| それぞれの道に、それぞれの喜びが輝いている。 寄り添わずとも願う言葉は、聞こえずともその道に届くだろう。 |
| 寄り添わずとも |
「もしかして……加賀?」 買い溜めた煙草も数本を残すのみとなり、丁度折良く視界に入ったコンビニに立ち寄った瞬間、加賀鉄男は肩の下辺りから己が名を呼ばれた。 普段から耳にしている声ではない事は確かである。記憶力には多少なりとも自信のある自分が、咄嗟に声の主に思い至らなかった事がそれを物語っている。 だが、全く知らない声だというわけでもない。むしろ、非常に印象の強い人物のはずである────時間という壁に隔てられていたというだけで。 買い込んだ煙草の死角に入っているであろう声の発信源を確認すべく、加賀は僅かに荷物を傾ける。 声だけでは明確な形を作ることが出来なかった記憶の糸が、その顔を見た瞬間に繋がった。 「────進藤!?」 「やっぱり加賀だ! すっげぇ久しぶりだなぁ!」 前髪の色素だけが薄いという特徴的な髪から覗く双眼が、知人をそれと認め嬉しげに笑っている。 加賀に声をかけてきた古い知人は、葉瀬中学校時代に多少なりとも目をかけていた後輩、進藤ヒカルであった。 日が落ちるまでには多少時間があるものの、まさか長々とコンビニで話し込むわけにも行かず、加賀はヒカルを連れて馴染みの居酒屋に足を運んだ。 実年齢よりも幼く見える顔立ちながら、決してアルコール度数の低くはない酒を平気で口にするヒカルの姿に、流れた時間を実感し思わず苦笑が漏れる。 加賀がヒカルと最後に会ってから、随分長い時間が経っていた。 会おうと思えば、それは存外簡単な事であっただろう。ヒカルが中学校に上がる少し前に知り合った加賀は、彼よりも2つ学年が上であった為にすぐに卒業してしまったが、その後も請われて母校に顔を出す事があった。遠方に引っ越したというわけでもなく、学校外で会おうと思えば充分に可能であっただろう。 だが、加賀は個人的にヒカルに会おうと試みた事はなかったし、ヒカルの方からアクションを起こすこともなかった。 互いの性格上の都合もあるだろうが、何よりも歩む道が違っていた事が最大の理由であろう。 元々、加賀は漆黒の文字が刻まれた駒を握る人間で、ヒカルは黒と白の宇宙に生きる人間である。その上、ヒカルは加賀が一扶養家族でしかなかった頃、既にプロ囲碁棋士としての道を歩き出していた。 二人の時間が重なる事がなかったとしても不思議はない。 故に、加賀が進藤ヒカル本人の姿を目にするのは、実に久方ぶりの事だったのである────あくまでも、『本人』を相手にした場合の話ではあるが。 「この所絶好調みてェだな。よく雑誌でも見かけるぜ」 ヒカル本人に会うことはなくとも、彼の健在はメディアが教えてくれた。 既にタイトルすら手にしている若き風雲児の快進撃は留まる事を知らず、プロ試験に合格してすぐに謎の不戦敗を続けた影はどこにも見当たらない。 だが、その活躍だけでは、将棋打ちの加賀の耳に囲碁棋士であるヒカルの情報が入る理由としては不完全である。 「え、加賀も週刊囲碁なんて読んでるの? 将棋打ちなのに」 「お前が載ってんのは囲碁雑誌ばっかじゃねーだろ」 「あー、そっちか」 最近の棋界は若年化が進んでいる。幼い頃より天才の名を欲しいままにしてきた塔矢アキラと、彼と同格の棋力を持つ進藤ヒカルは言うまでもなく、その他にも優秀な棋士たちが次々と下克上を果たしている。囲碁は年寄りのものというイメージも少しずつではあるが変化し、彼らと同世代の者たちの中にも関心を抱く者が増えつつある。 そして、大衆の興味は彼らの棋譜だけに留まらず、その見目にも注がれる事になった。 