以降の9曲の交響曲は、全てベートーヴェンの《第9交響曲》の影が大なり小なり宿っているのである。特に《第五》には、それが色濃い。フィナーレの序奏部に前楽章の主題を再現させたのは、まるでベートーヴェンの《第9交響曲》の真似だ。引用の中にスケルツォの主題が再現されないのは不思議だが、それにはネタが存在する。アダージョとスケルツォは1つのものであるという考え方に由来するのだ。

さて、そのようなブルックナーが変ロ長調の交響曲を作曲するとき何を考えたか? 明白に意識したのは、ベートーヴェンの《第9交響曲》のアダージョが変ロ長調であることだ。リバーシブルという言葉がある。洋服なら裏表どちらででも着れるという場合に使う。ベートーヴェンの《第9》が【主調<ニ短調>対アダージョ<変ロ長調>】で出来ているのなら、その逆、すなわちリバーシブルで【主調<変ロ長調>対アダージョ<ニ短調>】で作っちまえという考え方だ。

もう1つのアイデアは、第1楽章の序奏がそのままフィナーレの序奏に繰り返されることである。 ブルックナーは一種の鏡像構造を、そこで実現しようとしたのではないだろうか。そのためにはアダージョとスケルツォも鏡像でなければならない。だから2つの楽章は、同じ動きで始まるのである。

その結果として、多楽章ソナタの2つの中間楽章が同じ調を採るなどという古典派交響曲としては有り得ない調性選択が採られた。ブルックナーでは《第五》以外にアダージョとスケルツォが同じ調の交響曲など存在しないし、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトにもそんな交響曲は無い。100曲以上作ったハイドンには存在するが、それは交響曲形式を確立するまでの多様なチャレンジの1つとして、同じ調の舞曲が連続するバロック組曲との関連で作曲されたに過ぎないのだ。とにかく、中間の2楽章が同じニ短調を採るなどという異常さは、ブルックナーの頭の中で「ベートーヴェンとはリバーシブルにする」との強い考えが頭によぎった証拠であることは疑いないところだ。そうでなければ、伝統の規則に極めて忠実なブルックナーが、そのような珍奇な考えを実行するはずは無いからである。




いくつか存在するブルックナーのアイデアの根源を探ろうとしたのが《オリジナル・コンセプツ》である。もちろんそれは遺贈稿をベースにしているが、第1楽章とアダージョの第1稿は失われたため遺贈稿自体は第2稿に属しており、スケルツォとフィナーレは第1稿自筆譜そのものに膨大な量の修正が加えられたものである。したがって、そこから第1稿を復元することは不可能である。また、《オリジナル・コンセプツ》は、フィナーレの遺贈稿から取り除かれたにも拘らず現存するMus.Hs.3162をも採用した。《オリジナル・コンセプツ》は、特定の1つの稿を提示すのではなく、ブルックナーの当初の想念のいくつかを再現してみようという意図のもとに作られたものである。そのためコンセプト(Concept)を複数のコンセプツ(Concepts)にしているのである。こういった趣旨の《オリジナル・コンセプツ》では、アダージョとスケルツォの当初のテンポの構想の実現をも試みている。すなわち、2つの中間楽章アダージョとスケルツォのスピードを同一にしたのである。つまり、アダージョにおけるアラブレヴェの1拍を(2分音符=48)とし、そこにある三連符の4分音符をスケルツォの1拍(4分音符=144)とすると、同じ速さでもテンポが3倍に速くなる(棒を振る速さが3倍になる)というブルックナー風のリズム感を用いたのである。そのために、アダージョ副次部[B]は自筆譜通り4/4拍子を採り、ゆったりと演奏することを可能にした。スケルツォのテンポ変更を無くすることによってスケルツォ全体を遅くした。これによってアダージョとスケルツォが同じスピードで始まるという、ブルックナーの当初のテンポ観を実現したのである。

【問題点】
実際に自筆稿をチェックすると、あまりの修正箇所の多さに、編集の方向性を見失ってしまうほどであった。もともとの形を判読することの難しさに加え、それらは、単なる書き間違い、最初の書き込みの時点での修正、あるいはその後一定の時間が経過した後の改訂が混在しており、さらには1箇所が二度三度と書き換えられている場合も多々存在する。こういったさまざまな修正跡を、どのように編集に取り入れるかは、たいへん難しい判断となっている。ただ、これらのおびただしい修正の跡を見ると、それらはもちろん改善を意味するものであるには違いないが、もともとあった形も非常に興味深いものであることが分かる。修正前の整然とした姿はある種の純粋さを保持しており、よりブルックナーの生の声を聞く想いがするのは、他の交響曲の初稿を聴く場合と同じである。さらに、自筆譜には根本的な問題点が存在することがわかった。どうも、前半2楽章と後半2楽章が書かれた時期が違うようなのだ。どの楽章にも修正の跡が存在するとはいえ、よく検証してみるとその修正の度合いが全く違うのである。各楽章の終わりにはブルックナーの常として地名、日付およびサインが書かれている(地名はほぼWienであるので省略)。

後半の2つの楽章には:
スケルツォ=1875年4月17日、
トリオ=1875年6月22日、
フィナーレ=1876年5月16日

と書かれているのに対して、前半2楽章では:
第1楽章=1877年7月13日(スケッチ)、1877年8月5日(完成)、1877年8月9日(全く完成) 
アダージョ=1877年8月11日(スケッチ・改良)および1878年1月4日(完成)

と第2稿に属する日付しか書かれていない。ということは、第1楽章とアダージョは、第1稿の原稿(そこには1875,6年の日付が書かれているはず)を捨て、新たに書き換えられたのではないだろうかという疑問が招来する。

実際、スケルツォとフィナーレにはあちこちで、小節数の異同を含め膨大な修正の跡が見られるのに対して、第1楽章とアダージョには、修正も比較的少なく、小節の加除も全くない。たとえば、第1楽章の第2主題の中間部131〜144小節などは、小節が異様に立て込んでいるにもかかわらず修正の跡はない。これは新たな五線紙に書き換えたとき、この部分の小節数を倍くらいに増やしたのにもかかわらず、それから先のページでの転記を容易にするため、わざと詰めて書いてページ合わせをしたのだと解釈するほかないのである。したがって、前半2楽章と後半2楽章では対応の仕方が異なってしまい、前半で修正の元を辿ったとしても、それは結局第2稿の当初の形に過ぎないと見られるのである。こういった落差は、第1楽章とアダージョの最初の自筆稿が発見されない限り解決しようのない問題となっている。

また、フィナーレのボーゲン19(454〜479小節)は、小節割りや修正の度合い、あるいはブルックナーの筆致から見て、明らかに第1稿完成後に差し替えられたものと見られるが、元の原稿はボーゲン21〜23のようには現存しない。このように、自筆稿自体が時期の違う原稿の寄せ集めである以上、原初稿の編集には、限界のあることは明らかである。

【編集の実際】
編集にあたっては、ブルックナーが、バツを書き入れ削除した小節(スケルツォとフィナーレに存在する)は全て復元するとともに、あとから追加した小節はカットした。小節を復元した箇所は、フィナーレについてはMus.Hs.3162を除いても7箇所(合計10小節)に及ぶ。そして、今回カットした小節の中で特に注目されるのは、最後の最後にティンパニを除く全オーケストラがユニゾンでソーミッレドと演奏する《第八交響曲》の終結と全く同工の1小節である。この圧倒的なユニゾンによる 下行が、両曲ともそろって後から考え出されたアイデアであることは興味深い一致といえよう。《第八交響曲》の場合のリズム的不確かさと同様、《第五交響曲》の場合もこの小節のないものに慣れると、この1小節はいかにも取って付けたような異質な効果(後付けあるいは字余り的感覚)であることが理解されるであろう。

元の書き込みを削り取ってその上から修正を加えたものの中で、ハース版とノーヴァク版の相違にまで影響を及ぼしている最も興味を惹く足跡は、スケルツォの14〜16小節とそれに対応する再現部の258〜260小節であろう。ここでブルックナーは、最初各楽器群が小節をずらしながら演奏する楽しさをスコアに書き留めたのだが、改訂で全オーケストラが2小節ごとの整然とした動きになるよう変えてしまった。ところが、そのときブルックナーが唯一訂正し忘れたのが、258〜260小節のヴァイオリンとヴィオラである。ハースは、当初彼の版で自筆譜どおり提示部と再現部で違う形態を印刷したが、後に、これが明らかなブルックナーのミスであることを発見し、手書きで再現部を提示部のとおりに修正し、ずれの小節をなくした。現行のハース版はこの修正された形となっている。ところが、ノーヴァクは、ミスはミスとして、あくまでも自筆譜どおりにすべきであると考えて、それをハースの元の版に戻した(したがって印刷譜では修正の跡がみられない)。どちらを演奏するかは指揮者の判断するところによるが、そのためには何故そうなったのか由来をはっきり理解してから決定がなされるべきだろう。オリジナル・コンセプツでは、もちろんヴァイオリンとヴィオラの個所だけでなく、全ての楽器がずれた当初の形となっている。さらにはXで消されたトロンボーンのための1小節が復元され3小節演奏されるとともに、チェロ・バスだけが1小節残ってずれのだめ押しを行なう。これらはすべて、自筆稿にもともと書かれていた姿である。この部分全体を最初の形に復元すると、現行ノーヴァク版序文に解説されている、このヴァイオリンとヴィオラの不可思議な不一致の本当の原因が理解されるだろう。

ブルックナーは改訂の最終段階(おそらく1877年末)で、当時ヴィーンフィルに初めて導入されたバス・テューバをバス・トロンボーンのパートに書き足した。これは、ブラームスの《第2交響曲》(1877年)と軌を一にした行動である。ブラームスは、以後交響曲にテューバを使うことは二度となかったが、ブルックナーは使用を続け、バス・テューバからコントラ・バステューバへと効果を拡大させた。バス・テューバの導入によりオーケストラの響きは一変する。後期ロマン派風の重厚な味わいが加わり、特にコラール風パッセージでは圧倒的効果が発揮される。当然のことながら、原初稿ではバス・テューバは削除され、この楽器の追加に当たって他の金管楽器に加えられた微調整も出来る限り復元に努めた。

【オリジナル・コンセプツの意義】
まず第一の意義は、《第五交響曲》においても、現在一般に演奏されている「第2稿」の形態は、他の3つの姉妹作と同様に作曲者自身による入念な改訂を経たものであり、資料不足で再現不可能とは言え、「第1稿」が厳然と存在したことを明らかにしたことである。音として聴くことが出来なければ、その存在は無かったも同然であり、従来「第1稿」は全く無視されてきた。オリジナル・コンセプツは、「第1稿」を確定することは出来ないが、再現可能な部分を出来る限り音として確認できるよう、残されている資料から「初期稿」部分を抽出し、1つのヴァージョンとしたものである。これによって、不明の「第1稿」の存在を無視できなくなることは明らかだろう。《第九交響曲》のフィナーレも演奏されてきたからこそその存在を無視できなくなったのであるから。

第二には、先にスケルツォの例をあげたが、トリオなどにも見られる、改訂前の音楽の論理的仕組みが明らかにされることによって、現行の第2稿のスコアに対する見方にも、その精度が増すという効果が挙げられよう。今後の第2稿の演奏においても、この原初稿が参考資料として、より精確な解釈をするための情報源としてさまざまな点で役立つことが期待される。

そして、第三には、最終段階で加えられたバス・テューバは、圧倒的な効果をもたらすとはいえ、もともとバロック風に厳格に構築された《第五交響曲》の音響空間においては、幾分過大な、あるいはバランスを欠いたものに陥る恐れがあるのではないかという問題提起をしたことにある。それは、《第七交響曲》のアダージョでの打楽器追加に似た効果ではないだろうか。特に今回目指しているピリオド奏法によるブルックナー演奏には、改訂以前のバス・テューバがない形の方が相応しいように思える。いわば響きの洗濯といった意味合いをこの原初稿に求めることができよう。

ところで、このヴァージョンの名をオリジナル・コンセプトと単数形にしないで、あえてオリジナル・コンセプツと複数形にしたのは、第1稿を確定できないという意味とともに、自筆稿での、以前の形の追求(それは第1稿以前の作曲段階をも含まざるを得ない)とともに、次項で言及するアダージョとスケルツォのテンポの関係などのように、ブルックナーがもともと構想していたものを多角的に追及しようと意図して作られたものだからである。

【アダージョとスケルツォの連環】
ブルックナーの《第五交響曲》の2つの中間楽章には、強い結びつきが存在する。その謎を追求するのも、オリジナル・コンセプツの目的の一つである。というのは、現在の遺贈稿の2つの楽章は、全く性格の異なった普通のアダージョとスケルツォの方向へとシフトしていった結果が見て取れるからである。元々は、同じ楽章の2つの部分といった関係であったという推論を追求したのが「オリジナル・コンセプツ」なのである。

<<アダージョ>>
アダージョは[A1・B1・A2・B2・A3]というブルックナーお得意の五部形式を採っている。この曲の場合、主部[A]と副次部[B]はリズム的に相当違う音楽である。副次部[B]はどっしりとした4拍子系の音楽であるのに対して、主部[A]は三連符を多用したリズム的に不安定な曲想であり、そこに問題が生じているのである。
ハース版もノーヴァク版も、アダージョに関しては遺贈稿に忠実というわけではない。というのは、ブルックナーが主部[A]にあとから書き加えた、奇妙で、中途半端な、たびたび起こる拍子変更の処理への対応を、両者は放棄しているからである。なぜなら、これらの後からの追加は、不十分で矛盾に満ちているため、印刷譜に表すには、校訂者の加筆修正が必須となるからである。したがって、拍子変更については、両者とも編集報告に記載するにとどめている。では、実際には自筆譜にはどのように記載されているのか、をみてみよう。


(1)[A1]冒頭:全パートにアラブレヴェAlla Breve:<2/2>2分の2拍子=【Cの真ん中に縦棒を加えた拍子記号】が指示されている。2拍子音形と3拍子音形のせめぎあい。アダージョの基本はアラブレヴェで作曲されたのであって、それは1回だけ163小節(主部三現[A3])のところで【C】=4分の4拍子<4/4>に変わるのである。すなわち、[A1・B1・A2・B2]はアラブレヴェ<2/2>で作曲され、[A3]だけが4分の4拍子<4/4>に変わるだけなのである。ハースもノーヴァクもそのように印刷した。ところが遺贈稿はこの状態からさらに変えられているのである。
(2)[A1]23小節:全パート4分の6拍子<6/4>への拍子変更指示。2拍子系音形が無くなったための措置とみられる。ところが連符のための数字<3や6>が消されていない。また、この<6/4>は無理やり後から付け加えられているため非常に窮屈な記載になっている。
(3)[A1]29小節:全パート4分の4拍子C<4/4>へ拍子変更指示。(第二ヴァイオリンとヴィオラも同時に<4/4>に変更されているにもかかわらず三連符記載が残存していてほかのパートと不整合になっている。)音楽は完全に4拍子系の副次部[B1](31小節)に繋がる。副次部は、ハース版やノーヴァク版ではアラブレヴェ(2/2)のはずだが、遺贈稿をそのまま解釈するとC(4/4)に変更されたことになる。
(4)[B1]31小節:拍子変更の指示なし。ハース・ノーヴァクはアラブレヴェの継続のように見えるが、自筆譜上は
4分の4拍子に見える。この[B]部分がテンポの不確実な部分である。ブルックナーはどう考えていたのだろうか?
(5)[A2]71小節:拍子変更の指示なし。ここで音楽は最初に戻るので、拍子も最初のアラブレヴェ(2/2)に戻るはずだが、遺贈稿にはその指示は無い。そのままC(4/4)なのか? アラブレヴェ(2/2)に戻すのを忘れたのか? ハース・ノーヴァクではアラブレヴェの継続で問題無いのだが、自筆譜上は矛盾をきたしている。このミステイクが遺贈稿の現状をそのまま再現できない最大の原因なのである。結局、原典版では追加された拍子変更は無視せざるを得なかったのだ。もし、遺贈稿のこの箇所にアラブレヴェ(2/2)が追加されていれば、ハースもノーヴァクも文句なく拍子変更を採用したであろう。
(6)[A2]75小節:高弦に再び(6/4)が現れる。それに従って続く管の三連符の音形にも(6/4)の指示追加。
(7)[A2]85小節:ここではなんと弦に(12/8)が書かれた。三連符がその半分の音価の六連符主体の音形に変わっているからだろう。しかしそれは(6/4)に訂正された。この一時のアイデアは、続く管楽器にも適用されるが、それらも(6/4)に訂正されている。
(8)[A2]101小節:拍子の混乱は、ここで収束し全てのパートがC(4/4)になる。アラブレヴェ(2/2)には戻らない。そうすると2回目の副次部[B2]107小節以下も、結局4拍子であるということになる。そしてそのまま行けば、主部三現[A3]163小節のC(4/4)は楽典上不要なのだ。なぜこんな矛盾した指示のまま放置されたのか? まあ、他人の追加なら、こんな間抜けたことはしないだろう。


《第五交響曲》をアナリーゼし、ひいては特に解釈の難しいテンポの問題を追求するにあたって、欠くことのできないキーワードが二つある。一つは『ベートーヴェンの《第9交響曲》』であり、いま一つは『対称構造』である。

