活動報告トップページ>荒木幹男議員の岩手県・気仙沼市視察レポート

荒木幹男市会議員(自民市議団幹事長)一行、被災地を視察

被災民、1年の始まり、終わり「3・11」  気仙沼港付近、整備進む

 宮城県の北東端に位置する港町。北には岩手県陸前高田、南は南三陸町という位置にある。東は太平洋に面し、東部の唐桑地区から気仙沼地区にかけては、三陸の他地域と同様にリアス式海岸が特徴的である。同じリアス式海岸でも当地方では岩手県沿岸と比較して標高が低くなだらかな丘陵が多い。唐桑半島と岩井崎の間では、深く入り組んだ海岸線が波の穏やかな気仙沼湾を形成し、湾内には大島が浮かぶ。

津波7回押し寄せ、市内はパニック
 気仙沼市では気仙沼プラザホテルの堺丈明支配人から震災当時の状況の説明を受けました。
 当地は地震そのものの被害に加え、津波・火災・地盤沈下によって大きな被害を受けました。
 市内に本社を置く1061社のうち、717社(68%)が津波によって浸水。8571人が職を奪われた。
「被災した人々は1年の終わり、始まりは3・11からと考える人が多い」と話す。
 津波は計7回到達し、ホテルの1F部分の浸水まで5分間だったといいます。甚大な被害だったが、それでも気仙沼の入り口の大島に波が当たり、津波の勢いが弱くなった。観光地・松島もだが、地形によって被害は大きく変わる状況という。市内は停電、信号も壊れ、避難する車でパニック状態になった。
 たくさんの方々が亡くなった体育館では波で押し上げられた天井の棒にぶら下がっていた人たちも、力尽きて次々に波にさらわれていきましたが、幸い3人の方が助かったといいます。 

メールがつながりやすい
 「気仙沼は夫婦共働きが多く、祖父、祖母が孫を見ている家庭が多いため、職場から家に安否確認に向かう人が多かった」という。
 支配人は「携帯の通信網も使えなかったが、電話より比較的メールの方がつながり易かった。安否確認などはメールの方が早いのでは」とアドバイスする。
 現在、行方不明者を捜索中で1ヶ月に一体~2体見つかるという。
気仙沼プラザホテルは津波を免れたがライフラインは寸断された。4月上旬に営業を再開したが、食事などは満足に提供できずボランティアの受け入れ、失業保険の受け取り場所として提供している。
 堺支配人は「日を追うごとに風化してしまう現状、支援の『輪』『絆』が途切れてしまうのではないかという恐怖感が湧き上がっております」と話していました。
ブの再開でした。

水、電気が寸断された大島
 気仙沼港の向かいの島、大島は人口3千人の島。1波が来るまでに恐怖を覚えながらも消防団で水門閉めに回った。「地面が見えるのではないかと思うほど波がひいていた」という。
 気仙沼港の火災の発生で大島も山家事が発生。いつ津波が来るか分からない状況で消火活動ができなかった。
 3日目になって自衛隊ヘリが救助し、4日目に沈火した。電気も寸断、プロパンガスや石油ストーブ、火鉢などで暖をとった。水も寸断され、「水がないのが一番困った」と話す。3日目くらいにろ過機を持って来てくれたので学校のプールの水をろ過して使ったという。
 結局、水も電気がない生活が2ヶ月続いた。後にアメリカ兵が「友達作戦」で大島へ、食料運搬や軍艦の風呂の入浴サービスで助かった。震災3日後に1隻だけ残った船で気仙沼港へ渡ることができるようになった。

港の船着き場、整備され綺麗に


港の船着き場、整備され綺麗に
 船着き場付近は新しい建物が建ち震災当時の写真と比べますと綺麗になった印象を受けたという。
 しかし、その他の港周辺、町は崩れた建物がそのままの場所にたくさんありました。仙台市は被災した建物の土台から撤去されていましたが、気仙沼はまだ、土台がたくさん残っていました。
 また、気仙沼の津田産業のツーバイフォー仮設住宅の視察をしました。気仙沼市から仮設住宅建設のためにツーバイフォー協会へ要請があったということです。
 「1日も早く。1戸でも多く」の大号令のもと、3地区4現場56戸の建設に突貫工事にとりかかったという。同産業の仙台支店の担当者によると、「プラハブの仮設住宅と違って、木なので断熱性が高い」という話でした。
 港近くには何軒かの店が集まって、復興屋台村ができていました。私が視察した日もボランティアの方々が海岸の片付けをされていました。
 ゴールデンウイーク入りとともに同地には訪れる人が増え、大型漁船が打ち上げられたままの宮城県気仙沼市鹿折(ししおり)地区では、写真を撮る人たちの姿が多く見られるということです。

壊れた車
打ち上げられたままの船
建物の上の車

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