囲碁とは直接関係のない者たちが進藤ヒカルを知る事になったのは、本来の仕事の場以外での彼を見かける事が多くなったためである。 「確かに、囲碁とは全然関係ない取材とかも増えてるかな」 「聞いた話じゃ、女性誌やら女子高生向けの雑誌で特集組まれた事もあるらしいな」 「それって、塔矢と一緒に出たアレ? あれは棋聖戦の真っ最中に、何の仕事かもロクに聞いちゃいないような上の空状態でオッケーしちゃって、後で塔矢に随分文句言われたんだよ」 「へェ……天才様は低俗な雑誌にお怒りってか?」 「違う違う。重要な対局を前に、囲碁とは全然関係ない事で疲れてどうするんだって。やっぱりああいうのって気を使っちゃうみたいでさ。帰って、玄関に入ったと思ったら、次に気が付いたのは朝だったりで……自分のプロデュースくらいしっかりやれって怒られたよ」 苦笑混じりに話すヒカルの横顔を、本人にそれと悟られぬよう観察する。 記憶の中の後輩と今目の前にいるヒカルが同一人物であることは間違いないが、それでも受ける印象は変わっている。当然だろう、加賀とヒカルが出会ってから、既に7年以上の歳月が流れているのだ。特に成長期を挟んでの再会ともなれば、外見が変わっていない方が妙である。 当時同級生の少女たちを見上げていた視線は、加賀には及ばないものの高くなっているのが分かる。ふっくらしていた頬のラインもシャープになり、彼の内包する実力に裏打ちされた自信に満ちた双眸と相まって、より見栄えのする顔立ちになっていた。 ただ、大人の顔になってきたとはいうものの、男臭くなったというわけでもない。元来が中性的な顔立ちをしているらしく、男らしくなったというよりはむしろ華やかになったと言うべきではないだろうか。 ヒカルに言えば憤慨するかもしれないが、加賀はヒカルをとても綺麗な青年だと感じている。 勝負師としての強靭な眼差しと、少女めいた明るい笑顔。何よりも、彼の身に纏う気配はひどく清廉で、それは清楚とも呼ぶべき透明さを保っていた。 おそらくは、そんな彼特有の不思議な魅力が、群衆を惹き付けて止まないのだろう。 「そりゃあ、お前の本業は碁打ちであって、芸能人じゃねェんだしな……でもまァ、あれだ……塔矢ともなんとか上手くやってるみたいだし」 独白のように呟かれた加賀の言葉に、ヒカルはきょとんと目を見開き、次いで僅かに申し訳なさそうな表情になった。 「あはは……仲、悪いと思ってたんだ?」 「悪いっつーか、ちょっとした溝くらいはあるんじゃねェかとは思ってたんだ。何しろ、海王中との三将戦の事もあるしな」 「うん……そうだな。そう思われても仕方ないか」 加賀は、進藤ヒカルと塔矢アキラの因縁の全てを知っているわけではない。ただ、何らかの理由によりアキラがヒカルとの対局に執拗に拘り、そして囲碁部の大会という形で果たされたそれに失望し去っていった事しか知らない。件の対局についてもその場に居合わせたわけではなく、囲碁部部長の筒井に聞きかじった程度でしかなかった。 しかし、加賀にとって塔矢アキラは幼い日に因縁のあった相手であり、それが生意気ではあるが期待をかけていた後輩に関わっているともなれば、気にならないはずはなかったのである。 「もしかして、心配してくれてた?」 粗暴な口調こそあれ、加賀鉄男という男は基本的には気配り人間であり、人の心の機微にも長けている。決して長い付き合いとは言えないが、ヒカルはその事実を理解していた。 しかし、それをあからさまに他者に見せないのもまた、加賀の性質であった。 「さて、どーだかな」 「……ありがと、加賀」 落ち着いた微笑の中に見え隠れする、純粋な感謝の念。 