ブルックナーの交響曲において、ベートーヴェンの《第9交響曲》ほど大きく影響を与えられた作品はない。《0番》以降のブルックナーの全ての交響曲の発想の根源には、例外なくベートーヴェンの《第9交響曲》の存在が見え隠れする。このことは、ブルックナーの約10年間のリンツ時代、リンツの郡特別委員であったモーリツ・フォン・マイフェルトの知己を得たことと深く関わっている。それは、マイフェルトの妻(註)との連弾演奏でベートーヴェンの交響曲群を弾いて楽しんだというところから始まる。マイフェルトが「作曲家として身を立てるのならベートーヴェンの《第9交響曲》のような作品を目指すべきだ」とブルックナーに吹き込んだことはほぼ間違いなく、夫妻の影響で《第9交響曲》に心酔したブルックナーは、この作品をピアノではなく本物のオーケストラで聴きたいと熱望するようになり、ヴィーンの友人に演奏会情報の照会をしたりしている。全精力を交響曲作曲に集中するという生涯変わらない創作態度も、この頃から始まったのである。このことは早速《0番》と呼ばれる《ニ短調交響曲》に色濃く表れる結果となり、この作品以降ベートーヴェンの《第9交響曲》は彼の交響曲創作に欠かせない手本となったのである。したがって、ブルックナーの《0番》以降の交響曲について、その構造やテンポなどを考える上で、ベートーヴェンの《第9交響曲》が思考の根底に影のように常に存在することを忘れてはならない。

《第五交響曲》においていつも指摘されるのが、フィナーレの序奏での前楽章主題の回想である。これはベートーヴェンの《第9交響曲》の引き写しそのものであると揶揄されることすらある。その他にもアダージョやスケルツォの構造は《第9交響曲》を真似たものであるし、全楽章の主題や動機の展開の仕方も《第9交響曲》無くしては考えられない。そういった中で、ここでは特に調性の選択について述べておかなければならない。調性と言えば、《0番》、《第三交響曲》、《第九交響曲》の3曲のニ短調交響曲がベートーヴェンの《第9交響曲》と同じだということで、ベートーヴェンの影響として真っ先に話題にされることが多いが、この交響曲は変ロ長調である。一見《第9交響曲》のニ短調とは関係なさそうな調性だが、ところがどっこい、この変ロ長調というのは《第9交響曲》のアダージョの調性なのである。ブルックナーがこの交響曲の調性に変ロ長調を選んだのは、そもそもベートーヴェンのアダージョが変ロ長調であったから、その調で作曲しようとしたのか、あるいは、たまたま選んだ変ロ長調がそれと一緒であったことをブルックナーが後で気付いのかは定かではないが、ブルックナーはそのことを利用してこの《第五交響曲》の各楽章の調的構成法を確立したことは明らかなのである。すなわち、ブルックナーは両端楽章を変ロ長調にするとともにアダージョとスケルツォをニ短調にしたのである。これはベートーヴェンの《第9交響曲》の調選択(第1楽章・スケルツォ=ニ短調、アダージョ=変ロ長調)とちょうど真逆になる。このことが偶然の産物ではなく、意図されたものであることはブルックナーが《第9交響曲》に傾倒していたことから明らかである。

もう1つのキーワード、時間経過の中で表現される音楽芸術における『対称』という概念は、目に見えるものとは違って、抽象的でとらえどころの難しいものであるが、《第五交響曲》はそのとらえどころのない『対称性』の具現化に果敢にチャレンジした作品である。まず思いつくのは、第1楽章とフィナーレが、全く同じアダージョの序奏音楽での開始されることである。これが、聴く者に『この作品は対称構造を持っている』との印象を強く植え付けることに反対する人は少ないだろう。その他にもフィナーレコーダ近くで、第1楽章主要動機が現れるのも対称的イメージを膨らませる要素としては重要である。さらには、第1楽章の主要動機とフィナーレの第1主題は基幹音の上下の半音を使うという素材の共通性からも作品の対称的印象を強固に裏付けしている。第1楽章55〜58小節(b--des-b-as-<ges--f-e--f-c-f>=基幹音であるf音の上下2つの半音差の音を使っての動機構築(ges→f→e))とフィナーレ34〜35小節(42〜43小節も同じ)<f-f-e-f-ges-ges=第1楽章動機を逆進行(e→f→ ges)>を比較されたい。フィナーレ動機は第1楽章動機を後ろからなぞっていることがお分かりいただけるだろう。(なお、ブルックナーの未完の《第九交響曲》のアダージョも同じ素材【基幹音の上下の半音を使う】から出来ていることは注意を要する)

さて、話は変わって、交響曲全体が3つの楽章で出来上がっている場合、すなわち中間楽章が1つだけなら、対称性において問題は生じない。ところが《第五交響曲》では、中間楽章は通例どおり2つ存在する。そして、それらは当たり前のようにアダージョとスケルツォなのである。対称の中心線、すなわち交響曲の折り返し点は2,3楽章の間となるので、アダージョとスケルツォに何らかの対称的要素(すなわち相似性)を持ち込む必要が出てくる。しかし、全く性格の異なる、テンポの遅いアダージョとテンポの速い諧謔的なスケルツォでは、楽章間対比を強調することは出来ても、相似性を求めるということなど不可能なことである。しかしブルックナーは、こんな全く不可能な前提条件を覆して、そこに作品全体の対称性を実現する斬新なアイデアを創出したのである。

彼の意図を明らかに示す証拠の1つが、アダージョとスケルツォを同一の調(ニ短調=これは上記に述べたようにベートーヴェンの《第9交響曲》の主調でもある)にしたことにある。多楽章ソナタにおいて,このアダージョとスケルツォが同じ調を採るなどということは極めて異例のことである。それはある意味で、多楽章ソナタの存在の根幹を揺るがすものになりかねないからである。中間の2つの楽章は、対比にこそ、その存在意義があるのだから、当然別の調で書かれるべきなのは常識である。ベートーヴェンの交響曲で、緩徐楽章と舞曲楽章(スケルツォを含む)が同一の調性を採るものなど皆無である。その他の作曲家の交響曲でも、そのような調性配置をする曲はきわめて珍しい。もちろんブルックナーもアダージョとスケルツォを同じ調で書くなんて破天荒なことをしたのは、この《第五交響曲》だけである。

そしてもう1つの証拠が、2つの楽章が同じ背景で始まることである。実際DACisDAE/FAGEAA/BAGAFE/DABAGAというアダージョとスケルツォの出だしに演奏される音形は小節割りこそ違え全く同一なのである。これはスコアを見ると一目瞭然である。主題自体はアダージョとスケルツォでは別のものが使われているのに対して、背景が同一であるというところがミソなのである。ところが実際に音楽を聴いてみると、同じものという印象は全く受けない。テンポが違いすぎて、別の音楽としてしか聴こえてこないのである。したがって、このことはブルックナーの頭の中の妄想なのか、あるいは聴衆には届かない楽譜上だけの遊びとしてしか思えないのである。はたしてそうであろうか?

確かにブルックナーは、現実の演奏の上でも、両端楽章と同様、アダージョとスケルツォが同じものとして始まるよう一種のトリックを仕込んだのである。それが何かと言うと、アダージョにおけるアラブレヴェの採用である。
ブルックナーの緩徐楽章においては、4分の4拍子のアダージョが採られるのが通例である(まれに4分の4拍子のアンダンテの場合もある)。2拍子はアダージョには適さないと見られるからである。しかし、ブルックナーは《第五交響曲》において、あえて不適切な2拍子のアラブレヴェを選んだ。その理由は2拍子の3連符で音符を6つ刻むことが出来るからである。
アダージョのテンポ指示はSehr langsam <非常に遅く>であり、スケルツォのテンポ指示はMolto vivace(Schnell)<きわめて生き生きと(速く)>である。これをメトロノーム指示で表記すれば、たとえば
アダージョ:2分音符=52
スケルツォ:4分音符=156
あたりとなるだろう。
この結果、テンポとしては極端に違うこの2つの楽章が、完全に同じ速度(両楽章とも4分音符は1分間に156個演奏される)で背景の音楽が演奏されるという、まさにトリックのようなことが起こるのである。こうして単なる机上だけのものではなく、聴衆に実感できるものとして、2つの中間楽章の相似性が実現されたのである。

そしてこのことから、《第五交響曲》の4つの楽章は完全な対称性を獲得することになる。一度こういったテンポの演奏を聴いてみたいものだ。

(註)マイフェルト(Moritz Edler von Mayfeld 1817〜1908)の妻 ベティ(Betty Edle von Mayfeld 1831〜1908)は、かのクララ・シューマンにも称賛されるほどのピアノの名手であった。ブルックナーが精神病で温泉治療をしていた時、見舞いに来たベティの洋服に付いている飾り玉の数を数えたことが伝記で伝えられている。いわゆる数固執症の実例として挙げられることの多い話だが、女性に対して口下手で、なおかつ療養中で手持無沙汰だったのでそういう挙に出たのかもしれない。とにかく、彼は数えることには普通の人以上に執着したことは確かだが、これら伝記に伝えられるいくつかの事例をもって一種の病気であると即断することは誤りであろう。なお、マイフェルトとの交際はブルックナーがヴィーンへ移住して以降も手紙などにより続く。《第五交響曲》アダージョ作曲中に『敵が多くて油断がならず苦労ばかりのヴィーンへは来なかった方が良かった』などと愚痴の手書きをマイフェルトに送ったりしている。ヴィーンでは、マイフェルトのような親身になって自分のことを考えてくれる友人にはめぐり合えなかったからだろう。





ところで、シャルクの初版にはアラブレヴェはない。4/4、6/4、12/8の3種の拍子記号だけが楽典上矛盾なく使われていて、問題は生じない。[A3]の長い指示も、アラブレヴェが存在しないので当然無意味であり、単にlangsamer(よりゆっくり)となっているだけである。したがって推測でしか語れないのだが、スケルツォとの関係で、ブルックナーは当初アラブレヴェの結構速いテンポで作曲したが、後に考えを変えて、だんだんとより遅いテンポにシフトしていったのに、拍子やテンポの指示をおざなりにしたため矛盾が生じてしまったとしか言えないのではなかろうか。したがって、結果的には初版の指定の方が最終的なブルックナーの考えであったのだと理解せざるを得ないのである。こんな状態だからハースやノーヴァクが原典版で中途半端に初期の考えを提示してみたところで、演奏家たちには自筆譜上でのブルックナーの葛藤など分かるすべもない。それゆえ両版の指示は意図不明と判断されて、結局初版のテンポ指示を追認した形で演奏されてしまうのだろう。また、それは変遷していくブルックナーの考えの行き着く先を表明しているとも言えるのである。それなら、なぜブルックナーは自筆譜上で最後までアラブレヴェの矛盾に固執したのだろうか?スケルツォとの関連という『もともとの構想』を、ブルックナーは最後まで捨てきれなかったのではないだろうか。

<<スケルツォ>>
先に、アダージョではアラブレヴェであることが奇妙であると述べたが、これは拍節法に絡んだ速さの問題であった。スケルツォでも速さの問題は引き継がれ、今度は言葉によるテンポ指示がその対象となる。もちろん、《第四交響曲》「狩りのスケルツォ」中間部のEtwas langsamer, Etwas ruhiger、《第九交響曲》スケルツォ再現部直前の allmählich bewegter 等のテンポを変更する指示は存在するが、これらはソナタ形式の枠から離れた部分での指示であって、ブルックナーの基本ソナタ形式のスケルツォでは、主要な部分ではテンポの変更はない。
ところが、第1主題、第2主題が明瞭に分化したソナタ形式の《第五交響曲》のスケルツォでは、第2主題部分とそれの展開がなされる展開部後半部分にBedeutend langsamer<これまでとはテンポが遅くなったことがはっきり分かるように>との指示されている。確かに、このテンポ差によって、現代の我々が感じているソナタ形式構造にうまく合致するように構成されるようになったが、ブルックナーのスケルツォのソナタ形式構造は、他の交響曲のスケルツォ楽章に見られるような古いスタイルのソナタ形式構造を墨守しているようにみられるので、《第五交響曲》のスケルツォも、元々はテンポ差のない古いスタイルであったと考えられる。その辺のところを自筆譜を見ながら検討してみよう。

(1)1小節(提示部第1主題):Molto vivace (Schnell)<極めて快活に(速く)>。楽章の最初に書かれたテンポ指示だが、アダージョの最初に書かれたSehr langsam<非常にゆっくりと>と対応していて、同時に書かれたもののように見える。それも作品の完成のあとから書き加えられたものではないだろうか。そのすぐ上にかかれたSinfonieと対比して、2つの語の配置や書体の違いからして別の時期に書かれたものであることは確かだ。なお、(Schnell)とSehr langsam はドイツ筆記体で書かれているのに対して、Molto vivace は普通の書体である。ちなみに、シャルクの初版では、アダージョのSehr langsam やスケルツォの(schnell)のようなドイツ語は不採用で、イタリア語のMolto vivace だけが表示されている。
(2)23小節(提示部第2主題):Bedeutend langsamer<これまでとはテンポが遅くなったことがはっきり分かるように>と、ここで突然テンポが遅くなるように指示。これもドイツ語筆記体で書かれている。
(3)47小節(提示部終止部に向かう):ドイツ語筆記体Allmählich wieder ins schnelle Tempo<徐々にもう一度速いテンポへ>と、イタリア語 poco a poco accelerando<徐々に加速する>と2つの言葉で併記されている。ところが、どこで最初のテンポに戻るのかの指示はない。多くの演奏は63小節あたりを終止部分と見て、そこで最初のテンポに戻るようだ。
(4)189小節(展開部後半):ここからは第2主題が主に展開されるので、テンポもBedeutend langsamer<これまでとはテンポが遅くなったことがはっきり分かるように>と指示されている。
(5)245小節(再現部第1主題):テンポも最初に戻り、Schnell wie anfangs<最初の通りに速く>と指示され、以降提示部の時と同様の指示が繰り返される。


異常さといえば、先に自筆譜の映像で見てきたように、緩徐楽章がアラブレヴェ(2/2)であることも他のブルックナーの交響曲には存在しないし(他の交響曲はすべて(4/4)拍子である)、スケルツォが途中でテンポを変えることも異常である。唯一の例外の《狩りのスケルツォ》は内容が標題的であるので中間部でテンポが遅くなるのである。
なお、トリオは別の音楽との意味合いで対比を求めてテンポを変えることが多いが、スケルツォそのもののテンポは常に一定であるのが原則である。

こうした、ブルックナーとしては極めて異常な中間の2つの楽章を、普通の交響曲の概念に合致した、ゆっくりした楽章と速い楽章に変えようとしていることは印刷譜上ではかなり隠蔽されているが、遺贈稿ではその推移の形跡を如実に示しているのである。そこには、ブルックナーがずいぶんとアイデアを変えていったことが生々しく記録
されている。印刷譜を見ただけでは理解できないのである。

 
では、どのようなテンポで演奏すべきか? アダージョについては、答は2つあるように思う。1つは、初版の指定のようなテンポ。多くの実際の演奏がこれに従っているように思う。もう1つは、ハース版、ノーヴァク版の指示をそのまま実現したようなテンポ。最近好まれるスピーディな演奏に適している。ただ、副次部[B]のブルックナー的充足感に欠けるきらいが無いでもない。スケルツォについては、現在の二段変速式以外は無い。アダージョに連関した単一速度の演奏など推測の中でしか語られないように思う


【スケルツォ】
先に、アダージョではアラブレヴェであることが奇妙であると述べたが、これは拍節法に絡んだ速さの問題であった。スケルツォでも速さの問題は引き継がれ、今度は言葉によるテンポ指示がその対象となる。もちろん、《第四》「狩りのスケルツォ」中間部のEtwas langsamer, Etwas ruhiger、《第九》再現部手前のallmählich bewegter等のテンポを変更する指示は存在するが、これらは例外的な措置であって、ブルックナーのスケルツォは基本的にテンポの変更が無いスタイルなのである。ところが、ソナタ形式風の《第五》のスケルツォでは第2主題にあたる部分にBedeutend langsamer<はっきり目立つように遅く>との指示があり、展開部後半もその遅いテンポが適用される。確かに、このテンポの落差はメリハリが利いていて効果的ではある。しかし、テンポの差などもともと無かったのではないかとの疑いが出て来るのも事実である。1小節目に全弦で奏される♪ラミ#ソという4分音符から成る基本リズムは、遅い第2主題の部分でもチェロバスで♪ドソシと同じものが使われている。彼の他のスケルツォなら同じテンポが使われるはずのものだ。ところがテンポの変更は自筆譜の映像にあるように、残念ながらいつそれらが書き加えられたかについて自筆譜から云々することは難しい。消されたものについては形跡が残るが、書き加えられたものについて、その時期を読み取るのは困難だからである。では自筆譜を見てみよう


これらのテンポの変更指示は、ブルックナーの考え方の変更を表していて、元々はテンポの変更など無く作曲し始めたのではないだろうか?



