自分のトランス状態が明らかになれば、

自分の経験は明らかで疑う余地がなくなる

親から受け継いだ情動のしこりを

通り抜けるのだから・・・・・・

 

 

 


自分自身から自分を救ってくれる
誰かなどいない。

 

 

われわれ一人一人に、自分の経験の質に
責任を持って応える力が与えられている。
だが、思いやりある気づきによって
意識的なインパクトを与えない限り、
完全なまとまりを失っている恐れ、怒り、悲しみは、
外に顕われる不調和、心地悪さ、病気、
妄想を無意識に引きこす原因点として
機能し続ける。

完全なまとまりを失っている情動状態を
抑圧・鎮静し続け、人や事や物に情動的に
振り回されるに身を任せていると、
偽の、完全なまとまりに欠けた、自分の
(すがた)
自分にとっての「神」に対する自覚を真の親密さによって
封じ込める力が欠如した人類のままにとどまる。

この窮状から救われるには、
感じる力を意識的に育てなければならない。

 

 

自分の人生経験の質を誰かさんの
せいにしても無駄

 

 

勝者敗者という物の捉え方は否認かつ妄想になる。
この世は混迷するばかり。外では人間くさい芝居が
ますます増えている。だが、そこには意図がある。

それは、われわれが自分自身をごまかし、
プログラミングされたとおりに無意識に生きているから、
それを浄化せんがために地球規模のお清めが
次々と起こるということになる。

自己の外でさまざまな不調和が生じるが、
情動面において不快にさせる引き金となるものは
どれもみな、われわれの内で完全なまとまりを
失っているがために起こっている
混乱状態を映し出している。

ここにきて、選択肢は、二つに一つしかない。
外で繰り広げられている芝居に対して
無意識に反応していくのか、
それとも自己の内で起こっている混乱に対して
意識的に応答し、思いやりを持ってそれに目覚め、
完全なまとまりをもたらす促しとしてその芝居を活かすのか。

 

今この瞬間の気づきは
紛れもなく確かな存在であり、
意識的にそこへ入っていくと、
ほんものの(すがた)
人格の完全なまとまり、
インティマシ(親密さ)への
ポータルが開く。



今この瞬間の気づきとは、「次々と姿を顕わす
一瞬一瞬をあるがままに、そこにおいて
完全なるプレゼンスがある」ことだ。

干渉することも、完全なまとまりを失っている
過去が原因で生じる恐れ、怒り、悲しみのレゾナンスで
縛ることもなく。

プレゼンスがあってはじめて、
次から次へと姿を顕わす出会いとは
われわれ人間性の限りなく奥深い可能性を
親密に探求するために
神が定めし神聖なる機会であるとして、
これを受け取り、封じ込めることができる状態になる。

今という一瞬に没入するには、
無意識な反動から意図的な意識的応答へと
行動が変容しなければならない。

このようにほんとうに変容するには、
われわれの内に刷り込まれ潜みながら今この瞬間から
絶えずわれわれの気を逸らせている
情動の痕跡に完全なまとまりをもたらすしかない。

われわれに代わってこれをやることができる
人など一人もいない。

 

われわれ人間の進化において
次々と姿を顕わすこの一瞬一瞬とは、
「終焉」ではない。
「時間中心のパラダイムの中で生きることに
終止符を打つ」ことによって、
安らぎがありのままに顕現するためのいざない。


 

「地上に平和をもたらす」ことは
われわれの役目ではない。

そういう心構えは知的認識の妄想から生まれる。
進化する上でわれわれに課せられた役目とは、
この世にいながらにして「すでに与えられし
安らぎにあるがまま気づくこと」。

安らぎにあるがまま気づく能力が育つと、
そのレゾナンスの光は、われわれの経験全般を射照らす。

ありのままの安らぎとは感じられるものだ。
真に安らぎを感じてはじめて、われわれは平和な状態になる。

次から次へと姿を顕わすこの一瞬一瞬の
感じられるレゾナンスに意識的に責任を持って目覚め、
そこへ没入してはじめて、安らぎはあるがまま顕現する。

すでに与えられている安らぎを感じることができないのは、
完全なまとまりを失っている恐れ、怒り、悲しみによって、
われわれのフェルト・パーセプション
(物事を感じることによって捉える)が歪められているから。

 

われわれの内に刷り込まれている恐れ、怒り、悲しみに
完全なまとまりを意識的にもたらしてはじめて、
われわれのフェルト・パーセプションは
再び目を覚まし、自然と安らぎに満ちた
ハートのレゾナンスを
われわれは受け入れるだろう。





 

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