桜舞う彼の学校で、巣立つ自分たちを『頑張ってるから』と泣きそうな顔で見送ってくれた遠い日の少年の姿が見えたような気がして、加賀はヒカルの本質が変わっていない事を嬉しく思った。 自分が払うというヒカルを制して勘定を済ませ、加賀が居酒屋を出る頃には、月は空の高い位置に堂々と居座っていた。 滅多にない再会に浮き立ち、ついつい長居をしてしまったらしい。 ヒカルの方も懐かしさと嬉しさの余り多少なりとも飲み過ぎたようで、その足運びはかなり怪しいものになっている。 「進藤、お前その調子じゃ電車に乗って帰るのは厳しいだろ。どっかその辺でタクシー拾った方がいいな」 このまま公共の移動手段に頼らせた所で、そのまま寝入ってしまって家に帰り着けない可能性が低くない。現に、楽しげに鼻歌など歌っているヒカルの瞼は半分降りて、こうして話しかけていなければいつ眠ってしまってもおかしくはない状態にあった。 タクシーに放り込んで住所を告げさえすれば、あとは何とかなる。何なら自分が送り届けてやれば良いのだ。後輩を調子に乗らせてしまった原因は確実に加賀であり、それを見捨てて自分だけ帰途に就くような薄情な先輩ではない。 しかし、ヒカルは加賀の提案に乗らなかった。 「ん〜……いいよ、タクシーなんか探さなくても……」 「そうは言ってもお前、そんなんでまともに歩けるのか?」 「歩けないけど……だいじょーぶ。さっき、迎え呼んだから……その辺り歩いてれば、多分見つけてくれると思う」 どこからどう見ても酔っぱらいという状態ながら、実に手回しが良い。 それだけに、多分ヒカルが────そして、呼び出された『迎え』とやらもこういった状況に慣れているのだという事実を、加賀は的確に見て取った。 無意識に他者を巻き込む性質も、相変わらずのようだ。 誰かは知らないがご苦労な事だと苦笑を零そうとした時、ヒカルが耳をそばだてて振り返った。 「────……あ、来た来た」 ヒカルの視線を追って振り返ると、濃碧のムスタングが歩道沿いに停車する所だった。 有無を言わさずにヒカル呼び出されたであろう運転手が左側のドアから優雅に降り立ち、完全に出来上がっている迷惑の原因の姿に眉を顰めた。 「……進藤」 「あー、丁度今店から出たとこだったんだ。ナイスタイミング!」 「ナイスタイミング、じゃないだろう! まったく、キミって人は……明日は昼前には大阪に移動しなくてはならない事、ちゃんと分かっているのかい?」 しかし、運転手の姿を目にした加賀は眉を顰めるどころの話ではない。思わず口をあけたまま、数秒は呼吸を忘れて固まった。 ようやく絞り出した声は、どこか現実感を伴っていない。 「……塔矢アキラ?」 「はい」 杯を交わしている間にも話題に出た人物の登場に、完全に虚を突かれてしまった。 確かに仲は悪くないという話はしていたものの、何の約束もなく突然『足』として呼びつけ承諾させるほどに親密だとは思わなかったのである。 加賀は塔矢アキラの存在にトラウマこそあるものの、彼の人となりを知っているわけではない。だが、ヒカルとアキラの性格は対極にあるように思い込んでいたし、何よりも棋界の竜虎として激しい戦いを繰り広げている好敵手同士である事は多少囲碁に興味のある者ならば誰もが知る事実である。 それが、十年来の友人のような顔で寄り添っているとなると、驚きもするだろう。 アキラはまだ続く言葉を紡げずにいる加賀の側に歩み寄り、いつの間に伸びたのか既に彼よりも高い位置にある頭を下げた。 「進藤がご迷惑をおかけしたようで……」 「迷惑なんてかけてねえよ。