14ー2、検証:《第五交響曲》の2つの中間楽章の自筆譜対照演奏

https://www.youtube.com/watch?v=ZhxH_mtU2Cs&t=1007s

Anton Bruckner - Symphony No. 5 in B-flat major, WAB 105 (1877) - YouTube


《第五交響曲》のオリジナル・コンセプツについては、「項目10」
において詳しく解説しておいたが、ここでは、フランクが彼の《ニ短調交響曲》の第2楽章でしたように、ブルックナーは2つの中間楽章、アダージョとスケルツォを『もともと1つの楽章の第1部と第2部という風に構想した』という推論について、実際の遺贈稿(自筆譜)Mus.Hs.19.477の映像を使って確認してみよう。ただ、フランクのようには2つの楽章を完全に一つに融合させずに、ブルックナーは2つの楽章の形態を保ちながらも、強い関連性を持たせることを追求した。ところが、彼は後に考えを改めて、普通の交響曲のアダージョとスケルツォの状態に変えていこうとしたため、数々の歪みが生じたのである。その辺のところを実際の自筆譜から検証したい。

【アダージョ】
ハース版もノーヴァク版もアダージョに関しては遺贈稿に忠実というわけではない。両者は、ブルックナーが書いた拍子記号アラブレヴェとその奇妙な処理への対応を放棄しているからである。なぜなら、ブルックナー自身のアイデアの変更が中途半端なまま放置され、矛盾を生じさせてしまっているため、変更を印刷譜に再現出来ないのである。拍子変更については、両者とも編集報告に記載するだけにとどめている。それでは実際に映像を見てみよう。



19分04秒[A1]冒頭:アダージョの最初の小節にはアラブレヴェ(2分の2拍子=Cの真ん中に縦棒を加えた記号)の指定がある。本来、作曲当初からの拍子変更は32分40秒の4分の4拍子(C)まで存在しない。すなわち主部三現[A3]までは、元々はずっとアラブレヴェだったということだ。ハースもノーヴァクも、その状態を印刷している。ところが、
20分55秒[A1]23小節:ここで全楽器の拍子を4分の6拍子(6/4)に変えている。音楽の流れが三連符と二連符の交錯から三連符系に統一されたためだろう。しかし、楽章頭のアラブレヴェは最初からの記載であるのに対して、この6/4は無理やりあとから付け加えられたものであることが映像から明瞭に分かる。6拍子になっているのに三連符の3の字が消されていないので楽典上の矛盾を呈しているのもその表れだ。
21分21秒[A1]29小節:今度は音楽のリズムが4拍子に統一されたので、6/4からC(4/4)に変更される。そして音楽は完全に4拍子系の副次部[B1]31小節に繋がる。副次部は、ハース版やノーヴァク版ではアラブレヴェのはずだが、自筆譜をそのまま解釈すると副次部は4/4(C)に変更されたことになる。
25分02秒[A2]71小節:ここで音楽は最初に戻るので、拍子も最初のアラブレヴェに戻るはずだが、そこに拍子変更の指示はない。そのまま4/4なのか? アラブレヴェへの変更を忘れたのか? このことが自筆譜の現状をそのまま再現できない最大の原因なのである。結局、原典版では20分55秒や21分21秒の拍子変更は無視せざるを得ないのだ。もし、自筆譜にこの箇所でアラブレヴェと加筆されていれば、ハースもノーヴァクも拍子記号の変更を採用したのではないだろうか?
25分27秒[A2]75小節:高弦に再び6/4が出る。それに従って続く管の三連符にも6/4の指示。
26分20秒[A2]85小節:なんと弦に12/8が書かれて6/4に訂正されている。8分音符の六連符刻みをリズムの主体にしているため12/8を試したのだろう。それに伴って部分的に管にも同様12/8が書かれているが、結局、それは煩雑すぎると見做されて、弦と同様6/4に訂正されている。

27分30秒[A2]101小節:拍子の混乱は、ここで収束し全てのパートがC(4/4)になる。アラブレヴェには戻らない。そうすると、[B2]107小節も結局4拍子であるということになる。そしてそのまま行けば、32分40秒[A3]163小節のC(4/4)は楽典上不要なのだ。なぜこんな矛盾した指示になったのか? まあ、他人ならそんな間抜けたことはしないだろう。

ところで、シャルクの初版にはアラブレヴェはない。4/4、6/4、12/8の3種の拍子記号だけが楽典上矛盾なく使われていて、問題は生じない。32分40秒[A3]の長い指示も、アラブレヴェが存在しないので当然無意味であり、単にlangsamer(よりゆっくり)となっているだけである。したがって推測でしか語れないのだが、スケルツォとの関係で、ブルックナーは当初アラブレヴェの結構速いテンポで作曲したが、後に考えを変えて、だんだんとより遅いテンポにシフトしていったのに、拍子やテンポの指示をおざなりにしたため矛盾が生じてしまったとしか言えないのではなかろうか。したがって、結果的には初版の指定の方が最終的なブルックナーの考えであったのだと理解せざるを得ないのである。こんな状態だからハースやノーヴァクが原典版で中途半端に初期の考えを提示してみたところで、演奏家たちには自筆譜上でのブルックナーの葛藤など分かるすべもない。それゆえ両版の指示は意図不明と判断されて、結局初版のテンポ指示を追認した形で演奏されてしまうのだろう。また、それは変遷していくブルックナーの考えの行き着く先を表明しているとも言えるのである。それなら、なぜブルックナーは自筆譜上で最後までアラブレヴェの矛盾に固執したのだろうか?スケルツォとの関連という『もともとの構想』を、ブルックナーは最後まで捨てきれなかったのではないだろうか。


【スケルツォ】
先に、アダージョではアラブレヴェであることが奇妙であると述べたが、これは拍節法に絡んだ速さの問題であった。スケルツォでも速さの問題は引き継がれ、今度は言葉によるテンポ指示がその対象となる。もちろん、《第四》「狩りのスケルツォ」中間部のEtwas langsamer, Etwas ruhiger、《第九》再現部手前のallmählich bewegter等のテンポを変更する指示は存在するが、これらは例外的な措置であって、ブルックナーのスケルツォは基本的にテンポの変更が無いスタイルなのである。ところが、ソナタ形式風の《第五》のスケルツォでは第2主題にあたる部分にBedeutend langsamer<はっきり目立つように遅く>との指示があり、展開部後半もその遅いテンポが適用される。確かに、このテンポの落差はメリハリが利いていて効果的ではある。しかし、テンポの差などもともと無かったのではないかとの疑いが出て来るのも事実である。1小節目に全弦で奏される♪ラミ#ソという4分音符から成る基本リズムは、遅い第2主題の部分でもチェロバスで♪ドソシと同じものが使われている。彼の他のスケルツォなら同じテンポが使われるはずのものだ。ところがテンポの変更は自筆譜の映像にあるように、残念ながらいつそれらが書き加えられたかについて自筆譜から云々することは難しい。消されたものについては形跡が残るが、書き加えられたものについて、その時期を読み取るのは困難だからである。では自筆譜を見てみよう

37分39秒ー提示部第1主題1小節:楽章の頭に書かれたMolto vivace(Schnell)<きわめて快活に(速く)>は、アダージョの最初(19分04秒)に書かれたSehr langsam<非常にゆっくりと>と対応していて、作品が書き上げられた後に同時に書き加えられたもののように見える。それは楽譜の他の部分と対比して筆跡が極端に雑であり、アダージョの場合、すぐ上のSinfonieの位置と書体の違いからそのように見えるし、スケルツォの場合は何かを消した上から書かれているように見えるのである。なお、(Schnell)とSehr langasamはドイツ筆記体であることも奇妙である。ちなみにシャルクの初版では、アダージョのSehr langsamやスケルツォの(Schnell)は不採用であり、イタリア語のMolto vivaceだけが表示されている。
37分55秒ー提示部第2主題23小節:突然テンポが変わりBedeutend langsamer<はっきり目立つように遅く>となる。これもドイツ筆記体での後からの書き足しのように見える。
38分22秒ー提示部小終止47小節:ここからテンポを徐々に速めて元のテンポへ戻るように指示されている。映像で分かるようにドイツ語とイタリア語で併記されている。Allmählich wieder ins schnelle Tempo<徐々にもう一度速いテンポへ>、 poco a poco accelerando<徐々に加速する>。ところが、どこから元のテンポなのかの指示は無い。63小節あたりでは元のテンポに戻ってしまう演奏が多いようだ。
40分01秒ー展開部後半189小節:第2主題が展開されるのでBedeutend langsamerと再び指示されている。
41分00秒ー再現部第1主題245小節:提示部最初に戻るので、Schnell wie anfangs<最初の通り速く>と指示され、どんどん書き方が雑になってきているが、第2主題267小節以降も提示部と同様である。


これらのテンポの変更指示は、ブルックナーの考え方の変更を表していて、元々はテンポの変更など無かったのではないかとの疑念が生じる。

2020・3・1
2021・7・7



13、《第七交響曲》の打楽器について

以前はアダージョの絶頂で、ティンパニ、シンバル、トライアングルが派手に打ち鳴らされるべきかどうかについては、版問題の花形として多くのファンの中で様々な議論なされたものであった。未知のもの、あやふやなものに対する興味がその起爆剤になっていたというわけである。ところが最近はあまり話題とはならない。自筆譜がネットで公開され、見ようと思えばだれでも見ることが出来るようになったため、あやふやな秘密のヴェールが取り除かれてしまったことが大きな原因ではないだろうか。研究熱心な自筆譜を見た人にとっては既知のものであるし、それを見ていな人の論などあほらしくてついて行けないといったところだろう。

それでは、何が正しい結論なのか? というと『打楽器が有るのも無いのも両方正しい』である。したがって、この問題は学術的な正邪の断定を求めるものではなくて、単なる個人の好みでしかないということだ。どちらが好きかは、指揮者や聴衆が判断すべきものであって、嫌いな方を『それは間違っている』と誹謗することは避けなければならない。

では、その実態を説明しよう。

自筆譜(遺贈稿):Mus.Hs.19.479(全楽章)<オーストリア国立図書館蔵>の映像

Anton Bruckner - Symphony No. 7 in E major, WAB 107 (1883) - YouTube


まず、自筆の打楽器のパート譜が自筆譜の中に挿み込まれているという事実。なぜそんなことになっているのか? 上記自筆譜映像の34分34秒のところを見てみよう。自筆譜には打楽器を追加して書く場所が無いのである。《第七交響曲》の最初の3つの楽章には18段の五線紙が使われていて、アダージョのようにワーグナー・テューバのための2段を追加してしまうとティンパニさえ書く場所が無いのだ(そのためワーグナー・テューバが再登場するフィナーレでは20段の五線紙が使われている)。すなわち、当初からアダージョでは打楽器は一切使わないということで構想・作曲されたということなのだ。したがって、弟子たちの提案で打楽器を自筆譜本体の中に書き加えようとしても、その場所は無かったので、パート譜という形でスコアに挟み込まざるを得なかったというわけである。残念ながら、この映像には件の紙片は映しこまれていないが、実際はこのページにちゃんと挟み込まれているのである。この紙片にはGilt nicht(無効)と記載されていることも論争の種になった。これも考えてみれば、もしブルックナーが打楽器の追加には不満だったのなら『彼が後世の聴衆のために遺贈した自筆譜の中にそんな紙片などは残さず、取り去ってしまえばよい』わけで、それはいと容易いことだっただろう。とにかく、この紙片はブルックナーが弟子たちの進言をよく聞いたことを証明する一番の証拠物件であることは間違いない。

一方、この交響曲全体を見てみると、彼の他の交響曲と比べてみて、まったく違うコンセプトでティンパニが使われていることにすぐに気づくだろう。第1楽章ではコーダに至るまでティンパニは使われていない。フィナーレにおいてもその使用は抑制されている。この曲では管楽器と弦楽器による純粋な和声進行がメインとなっているのだ。そういう観点から考えるとアダージョでの打楽器追加は全く考えられないものとなる。しかし、この場面での打楽器の効果は圧倒的であるということも確かだ。

ということで、両方とも正当であるということが1つの資料の中で証明されているというわけだ。それでは、我々はどう考えればよいのか? 全集版のほかの曲で複数の形態が出版されているように、それに準じて2つの形態、ハース版とノーヴァク版が並立して存在することを容認せざるを得ないのではないだろうか? これは、打楽器だけの問題ではなく、テンポ指示に関しても2つ存在するということだ。1つの自筆譜から2つの原典版が併存するということは非常に奇妙なことだが・・・これもブルックナーの特殊性といったところか。ただ、この場合編集者の恣意は極力避けなければならないだろう。

2019・3・5




12、ブルックナーとマーラーの発想の違いについて

巨大な交響曲を作ったということで、並び称せられることの多いブルックナーとマーラー、この2人の楽想の練り方、作曲の仕方の傾向が対照的であるように見えるという話。
ブルックナーについては、音楽を創り出すことにおいて、ただ単に音符をこねくり回しただけのように見えるのだ。何かに触発されてメロディーや和音の繋がりを発想し、作品を構築していくのではなく、彼の頭の中には、まず最初に作曲法における「絶対的な型」が存在していて、それに合わせて色んな音をはめ込んでいくといった創作スタイルのように見える。これに対してマーラーは、まず何か具体的な事物や事象が存在していて、それらのイメージから触発されたものを紡ぎあげて音楽を創り出していったように見えるのである。

具体的な代表例を挙げれるとすれば、ブルックナーでは《第八交響曲》の主要動機だろう。ベートーヴェンの《第9交響曲》の第1楽章第1主題という『型』が最初に存在し、そのリズムだけをそのまま借用して、単に音の進行、すなわち高低差だけを変えて「捻くり出した」ものが《第八交響曲》の主要動機なのである。その音の動きと言えは、ベートーヴェンの下行分散和音に対して、全音階に存在する短音程(短2度、短3度、短6度)ばかりを羅列して改造したのである。すなわちこれは、頭の中で閃いたメロディーといったものではなく、単に机上で作曲上の規則などを操作し、そこから気に入った音形や和声を抽出したに過ぎないのである。もちろん、そこには標題的要素は皆無である。ブルックナーはこの主要動機のリズムのみを抽出した音形に対して『死の告知』なり『死の行進』などと標題的解釈を試みているが、それらはあくまでも作曲後の作曲者自身による比喩や感想であって、そういったものを表現しようとして作曲されたわけでは決してない。《第八交響曲》のような『型』、すなわち引用元が判明しているケースではこのことを断定することが出来るが、その他の曲の場合でも、そういった作曲方式を採っていたのではないかと窺わせられるものは、動機案出的にも、音楽形式的にもたくさん存在する。ただ、《第八交響曲》の主要動機はヴァーグナーの『ジークフリート動機』から導かれた「英雄的な行為を表題化したもの」であると主張する人たちも確かに存在する。この作品を標題的に見ようとする人たちに多いように思われる。しかし、それはたまたま似通っているだけであって、そちらを本筋と解釈するのは本末転倒な論だ。実際のところ、ブルックナー自身も既にそのアイデアは感じていて、アダージョの200、204小節では『ジークフリート動機』をそのまま使っているように聴こえる。しかし、これらはリズムがいびつに引き延ばされた主要動機から生み出された変化形の1つであると考えるべきだろう。

一方マーラーでは、気に入った詩や物語、彼の日常の生活から耳に入った音楽的な事象などが彼の発想の根源として常に存在するように見える。そのことを最も如実に表しているのは《第1交響曲》だろう。この曲は、もともと5楽章の交響詩として作られたことはよく知られている。そこには、一貫した物語が存在していたのだ。しかし、彼はそういった状態に満足せず、推敲を重ねて全く標題の無い交響曲に作り変えていったのだ。《花の章》を削除し全4楽章にしたり、第1楽章の提示部に当たる部分を繰り返したり、第4楽章を大改造したりして、いわゆる『型』にはめ込んでいったのだ。改訂された現在の形の交響曲を聴いたとき、人はこの音楽から何を想像しようが、しまいが全く自由なのだが、基となった歌曲の歌詞やマーラーが元々書いていた標題のままに解釈することも可能である。実際のところマーラーはそういったものから楽想を得ていたのは確かなことであって、プログラムノート等にも大きなスペースがそれに割かれることが多い。たとえば、《第1交響曲》の物議を醸しだした第3楽章『葬送行進曲』などは中間部の歌曲引用の意味を考えると、「他人の葬列であると見ていたものが実は自分の葬列であった」との解釈が浮かび上がってくるのだ。そういうものをマーラーは目指したものと思われる。

もちろん逆のケースも皆無ではない。ブルックナーの《第四交響曲》の『狩りのスケルツォ』は、明らかに「狩りの情景」が念頭にあって、そこからイメージを膨らませて作られたものであるし、マーラーの《第3交響曲》冒頭のホルン主題は、ブラームスの《第1交響曲》第4楽章の主題(♪ソドーシドラーソ)の引用であって、それを作品内で様々な音程差に変化させて使っているのは、ブルックナーの手法を真似たやり方なのだろう(♪ミラーソラファード)(♪ソミーレミドーソ)(♪ファーミファミーレ)(♪ソドーシ〈ラソ〉ラーソ)(♪ソレー#ドレドーシ)。

交響曲は基本的には絶対音楽である。いろんな情景や事象を思い浮かべるのは聴く人の自由だが、音楽自体はそういうものを強制していないというのが一般的考え方である。もちろん、絶対音楽が標題音楽より優位であるなんてことは全くなく、そういった御託で優劣を画一的に規定するのではなく、どんな由来であれ、人に感動を与える音楽こそが優れた音楽であることは確かである。ただ、発想の根源が作曲家によってまちまちだということが言いたいだけである。



11、《第七交響曲》のフィナーレのハースのミスについて

《第七交響曲》において、ハースは彼のスコアの中で二つの重要な主張を行なった。一つは、アダージョのクライマックスでの打楽器のための挿入譜を不採用にしたこと。もう一つは、フィナーレにたくさん存在するテンポ変更の指示の一部を不採用にしたことである。これらの問題が生じた原因は、《第七交響曲》の成功を願っていたブルックナーは、演奏や出版にあたって様々な他人の意見を取り入れ、それらを印刷用筆写譜ではなく自筆譜そのものに書き加えたことに起因している。ここで取り上げるフィナーレのテンポ問題も自筆譜を眺めてみるとその様相がはっきりと見て取れ、各スコア編集者の苦労の跡が偲ばれるのである。
スコアを見ると、まず最初に何故このように極端にテンポがころころ変わるのかという疑問にぶち当たる。その理由は、当初ブルックナーはフィナーレをそんなに速いテンポで作曲しなかったからだろう。それは冒頭のテンポ指示 Bewegt, doch nicht schnell(躍動的に、だけれども速く無く)に現れている。アレグロではなくて、躍動するアダージョといったイメージだ。しかし、普通の交響曲の終楽章のように、速いテンポにして聴き易くしたいという弟子たちの要望に応えて様々に検討した結果、アレグロのテンポ感覚の方にどんどん推移していき、元のテンポに戻したい重々しい場面について、自筆譜にテンポをゆっくりに変更する指示を書き加えていったのだ。そのため自筆譜の指示すべてに従うと、まるでジェットコースターに乗っているような雰囲気になってしまい、逆にアレグロのスムーズなテンポ感が損なわれるという結果を招いてしまって、原典版編集者たちを悩ませることになったのである。

