由 緒

タイトルに戻る


  • 由緒書

 元禄十六年(1703)幕府の布令を以て、大和川付け替え以来住之江浦に土砂が堆積して浅洲を形成するようになり、大坂淡路町の両替商加賀屋甚兵衛は堺に往来する途中、霰松原から見た西方の浅洲が新田に適しているとし、享保十三年(1728)より開墾に着手し北島新田と名づけ、元文二年(1737)一応の完成を見ましたので代官疋田庄九郎の検地を受けるとともに、御見捨地十五間四方(約900m2)を以て境内と定め、出身地の河内国石川郡新堂村の産土神天水分大神を勧請、神職松原大蔵の奉仕により鎮斎『はや住之江に着にけり』と謡われた謡曲「砂(高砂)」に因み、高い砂丘に位置するために「砂(高砂)神社」と高づけられましたのが元文二年(1737)九月二十六日の事、これが御鎮座の初めであります。

 加賀屋甚兵衛はその後さらに加賀屋新田を開発し、北島新田は宝暦四年(1761)以来堺の甲斐町小山屋久兵衛が継承し、宝暦十一年(1761)社殿御造営を行い、柿本人麿朝臣の神像をも松原大蔵子息松原出羽守幸正が奉斎しました。

 しかるに天保六年(1835)八月二十七日夜出火し、社殿を焼失しましたのでここに住吉大神を奉斎するとともに翌天保七年(1836)再建し、八月二十八日住吉大社神職山上松太夫の奉仕で正遷宮を行いました。

 明治五年(1873)村社に列し、境内地は小山屋久兵衛の後明治三十五年(1902)以来濱田甚兵衛の所有地でありましたが、村社として村民によって維持せられ、昭和六年(1931)三月、神饌弊帛(シンセンヘイグ)料供進社に指定、戦後昭和二十七年(1952)十二月十日付を以て宗教法人法による宗教法人として認証、全国の神社が宗教法人と成った際寄進せられ今日に至っています。

 昭和四十二年(1967)には御鎮座二百三十年祭に当たり御造営が行われ、昭和六十年(1985)には昭和の大修理として社殿、社務所、神庫等を大々的に改築し、九月二十六日遷座際、翌二十七日同奉祝祭並びに御鎮座二百五十年大祭を執行しました。


 古来日本では、人の住む処には必ず鎮守氏神が祀られています。
人々は氏神様、産土(ウブスナ)神様を中心に喜びも悲しみも分かち合いつつ生業に勤しみました。
従って氏神様には、一本の木、一枚の瓦にも父祖先輩の尊い血が通っています。
私共の住む北島、御崎の父祖先輩の方々も、新田の開発に血のにじむような苦労を重ね、何に付けても鎮守氏神砂(高砂)大神様を心の拠り所として、社会生活の中心に仰いで参りました。
その間、代は代わり住む人も変わりましたが、現在も北島はもとより住之江方面の開発の初の氏神鎮守産土神社として、厄除け、諸厄難除けの神として崇敬を集めています。

  • 鎮座地

大阪市住之江区北島3丁目14番12号

タイトルに戻る