加賀とは久々に会って、ちょっと飲んでただけだ」 「『ちょっと』飲んでいただけの人が、自力で帰れなくなるほどふらふらになるのか? ボクが帰って来ていたから良いものの、もし静岡から直接大阪に行っていたら、きっと加賀さんの手を煩わせる事になったんだぞ」 「いいじゃん、お前居たんだから結果オーライって事でー……」 「ちょ……進藤!」 本格的に足に来たのか、それとも睡魔に負けたのか、ヒカルはアキラの胸に身体を投げ出しそのまま動かなくなってしまった。 何事か口の中で呟いているようだが、殆ど寝言に近いもので、加賀の耳には意味のある言葉としては入って来なかった。 アキラはヒカルの背を片腕で抱くように支え、加賀に視線を戻す。 「まったく……すみません、このまま進藤引き取ります」 「あ……ああ。そうしてもらえるとこっちも助かるぜ」 「彼の場合決して酒に弱いわけじゃないんですが、まだ自分の限界がよく分かっていないみたいで、飲み過ぎてしまうことが少なくないんですよ」 「いや……俺も、柄にもなくはしゃぎ過ぎちまったみてェだからな。お互い様って事で、気にするな。……っつーか、酔っぱらったのは進藤なんだから、お前が気にすることもねーだろ」 平静を装って応えながら、しかし、勘の良すぎる加賀にはアキラがそうする理由も殆ど分かってしまっていた。 長身のアキラが華奢なヒカルの背を抱き寄せる姿は違和感なく夜景に溶け込み、不用意に割り込めない雰囲気を感じる。 秀麗な容姿ながらも、華やかなヒカルとは対照的に凛々しさが強調されたその顔は『男』の表情を造っており、腕に抱く眠りの住人への想いの種類が見て取れた。 「おい、塔矢」 「何でしょう」 微笑を浮かべているように見えて、その実アキラの目は笑っていない。笑うどころか、剣呑な光さえ宿しているように見えるのは気のせいではあるまい。 棋界の寵児の意外とも言える、ただの男としての一面。 何事にも動じないと思われていた天才棋士を、容易く独占欲と嫉妬の鬼に変えてしまう力を持つ進藤ヒカルは、やはりただ者ではないのだろう。 「進藤は昔から奔放で手の掛かる後輩だったが……俺たちにしてみれば、可愛い弟みたいなものだ」 「…………」 「────不幸にだけは、するなよ…?」 「……ええ、もちろんです」 世間では背徳と呼ばれる関係を目の当たりにしても、不思議と加賀にはそれを嫌悪する気持ちは浮かんでは来ない。進藤ヒカルという愛すべき後輩が幸せに日々を送っていられるのならば、他は大した問題ではないのだと思える。 甘く、しかし強い意志を持って笑むアキラと、安心しきった様子で彼に身を預けるヒカルの寝顔を背に、加賀は満ち足りた気持ちで家路を辿るのであった。 それぞれの道に、それぞれの喜びが輝いている。 寄り添わずとも祈る僥倖は、聞こえずともその道を護るだろう。 2003.4.19 Yuuki Shione 修羅場明け、決算処理中の飽和した頭で、変な代物を書いてしまいました。多分、ヒカルが20歳前後の加賀&ヒカル(アキヒカ)です。 |
◆光樹よりコメント◆
LA FIAMMAの潮音様より頂きましたるは最近氏のメイン
ジャンルになりましたヒカルの碁、アキヒカ小説です!
しかも私が加賀くんが好きだと言ったのを聞いて、加賀くん
メインですよ〜もう! さすが! 氏の中でもまだ進展を
し始めた頃に頂いた、いわば模索途中のジャンルの小説という
ある意味貴重なものだと思います。居酒屋ってとこがもう
加賀くんとヒカルらしいわあ!
ちなみにアキラは加賀くんのことを覚えていないらしい
です(笑)。 さすが、人生の地図が「碁」「進藤」だけに
塗り分けられた、シンプルな人生観をお持ちな方だけあります。
貴重な一品をありがとうございました!