ハース版フィナーレのスコア

Anton Bruckner - Symphony No.7 in E Major, - IV. Finale. (Audio + Score). - YouTube


自筆譜(遺贈稿):Mus.Hs.19.479(全楽章)<オーストリア国立図書館蔵>の映像

Anton Bruckner - Symphony No. 7 in E major, WAB 107 (1883) - YouTube


フィナーレのテンポに関する指示は冒頭を含めて25箇所に達する。それらは3つに分類することが出来よう。まず第1に、冒頭のBewegt, doch nicht schnellを含めたドイツ語の指示で、あまり上手でないドイツ語筆記体で書かれたもの。これは7箇所存在する。第2に、鉛筆で書かれた指示の上からペンでなぞる、すなわち二重書きされた指示。これは<ritard ー a tempo>とペアで書かれることが多く16箇所に及ぶ。映像の中で最初に見られるのは49分03秒のritardとa tempoである。49分15秒の映像の方がはっきりと二重書きが見て取れる。54分29秒の映像などは太い字で明瞭に二重に書かれていて他の指示とは完全に屹立していることが分かる。第3には、分類の難しい2箇所である。二重書きは一見してすぐわかるので、出版のための最終的調整であるとみなして削除するという方針は編集者の態度としては立派な見識のもとに行なわれた処理と言えるだろう。

ハース版(全集版第1版)では、二重書きをほぼ削除しながらも、それに固執しているわけではない。ハースのテンポに関する指示は25箇所中9箇所に過ぎず、展開部の始まり、53分36秒からの一連の指示 ruhig ー a tempo ー ruhig ー nur ruhig bewegt ー<ritard ー a tempo> のすべてを削除してしまった。映像を確認していただきたい。最後の<ritard ーa tempo>は二重書きなので当然方針通り削除すべきだろうが、それ以外の指示については楽章頭のテンポ指示と同様のドイツ語筆記体でサラッと書かれているだけで削除には該当しないはずなのに消されてしまっている。完成後の追加記載との証拠でもあったのだろうか? 逆に、コーダ前、59分16秒の<Langsam ー a tempo>は、これらが明瞭な二重書きであるにも拘わらず印刷されているのだ。ハースは、この Langsam は ritard の場合とは性格が異なるテンポ指示であると見做したのだろう。しかし、もしそうであるなら、その考えは逆である。この Langsam は ritard の音形を譜面上で音価を2倍にしたに過ぎないのだから、削除するのなら両方ともするのが筋というものだ。要するに Langsam は屋上屋の指示なのである。

このような不徹底な編集態度になったのは、ハースが感じているこの楽章に対するイメージに沿って指示の取捨選択が『恣意的』に行なわれたと理解するほかなさそうだ。しかし、原典版を標榜する版が指示の取捨選択をする場合は、はっきりとした根拠に沿ってなされなければ万人が納得しない。この映像、Mus.Hs.19.479(遺贈稿)が《第七交響曲》の唯一の資料であり、その中に何らかの手掛かりが存在してこそ取捨選択が可能というわけで、その根拠が二重書きということなら、それらは一様に扱われなければならないだろう。そこに差をつけるということは編集者の恣意と断定せざるを得ないのである。そして、これは構造的にも問題を引き起こすこととなってしまった。コーダの最初に a tempo が印刷された結果、『コーダは楽章頭と同じテンポ』ということが作曲家の指定であると見做されてしまうのだ。しかし、本来のコーダのテンポはホルンの段に記されたfeierlich (荘重に)だけしかないとしたら、『コーダ全体をfeierlichのテンポ』で演奏すべきという解釈も成り立つのではないだろうか。ハースの恣意的な選択が、かえって解釈の幅を狭めているという結果につながったのではないだろうか。これが「ハースがミスを犯した」という本稿の論点の趣旨である。

実際のところ、この自筆譜映像の音楽はハイティンク指揮だが、コーダで一旦テンポを緩め、そこからアッチェレランドをして、インテンポにもっていくというスタイルを採っている。それは多分にハースの解釈『コーダはア・テンポ』に影響されたものだと思われるのである。もし<Langsam ー a tempo>が削除されていれば、コーダ全体が一定のテンポ feierlich で壮大に演奏するという解釈も可能になったのではなかろうか?

一方、ノーヴァク版(全集版第2版)の方はどうかというと、記載されているテンポに関する指示25箇所は全て印刷する方針のようだ。そして、序文では「ブルックナーの指示で他人が書き加えたもの」として角カッコが加えられた。その角カッコの付いた指示は、おおむね二重書きの箇所と一致する(二重書きではない箇所にも角カッコが見られるが)。ここで注目すべきは、例の<Langsam ー a tempo>である。ノーヴァクはここでも角カッコを加えた。すなわち、ハースの処理が怪しいことは、自筆譜を見ずとも両版の比較対照で、すでに推測が付いていたのである。

ところが2003年に全集版の第3版が出版されたとき、カッコのつけ方の方針が逆の方向に変えられてしまった。二重書きの箇所は正当なブルックナーの意思と見做され全て角カッコは外されてしまったのである。そして、そのほかの箇所に角カッコが付されたのである。したがって、コーダ直前の<Langsam ー a tempo>もカッコが外されてしまった。ハースが全て削除した111〜2ページの指示も、ノーヴァクは全て角カッコを付けて採用していたが、第3版では 〔ruhig〕 ー a tempo ー〔ruhig〕 ー 〔nur ruhig bewegt〕 ー ritard ー a tempo となっている。この版の角カッコを付ける原則はいったい何に由来するのだろうか? 編集報告にはその根拠が示されているのだろうか?

初版では自筆譜よりさらに多くの指示が付け加えられている。たとえば、101小節[G]のところにはBreiter(幅広く)が指示されており、楽章全体の指示からすると、ここにもその指示がありそうな感じはする。その他にも、自筆譜に書き込まれた指示に類する指示がところどころに追加されているのを見ることが出来る。自筆譜より徹底しているのである。

翻って自筆譜の方を見てみると、299小節[Y]の前後(58分50秒から)には<ritard ーa tempo>のセットが鉛筆のみで書かれ上からペン書きが無い状態、すなわち二重書きが中途半端に頓挫している状態を示している。もちろんこれはどの版にも採用されていない。そうかと言うと、115ー7小節[I](52分43秒)のような同じ音形で提示部の最後を飾るような重要な場面であるのに<ritard ーa tempo>の影も形もないケースも存在する。

以上の状況を勘案して、以下は私見だが、全集版では冒頭のBewegt, doch nicht schnell以外のテンポに関する指示は全部削除してしまい、残る24箇所の指示は編集報告か脚注に掲載するにとどめるのが良いのではないかと思う。キビキビしたアダージョなのか、ポロネーズのようなアレグロなのか、はたまたテンポが伸び縮みする演奏なのかの選択は指揮者に任せるのが良いのではないだろうか。いずれもブルックナーが認めた形なのだから。



2010年6月10日
2021年7月7日増補






10、《第五交響曲》のオリジナル・コンセプツとは?

ブルックナーの《第五交響曲》オリジナル・コンセプツ版(Original Concepts Version)は、私がヴィーンのオーストリア国立図書館から自筆譜のコピーを取り寄せ、約1年かけて制作したものです。これは、2008年に内藤彰指揮東京ニューシティ管弦楽団により初演され、さらに翌年2009年にはデルタ・エンタープライズからCDが発売されており、関係者の方々の献身的なお力で多くの聴衆の皆様にお聴きいただくことができて、編集者としてたいへんありがたく、深く感謝しています。ただ、これにはオリジナル・コンセプツという耳慣れないタイトルが付いているため、それがいったいどのような内容なのか?何を意味するのか?という質問や、そもそも、オリジナル・コンセプツなるものの存在が必要なものなのか?演奏されるべきものなのか?といった疑問が呈されていることも事実であり、編集者としての説明不足の思いを痛感しています。発表して1年を経過した現在、ここでそれらのうちのいくつかについて回答を試みてみましょう。

ブルックナーの交響曲やミサ曲は、それぞれの作品が1つの確定した形態で知られ、演奏されるのではなく、それぞれが等価値な複数の形態で研究され享受されるべきものであるということは、すでにブルックナー学者達の間では常識化された概念であり、全集版においても複数のヴァージョンがなんら優劣の指定なく並列出版されていることからも、それは裏付けられています。その一方で《第五交響曲》については、CD解説者や評論家たちには『唯一の自筆稿』すなわちブルックナーの死の直後に彼の遺言によってオーストリア国立図書館(当時の帝室・王室図書館)へ遺贈された自筆稿群の一環をなす『遺贈稿Mus.Hs.19.477』と、これに基づいて校訂・出版された、ほとんど同一のハース版とノーヴァク版しか視野に入ってないのが現状で、異稿の問題は存在しないというのが一般的認識となっています。ところが事実は《第五交響曲》にも他の3曲の姉妹作(《第二》《第三》《第四》)と同様、複雑な創作過程から生じた多様な形態が存在しており、その一端の公表を目指したものがオリジナル・コンセプツなのです。ここでは、この聞き慣れない名称によって提示された版がいかなるものかについて質問形式で説明していきましょう。


【なぜ第1稿ではなくてオリジナル・コンセプツなのか?】
《第五交響曲》は、第1稿の状態のままの自筆譜も筆写譜も現存していない。
すなわち、第1稿完成時の自筆譜は、後半の2つの楽章は第2稿に転用され、その原稿上に膨大な修正が施されており、前半の2つの楽章は行方不明である。また、第1稿時点での筆写譜は、部分、全体とも発見されていない。したがって、正確な第1稿の再現は不可能である。もし、第1稿時点での完全な筆写譜などが残っていれば、《第三交響曲》第1稿(III/1)のように、とうの昔に第1稿が《第五交響曲》V/1として全集版で出版されてしまっていただろう。
そのため、残されている資料のみから、出来るだけ原初の形を復元しようとの意図によって作成されたスコアがオリジナル・コンセプツなのである。すなわち、一種の次善の策として作成されたものであるから、第1稿という名称ではなく、各交響曲の第1稿群とは一線を画したオリジナル・コンセプツ(当初の構想を現行スコアに組み入れるという意味)として公表されたのである。
一方、これは《第九交響曲》フィナーレの完成版のような「作曲手法の導入」が必須なものでも、マルテの《第三交響曲》の合成版のような各稿の「良いとこ取り」でも決してない。全ては現存する自筆譜の読み込みによって作成されたものである。このため将来的には、自筆譜修正時期の確定(第1稿完成以前の修正か完成後の修正かの判定)、誤読の修正あるいは新資料の発見によって、修正・精度アップが図られる可能性は否定できない。


【以前にオリジナル・コンセプツに似た取り組みはあったのか?】
こういった試みは、これまで絶無であったというわけではない。1935年に旧全集で、従来のスコア(シャルク編の初版)とは全く違った形を有するスコアと編集報告がロベルト・ハースによって出版されて以来、その編集報告に印刷され紹介されている断片別稿の存在が知られることとなった。オーストリア国立図書館保存のMus.Hs.3162(3ボーゲン=12ページ)である。これは、現行のフィナーレの502〜570小節の69小節にあたり、73小節(小節繰り返し指示のある2小節を加えると都合75小節となる)を有しており、ブルックナーが改作のため3枚の五線紙を差し替えたもので、いわば「ごみ」なのであるが、それがたまたま捨てられずに残されているのである。コアなファンのあいだでは、このハースが編集報告で印刷化した別形を生の音で聴きたいという密かな思いが高まっていった。そして、ついに堤俊作指揮俊友会管弦楽団が1997年1月19日に東京芸術劇場で本邦初演を行なったのである(あわせて私家版CDも作成されたので、バーキー氏のディスコグラフィーにも掲載されている)。ところで、このときは全体としてはバス・テューバを含む普通の原典版が使用され、差し替えによって取り除かれた別稿部分だけを現行第2稿に挿入するという、いわば逆差替えという形で演奏されたので、バス・テューバのないこの旧稿部分においても、他の部分とのバランスを保つため、ウイリアム・キャラガンがバス・テューバを加えて補正した楽譜が使われた。すなわち草稿そのままが使われたわけではなかったのだ。もちろん、作品全体からバス・テューバを削除してバランスを取るという別稿優先案も検討されたではあろうが、ブルックナーは第1稿の状態にバス・テューバを単純に加えたのではなく、第2稿のための様々な改訂の中でバス・テューバを加えたのであるから、バス・テューバを取り除くだけでは両稿混合という不整合が生じてしまう。そのため、逆に別稿には無いバス・テューバを加えるという簡易的措置を採用することによって便宜的にバランスを保たせたのだろう。


【なぜブルックナーでは以前の稿がたくさん残っているのか?】
ブラームスは作品を改訂した場合、以前の原稿は廃棄したと言われている。珍しく《第1交響曲》アンダンテ楽章の旧稿が残っているのは、一度演奏してしまったためパート譜がオーケストラに残ってしまい、それをブラームスが回収しきれなかったことが原因である。ブラームスにとっては不本意なことだったろう。ブラームスは、最終的な唯一な形態だけが残ればよく、それ以外は単なる作曲過程に過ぎないので人目にさらすべきではないという考えだったのだろう。おおかたの作曲家も同じ考えだと思う。しかし、ブルックナーはそうではなさそうだ。彼は、几帳面に一度書いたものはたとえ書き換えたとしても以前の形を残しておく主義だったのだ。そういう風にして保管している手持ちの旧稿を他人に与えたりもしている。彼にとってはそれらは単なる作曲過程ではないのだ。書かれた原稿全てが記録されるものとして価値があるものとブルックナーは考えていたようだ。したがってそれらがもし演奏されたとしても恥ずかしいものだなどとは思っていなかったに違いない。


【第1稿と第2稿の間は約1年にすぎず、連続した1つの作曲過程と考えることはできないのか?】
たとえば、《第四交響曲》のフィナーレは1878年の秋に第2稿が完成された<フィナーレ2>(zuIV/2)。しかし、その後直ちに再改訂され、1880年に単独の<フィナーレ3>が出来あがった。現在では1878年のフィナーレ以外の3つの楽章と1880年の<フィナーレ3>が合体した形で演奏されることが殆どである(IV/2:1878/80version)。要するに、2つの別稿として分けなければならないのは、時間の経過の長さではなく、その内容の違いによるのである。《第五交響曲》第1稿の重要な部分を構成するはずの、第1楽章とアダージョの原稿が失われているので、本来の第1稿の全貌は未知のため、一般には《第五交響曲》は1つの形態のみであると理解されているのが現状なのである。そういった状態を打破し、正確な稿の概念を構築するためにもオリジナル・コンセプツの存在は現状の資料状況下では、やむを得ない次善の策であろうと思われる。


【ブルックナーはこの曲について、なぜ演奏のための努力をしなかったのか?】
第1稿完成の時点(1876年)では《第三交響曲》や《第四交響曲》の初演が遅れ、それらの演奏への努力に集中していたため筆写譜すら作られなかったとみられるが、そのほかに考えられることは《第五交響曲》自体、音楽内容があまりにも技巧的過ぎ、斬新過ぎるため、聴衆にとって難解だろうという意識がブルックナー自身や周りの支持者たちの共通認識として存在していたからかも知れない。実際のところ1878年の第2稿完成後においても、順番的に見て本来初演されてよさそうな機会、すなわち、ブルックナー作品が取り上げられた1883年のヴィーンフィルの定期演奏会では《第五交響曲》を飛ばして《第六交響曲》の2つの中間楽章が演奏されている。《第五交響曲》は、1887年に2台のピアノによる演奏が1回行なわれただけで、オーケストラ演奏は1894年まで行なわれなかった。そこで、シャルクが徹底的改訂を行なったのも、この作品が難解であるという共通認識を踏まえてのものだったことは、容易に推測出来よう。


【なぜそのような中途半端なものを公表する必要があるのか?】
(1)聴いてもらえなければ認知されない:《第五交響曲》においても、現在一般に演奏されている「第2稿」の形態は、他の3つの姉妹作と同様に作曲者自身による入念な改訂を経たものであり、資料不足で再現不可能とは言え、「第1稿」が厳然と存在したことを明らかにしたことである。音として聴くことが出来なければ、その存在は無かったも同然であり、従来「第1稿」は全く無視されてきた。オリジナル・コンセプツは、「第1稿」を確定することは出来ないが、再現可能な部分を出来る限り音として確認できるよう、残されている資料から「初期稿」部分を抽出し、1つのヴァージョンとしたものである。これによって、現在不明の「第1稿」の存在が無視されなくなることは明らかだ。《第九交響曲》のフィナーレも頻繁に演奏されてきたからこそ、現在その存在が無視されなくなったのである。
(2)当初の構想を知ることが出来る:アダージョやスケルツォ、さらにはトリオにも見られる、改訂前の音楽の論理的仕組みが明らかにされることによって、現行の第2稿のスコアに対する視点が変わり、その精度が増すという効果が挙げられる。今後の原典版の演奏において、ハース版やノーヴァク版に含まれる意味不明な指示の解釈に、一方的にシャルク版的構想を敷衍するだけではなく、オリジナル・コンセプツを参考資料として加えることによって、より精確で広範囲な解釈をするために役立つことが期待される。
(3)バス・テューバ追加問題に対する1つの解答:改訂の最終段階で加えられたバス・テューバは圧倒的な効果をもたらすとはいえ、もともとバロック風に厳格に構築された《第五交響曲》の音響空間においては、幾分過大な、あるいはバランスを欠いたものに陥る恐れがあるのではないかという問題提起をしたことにある。それは、《第七交響曲》のアダージョでの打楽器追加に似た過剰な効果ではないだろうか。いわば響きの洗濯といった意味合いをこのオリジナル・コンセプツに求めることが出来るのである。

ブルックナーの交響曲群の中央に聳え立つ巨峰として認められている《第五交響曲》の第1稿と第2稿の間というのは、ブルックナーの創作活動のちょうど折り返し地点にあたり、彼の交響曲創作活動の経過や発展を知る上で、また、彼特有の改訂問題の全貌を正確に把握する上で、この欠落は非常に大きな影響を与えている。いわば『画竜点睛を欠く』といった状況なのである。
《第九交響曲》のフィナーレは、最近でこそ時々演奏されるが、2,30年前までは全く演奏されなかった。その頃世の中では、ほぼ《第九交響曲》にはフィナーレはないものとすら考えられていた(評論家の中にはマーラーのようなアダージョフィナーレと認識していた人もいたようだ)。すでに、戦前にオーレルは詳細なフィナーレの研究を発表し、可能な限りの部分のスコアを公表していたにも拘わらずである。ブルックナーの楽譜の問題への認識、《第五交響曲》の作品の真価に対する認識を変えるためには、やはり、何はともあれ演奏され、誰もがCDで聴くことが出来るようにならなければならないと私は痛切に感じている。それが公表に至った最大の理由であると言えよう。

【そもそも最終的形態以外は単なる作曲過程ではないのか?すなわち、最終意思こそがもっとも重要で、それこそが演奏に値するものではないか?】
一般的にはそうである。ベートーヴェンにしてもマーラーにしても、版の研究と新版の出版は『これこそがベートーヴェン(マーラー)の最終意思を的確に表すものである』との主張を楽譜として具現化しようとすることを目的としていると言って過言ではないだろう。そして、最終意思が学問的にも確定されてしまえば、以前の形態は、たとえそれが作曲者の自筆稿であっても、顧みられることはない。しかし、ブルックナーの場合は違う。常識的に考えてみれば非常に奇妙な話だが、遡れば戦前の原典版論争以来数限りなく連綿と続けられてきた議論の、それは根幹の1つなのである。そしてその結論は、全集版での複数稿並列提示によって示されているとおり、ブルックナーにおいては『最終決定稿を求める(あるいは極端な場合最終決定稿を作りだす)ことは不可能なことであり、無意味なことなのだ』ということである。かつては普通一般に演奏される稿以外の稿を使って演奏した場合、無視されるかトンデモ版としてキワモノ的な目で見られるのがオチであったが、全集版の結論としての複数稿並列出版が定着して以来10年、20年経過した現在では、実践の場における指揮者の版の選択においても、受容の場における聴衆の好みにおいても、各稿は並立した平等なものであるとの認識が常識化するに至った。したがって、今ここで一般論を持ち出しても、ブルックナーの特殊性に対する無知としてかたずけられるに過ぎないのである。

とはいえ、なぜブルックナーだけが特殊なのか?という疑問に納得できる説明がなされない限り、上記の結論を容認できない人は出てくるだろう。
チャイコフスキーにも、改訂の問題はブルックナーと同じように存在する。それは些細な校訂上の問題だけではない。いくつかの作品では相当内容の違う異稿の存在が知られている。例えば彼の《第2交響曲『ウクライナ』=『小ロシア』》の第1楽章など、ブルックナーも顔負けの徹底的な改作がなされている。主題材料はほぼ同じでも、形式が全く異なるのである。しかし、ブルックナーのようには問題視されない。なぜなら、最終決定稿がすべての面で優れているから、異稿は単なる異稿に過ぎず並立しようがないからである。また、《白鳥の湖》には、チャイコフスキーの死後マリウス・プティパの要請でリカルド・ドリゴによって原作と相当違う「プティパ=イワノフ版」が作られた。この版は、今日のバレエ上演の基礎となっているので、さまざまなその後の舞踊版に合わせて音楽自体も「プテイパ=イワノフ版」からさらに手が加えられて演奏されることが多い。しかし、ここでもブルックナーにおける弟子の介入のような複雑な問題は起こらない。なぜなら、音楽的には《白鳥の湖》は原作のみであって、他人の編作は全く次元の違うものとして捉えられているからである。

では、ブルックナーの音楽が最終意思の決定を許さない理由とは何なのか?
改作や改訂は、チャイコフスキーの例のとおり、作品の出来に不満を感じて、それをより良い状態に変えようという作曲家の欲求から生じるものである。ブルックナーの場合も、彼の改訂の大半はそういった欲求から生まれたものであることには変わらない。ただ彼の場合、そうでない要素もそこに絡んで来るところに問題が生じる余地が存在するのである。ブルックナーの改訂は、当然チャイコフスキーの改訂と同じ意図をもってなされたものが大部分だが、それらには一部疑念も含まれるのである。その疑念とは、一つには彼自身の『表現についての妥協』でなされ、もう一つは『支持者や弟子たちの助言』によってなされたのではないかというものである。この2つの要素は複雑に絡み合っており、真の改善と区別がつかない場合すら存在するし、音楽的には逆の方向へ改訂される場合も生じてくるのである。
そもそも、ブルックナーのオーケストレイションは、ベートーヴェンが確立したと言える標準二管編成をもっとも効率よく響かせられるような非常に熟達したものである。それにも拘わらず、彼の音楽はある種『脳内音楽』的な要素をも併せ持っている。言い換えれば、ブルックナーのスコアは、音楽を媒介する演奏者本意に書かれたものではなく、直接聴衆のために書かれたものと言えるかもしれない。変な話だが、ブルックナーの交響曲とは、作曲者の意向を、演奏を介さず、直接スコアによって聴衆に伝えようという、前代未聞の試みであるとも言えるのである。その結果、演奏者(指揮者)からの介入はほとんど必然であったというわけである。ありていに言えば、彼のスコアではオーケストラのさまざまな楽器たちは万能なのである。いろんな楽器特有の事情などには配慮を示さない厳しさが存在するのである。結果、演奏者側から見た改善策はほとんど有効なのである。完全な楽器などは存在しないのだから・・・また、それらの改善は技術的には改善であっても、本来のブルックナーの音楽を表現するという観点に立てば、作品を損なう結果ともなってしまうのである。両刃の剣と言ったところか。



最後に、とあるところに書かれていた、批判文章に私なりの反論を述べておくことにする。これは、残念なことにと言うか、優しさに溢れてと言うか、オリジナル・コンセプツそのものへの批判ではなく、異稿全般に対する拒否反応あるいは《第五交響曲》の第1稿そのものに対する否定的見解を述べたに過ぎないように見える。要するに版問題の外側を撫でただけであって、上記の私の解説を読まれると、もっとシヴィアな批判が現れるかも知れないが・・・・・

*これはブルックナー自身がその後推敲を加えたため世に出さなかった稿だよ→世に出た(演奏や出版として)かどうかは、その時の偶然による。協力者がいたとか、とりあえず出版資金が調達できたとか・・・・。

*つまり作曲者自身が納得できなくて修正する前のプロトタイプ(prototype=原型)なわけで→ブルックナーの自筆稿は、極端に言えば全て演奏家にとってはプロトタイプである。

*1876年稿の存在はノーヴァク版の校訂報告で触れられているが→校訂報告による第1稿の紹介は、手紙による資料や、自筆譜に書き込まれた日付くらいで、内容については全く述べられていない。なお、ノーヴァクの校訂報告はハースの校訂報告(遺贈稿の内容分析他、一部の容易に読める削除部分、残された初期のスケッチなどなどを含む)に筆写譜情報やその他の情報を補足したものである。

*この稿ではブルックナーが初演を承諾しておらず不完全なものとみなしていたと判断している→伝記上、演奏を承諾しなかったというケースは、唯一ヴィーンフィルが《第七交響曲》の演奏を提案したときだけである。 演奏を実現するということは非常にエネルギーを要するものであり、たまたま演奏の機会を見つけられなかっただけである。

*そんなものを演奏して録音してもせいぜい資料的価値しかないし→少なくとも、資料的価値は存在するということであり、そこからはブルックナーの原初の意図の多くを学ぶことが出来るのである。

*少なくとも作曲者の最終意思を反映していないことは確か→一般的な作曲家の最終意思なるものが、はたしてブルックナーに存在するものなのか?彼の場合は、彼自身の内なる改善の欲求や演奏実現への願望、そして他人からの改善の要請が果てしなく続き、最終稿なる決定的な形態が存在し得ること自体が疑問である。それは彼の在世時出版された初版群への評価と疑問にも及ぶ問題である。

*ブルックナーだって出来が悪いと思って書き直したラブレターの原型を 勝手に公表されたようなもので激しく恥ずかしいだけだと思うのだが→ブルックナーの資質から見て、残された異稿を演奏されたとして、それを恥ずかしいことだとは決して思わなかっただろう。この曲に限らず、ブルックナーは多くの初期稿を破棄せず残していることからも、それらが演奏されることに苦痛を感じることはなかったと思う。

以上の異論については全て一般的なブルックナーの異稿に対する一つの見解としか思えず、オリジナル・コンセプツそのものの内容に対するものは一つもない。もちろん聴いたことがないからこそ批判ができるのだが。それは、演奏を聴いたこともない指揮者について、その演奏を批判するのと全く同じような種類の無意味なものとも思えるのだが、いかがなものか?



2010.4.4
2017・6・28 加筆





9、シューベルトとブルックナー

 オーストリアが生んだ2人の天才作曲家、シューベルトとブルックナーには共通の音楽的土壌とそれに対して対照的な個人的性格を指摘されることが多いですね。今回はそのことについてちょっと触れてみましょう。
 
 ブルックナーの解説書を読むと、ブルックナーに最も近い作曲家としてシューベルトの名が挙げられることが多いですね。実際この2人は特に転調の天才的なうまさにみられるように和声を重要視して作曲したこと、そして音楽の有機的緊密さよりも形式的整合性を優先させた(冗長と非難される最大の原因)ことでも共通しています。たとえばシューベルトの《弦楽四重奏曲第15番ト長調》とか《弦楽五重奏曲ハ長調》にはこれらの特徴が最大限発揮されており、ブルックナーのような作品として解説されることも多いし、シューベルトがもっと長生きしていたらブルックナーのような交響曲を書いたに違いないと推測する評論家もいます。このような類似性はどこから来たのでしょうか?

 シューベルト(1797〜1828)とブルックナー(1824〜1896)は、ちょうど一世代の違いがあります。実際、ブルックナーの父アントン(1791〜1837)はシューベルトとほとんど同世代だというわけです。しかし2人の育った環境、すなわち、ヴィーン近郊とリンツの片田舎ということを勘案すれば、逆にブルックナーの方がより古風であったといえるかも知れません。この2人の作曲家の家業が、くしくも共通した教師の家柄であったことがここでのポイントになります。

 バッハやモーツァルトやベートーヴェンは音楽を家業としていた家に生まれました。彼等の家族は基本的には貴族や教会に寄生することが生業であったわけで、モーツァルトやベートーヴェンはそこから脱却し、芸術家として自立することを志し成果を上げたわけですが、そういう努力をせざるを得なかったというところに、彼等は基本的には旧体制に属していたと言えるのでしょう。一方、シューベルトやブルックナーの生まれは、いわば一般市民の中の指導的な階層とでも規定できる、教師の家庭でした。当時の学校というのは、日本で言えば寺子屋か田舎の分教場のようなもので、いくつものクラスや運動場のある日本の小学校のような官設の大規模なものではなかったようです。しかし、こういう出自が彼等をして、新しく台頭してきた一般市民達のオピニオンリーダー的な立場での、新しい人による、新しい人のための、新しい音楽を書かせたのだと私は思います。

 シューベルトは彼の《ピアノ三重奏曲変ホ長調Op.100》の出版をプロープストという出版社に請け負わせました。このことについてのプロープストとの手紙のやりとりのいくつかが残っているのですが、それらの中で、献呈先の照会に対する回答として、シューベルトは次のように語っています。
『この作品は誰に献呈したものでもなく、この曲を気に入ってくれる人なら誰にでも捧げます。それが真の献呈ではないでしょうか。・・・・』(1828年8月1日)
 結局シューベルトはこの印刷譜を見ることが出来なかった(印刷の完成より彼の死の方が早かった)ことと相まって、この美しい言葉を読むと私は常に涙を禁じ得ないのです。プロープストは、はたしてこの言葉を印刷したでしょうか?私は、初版を写真ですら見たことがないので確定的なことは言えませんが、多分献呈のページは印刷されなかったでしょう。残念ながら、この美しい、また非常に重要な作曲家自身のメッセージは、1975年に出版された、フィナーレの復元を含む画期的な楽譜であるベーレンライター版にも含まれていません。『画竜点睛を欠く』とはまさにこのことでしょう。<この作品は、貴族や特定の人に書かれたものではなく、今この曲を弾く人、聴く人にシューベルトが作ったのだ>と彼自身が明言している以上、これはどんな楽譜上の細部の重要な発掘物より優先して、曲頭に1ページを使って印刷されるべき文言ではないでしょうか。

 一方、ブルックナーには、このような気の利いた言葉は残されていません(というか、彼自身の残した膨大な手紙類は、ほとんど和訳されていないので未知のママの状態ではあるのですが)。しかし、彼が教会のためではなく、また貴族や皇帝のためではなく、彼の交響曲を演奏し、聴いてくれる人たちのために作ったのだということは、彼の出自からして常に念頭に置いておかなければならないことでしょう。彼が《ミサ曲第三番ヘ短調》を書いて以後死ぬまでの30年近くの最も脂ののりきった時期に全くミサ曲を書かなかったのは、もう『ミサ曲』では語ることがなくなったのではなく、全ての人のための作品として『交響曲』という形態を選んだからでしょう。ブルックナーの交響曲は、ほとんどが献呈者を持っていますが、それらはあくまでも、世話になった人達へのお礼の気持ちであり、また出版のための方便でもあるのです。

 いままで、2人の作曲家の出自や文化環境の共通していることを述べてきましたが、この2人の家庭環境は全く対照的です。そのことが彼等の伝記に綴られている様々な逸話の根元的要因をなしているのではないかと考えられます。

 すなわち、ブルックナーは12歳の時、父を亡くしたのです。彼の父アントン(彼と同名)は過労のため酒に安らぎを求め、身体が弱って慢性の神経熱に侵され、肺炎を併発して1837年6月7日に5人の子供を残して亡くなりました。その時ブルックナーは看護の疲れと父の死のショックから気を失ってしまったと伝えられています。このときから彼は保護者を失い、自らの道を自らの手で切り開かなければならない運命とともに、逆に母や幼い兄弟達の養育すら心配しなければならない立場に立ったのです。こういった場合、ブルックナーのような真面目なタイプの人間は、より一層勤勉になり、またより一層自分の人生に対して慎重にならざるを得なかったことは想像に難くないでしょう。彼が証明書をしつこく求めたことも、転職しても以前の職への復帰を常に求めたことも、また、いつまでも音楽以外の堅気の職に色気を示したことも、根底には彼の父の早世が深く影響を及ぼしているのです。彼が結婚出来なかったのも、若いうちは、それどころではなく、ようやく地位を得たころには年を取りすぎていたことも一因ではないでしょうか?

 《第七交響曲》のドイツでの成功に功績のあった年下の指揮者ヘルマン・レヴィに対してブルックナーが与えた、いささか誇大で滑稽な『我が芸術上の父』という尊称も、彼の父親不在という家庭環境に起因する父親願望の現れだ、と理解すると納得のいくものとなるでしょう。まあしかし、言われたレヴィの方はケツの穴がこそばかったでしょうが・・・・

 さて、シューベルトはというと、彼は父の死に目にあえなかったのです。何故って?シューベルトの方が早く死んだからですね。
父フランツ・テオドール:1763〜1830
本人フランツ・ペーター:1797〜1828
ブルックナーと違ってシューベルトは父の監督の下に一生を過ごしたので自由気ままに暮らせたとも言えるのですが、逆に、父親との衝突を何度も行なっています。親としては息子が風来坊のような音楽家でいるより、定収入のある安定した職業に就くことを願うのは当然でしょう。そこにシューベルトの悩みもあったのかも知れません。人生うまくいかないものですね。まあそういった隘路があったからこそ、2人の偉大な作曲家から数々の偉大な作品が生まれ得たとも言えるのです。ブルックナーの父がずっと長生きしていたら、一介の田舎の校長先生で終わったかも知れません。
 
 父親についての2人の作曲家の違いは更に兄弟にも及びます。ブルックナーは11人兄弟の長男でした。といっても成人したのは5人だけで、上からアントン(作曲家本人)、ロザリア、ヨゼーファ、イグナーツ、マリア・アンナです。一方シューベルトは12番目の子として生まれました。彼の母親(エリザベート)はシューベルトが15歳の時に亡くなったので、父フランツ・テオドールは後添え(アンナ)を貰い更に幾人かの子供をもうけています。少なくともシューベルトには3人の成人した兄がおり(イグナーツ、フェルディナント、カール)、彼等の影響もブルックナーの場合とは非常に異なっていたでしょう。もし、ブルックナーにこれらの兄がいたとしたら、父親が死んだとしても、その精神的、経済的負担は全く違ったものになっていたでしょう。運命とは不思議なものです。

2010・1・26修正
2002.6.13記






8、《第九交響曲》は3楽章か4楽章か?

 ここを訪れる読者の皆さんには分かりきったことことでしょうが、《第九交響曲》は未完成の作品ですね。コールズやヘレヴェッヘが来日し、この作品の『完成版』を聴かせてくれた機会に、もう一度この作品のありかた、すなわち3楽章の作品なのか4楽章の作品なのかを考えてみたいと思います。

 私が若いころは、《第九交響曲》は3楽章の作品であり、フィナーレについては膨大なスケッチが残されていることは知られていましたが、それは全く等閑に伏せられ無視され続けていました。既に戦前にオーレルによってフィナーレの実態の詳細な報告が出版されていたにも拘わらずです。ですから、この作品は3つの楽章だけで完結した一つの世界のように捉えられ、評論され、また演奏されてきました。中には『アダージョフィナーレ』という言い方で、まるでマーラーの《第9交響曲》やチャイコフスキーの《悲愴》と同一視するような評論家まででる始末でした。

 しかし、ブルックナーの交響曲に3楽章や5楽章のものがあるなんてことは、彼の交響曲のいくつかに聴き馴染んだ人なら到底思い浮かばないことでしょう。なぜなら、彼の交響曲はどの作品でも各楽章が或る1つの理想の構造を追求したような類型的な形態を持っていると直感出来るからです。その理想の形態とは、ベートーヴェンの《第9交響曲》の第3楽章までとか、シューベルトの《大きなハ長調交響曲》のようなものだったのでしょう。実際、ブルックナー自身も『緩徐楽章とスケルツォを中間楽章に配し、ソナタ構造による巨大な両端楽章を構えた4楽章構造』を交響曲の理想の姿とし、この構成法をかたくなに守り通したのです。ですから、彼にはそれ以外の構成を試してみようなどという気は更々なかったのではないでしょうか。この点ではブルックナーは、同じく4楽章の交響曲しか作らなかったブラームスよりもさらに保守的であり形式主義者であったといえましょう。このようなブルックナーですから、晩年《第九交響曲》のフィナーレが完成していないことを非常に苦にしていたことが伝記でも伝えられています。たとえば『フィナーレを完成せずに死んだときは《テデウム》を代わりに演奏して欲しい』とか言ったようですが、《テデウム》は調的に一致しないだけではなく、その音楽の世界は《第七交響曲》のフィナーレの代わりに演奏するのならいざ知らず、《第九》とは全く相容れないことは明白であり代替楽章としての役割を到底果たすことが出来ないことは彼自身も充分認識していたのです。そのため病身をおして最後の2年間をフィナーレの完成に向けて苦闘を続けたのです。

 それでは、フィナーレはどこまで作曲が進んでいたのでしょうか?全集版では、大部で詳細な「フィナーレの自筆草稿の写真版」が出版されています。それを見た大雑把な印象では、三分の一はブルックナーの音楽が聴け、三分の一は相当手が加えられたブルックナーの音楽が聴け、残りの三分の一はほとんど編作者の音楽になってしまわざるを得ない、という風に思えます。実際に完成されたいくつかの版を聴いても、どの版もこれと似たり寄ったりの感じがします。これらの「完成版」は、編作者達の努力は買うものの、ブルックナー自身の完成作とは一線を画するべきものであると考えざるを得ないことは致し方のないところでしょうか。

 何故《第九交響曲》は、3つの楽章が完成しているのに、フィナーレだけが断片の状態なのでしょうか?この落差に疑問を覚えますね。実際、1884年に着手した「第八交響曲」では、既に1885年8月16日付で、あの有名な4つの楽章すべての主題を同時に鳴らして華麗に終結する部分のスケッチを完成させ『ハレルヤ』と記したパーティセル草稿が現存しているように、作曲を始めて1年ほどで全曲の構想の大まかな点は出来上がっていたのです。そして、その後推敲を重ねオーケストレイションを何度もやり直して1887年に第1稿が完成したのです。ですから、この《第八交響曲》と同じような方法で《第九交響曲》も作曲していたとしたら、1887年に着手したのですから、1888、89、90、91の4年間は《第三》、《第八》および《第一》の改作に没頭していたとしても、1892年には全曲の構想が出来上がっていたはずです。しかし、実際にはブルックナーはそういう風には作曲しなかったようです。彼は、フィナーレの構想がないまま3つの楽章の完成を図り、1894年にこれらが完成した後でさえ、全体的な構造を確定出来ないまま見切り発車でフィナーレの作曲に突入して行ったように思われるのです。

 全集版ではスケルツォの「トリオの採用されなかった2つの草稿」も別冊で出版されています。それによると、1つ目のトリオ<トリオ1>(オーケストレイションされていないスケッチのみ)はすでに1889年には存在しており、それはやがて没になり、1893年には2つ目のトリオ<トリオ2>(オーケストレイションされているが完成していない)が出現します。しかし、これにもブルックナーは満足できず、急遽1894年初頭に現在聴かれる3つ目のトリオ<トリオ3>を完成させるのです。この3つのトリオを比較して聴いてみると、<トリオ1>や<トリオ2>は、ブルックナー晩年の作風を示した得難い作品であることは間違いないですが、《第九交響曲》のトリオとしては、ちょっと首を傾げたくなるのは私だけではないでしょう。少なくともあの天上の世界を疾走するような鮮烈な現行の<トリオ3>が至当の『第九のトリオ』であることは万人の認めるところでしょう。ブルックナーはこの天才的な<トリオ3>の楽想を思い浮かべるまで、不本意な草稿をこねくり回しながら、じっと待っていたように思われます。そして突然、究極の構想を思いつくやいなや1894年に一気に完成させたのでしょう。

 このような作曲経過を、フィナーレにも援用できないでしょうか?すなわち、先に述べた『三分の一は相当手が加えられたブルックナーの音楽が聴け』というのが<トリオ1>にあたり、『三分の一はブルックナーの音楽が聴け』という部分ですらまだ<トリオ2>の状態に過ぎないのではないかと・・・・・ブルックナーは<トリオ3>にあたるフィナーレの究極の構想の霊感を得ることを10年間待ち続けたけれども、結局それは果たせずに終わったのだと・・・・・ですから、現在のフィナーレの完成へ向けての多くの人たちの努力は、結局<トリオ1>や<トリオ2>を完成させようとしていることと似ているのではないかと。ブルックナーがもっと長生きしていてフィナーレを完成したとしたら<トリオ3>のように、残された草稿群とは全く違う形態のものになったのではないかと私は推測しているのです。もちろん、現在のフィナーレ完成への努力は高く評価されねばならないことは言うまでもないことですが・・・。

 結論として私はこう思います。
《第九交響曲》はあくまでも4楽章の交響曲である。しかしフィナーレは完成しておらず、その残された草稿も先行する3つの楽章に相応しいものではない。現存資料によるフィナーレの完成ということも非常に興味ある有意義な事業であるが、それは《第九交響曲》創作の1つの過程の完成という意味で捉えるべきである。


 話はそれますが、 コールズによって演奏用に編まれた版では<トリオ2>は60小節足らずの非常に短い作品です。そしてこの曲は三部形式で出来ており、中間部の主題は現行<トリオ3>のB主題と同じものが使われています(ということは、逆に言うと<トリオ3>のB主題は<トリオ2>の中間部の素材を流用したということになります)。
<トリオ3>は
[ABA]B[ABA]
という形式ですので、もし<トリオ2>によってスケルツォを演奏する場合
<トリオ2><トリオ3の113〜152小節><トリオ2>
という風に演奏すると、内容的にはともかく、量的にはバランスの取れたものになると思われるので、この形での演奏を私は推奨したいと思います。
是非、どこかのオーケストラで実現していただきたいですね。

2010・1・26修正
2002.5.28記


7、《第三交響曲》の自筆稿

 交響曲の遺贈稿の中で、ブルックナーが死んだ時点で唯一自筆稿が揃っていなかった作品が《第三交響曲》です。今回は、それにまつわる話をしましょう。
 1877年の初演の有名な大失敗のあと、テオドール・レーティヒという出版者が《第三交響曲》の出版を申し出たのですが(スコアは1879年出版)、そのとき連弾用の編曲譜もあわせて出版されることになりました。この連弾用の編曲を担当したのが、かのグスタフ・マーラーとルドルフ・クルツィツァノフスキーでした。マーラーは第1楽章からスケルツォまでの3つの楽章を、クルツィツァノフスキーはフィナーレを受け持ち、これは1880年に出版されました。この時、編曲に使われたスコアがブルックナーの自筆稿だったのです。そして、マーラーの使用した3つの楽章はそのままブルックナーの手元には戻らず、ブルックナーの死に際して、遺贈稿として宮廷図書館に移管されたのはフィナーレだけでした。このフィナーレは他の交響曲と並んで、資料番号Mus.Hs.19.475が与えられましたが、実体は不完全なものだったのです。3つの楽章の自筆稿はマーラーから弟のオットーの手に渡り、それからマーラーの未亡人であるアルマ・マーラーがずっと所有していましたが、第二次大戦後ヴィーンのオーストリア国立図書館の所有するところとなり、現在に至っています。したがって、現在は、Mus.Hs.19.475は4つの楽章全てを含む完全なものであり、このことによってノーヴァクは自筆稿に基づく完全なIII/2巻を出版することが出来たのです。また、ハースが「第三交響曲」を出版しなかったのは、この遺贈稿の状態が不完全なものであったことが最大の原因であっただろうと考えられます。

 マーラーは、なぜ自筆稿を返さなかったのか?この疑問についてアルマは、マーラーがブルックナーから貰ったものであると述べています。実際、出版からブルックナーの死まで15年以上あったのですが、マーラーが自筆稿を返そうとしなかったのは、少なくとも彼自身は編曲の『ご褒美』としてブルックナーから贈られたものだと考えていたに違いありません。編曲があまりにすばらしかったので、うっかりブルックナーがそう言ってしまったのでしょうが、マーラーがそれを真に受けてしまったことが不運の始まりだということです。まあしかし、紛失されずに、現在はもとの鞘に収まっているのですから良しととすべきでしょうか。

 孫引きになりますが、日本ブルックナー協会会報、Nr.28(1985.11.30)には、B.W.ヴェスリング著「グスタフ・マーラー<新しい音楽の予言者>」(ヴィルヘルム・ハイネ社 1980)からブルックナー関連の部分を会員の石橋邦俊さんが訳出されたものが掲載されていますので、「第三交響曲」の自筆稿関連部分を、ここに引用させていただきます。

《ヴェスリング:マーラーが最も好んでいたブルックナーの作品は?
アルマ:「第三」です。ルドルフ・クルジザノフスキーとピアノ用に編曲したほどです。これは1878年に出版されましたが(1880年の誤り、筆者註)、もともとはブルックナーの弟子のシャルク兄弟が作製することになっていたものです。ある日、マーラーが完成した第1楽章の楽譜を持って師を訪れると、ブルックナーはひどく喜んで叫んだのです、「これでシャルクはお払い箱だ!」冒頭の力強い意思、高揚とその頂点の情熱、そして静かな、すべてを神に委ねきった諦念、「第三」はブルックナーの本質を最も明瞭に伝えている・・・・マーラーはこう考えていました。

<中略>

ヴェスリング:ブルックナーの「第三」のスコアはあなたがお持ち・・・・・
アルマ:マーラーはそれを聖なる書のように大事にしていました。自分のコデクス・アルゲントイス(銀文字写本)と呼んでいました。マーラーがこのスコアをもらいうけた時には、この「1か2分の1バカの」ブルックナー(ヴィーン人の眼にはヴァーグナーが2分の2のバカだったのです)が、交響曲の分野でベートーヴェン、シューベルトと現代をつなぐ最も重要な鎖の環であるなどとは、誰1人、マーラーですらも、知りませんでした。ナチスから逃げる時も、私はこのすばらしいスコアを持ってゆくことができました。フランツ・ヴェルフェルとスペインに逃げようとした時は、この大切な財産を自分の腕にかかえて行きました。もっと役立つにちがいないものもあったのですが、みんなうっちゃっておきました。ブルックナーの「第三」は決して失われてはならなかったのです。》

 このヴェスリングの著作については、金子建志さんが「ブルックナーの交響曲」、音楽之友社(1994)の中でも取り上げられています。それによると、この本はヴェスリングがアルマに1958〜62年にかけて直接インタヴューしたものをまとめたもので、金子さんはアルマの証言の一部には彼女とマーラーの過去を美化し粉飾しているものがあるということを例をあげて説明されておられます。実際、この短い引用でも、自分のこと以外は、マーラーから聞かされたことを美化して誇大に述べているのです。「聖なる書のように大事にしていた」などと、さも肌身離さず持ち歩いていたかのように言っていますが、実際には弟に渡してしまっていたのですから割り引いて考えなくてはならないかも知れません。(まあ旅の多いマーラーより弟のほうがしっかり保管できるという意味があるのかも知れませんが。)

2001.5.31記





6、《第六交響曲》と《第七交響曲》のフィナーレは何故短いのか?


 《第六交響曲》と《第七交響曲》は、《第二交響曲》から《第五交響曲》までの『四姉妹』と同様、姉妹作です。ところが、その”受け”は作曲当初から、今日に至るまで天と地のような差があります。《第七交響曲》が作品完成後すぐに有名になり、出版もすぐ行なわれ、ブルックナーの”代表作”として位置づけられ、数多く演奏されるのに対して、《第六交響曲》は初演もおざなりであり(2つの中間楽章しか演奏されなかった)、その後もめったに演奏されず、彼の交響曲の中では最も”影の薄い存在”であり続けています。それは何故でしょう?このことの理由については後述6−2に述べられますが、少なくとも”作品の出来”の違いが原因だというわけではないことは確かです。それは、少数ではあるけれども、ブルックナーファンの中で極端に《第六交響曲》を愛好する人たちが存在する事実を挙げておけば十分でしょう。すなわち、ハマれば、この曲の美しさ、素晴らしさを十分堪能出来るのです。端的に言えば《第六交響曲》は一般受けしにくい、サラッと聴いただけでは何のことやらさっぱり解らないということなのでしょう。

 さて、この2曲は、その”受け”の差にかかわらず、数々の共通点が見られます。その内の一つとして、フィナーレが短く全体の構造が竜頭蛇尾である、という捉え方がしばしば共通の弱点として指摘されていることです。それは本当か?
《第二交響曲》から《第八交響曲》までのフィナーレの小節数とこの2曲を比較してみましょう。なお複数稿ある場合は初稿の小節数です。

《第二交響曲》 806小節 Mehr schnell
《第三交響曲》 764小節 Allegro
《第四交響曲》 616小節 (Allegro moderato)
《第五交響曲》 642小節 Allegro moderato
《第八交響曲》 771小節 Feierlich, nichit schnell

《第六交響曲》 415小節 Bewegt, doch nicht zu schnell
《第七交響曲》 339小節 Bewegt, doch nicht schnell

上に記した5曲の平均は720小節であり、《第六交響曲》と《《第七交響曲》の平均は377小節ですので、後者は前者の約52%にあたります。これら全てのフィナーレは拍子はアラ・ブレーヴェ(2分の2拍子)ですので、もし同じテンポで演奏すれば、約半分の演奏時間ということで、確かに短いですね。しかし、問題はテンポ設定にあるのです。

《第六交響曲》  Bewegt, doch nicht zu schnell=アレグロ、しかしあまり速くなく
《第七交響曲》 Bewegt, doch nicht schnell=アレグロ、しかし速くなく
と理解すると、確かにアラブレヴェのアレグロで演奏すべきでしょう。しかし『速く。しかし速くなく』なんて矛盾するテンポ指示なんて有り得るでしょうか?

 私は、そういった印象を抱かせるのは、ブルックナーの作曲の仕方が悪いのではなく、指揮者のテンポ設定がブルックナーの意図したものを無視した、異常に速すぎるテンポによって再現されることに起因するのではないかと考えています。マーラーが《第3交響曲》や《第9交響曲》でアダージョのフィナーレを書いたように、これらとはちょっと違ったニュアンスの『速くないフィナーレ』をブルックナーはこの2曲で試みたのではないでしょうか?すなわち、Bewegtという指定は単なるAllegro(速く)の言い換えではなく、本来の字義通り”躍動的に”という意味だと考えるべきではないでしょうか?それを裏付けるものとして、これら2つのフィナーレでの32分音符の多用をあげることが出来るでしょう。ブルックナーは他の交響曲でも、よく32分音符を使っています。しかし、それらはもとの動機を2分の1や4分の1に縮小したときに用いられる場合がほとんどで、《第六交響曲》や《第七交響曲》のフィナーレのように、もともとの動機自体の中に32分音符が存在することは少ないのです。これらの32分音符は現在普通に行なわれているアレグロのテンポではほとんど効果のないものに過ぎません。16分音符で十分こと足れるものです。というのは、プレイヤーが必死に32分音符を正確に演奏しても、演奏者の人数やホールの残響によって聴衆に届かず、その努力はほとんど無に等しくなってしまっているからです。ブルックナーがわざわざ面倒くさい32分音符を書き連ねたのは、そんな効果の期待できないようなテンポではなく、確実に聴衆が32分音符を聴きとることが出来、Bewegtとは、32分音符がはっきりとした存在感を示し、その存在感から醸し出される躍動感を意味するのではないでしょうか?
 Bewegtをテンポ指示ではなく発想指示であると捉え、doch nicht zu schnell(速すぎない)やdoch nicht schnell(速くなく)こそをテンポ指示と考えれば、普通に行なわれている演奏が異常に速すぎることが理解出来るでしょう。実際、ドイツ語のdoch の意味は、「しかし」で前後をつなぐという前の語を否定または和らげるものではなく、後ろのものを強調する意味なのですから、くだけて言えば「速すぎないんだよ!」とか「速くないんだよ!」といった意味になるのでしょう。

《第六交響曲》  Bewegt, doch nicht zu schnell=あまり速くなく、躍動的に
《第七交響曲》 Bewegt, doch nicht schnell=速くなく、躍動的に
と理解すると、すなわち Bewegtを発想指示(躍動的に)、doch 以下ををテンポ指示と捉えると、現在普通に行なわれている演奏がずいぶん速すぎるように見えてきます。このような奇妙なテンポ指示は、たとえばブラームスの《第1交響曲》の冒頭Un poco sostenutoのように例がないわけではありません。いずれも指揮者を悩ますものです。

この32分音符を、32分音符として聴衆に知覚し得る(8分音符を1つに指揮棒を振る)テンポで演奏すれば、これら2曲のフィナーレは他の交響曲のフィナーレと遜色ない重厚なフィナーレになると私は考えています。それとともに、私は常々念願しているのですが、どなたかMIDIで32分音符の正確な譜割りの音楽はどんなものかを、実際の音として再現していただける方はおられないでしょうか?この願いを実現していただける方がいらっしゃれば非常に嬉しいのですが。

2001.3.14記
2012.11.9補足


6-2、《第六交響曲》が解りにくい作品である理由

《第六交響曲》の不人気の理由を考えるということは、ある意味でこの作品の本質を掴むことにも繋がることと思い、今回2つの点についてスポットライトを当て、追求してみましょう。それは、『2連、3連のリズムの交錯』と『中世的な古風なメロディー感覚』という2つのポイントです。聴衆は、ブルックナーを聴くことに対して期待している『一種の心地よさ』を阻害する『なにものかの存在』を無意識に感じています。そして、ブルックナーがあえて『心地よさ』を犠牲にしてまで求めた『なにものか』を理解したときに、他の曲にも増して、この曲が『お気に入り』になるのだと思います。


@2連、3連のリズムの交錯

具体的にいえば、1つの拍を2で割る部分と3で割る部分が《第六交響曲》では、かなり錯綜した形で使われているということです。錯綜しているというのは、時間の流れにしたがった音楽の横の線における2連、3連の並立と、同時進行する複数の声部の縦の線での並立という、音楽の縦横双方でこれが現れるからです。どちらか片一方だけの並立使用というのは、古今の音楽作品にしばしば見られ、リズムのスパイス的効果として、非常に面白いものであります。しかし《第六交響曲》のように両方が煩雑に絡み合うと、いかにも複雑に聴こえ、ギクシャクしたリズム進行がある種の苦痛を伴うことになってしまいます。まあ、この作品はそれを狙っていて、過度のスパイスを楽しむという、激辛カレーを食べるような楽しみになっているとも言えるでしょうが・・・・。

 ではまず、横の線を見てみましょう。曲が始まると最初に聴こえるのが、ヴァイオリンの高音部で繰り返し奏されるリズム音形[ターッタタ・タ・タ]ですね。ブルックナーには珍しく、はっきりと刻まれる独特のリズムです。これを分解すると、1拍目は4分音符を4つに割った(すなわち、2で割ってさらにもう一度2で割る)うちの1つ目と4つ目に音が鳴り、2拍目は4分音符を3等分しています。この、1拍目の4つ目の音と2拍目の3つの音の長さがほんの少し違いますね(正確には12分の1後者が長い)。この違いが聴く人に非常な負担を与えるのです。この引っかかる感じは、ちょうど『喉に小骨が刺さったような』もので、『くつろぎの世界へいざなう音楽』とは到底言えません。そして、この4連と3連が交替する音形は第1楽章を通して、延々と演奏されるのです。

同じようなリズムでも、音符の長さの違わない曲と比較していただければ、この窮屈さが一層ご理解いただけるでしょう。メンデルスゾーンの《交響曲第4番イタリア》の第4楽章、『サルタレロ』と題された曲です。このリズムの躍動感はブルックナーの世界といかにかけ離れていることか!もう一つ例を挙げておきましょう。リムスキー=コルサコフの交響組曲《シェヘラザード》の第4楽章です。2つの例は非常に速いテンポで軽快に演奏されます。もし、それに倣ってブルックナーの《第六交響曲》も『サルタレロ』風に演奏したら、軽快な映画音楽のようになるのではないかな?錯綜が少しは解消されるのではないかな?などと思ってしまいます。そうすると、この曲にも新しい面が開かれてくるのかもしれません。だれかやらないかなあ・・・・。でも、これを実現するにはちょっとした楽譜の操作が必要になってきます。4分割は全て無視して3分割に読み替えてしまうのです(8分音符と16分休符+16分音符を8分音符+8分休符+8分音符に読み替える)。この読み替えは、全く根拠のないものでもありません。バロック時代には、こういったことは常識であって、バッハやシューベルトには、この手の記譜法が結構出て来るので、ブルックナーもこの読み替えのことは知っていたはずだというゴリ押しでやってしまうわけです。もちろんこの場合、メンデルスゾーンの『サルタレロ』のような速いテンポでさっそうと演奏するわけですが。

しかし、テンポの点ではブルックナーは、冒頭に『マエストーゾ』=『荘重に』と指示しています。ですから、指揮者たちは『サルタレロ』のような思いっきり速いテンポは取れないわけです。それならこの4分割+3分割の音形をおもいっきり遅く荘重にやればと思うんですが、それも出来ない。音楽がだれてしまうんでしょうね。それで多くの指揮者は、4分割+3分割の効果を最大限発揮させることの出来るテンポを見つけることが出来ず、どっちつかずの中途半端なテンポになってしまうというわけです。

次に、縦の線を見てみましょう。前述のリズム音形が続く中で、低音弦に主題が提示されます。この主題の2小節目は3連符で出来ています。高弦のリズムは、4分音符の4分割+3分割の連続です。ところが、主題の方は2分音符の3分割の小節の後に2分割(付点2分音符+4分音符)が続きます。ここでもまた、錯綜が生じることになります。ですからこの主題部分では二重にギクシャクした状態になっているのです(織り目の立ても横も)。2連符系と3連符系の交代くらいならいくらでも作品例があり、たいしたことではありません。先に例を挙げたメンデルスゾーンもリムスキー=コルサコフも3連符の連続する中で、突然2連符にすることによって、音楽にスパイスを効かせています。しかし、それらは音楽の流れの中で明瞭に区別されているのです。ところが、ブルックナーのように縦の線、横の線の両方で錯綜するともうお手上げです。リズムがどんな風になっているか聴き手には解らなくなってしまうんでしょうね。

この2連、3連の並立は第1主題部だけに限ったことではなく、第2主題部や第3主題部においても、これでもか、これでもか、という風に次々と襲いかかってきます。第2主題部分は特に複雑で、テンポをかなり落とす指示があるために、3連符の方が主導権を持つようなテンポ設定になるので、これまでの1小節=4分割の4分音符と第2主題の1小節=6分割の4分音符が同じ長さくらいになってしまうため、第2主題内の4分割4分音符のメロディーラインがとても不安定に聴こえてしまうのです。そして、音楽が進んで80小節あたりからは(練習記号Dのところ)、4分割の4分音符の3連符と6分割の4分音符の3連符が併置されたりして、とても複雑になってきます。もうこうなるとお手上げですね。

2連、3連の交錯は、アダージョでは再現部第1主題のみに限られますが、スケルツォにおいて、また大々的に展開されます。ただ、この2つの楽章では、第1楽章のような複合的なものはないので、違和感としてはずいぶん緩和されています。その聴き易さが、初演の時、この2つの中間楽章が選ばれた理由なのでしょう。フィナーレでは主題的に3連の要素が全く排除されているので、違和感は32分音符の多用の方に生じています。ただ、最後の方では第1楽章のリズムが再現し、主要主題の変形が大きく取り上げられるため、最初の混沌が蘇って終わるということになってしまっています。これが圧倒的な終結にもかかわらず、聴後感に悪影響を及ぼしている可能性はあります。
 
 フィナーレのリズム的問題は、16分音符と32分音符の使い分けに生じています。この32分音符を有効に演奏するためには、相当遅いテンポが必要ですが、そうすると、第1楽章にも生じたような、テンポ的ダレが生じ、指揮者を困らすことになってしまっています。


A中世騎士的容貌

 最初に低弦で提示される第1主題。この主題を聴くと、なにか古風な感じがします。それはどこから来るのか?楽譜をパッと見て感じるのは、そこに臨時記号がいくつか書かれてあるところに問題あり、ということは容易に推測出来ます。そうです。この臨時記号によって普段聴く音楽とは違った風に聴こえてくるのです。普段聴く音楽とは、長音階(ドが主音)か短音階(ラが主音)で出来ています。その両方ともが、主音の1つ上の音は長2度で1つ下の音は短2度の音程になっています(この曲はイ長調と見られるので前者はH音、後者はGis音)。楽理的に言えば下の音は主音に対して上行導音を形成しているということになります。ところがこの第1主題は臨時記号により主音と見られるA音の1つ上の音は短2度(B音)で1つ下の音は長2度(G音)と逆の音程関係になっています。これも楽理的に言えば上の音は主音に対して下降導音を形成していると言えるのです。ですからこれは長音階でも短音階でもなく別のなにものかで出来ている音楽だと言えるのです。それでは、それは何なのでしょうか?それは《教会旋法》で出来ているのではないか?という考えです。ここで突然、音階から旋法に名前が変わったことを不思議に思われるかもしれません。それは音階が一緒でも主音が違うものを旋法として区別しているからです。《教会旋法》とはなんでしょうか?《教会旋法》については、ネットで検索すると詳しい解説を読むことが出来ます。ここでは、それは中世的な古風な響きがするとだけ言っておきましょう。

まず、第1主題の最初の動機だけを、普通の固定ド唱法で記してみましょう:
ミミーーラーーソラ♭シラソラーーーファーミーー
これだと、どんなイメージのメロディーかさっぱり分かりませんので、この曲の主調のイ長調による移動ド唱法で読んでみましょう:
ソソーードーー♭シド♭レド♭シドーーー♭ラーソーー
さらに臨時記号が増えて、これもイメージが掴めません。
臨時記号をなしに出来たらイメージが掴めるかも?
そんな魔法のようなことが出来るのかというと、それが出来るのです!
へ長調の移動ド唱法で読んでみましょう:
シシーーミーーレミファミレミーーードーシーー
という変な音列が出来ますが、たしかにこれでイメージが湧きます。
実はこれは、《教会旋法
》3番目の《ミ旋法》=《フリギア旋法》と同じ構造なのです。
だからこの動機は、なにかゴツゴツした古風なメロディーに聴こえるわけです。

言い換えると、このメロディーは、普段聴きなれたイ長調の《ド旋法》に臨時記号の付いたものではなく
へ長調の《フリギア旋法》であると考えるべきなのです。
すなわち、主音を《ド》から《ミ》に変えるという発想の変換が必要となってくるのです。

現代の西洋音楽は、《教会旋法》の各旋法が《イオニア旋法》=《ド旋法》=《長旋法》と《エオリア旋法》=《ラ旋法》=《短旋法》に収束して、それらが調的変化を受けることによって多彩な表現が可能になって発展した音楽だといえるでしょう。ですから、一旦《ド》とか《ラ》を主音とするように凝り固まってしまった現代のわれわれの耳には《ミ》を主音とすることなど受け入れにくいことなのです。それで、このメロディーは『居心地が悪く』また『古臭い響き』として聞こえるのです。また《ファ》から《ミ》へ行く下降導音も耳に馴染みにくいものですね。

逆に言うと、わざわざ古臭い響きを求めるときは《教会旋法》を使えばよいわけで、この《第六交響曲》にはこういった、旋法の変更や他の色々な手法が随所に採られているので、一風変わった響きが常について回るということなのです。

《教会旋法》というのは、その名の通り教会での音楽に使われて確立したものですが、もちろん当時の人たちは教会だけで使っていたのではなく、一般的な概念として全ての音楽がそういう発想で行なわれていたのです。日本人にとっては馴染みのないものですが、それでも100年以上も西洋音楽の教育を受けて来たわれわれ日本人は《教会旋法》風味の音楽を、それと意識することなしに自然と『古風な音楽』として耳に刷り込まれて来たのでしょう。われわれも西洋人と同じように中世的であると感じることが出来るようです。

また、《ミ旋法》と《ド旋法》との行き来をする上で非常に好都合な和音変換があるのです。それを『ナポリの6度』といいます。これは古典派時代からロマン派にかけて広く愛好された和音変換ですが、ブルックナーもたくさん使用しています。この『ナポリの6度』がらみでこの主題を説明する人もいます。『ナポリの6度』には、その構成音の中に主音の半音上が含まれているので《フリギア旋法》風味のメロディーに和声を付けるときに利用しやすいというわけです。

                                                 


2001.3.14記
2012.11.9改稿


5、ブルックナーの手紙について

ブルックナーの伝記を読むと、彼の人となり、彼の性格などが一風変わった人として描かれています。また『彼は飲んだくれのように作曲する』とか『彼は半分神様で半分阿呆だ』とかいったような風評が面白おかしく書かれています。これらの所見には、ある面の真理が存在することは確かですが、伝記というものの性格上作曲家の事跡のある一面を強調し、ディフォルメしたものであることは否めません。私たちは、まず作曲家の『普段の姿』を理解した上で、これら『伝記に記すべき特別な出来事』を理解すべきでしょう。それが、作曲家の真実の姿にせまる最善の方法であると私は思います。そして、『作曲家の普段の姿』や『作曲家自身が意図していること』を一番上手く表しているのが、作曲家の手紙なのです。

ブルックナーと同様、その人柄が誤解されているシューベルトについては、書簡集の和訳が懇切な解説とともに出版されています。私の事件簿でも大いに参考とさせていただいている『シューベルトの手紙』(国際フランツ・シューベルト協会刊行シリーズ2「ドキュメント・シューベルトの生涯より) オットー・エーリヒ・ドイチュ著、實吉晴夫編訳 メタモル出版、です。シューベルトについては中学生の音楽の時間で『歌曲の王』として習い、数多くの素晴らしい歌曲(ドイツ・リート)の作曲家として認識されています。それはそれでよいのですが、裏を返して、彼の器楽曲は歌曲の合間に作られた副次的な産物であり、歌曲の延長線上にある、あまり構成的でない、またあまり重要でない作品群であるという誤った認識をも植え付けられているのです。これは彼の在世中も、死後も、そして現代に至るまで変わらず連綿と続いています。しかし、『シューベルトの手紙』を読むと、彼の目指したものは器楽曲やオペラの作曲であって、歌曲はその合間に作られたものであるということがはっきりと理解できるようになるでしょう。そして、数多くの立派な器楽作品群がそれを証明しているのです。例えば、1828年5月10付の出版社プロープストあての手紙の中で「ピアノトリオ変ホ長調op.100」を出版するために売却するにあたって、シューベルトは次のように述べています。<拝啓、貴殿より請求のあったトリオをお送り申し上げます。本当は、硬貨60フロリンという金額は、リート集かピアノ集にふさわしいもので、六倍もの努力を必要とするトリオにふさわしいとは思えないのですが。・・・・>ここで、シューベルトは売値をふっかけたり、安く売って恩にきせようとしているのではありません。正しく、自作の作曲に要した時間を比較しているのです。このトリオがどんな作品より6倍の時間を要したのか、私は、リート集とは「美しき水車小屋の娘」のような連作歌曲集の1つの巻を意味し、ピアノ集とは「即興曲集」とか「楽興の時」のようなものを意味するのだと思います。トリオの労力に見合った売値とは360フロリンであると、またそれだけの努力をしたと彼は言いたいのでしょう。このような誤解は、ブルックナーに関してもいくつもあると思います。

さらに、伝記は時々手紙の重要な箇所を引用して解説していることがありますが、そういった引用だけでは十分とは言えません。今、シューベルトのトリオについて引用しましたが、この場合でも問題のポイント箇所だけを取り出していますが、それでは不十分なのです。彼のいくつかの出版社との一連の交渉の過程全体の手紙を通覧することによって、さらには手紙全部を読むことによって初めて、シューベルトが自作に対してどのような価値判断をしているのか、本当の理解が得られるのだと思います。

さて、ブルックナーの全集版では、そのXXIV巻で2冊の分冊として「書簡集」が出版されています。それらはアンドレア・ハラント(Andrea Harrandt)とオットー・シュナイダー(Otto Schneider)が編纂したもので第1巻は476の手紙(317ページ)、第2巻は554の手紙(361ページ)が含まれ、さらに序文と索引などが付いていいます。そして、それぞれの手紙には関係する手紙の索引や、手紙文の中の発言対象の解説が懇切丁寧になされています。第1巻は1998年に出版され、1852年から1886年までの35年間のブルックナーの書いた手紙、ブルックナーに宛てられた手紙そして第三者間の手紙で関連性のある重要な手紙が収録されており、第2巻は2003年に出版され、1887年から死の1896年までの10年間の手紙が収録されています。

私は、この「書簡集」が和訳されて初めて、日本における真のブルックナー理解の始まりがあると思います。しかし、この膨大な量と日本のブルックナー受容の規模からみて、これが営業的に成り立つものでは絶対あり得ないことは確かです。日本の出版界の現状から見て、それを期待するのはほとんど絶望的ですらあります。この「書簡集」については、ある英国人が英訳に取り組んでいるという情報もあります。我が国においても、どなたかドイツ語の出来る、ブルックナーに精通した人が現れ、彼個人の献身的努力に期待するほかないでしょう。しかし、この取り組みは、成果としては計り知れないものがあるでしょう。日本でブルックナーが聴かれる間はずっと読み継がれて行くべき基礎文献となることは確かなことです。我々ブルックナーファンはどなたかが現れることを期待して待つことにしましょう。

2001.2.28記
2004.12.17追補



4,ブルックナー交響曲の散歩道について

今回は,私がリンツを訪れたときのことを,お話ししましょう.
リンツといえば,サンクト・フロリアン修道院とブルックナーの生地アンスフェルデンですね.一日をこの2カ所の見学に当てていた私は,同行のK氏と朝,バスに乗りサンクト・フロリアンへ向かいました.修道院ではおきまりの解説ツアーにより中を見学し,近くの食堂で昼食を取った後,時間があるのでアンスフェルデンまでは,地図を頼りに10km足らずの行程を歩いていこうということになりました.修道院裏の林の中をどんどん進んでいくと,なにか立て看板のようなものがあって休息出来るような長椅子が置いてありました.その看板にはブルックナーの「第八交響曲」の由来のようなものがドイツ語で書かれていました.どんどん歩いて林を抜け,畑を通り過ぎて,森の中へ入っていくと,また同じ看板と休憩用の椅子に出会いました.ここでは,「第六交響曲」の解説が書かれており,しばらく行くと,「第五交響曲」の看板がありました.『ハハーこれは交響曲全部の看板が順番にあるのだなあ.私たちは逆のコースを歩いているのだなあ.』ということが分かりました.しかしこれ以降看板に出会うことなく,アンスフェルデンに着いてしまいました.あとで分かったのですが,私たちは地図を頼りに歩いたので,自動車が通れる表道を歩いてようで,コースは自動車の通りにくい裏道になっていたようです.

生家に到着したのは,もう夕方であり,例によってそこは閉まっていましたが,2階(3階?)の人に(そこは一般の住宅)管理人のおばさんを呼んでもらい,中を見学させて貰いました.中は昔の伝記の写真にあるようなものではなく,小さな博物館のように改造されていてちょっとがっかりしましたが,2階にはブルックナーの作品を鑑賞するスペースまであってビックリしました.

そこには,いくつかのパンフレットも置いてあり,この「ブルックナー交響曲の散歩道」のパンフレットも頂いて帰りました.このパンフレットによると,「散歩道」はブルックナー没後100年の記念の年にオープンしたもので,生家の近くのAnton Bruckner Centre(ABC)から始まり,ブルックナーの墓のあるサンクト・フロリアン修道院に至る小道で,10のステーションがあり,それによってブルックナーの生涯をたどることが出来るようになっているとのことです.また,ABCではウォークマンを借りることが出来,ブルックナーの交響曲を聴きながら歩くことが出来るようにもなっているようで,ヘッドフォンをつけたブルックナーの写真が掲載されています.今度訪れることがあったら試してみたいと思っています.

このパンフレットの10のステーションの選択には興味がわきます.まず,「ヘ短調交響曲」が除外されていること,そして何故か「第二交響曲」の後に「0番」が来ることです.この変な順序に対して何のコメントも書いていないということは,生地においてもブルックナーはあまり理解されていないのだなあと思わせるものがあります.

最後に歩いてみた感想ですが,自然の中を歩くのは気持ちの良いものですが,景色は単なる田舎の畑であり,小さな森や林であるとといったところで,アルプスの遠景など見えるはずもなく,延々と丘陵地帯が続いているだけでした.ただ日本と違うのは,田圃が水を張る関係上一枚一枚が全て水平に出来ているのに対して,こちらは土地の高低のカーヴにしたがって延々と区切りもなく畑が広がっている点でした.歩いている間にブルックナーの音楽を思い浮かべることもなく,単に田舎道を歩いているだけという感じがしました.しかし,ブルックナーが百数十年前これらの道を歩いていたんだなあという頭の中だけでの感慨に浸ることは出来,当地を訪れるブルックナーファンは車で素通りするのではなく,一度は歩いて体験して
みるべきだと私は感じました.

2001.2.23記



3,ブルックナーの交響曲の番号付けについて

ブルックナーファンなら誰でも知っているように、ブルックナーの交響曲は全部で11曲あります。ところが、これも周知のように番号の付いている曲は9曲だけであり残りの2曲には番号がありません。そのため現行の番号は実際の作曲順の番号ではないのです。しかし、これはブルックナー自身が決めたことであり、自筆稿や生前の出版譜(「第三交響曲」を除く<注1>)に番号がはっきりと記載されており、現行の番号はそのブルックナー自身による番号付けに従っているのです。番号無しの2曲はブルックナー自身が番号付の作品として残すにふさわしくないと考えて番号から外したのですから、現行の番号付定は一見合理的なように思えます。しかし、そこには大きな弊害が存在するのです。すなわち『ブルックナーの交響曲は全部で9曲であって、その他に交響曲が作曲されていたとしても、それらは単なる試作品に過ぎず考慮するに値しないものである。』というのが一般的な考え方であって、それが定着してしまっているのです。相当ブルックナーを聴き込んだファンでさえ、それを鵜呑みにしている人たちがたくさんいます。それに、交響曲全集を作る場合でも9曲やれば事足れりとする人がいたり、番号無しの1曲あるいは2曲を付録として付ければよいと考えている人がいるのには、私は我慢がなりません。

実際、ノーヴァクが「ヘ短調交響曲」を全集版の1つの巻として出版するまでは、ある高名な批評家が『この作品は単なる習作であって、アンダンテのみがオーケストレイションされており、他の楽章はピアノスケッチの状態の未完成作品である<注2>』といった意味のことを述べ、まるでシューベルトの未完成作品のように誤解して解説していたほどですし、現在でも、『この作品は、シューマンかメンデルスゾーンの亜流であって、まだブルックナーの個性は開花しておらず、後年の名作が生まれていなければ歴史のはざまに忘れ去られてしまったであろう』というのが一般的な認識なのです。また「ゼロ番交響曲」については、ブルックナー自身が晩年にスコアに書いた『全く通用しない単なる試作』(下述の筆写譜に書かれたブルックナーの書き込みの意訳)という文言をそのまま鵜呑みにして、それなりの作品でしかないと理解されているのです。

しかし「ヘ短調交響曲」については自費で筆写スコアを作らせ、それによって演奏の可能性を模索していたことは事実であるし、「ゼロ番交響曲」では筆写スコアだけでなく、パート譜までも作って、ウィーンフィルでの演奏を期待していたのです。またこの作品は「第2交響曲」として作曲されたことも、自筆譜上から明白です<注3>。少なくともブルックナーは、これらの2作品を作曲途上や完成後しばらくの間は、習作や試作品と考えていたのではなく、立派な自作品であると考えていたことは、このような残されている資料から明らかです。これらの作品を番号から外したのは、ブルックナーの不必要なほどの人並みはずれた自己批判精神の強さによるものであると私は確信しています。

また、「ヘ短調交響曲」について、「習作交響曲」というあだ名は確かにブルックナー自身に由来するものではあるにしても、私はその名の使用を極力避けています。不要な先入観を与える恐れがあるからです。「00番」という呼び方も、簡単で使いやすいような感じがしますが、根拠がないと言うことで、私はそう呼ぶことは嫌いです。一方「0番」というのは一般の解釈の『無効の作品』という意味でなく、番号を取り消したという後悔から、せめて「0番」という変則的な方法ではあるけれども、番号を与えたいというブルックナーの意思がそこに存在するという意味で、私は肯定的に考えています。

もちろん、私はこれらの番外の2曲に後期の作品群と同等の成熟度を認めているのではありません。単に、まだこれらを聴いていない人たちに、マイナスイメージになる先入観を植え付けるようなタイトルを、わざわざ使う必要はないと言いたいだけです。聴いてみて『やっぱりつまらない交響曲だった。』とか『まあそれなりの作品でしかない。』といった印象を持つのは個人の自由です。しかし、ブルックナー愛好家としては、これから聴こうと思っている人たちに、真っ白な気持ちでこれらの作品に接して貰いたいと願うのが本音ではないでしょうか。要するに、こういったことについて、ブルックナーの性格から鑑みて、彼の言葉を真に受けないことが、賢明であろうと思うのです。

そこで私は、ドヴォルザークの場合のように、11曲を作曲順に番号付けすることを考えました。しかしブルックナーの番号付けを全く無視することは出来ません。そのために英語表記やドイツ語表記では、ドイツ語の序数をタイトルとしました。日本語表記では、愛好家向けには、ドイツ語序数のカタカナ表記によるタイトルを掲げましたが、一般には、それでは何のことか解からないので漢数字とアラビア数字を使い分けることによって表現しました。漢数字はブルックナーの番号付け、すなわち現在一般に通用している番号付け、アラビア数字は作曲順による番号付けを示しています。そして、この表記法はグリーゲルの「交響曲の諸形態」に付けた「資料」と「出版譜」の表に採用しています。したがって、漢数字による表記は、ブルックナーが付定した一種の『標題』であるとご理解頂ければよいかと思います。ブルックナーの交響曲には作曲順の番号と標題としての番号の2種類あるというわけです。

私は、この番号付けが、オーストリア国立図書館の音楽部門に保存されているブルックナーの『遺贈稿』の資料番号の下一桁と「第一交響曲」以外は一致していることに、ブルックナーの引き合わせとして密かに満足感を味わっています。またドイツ語の序数表記では実際の番号と2つのずれを生じますが、これは9月以降の月の呼び方、September 9月(Septemは7を意味する)、October 10月(Octoは8を意味する)、以下同様、と奇妙に符合することも面白いと思っています(Sy.No.12はないけれども)。

英語表記 ドイツ語表記 日本語表記 『遺贈稿』資料番号
Sy.No.1
f minor
Sy.Nr.1
f moll
No.1
交響曲第1番 
ヘ短調交響曲
.
Sy.No.2
ERSTE
Sy.Nr.2
ERSTE
No.2
交響曲第2番  
第一交響曲
エルステ交響曲
 Mus.Hs.19.473
Sy.No.3
NULLTE
Sy.Nr.3
NULLTE
No.3
交響曲第3番 
第〇交響曲
ヌルテ交響曲
.
Sy.No.4
ZWEITE
Sy.Nr.4
ZWEITE
No.4
交響曲第4番  
第二交響曲
ツヴァイテ交響曲
 Mus.Hs.19.474
Sy.No.5
DRITTE
Sy.Nr.5
DRITTE
No.5
交響曲第5番  
第三交響曲
ドリッテ交響曲
ヴァーグナー交響曲
 Mus.Hs.19.475
Sy.No.6
VIERTE
Sy.Nr.6
VIERTE
No.6
交響曲第6番  
第四交響曲
フィールテ交響曲
ロマンティッシェ交響曲
 Mus.Hs.19.476
Sy.No.7
FUENFTE
Sy.Nr.7
FUENFTE
No.7
交響曲第7番  
第五交響曲
フュンフテ交響曲
 Mus.Hs.19.477
Sy.No.8
SECHSTE
Sy.Nr.8
SECHSTE
No.8
交響曲第8番  
第六交響曲
ゼクステ交響曲
 Mus.Hs.19.478
Sy.No.9
SIEBENTE
Sy.Nr.9
SIEBENTE
No.9
交響曲第9番  
第七交響曲
ジーベンテ交響曲
 Mus.Hs.19.479
Sy.No.10
ACHTE
Sy.Nr.10
ACHTE
No.10
交響曲第10番 
第八交響曲
アハテ交響曲
 Mus.Hs.19.480
Sy.No.11
NEUNTE
Sy.Nr.11
NEUNTE
No.11
交響曲第11番 
第九交響曲
ノインテ交響曲
 Mus.Hs.19.481


<注1>最初に出版された交響曲であるので番号が記載されなかったものと思われる。
<注2>1973年のノーヴァク版の出版までは、ヒナイスのアンダンテのみのスコアと、ゲレリッヒ・アウアーの「ブルックナー伝」に掲載されているピアノ編曲譜だけしか知られていなかったため。
<注3>この交響曲についての「ヘ短調交響曲」の直後1864年頃に第1稿が書かれたというノーヴァクの説は資料的根拠が全くなく、現在ではこの説を信じる人はほとんどいません。私も、1869年に全てが作曲されたと思っています。

2000.11.15記



2,《交響曲第3番、NULLTE》のタイトルに関する小考察

ノーヴァクの「NULLTE交響曲」(「第0番交響曲」)の「編集報告」によると、この作品には、自筆譜、筆写譜、パート譜およびトリオの現行とは別の採用されなかったイ長調の草案(ピアノ譜スケッチの形態)の4つの資料の存在が報告されています。ここでは、この「編集報告」に述べられている前3者のタイトルに関する資料状態について述べてみたいと思います。

(1)自筆草稿(上部オーストリア州立博物館、リンツ、所蔵、資料番号<V17>)
@第1楽章、表紙
a)最初の記載<交響曲・第1楽章・(ニ短調)><Sinf./1.Satz/(D moll)>
b)あとから付け加えられた記載<第2番としての番号付けをやめにした交響曲のための第1楽章・無効の作品><1.Satz:zur 2.verworfenen/Sinfonie/ungiltig.>
c)最初の<交響曲>の記載の左横に、大きくアラビア数字の<0>が追加記載されている。
A第1楽章、スコア第1ページのタイトル
a)最初の記載<交響曲第2番ニ短調><Symphonie Nr.2 in D moll.>
b)あとから鉛筆で<第2番><Nr.2>が斜線2条で消され、その下に<取り消し><annulirt>が下線付きで書き加えられている。
【注】上記2ページについては、英語版のシェーンツェラーの「ブルックナー」の148,149ページに現物の写真が掲載されています。("Bruckner" Hans-Hubert Schoenzeler,Marion Boyars Ltd. ロンドン)なお、同書日本語版にはこの写真はありません。
B第2楽章、表紙
a)最初の記載<第2楽章><2. Satz>
b)あとからの追加記載<0番交響曲ニ短調のための第2楽章・無効・全く無価値><Zur 0. Sinfonie/D moll/2.Satz/ungiltig/ganz nichtig>
c)上記<ニ短調><D-moll>の左横に<第2番としての番号付けを取り消した交響曲><anulirte 2. Sinf.>の追加記載。

(2)筆写譜(オーストリア国立図書館音楽部門、ヴィーン、所蔵、資料番号<Mus.Hs.3189>にあるブルックナーの書き込み
@第1楽章:<この交響曲は全く無効である。(試作に過ぎない。)><Diese Sinfonie ist ganz ungiltig.(Nur ein Versuch.)>
A第2楽章:書き込み無し。
B第3楽章:<無効の第2交響曲のための[スケルツォ]><zur 2 ungiltigen Sinf.>
C第4楽章:<第2番としての番号付けを取り消した交響曲のための第4楽章(全く無価値)><zur anulirten 2. Sinf. D moll. 4. Satz(ganz nichtig.)>

(3)パート譜(楽友協会図書館、ヴィーン、所蔵、資料番号<XIII 45468>
各パート譜には<遺作><Nachgelassene>と付け加えられ、<No.2>は線を引いて消されている。

これらが、ノーヴァクの「編集報告」に報告されている、タイトルに関する記述ですが、かなりの数にのぼる否定的表現も大体4種類の言葉を使っているように見えるので、それに応じて、私が別々の日本語を適宜当てはめました。不適切な表現やもっと良い訳があれば、ご教授いただければ幸いです。
これらの中で、<annulirt>については、使用場所や他の部分からの関係から、どうも作品自体を言っているのではなく、「第二」という番号付けを対象にしているように思われるので、その様に訳してみました。すなわち、この語では、曲自体を否定するのではなく、単に『2番にするのをやめた。』と言っているに過ぎない様に思われます。とは言っても、ブルックナーは他にいっぱい全面否定しているので、そんな些細な違いは全体的には全く影響のないものですが。なお、この語はドイツ語の辞書では<annullieren>と言う動詞で載っていますが、ブルックナーはこの通り綴っていないので、ここではそのままの形で記載されています。

これだけたくさんの、記入を見ていると、浅岡さんが述べられた意味、すなわち『否定の多さが、かえって、愛着の大きさを示している』に実感がわいてきます。売り言葉に買い言葉、私に言わせれば『そんなにまずいのなら焼いてしまえば良かったんだ。』と言いたいところです。どうもブルックナーは自虐的な性格であったのか、こういう風に書くたびに、この曲に対する愛情を深めていったのではないかとすら思えてきます。

したがって、現在の私たちは、ブルックナーの手の入っていない、上記(3)のパート譜の状態のように接することが一番のように思えます。まあ、愛すべきニックネーム「第0番」は作品を貶めないという意味で、また全く根拠のないものでもないという意味で、使われても良いと私は考えています。

2001.2.2記



1,初期の交響曲の番号付けの変遷について

「第三ヴァーグナー交響曲」以後は、ブルックナー自身による交響曲の番号付けの変更はありませんが、それ以前の作品については、彼の過度の自己批判により、しばしば番号付けの繰り上げが行われています。ここでは、それを年代順の一覧表にすることによって、どのように変遷していったかと、ある時点でブルックナーはどのように考えていたかを分かりやすく示したいと思います。なお、「第1番」というのは「第2番」が出来て初めて番号が具体化し確定するものであることに留意願います。

年代 交響曲第1番
ヘ短調交響曲
交響曲第2番
第一交響曲
交響曲第3番
第〇交響曲
交響曲第4番
第二交響曲
1863 「第1番」 . . .
1864 「第1番」 . . .
1865 「第1番」 「第2番」 . .
1866 (番 外) 「第一番」 . .
1867 (番 外) 「第一番」 . .
1868 (番 外) 「第一番」 . .
1869 (番 外) 「第一番」 「第2番」 .
1870 (番 外) 「第一番」 「第2番」 .
1871 (番 外) 「第一番」 「第2番」 「第3番」
1872 (番 外) 「第一番」 (番 外) 「第二番」

<根拠資料>
@1865年1月29日、ルドルフ・ヴァインヴルムあて手紙『私は今、「ハ短調交響曲(No.2)」を作曲しています。』(「第一交響曲」作曲中であるむねのブルックナーの友人への報告の手紙、ここでブルックナーは、はっきりこの交響曲を(No.2)と書いている。なお、ここにあるカッコはもともとの手紙に書かれているものである。)
A「ニ短調交響曲」(1869)の自筆譜の第1ページにはもともと“Symphonie Nr.2 in D moll”と記載されている。そして後に“Nr.2”は線を引いて消された。
B「第二交響曲」の、ブルックナーが“Alte Bearbeitung”(旧作)と呼んでいた、また彼が「遺贈稿」(Mus.Hs.19.484)として選んだ唯一の完全自筆稿には、もともと上記の「〇番」(2番)に続く「第3交響曲」と記載されていた。

2001.2.2記

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